2025年1月29日水曜日

秋山和慶さん

 秋山さんの訃報が届いた。

2025年1月26日肺炎のため亡くなられたそうです。1月1日自宅で転倒し大怪我を負い1月23日音楽活動からの引退を表明して治療に専念していたところであったそうです。

心から御冥福をお祈りします。

秋山さんと私は東京交響楽団の同時代を生きた。物静かで端正な風貌にも関わらず、彼は札付きのいたずらっ子で、私達はよくひどい目に遭わされていた。指揮者は客席に背を向けているからお客さんにわからないようにメンバーを笑わせるので困ることが多かった。

あるときには「ルスランとリュドミラ」のあの早い序曲を猛烈な速さで振るのでヴァイオリンは青息吐息、終わってからみんなに責められても何のその、演奏中は皆の苦労を嬉しそうに眺めるなどは序の口で、あるときはご自身のメガネを途中で外すのでなにか?と思っていると、おもちゃの鼻眼鏡をかけて振り出す。ちょび髭がついていて思わず吹き出す。これも本番でのはなし。客席を向いている演奏者たちは笑いを堪えるのに必死になる。指揮者のせいなのにこちらが不真面目にとられてしまう。

そんな茶目っ気もあるけれど、私には忘れられない名演がある。定期演奏会で武満徹「ノベンバーステップス」を演奏したときは、音楽の神様が乗り移ったかと思える名演だった。舞台しもて袖で聴いていた武満さんが秋山さんの手をとって「どうしてこんないい音するの」と涙をこぼされた。秋山さんもその話をしたとき少し涙ぐんでいたようだ。

練習場で、これから練習にはいるという前に私が一人で新曲の練習をしていたことがあった。眼の前には指揮台がありそこの椅子で楽譜のチェックをする秋山さん。知らない曲なので速度がわからないから、ゆっくり弾き始め最後は練習のかいあってかなりのスピードで弾けるようになった。そして練習が始まるとものすご~くゆっくり。

「秋山さん!聞いていたんでしょう?それならゆっくりだっておしえてよ」きっとお腹の中で笑っていたに違いない。「あはは、苦労してる」なんて。

昔、彼はド派手なアメ車のサンダーバードに乗っていた。ところが交差点で事故って入院したという。お見舞いに行くとベッドに包帯だらけの上半身、弱々しい声で「nekotamaも気をつけろよ」と。私はその他大勢の一人だから替えがあるけど、秋山さんは取り替えようがない。人のこと心配しないでご自身が生きていただかねば。その事故以後、若くして髪の毛が真っ白になった。あの見事な銀髪はそういう経緯があったのです。

こんないたずらっ子でも、私がカナダの演奏旅行でこわーいソロを弾いたとき、本気で心配してくれた。弓が震えて飛んでしまうのをなんとかしようとアドバイスをくれる。どんなになってもいいから思いっきり弾いていいと言うので、優しくされればされるほど私はますますいじけて行き詰まった。そうしたらバンクーバーシンフォニーのコンマスが私を指さして笑うからそこで「ナニクソ!」負けじ魂が蘇った私。でも秋山さん、ありがとうございました。私の人生の一番愉快な頃にご一緒できて幸せでした。

安らかにお休みください。

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お別れの会のお知らせ

2025年1月31日(金)12時開会 13時30分閉会 (受付11時)

ミューザ川崎シンフォニーホール 川崎駅西口より5分

平服にて 献花は固くご辞退とのこと


一般向け記帳台 設置日時 2月1日(土)から3日(月11時から16時

        設置場所 ミューザ川崎4階企画展示室












2025年1月15日水曜日

疑う

 姉の家でお茶を飲みながら世間話をしていたらインターホンが鳴った。足が悪くたち上がるのが遅い姉の代わりに私がドアを開けると、作業着の男性が立っていた。いかにも実直そうな顔ではあったが、姉は高齢者。最近闇バイトで強盗を働くふらちな者共が跋扈しているので油断ならない。

