2025年4月8日火曜日

復帰間近?

 オーケストラ時代、というとすでに50年ほど以前、よく一緒にアンサンブルをしていた音楽仲間の・・・あれっ!名前がでない。

そうそうHさんでした。

先日電話で話をしていたら、昔のようにデュエットしようよという話が出た。最近名前が出ないのは序の口、時には全く顔も思い浮かばないことが多い中で、彼女だけは流石にそういうことはないと思っていたのに。日々物忘れが激しくなっていく。

それでHさんの好きな曲を選んでと頼んだら、早速楽譜を送ってきた。そのまま知らん顔して忘れてしまえばヴァイオリンは弾かなくてすむなとしばらく逃げ腰だったけれど、結局、練習日が決まってしまい仕方なく楽譜に目を通すことになった。

ぶよぶよになった指がはたしてうごくのか。固まってしまった上半身は楽器を支えられるのかしら。楽器は休眠状態、持ち主はポンコツ。最後のステージが昨年9月。その後ロクに練習していない。時々生徒とキラキラ星彈く程度の練習では全く仕様もないと思っていたけれど、彈いてみると楽に体が動く。これは驚いた。むしろ引退したことで緊張が取れて力みがなくなった。

長年の訓練とはなんと恐ろしいものか。楽々音が出る。楽器もリラックスして柔らかく良く響く。久しぶりに聴く我が愛器の声。本当にお前さんは美しい声だねえ。ここまでは良かった。

さてどんな曲かな?

私は初めて弾く曲の譜読みが大好きで、ワクワクしながら練習に取り掛かる。まず一度サッと目を通す。8小節間をもう一度。若い頃ならほぼ初見でもすぐに覚えられて、二度目はもう間違えないくらい譜読みの速さを誇っていたけれど、ありゃー!何回弾いても覚えられない。

何回も何回も・・・弾いても弾いても。やっと最後までたどり着くとまた初見の気分。

そしてHさんもまたぼやく。彼女の初見の速さは驚異的だった。私も負けじと頑張っていたオケ時代。その彼女が同じように嘆くとは。

しかし、引退後妙に太ってしまいぼんやりしていた私の体中の血液が流れ始めた。雀百までとはよく言ったものだわ。かと言ってもはや演奏家として復帰できるとは思えない。集中力や気迫が残っていない。これからは一アマチュアとして心底楽しんで演奏しよう。とか思っても燻っていたプロ根性が頭を持ち上げてくる。すぐにムキになる。弾けなきゃ悔しい!でも何回弾いても音が覚えられない。

ということは体に染み付いた熟練した技術は保存されるけれど、スカスカになった脳はもとに戻らないということ?









2025年4月7日月曜日

公開しわすれて

 私は仕事をやめて悠々自適、のんびりと生活しようと思っていたのに思いの外忙しく気忙しい毎日、寒暖の差の激しいお天気に振り回されて疲労もたまり、花粉で目が痒く・・・などなど毎日が刺激に満ちている。

古典音楽協会は新体制となって3回目の定期演奏会を無事終えて、順調に再出発の波に乗ってきました。これも毎回聞いてくださる皆様のおかげと感謝しております。

長年の疲れと緊張がほぐれてきたので久しぶりに健康診断を受けたら何やら不穏な動き。胃の内視鏡検査で少し問題があるようだけれど、食べ過ぎのせいと思う。再検査がないといいなと思っています。

食べすぎといえば、先日、白洲次郎さんが町田市に残した武相荘(ぶあいそう)に行ってきた。嵐を呼ぶデコボココンビのMさんと一緒だからこれはただではすまないと覚悟。江の島では強風にあおられ、中華街では南岸低気圧による土砂降りに降られ、散々な目にあっているのになぜかまた一緒。緑色の髪の乙女(元・はるか昔)と鶴川駅で待ち合わせた。車で走ること15分ほどで古民家のある庭園について、よろよろと歩き始めたけれど、風も吹かない、雨もふらない、いつもと約束が違う。このコンビニはふさわしくない穏やかな晴れた日だった。

まさか平日の昼下がり、こんなに人が訪れてくるとは思わなかったけれど、現在では高齢者が暇を持て余しているらしい。かくいう私達もその一味であるわけで、ランチにありつこうと思ったのに、すごい数の予約で待ち時間がしんどいので帰ってきた。

それで私と彼女のお墓のある霊園近くのイタリアンにと思ったらそこも満員御礼。諦めて駅前の台湾料理の店でささやかにおそばを食べてドトールでコーヒーを飲むという、毎日の生活と同じような行動になってしまった。

そう、実は彼女と私は墓友なのです。私が7年ほど前に買った樹木葬のお墓の向かい合わせに彼女も猫さんたちと入れるお墓がある。私の隣は旧友のHさんのお墓、みんな入ったらさぞ賑やかなことになるでしょう。夜中にお隣さんからほとほとと壁を叩く音が聞こえると、私はガバっとおきあがりお隣へ。その次にお向かいさんに声をかけて誘い出す。夜中じゅう騒いで夜明けとともに穴に戻るという楽しみが待っている。

場所は町田市の小高い丘の上、全山桜が咲くとそれはそれは見事な桜色の丘になる。気持ちの良い風に吹かれて庭園ごとに様々な花が咲いて、ここを見つけた時には本当に嬉しかった。早く入りたいとは思わないけれど、最後の住処が一番上等というのが良い。決して贅沢ではないけれど、理想の終の棲家ではある。

