一昨日は高校のクラス会、昨日は雪雀連の集まり、今日はコンサートと大忙し。
引退宣言してこれからは家の片付け、より良い終末期を迎えるための 準備にと思っていたけれど、私の機嫌がだんだん良くなるにつれて、また人が集まってきて浮かれ騒いでいる。掃除どころではない。どうやら私は招き猫。一生遊びの仲間には事欠きそうもないらしい。忘年会にリコーダーアンサンブルをという計画になって、さて、家のリコーダーはどこに?見つかるわけはないと思うから買いに行かねば。
遊びをせんとや生まれけむ・・・憶良のうたは常に私の頭の隅に陣取っている。真面目な日本人は遊ぶことに罪悪感があるらしい。真面目に議論しているときに少しでもふざけようものならハッシと睨まれる。緊張に風穴を開ける行為は罪らしい。一瞬の笑いが凍りつくような視線を浴びることもある。とかくこの世は住みにくい・・・と漱石さんも言っているではないか。
コンサートは鹿野由之さん(バス歌手)のリサイタル。友人に誘われて初めて聴きに行った。銀座三越の裏手の王子ホールは満員。コンサートが始まる前の客席は、普段私達が聞きに行くような雰囲気とは少し違って賑やかだった。さすが声楽家の集まりは声量と歯切れが違う。誰の声も「よく聞こえるから内緒話ができないの」と声楽家の友達が言う。
プログラムを見れば私の大好きな曲がズラリ。舌なめずりをしながら待ち構えていると、立派な風貌の男性が登場。その歩き方や胸の張り方が堂々としていて、さすが長年オペラの舞台で人びとを魅了してきたスターの貫禄。声を出すと驚いた。声の質の素晴らしさ声量の豊かさは、日本人離れしている。こんな人がいたなんて!
私は第二次大戦後の日本人歌手の気の毒なほどの体格の貧弱さ、発声の悪さを散々聞かされていたので、時代が悠かに変わってもこれほどの変化は期待していなかった。弦楽器もそうだけれど、今や日本人の演奏家は世界で通用という以上のレベルであろうと思われる。私の若い頃の声楽の発声は喉を詰めて振り絞ったような声、大げさなビブラートが笑いを誘った。ある時、スタジオで高名なテノール歌手の録音の仕事があって、始まると私は笑いを噛みしめるのに苦労した。自分のヴァイオリンは棚に上げてだけれど。
しかしその当時の声楽家たちは日本の貧しいレベルの技術に翻弄されて四苦八苦だったと思える。わたしたちの弦楽器もまた然り、管楽器に至ってはなおさら、ホルンはかならず音がひっくり返るレベル。それらの先人の苦労あってこその現在の世界的な演奏家の輩出なのだ。笑ってはいけない。よくぞここまでと思う。
鹿野さんの選んだのはモーツァルトとヴェルディ、フィガロ、魔笛、ドン・ジョバンニ、ああ幸せ。ナブッコ、マクベス、シモン・ボッカネグラ等々。圧倒的な声量が最後まで衰えない。これだけ良くぞ持ちこたえるものだ。
久しぶりに銀座にいけたのも嬉しかった。友人に会えたのも嬉しかった。コンサートの素晴らしさに酔いしれて幸せが戻ってきた時間があった。着ていく服がないと思って久しぶりに銀座で買い物しようかと思ったけれど我慢。それより日本橋で気に入ったメーカーの靴を探そうかと思ったけれど、それも我慢。そろそろムカデの本性を直さねば。最近靴を何十足か捨てた。本当にそのくらい履いていない靴がゴロゴロしていたので自分でびっくりした。一体いくらくらい無駄遣いしたのか。それだけあれば上等な服とコートとハンドバッグが揃う。
結局履くのは本当に足にあったものだけだから、その中の一部。長年お気に入りのスニーカーを履いていたら通りすがりのお姉さんに指さして笑われた。「わあ!レア物」ロゴマークが目立つので気がついたらしい。「これ?靴もレアだけど私はもっとレア物よ」といったら黙って気まずそうに逃げていった。十年穿こうが二十年使おうが私の勝手。友人たちだってもう七十年ものヴィンテージだわい。まいったか。