無愛想にどういう用件か尋ねると、ガス器具の点検に来たという。ガス器具なら東京ガスの人ではないかと思ったけれど、別の会社名の入った名刺だし、家の中まで入られるのは剣呑だから努めて無愛想に応対した。お宅はどこの会社ですか?とかどうして点検に東京ガスではない会社から来るのかとか、こんなに時間を取るのにどうして無料なのかとか矢継ぎ早に訊く。それらに穏やかに質問に答える男性。

よく聞くのは、屋根が傷んでいるから修理すると言って屋根に上がり込んでわざと瓦を剥がしたり、ブルーシートだけかけて何万円も請求したりする人がいるというから、私は姉の保護者としてその者共に立ち向かわなければという使命感に燃えていた。終わってみればきちんと点検の書類も整っており、名の通った会社名が書かれていて、姉の家は電気もネットもガスも全部ひっくるめての契約になっているという。

それならと一安心。もちろんお金も取られなかったし終始感じの良い対応だったけれど、つくずく嫌な世の中になったと思わずにはいられない。犯罪者もやることが鬼畜になってきて、思い出すのは狛江の事件。90歳の女性に乱暴した挙げ句殺してまでカード番号を聞き出そうとした。もし自分の姉や母親がそんなことをやられたらと思うと居ても立っても居られない。そのやり方も信じられないほどの残忍さで聞くだけで吐き気がする。

そしてこれを書いている最中、今度は私の自宅に本物の東京ガスからガス器具の点検に来た。誰が見ても東京ガスの人だけど、今日は疑り深くなっているから、セコムの防犯ベルをポケットに忍ばせて対応した。本物かどうかということは、事前に点検のお知らせが来ていることと、紛れもない東京ガスのジャンパーを着ていたことだけれど、やはり一応疑ってかかる。そちらも何事もなく作業が済んだ。

私は一人暮らしになったとき、セコムに申し込んで安全対策がしてある。多少お金はかかるけれど、ドアにセコムのステッカーが貼ってあるだけでも防犯効果はあるらしい。けれど、操作を間違えると恐ろしく煩わしい。うっかり者のわたしはしょっちゅう誤作動を起こして、夜中や明け方にセコムから電話がかかってくる。

「ご無事ですか?」切迫した声で訊いてくる警備会社の人に「すみません、また間違えました」そのうちオオカミ少年のように誰からも信用されなくなるのが怖い。しかも素早く飛んできてくれるから、ぐちゃぐちゃの家の中を何回も見られてしまった。

これが一番恥ずかしい。












舘野英司さん

私のもと教え子のKちゃんからのメール。舘野先生が亡くなりましたと。彼にはここ数年お会いしていなかった。

舘野英司さんはピアニストの舘野泉さんの弟さんで、チェリスト。私がまだオーケストラにいた若かりしころ一緒だったことがあった。ある日舞台袖で話をしていたとき「フィンランドではねえ・・」と留学時代のことを語り始めた。

「地面が凍っているのでバス停で待っているときに強い風が吹くと、チェロが風を受けてズズズっと滑って前に進んじゃうんだよ」「ウッソー、いくらなんでもそんなことないでしょう」私はそれを聞いて大笑い。出番が来て演奏に入った。演奏が終わって舞台袖でヴァイオリンをケースにしまっていると、向こうからすごい勢いでまっすぐに私の方へ歩いてくる彼の姿が目に入った。

「さっきの話、あれ本当だからね」そばまで来ると真剣な顔でそう言って去っていった。嘘つき呼ばわりされたのが余程悔しかったとみえる。演奏している間ずっと悔しかったのではと思う。呆気にとられて後ろ姿を見送っていた私。それから半世紀、私の生徒となったKちゃんが結婚するというのでよろこんでいたら、そのお相手がチェロを弾く青年のT君だった。彼の先生が舘野英司さんとわかったのがご縁の再開のきっかけとなった。

東京文化会館の楽屋で数十年ぶりにあったとき、ふたりともほとんど同時に「変わらないねえ」と。その後奥州市のチェロフェスティバルに数年間参加させてもらったり他のアンサンブルもご一緒できて楽しい思いをしたけれど、年々彼の体が弱っていくのを目の当たりにすることになった。

