2024年4月18日木曜日

野良に噛まれる

 コロナを患って予後がよくない。なにか体力のすべてが消えてしまったような、生きる気力をなくしたような、これで何歳まで生きなきゃいけないの?みたいな虚無感に襲われる。眠ってばかりいる。

家にいるから猫が喜ぶ。特に野良はまだ元猫との関係がギクシャクしているから私がいることで保護されて安心できる。家に来始めた頃から野良はすごく変わった。それまで遊ぶということを知らなかったから、猫じゃらしでじゃらしても怯えてしまう。ボールを転がしても意味がわからないらしく追いかけようともしない。ちょっと手を頭の上にかざすと逃げ出す。遊んでいる余裕はなかったのだ。ひたすらその日食べるものと温かい寝床を求めてうろついていたのだから。

家に入るようになってから3ヶ月ほど、私の膝によじ登ってくるようになった。しっかりともたれかかって嬉しげに喉を鳴らす。そのうちだんだん感情が高まってきて・・・がぶり!

脛に歯型ができる。腕を噛まれる。彼女の精一杯の愛情表現なのだ。そして最大級の噛み傷ができたのが数日前。たぶんお腹が空いていたのだろう、しきりに私の膝で腕を甘噛してきた。そのうち興奮状態でだんだん激しくなったので、床におろした途端スネをがぶりとやられた。傷が深いのはよくわかった。

翌日スネが腫れ上がったので病院へ行った。最近見つけた家近くの病院。最初に行ったときに先生が気に入って私のホームドクターになってもらおうと思った。そのときは患者さんが大入りだったけれど、その日はがらんとして患者の姿はない。見回せば診察室やリハビリルーム、処置室など設備は整っているのに医師は一人、看護婦一人受付二人と人手不足状態。どこも厳しいのだ。

そして先生は先日の楽しげな人でなく、少し憂鬱そうな初老のおじさん。あらあら、残念、お疲れのようだ。脛に傷持つ身の私はふくらはぎがだんだん腫れていくのが憂鬱。猫の爪や牙は鋭く、特に若猫は力任せに襲ってくる。近所中をうろついて泥の中を裸足で歩くから爪のカーブの裏側や牙には毒がある。猫による傷は「猫ひっかき病」と言って恐れられている。

前日の傷はすでに10センチあまりに赤みが広がっている。その傷を某研究所の医師に見せたら「腫れたら危ないから必ず薬を飲むように」とアドバイスを受けた。その先生の専門ではないので他の科で受けるようにと。なお「腫れて化膿したらその部分をくり抜いて薬を入れないといけない」と手真似でメスを入れる仕草までして。外科の医師は本当に切ったはったが好きなのかなと思う。優しそうな顔した若い先生だけど。

近所の医師は傷を見るなり抗生物質と胃腸薬を処方して、なお言うには「破傷風の予防注射もしておいたら」と。破傷風?おお、怖い。でも少し大げさではないかな。却下して診察室を出る。処方箋の待ち時間にもう一度看護婦から声がかかった。「先生がお話があるそうです」

先生はまた諄諄と語りかけてくる。「やはり破傷風の予防注射をしておくのをおすすめします」破傷風の怖さは子供の頃読んだ本で知っている。未だに忘れられないほど怖かった。けれど、もう間もなく人生の終焉を迎える身としては今更死ぬの生きるのは神様にお任せしたい。予防注射の後遺症のほうがよほど怖い。しかし、待てよ?

