2024年12月31日火曜日

ねじれ

 ものごと一度ねじれると元に戻らないどころか一層複雑になって結び目ができてしまう。ここ2年ほどそんな日々を送っていて、やっと平常心が戻ってきた。

昨日は雪雀連の忘年会で私の家にメンバーが集まった。大いに盛り上がったけれど、終わってから見るとゴミの分量の少ないことに少し悲しかった。あんなに元気だった会長の山田さんが不在。御宅で休息しているところに皆で電話をかけると、声はすごくお元気そうで皆ホッとした。声に張りがあって相変わらず記憶力も冗談力も健在。大したものです。

集まったのは10人ほどで、準備はいつも私が一人でやっている。皆さん協力を申し出てくれるけど、狭い台所につき人は少ないほうが良い。ひしめき合って仕事がはかどらないので。でも昨日はさすが私も歳のせいで手が止まる。エッと、何作るんだっけ?

それでも10人分に余るほどの食物と、行きがけにコストコに寄ってきたというHさんが巨大なケーキなど持参してくれたおかげで盛大な宴となった。嬉しかったのはHさんのお嬢さんのYちゃんがパートナーを連れてきてくれたこと。Yちゃんのお父さんは雪雀連のメンバーで会長と同じく調律の名手。彼が亡くなってからもう20年以上にもなるかと思えるけれど、彼の奥さんHさんと忘れ形見の娘さんはいまだに私達と仲良し。その家族がもう一人増えたというので、最近は私達も明るい気持ちになっている。

今年10月に山田会長抜きで会長の誕生会を祝ったときの帰り際「この次はリコーダーアンサンブルをしましょうよ」誰ともなく提案があって皆盛り上がった。さあ大変、私がリコーダーを吹いたのは今から30年前。渋谷の音楽教室が創設された年の発表会で「涙のナイチンゲール」を吹いてデビューしたとき以来。デビューだけしてその後一切吹いていないから楽器がもうないので、急いで買いに走った。

今回の日取りと時間の最終チェックで連絡すると皆さん???そんな事ありましたっけ?酔っ払い共、誰も覚えていなかった。私楽器買ってきたのよと絶叫しても、そんなこと言いましたっけ?あーあ!

でも安心した。楽器は買ったけれど、指使いももう覚えていない。だから今日はなにも吹けない。他の人達も、慌ててアルコール消毒したり押し入れから引っ張り出したりして楽器を持参したけれど、様にならないので今回は諦めて次回に期待。楽譜用意するから練習しておくようにと。

いつまでも話しは尽きないけれど、日が落ちるのは早い。足元のおぼつかないご老人様御一行なので夕暮れになる前に連れだって楽しそうに帰っていった。後片付けをしながら考えた。なんとゴミの量が減ったのか。

若かった頃、オーケストラの仲間たちが我が家に来たときには、次の日捨てるのが恥ずかしいほどの空き瓶の量。ワイン20本くらいは軽く空になった。そこに日本酒の、一升瓶が2本くらい。夜明けまで飲んで寝てまた飲んで、ずっといる人もいて、泊っていくのもいて、麻雀するのもいて、笑い声が絶えなくて、仕事も遊びも目一杯。2階の十畳ほどの部屋には布団が敷き詰めてあり、眠くなるとどこでも構わず眠り、起きては飲み、麻雀をして学生寮みたいな家だった。

雪雀連の人たちはそこまではむちゃくちゃではなかったけれど、やはり飲む量は多かった。その頃には家が建て直されて、眠る部屋はレッスン室になった。多くの人が眠れる場所がなくなったことで終電までが限度だった。そんなときにも山田会長は自分の決めた時間を守り、明日仕事が早いのでと言って帰っていった。自分を律して高齢になっても健康でいられたのはそのためで、つい最近までスキーを滑っていたのはお見事と言う他ない。

そのスキーも今年は膝と勝負。つい最近まで痛みが消えていたので今年こそはと思ったけれど、ここ数日買い物が多くて重い荷物を持って歩くことが多くて痛み再発。スキースクールのはじめが12日ころなので、それまでには治るという儚い望みを持っている。