練習のため私のレッスン室に来ていただいたけれど、エレベーターが無くて重たいチェロを持って階段を上らなければならない。ある時「僕はもうチェロを持ってこの階段をあがれないよ」とおっしゃるから「チェロは家のをお使いください」そう言うと嬉しそうに弓だけ持って来られるようになった。しかしそれも「僕は階段を登ることができないんだよ」に変わった。

私のレッスン室の玄関で、毎回「このうちは靴べらないの?」それでやっと靴べらを買ったけれど、それを使ってもらうこともなかったような気がする。もっと早く買っておけばよかった。毎度後悔の念ばかり。

それで最後のときには彼の家近くの楽器屋さんのスタジオが練習場所になった。その時がご一緒した最後だった。その後私は数年間、トラブルに巻き込まれ収拾に関わって時間がなく、演奏に参加させていただくことはなかったけれど、事あるごとにKちゃんからの報告を受けていた。「舘野先生が飲みすぎて心配です」とかなんとか。本当にお酒が好きだった。ファンのおばさまたちに囲まれて上機嫌に穏やかにお話を楽しんでいらした。

なくなる前の日、新潟のホテルでお酒を召し上がって、次の朝、あちらの世界に行ってしまったとか。最後までチェロとお酒を愛した彼らしい人生の締めくくり方だったらしい。

御冥福をお祈りします。







2025年1月13日月曜日

コーラスライブ

3人の女性コーラスグループのライブを聽いた。ライブハウスは六本木の「keysuton」

    ヴォーカル 齋籐裕美子 内田ゆう 山下由紀子

    ピアノ:小野孝司 ベース:岩切秀磨 ドラム:丹寧臣 

    サックス:今尾敏道

メンバーはずっと以前からの仕事仲間たち。

私は地方で仕事のときには本番の前日に現地に行くようにしていた。交通の遅れの心配と体調を整えることなどのために。メンバーはそれぞれ自分のスケジュールに合わせて自分で行動するけれど、時々申し合わせて一緒に行動するときもあった。仕事日の前日に行って現地の観光をするのも役得の一つ。

浜田に仕事があった。一番近い空港は萩。今は沢山飛んでいるけれど、その当時の萩空港への飛行機便は、朝7時ころの出発便一本しかなかった。仕事当日は早朝自宅を出てその便で行って、それから10時間近い仕事をこなしてというハードスケジュールになる。それを避けると前日行ってしまえばその一日遊んで、次の日はホテルで昼近くまで寝ていられる。それから仕事をするなら随分楽になる。

コーラスさんたちのお誘いで私も前日行く仲間に入れてもらい、朝一番の飛行機に乗った。萩空港に到着してレンタカーを借りて、さてどこへ?なんの計画もなかったけれど、この辺、見どころはいっぱいあってどこでも立派な観光地。津和野は画家の安野光雅さんの生まれ故郷なので美術館がある。そしてプラネタリウムもあるけれど休館日で開いていなかった。私達が入り口付近でウロウロしていると、係の人が気の毒がってわざわざ開けてくれるという。

私は少し困ったなと思った。今まで何回もプラネタリウムに入ったけれど、一度もまともに見たことがない。最初の数分はきれいだと思うけれど、夜になって星がきらめくともういけません。あっという間に眠ってしまう。ようやく目が覚めるのは全部終わった頃。せっかく開けてもらってもねえ。

案の定、私はあっという間に眠ってしまい、気がつたら天井には朝がきていて全員起きた様子。自分だけかと思ったら皆ぐっすりだったようだ。早朝家を出て羽田空港に行き、飛行機で萩まで、それだけでもかなりきついのだからもっともなことで、せっかく見せていただいて申し訳なかったけれど、誰一人起きていた人はいなかったようだ。後ろめたい気持ちでお礼を言って、津和野、秋吉台にも行って、おそばを食べてなどなど。次の日は体力十分で仕事に勤しんだ。こんなふうに楽しく仕事をしていられたのも彼女たちのおかげだった。

というわけで久しぶりに六本木に行った。私がまだ仕事を始めたばかりの頃、六本木でニコラスという当時流行っていたピッツァのお店で遊んで夜明けに家に帰ったら、母が起きて待っていた。これはまいった。夜通し心配させてしまったらしい。昔はよく遊んでいた六本木なのに今は駅に降り立つこともなくなった。どんなに変貌したかもわからないからネットで地図をゲット。歩きのコースをスマホに挿入して万全の用意ででかけた。