それで安心して遊んでいる。レッスン室の改装がまもなく始まる。今までは頼りない防音ドアだったけれど、それをスチール製のより防音効果の高いドアにする。窓は二重窓の間に防音材を詰め込んで、防犯も兼ねる仕様。リビングの方もベランダの防犯が脆弱なので内側にもう一つの窓を作る。ガラスを割れない三重ガラスに。猫の出入りには少し不便でも、安全第一で、工事をすればお金もなくなって、これだけでも防犯になるでしょう。今お金があるという意味ではありませんよ。更になくなるということで、うちは狙わないでくださいね。泥棒さんたち。

ここまで書いたら気が済んで公開し忘れていた。

今開けてみたらもう一ヶ月書けない日々のnekotama、職業作家でなくて本当に良かった。自分の中からものを創り出すということの辛さほんのひと欠片を味わう。私の場合日記だから何を書いても、つまらなくても、本職でないからと言い訳がたつ。けれど、公開するとすぐに読んでくださる人がいらっしゃると思うと、おまたせしてはと気が焦ることもある。

そういえば古典音楽協会をというよりヴァイオリンを弾くことを引退したら「先生が演奏しないならもういかない」と言って数十年にわたる古典の演奏会に一度も休まず来てくれた元生徒さんが言う。おやおや、私のために来てくれていたのね、ありがとう。だけど私が客席に行くから一緒に聴いてほしいなと思う。

長年ありがとうございました。今後は新メンバーによる更に進化した新たな取組をどうぞ聴いてください。よろしくお願いします。









2025年3月10日月曜日

大雪の便り

雪の便りといっても遊びの情報ではなく危険信号。

北軽井沢の別荘の管理人から電話が来た。管理費未払いの請求かな?あるいは去年の秋に作った猫の家が雪で潰れた?いやいや、随分しっかりした家で、雪はあまりふらない北軽井沢ではびくともしないだろうし。

それは庭の道路に面した木が倒れそうという知らせだった。ここ数日の北軽にしては珍しいほどの積雪で、電線の上に張り出した木の枝が雪の重みで線に触れそうになっているらしい。危険だから東電に頼んで切ってもらわないといけない。それについては家の所有者からの依頼が必要なので私が電話しないといけないと。

そのことは気になっていた。去年末に庭木の伐採を頼んだ業者さんからも、来春に来たときに東電に知らせて切ってもらうようにと言われていた。電線に関する木の伐採は庭師さんでなく電力会社にお任せしないといけないらしい。電線の近くの仕事は危ないということで。

それでも毎年積雪量は少ないから冬でも来られますよという管理人さん。それが今年は異例の雪の多さでこういうことになった。今日あたり調査が入って次に行ったときはあの木はもうなくなっている。木を切るのは本意ではない。切られる木の悲鳴が聞こえるようで、心が騒ぐ。しかしあまりにも鬱蒼と茂っていたので家の周りだけ少し切らせてもらった。

私の前に家の所有者だったノンちゃんは自然にあるがままが好きだった。それで彼女が住んでいた10年間、木は伸々と葉を茂らせていたので、新芽の時期の庭は若葉色の海のようだった。それはそれは美しかった。私がここに住みたいと思ったのはそのせいだったかもしれない。しょっちゅう遊びに行って泊まらせてもらって、ヴァイオリンを弾いていたからノンちゃんはこの部屋に音楽が流れるのをよろこんでくれた。そして彼女は私をこの家の跡継ぎにと考えたのだと思う。

ある日一緒に中華料理のお店で食事をしていたとき、彼女が急に箸を置いて膝に手を揃えた。背筋を伸ばして「nekotamaさん、あの家買ってください」

びっくりしたしもとより買えるほどのお金の用意もなかった。でもいつかはこうなるだろうという覚悟はあったと思う。そういうときに私はものを、考えるのをやめてしまう。なんとかなるさ!そして家を私に譲ったあと、あっけなく彼女は天国へ旅立ってしまった。今でもノンちゃんの大好きだった庭の大木に手を合わせて「ありがとう、ノンちゃん」と事あるごとに感謝の気持ちを口にする。

暑い季節には北軽井沢の気温がありがたい。朝夕は下界より10度も低い。流石に昨今の気温上昇で日中は暑く感じることもあるけれど、都会のジメッとした暑さではないし、夕風が吹く頃には本当に快適になる。移住を模索していたけれど、ここ数年の体力と気力の低下が著しく断念した。けれど、思い切って引退し数ヶ月の無為の時間を過ごしているうちに、少しずつ気力を取り戻し始めた。

いつも痛かった膝が快方に向かい心の傷も癒えてきた。笑うことも忘れていたけれど、最近は声を上げて笑っている自分を発見する。ああ、笑っている。自分でびっくりしている。笑うとどんどん体調も良くなってきた。

今日はきれいな夕焼けが家々のシルエットの間から見えた。その温かい赤は戦争や山火事などの災害のそれでないことに心から感謝した。今もどこかで恐怖と飢えや寒さに苦しんでいる人たちがいることに心が痛む。他人の痛みにようやく思いやれるようになった。私は元気になりました。











2025年3月9日日曜日

部屋が寒い

 私はいつも家の中は過剰なほど暖かく設定された暖房で、ぬくぬくと暮らすのが好き。電気料金高騰の昨今、不経済だから倹約しないといけないのだけれど、あまり着るものもこだわらない、ケリーバックがほしいなんて野心もない、車も日産ノートでガソリン食わず、猫は野良猫あがりとまあ、それはそれは質素なのでなんとか生きていける。最近はお米すらちょっぴりしか食べない。野菜は葉とか茎とかまでかじり尽くす。

費用の殆どは暖かく暮らすために使っていたのに、最近の我が家は寒い。それは二匹の野良猫のうち、お兄ちゃん猫のグレのせいなのだ。妹ののんちゃんはすっかり家猫になって私を信用してきたけれど、あとからおずおずと我が家に滞在するようになったグレはまだまだ野生のまま。どれほど怖い思いを重ねて生きてきたのか。