ひどく葛藤のあった数年の後で心もネジ曲がったようだったけれど、皆にストレスのない顔しているよと言われ、アンサンブル再開しましょうと言ってくれて、まだ全快ではないけれど確実に快方に向かっている。まだ不安定だとしてもゆっくりと歩んでいこうと言う気持ちが湧いてきた。

周囲の人たちはずっと腫れ物に触るように気を使ってくれて、多分鬼のように怖い顔をしていたと思うけれど、もう大丈夫です。ねじくれた心では生きていけない。素直になるように努力します。













2024年12月22日日曜日

兄弟猫

 元野良猫のんちゃんはだんだん飼い猫らしくなってきたものの、やはり時々気が荒ぶるときがあって、私は目が覚めると腕に引っかき傷が絶えない。眠っているときに寝返りを打ったりして彼女を怒らせるらしい。甘えて膝によじ登ってくるからよしよし、抱っこしているとなにかお気に召さないらしくいきなり噛みついてくる。恐ろしい。

彼女と一緒に私の家に通うようになったのはのんちゃんの兄弟猫。お兄ちゃんか弟かわからないけれど、巨大なオス猫でまるでツチノコ体型。その割には気が弱く近所のオス猫との抗争に敗れ最近我が家には近寄ってこなかったのが、寒くなって他のオスが家にこもっているらしくまた戻ってきた。この子は近所でグレちゃんと呼ばれている。

グレとのんは以前は二匹でわがやの駐車場で毎日餌を食べていた。グレが追い払われてから、のんは寂しそうだった。この二匹は桜猫。不妊と去勢の手術を受けさせて地域猫として、近隣の優しい人たちに守られている。のんちゃんは他の家ではクロちゃんと呼ぶらしい。

のんちゃんは非常に気が強く滅多に人になれなかったけれど、私にだけは抱っこさせるので自然とうちの子になった。彼女は気が強くて好き嫌いが激しいので、よほど気を許した人でないと大怪我をする。私もはじめの頃はスネを引っかかれて腫れ上がったことがあった。

その頃は本当の野良だったから爪に毒があり、およそ15センチほどの腫れができた。これは危ないと近所の病院へ行った。化膿止めや消毒をしてもらい帰ろうとすると先生に引き止められた。「破傷風のワクチンを打ちませんか」と。

破傷風菌は土の中に住んでいることが多く、私はその頃北軽井沢に花畑を作ろうと努力をしていた。なれない土いじりで穴一つ掘るのも大変な作業だった。そうか、いかにも破傷風菌が住んでいそうな森の土だから、それはいい考えかもしれない。それではお願いしますと言って一回目の注射をしてもらった。

このワクチンは初回から1週間後に2回目、その後は1年後に3回目を打つと先生がいうので次の週に行くと看護師から言われた。1週間ではなく1ヶ月後ですよ。でも先生は何回も1週間とおっしゃったけど。看護師はとにかく1ヶ月後にもう一度来てくださいという。

その1ヶ月後、私は微熱が続いていた。それでも病院へ行って微熱のことを話しワクチンを打つのはどうなのかと訊くと、看護師はそれはまずいから熱が下がったら来てくださいと言う。ところがその微熱はその後肺炎になって私は入院、ワクチンどころの騒ぎではなくなった。

ワクチンを打てたのは退院後もう1ヶ月ほど先になったけれど、先生が私に文句をいうのでまいった。「一ヶ月って言ったでしょう。でも入院したから仕方がないけど、一ヶ月って言ったでしょう」それを何回も繰り返す。先生無理言わないでください。肺炎になって破傷風菌のワクチンなんて打ったらどうなるのか想像もつかない。およそ医者の言う言葉とは思えない。挙句の果て健康診断を受けたいと言ったら忙しいからもう一ヶ月後にしてと言われる。咳が残って苦しいんですが。