しかし六本木はあまりにも変わってしまい、駅の中さえ右往左往。やっと会場付近にたどり着いたけれど、見た目があまりにも変わっていて、見当がつかない。困ってあたりを見回したら、ウーバーのお兄さんがバイクに乗り込むところだった。のがしてなるものか、走り寄ってスマホの地図を見せて「ここはどこ?」思いがけないほど穏やかな声で「あ、惜しかったですね、ここまで来て、すぐそこですよ」すごく優しく慰められた。

田舎のおばあさんが初めて六本木なんかに来て、泣き出すのではないかと心配してくれたのかもしれない。場所はもう目と鼻の先。どうしてわからなかったかというと、道路の真ん中が立体になっていて歩道は上、車道は下、反対側の歩道から見ると目印の建物が見えなかったのだった。

私達が昔、散々来ていた六本木とまるで様子が変わっていて、立派なオフィスのようなビルが立ち並んでいる。狸穴という地名が直ぐ側だけれど、あそこには本当にムジナが出たそうで、そのくらいのんびりとしたところだったようだ。大きな古いお屋敷もまだ残っていて、そこに私のヴァイオリンの先生が住んでいた。けれど今は開発の手は隅々まで行き届き街中ピカピカ。

客席はほとんど埋まっていてわずかに残った相席だった。前の席には若い女性が二人。向かい合わせに御夫妻と思しきカップルのテーブルに無理やり割り込んで肩身が狭い。けれど少しずつ会話をしていくにつれて、どんどん共通の仕事場と関係者の話題で盛り上がってしまった。面白いなあ、こういう場だから業界人が多いのはもとよりだけれど、あまりにも近い知り合いに近い人達だった。次回お会いしたらぜひまたご一緒にと言われて胸が踊る。

ステージは言うまでもなく楽しい。ベテランのコーラス・ガール3人が老眼鏡をかけて歌う素晴らしさ。3人それぞれ持ち味が違い、声の質も違い、ちがうからこそ素敵なハーモニーになる。人生の深味を感じる。若さだけでは味わえない心の琴線に触れる味わい。生きるって素晴らしい。どんなに苦労や悲しみがあってもそれが表現に豊かさとなって人の心を打つ。私がこういう人たちと知り合ってどれほど幸運であったかと思うと感謝の気持ちしかない。

珍しくしんみりとなって会場をあとにした。
















2025年1月9日木曜日

嵐を呼ぶ女たち

 湘南在住のM子さんからお誘いがあって、江の島にイリュミネーションを見に行くことになった。

彼女と私は仕事仲間、猫つながり、漫才のコンビ?体型は細長のM子さん、樽型の私とひどく対照的ながら共通点はたくさんある。一番の共通点は2人で組むと物事がただでは済まないということ。

今年6月、M子さんの誕生日のお祝いをしようと中華街に出かけた。その日は雨の予報であったけれど決行することにした。家を出たときにはまだ軽く降っているだけだったけれど、中華街の駅に到着した頃には猛烈な降りとなった。駅で待ち合わせならそこで予定変更したのだが、店を予約してあったので店で合流といことで仕方なく歩き始めた。それはもう道を歩くというより川をわたるといったほうが良いほどの状況だった。

ようやく店にたどり着くき「本当に私達って性格激しいから」とかなんとか云いながら美味しい食事を堪能して、再び猛烈な雨の中、カフェを探して飛び込んだ。しばらくするとようやく雨脚は弱まって来たので帰路についた。せっかくの誕生日祝がこれでは悲しいけれど、思い出に残る記念日とはなった。

あるときはイグノーベル賞の展示会に後楽園まで二人ででかけた。月面歩行を体験できる装置を開発したとして受賞した器具の展示場所まで来た。上からハーネスのようなものがぶら下がっていて、それを身につけるとちょうどつま先が地面に届くほどの高さに足が浮く。それをつけて移動すると月面での無重力状態の感覚を味わえるというわけ。

体格の基準があって、私は残念なことに身長が低すぎてつま先が地面に届かない。M子さんは体重がかるすぎて装置がぶらさがっているワイヤーが撓まない。ふたりとも失格となってしまった。発明家?らしき人がひどく気の毒そうにしていたけれど、規格外の人間ということで全くもって我々らしい結果となってしまった。

そして江の島でイリュミネーションを見ない?とM子さんのお誘いがあったのでもちろん快諾したものの嫌な予感があったのも否めない。またなにか?