急に北軽井沢の庭作りの事が頭を過った。これから広い庭の方々を掘り返すのだから、どんな黴菌が巣食っているかわからない。特に手つかずの森林を20年ほど前に伐採してノンちゃんが建てた家。原始から住んでいるバイキンに溢れているに違いない。一昨年漆にかぶれてひどい目にあったことを思い出した。もしかしてこの先生の言う事を聞いておいて良かったと思えることがあるかもしれない。先生曰く「狂犬病の予防注射よりはよほど必要性があります」

狂犬病の予防注射は今から20年ほど前、チベットに旅行する前に受けた。そのときはチベットでチベタンマスティフと出会って噛まれたらという心配からだったけれど、実際のチベット犬はおっとりとしてもふもふの巨きく穏やかな犬だった。悔やまれるのは写真を撮ってこなかったこと。犬と一緒に写真が撮れる場所があって、そこの犬の飼い主のあまりにも貧しく悲しげな様子に泣き出しそうになって、その場を離れてしまったのだった。撮影費用だって僅かなものだったろうに、飼い主と犬の食事代になったであろうに。

チベットに行ったのを思い出すと未だに後悔と悲しみが襲う。なんとかできるものではない。あの国の人々は貧しくとも自立していた。それを中国が踏みにじった大きな波は私ごときのどうにもできることではない。無力感がいつも私に涙を流させる。

その時私に出された食事は羊の臭くて硬い肉、それでもあちらではごちそうなんだと思うと一口かじってあとは喉を通らなかった。広大な湖の広がる人通りのない道を五体投地でラサに向かって進む人の姿があった。何日もかけて膝を擦りむいてたった一人、疲れ果てラサまで到着できないかもしれないのに。それほど現実が厳しいということなのだ。

私を噛んだ野良はしっかりとそれはいけないと私に叱られた。もともと賢い野良は一度でそれを学んでその後囓みたくなると私の顔を見る。だめというと甘噛してすっと離れていく。人間の子供よりよほど聞き分けがいい。













2024年4月17日水曜日

春の四重奏

 富山県朝日町に春の四重奏を見に行った。聞きにではなく「見に」です。

アルプス山脈の雪の白、桜の桃色、菜の花の黄色、そしてチューリップの赤の四色で奏でるハーモニー。それが重なって一緒に見られるのが朝日町で新幹線の富山宇奈月温泉駅から車で約30分ほど。

前日は軽井沢のY子さんのマンションに泊めていただくことにして、夕方軽井沢到着。食事のあとすごく上手な整体師がマンションに来てくれたので施術してもらいぐっすりと眠ってしまったら、次の朝は目覚ましのアラームの音が聞こえないくらい熟睡した。

次の朝、軽井沢から富山宇奈月温泉駅まで約1時間20分、始発に乗って富山宇奈月温泉駅到着は8時55分。そこから富山県人のKさんの車でいざ出発。ちょうどその日が朝日町の桜の満開日だそうで道々あちこちに桜の群生が見られてのどかな田園風景と相まって眠気を誘う。晴れてはいるけれど薄く霞のかかったような天気模様で、すべてが平和。

北アルブスは雪で白く桜は満開ではあるけれど、手前にあるはずのチューリップはまだ咲き始めたばかり。畝ごとに色分けして植えてあるので、赤は咲いているけれど、他の色はまだ蕾が固く閉じられていた。ところどころ黄色が咲き始めている。これが一斉に開くということはなく、色ごとに時期によって咲いていたり散ってしまったりするらしい。それは植物だから訓練しても一斉に咲くということは無理なので、なるべく一緒に咲いている時期を狙うしかない。

しかし広い!空が全部見える。富山に来るといつでもそう思う。富山駅の周りは流石に高い建物があるけれど、郊外に出れば畑と海と山、人々の口調もどことなく雅で、先日高岡の市内を歩いていたら大伴家持の子孫に出会った。つれが「あ、大伴さんだ」と言うから素早く振り返ったけれど残念ながら見えなかった。家持の子孫だからといって特別なお顔でもあるまいが、でも見たいじゃないですか。

