2025年6月5日木曜日

工事が終わって

レッスン室のドアはより防音効果が 大きくなって、隣家と隣接している窓も塞いで二重窓のガラスの真ん中に防音材を詰め込んだ。それだけでも今までとは本当に音のレベルが違ってきた。

長年壊れっぱなしでおいてあったオーディオ装置も外に出された。なんの役にも約立っていなかったチェストは玄関に追い出されてほんの少し家具が少なくなっただけでも響きが良くなった。あとは楽譜の整理、最も煩雑な仕事が残った。

楽譜はヴァイオリンを始めた当初からのものもあり、品質が悪く黄色く変色していて当時の日本の貧しい生活が忍ばれるというもの。それでも当時としては大変貴重で、戦後のいちばん大変な頃によくぞ買ってもらえたものと両親に感謝し続けている。私が21歳で入団した頃は、オーケストラの楽譜も手書きの楽譜が多かった。丹下吉三さんという写譜の名人がいて、オペラなどの膨大なスコアもことごとく写譜をした。

丹下さんのすごいところは書き直しがない。しかも譜めくりの箇所も独自の工夫でどのパートもうまく休符のところでできるようになっている。独特の筆致でひと目で丹下さんのものとわかる。まさに名手であった。今のように便利なインク消しとかコピーとかもない時代、気の遠くなるような仕事だった。丹下さんはちょっとお茶目で、弦楽器と違い管楽器などは一人で一枚の楽譜が独占できるから吹く人は決まっていて、その人だけが使うとわかると何かしらのメッセージが添えられていたりする。

その楽譜を使う人は、自分だけの貴重な楽譜と一層気合が入ると思う。丹下さんの楽譜はその後の急速な日本経済の発展とともに使われなくなったけれど、今でも私の蔵書に混じっていたりする。戦前からの日本のオーケストラの発展にはこういう人たちのご苦労が込められているのだ。捨てるに忍びないけれど、これも

楽譜の選別はなかなか難しい。カルテットの楽譜はたいていチェロのパート譜がかけている。整理を始めたはいいけれど、時には思い出にふけってしまったり、珍しい楽譜が出てくると試奏を始めたりで遅々として作業が進まない。床中に楽譜が敷き詰められて、いつ自宅に返してもらえるかわからない楽譜共はあくびをしている。

これらはあるべき場所に収まって、探せばすぐに取り出せるようにしたい。いつもレッスンの前に大騒ぎをして楽譜を探していると生徒たちは笑っている。先生の楽譜はしょっちゅう歩き回ってるんですよね、と。

全部引っ張り出してみたら同じ楽譜が何冊も出てきた。バッハのヴァイオリンコンチェルトなどは、数冊分、様々な解釈の違うものがあって、困り果てる。大合奏団が使うかと思われるほどの大量の弦楽アンサンブルの楽譜や、あらら、シェーンベルクの「浄夜」まである。これから先、いつ又この曲が弾けるのか、弾けたらいいなあなどなど・・・

人生の最終段階での貴重な数年間、つまらないトラブルに巻き込まれたことが返す返すも悔やまれる。しかし只今天中殺の真っ只中で来年からはもう明るい日々が待っている・・と思いたい。

多量の楽譜の整理は賽の河原で石を積む作業と同じで、整理すればするほど散らかっていくのが不思議。今や床に広がった楽譜の波に飲み込まれそうになっている。これが済んだらさぞ気持ちがいいだろうと、駄文を書いている暇にさっさとやれよと天の声が聞こえる。もう力がないのにこんなたくさんの曲が弾くけるわけないでしょう。それより私と遊んでよと猫の声。そうだにゃあ、でももう少し待ってと私の内なる声が。








2025年6月3日火曜日

気分は上々だけど

北軽井沢の庭にクリスマスローズがしっかりと根付いた。

久しぶりに北軽井沢に行って佐久平で美味しい蕎麦を食べ、浅間クリスマスローズガーデンを訪れた。佐久平は盆地なので夏は暑いらしいけれど、先日は少し霞がかった山々がぐるりと見渡せる高台にあるガーデンで心地よい風を受けて心あらわれる思いだった。