部屋にはニコニコして入ってくるけれど、必ず逃げ道を確保しないと心配でいたたまらないらしい。必ず窓は開けたままでないと泣きわめき始める。グレの寝ている間にそおっと足を忍ばせて窓を締めに行く。しばらくすると眠っているはずのグレが頭を持ち上げて「ん?」と起き上がって偵察に行く。そこで窓が閉まっていると大騒ぎになる。開けないと開けるまで「開けて」アピールがうるさい。

きっと過去に家に閉じ込められていじめられた記憶が残っているのだろうと思うと、不憫でならない。かといってこのまま常に窓を開けておくわけにはいかない。とにかく寒いし不用心だし。強盗が入ってきても猫は役に立たない。そんなときは私は猫派から犬派になってしまおうかと思う。犬は役に立つけれど、猫はだめなので。猫は本当に役に立たないだけでなく、人を人とも思わないで使役する。

グレのためにどれほど窓を開けさせられ、寒い思いを我慢させられたことか。今年の気温が不安定で、考えられないほど温かいと思えば急に真冬の寒さになる。そういう日にはグレも寒いから室内にいたい。窓を閉めるなと言われてもヒュウヒュウ風が入るから私は我慢できない。真夜中に猫と人間のバトルは頂点を迎え、おちおち寝てもいられない。

夜中に窓が閉められないと最近の詐欺集団の強盗事件が怖いから、私はセコムの防犯ベルを手の届くところにおいてカーテンを時々開けては閉め、怪しげな行動になる。外から見たら我が家が一番怪しい。物音がすればスワッと起き上がって電気をつけて・・もう本当に疲れる。猫と強盗の被害が怖くて・・というのは言い訳で、実は老人性の睡眠障害なのかも。誰に遠慮することもなく夜通し起きていられるし、昼寝もほしいままでなんと気楽なことか。

この気楽が良くないと、最近体調が戻り体力が出てきたことで考え始めた。やはり人は社会の絆とともに生きていく動物だから、外に出て他人との接触が必要だなあと。暖かくなって猫たちが外で寝てくれれば私も泊りがけの外出ができると思う。近所の猫友にお願いしていけば餌は与えてもらえる。ベランダの段ボールベッドが2台、雨除け対策をしていけば猫も喜んで外で寝る。そうなったらまた海外にも行けるなんて。

海外、どこがいいかな。ヨーロッパは遠すぎるからアジア圏がいい。それより日本国内が一番無難だけど、どこもすでに行ったことがあって、目新しくない。結局グルメに走れば肥満対策に翻弄される。めんどくさい。家でごろ寝。猫と遊ぶ。これが至福のとき。一日が猫的時間で過ぎてゆく。







2025年3月3日月曜日

お雛様

 私の母は猛女でありました。我が子のためならどんなことでもやってのける。私を一年早く小学校にいれるために名簿に名前が載っていないから机の用意もない小学校に押しかけて、私を無理やり入学させてしまった。こんなひどいことも戦後まもない頃はできてしまったらしい。

私は本当は4月生まれなのに出生届は3月にして、それも一度は4月で届けたものを間違いでしたと訂正したらしい。そのへんのゴチャゴチャで入学時のすったもんだがあったらしい。

そんなことで私はその学年最年少、この頃の一年の差は非常に大きく低学年の頃は私はメソメソとよく泣いていた。この頃になると必ず思い出すこと。nekotamaにこれを書くのはもう3回目で、ちょうど今日のようなジメジメした寒い雨の日。

工作の授業で教材が配られた。石膏のお雛様の顔とその着物を作るための折り紙が配られた。紙の尖った部分に顔を糊付けして余った部分を着物の衿のように重ねていく。手先の不器用な私はすぐに手が糊でベトベトになり、真っ白な顔が汚れてしまい情けなさでいっぱいになった。

誰かしらに手伝ってもらえる家の中と違って、学校では誰もやってくれない。人生で味わったったはじめtの挫折かもしれない。そして今日は寒い雨の降る同じような日に確定申告用紙を郵送するために封筒に糊付けをして、相変わらず不器用なので封をするのに苦労していた。あの時と同じ、全く同じ。気分も手の動きも。

歴史は繰り返す。それでも自分の手から申告用紙が離れた途端、急に気分が良くなった。やれやれ。あんなに嫌だったのに、最後の方になったら少しおもしろくなってきた。毎日やっていれば慣れて簡単に思えるのでしょうね。年に一度だから領収書などを揃えるのがめんどくさい。あらかたどこかに遊びに出てしまっている書類を探すのに一番苦労する。

こんな面倒なこともマイナンバーにデータを入れれば、支払済か領収済みかすぐにわかるのでしょう。なんのためのマイナンバー?そこまで税務署でやってくれればいいのにと思う。そのくらいできるんじゃない?あとに家庭の事情だけ計算すればいいようにお膳立てくださればルンルン。年金額や保険料金、かかった治療費やなんかは役所で把握しているのだから、そこまで計算しておいてくれないかなあ、なんて夢でしょうか。













2025年3月2日日曜日

ホームコンサートのお陰でダイエット

とんだ出費!