昔の北陸の漁港は賑わっていて、北海道まで魚を積んで行って昆布を引き換えに積んで帰ったそうだ。それで巨額の富を得た商人たちが、派手なお祭りの山車を寄贈して今日までまつりが残っているというわけ。新幹線が伸びて東京からも一直線で行ける。時間も短縮された。昔富山に行くのは飛行機が主だった。河川敷の飛行場に手に汗を握る着陸を楽しんだものだった。着陸地点の少し前の交差する道路に橋がかかっていて、飛行機の車輪が引っ掛かるのではないかといつもヒヤヒヤした。一度ならず、強風で着陸がやり直された。正しく着陸されるとホッとしたものだった。

だからといって怖いとは思わない。けっこう好きな空港の一つだった。新幹線の延長でその楽しみが一つ消えた。どうやら私は飛行機が非常に好きらしい。広島空港から飛び立って10分ほどで飛行機に落雷があったらしい。その後機体は激しく乱高下、それでもあまり怖いとは思わず読書に没頭していたことも。メキシコの黄色い飛行機「バナナ」滑走路に向かって斜めに傾きながら突っ込んでいく。車輪が滑走路に接触する直前でいきなりまっすぐに姿勢を正してドカンと着陸、笑いながら楽しんでいた。真冬の稚内、猛烈な吹雪の中で着陸するのもスリルまんてんだった。

怖いもの見たさの野次馬根性の持ち主なのに、のどかに花を愛でる様になってきたのは歳のせいなのか。今レッスン室はクリスマスローズの鉢植えで埋まっている。先日花郷園で買ってきたものの北軽井沢に行く時間がなかったので家に保管してある。床に新聞紙を敷いて鉢植えの花が20個、ベランダに出して日光浴をさせたり、水をやったり、よく見ているとコンディションがわかる。なかなか手がかかるけれど、可愛いものだと最近は植物にもハマりそう。

猫は絶好調、餌やトイレの習慣などが変わったら、数年前にはもう死ぬと思っていた百歳超えのヨボヨボ老猫が蘇った。すごい勢いで餌を食べ、あとから入った野良猫を威嚇し、その猫の食べ残しを食べる。これは予想だにしなかった。後ろ足を引きずりながらも野良を威嚇する貫禄はなかなかのもの。のらも賢くて威嚇されても私は今ここにいませんよみたいに空っとぼけて不動の姿勢をとる。両者ともにたいした役者なのだ。

春の四重奏を見たから来週から北軽井沢に大量のクリスマスローズを運んで庭作りを始めようと思う。野良は北軽井沢初逗留、果たしてうまく行けるかどうか、今からハラハラ・ドキドキしている。飛行機は怖くないけど、猫のご機嫌取りは怖い。果たしてうまくいくだろうか。














2024年4月4日木曜日

クリスマスローズ

 府中にクリスマスローズの栽培で有名な農場があると聞いて、一度は行ってみたいとおもっていた。花郷園という。

www.kagoen.co

北軽井沢の殺風景な庭はやたらとだだっ広く、厳しい気象条件で花を植えればすぐ枯れる。なにを持ってきても根付かない。落ち葉のフカフカとした堆積は腐葉土のようでいかにも植物に良いようでいて、ある種の植物に良くても他の植物は受け付けない。本当に手の焼ける地面でやっとビオラやパンジーのスミレ類がショボショボと年を越してくれる。私のような非力なものはスコップで数か所穴をほっただけで息が上がってしまう。去年から今年の冬はあちらで越冬するつもりだったけれど、諸般の事情でできずにいたから一体庭がどうなっているかは考えるだけで恐ろしい。

昨日やっと体調も回復の兆し、雨がしょぼ降る中、車を走らせて府中へ出かけた。道路沿いに温室がならんでいる。建物に近づいて中を覗いても閑散として、呼びかけても返事がない。漱石の「道草」の冒頭を思い出した。

しばらく彷徨いていると別棟から女性が現れた。見るとホームページに載っていた花郷園の社長さんだった。髪の毛を後ろに束ね、化粧気がないけれど美しいお顔。スラリと背が高い。北軽井沢の気象条件や日照時間、季節の変化環境などを話して庭の写真を見せると、本当にぴったりの条件でクリスマスローズに適していると。

