2024年5月13日月曜日

プラシド・ドミンゴ プレミアムコンサート

 彼ももういい年だと思うから多少の衰えを感じるのは覚悟でコンサートにいったけれど、嬉しい誤算、声もオーラも変わりなく、東京文化会館大ホールの満席の聴衆からブラボーの嵐が巻き起こった。

私が彼の生の声をきいたのはずっと以前、彼の容姿はスラリとしていかにも若々しかったから数十年は経っているかも。私の音楽人生は聞くことから始まった。学齢前の頃からクラシック音楽は私の最高の遊び相手。親兄弟が学校や仕事に出かけたあとの空っぽの家にたった一人、ぽつんと残された無聊をかこちながらレコードを聞くのが日常。そのお供にはいつも猫がそばにいた。逃げないように私にぎゅっと抱きしめられて猫もさぞや迷惑なことだっただろう。

その頃レコードで聞いたのは古くはシャリアピン、カルーソーなどの昔の歌手たち、その後はブライトコッフなど、そしてディートリッヒ・フィッシャーディスカウ、ペーター・シュライヤーなどから後は肉声を聞いている。歌は人そのものが出す音だから、楽器に比べてより面白い。しかも声楽家はだいたい女たらし、美食家、わがままときている。男としての魅力満載でいながらジェントルマンでもある。こういう人は素敵だけれど、そばにいたら鬱陶しいかもなどと妄想を馳せる。私ごときにそんな男は寄っても来ないのに。

さて、今回のコンサートの顔ぶれは

 プラシド・ドミンゴ    モニカ・コネサ(ソプラノ)  マルコ・ポエーミ(指揮)新日本フィルハーモニー交響楽団

ヴェルディ:序曲「シチリアの晩鐘」が終わってドミンゴ登場。少しお腹周りが太ってはいたけれど、無理をしていたかもしれないけれど、歩き方も颯爽としている。第一声を聞いたときに驚きの若々しさに感嘆。最初から手加減せずに聴衆を魅了した。いったいおいくつになりますか?

聞き手は魅了されどんどんヒートアップ、おとなしい日本人も彼に翻弄されてスタンディングオベーション、後半は一階席は殆どの人が立っていた。私は二階席で良かった。そうでないと前の人が立ってしまって彼が見えなくなってしまうところだった。なんかオペラ歌手のコンサートというよりもロックバンドの乘りではないか。しかも客はほとんど中高年層。おしゃれをして母と娘で参加しているようなセレブ層など。珍しいね。

おかかをたっぷりかけた餌をもらった猫のように満足して家に帰ると、やはり疲れたらしく食事後すぐに眠ってしまった。あのパワーに対抗するには私はどうも齢を取りすぎたようだ。

新日本フィルの演奏が新鮮でチェロやビオラのソロがとても良かったことが嬉しかった。多分私のかつての友人たちの忘れ形見が演奏者の中にいると思う。もはやどこのオーケストラにも私の同僚だった人たちの姿はなく、次世代の活躍する時代になった。その血脈が音楽の中に流れてまた次世代につながり、西洋音楽が自然なものになる。今後は日本の文化に自然に溶け込んで世界は一つになる。そんな日がもうすぐそこに来ているのに他国では未だ戦争をしているバカどもがいる。これが悲しい。



















2024年5月7日火曜日

ヴァイオリンはもうやめるけど

体調が戻ってきた。

これは足の状態が良くなったということで、まずは復調の兆しと喜ばしい。けれど私はもう引退を決めている。ステージで死ねたら本望なんていうことも聞くけれど、それはひどくはた迷惑なことなのだ。ステージにたどり着くまでにどれほどの人たちの陰の力が必要か考えてみてください。

誰かがコンサートを企てるとする。まずは会場を決めてホールの使用状況を調べる。プログラムを決める。そのプログラムに必要な演奏者を決める。もし自分が主催者ならば曲目に必要な共演者・・例えばピアノ伴奏がほしいとか、カルテットならば自分の他にあと3人、もっと大編成のこともあって腕の良い共演者を集めるのは至難の業、売れっ子はたいていひどく忙しく希望日が空いていなかったり練習日が合わないとか、様々な障害が立ちはだかる。

やっとメンバーが決まって、大抵はそこからはマネージャーにお願いしてプログラムとチラシのデザインを決めて写真を撮ったり演奏者のプロフィールを集めて印刷が始まる。チラシが出来上がるともうあとには引けなくなる。ここまでに相当のお金がかかる。