ホームコンサートのキーキーガーガーと不気味な音が鳴り響く数時間は、ご近所の人たちの大迷惑になるにちがいない。でも50年以上に亘る私のヴァイオリンを聞かされていたご近所は、もはや驚かないか彼らの耳が遠くなっているかで、まあ苦情も来ないだろうと。そうは言っても、気になるからレッスン室の防音を強化することにした。

頼りない防音は最初に建てたときに施しているものの 、やはりかなり音が漏れる。いつも頼んでいるリフォーム業者Oさんに連絡をして来てもらった。特に昨今の闇バイトによる強盗事件の防犯対策も考えて、窓に多重構造の強化ガラスの窓を追加する。レッスン室はもともと二重窓になっているので更に強盗にはダブルパンチになろうというもの。その上にセコムのセンサーが効いているから防犯的にはバッチリ。しかし音はどこからともなく忍び込んで、ドアを通って出ていくらしい。

Oさんいわく「以前私が工事に来ていたときに大勢集まって練習していたでしょう。あのときは階段にまで音が漏れていましたよ」それではドアがいけないというので、ドアをスチールに変えることになった。私としては録音スタジオ級の分厚いドアが欲しくて建てるときにもそうお願いしたけれど、建築士がうんと言わないので諦めた。

そんなわけで今年も沢山おカネを使う羽目になった。もう私も数年の命、お金がなくなって食べられなくなったら、断食の修行に入ってお釈迦様と暮らそうと思っている。お釈迦様がうんとおっしゃるかは疑問だけど。ダイエットにもなるし。そんなわけで、今年も赤貧洗うがごときの軽やかな生活が送れそうで良かった良かった!

窓ガラスといえば、上の階に暮らしている人から窓ガラスがヒビ割れたと連絡があった。驚いて見に行くと、ベランダの出入り口のガラス戸に縦に亀裂が入っていた。しかしどこにも外からの打撃の跡がない。ヒビが入ったのはなにかで強く叩いたからと思って、一瞬強盗事件が頭をよぎったけれど、そうではなく自然にできた傷かと思える。

Oさんが言うには、それは熱による自然発生的なヒビだそうで、そうめずらしいことでもないらしい。この部屋は日中ずっと陽が当たっているのでかなり暑くなる。それなら今後の暑さ対策も必要、ひび割れ修理は不動産屋さんの保険が使えるらしい。ラッキー!

確定申告書の提出は明日の予定。四苦八苦しながらなんとか計算してみたけれど、多分またミスだらけ。でも仕事をやめるおかげで来年からは楽になる。今までは演奏の仕事、講師としての仕事、不動産の経費など、複雑に入り組んでいて本当に大変だった。毎年の経費の計算などもお手上げ状態。この季節は私にとって地獄だったけれど、来年からは助けてくれる人がいる。それだけでも世の中バラ色。単純なものです。

しかし好事魔多し、先日、胃カメラ呑んだら生体検査になり、その結果またまた一悶着かも。本当に退屈しない面白い老後なんだから。私は10年周期くらいで大病をすることになっている。今度は胃に来たかも。既往症は、腎臓、肝臓、心臓、そして今年は胃、そろそろ脳に来てもおかしくない。

脳といえば記憶を司る海馬の発達には幼少時代の睡眠量が影響するらしい。いまでこそショートスリーパーであるけれど子供の頃は一日10~14時間はくだらないロングスリーパーだった。その頃発達した海馬が今の私をかろうじて支えているらしい。

小学校の先生が皆に睡眠時間を訊ねたことがあった。私の睡眠時間を聞いてあきれていたことを覚えている。70年も前のことを覚えていられるくらいだから、私の海馬はその時代に巨大に発達したらしい。しかし大きくはあっても質が悪いのでたぶん駄馬に違いない。

そういえば最近長い事、馬に乗っていない。もはや鐙に足が届かず、届いたとしても鞍に自分の力で上る力はない。またがってしまえば走らせることはできるかもしれないのに。どんどん残念なことがふえていく。








2025年2月27日木曜日

トイレの並び方

 確定申告の相談で並んで待っていたら、税理士一人に二人の相談者がつけられた。片方が相談しているともう片方はその人が終わるまで待つという仕組み。これ誰が考えたのかしら。ものすごく時間の無駄だと思うけど。

一見効率的?に見えるかもしれないけれど、それぞれ相談する時間の長さが異なるから遅い人のあとにつくと待たされる。それなら普通に一人ずつ終わった人のあとに案内すればいいことなのに。結局ゴチャゴチャになってかえって能率は落ちるはず。二人同時ということは相談する方には無駄が生じるはずで、空いたところに次の人を誘導すればなんのことはない。このやり方をする前に時間を計ってみたのかしら。ただ相談する方のトータルの時間は一緒なんですよね。よくわからない。面白いから少し考えてみよう。数学強い人考えてください。

日本の昔の公共トイレの並び方を覚えていますか?

自分の選んだドアの前に立っていると、隣のトイレは早く回転するのに、中には長い人のいるドアだと長蛇の列。しかもトイレの出入りがごちゃごちゃ混雑した。それが欧米式ですれば、トイレの入口に一列で並び、どの場所であれドアが開くと、一列に並んだ次の人がそこへ入るという形が定着したので、最近は非常にスムーズになった。

これは演奏会場などで休憩時間に一斉にトイレに殺到するときなどは、たいへん助かる仕組みなので。そうなる前はドア前の長い列に並んだ人は休憩時間内に用を済ませられずにヒヤヒヤすることが多かったのだ。いまだにそれと似た形式を取っているからこんなことになる。これが正しいかどうか、誰か計算で出してもらえないかな?数学強い人にきいてみたい。

サントリーホールができたとき、入場者数に対してトイレの少なさに危惧したことがあった。これではトイレ待ちで休憩が終わってしまい、ロビーでの会話の時間がなくなると。今はスタッフが誘導して上下のトイレの人数を管理、なんとか後半の開演時間に合わせるので事なきを得ている。もし、昔からの日本式の並び方だったら右往左往して混乱が起きる。ドアの前に二人ずつ並ばせてみよう。すると時間の差が出て使用者は右往左往するでしょう?