どこにでもへそ曲がりはいる。花の世界での変わり者はクリスマスローズ、ほったらかしにしても気温の変化も耐えられる、多年草で丈夫、冬の雪の下でも枯れかけても春には生き返る。しかも花は多彩で様々な色の変化が見られる。まさに無精者のためにあるような花なのだ。非常に生命力が強いのでほったらかしにしてもどんどん繁殖するそうで、しかもこの農園のクリスマスローズはそこいらへんの園芸店においてあるものとは雲泥の差、茎が太くまっすぐにしっかりと立っている。

たまたま即売会のイべントが終わったあとで、あまり残ってはいないけれど、その時の値段で譲ってもらえるとのことだった。ラッキー!!あれもこれも欲しいけれど数年経って庭中がクリスマスローズになってきたときに押し合いへし合いにならないように、少し間合いを取って植えるようにとアドバイスを貰った。

車に積むと座席は全部埋まって、これで二匹の猫を連れて行けるのかと心配になってきた。二匹は仲が悪いからケージは2つ、どうやって載せられるか頭が痛い。乗用車でなく軽トラックを買えばよかった。

不思議なことにクリスマスローズは親株から発生した次世代株が親の花とは異なる花が咲くらしい。中にはバラかと見紛う華やかなものから可憐なすみれのようなものもある。

らしいというのは私はまだこの花を育てた経験がないからで、なんという親子関係なのかと不思議に思う。
動物なら大きな馬からネズミは生まれないでしょうに。
とにかく丈夫でたくましいらしい。
形も色も様々で寒さに強い。
雪の中で隠れていた根っこを掘り起こしてみると再生するらしい。
最近やっと植物にも興味が湧いてきた。今までは動物は可愛いけれど植物はちょっと苦手だったけれど。
様々な性格の植物があって世界中に花が咲く。
植物は平和そうに見えるけれど本当はかなり策略家で獰猛なものもいる。
それが動物とも重なるところが面白い。













2024年4月3日水曜日

手が震える

 先日仲間の集まりがあって様々な問題点の話し合いがあり、食事をしながらビールを飲みながらの雑談も始まり、オーケストラ時代の思い出などで盛り上がった。オケに入ったら弓が震えてと手真似で言う人がいた。彼は先日リサイタルで素晴らしい名演を聴かせてくれた人だった。

オーケストラというところは巨大な演奏家の集団で、われこそはと思う人たちが集まっているのに抑制され集団で演奏するため周りとの協調性が必要とされる。それで生じるストレスは相当なもので、緊張のあまり弦楽器なら弓を持つ手が震えて止まらなくなったり、管楽器なら唇に力が入って音がひっくり返るなどの恐ろしい現象が起こるともう大変。当分の間夢にまで出て悩まされることに。

それは難しいパッセージなどでなく単に音を伸ばしているときに現れるから、その癖があった頃の私は二分音符以上の長さの音符を見ると青ざめたものだった。長く弾く音符は二分音符、全音符などオタマジャクシの頭の部分が白抜きで、大抵はそれにスラーという記号がついていてピアニシモで数十秒間とか続く。それはそれは数十分にも感じられるほどの恐怖だった。

それを克服するために様々な練習と人からの助言と自分のコントロールによって今はもう現れないけれど、それまでにどれほど悩まされたことか。あるベテランチェリストが演奏が終わってステージ袖に引っ込むときに「震えちゃったなあ。これでまたひと月はだめだなあ」とつぶやいていたのを聞いたこともあった。ああ、この方も?こんな有名なチェリストなのに。クラリネットの大先生も「またキャアって言っちゃったよ、あーあ」とつぶやきながら帰る。

それは技術よりもメンタル面のことだから、どんな上手い人にも一度現れたら当分の間取り付いて離れない。先日の話し合いの中でオーケストラ時代に弓が震えた話が出た。一度震え始めたらこの世の中に自分だけたった一人、恐ろしい孤独感に苛まれる。それは聴衆よりも身内のプレーヤーに対する恥ずかしさであり、ある有名なコンサートマスターはオーケストラの中でのソロが一番怖いと言っていた。