一番楽なのは仲良しの共演者を作っておくこと。そうすると同じようなスケジュールができるからグループとして同じ動きもできるし、日頃から練習を重ねておけば多くの言葉はいらなくなる。以心伝心、楽器で会話ができるようになったらしめたもの。それでも揉めるのはいつものこと。以前私がしつこくチェリストに注文をつけてカルテットを潰してしまったことがあった。10年間も一緒にやっていたのに。これからもっと良くなっていくはずだったのに、その度合に対する熱意の分量が違っていたから。

揉めようが未完成であろうがコンサートの日は迫ってくる。眠れない、逃げ出したい。その繰り返し。しかしそうやって苦労しなければ永遠に上手くはならない。生涯の最後の日までうまくなったとは言えず死んでいくのが普通で、私ごときの演奏家は自分の限界を知っているからむしろ楽かもしれない。これが天才的な演奏家になるとプレッシャーは限界がない。

あのハイフェッツが自分に課したのは、演奏はそれ以前のものよりも進化していなければならないということだったと聞いたことがある。なんという厳しい生活なのか。長い目で見れば人は必ず上達していくとおもうけれど、時には体調や心のあり方で不調の事もあろうというもの。ヨアヒムが日本に最後の来たのは彼の引退の寸前で、一体どこが不満で引退するのかと思うほどの名演奏だった。もったいない。会場中の人が涙した。拍手が鳴り止まずハンカチで目を拭う人たち。でもそれが彼らの矜持と思うと、名演奏家はつらいと思う。レベルを下げることはできないのだ。

さて私の場合は引退するといえば皆さん喜ぶ。やれやれ、あのヴァイオリンをもう聴かなくてすむ。あれなら猫の声を聞いたほうがましだ。それは自分で一番良くわかっている。「そこはあたしの寝床なんです」と言って泣く丁稚ではないけれど、今までお付き合いしてくださって皆様、本当にありがとうございます。上等なお茶と羊羹をお出しして、お帰りにはお土産を差し上げたいと常日頃思っておりました。

で、ちゃんと今年で引退します。しますとも。だからヴァイオリンは古典の定期以来もう弾いていないのですよ。まだあと一回本番ありますからそろそろ準備しなければならないのに楽器を持つ気がしない。それなのに私の楽器は良く鳴る。下手くそな持ち主から開放される喜びでしょうか。時々指ではじくと素敵な音がする。この楽器にあえて良かった、としみじみ思う。楽器だけでなく今まで私に関わってくださった皆様、あなた達に会えて本当に幸せでした。

強情で頑固で意地悪で怒りん坊の私をよくぞ支えてくださった。御礼の言葉はどれほど言っても足りません。でもまだ死にはしないから(たぶん)今後ともよろしくお願いします。






































2024年5月3日金曜日

休眠期

 私はどうやら休眠期に入ったらしい。

今までの自分の活動パターンを見るに10年とか15年に一度大病をする。最初の病気の記憶は急性腎炎。ある朝起きると姉たちが大騒ぎを始めた。「nekotamaちゃん、顔どうしたの」どうしたと言われても元々不細工で美人と言われるような顔ではないけれど、大騒ぎされるような、そこまでおばけチックでもないだろうにひどいわ。と思ったらまぶたがあかないくらいのむくみが出ていたらしい。母が驚いて牛乳瓶に私の尿を入れて病院に走った。

結果急性腎炎、かかりつけの岸田先生というおじいちゃん先生が飛んできて私は絶対安静で寝かされた。優しい先生はいつも大きなカバンにいっぱい注射器や薬を詰め込んで往診してくださった。「入れ物が牛乳瓶だったから蛋白が出たと思ったけど、瓶のせいでなく本当に病気だった」と。おかゆと梅干しを食べ、タンパク質の多いものは食べてはだめ、当時はそう言われていたらしい。今なら体外に出てしまうのだから補うらしいけれど、初めての大病に大騒ぎ。

私としては痛みもなく好きなだけ寝ていられて、しかも嫌いな学校に行かなくていいからラッキー!だった。子供のくせに体を動かすのが嫌いで空想にふける毎日。天井の板の模様をじっと見ながらお話を作って楽しんでいた。

終戦後の当時の我が家の経済状態はどん底だったから母は大変だったと思う。1,2ヶ月はじっと寝ていたと思うけれど少しも退屈ではなかった。治って学校に行き始めると、私の授業の遅れを取り戻そうと女の先生が張り切って大いに迷惑した。その先生が大嫌いだったからで。