そこで癒やされた。初めてお目にかかったオーナーの穏やかな風貌と可憐な草花とは私にもう平常な世界に戻っておいでと語りかける。

去年私の森の家に植えたクリスマスローズは府中市にある農園のものだった。実に立派な株だった。見た目にもしっかりしていたので厳しい北軽井沢の冬を乗り越えることを疑いはしなかったけれど、木々の若葉が美しい今頃、こんなにもしっかりと育ってくれているとは期待していなかった。

今年はいつになく忙しく、北軽井沢に行くのがいつもの年よりも遅かった。見た目、庭は相変わらずボサボサで腐葉土が厚く堆積した土はなんの変化もないと思ったけれど、よく見ると植えて帰ったクリスマスローズの株の大半に花が咲いていた。この花は非常に地味で葉っぱと区別がつきにくい品種が多く、他の植物の影に埋もれてしまっていたのだ。しかし自分が植えた株がこんなに生き生きと根付いているのを見たときには本当に嬉しかった。

ここがまたこの花の特徴だけど、花が咲くか咲かないうちに摘んでしまわないと、株が丈夫に育たないのだという。それでは植える意味が全くわからないではないか。花だって咲いている意味がないではないか。種が落ちて繁殖することもできない。しかも株同士が密着しないほうがいいらしい。人間嫌いみたいな花なのだ。孤独を愛する人は多いけれど、花にもそんな性格があるとは思わなかった。

もっとすごいことに彼らは十分な太陽と水よりも日陰が好きで、乾燥にも十分耐えられるらしい。豊富な栄養も必要ないらしい。その彼らが生き生きと育ったのは、この森が長年手入れもされず放置されたことが良かったというしかない。

ノンちゃんが自然のままに放置したことが、この花々にとって最高の環境を作り出したのだ。彼女が生きていたらさぞ喜んだことと思う。返す返すも彼女がなくなったことが残念だった。

家の東側は庭の境界線の小川に向かって傾斜している。朝日はさすけれど、木々が茂っていて木漏れ日しか届かない。府中の農園主の女性がいったようにこの花は、日差しは木漏れ日程度、乾燥地帯でも厳しい気温の差にも耐えられる、雪も大丈夫、雪の下でたくましく生き延びるとか。

佐久平のガーデン主氏の言うことには、花は咲いたら切ってしまってドライフラワーにでもしたらいい。なんだか一生日陰で、こんな人生あり?それなのに欲しがらない、盗まない。清らかというか図太いというか、人の姿に変えて想像するに、筋肉質の自立した女性。声は柔らかなアルトでどんな境遇にいてもしっかり自分の足で立っていられるひと。素敵だなあ。

花々に心が癒やされて、そろそろ全快の兆しあり。もう過去は捨てようと思う。以前松本で街の真ん中にいても周囲に山が見えることに感激してこんなところに住みたいと思ったことが、今、半分実現できている。あとの半生を便利な都市部で暮らすか、毎日木々をわたる風音を聞き山を眺めて暮らすかそろそろ決断の時。

引退宣言以後、休んでいた演奏の再開を目指してリハビリ中ではあるけれど、最盛期のようには音がでない。それでも楽譜を読むに不自由はない。長年培った技術はそう簡単には忘れないらしい。

コンサート仲間からのお誘いもあって、私は不死鳥のように蘇るかもしれないのでその節はどうぞよろしくお願いします。












会長は亀?

 体内年齢が若い人がいる。老化は細胞の衰えに始まるらしい。ある種の人では細胞の老化が遅い。私達のスキークラブの会長の山田さんはその老化が特に遅いらしい。

ただいま90歳は超えて悠々自適、ピアノ調律師で日生劇場のバックステージ賞をとるなど、調律会の重鎮としての活動は知る人ぞ知る。90歳になる直前まで一緒にスキーをしていた。ある年、志賀高原で滑っていたとき、リフトから下りる通路でころんだ。これは本当に珍しく私は会長が転ぶのを見たのは長い年月でも初めてだった。

その後、会長がゲレンデの傍らで腕を組んで考えごとをしているのを目にして、ドキッとした。会長は自分を律するに大変厳しい人だった。ハチャメチャな連中と一緒に麻雀を楽しんでいてもよる9時には就寝、どんなに面白くてもきっちりと寝てしまう。他の人達は夜を徹してと言いたいところだが、よる年波で皆早寝になっていても会長ほどきちんとしてはいない。面白ければ夜中まで起きている。