家のすぐ近所に良い病院が見つかったと喜んでいたのに、理由がわからず笑うしかない。その割にはしつこく来年の破傷風菌ワクチンの日の確認。医師の言う通りに動かないといけないらしいけれど、私は自分の体調で病院へ行く。病気でもないのに行く必要はないし、検診を望んだのも肺炎の予後だったからで、もうとっくに良くなってピンピンしている。でもきっと、なぜ検診を受けなかったのかと言われるのだろうなと、変わり者の先生にいささか困っている。

この先生は野良猫の引っかき傷から始まったお付き合いだけど、このまま継続して大丈夫だろうか?兄弟猫は今日も私の家でのんびりと日向ぼっこ。お兄ちゃんと一緒だとのんちゃんも穏やかで助かるのです。あの先生も野生動物の類なのかしら。獰猛ですねえ。



















2024年12月21日土曜日

樫本耐震

 樫本大進のこの漢字変換!耐震かあ。そういえば本当に安定期に入って大秦(こんな言葉あるのかい)した素晴らしい演奏会でした。数多くのコンサートを聞き今に至るまでの中でも、最高ランクのコンサートだった。

彼の演奏を初めて生で聞いたのは、スマトラ沖地震のチャリティーコンサートのときだった。日本のプロオーケストラから数名ずつ演奏者が参加して、指揮者は小澤征爾をはじめとして錚々たるメンバー、クラクラするほどのメンバーの中に何故か野良猫の私が肩身が狭い思いで参加していた。私はどこのオーケストラにも属さない一匹猫。そう、大門未知子みたいなフリーランスだけど私は彼女と違い、しょっちゅう失敗していた。

なぜここに?来てしまったからにはしょうがない。と思ったら見知った顔がたくさんいて本当にホッとした。やあやあひさしぶり、あなた誰?え、あのときの?まあ、おとなになったわね、てな具合で。

そこにヴァイオリンを持って登場したのが、当時まだ10代の樫本大進さん、スケールの大きさ・ゆったりとした日本人離れした音楽に驚いた。その後、彼がベルリン・フィルのコンサートマスターになったと聞いて、さもありなんと思った。いつも日本でのコンサートは聴かせてもらっているけれど、今回の演奏はまた一段と素晴らしかった。

最近こんなに集中したのは珍しい。集中力なんかとっくになくなったと思っていたのに呼吸することすら希薄になりそうなくらい。半分瞑想状態になってしまったので、最後の曲が終わっても立ち上がれないくらいだった。音が多くてもきちんとあるべきところにある音が聞こえてくると本当に納得できる。

彼の安定期の演奏を聴いたのは数日前のサントリーホール。ほぼ満席の聴衆の期待通り素晴らしい演奏だった。

ヴァイオリン  樫本大進   ピアノ  ラファウ・ブレハッチ

モーツァルト:  ヴァイオリン・ソナタハ長調K.296

ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第7番ハ短調Op.30-2

ドビュッシー:  ヴァイオリン・ソナタト短調

武満徹:     悲歌

フランク:    ヴァイオリン・ソナタイ長調

サントリーホール

ピアニストはショパンコンクールの優勝者で私は初めて聴いたけれど、最高の音色。稀に聽く美しさ。樫本さんはあの大きなホールで楽器が鳴り出すまでの数十分間、ピアノの音を捉えるまで少しためらいがあったようで、後手に回っているように聞こえた。毛筋ほどの時間遅れて聞こえたのでピアノが中心のように思えた。もっともモーツァルトやベートーヴェンはあくまでもピアノ優先だから致し方ないかと。サントリーの大きなホールではヴァイオリンはピアノに対して小さめだからと少し気の毒なような・・・

ところが後半は、どんどん二人の音が音楽が楽器を超えて、その素晴らしさたるや、私の今まで聴いたコンサートの中でも特別のものとなった。

中学生だった私を音楽会に連れて行ってくれたのは長兄で、その頃から世界の名演奏家を聞いていたけれど、まず、ヴァイオリンはレオニード・コーガン、フェリックス・アーヨ、悶絶するほどの音の美しさ。コーガンが弾いたプロコフィエフのソナタ2番のはじめの音は文字通り全身鳥肌がたった。それが忘れられずコンサートのはじめにこの曲を弾いたのは10年ほど前。