私といえばカナダとアメリカ西海岸、メキシコの演奏旅行の際、黛敏郎さんの「舞楽」という曲のはじめにたった一人で長い音を弾き始めるというポジションを与えられて難儀したことを思い出す。そのポジションはセカンドバイオリンのトップサイドであり、普通ソロはコンサートマスターが受け持つのだけれど黛さんはなぜかセカンドのトップサイドから始めるように意図して書いたのだった。

その時私はずっとファーストヴァイオリンを弾いていたのに、わざわざその場所に行くようにと言われたのだった。よほど私が図々しく上がることなどないと思ったのか、指揮者やコンマスからの指示となった。私は本当のところひどい上がり性だったけれど、アメリカの演奏旅行に行く直前の定期演奏会で同じプログラムで弾いたときには震えることなく弾けた。

そして生まれて初めての海外への演奏旅行、なにもかも緊張の連続だった。悪いことに当日バンクーバーのテレビ局がやってきて録画があるという。そして始まると私の弓を持つ手元のアップから始めるのだった。もう震える条件満載、弓を弦に乗せるとカタカタと到底長い音とは思えないスタッカートが出てきてしまう。カナダには数日いたけれど、毎日カタカタと震えっぱなし。時差もあるし夜も眠れない。

それがあるときからピタリと止んだ。全く普通に弾けるようになったのだ。なにが私を蘇らせたかというとバンクーバー交響楽団のコンサートマスターの行動だった。かれは私が震えているのを見て嘲笑したのだった。私を指さして笑いながら弓が震える仕草をしたのだった。そうやられた私の負けじ魂に火がついた。なにお!と思ったら私の弓はピタリと弦に張り付いてスーッと滑らかに長い音が出るようになったのだ。

オケのメンバーたちは皆心配して私を見守っていたので、私がすっかり冷静になると次々に良かったと喜んでくれた。当時のコンサートマスターはハンガリー人で、私が震えている間は「おお、かわいそう」と言って出会うたびにハグしてくれた。その彼も私が普通になると大喜びで笑いかけてくれた。

私は留学経験がない割には海外の人と共演するチャンスが度々有った。私も彼らと一緒に弾くのが好きだった。なぜかというと彼らは日本人のような忖度や遠慮がない。陰で悪口をいう代わりに正面から悪ければ悪い、変なら変とはっきりいう。ときには意地悪いと感じる人がいると思うけれど、私はそのようにはっきりした態度が好きなのだ。カナダで開き直ったからその後の演奏はすっかり立ち直ったけれど、他の場面では相変わらず震えることが多かった。

よく大勢で弾くからオーケストラは目立たなくて楽でしょう?という質問を受けることがあるけれどとんでもない。一度オーケストラで震えたらその怖さは世界共通、海外の一流オーケストラでも震えに悩む人が多いと聞く。私が震えから脱出できたのは様々な練習とメンタル面の訓練、オーケストラが大勢で弾くから楽だなんて滅相もない。ある時電車で他のオーケストラのメンバーとばったり出会ったことがあった。彼が「昨日新世界をやったんです」「どうだった?」「ええ、みんな震えました」これはドボルザークの「新世界交響曲」のラルゴのヴァイオリンのソリ(ソロの複数)のこと。

もちろん、そんなことには無縁な人もたくさんいるし大胆で怖いもの知らずの若者は不思議そうに手の震える人を見ている。けれどひょんなことで一度震えると恐怖で眠れなくなる。