会長は食べる量も決まっているようで、美味しそうに楽しそうに食事をしても過食で気分が悪いなどということは聞いたことがない。類まれな記憶力はだれもかなわない。細部にわたるまで覚えているので私達は彼の頭脳がどうなっているのか知りたい。転んでしまった直後会長はスキーをやめた。

そんな会長も最近は調律用の重たい道具を下げて電車に乗るのはできなくなったらしい。御本人がというよりご家族の心配が大きいらしい。私のピアノは何十年も彼の手で調律されてきた。なんとも言えない風合いで、鍵盤に触れると優しい和音が響く。弦楽器にとってピアノとのアンサンブルは戦いに近い。ピアニストは楽器の規模がまるで違うヴァイオリンに斟酌しない。ヴァイオリンは響きで音を飛ばさないとしっかり会場の片隅まで音がとどかない。

ピアノは鍵盤上を猫が歩いても音は会場中に届く。この違いが理解していただけないと良いアンサンブルは不可能なのだ。そのアンサンブルのために山田さんはあえて融通無碍に調律する。というより、ピアノの音階はヴァイオリン弾きにとっては理解できない。あ、その音もう少し高めにとか言いそうになる。オクターブを無理に12音に分けるので仕方がない。おや?と思っても、山田さんの調律は和音で弾けば深々と鳴り響く。まさに名人芸!そんな調律が好きで長年お願いしていたけれど、最近は重たい調律の道具を持って1時間以上電車に乗ってくるのはできないとおっしゃるので、ついに調律師を新たに探すことになった。

山田さんによれば調律は数学と深い関係があるそうで「サインコサインの世界ですよ」と聞いたときにはびっくりした。計算ずくでもあるのだ。ピタゴラスがやったらさぞ名人だったに違いない。山田さんが来られなくなったのでしばらく調律はほったらかしに。しかしそろそろ耐えられなくなって会長ご推薦の人をお願いすることになった。約束の日、ニコニコとして玄関に現れた人は明るく気さくなスタインウェイピアノの調律師のIさん。名門のピアノと私の家のピアノは雲泥の差と言われそうでかすかに緊張したけれど、でも友人たちが作ってくれたピアノ。作成に二年かかった。本体と鍵盤はヤマハ、椅子はカワイ、中身はベヒシュタインなど。

調律途中で覗きに行くと、新しい調律師に訝しげに「このピアノはどういうものですか」と尋ねられた。経緯を言うと「ああ、おもしろい、そうですか。いい音がしますね」ホッとした。私は友人が作ってくれたという理由だけでなく、本当に柔らかな音が好きなのだ。

二時間以上かけて調律が終わって、少し休憩をしながらIさんとお話をした。山田さんとくればスキー、彼も山田さんのスキー仲間だったというので私は嬉しかった。つい自慢したくて私が一番最後に買った板を見せた。これは北海道で作った「もく」というスキーです。白木の軽い板で、力がなくてゲレンデを担いで行くときなどは、私の分も先生が担いでくださるから気の毒で、軽い板にしたのだった。ビンディングも一番軽いものに変えても素早く滑る事ができる。そこらでお目にかからないから珍しがってフランスのヴァルトランスに行ったときにはよく質問された。「どこのスキーなの」と。

一気に話が盛り上がって、調律師はかえっていった。小手調べに鍵盤に触ると、抜けるような明るい音がする。これほど調律によって変わるかと思うほどの違い。今までアンサンブルだけで使ってきたけれど、久しぶりにソロが弾きたくなった。大好きなモーツァルトとシューマン。数十年ぶりにピアノを弾くと心が弾む。それから数日間、ピアノを練習したけれど、少しもうまくならない。

素敵だなあ、こんなにも違う二人の名調律師が私のピアノに関わってくださるとは。山田さんの調律は、深い森の中で木の葉のさんざめきや郭公の鳴き声などとともに安らぎを覚えるような、Iさんの調律は明るい5月の草原の輝きのような。

古い話になるけれど山田さんは、あの、ルービンシュタインから「モーツァルトの調律はミスター山田にやってもらいたい」と言われたそうなのだ。山田さんが調律を終えて気持ちよさそうにピアノを弾き始めると、軽やかで楽しげ。ドアの外でしばし聞き惚れたものだった。