昼過ぎコンビニで待ち合わせた。そこからは江の島まではたいそう近いので期待にワクワクしながら車を走らせる。よくテレビなどで放送される江の島入口の橋をわたって駐車場へ。ウィークデイの昼過ぎなので混雑はなく、車を停めて歩き出す。ここの神社は弁天様だそうで私達芸能に携わる者はお力添えを賜りたく拝礼することに。これが今年の初詣であることに気がついた。

お正月は大抵志賀高原スキー場からの帰り道、長野で善光寺にお参りすることが多かったから、暖かい初詣は珍しい。海を見るとかなり白波がたっているので風の強さがわかる。拝殿で手を合わせ、何もお願いが思い浮かばないので、ここまで無事に生きられてよかったとの感謝のみ。そこからは長い階段が上に伸びている。

最近膝も随分良くなったので登るのは構わないけれど、下りのことを考えるとしんどい気持ちになる。しかも上りだけエスカレーターがあって楽、下りのほうが私にとってはきついのだ。下りもついでに作ってくれればよかったのにと恨めしい。長いエスカレーターは改札機にチケットをかざして通る。最初の改札口を通ろうとしたら機械が反応しない。なぜだ?すると係の人が「それ、駐車券です」

あらま、毎度おなじみのボケ!一度やったら二度としないという人ではないので、二度三度性懲りもなく繰り返す。人間が文明社会に適応していないらしい。頂上のカ゚フェで腹ごしらえ。まだ日は高くイリュミネーションは木々に巻き付くワイヤーや電球が見えている。その頃になると風はいよいよ強く、吹きすさぶようになってきた。この二人の組み合わせではまだまだ強くなるに違いない。

きれいな海と山を見て日没を待つ。赤々と山に沈むおひさまを眺めてカフェを出ると猛烈な冷たい風に襲われた。ところどころ電飾がきらめき始め開始時間にカウントダウンで一斉に灯火がついた。薄紫のトンネルには藤の花のように灯火がきらめく。それを抜けて様々な場所にチューリップの花と電飾と、夢の中にいるようだ。相変わらず冷たい風が吹きすさぶ。下る階段は狭く急で怖い。やっと階段が終わったとき急に風がやんだ。

海風が山で遮られたのかと思ったけれど、そうでない場所に行っても風は明らかに弱くなっている。さては我々二人を狙っての所業であるか。風の神さま出てらっしゃい!デコピンしてあげるから。

やはりただではすまなかった。嵐を呼ぶ二人の女、最悪の組み合わせ。



















加藤慧子さん(にのきんさん)

 加藤さんのことを「にのきん」さんというのは彼女の旧姓が二宮さんというから。にのみやきんじろう・・・縮めて「にのきん」

わたしたちが小学生の頃のには、どこの学校にも二宮金次郎の銅像が立っていた。背中に薪の束を背負いながら本を読んでいる少年の姿。仕事も勉強も頑張って偉い人になりました、すごいですねと言いたいけれど、私はひねくれた子どもだったから、仕事は仕事、読書は読書に専念したほうが効率的だし、薪を背負っていたら足元が危ないのになんて思う生意気なガキでした。今だったら歩き読書は禁止。

金次郎さんのことはともかく、二宮さんは私の3才年上でオーケストラの先輩。私がおずおずと新人で参加したオケではもうすでにベテランとして頑張っていた。文字通りのがんばりやさん、そこは金次郎さんと通じるものがあった。いつも目をキラキラさせて声も大きく張りがあってその存在感は他を圧倒していた。