絶対震えそうもない人たちがいる。ある時言うことを聞かないホルン吹きに向かってこう言った指揮者がいた。「俺はカラヤンだ」

するとそのホルン奏者が立ち上がって「俺はザイフェルトだ」と言ったそうな。
















2024年4月2日火曜日

筋トレウオーキングやめたら

ここ数年左膝の故障と右足のしびれ、指先の痛みなどに悩まされ歩くこともままならない状態。せっかくの演奏会にヒールの靴も履けない。ぺったんこのサンダルみたいなものでごまかしていたけれど・・・・

ある時、歩くな筋トレするなという整体師の動画を見つけた。何を馬鹿なと思ったけれど先ごろコロナ感染して約1週間寝込みその後も表に出られないのでウオーキングもしなかった。そして体が弱っているので筋トレもしっかりとできない。その動画を見て蹲踞のような筋トレを真似したらもっと痛くなって、この先、生涯この状態で過ごさねばならないのだとすると辛い。そう思っていたら、治りましたよ。

今年はスキーを始めてから61年、初めてゲレンデに立てなかった。スキーの先生と話していたら筋トレのやり過ぎでは?と言われた。私もうすうすとは感じていたので今回のコロナが良い機会と思って筋トレを全くやめてみた。それ以来膝痛も足のしびれもない。

まず体重が2キロほど減ったのが勝因。それでも毎日時間があればせっせとつま先立ち、寝転んでのゴキブリ体操、太もも内側の筋肉のためのねじり脚上げ。などなど。その他毎日雨が降ろうが暗くなろうが毎日数キロは歩いていたのもやめた。その代わり食生活には気を配った。腹六分、食事の間の時間を6時間以上開ける。お腹が空いていないのに食べることはしない。食べすぎたと思ったら翌日一回食事を抜く・・等。体力が無くなる心配もあったけれど結果、足の痛みは消えて毎日平和に暮らしている。

一番心配したのは高齢者の栄養失調。骨がもろくなったりしないだろうか。毎朝乗るタニタの体重計には骨量も計る機能がついている。それによれば私の骨量は去年の後半から少し落ちてきている。ただ昔から私の骨量は非常に多いと出るから、まだ標準範囲で収まっている。そろそろ骨密度を高めるサプリメントでもとは思うけれど、迂闊に飲んで健康障害が起きることもあるから用心しないといけない。

現在、足の痛みがなくなって歩く量も少なくなって、いわゆる健康年齢は高くなっている。これはいかがなものか、先日も歳を取ったら少し小太りのほうが元気でいられるという説を唱える医師もいた。それは極端に痩せてはいけないけれど体重はそれを支えられる足あってこそ、筋力以上の肥満はいけない。それが悪循環の始まりになるのだ。

私の素人考えでは結局物事すべてバランス。筋力が弱い人はそれに見合った体重でないと足を痛める。足を痛めて健康な生活を送るのは至難の業。小太りで足を痛めたらすぐコレステロールが増え、サプリを飲むと小林製薬紅麹事件が発生したり。

私はずっと小太りだけれど、それが健康だと思っていたこともあって、無理に体重を減らさなかった。コロナで寝たきりになったときこんなに食物を摂らなくても全然平気で生きていられるのだと思って愕然とした。今までなんであんなにいっぱい食べていたのだろうか。朝からタンパク質や鉄分やカルシュウム、繊維質などのことを考えると結構な量となる朝食をせっせと食べていた。それでいつもなにか摂取しないではいられない。カロリーオーバーになって胃腸障害や胸焼け、膝の痛みにつながった。

先日寝込んだときにはほとんど水を飲む気も起きなかったけれど、介護士の友人がいち早く飛んできてくれてそういうときに患者に飲ませるという高カロリーの飲料缶を持ってきてくれた。それをうつらうつらしながら飲んでは眠りを繰り返す。近くに住む「古典」のメンバーがお粥を差し入れてくれた。姉は野菜のジュースなどをドアの外においていく。それで約2週間経って胃袋が空っぽになった頃、体調はメキメキ回復した。