人間は徐々に細胞が老化していくけれど、亀やトカゲなどは死ぬまで細胞が老化しないそうで、今その老化しない細胞の研究がされているようだ。するというと山田さんはもしかしたら亀だったのか。











2025年5月31日土曜日

ツンデレ

うちの、のんちゃんはツンデレ。元野良猫

ツンデレとはなにかとずっと思っていた。よくネットでお目にかかるので多分あんまり褒められたものではないと思っていたけれど、なんだ、簡単にツンツンデレデレの略だそうで、いつも私はのんちゃんにツンデレされている。ずっと意味謂がわからずやっとAIに教えてもらった。

のんちゃんは元野良猫。それも筋金入りの。きれいな毛並みのハチワレ乙女だった彼女もすっかり年をとって、家で寝ていることが多い。お兄ちゃんのグレちゃんはご近所の人気者で皆さんに可愛がられているけれど、のんちゃんは好き嫌いが激しくて人馴れできない。
人間もそうだけど、おおらかな性格は本当に幸せなのに、気難しいと苦労が多い。警戒心が強くて出会った頃は決して数メートル圏内に入ってくることはなかった。

それでも毎日餌をやっているうちに、最初は尻尾に触らせ次は鼻先を近づけというようにセンチ刻みで近寄ってきて、このあたりで彼女にさわれるのは私だけとなった。彼女を抱っこしていると通りすがりの人達が「あらまあ、よくだっこできるわねえ、この子は絶対に触らせてくれないのに」これはちょっと嬉しかった。きっと皆さん衛生面のことから触らないようにしているからだと思うけれど、野蛮人の私は動物に平気で触れる。多分免疫力が半端ないと思うので。

野良猫はバイキンの巣窟。でも彼女は見た目、すごくきれいでよごれていない。もしかしたら飼い主がいるのではと思うほど。長い時間をかけてだんだん警戒心が解けて今は私と同じベッドで寝るようになった。

私が野良猫でも平気なのは子供の頃から動物と慣れ親しんできたせいだと思う。実家にはいつもたくさんの動物、小鳥や鶏、アヒル、猫は入れ替わり立ち替わり、野良犬もくる。金魚や鯉、ネズミからヘビ、ヤモリ、トカゲ、ゲジゲジに至るまで、もう数え切れないほどの野生動物が共存していた。決して山の中の家ではないのに、家族がたくさんいて良く言えばおおらか、よく言わなければズボラでだらしない。こういう家は子供と動物には天国なのだった。兄弟が多いのにそれぞれ自分の動物がいて、これでは増えるのは当たり前。

北軽井沢に初めて行って前の持ち主のノンちゃんの家を見たとき、私の実家の裏庭にそっくりだと思った。前庭は祖父が風流人だったので大きな松、牡丹や躑躅の大株や珍しい植木が植えられ池もあってちゃんとした庭があったけれど、裏庭はあまり手入れがされず私の縄張りになった。

竹藪、群生する枇杷の木、葡萄棚、月下美人が怪しく咲いてボサボサ。面積は前庭より更に広く、子どもの空想力を高めるにはうってつけの環境で、一人遊びの好きな可愛げのない子どもの秘密基地、お稲荷さんには狐様がいて古い井戸があって・・ちょっと身震いが出ますよね。その裏庭には戦後のドサクサで誰かが住んでいた。家人も全く知らない人でテントを張って。親は呑気で追い出そうともしない。しかも家の廊下にも居候のなんとかさんが寝起きしていたし。
子沢山で親の目が届かないところで何があってもおかしくない。よくぞ大人にまで生きながらえたものと思う。

ノンちゃんの家を見てすっかり気に入ってしまったのはこのせいだった。ノンちゃんも自然のママが好きで庭木の枝は伸び放題、葉のしげるまま。「いいわねえ、実家の庭そっくり!」ひと目で気に入った私にのんちゃんはこの庭を託してくれたのだった。

私の裏庭遊びは小学生の間ずっと続いた。蜘蛛の巣が張られるのをじっと見たり、木々の梢が空に広がってコジュケイの鳴き声が聞こえたり、その中で動かず頭の中だけで想像力を膨らませた。そんな私は傍目に気持ち悪く、小学校3年生のときの担当教師は「子供らしさがなく可愛そうです」と通信簿に書いた。それを読んだ私は激怒した。もともと大っ嫌いな教師だったので絶対に懐かなく、父親が心配してその教師に相談したふしがある。子供らしさ?なにさ、それ。