アーヨ率いるヴィルトゥオージ・ディ・ローマは後に私が室内合奏団に傾倒する初めとなった演奏だった。そして忘れられないのはヨゼフ・スーク、日本での最後のコンサートは会場中が泣いた。なんでこんなに素晴らしいのに引退してしまうのか、惜しむ声が聞こえた。でも今だからわかる。レベルの違いは考えないでください。この私でもちっとも素晴らしくない私でさえ、引退は理由がある。自分にしかわからない理由が。












姉のぼやき

ヨッコラショと階段を上がってきた姉がぼやく。最近たったこれしきのことで息切れがするのよねとドアが開くなり言い募る。私と2番目の姉は7歳違い 。最近までとても元気だったのに、このところ続けてコロナに感染して弱ってきた。

ちょうどお茶に良い時間だったからお気に入りの紅茶を淹れた。この紅茶おいしいでしょう?と言ったら「あら、これ紅茶なの」ですって。私は嗅覚障害があって匂わないから、いつも食べ物の匂いを嗅いでもらうくらい姉は鼻が利いた。それがコーヒーか紅茶がわからなくなってしまったのかしら。コロナの後遺症で一時的に弱っているのかもしれないけれど、ちょっと心配なのだ。

私はある時鼻炎を患って病院で検査をした。医師が鼻スコープ?なんというのか鼻の中を覗く内視鏡みたいなものを覗いたとたんワッと声を上げた。中が化膿してひどいことになっていたらしい。それ以来後遺症なのか匂いがわからない。それ以来というか先天的に鼻は効かないのかもしれないけれど、ある種の人格障害(主に自己愛性人格障害)と嗅覚障害はマッチングしているとなにかの本で読んだ記憶がある。私の場合は人格障害からくるものかもしれない。

そういえば私達って変わってると言われるよね。姉と私の会話は5時のお茶にはふさわしくないけれど、我が家では普通のことが社会に通用しない場合が多々あるということについての考察。

姉が放送局の見学で、老人向けのボケ防止の作業を体験した時の話らしい。折り紙と塗り絵の班に分かれて、姉は塗り絵を選んだ。人目を気にせず好きなように塗っていたら他の人が来て「あら、中まで塗らなくてもいいのね」と言ったらしい。姉はというか私の家族はなんでも自分の思い通り人目を気にせず行う野蛮な家族だから、どこでも気ままに振る舞う。

姉は全部塗りつぶさないほうがスッキリして良いと思ったのか、はたまた単にめんどくさかっただけなのか外側の輪郭だけを思うままに塗っていたので、その人の言葉に驚いたそうなのだ。何かが決まっていてその通りにしなければいけないという発想がなかったという。なぜ周りと同じにしないといけないのかしらとしきりに呟いていた。私の家族はあまりにも人目を気にしないからよく変わり者と言われる。

私はファッションにもたいそう興味があって、変わった服や靴を見ると欲しくなる。先日も美容師さんから「nekotamaさんはビビッドカラーもよく着ますよネ」と言われた。ビビッドというと聞こえはいいが、派手なごちゃ混ぜの色合い。雪の日に尻尾付きの毛皮の帽子、フランスの国旗のような三色の防寒着、薄紫のブーツで仕事に行ったら、NHKの楽屋口の守衛さんが目を見張って上から下までじろりと見られたことがあった。

いつも歌手やタレントさんの華やかな衣装を見慣れているのに、ヴァイオリン弾きがぶっ飛んでいるのは許せないらしい。私の言動もいささか変で、事務所の社長から「nekotamaさん、そういうことはしないでよね」と何回も言われたことがある。それなのに社会通念を超える年齢までたくさんお仕事ありがとうございました。お元気でしょうか?社長!

