今後のより良い人生のために模索中。
ブログつながりの知人のWさんの宅に押しかけてお話を聽くことになった。彼女となぜ知り合いになったかというと、私の恩人であるヴァイオリニストの故鳩山寛さん繋がりによる。nekotamaに彼の話題を投稿したのはこのブログを始めた頃。オーケストラ時代の思い出などを書き込んでいたら、ある時鳩山さんのことでというメールだったか書き込みだったかいただいたのだと思う。
鳩山さんは沖縄出身で、お父様の遠山寛賢さんとその夫人靜枝さんの教育により天才ヴァイオリン奏者として日本の楽壇に登場した。幼少時代は台湾の台北で幼稚園の経営者であったご両親のもと何不自由なく育ち、ご両親の音楽的環境もあって才能を育んできた。ご両親も実に教育熱心で特にお母様の考えが進歩的だった。お父様はひろし少年のためならどんな苦労も厭わなかった。
「はとかんさん」後にオーケストラでお世話になった頃は業界ではそう呼ばれていたから以後、この名称で呼ばせていただく。
お父様は様々な場面ではとかんさんを世に出すための行動を起こされている。10歳のときには上野音楽学校に連れて行き教授たちの前で演奏させて彼らの称賛を浴びる。体に合わない大人用の汚い楽器を見た外国人教師が嘲笑したというが、演奏が終わると彼らは静まり返ったという。12歳で第5回毎日音楽コンクール一位、もちろん歴代最年少であった。天才少年と言われ、ボストンの音楽大学へ留学、近衛秀麿氏のオーケストラのコンサートマスターを務めた。近衛家と総理大臣を生んだ鳩山家の援助を受けて華々しい活躍をした。様々な経緯から遠山姓を鳩山姓に変わり、以後「はとかんさん」と呼ばれることになる。
わたしがオーケストラのオーディションを受けたのは音大を卒業してまもなく。ベートーヴェンの協奏曲を弾き、初見に出された曲はバッハの組曲のヴァイオリンパートだった。実は高校時代からすでに京浜フィルハーモニーというバロック音楽の研究会のようなところで弾いていたので初見の楽譜もなんなく演奏できてめでたく合格。
初めて団員として上野の東京文化会館の控室のロビーでウロウロしていた私に、にこやかに近寄ってきたおじさん、それがはとかんさんだった。「あんた楽器はなに?いい音してたね」それが最初の出会い。その後はかれがハイドンの弦楽四重奏の連続演奏を試みていた頃、何回か出演察させていただいた。「あんた、私の右腕になりなさい」あるときそう言われて様々な演奏会にほとんど出していただいた。
その頃オーケストラでは世代交代が始まっていて、戦後の日本のヴァイオリン界は戦前のそれとは大違い。たくさんの優秀な人材が輩出しており、はとかんさんが天才的なヴァイオリン奏者ということも話題から埋もれてしまいそうな頃だった。しかも沖縄、台北などで育ち、性格がおおらかで何事にも我関せず、アメリカ生活が身についてしまってハッキリ物を言う。日本的な忖度や遠慮などない性格が反感を買うことも多かった。彼をひどく嫌う人もいた。しかしそれはとんでもないことで、彼が当時すでに日本の業界から少しずつ外れ始めていたというだけで、主流におもねる人たちの偏見以外のなにものでもない。
ある時渋谷公会堂の前にサングラス、アロハ、麦わら帽子の出で立ちで座っているおじさんがいた。私が通ると大声で「ホウー」と奇声を上げてニコニコと手を振っている。やだ変な人と思ったら、はとかんさんだった。臆面もなくいい年してそういうことを無邪気にやるから困るのだ。
ある時電話があった。いつにもなく悲痛な声で「僕はもうだめだよ、さようなら、さようなら」それが最後だった。
彼のお嬢さんのご自宅に一緒にお悔やみに行ったのは、前述ブログ仲間のWさん。彼女は台湾の大学で教えておられた父上と大学生だった兄上と幼少期を台湾で過ごされた。台湾育ちの音楽家として、はとかんさんに興味を持たれ、nekotamaに鳩山さんのお名前を見つけた。そのつながりで後に古典音楽協会のコンサートに毎回来てくださるようになった。Wさんのブログに垣間見られる知識の豊富さに今回最後の演奏を終えた私の、今後の知識の泉になってくださる期待を持っているのです。
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