その教師の前では私は大変な問題児となって、でも、今思うに、その教師が問題だったのではと思う。もし皆さんの周りにボーっとして傍目わけがわからない子どもがいても放っておいてください。私はずっと様々な観察と考え事をしていた。それがおとなになってからどれほど役に立ったことか。特に私を音楽に導いてくれたのもその御蔭だったと思う。父は私が考え事をしていると嬉しそうに「今なにを考えてるんだい?」と訊いてくれた。「なんか面白いことだろう」と。父と私はそっくりなのです。

そしてうちののんちゃんに戻る。のんちゃんは賢こすぎる程で、その分神経質で警戒心が強い。私にも本当に気を許してはいない。けれど、情が深く本心は甘ったれ。それが様々な場面でツンデレとして現れる。私がパソコンに向かって作業をしていると甘えたくなって膝に乗ってくる。デレデレとしてから愛情の発露で爪を立ててくる。それが痛い!爪を外すようにすると嫌な目つきで睨んでくる。それが怖い!

挙句の果てはバリバリと爪を立てながら膝から降りて怒りながら向こうへ行ってしまう。ツンツンして。これがツンデレだそうで、今まで意味がわからなかったのはどうしてかしら。もっと難しい表現かと思っていたので。人は単純でないといけない。
































2025年5月26日月曜日

相馬野馬追い

相馬野馬追いがテレビで報道されて、おや?と思った。なんだかずいぶん早くから取り上げているのね。いつもは梅雨明け前後に催されるのに、なにかの特集でも?と見ていたら、馬の健康状態を考えて涼しい中に行うようになったらしい。いや、馬と人の健康という方がいいかもしれない。

今から40年ほど前には毎年のように原ノ町の親戚の家に泊まり込んで見ていたので、暑い日差しと馬の疾走はセットになって思い出となっている。たしか6月か7月の最後の土日ではなかったかと思う。

私は馬が好きで本当に飼いたいと思っていたので、ここの親戚に行くのは馬の飼える場所を探していたから。馬を飼うために山一つ買って、いずれは私もそこに住もうという予定だった。しかし、当時のわたしの仕事は多忙を極め、馬どころか自分の身体を健康に維持するにも手が回らなかった。原ノ町の親戚は土地探しに付き合ってくれたけど、なかなか思うように決まらず断念した。

その家の前の大通りが野馬追の騎馬武者行列の通り道だった。農耕馬の太い足と穏やかな顔が可愛くてたまらない。この辺の殿様は相馬さま。ある年には、まだ大学生だった相馬家のお世継ぎが行列の先頭で馬を走らせていた。そのお坊ちゃまは、ほうぼうに親戚や土地の有力者や何かを見つけて、馬上から挨拶していたのがおかしかった。御殿様が「あ、どうもどうも」なんて、可笑しいでしょう?しかも茶髪のよく似合う若者だった。

圧巻は競馬。広場で行われるので少し早めに行って待っていると、遠くから異様な物音が聞こえ始めた。馬の蹄の音とも違う、今まで聞いたことのない音、遠くから馬の軍団がかけてくる。その物音は長い竿に取りつけられた旗が風にはためく音だった。旗が起こす風音が集団となって、地の底から湧き上がってくるような異様な音になる。近づくと馬の蹄の音、甲冑を着た武者姿の騎手たちの雄叫びの声。体を揺さぶられるようななんとも言えない響きに圧倒される。

馬の速さを競ったり、花火のように打ち上げられた布(タスキ?)なんという物はわからないけれど、長い布を奪い合って、それを手に入れた者はゴール地点へ向かう急な階段を駆け上がる。雄叫びの声や歓声や興奮は一気にクライマックスへ。今年は女性の騎馬武者も活躍したようだ。

結局馬のための山は見つからなかったけれど、そんなことをしていたので今私がノンちゃんから譲ってもらった北軽井沢の土地が手に入ったというわけ。でも北軽井沢の別荘地では馬は飼えない。管理人さんいわく「ま、犬までですね」