本当に多くの方たちのお世話になって、何一つ恩返しができていない。申し訳ない。歳を重ねてもう少しマシになって(来世は)生まれ変わって戻ってこようと思います。しかし、この地球規模の天候の変動、妥協せずに戦争にまでもつれ込む国々の指導者たちの言動を見るにつけ、もう戻らないほうがいいと思うのです。




















2024年12月18日水曜日

臨時収入

 せっかく引退して終活に勤しもうと思っているのに、作業は遅々として進まない。時々えいやっと片付けをしても数日で元の木阿弥。悪くすると前より散らかってしまう。不要なものを買う悪い習慣は少しだけ矯正されたけれど、相変わらずの散らかりよう。これはもう才能の無さというより仕方がない。

それでも今までどこに行ったかわからない領収書などがまとまってきたし、出さねばならない書類が滞ることもなくなってきた。引き出しから古い預金通帳を見つけたから中を見たら残高1200円ほど。それが繰り越された最初の残高が900円弱、利息が長い間に蓄積されたのでの結果、これをどうするか考えた。

以前私が遺産を相続したときに、あまりにも古い通帳が残っていてそれの始末にえらく手こずったから、こんなものを残したらあとの人が困ると思って金融機関に相談に行った。多分すごい迷惑だと思うのに窓口の女性は親切に引き受けてくれた。

まずこの通帳は以後使う気はないから廃棄してもらいたい、残高は本当に僅かだからどのようにでもして構わないとも伝えたら、小一時間かかるので後ほどもう一度来てもらいたいと言われた。

その時間を待つか動くか少し考えて、先日高齢者自動車免許更新のときに視力検査で少し引っかかることがあったので、近所の眼科で細かく検査してもらおうと思った。ついでに白内障、緑内障など細かく検査をしよう。

最近ちょっと曇天の日などに霞むような気がしていたから、もしやと思っていた。実は早く白内障になってくれれば世の中が変わると友人たちが騒いでいる喜びの輪に加われるかもしれない。それに今日は少ないけれど通帳の残高がもらえるかもしれない。それで検査代が出せる。さもしい考えもあって時間つぶしも兼ねて検査してもらった。

5年に一度くらいしか訪れることのない眼科医院。あまりに間遠なので新しい住所を書いてくださいなどと言われる。私は病院が好きではなく(誰でもだけど)本当によほど悪くないと出かけないし、近所の内科医は私を見ると怒るようになった。なぜ来ないのかと。先生、そんな無理言わないでください。どこも悪くないのに病院に行く人はいないのだから。定期的に飲む薬もないし、お薬手帳すら持っていないのだから。

というわけで本当に久しぶりの眼科の先生は怒るどころか嬉しそうに説明をしてくれた。それによれば全くどこも悪くない。白内障も緑内障も眼底検査も真っ白。強いて言えば視力は両眼で1.0だからギリギリセーフ。おかしいな、最近少し視力に問題ありと思っていたのだが。日によって見えにくい日がある。

たぶんそれは睡眠障害によると思われる。いつ寝てもいつ起きても誰にも文句言われないから夜中も起きているし、昼寝もたっぷりする。あまりに自由だと時々修正しておかないと人間社会で暮らすのが辛くなる。猫は自由気ままに寝ている。だから寝子。猫と一緒に夜中じゅう起きていたりするのは大変心地いいけれど、昼間がつらい。

メガネを作ってもらうまでもなさそうなので一安心。メガネはお金がかかる。しかし大きな誤算は検査代金は1200円より高かった。まあ、ケチなことは言わないで安心料を払ったことにしよう。こうして臨時収入は全部消えたけれど、丈夫な身体をくれた両親に感謝。

メガネを作らないですんだのがありがたい。それは費用の点だけではないのですが、いつもの眼鏡屋さんには少々行き辛い。去年だったか、結構高額代金をただにしてくれたことがあって。

新しいレンズが入ってさてお支払いということになったら、店員さんが福引きを引いてというから断った。私は全くくじ運が悪く絶対に当たらないし、あたっても嬉しくないからといって何回も断った。いやいやどうぞどうぞと言って勸められて、どうせ当たらないと思ったら大当たり。全額ただになってしまったのでなんともはや。昔からなにか当たると良いことと悪いことが両方来るのが私の運命なのです。