高校生の時に三重県の津から上京して、一人暮らしをしながら世の荒波をわたっている姿は、私の母に多大な印象を与えた。私の家に泊まりに来たときに、私が彼女の一人暮らしの話をすると「偉いねえ、本当に偉いねえ」「あの人はどうしてる?」母は死の数年前まで彼女のことを忘れずに褒め続けていた。過保護で甘ったれの私を見るにつけ、心底彼女には感心していたようだった。

ある時沖縄に一緒に遊びに行ったことがあった。早朝二人で海岸を散歩していたら石垣があって、たった1m位の高さなのに私は飛び降りることができない。するとその時すでに中年だった私より3歳年上の彼女がひらりと身軽にとびおりたのにはびっくりした。聞けば朝毎日彼女の信仰する宗教関係の新聞を配っているのだという。

その時の年齢で毎朝新聞を配ることにも驚いたけれど、体の身軽さにも度肝を抜かれた。性格は超負けず嫌い、どんなときでも自分が悪いとは言わないから、周りの人たちは辟易していたけれど、それでも愛されていたのは彼女の真っ直ぐな性格。歯に衣着せぬところがあってもなお周りには優しい人たちがいて彼女を守っていた。

歯に衣着せぬというところはオーケストラの練習の時も発揮されて、他の人の音の間違いや弓つかいの間違いなど気がつくと容赦なく指摘してくるのでイラッとする人も多かったけれど、ベテランだからあまり逆らえない人が多かった。私は叱られても耳から耳に聞き流す特技があったからいつも平和。

ある時、私が弓使いを間違えたら椅子から立ち上がって早速のご指摘。その時私はたまたま虫の居所が悪かった。本当に何も考えずに反撃してしまった。「間違えたことは自分が一番良くわかっているの。だからいちいち言わないで」

するとあれほど気の強い彼女が無言ですっと椅子に座って、その日はシーンとして何も言わなくなってしまった。今度は私が慌てた。「ああ、どうしよう、先輩に向かってなんてことを。でも謝ってももう手遅れだし、第一どうやってなにを謝るの?無言でいる彼女に心のなかでごめんと言う。

ときには私の強気が彼女を上回ると、周りの皆はヒヤヒヤするらしい。けれど彼女は本当にお腹の中は真っ白な人で、ずっと仲良くしてこられた。常に直球を投げる人だった。

けれど、にのきんさんは亡くなってしまった。昨日訃報を受けた。彼女はまっすぐに生きてあまりにもまっすぐだったので、いつも太陽の燦燦と降り注ぐ道を歩いていたにちがいない。

御冥福をお祈りします。


















2025年1月4日土曜日

年賀状

年賀状は数年前に 停止する旨を書いておいたのだけれど、行き渡らず未だに送っていただくことがある。元旦にのんびりしていて夕方近くに郵便受けを見ると数葉の年賀状を見つけた。やはりいただければ嬉しい。ありがとうございました。

すぐにコンビニに行ってまだ残っている年賀はがきを買い求めた。以前の枚数は200枚を超えていたので暮には死にもの狂いで年賀状書き。今は20枚ほどで収まってくれればいいなと思っているけれど、7日過ぎまでは油断ならない。それまでにあと何枚か来るとなったらはがきの用意をしておかないといけない。10枚ほど追加したけれど、今日もまた追加のためにコンビニへ。今から出そうと思われた方、そういうことですので・・お願いします。

食っちゃあ寝の正月太りを解消しようと追加は少しずつ買いに走る。今必要なだけ買うことにした。面倒だからと多めに買うと必ず余る。かといって必要だけギリギリに買うと必ずといっていいほど1枚足りないとか、私のやることはいつも中途半端。

10年ほど以前、年の暮れに義理の姉が亡くなって200枚ほど書き終えた年賀状が宙に浮いて大慌て。喪中の印刷を近所の店に注文しに行ったら「先ほど同じ方の喪中はがきを注文なさった方がいらっしゃいましたよ」と言われた。「それ私の姉」だった。

年賀はがきを書くのは秘書がいるような人ならいいけれど、私のような暮から正月にかき入れ時というような商売ではなかなか大変なのです。でも、もう暇になったからいただいても余裕、嬉しいけれど、やはり来年からはご遠慮申し上げます。