すっかり浄化された血液が流れ始めたかのようで、どす黒くなっていた血管が次第に青みを帯びてきた。今はほとんど血管が目立たなくなった。筋トレや過剰なカロリー摂取はアスリートや若者たちのように自力で消費できればいいけれど、私のような高齢者には毒となるのだと初めて実感した。もうこの辺でゆったりと暮らそう。ずっと突っ走ってきたのだからこの辺でね。






















2024年3月28日木曜日

落ち着かない大人

 PCR検査の結果を姉に知らせたらすぐに飛んできた。最初のうちは食物の入ったバスケットが遠慮がちに玄関前においてあったけれど、3日も経つと「足りないものがあったら連絡して」と言ってそれっきり。私は潤沢な食物で何不自由なく暮らしていた。こんなにも冷凍食品があったなんて、これなら震災があっても1ヶ月間は持ちこたえそうだった。それに最近サプリメントで多少カロリーの軽減、体重を極力減らすように努力しているから食べ物が減らない。

姉は小さなケーキを持参していたのでコーヒーを淹れて全快祝い。ずっと甘いものも控えていたので美味しい。今回の検査でわかったのはあれほどコロナコロナと騒いでいたのに、今は検査を受けられる場所もよくわからない。役所の対応はもはやコロナは過去のもの?症状は出なくなったけれど本当に治ったのかどうかを調べないと患者は不安で仕方がない。

今朝たまたまネットで見つけたのが自宅付近の発熱外来だったから良かったけれど、昨日まではそれも良くわからず自宅から電車に乗っていく距離のところばかり。もし陽性のままだったら他人に感染する。

見つけたのは偶々だったけれどラッキーだった。電話をして予約、到着したときにはほんの数人の患者がいるだけだった。すぐに検査は終了して医師の診察を受けると、彼女は少し腹立たしげにあなたの場合は保険診療のケースではないと。なんで同じ検査で保険が効くか効かなくなるのかよくわからないけれど現在発症していないから保険は使えないとか。発症しているのとしていないのとで検査のやり方が違うわけではないらしい。

私はもう症状が治まったこと、それでも大勢の会議とか花見とか旅行とか検査したとしないのとは大違い。PCR検査の陰性の証明があれば気兼ねなく動ける。検査のどこが違うのかはわからないから黙っていたら帰り際にも受付で今度から正しく申告してくださいと言われた。嘘ついたと思われた?なんだかわからないけれど非常に不快な思いをした。それなら最初からきちんと説明してほしい。保険が効かないとしても必要な検査だから受けたいと思っていたので。

自宅に戻って姉に陰性の報告するとえらく喜んでくれてケーキ持参の訪問となったしだい。私の兄弟たちはよく昔のことを覚えている。特に私は彼らのおもちゃだったから今頃になって様々な思い出話しが飛び出してくる。姉に言わせれば私は「夏休みの宿題はね・・・」と始まる。

私は夏休みに入ると先に日記を全部書いてしまったという。へえー、そんなことあったかしら。それで毎日その日のページを開いてそこに書いてあることを次々とやってから「はい、これでおしまい」と言って終わりにしたそうなのだ。そりゃあ能率的だわいと私は思う。10分もあれば済ませられることを済ませてあとは縁側で空に浮かぶ雲を飽かず眺め、レコードで音楽を聴き、ラジオで落語を聞く。毎日何冊もの本を読む。母はそんな私が嫌でまるで子供らしくない子供として持て余していたらしい。時々引っ立てられて近所の同い年くらいの子どもと遊ばせようとさせられるのが本当に嫌だった。話したって面白くない、縄跳び、缶蹴り大嫌い。男子は鼻垂らしてきたないし、なんて。