乗馬が大好きで千葉のクラブまで暇があればせっせと通った。馬の目は長い睫毛に縁取られ、体温が高いので触ると温かい。乗馬が終わって馬に水をやり、蹄の裏についた泥をかきだす。その間、こちらは後ろ向きで脚を持ち上げて泥をこそげ取る。次は反対側に回って自分の体重を馬の腹にかけて、馬の脚を浮かせて同じことをする。その間大人しければいいけれど、おちゃめな馬はいたずらを仕掛けてくる。時々カプッと二の腕を噛むこともあった。馬はそっと優しく噛んだつもりでも、しばらく青紫のアザが残ることも。それでも可愛くてたまらない。

乗馬が大好きで千葉のクラブまで暇があればせっせと通った。スキーと乗馬は未だに夢に見るほどなのに、もう今はできなくなって残念。年を取ると諦めなくてはいけないものが増える。賢い人はそこで老境に満足して穏やかに過ごせるようになるのに、私は未だ煩悩が消え去らず、欲深なのが困ったことです。





2025年5月23日金曜日

しっかりしなさいよ

 今年は仕事をやめた宣言をしたから、もうすっかり暇になって悠々自適と構えていたら、とんでもない誤算。まず、より美しい終焉を迎えようと企てたことで大忙しとなった。

北軽井沢を終の棲家にするか、都会で便利生活を楽しんで終わるかの決断はついていない。北軽井沢の森の生活はここ最近すっかり様変わりとなった。私の家の周りは定住している人が多いらしく、夜になると煌煌と電飾が点く。以前は怖いほど真っ暗だった森が陽気に様変わり。我が家の先住者のノンちゃんが生きていたら、さぞがっかりしたに違いない。

でも私は人の気配があるので以前のように緊張感がなくなった。どちらが良いかといえば静かな森がいいけれど、夜中にあまりの暗さと寂しさで心細く思うこともある。電飾の家はそうしたいならもっと都会でやったら?とも思うけれど、人それぞれで文句は言えない。周囲の4,5軒が毎日夕暮れになると明かりが灯る。

特別お付き合いをしたいとも思わないけれど、今朝、初めてご近所さんと会話を交わした。自宅隣の土地を購入して広々とした庭に改造中の男性は、造園業の職人さんを使って庭作りを始めた。私の家はノンちゃんの代から森の木には手をつけていない。伸ばしっぱなしの原生林の面影が濃く残っていた。

もしノンちゃんが木の手入れをもう少しやっていたなら、私は楽にしていられたのにと思う。なにしろ家の玄関ドアを開けると樹齢の見当もつかない巨木がそびえ立つ。この木こそノンちゃんが愛した自然のシンボルなのだ。繊細でいながら勇敢でおおらかなノンちゃんの人柄そのもののような。

それは素晴らしいのだけれど、ここの生活を始めて知ったのは、木の管理ってすごくお金がかかるのだ。 なにしろ樹齢の古い木は枯れ枝も巨大で、折れて落ちたら人や車に甚大な被害を及ぼす。私は神経を尖らせて点検に暇無い。家の屋根のはるか遠くの空に伸びる木の枝は高所作業車の厄介になるため、特に費用がかかるのだ。

枯れ枝の落ち方もダイナミック。ドシーンと夜中に音がして飛び起きた。朝庭に出たら、この巨木に寄生をしていた直径5センチもあろうかという太い蔦が数本まとめて落ちた音だった。これだけの太さになるには数百年もかかったに違いない。それを私がある日まとめて木の根っこの方から伐って枯れさせたのだった。こういう自然のダイナミックさを見てきたから、どうも電飾はいただけないと思っている。チャラくなってしまうもの。なにも森に住まうこともないのにと、ブツブツ・・・・

木にお金がかかるから私の家では造園に回すほどのお金はない。それで庭はふり積もった落ち葉の自然の腐葉土がフカフカと積もっている。それを取り除くときれいに苔むしたりして風情ある庭になる。私はノンちゃんと同じ考え方だからそれらを活かした庭にしたい。きれいに花のさく花壇にしたい。でもあまり手入れが行き届いた作られた庭は面白くない。