と、毎日怒ってばかりいるからお腹が空く。健康に良い。

けれど私はしばらく非常に緊張した毎日を送っていたので、ストレスが無くなった今健康にはなってきたものの、未だに本調子ではないから健康診断を受けることにした。

病院に電話をして予約、高齢者の特定診断の書類が送られてきていたから、それを大事にテレビの前に飾っておいた。二日前、受診票を探したら、あら、不思議、ない。どこを探してもない。慌てて病院へ電話すると、役所に電話して再発行してもらうようにと言われた。

オプションで付けた胃がん、大腸がん検診などの予約を無駄にしないように、書類がなくても予定通り受けてもいいというから、今日カメラを飲んできた。

何回受けてもカメラは嫌だから麻酔での検査を選んだら飲み薬で、これが恐ろしく苦くてまずい。この世にこんなまずい味が存在するのかと思ったけれど、あっという間に眠りに落ちたから、目が覺めたらもうすっかり検査が終わっていた。

それで家に帰ってきて郵便受けを見たら、受診票が届いていた。今年私の運勢は天中殺だから、すべてこの通り間が悪い。来年はなにか良いことあるかなあ。






2025年2月26日水曜日

確定申告クソ食らえ!

楽しい確定申告の季節、ことしこそ完璧にと思うけれど毎日することではなく、この時期の間だけなので、一年も経つとやり方はほぼ頭から消え失せている。それでも毎年ああそうだったのかという発見はあり、一つ進歩しては2つ退歩。いつも完璧とはいかない。それで今回は 一度だけでも税理士を頼んでやってもらおうと思ったけれど、探すのが難しい。

そう言ってこのブログで嘆いたら早速助け舟がきた。今年依頼した税理士さんをご紹介しましょうかと言う人がいて、少し前から申告書の作成に取り掛かっていた私は心が動いたけれど、税理士を頼むほどの金額でもなし、まずは自分でやってみようかと思った。

フリーで仕事を始めてから約60年、その間忙しい合間にやっとの思いで期限内に間に合わせる。それでも昔の役所はのんびりしていて、向こうから電話をかけてくれて計算違いや書き落したものを補充してくれた。電話の向こうで「これはなんの数字かな?あ、そうか、これは少し払いすぎですから訂正しておきますね」なんて本当に親切だった。古き良き時代!仕事を終えたら急に暇になったので今度こそちゃんと書こうと思って、税務署の申告書作成相談を予約して出かけた。

去年行ったとき、あまりの署員の態度の悪さに立腹したことがあった。私を激怒させたそのときの税務署員は、私の書いている申告書を覗いて「おいっ!誰のを書いているんだ」と怒声を浴びせかけたのだった。私の名前は男女共通で使われることもあるような名前だから漢字一文字。それを見て私が男性の申告書を代理して書いていると思ったらしい。いくらなんでも納税者に対して「おい!」はないでしょう。怒りのあまり頭に血が登ってその場を去った。帰宅して書き終えた申告書を郵送、中身の点検も済ませてなかったから、間違えだらけではなかったかと思う。なんだかやたらに税金が高かったから、控除しないでいたものも多かったかと。

そういうときには役所は黙っていて、少しでも足りない収入のミスでもあろうものなら鬼のように言ってくる。こんな零細企業をいじめてどうする。そんな恨みがあるから今年は怒らないようにしようと心を静めていたのに、又々怒り心頭になって帰ってきた。

予約していったのでちゃんと順番通りに進むかと思ったら大違い。一人の税理士に二人ずつ待たせるので、その片方が長引くと並んだ順でなく後方の運の良い人が先にどんどん進むことになり、私は立腹した。なぜ、一人ずつ順に見ないのか?ものすごく遅い人の組になってしまって後ろからどんどん新しい人が終わって行くのを見ていたら、今年こそ我慢と思っていた気持ちは吹っ飛んだ。

いくらなんでも癇に障るから並ばせた人に文句をいった。そりゃあこんなときに怒られるのは理不尽なことと思うけれど、他の空いているところに次の人を入ればいいのに、あいているのでぶらぶらしている職員もいる。お役所仕事というのはこういうものかという典型。文句を言うとそれは悪かったと言って抱きしめられた。「おい!セクハラだぞ。なんてことをするんだ」と去年のお返しをしたい。

私は小柄で子どもほどの体格だから(ウエストまわりを除く)御しやすいとみなされるのだ。もう80才にもなるからセクシーな気分にはならないかと思うと、私だって好みの男性にされるならともかく、デブの中年男は趣味ではないのよ。振り払ってやっと自分の番になった。担当者は、はじめからこんなばあさんが納税者だと考えていないのはあきらかなのだ。この人たちは税理士であって職員ではないかもしれないけれど、本当にいつも腹立たしい態度をとる。

自分で今までやってきたけれどわからないところがあるというと、それをするにはまず所得を出してからでないとできないという。それはとっくにわかっているけれど、今書くのではなく計算の方法だけわかればいいわけで、その都度ことごとく馬鹿にした態度。こんな婆さんが何を訊いているのか。そして用紙をパタパタと叩きながらこれがあるか?というから、自分のものを探し始めた途端、後ろにいる次の人の相談にとりかかってしまった。それっきり振り向きもしない。

用紙が見つかったと言っても振り向きもしない。そこで私の怒りは更にメラメラと燃え上がった。今年こそは怒らないようにと思ってきたけれどもう帰ると言ったらグズグズ振り返って、先ほどと同じようなバカにした態度。「それで?収入はあるの、年金だけ?」収入はこれこれというとちょっと居住まいを正した。「それに年金は?」言うと急に態度があらたまっただけでなく言葉が敬語になったのだ。それにはこちらがびっくりした。

