体内年齢が若い人がいる。老化は細胞の衰えに始まるらしい。ある種の人では細胞の老化が遅い。私達のスキークラブの会長の山田さんはその老化が特に遅いらしい。
ただいま90歳は超えて悠々自適、ピアノ調律師で日生劇場のバックステージ賞をとるなど、調律会の重鎮としての活動は知る人ぞ知る。90歳になる直前まで一緒にスキーをしていた。ある年、志賀高原で滑っていたとき、リフトから下りる通路でころんだ。これは本当に珍しく私は会長が転ぶのを見たのは長い年月でも初めてだった。
その後、会長がゲレンデの傍らで腕を組んで考えごとをしているのを目にして、ドキッとした。会長は自分を律するに大変厳しい人だった。ハチャメチャな連中と一緒に麻雀を楽しんでいてもよる9時には就寝、どんなに面白くてもきっちりと寝てしまう。他の人達は夜を徹してと言いたいところだが、よる年波で皆早寝になっていても会長ほどきちんとしてはいない。面白ければ夜中まで起きている。
会長は食べる量も決まっているようで、美味しそうに楽しそうに食事をしても過食で気分が悪いなどということは聞いたことがない。類まれな記憶力はだれもかなわない。細部にわたるまで覚えているので私達は彼の頭脳がどうなっているのか知りたい。転んでしまった直後会長はスキーをやめた。
そんな会長も最近は調律用の重たい道具を下げて電車に乗るのはできなくなったらしい。御本人がというよりご家族の心配が大きいらしい。私のピアノは何十年も彼の手で調律されてきた。なんとも言えない風合いで、鍵盤に触れると優しい和音が響く。弦楽器にとってピアノとのアンサンブルは戦いに近い。ピアニストは楽器の規模がまるで違うヴァイオリンに斟酌しない。ヴァイオリンは響きで音を飛ばさないとしっかり会場の片隅まで音がとどかない。
ピアノは鍵盤上を猫が歩いても音は会場中に届く。この違いが理解していただけないと良いアンサンブルは不可能なのだ。そのアンサンブルのために山田さんはあえて融通無碍に調律する。というより、ピアノの音階はヴァイオリン弾きにとっては理解できない。あ、その音もう少し高めにとか言いそうになる。オクターブを無理に12音に分けるので仕方がない。おや?と思っても、山田さんの調律は和音で弾けば深々と鳴り響く。まさに名人芸!そんな調律が好きで長年お願いしていたけれど、最近は重たい調律の道具を持って1時間以上電車に乗ってくるのはできないとおっしゃるので、ついに調律師を新たに探すことになった。
山田さんによれば調律は数学と深い関係があるそうで「サインコサインの世界ですよ」と聞いたときにはびっくりした。計算ずくでもあるのだ。ピタゴラスがやったらさぞ名人だったに違いない。山田さんが来られなくなったのでしばらく調律はほったらかしに。しかしそろそろ耐えられなくなって会長ご推薦の人をお願いすることになった。約束の日、ニコニコとして玄関に現れた人は明るく気さくなスタインウェイピアノの調律師のIさん。名門のピアノと私の家のピアノは雲泥の差と言われそうでかすかに緊張したけれど、でも友人たちが作ってくれたピアノ。作成に二年かかった。本体と鍵盤はヤマハ、椅子はカワイ、中身はベヒシュタインなど。
調律途中で覗きに行くと、新しい調律師に訝しげに「このピアノはどういうものですか」と尋ねられた。経緯を言うと「ああ、おもしろい、そうですか。いい音がしますね」ホッとした。私は友人が作ってくれたという理由だけでなく、本当に柔らかな音が好きなのだ。
二時間以上かけて調律が終わって、少し休憩をしながらIさんとお話をした。山田さんとくればスキー、彼も山田さんのスキー仲間だったというので私は嬉しかった。つい自慢したくて私が一番最後に買った板を見せた。これは北海道で作った「もく」というスキーです。白木の軽い板で、力がなくてゲレンデを担いで行くときなどは、私の分も先生が担いでくださるから気の毒で、軽い板にしたのだった。ビンディングも一番軽いものに変えても素早く滑る事ができる。そこらでお目にかからないから珍しがってフランスのヴァルトランスに行ったときにはよく質問された。「どこのスキーなの」と。
一気に話が盛り上がって、調律師はかえっていった。小手調べに鍵盤に触ると、抜けるような明るい音がする。これほど調律によって変わるかと思うほどの違い。今までアンサンブルだけで使ってきたけれど、久しぶりにソロが弾きたくなった。大好きなモーツァルトとシューマン。数十年ぶりにピアノを弾くと心が弾む。それから数日間、ピアノを練習したけれど、少しもうまくならない。
素敵だなあ、こんなにも違う二人の名調律師が私のピアノに関わってくださるとは。山田さんの調律は、深い森の中で木の葉のさんざめきや郭公の鳴き声などとともに安らぎを覚えるような、Iさんの調律は明るい5月の草原の輝きのような。
古い話になるけれど山田さんは、あの、ルービンシュタインから「モーツァルトの調律はミスター山田にやってもらいたい」と言われたそうなのだ。山田さんが調律を終えて気持ちよさそうにピアノを弾き始めると、軽やかで楽しげ。ドアの外でしばし聞き惚れたものだった。
人間は徐々に細胞が老化していくけれど、亀やトカゲなどは死ぬまで細胞が老化しないそうで、今その老化しない細胞の研究がされているようだ。するというと山田さんはもしかしたら亀だったのか。
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