補講が始まっても私は断固拒否。大泣きに泣いて先生を困らせた。教檀で生徒の前で口紅を塗ったり、胸がやたらに大きく明いた服でなんか不潔!大嫌い、というわけで、先生も親もお手上げだった。その後もその先生が私にやたらと親切だったのは、親が地元の旧家ということだからと子供心にも嫌だった。未だにその手の不潔感が大きいのは、その頃からの感情の芽生えからかもしれない。

兄弟が沢山いて学校の先生よりも兄弟から教わることが多かった。結構な高学歴家族だったから家庭教師が何人もいるようで、授業で教わることはとっくに知っている。それでもなおその先生は私を目立たせようと、学芸会の始まりの言葉を言わせたり、運動会の入場行進の先頭に立たせたり、全く無駄に努力をしていた。

学芸会の挨拶は講堂の壇上で黙って突っ立っていいるだけ、入場行進は道を間違えて他のコーナーに突き進んで混乱を招いた。そのへんでどうやらこの子はだめだと諦めてくれたらしい。というより、3年生が終わって4年生となるときに担任が替わった。やれやれ、4年生からの先生は大好きで私はやっと学校が好きになった。

というように人生の節々の私の体調の変化で人生そのものが変わっていった。小学校の腎臓病のあとからは、それまで他の学友たちともなじまず学校嫌いだった私も楽しい小学校の高学年生活を送った。

中学校は間違えて良妻賢母育成のための女子校に入学、これもまた実につまらない中学生活。あまりにつまらないので同学年でヴァイオリンを習っているという人と共謀して、音大附属高校を受験、とうてい受かる見込みのないレベルのヴァイオリンの腕ながら、見事(?)合格。これからの人生がお花畑だった。

学長の有馬大五郎先生は体も心も巨大な人で、高校に現れると長い腕を広げて生徒たちを愛おしそうに抱え込んで廊下を歩いておられた。学校には校歌も規則もなくて、生徒たちはのびのびと明るく育っていった。この世の中に怖いものはなかった。少なくとも校内では。そして私は音大に進んでもヴァイオリンを練習するより本を読む時間のほうが長かった。

せっかく音大に入っているのにあなたはなんで本ばかり読んでいるの?と言ったのは高校受験をともにしたまり子さん。私は音楽家になるつもりで生きてきたわけではなく、その時々の気まぐれで音大に入ってしまったので、ここは遊びの気分。ここを出たらもう一つ普通大学を受験して真っ当な職業につくのが私の目論見だった。

そして卒業間際に母に「この次はどこの大学受けようかなあ?」その時の母の怒りは凄まじかった。子供の望むことなら何でも叶えてくれる母だったのに、そのときは怒髪天を衝く勢いで叱られた。「そんなにあちらもこちらもできないでしょ。一つ事をちゃんとやりなさい!」本当に音大ではただただ楽しく暮らしていたのでもうびっくり。しかもその頃には周りの大人達が私の進路を狭めていた。学生時代からエキストラでお世話になっていたオーケストラがそのまま私の職場となった。

音楽でお金をもらうということは生半可なことではない。お金をもらうからには絶対に手抜きはできない。生まれて初めて私は必死でヴァイオリンを弾くことになった。そして周りの人々が私を導いてくれて素晴らしい演奏家たちと引き合わせてもらい多大な影響を受けた。半べそをかきながら来る日も来る日も練習に明け暮れ、それまでの遅れを取り戻すために練習を重ねた。

当時は良い時代だった。オーケストラをやめてからも仕事は途切れることなく、そして私は大好きなアンサンブルを勉強するために多くの仲間達と夜中まで、時には早朝から練習を重ねていった。フリーになったのも自由に時間が使えるからという理由だったけれど、忙しすぎてフリーどころか寝る間も惜しいくらい。そして急性肝炎、狭心症などなどの病気にブランクを強いられては入院、通院を繰り返した。その周期がだいたい10年から15年くらい。最近は足の故障でここ2年ほど辛い。それもだいぶ良くなってきた。

今年は80才、何回目かの休眠期になりそう。毎日異常なほど眠る。つい数か月前までは4時間から5時間睡眠だったのに今や9時間ほども眠れる。人生の休息年。こうなるとまた新しい目論見が誕生する。時々こうした休息のあとで、なにかしら変わったことを知りたくなって挑戦してきた。若ければきっと長くてきつい旅に出たと思うけれど、今は体の無理が効かないので頭の体操、もう少し勉強しようかなんて思っている。なにを?さあ、なんだろう?そのうち目標が見つかるでしょう。