土地の条件をそのままにできる植物は何かと考えて、クリスマスローズが第一候補に上がった。去年府中市にあるガーデンを訪れて30株ほど手に入れた。この変わり者の花は性格は強く変わり者で一癖も二癖もある。花は地味で日陰を好む。太陽や水はそれほど欲しない。花同士が密着したくない。しかも条件によってどんどん色やはなの形を変えるという神秘に満ちた種類なのだ。

去年植え時のチャンスを逃して遅れがちになったので育つかなあと危惧していた。しかも森の土壌は腐葉土で根がしっかりはれないかも。木が多いからほとんど日陰という植物には条件が悪すぎる土地。

数日前、今年始めて北軽井沢に行くことができた。真っ先にクリスマスローズの植えられた場所にいった。驚いたことにひどすぎる土地の条件からは考えられないほどしっかりと根付いて、ツヤツヤと葉が輝いていた。なんて天邪鬼な花なんだろう!特に半分以上日陰の場所はクリスマスローズ天国らしい。見事に花がいっぱいついていた。しかし面白いことに、その花は咲いて種の袋ができる前に切り取ってしまわないといけないという。そうでないと株が弱ってしまうらしい。

株同士が近寄りすぎるのも警戒事案だそうだ。要するに人間嫌いの人が他人と交わりたくなくて距離をおくようなもの。しかも花の色も徐々に変わっていったり、日に当たりすぎると弱ってしまうらしい。そういう人はよく見かける。私自身にもそんな面がある。

ヴァイオリストの北川靖子さんとは仕事も遊びもよく一緒だった。彼女は私より年下だったけれど数年前に亡くなってしまった。自分の命が尽きることを察していた彼女と、亡くなる直前まで二人で旅行をした。唐招提寺、東大寺、京都御所などなど。東大寺では仏像が公開されていた。私はそこで出会った多くの仏様に北川さんのあの世の旅路の安らかなことを祈った。本当はこの世でもっと一緒に歩きたかった。でも私にも実際のことはわかっていた。私達は黙っていても、もうこれがお別れと察していた。

北川さんはちょうどクリスマスローズみたいなところがあった。激しい治療の激痛に耐え、愚痴もこぼさず平静さを保っていた。入院すると毎日メッセージが届いた。コロナのさなかお見舞いにも行けず歯がゆい思いで毎日メッセージをおくった。そしてある日ふっつりと返信が途絶え、訃報をきいた。

優秀で実力があるのに地味で威張らない。常に冷静で泣き言一つ漏らさず、ユーモアの感覚が抜群で、ときに楽しげに笑っていたひとだった。時々急に電話がかかってきた。「今日ひま?上野の博物館にいかない?」とか。

彼女が受けた治療内容の壮絶さを聞いたときには、言葉を失った。それを淡々と話す彼女の強さを今でも思い出す。ちょっとしたことにもすぐに泣き言を言う私とは大違い。今彼女が生きていたら静かな声で「しょうがないじゃない。しっかりしなさいよ」とでも言うかもしれない。











2025年5月17日土曜日

うるさい車

車の運転が大好きでもう運転歴60年、無事故で通してきたけれど最近は怖いことばかり。

無事故と偉そうに行っても、時々電信柱がすり寄ってきたりして擦る程度のことは数回。違反も少々。免停は一度。スピード違反で罰金6万円もとられた。キャイ~ン!

でも昨今の交通事情はなにをかいわんや、異様なことが多すぎる。人に怪我させて逃げる。わざと子どもの群れに突っ込む。悪質なあおり運転。

車が売れなくて自動車会社が窮地に陥っている。でも、これわかる。こんなに自動車がつまらなくなったのはあなた達のせいよと言いたくなる。私が乗るのは当然ながら安くて小回りのきく小型車。もっと上等なのに乗れば違うのかもしれないけれど、大きな車は自分の身体のサイズ(特に足の長さ)に合わない。

初めて免許を取ったときは車種が限られていたから、大きなセドリックで教習と試験を受けた。外側から見ると私はステアリングの下に顔があって、無人自動車ではないかと思われた。今の車みたいに運転席の調節も限られていたから、座布団持ち込みで教習に通った。たしか教室側にも用意があったと思う。たまたま自宅にあったのもセドリックだった。