私が毎日家にいるので昨年から家猫になったのんちゃんが穏やかになってきた。はじめのうちはビクビク、私でさえも油断ならないと思っていて、なんの悪気もなく私が急に動いたりすると怯える。膝に乗ってくるからまったりと抱っこしていると、途中で急にシャアーと唸って噛みついてくる。私は身に覚えのない敵意にさらされた。

一緒に眠るようになっても、朝起きると片方の腕だけ引っかき傷だらけになっていて驚く。でも今はもう、うまく私の寝相の悪さを回避してくれるらしく、ほとんど無傷でいられるようになった。

世間の意地悪に出会うことが多かった野良時代が思いやられる。いつも人の手は自分を追いはらい打擲するためにあると思っていたに違いない。お腹をすかせてやっと見つけた餌を取り上げられ追いかけられもしたでしょう。少しだけ人間を信じられるようになったらしい。

ところで猫の親愛の情は、自分のおしりを飼い主の顔に近づけることで表現するとご存知でしたか?毎日猫が私の眼の前にお尻の穴を見せに来る(笑笑)これはあんまりうれしくはない。なんでかな?

















2025年1月2日木曜日

箱根駅伝

 超絶美しい富士山。心地よい日差し。そんな平和な朝、学生たちは何を思って苦しい山坂を走るのか。

強豪青山学院大学の最初のランナーが不調で、首位争いに加わるかと思っていたけれどまさかの10位。どこの学校を贔屓にということはないけれど、やはり優勝常連校は気になる。青学は4区までは後ろの方にいたのに終わってみれば首位にいた。往路優勝!ここがすごい。

いつも思うのは監督の余裕の心の広さ。最初のランナーをちょっと睨んで「お前がちゃんと走れば」的な苦言を言っていたけれど、何故か愛情を感じる言い方で心の広さが素晴らしい。言われた生徒も監督の方を向いて叱責を受け止める。監督は失敗はそのまま受け入れてよくできた他の生徒を褒める。これは天性の懐の大きさだと思った。失敗は誰にでも起こる。まして駅伝の厳しさは監督自身が一番良く知っているし。

団体の順位が個人的な記録のトータルで決まるというのは少し残酷なような気がする。個人競技なら自分の調子が悪くても仕方がない、また頑張るさと考えればいいけれど、団体だと、あいつのせいで自分たちがせっかく頑張ったのに負けた・・・なんて思わないかしら。誰でも常に絶好調とは限らない。中央大学の最終ランナーはずっと首位にいたのに、最後の山登りで青学に抜かれた。

終わってから中大監督が思いがけなく晴れやかな顔で、明日も頑張ればと言うようなサバサバしたコメント、昔の監督ならげんこつが飛んだのではと思う。中大の最終ランナーが悪かったのではなく、それほど青学の記録が素晴らしかったのだ。

人はリラックスしたときに最も力が発揮できる。でもリラックスしすぎてもだめで適度な緊張を持続したあとでのリラックスが最強だと思う。

パリオリンピックで兄妹の柔道選手が揃って金メダル獲得の呼び声が高かった。しかし前日テレビで見た競技場を下見に来た妹さんのほうがあまりにものんびりした顔をしていたのでおや?と思った。周囲に悠々とした態度で手を振っていたのでこれはやばい!余裕で勝てると思っているらしい。

ああいうときは事前にギリギリに緊張しておかないといけない。それで少し疲れてよく眠れる。眠らなくても緊張の持続は時間が経つと一度緩むから、そこでリラックス。直前にもう一度緊張が来ても一度経験しているから二回目の緊張は少し緩め。そしていざ勝負というときにはすべて真っ白の中で集中できると、こういうのが一番理想的なんだけど。

例えばコンサートの前に全然緊張しないから、余裕で舞台袖で話したり笑ったりしていると最悪な事態になることが多い。舞台に出ていざ音を出そうとするといきなり体がこわばってしまう。そうなったらもう失敗街道まっしぐら。立ち直れなくなる。柔道の妹さんもそんなことだったのではないかと思うけれど、それでも失敗したことは良い経験と諦めてその後の競技を頑張ってほしい。