だから当然体操音痴、跳び箱、縄跳び、鉄棒全部できない。走らせても全力疾走なんてカッコ悪いと思っているから絶対に歯を食いしばって走るなんてことはない。そのつけが全部回ってきて、今は何でもやりすぎている。人間は生涯での運動量が決まっていると私は思っている。子供の頃運動しなかった私は今になってもスキーを諦められない。最後の海外旅行、フランスのヴァルトランスのアルペンスキーの楽しかったこと。スキューバダイビングで死にかけたり、モンゴルの大草原で落馬して大地に叩きつけられたり、大変な思いをしてもなお変ったことがしたいと未だに憧れ続けている。例えば成都からラサまでの青蔵鉄道にもう一度乗りたい・・・とか。高山病で危うかったのに。

子供の時の私がほんとうなのか、大人になってからの私が子供に戻ったのかよくわからないけれど、差し引きゼロにしてから死ぬつもりでいるから、どうぞ皆さんよろしく。






















めでたく陰性。

 私の性格は陽性だからコロナもなかなか離れないかと思ったら今朝の検査で陰性判明!まずはホッとしたところです。

子供の時から様々な病気とお友達なのに決して命にはかかわらない。並べて書いたらゾッとするような病歴なのにいつものんびりと「これで本が読める」とかなんとか言いながら陽気な入院生活。医師も驚く治癒力を誇っていたのに、流石による年波には抵抗できずと思っていたけれど、終わってみれば症状はほとんどなくてひたすら眠って疲労を回復していただけの話となった。

最初の眠り期では食欲もなくひたすら夢の中。これは一番幸せだった。体重が落ちたせいか膝の痛みが消えたのがラッキー。起きられるようになったときにはミツバチのようにスムージーに蜂蜜などの流動食、それが約一週間持続したにもかかわらず空腹感がない。そして確実に体重が2キロほど減って体中が軽くなり、胃腸の具合も良くなり、今までいかに食べ過ぎていたかを思い知らされた。

今ならスキーにも行けそうな膝のコンディションで、もう少し早めにこうなってほしかったと思った。今年はスキー歴60年、はじめて滑りにいかなかったシーズンとなってしまった。去年まではなんとしても這ってでもゲレンデに立つという課題を自分に課していた。今年は「古典」が新体制になった初めてのコンサートでもあり、大事を取っての我慢。幸い古典の再出発は成功裏に終わり、これで持続できる目処がついた。新しい事務所と会計さんの努力の賜物であり、メンバーも張り切っているので老兵は去りゆくのみ、私は安心して引退できる

スキーの先生と話をしていたら、なにか来年もできそうな気がしてきた。何よりも膝さえ痛くなければ初心者むきゲレンデだったら十分に行けそうなので、頑張ってみようと思った。それには膝の痛みを出さないこと。ここ数年筋トレに励んできた。もしかしたらそれが元凶だったのかもしれない。私の性格上なんでもやりすぎる。痛い膝を無理に動かして筋肉をつけようとしていたのかも。nekotamaさんはたぶんやり過ぎ。俺だってそんなには筋トレやらないもん、とか先生は言う。毎日のあの努力は何だったのかしら。そういえば整形外科のリハビリを見ているとイライラした。

なぜかというと皆さんベッドに寝たまま療法士のなすがまま、手足を動かしてもらっている。私だけガツガツと歩いたり階段を登り降りしたり。スクワット一日30回とかやって寝る前に手足ブルブルゴキブリ体操、太腿の筋トレなどなど、暇さえあればやっていた。それでも筋力はさほどつかず、逆に目が覚めたときにすぐに歩けなかったりしたものだった。今は椅子に座って貧乏ゆすりを時々するだけ。それでも体重の管理をすれば痛みもなく歩けることが判明した。ようし、来年こそはスキーヤーとして不死鳥のように蘇ろう。

ここに来て生活の見直しができてラッキーだった。胃腸の不調もスッキリと治った。猫たち(実はノラが家族の一員となった)とのんびり楽しく暮らそう。食べ過ぎの弊害がこれほどのものだとは思わなかった。不足を心配するより過剰をセーブすることの大切さを学んでもいまだ悟りが開けない。今日も早速全快祝いにケーキを食べる。これさえなければねえ。