今までの態度は消えて「今日は申告書の作成はしていかれますか?」敬語に切り替わっておべっかを使う顔になった。はあ!税金を払う立場の人に対しては態度が違うのだとわかった。雀の涙でも税金を払う人にはころっと態度を変える。私の年代では控除の手続きの人が多いと思うけれど、私は曲がりなりにも去年までは仕事をしていた。税金もしっかり払っていた。

立場によってこんなに態度が変わるなら、運が悪く大変生活に困っている人などにはどんな態度を取るのか。人生の一瞬で浮き沈みのさなかに意地の悪い役人にあたったら、最初の私のように雑に扱われてしまうのだ。なんで税金を払う人より税金を払わせる方が偉いのか。私は運が良くて生活に困ることはあってもすっからかんとまではいったことがない。ある時期つまずいて生活困窮者になった人がいたとしても、犯罪者でなければそういう人たちを決して馬鹿にはしない。

ここまで露骨に態度を変えるとは。あまりにも不快なので帰って自分でやるからいいと断って帰ってきた。行くたびに不愉快な税務署。お金のために根性が腐ったとしか言いようがない。あなた達の給料を払うためにも私達は文句も言わず税金をおさめているんですよ。おわかり?

それで結局自分でいつも通りに計算することにして、昼の暖かさに誘われて時々うつらうつらとしていたらやはり税申告でお困りの友人からライン着信。だいぶ前のこと、彼女から紹介されていた青色申告のグループがあって、そこに行ってみない?と。ありがたい。

しかし青色となると領収書の確保が必要でしょう?私は買い物が済むといきなりレシートをポイ捨てしてしまうのが癖で、それでポイントが使えなかったりする。無意識にやってしまう癖だからまずそこを直さないといけないかなあ。とにかく財布に入れたものはお金以外すぐになくす。お金はないので入れていないからなくすことはないのですが。

今年はもう自分でやりかけたからもうこのまま出すとして、来年からお願いしようということになった。















引退してから

本当に何もしない日々。本を読むでもなくヴァイオリンを弾くでもなく、ひたすら時間を無駄に過ごしている。

7年前から生まれて初めての一人暮らしが寂しくもあり嬉しくもあり、どのように自分の生活を構成していくか心細い思いもあった。けれど今までの自分の生き方を考えると、なにもせずにいるのが一番というところに落ち着いた。ぼんやりとしているとあちらからなにかやってくる。

音楽家になるつもりは一切なかったのに、周りから押し上げられるように音楽の道に進んだのも、自力ではなく目に見えないなにかに道筋を辿らされたかのように思える。両親も私にヴァイオリンを強要したわけでもなく、自分の意思が働いたわけでもない。特に母は猛反対。死ぬ間際まで、もうヴァイオリンはやめなさいと。

これも極端な話だけれど、こんな下手くそでは業界で生きていくのはさぞ辛かろうと思ったのかもしれない。特に女の子は家庭に入るのが一番と考える人だったから。私の低い鼻を喜ぶような人だった。「女の子の鼻が低いのはいいことだから」なぜかというと人相学的に見ると、家庭に波風立たないから・・だそうで、何を根拠にそういうのか。兄弟で私だけ特に鼻が低いのを憐れんでフォローしてくれたのかも。

そんなこと言う割に母は女学校時代、ハイフェッツを聞きに行ったとか言う。私のヴァイオリンはいけなくてなんでハイフェッツはいいのよ。それはそうだ、あのハイフェッツのヴァイオリンは人類の宝、私のは、うーん残念。わかっていたのね。

母は常日頃、私の姉や兄たちに私の面倒を見るようにと言っていた。なぜなら私は末っ子で、両親と一緒にいられる時間が誰よりも短いのだから可哀想だと。だから兄姉で面倒見るようにと。私の立場は他の兄姉よりも一段低く、姪や甥のガキ大将的立場だった。それで次兄からは私が中年になっても毎年お年玉をもらった。時々お小遣いももらったし。

最近家にいる私のところに姪や甥が集まるようになった。彼らもその親達から言われているのだろうか。おばちゃんはおばかちゃんだから面倒見るようにと。そのまた子どもたちもくるようになって、今月の末に「ほーむこんさーと」が開かれた。

きっかけは今までおよそ音楽には関係のない甥が、最近ギターを始めたというのでみんなで聞いてあげようではないかということに。それに姪の娘がヴァイオリン初心者でチイチイパッパやっている。その子の母親である姪は、最近沖縄の三線をはじめて、涙そうそうが弾けるとか。ドラムもやっているしピアノも弾ける。私もちょっとだけヴァイオリンが弾ける。メンバーがそろった。

他の関係者に連絡すると、その日は来られないけど次は絶対に行くから決まったら教えてという諏訪に住んでいる甥の息子からのメッセージ。私はまだその子にあったことがないから初お目見え、というわけで親戚の2世代年下の子どもまで来るようになるかも。するとその両親も来ると思えるし。世捨て人しているつもりが、なんだか賑やかになりそう。

第一回目はつい先日、甥のYはギターを下げて登場。姪のNは三線、その娘二人はリコーダーとヴァイオリンを持ってきた。

まず言い出しっぺのYがサザンの曲。いとしのエリー?かな。私はよく知らないので多分ということで。聴いたことはあるのでなんとか一緒に歌えた。あれほど仕事で音楽番組をやっていたのに、何にもわからない。けれど、こういう曲も素敵だなあと思う。いつもベートーヴェンだのバッハだのでは長すぎて気軽には歌えない。甥が音楽に目覚めてくれたのは何より嬉しい。