なんだかんだ言われても、学生たちは一人でひた走るだけでなく友人たちとの絆を深められるこの競技に魅力を見出していると思う。たった4年の特別な期間、輝かしい時間を共有し燃え尽きても、それは生きる者にとって最高の宝になる。失敗しても苦しくても、できるならやったほうがいい。横からとやかくいうことではない。

と思っていたら、カラコルム・シスバレーに新ルートを見つけるために4度目の挑戦をした登山家のドキュメントをやっていた。これはもう命がけの話で燃え尽きるどころか死を賭してのはなし。

前人未到のシスバレーの空白地帯に新ルートを見つけるために二人の登山家はほぼ垂直の雪の壁を登る。荒い息遣いが聞こえる。その人を上から撮っているカメラマンは同行者なのか、プロのカメラマンなのか。こういうときに登山家よりもカメラマンに驚嘆する。

今でこそ小さいカメラなどが開発されているけれど、そして今回の登頂にもそんなカメラが活躍していると思うけれど、昔は大きなカメラを担いで登山家やスキーヤーと共に上り、あるときは先に登って上から撮る姿が写っていたりすると、カメラマンの方が技術的に上でないとできないのではと思ったりした。

激しい風や雪崩に悩まされながら4回目の挑戦、北東壁のルートを見つけて2日目に下山した二人の山男は大きな肉にかぶりつく。どす黒い顔がところどころ赤黒く焼けて、どちらが誰かわからないほどそっくり。それでも嬉しそうに笑っている顔は可愛い。命がけで登るのはどんな気持ちなのか知りたい。登ったけれど降りるのはもっと難しいと思うのですが。

こうして1日中テレビを見て終わるのが毎年のこと。











2025年1月1日水曜日

あけましておめでとうございます

今年もどうぞよろしくお願いします。

このブログを始めたときは日記のようにその時の時代背景や自分の辿った道を書き残して置こうと思っていた。元々ろくでもない人間なので誰が読んでもつまらない、読む人などいないと思っていたら、思いがけないところでnekotama読んでますと言われてびっくりすることがある。まあ、物好きな。でもありがとう。

日記なら公開にしなければいいのだけれど、そうなると継続が難しい。ヴァイオリンも聴いてもらえなければ弾かなくなってしまうかも。それであえて公開することにした。自分だけで書いていると自身の心の毒をそのまま吐き散らしてしまう。いつも公開する前に下書きを読み直すと、自分の心のはけ口のみになって人に伝えようとする努力をしなくなっていることに気がつく。

何回か書き直してギリギリ人に伝わるように書き直す。そのあたりで心の毒を客観的に見ることができるようになる。冷静になれるのはその書き直しの段階で徐々にカタルシスをしながら自分を外側から眺められるようになるのだった。それは私にとって非常に大事なことになった。

思い込みの激しい自己中心的な性格なので、そうでなければ常に冷静ではいられないけれど、書くことによってそれを人に伝えるための作業がどれほど役に立っているか。プロの物書きではないので上手に描けなくても構わない。自分の考えが整理できたらそれだけでもよしとすることに。

そんな拙い文を長年読んでくださる方々、ありがとうございます。

元日の今日もなんの予定もなくぼんやりしていたら、自作の料理をぶら下げて来てくれた人がいた。何を話すでもなくテレビを見てアハハと笑ったりして帰っていった。お正月はこういう意味なく楽しめる貴重な時間なのだ。

雪国からは、自分の立ち位置からきれいな雲や空や海の写真がリアルタイムで送られてくる。家に座っていて目の保養。きれいな川が写っていたから「泳いでみて」とけしかけたら「川の水がわくまで待ってください」だと。どうやって沸かすのかしら。

そうこうしているうちに、だんだん自分の進むべき道が見えてくる。時々こういう時期が私には必要で、全く予想もしていない道筋ができることがある。あとから考えると、その道を歩いたのは必然だったと思うことが多い。努力をしたわけではない、導かれたのだとも思う。

自分がどうなるか大いに楽しみで、年齢的にはこれが最後の分かれ道。最後のチャンスはさてどうなりますか。

皆様の御多幸とご健康をお祈りしております😻nekotama