不機嫌になっても店員さんたちが喜んでいるので、あまりにも意固地になるのはどうかと思い受け取ったけれど、その後やはりその代金を上回る出費事故があってやはりね。私は自分で汗を流して働いたお金でないと使ってはいけない運命なのですよ。僥幸は受けてはいけないという鉄則を破って受け取ったバツです。ケチケチするなと神様に戒められた一件でした。





























2024年12月10日火曜日

平和な日々

9月に引退宣言をして呑気な日々を送っています。しかし毎日が緊張に次ぐ緊張の生活が一変してしまうと、どうもボケが加速しているようでだんだん心配になる。私の内なる声がヴァイオリンを弾きなさいと囁く。

まず手の指が油切れになって関節がギクシャクしてきた。肩が固くなって きた。姿勢を保つのが大変。常に背筋を伸ばすのは楽器を弾いている間はなんでもないけれど、テレビを見ているとだらしなく椅子の背もたれによりかかり、ああ、つまらないことなどと思いながらの数時間。時間がもったいないと思う反面、普通だったらこの年でこれほど健康ならそれだけでも御の字と自分に言い聞かせる。こうして一日は暮れて行く。

野良猫だったのんちゃんがどんどん家猫らしくなり、私と一緒にのんびりツヤツヤ。緊張が溶けてきた。今まで外でどれほどの苦労をしてきたかと思うと可哀想でならない。それでも野良にしては地域猫として毎日の餌も不自由しないで生きられたのはラッキーだったのではないかと思う。

のんちゃんは非常に頭がいい。猫でも知能の高い気の強いものが生き延びられるようで、これは人間社会でも同じ。のんちゃんが人の心を読み取る術は恐ろしいほど。それが彼女に野生猫の魅力を与えていた。しかし今や安穏に慣れて、大きな搗きたてのお餅のようになってしまった。私も同じようにだらしなく広がっているような気がする。

そんなことでだんだん退屈になってきたので海外旅行にでも行ってみたいと思うことしきり。今知人が海外に行っている。私の姪とその娘が今頃ニューヨークで自由の女神とはじめましてと挨拶しているかも、軽井沢在住のY子さんはエジプトへ。みなさんこの円安のさなかに大したものです。どこへ行きたいかと尋ねられても困るのほどアテもない。

本当にこんな平和な日が私に来るとは思わなかった。退屈と言ったら罰が当たる。少し休ませてもらいましょう。休むとなると徹底的に何もしないけれど、家の中が少しだけきれいになってきた。「これできれい?」と驚かれるかもしれないけど、これでも精一杯なのよ。

海外はどこに行きたいかといっても目的はないけれど、非常に自然の厳しいところに行きたい。この年で一人参加は旅行社のツアーでうけいれてもらえるのかどうか。以前チベットへ行ったときには中国の旅行社に手紙を出して一人でいった。ガイドさんと車付きだから費用はかかったけれどわがままに行けた。現地人とも思う存分触れ合えた。中国人の家庭の誕生日のお祝いにも招かれて、彼の国の知識人階級がたいそう洗練されていることも知った。今の円安では費用が跳ね上がるけれど、個人旅行が一番望ましいところ。

ツアーで参加しても途中で一人になりたくなる癖があって、顰蹙ものと非難される。若い頃イタリアに女子4人でいったときは、皆一人になりたいという人で助かった。途中、ミラノで一人で靴屋巡り。どうしてもサイズが合わなくて買えず本当に残念だったけれど、向こうの店員さんがとても親切で時間をかけてつきあってくれたのには感激した。壮大な教会の直ぐ側に素晴らしいステンドグラスがある小さな教会を見つけた。暗いろうそくだけの照明の穴蔵のような建物。それも一人で気ままに探さないと出会えなかったと思う。

こうやってだんだんやる気が出てくるのを私は待つ。決して勤勉な人間ではないので向こうから訪れるのを待っていると、不思議なことに何事もうまくいくのだった。

春になったら飛び歩いて自宅にはいないかも。その時のんちゃんをどうするか考えている。もともと野良だから放っておいても一人でも生きられるけれど、私は裏切り者とみなされるだろう。ホテルぐらしは彼女にとって最悪だし、近所の猫好きさんたちに頼むしかない。

