2014年5月13日火曜日

外山滋さんを偲ぶ

先月無くなった外山さんのことを書くのは3回目。
重複しますがお許しを。

アマデウス合奏団は、外山氏が率いた弦楽アンサンブル。
コンサートミストレスの北川さんと外山さんとは非常に気が合って、外山さんの指揮とソロで私たちが伴奏をする仕事が沢山あった。
とりわけ印象に残るのが、長野県松本市での仕事だった。
1週間ほどの滞在だったが、毎日オルガンのある響きの良いホールでの学生向けのコンサートは午後の部が終ると暇になるので、車を連ねて上高地までドライブ、午後のお茶を楽しんで夕日を見ながら帰って来た。
メンバー同士がすごく気が合って、生涯でもこんなにアンサンブルも遊びも楽しかった仕事は他にはないと、その当時のメンバーが未だに口をそろえる。
なにかにつけては、思い出のメンバーで集まってお酒を飲む。

外山さんは史上最年少でN響のコンサートマスターになったくらいの天才。
国際コンクールの審査員にもなり、海外からも認められる人だった。
彼のCDを聴くと、あまりの上手さに驚く。
私はアマデウスに参加する前に、弦楽3重奏をしばらく一緒にやっていただいた。
当然ヴァイオリンは外山さんで、私はヴィオラ。
なぜこんな大物と一緒に弾かせて頂けたかというと、あるとき知り合いのチェリストから電話があって、1週間後に弦楽3重奏の本番があるけれど、ヴィオラが急に降りてしまったという。
どんな事情かは分からないが、当時売れっ子の美しい女性ヴィオリストは我儘でも有名で、なにかお気に召さなかったのかもしれない。
しかも曲目はモーツァルトの「弦楽3重奏ディヴェルティメント」長くて難しい曲で、ヴァイオリンなら数回弾いているからなんとかなるが、専門でないヴィオラでは弾いた事も無い。
1週間で果して出来るものか、しかもそんな大演奏家と。
断っても断っても、電話の向こうのチェリストはめげない。
最後には黙ってしまって、沈黙の気まずさに負けて引き受けてしまった。
今のように私もヒマならなんとかなるけれど、当時の忙しい仕事の合間をぬって夜中まで練習して、ようやく初めての練習に目黒のお宅にお邪魔した。
たいそう気さくな方で、楽しそうに弾いて下さった。
それ以来とても気に入って下さって、ベートーヴェンもやりましょうと言うことで何曲か弾いて、次に取り組んでいたときに悲劇が起こった。
チェリストが真っ青になって外山さんと連絡が取れないと言ってきた。
その少し前からあの陽気な方が、時々音が合わないと言って不機嫌になることがあった。
ベートーヴェンのトリオのCモール。
冒頭の部分がへんな音がすると言う。
私の耳にはさほど違和感は無いけれど、とにかく耳の良さでは神様級だから、私たちには分からないほどの音程のずれを感じるのかと思って、何回も練習したけれどお気に召さなかった。
その直後、彼は耳を壊して長い闘病生活となった。
一つの音が何重にも重なって聞こえたりするらしい。
それで残念なことに弦楽3重奏は解散した。
彼は芸大教授もやめて、音楽界から姿を消してしまった。
そして数年後、北川さんのお誘いでアマデウス合奏団で弾いた時に指揮者として現れたのが、外山さん。
私の顔を見ると、急に顔がくしゃくしゃになって、今にも泣き出すのではと心配した。
もともと陽気な方だから、その後は和気藹々の仕事が続いて、ご本人はヴァイオリンを弾くとまだ、音が2重に聞こえたりするらしかったが、松本では盛り上がって毎日笑いに充ちていた。
その後も時々仕事でお会いしたが、お歳を召されて明石で隠居生活に入った。
「明石詣で」と言って生徒さんが時々訪れるほかは、お世話の方と2人でマンションの一室でひっそりと暮らしていた。
北川さんと私が「明石詣で」に行った時にはいくぶんぼんやりなさっていたが、ヴァイオリンの話になると途端に生き生きとなって、私たちが帰る頃には、以前のあの陽気な往年の外山さんになっていた。
北川さんがこの3月、仕事の通り道、往きか帰りに明石に行くつもりで、結局帰りにしたのがざんねんなことになって、その前日亡くなられたという。
往きによっていればお目にかかれたのにと、悔しがっていたけれど。
まだ皆がヴァイオリンを手探りで教え学んでいた頃の日本に、あれほどの才能が花開いたのは、奇跡としか言いようがない。
明日外山さんを偲んで「松本組」が集うことになった。



















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