そんな時代だったから今のように小うるさく、シートベルトしろ、白線はみ出すな、前の車に気をつけろのなんのかんの、車は無駄口をきかなかった。マニュアル車が普通だった頃には、時々エンストしたりガス欠したり、でも全ては自分の責任だった。シフトレバーを選ぶのも自分で、その頃の山道の運転はほんとうにおもしろかった。

今時の車は助手席にスイカを2つ乗せたらシートベルトをしろという。このものたちがシートベルトをしないで事故でもあったら、割れて真っ赤な汁が出て救急車を呼ぶとでも思っているのかしら?うるさすぎて腹が立つ。ドライバーを信用しない、運転中の集中力を妨げる、余計なお世話ばかり。いかにも親切ぶってとどのつまりは事故に責任持たない。うるさく言うなら最後まで事故を防ぐ仕組みでないといけない。最終的な危険回避に責任持つ自動運転車でないといけない。

バッテリーが上がったことがあった。ある猛烈に暑い夏の日、北軽井沢に出かけて一夜明けてさて、出かけようとエンジンを始動させようとしたらかからない。まだ新車で買ってから1年ほどの頃。

もちろんバッテリーがそんなに早く減るわけもなく、半年ごとの定期点検もバッチリ。自動車会社に電話した。北軽井沢は軽井沢の隣だから車屋さんも多いし、同じメーカーもあるはずだからそこからレッカー車を回してもらえると思ったらとんでもない。JAFを呼べという。たしかその会社の保険に入るときにJAFと同じサービスが受けられると聞いたのに受けられない。軽井沢の支店に車を引き取りに来てもらえないかというと、それもできない。

なんとレッカー車はJAFの群馬支部から来るために4時間もかかって到着。バッテリーについては私がヘッドライトをつけっぱなしにしたとか自己責任みたいに言うけれど、この車はエンジンを切ればヘッドライトは一緒に消える。室内灯をつけてあったのでは?とか言うけれど、室内灯はよほどのことがない限りほとんどつけない。それにあの真っ暗な森の中で灯りがつけっぱなしだったら気が付かないわけがない。

その日はあまりの高温で、方々でバッテリーの異常な故障があったと聞いた。それをドライバーのせいにするなんて!高温とバッテリーの関係についても説明はない。だんだん不信が募ってきた。

ある時、定期点検で私は整備士に頼んだ。タイヤのバランスが悪いから空気圧を同じにしてほしいと。高速を走るから危険のないようにと言ったら、いかにも意外と言わんばかり「え、高速を走るんですか?」こんな婆さんが4時間もかけて自宅と北軽井沢を行き来しているとは思わなかったらしく、鼻で笑う感じで答えた。車を受け取って自宅に帰るときに整備が甘いなと感じた。やはり少し何かが違う。本当に空気圧を点検したの?まだ、それほど重大には考えていなかった。

しかしそれからも車のバランスが悪い。徐々に運転しづらくなっていく。おかしい。もう一度空気圧の点検を頼んでしばらくするとまたどうしても変。本当に空気圧点検したのかなあ。3回目には非常に強くタイヤを見て頂戴というとやっとタイヤの穴開きが見つかったという。穴が小さかったから少しずつ空気が減っていく。でもプロの整備士がそれに気付かないとは考えられない。やはり私が言う言葉を信じなかったのではないかと思う。年寄りのひがみかなぁ、これって。

あとからヘラヘラとお世辞混じりに「あんな小さな故障に気がついたのはnekotamaさんが毎日運転しているからですよ」とか。でもね、安全に走るために必要なのは、まずブレーキとタイヤ、足回りの整備。整備不良車で事故起こしても年齢のせいにされたらかなわないわねえ。もしかしたらアクセルとブレーキ踏み間違えとされた事故の中に整備不良車も混ぜて考えないといけないのでは?

そんなわけで数年ごとに新車に乗り変えられるシステムがあって、今回もすすめられたけれど、もうそれは使わない。私はそもそも新車に乗りたいわけじゃない。大事に車と向き合って会話しながら馴らして行きたい。それなのに、ああしろこうしろ、うるさすぎてかなわない。誰がこんな車作ろうなんて頼んだ?本当に運転好きなら物言わぬ車のほうが運転に集中できるのに。だから車が売れなくなるのだわ。

それよりも整備よろしく。高齢者ドライバーが気がつく程度のことをプロの整備士が見逃すなんてねえ、世も末です。