三線は涙そうそう、ヴァイオリンはメヌエットと楽しき農夫。

今「のうふ」を変換したら納付とか納付期限とか、どこまでも確定申告に追い回されている。姪とその娘二人はリコーダーで合奏。驚いたことにすごくうまい。音も音程もしっかりしていて、聞けば今どきの小学校ではリコーダーの授業があったらしい。これはすごくいいことで、楽器が安くて手軽に持ち運べて技術は易しいけれど、かなり高度な曲も演奏できる。いいところに目をつけた小学校教育はでかしたと言いたい。もちろんフランス・ブリュッヘンのような名手になるのは恐ろしく大変だけど、最初の楽器演奏の入門としてはなかなか優れた考えだと思う。

姪は子供の頃ピアノを習っていた。ショパンのエチュードくらいまでは行ったらしいから簡単な伴奏なら弾ける。ジャズで愛のあいさつを弾いたけど、根が超生真面目だからクラシック弾きで超真面目。これからグズグズにくずしていかないと、ジャズっぽくならない。姪の娘にはきちんと弾けと言って、姪には崩せといって、たいそう忙しい。

皆で合唱したりしたあとは一斉に昼ご飯。飲んだり食べたり、話しが弾む。夕方少し気温が下がってきたので暗くなる前にお帰りと言って帰らせた。近所に住む姉とその長男も次男坊のギターデビューを嬉しそうに見ていた。

姪のNのドラムがそのうちこれに加わるなら、部屋の防音をもっと強化しないと近所迷惑になる。防犯も兼ねてもう一度防音の見直しをしないといけない。








2025年2月23日日曜日

野良の恩返し

最近野良の雰囲気がやっと家猫らしくなってきた。穏やかな眼差しが艶々した毛並みとよく似合う。昼寝する姿はもうあけっぴろげ。お腹を無防備に見せてひっくり返っている。私が撫でようとすると、以前だったら少し身構えていつでも逃げ出せる態勢ををとってから、撫でられるとほっと力を抜くところがあったけれど、今や触っても目も開けないで伸びをしたりあくびをしたり。

この野良たち二人とも 同じくらいの年だからそろそろ猫としては中年すぎで、長年の暮らしが変わっても、そうそう本人たちは変われない。最初に写真が残っているのが2017年でその時すでに大人だったからかれこれ9歳から10歳、いやもう少し上かも。野良猫としては相当な長寿で健康で幸せな方だけど、それでも厳しい生活をしてきたのだった。

最近は温かい家にいれてもらい、餌にも不自由なく穏やかに生きられるようになってきた。そのことに御礼を言うつもりなのか、二匹で勢いよく外から飛び込んできたと思ったら、私の足元にぽとりと落としたものがあった。黒っぽい塊でなんだろうとよく見ると、きゃあー!小鳥さんだった。

雀ほどの大きさだけどもう少し小ぶりなので、子雀かとも思えるけれど毛色が違う。背中が薄緑。ピクリともしないからもう死んでいるのはわかるけれど、この二匹の中年カップルがこんな小さな鳥を素早くゲットできるとは思えないから、他の猫が落としていったものを拾ってきたに違いない。それを私に持ってきてくれたのは日頃の感謝のしるし?ありがとう。でもこんな恩返しはご遠慮させていただきますよ。コトリさんがかわいそうでしょう。

小鳥が活発に餌を探して飛び回る頃、人間たちは税金の確定申告で大わらわ。私は昨年と一昨年は体も脳も死んでいたから、ひどく雑な申告をしたために容赦なく税金を取られてしまった。計算間違いもあり、説明不足により経費が認められなかったりして、生活苦に拍車がかかった。今年はそうなるまいと密かに備えていた。

今までは忙しさのあまり、領収書などをポンポンと抽斗に放り込んでいたので、いざここというときに見つからないことが多く、なきたいほど嫌な作業だったので今年は少し頑張ってみた。その結果、昨年までとは見違えるほど楽に見つけることが多くなって、なあんだ、こんなに楽にできるじゃないと思って、またすぐに油断をしてただいま休憩中。

ちょっと見通しが良くなったので、もう怠け癖が出てネットの漫画なぞをぼんやりと見ている。これが実にくだらないというかどれもが嫁姑問題、夫婦の浮気や離婚などが題材で、それを毎日見ているうちに面白くなってきてついつい続きを待ち構えるようになってしまった。それもこれも暇で時間がたっぷりあるので。面白くて絵がうまいというのはほんのひとにぎり。うーん、漫画の世界も厳しいのだろうなあ。

こうしてうだうだしているとあっという間に時間が流れて確定申告の書類提出期限に遅れてしまうのだろうなあと、毎度のことながら今年も嫌な気分で過ごす羽目になっています。なぜこんな面倒なことをしなければいけないのかと毎年考えていたので、今年は税理士を頼もうと思った。

一体どこで頼めるのか、全くのド素人なので市役所に訊いてみた。すると役所近くの商工会議所の電話を教えてくれたから電話してみると、「ここは税理士さんの紹介所ではないから税務署に訊け」という。税務署では親切ではあるけれど一向に結論が出ずに日が暮れてしまいそうな長話しとなって、結局申告書作成会場に予約して税務署の相談会場に来るるようにと。こんな人でもお給料をもらえるのかなと思えるほどのトロさ。これなら私にもなれる!