地域猫排除の話がもちあがったときに、近所のお兄さんが、自分がすべての責任を持つと言って地域猫受け入れの方向に持っていってくれた。こういう人がいてくれて最近は安心していられるけれど、まだまだ猫の受難話を聞くことが多い。

でも猫のことで悩むだけの日々は本当に平和なのだ。








2024年12月5日木曜日

素晴らしい音の世界

ヴォルフガング・ダヴィッドさんと梯剛之さんのデュオ ・リサイタル

東京文化会館小ホールにて

毎回聞かせていただいているが、今回は圧巻のステージだった。最初から最後まで息のピッタリあった素晴らしいアンサンブル、ダヴィッドさんのウイーン魂が炸裂。今にもヴァイオリンを弾きながら踊りだすのではないか、いや、実際踊っていたけれど喜びに溢れた演奏で会場中の人々の心を捉えて離さない。梯さんはソロコンサートもよく聞かせていただくけれど、今回もまた磨き抜かれた音色を堪能した。

プログラム 

 モーツァルト;ソナタK.378

 ディートリッヒ/シューマン/ブラームス;FEAソナタ 

 私はこの曲を初めて聴いたけれど、周りの人たちも聽いたことがないと言っていたので、自分がすごく無知と言うわけではないと安心した。

FEAというのはドイツ語の Frei aber einsam (自由にしかし孤独に)の頭文字をとったものだそうで、この作品を献呈された19世紀の大ヴァイオリニストのヨアヒムの口癖だったという。ブラームスのヴァイオリン協奏曲を初演するほど親交の深かったヨアヒムが仲を取り持ち、ブラームスは初めてシューマン家を訪れた。シューマンはブラームスの才能を高く評価し、ヨアヒムのためにシューマン自身とブラームスの弟子のアルベルト・ディートリッヒ、そしてブラームスの3人の合作によるソナタの作曲を提案した。という経緯がプログラムにかかれている。

私は初めて聴いたので最初の音で「あ、ブラームスだ」と思ったのは間違いで、彼のお弟子さんのディートリッヒが第1楽章を、2・3楽章はシューマンが、そして4楽章はブラームスが作曲した。名前を伏せていたけれどヨアヒムはすぐにどの楽章が誰の作品か当てたという。初演のピアノはクララ・シューマンが弾いたそうで、夢のようなお話し。彼らの演奏を聴きたかったなあ。随所にFAE(ファ・ラ・ミ)の音が用いられている。

初めて聞いたけれど本当に素敵な曲だった。なぜこの曲は頻繁に演奏されないのだろうか?早速楽譜を探そう。作曲家同士の親交は聞くだけでワクワクする。当時の作曲家同士は、私が思っているよりもずっとひんぱんに交際していたらしい。お互いに刺激を得て、作曲技術を切磋琢磨したのだろう。

次は シューベルト:ピアノとヴァイオリンのためのロンド

 バルトーク;ルーマニア民族舞曲

 クライスラー;ウイーン風l狂想的幻想曲  ここまで来るとダヴィッドさんのお家芸、彼も楽器も弓も梯さんも客席も踊る踊る!割れんばかりの拍手でコンサートが終了した。

帰りがけにマネージメントオフィスのスタッフが「彼らは昨日、石川県の白山から帰ってきたばかりなんですよ」え、白山?私が素晴らしいパワーを貰ったあの勝山市の平泉寺に近いではないか。道理ですごい迫力だと思った。

私も今迄で一番つらい時期に福井県の勝山市に行った後、ジグゾーパズルのピースが適所にピタリとハマるように問題が解決し始めた不思議な体験をした。あのへん全体が霊的な雰囲気を漂わせている。北陸はすごい!

パワースポットって本当にあるのだと思った。

コンサートからの帰り道、一緒に帰る電車の中でも友人とニコニコが止まらない。「なんだか体がホカホカするわね」「そうねえ」