ネットで探した税理士の料金がえらく高いのにはびっくり。いくらなんでも普通の家庭人が確定申告書の作成に20万とか出せます?それにそのサイトの電話が頭に+のついた番号で、詐欺事件などで外国から指示している番号もそのような番号ではなかった?最近はなにもかも怪しいので、古いと言われようとアナログな手段で探すほうが良さそうですよ。これ本当に大丈夫なのかしら。知っている人がいたら教えてほしい。

もし私の確定申告を代行してくれる人がいたら、私は小鳥なんかではなく大きな鳥を恩返しに差し出すのに。ハシビロコウなんか私は好きなんだけど、どうかしら?今の私はハシビロコウに変身しかねないほど暇で。漫画の悪口言ってるけれど、このブログだってそうとう退屈なのによくいらしてくださいました。御礼申し上げます。










2025年2月8日土曜日

野良たち、やっと遊び始める

元というか今でも野良なんだけど、うちに入り込んできたのんとグレの二匹。

のんは殆ど家猫になり、かなり落ち着いてきた。甘え方もすっかり家猫らしくなって可愛い。グレの方はやっと家に入ってきても警戒心が強く、ベランダの窓を少しだけ開けておかないと、ソワソワし始めて逃げ道の確保に努めるので家中が寒い。彼がいるうちは窓を10センチほど開けておくので寒風がヒュウヒュウと部屋を横切っていく。以前はそのうち猫の通り道を作ってやろうと思っているうちに猫が全滅したのでそのままになっていた。

一時期私が死んだら猫たちが取り残されて可哀想と思い、もう飼わないことにしてあったのに、いつの間にかまた増えてしまった。これはやはり猫の持っている類まれな魅力と、野良の環境の悪さへの同情とがあるので仕方がない。それでも二匹は片時も警戒を怠らない。いくらかわいがっても私に対してさえも気を許さない。

近所の人に聞いたところではこの二匹は兄弟で、ある日その人の家に母猫が連れてきておいていったそうな。母親が毎日餌をもらっているうちに大きくなった子猫たちは、そのうち兄の方だけ母猫から邪険にされて追い出されたという。近親相姦を避けるため?かもしれない。

女の子はその後も母猫と一緒にいたけれど、母親はいつの間にかいなくなった。そしてずっと兄弟で地域の人達から可愛がられて大きくなった。けれどいくら優しい人たちが多くても中には意地悪な人もいる。猫の嫌いな人がいるのは当然のことで、さんざん辛酸を舐めたに違いない。

のんはすっかり甘えん坊になって可愛いけれど、未だに私が急に手を動かすと怯えてしまう。だから私はのんの前ではあまり体を動かせない。その代わり抱っこしてほしいときには膝に乗ってくるのでぎゅっと抱きしめても怖がらないようになった。

二匹とも今まで猫の遊びをしたことがまったくなかったらしい。猫はどの子も遊ぶものだと思っていた私は、朝の散歩の帰り道にすすきの穂や猫じゃらしを摘んできてお土産にしたけれど、のんは怯えて逃げ出してしまった。これはショックだった。

そのうち男の子のグレが来るようになっても、二匹とも遊びをしない。紐やアルミホイルを丸めたものを投げると怖がるのでびっくりした。以前は常に4.5匹の多頭飼いだったから、おもちゃには家中を猫が走り回って壯觀だったけれど、こんなに怯える猫がいたのにはショックだった。

彼らは毎日、餌を探すのと安全な寝床にありつくのに一生懸命で、こんな意味のないことをやっていられなかったのではないかと思う。のんは飼い始めてからもあまりの警戒心の強さにがっかりさせられた。私にも明らかに敵意を見せたりする。

それでも毎日同じベッドで寝るようになってからは随分警戒心が溶けたようだけど、目が覚めると私の腕や足には引っかき傷が絶えない。こんなに引っかかれても目が覚めない自分にはびっくりする。

先日ペットショップで猫のおもちゃを買ってきた。すると、それには二匹とも激しく反応して大喜び。ずっと遊んでいる。そして交代に遊ぶのがどちらかが待ちきれず取っ組み合いになる。初めてこの子達が遊び始めたのだった。さすが人間の悪知恵はすごい。

遊び疲れて夕方になった頃、グレがその玩具を口に咥えてベランダから逃げようとしているのを発見した。「こらっ!」と言うと慌てて飛び降りて隣家の塀の中に落として逃げていった。お隣さんへ行って拾わせてもらって奥さんと立ち話をすると、皆この子達はよく知っていて、特にグレは人気者らしい。兄弟猫でものんは頭が良くて警戒心が強く、グレは太って巨大になりのっそりとしているけれど、気が良くて可愛がられている。

二匹で遊ぶにはやはり2つ必要なので、次の日ペットショップに行ってもう一つ同じ猫じゃらしを買った。これで安心と思って外出して帰ってきたら2つともおもちゃが消えていた。どうやらグレがどこかに持っていったらしい。それではとアルミホイルをボールにして転がしてみたけれど、二匹とも反応しないばかりか、少し怯えてしまうのだった。やれやれ、猫のおもちゃって結構高いのに。私はやすいシャツを着ているのに、猫は随分お金ガかかるのよね。

でもこの二匹が遊び始めたのは大した進歩。衣食足りて余裕が出てきたのか、人間への信頼ができたのか。







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2025年1月29日水曜日

秋山和慶さん

 秋山さんの訃報が届いた。

2025年1月26日肺炎のため亡くなられたそうです。1月1日自宅で転倒し大怪我を負い1月23日音楽活動からの引退を表明して治療に専念していたところであったそうです。

心から御冥福をお祈りします。

秋山さんと私は東京交響楽団の同時代を生きた。物静かで端正な風貌にも関わらず、彼は札付きのいたずらっ子で、私達はよくひどい目に遭わされていた。指揮者は客席に背を向けているからお客さんにわからないようにメンバーを笑わせるので困ることが多かった。

あるときには「ルスランとリュドミラ」のあの早い序曲を猛烈な速さで振るのでヴァイオリンは青息吐息、終わってからみんなに責められても何のその、演奏中は皆の苦労を嬉しそうに眺めるなどは序の口で、あるときはご自身のメガネを途中で外すのでなにか?と思っていると、おもちゃの鼻眼鏡をかけて振り出す。ちょび髭がついていて思わず吹き出す。これも本番でのはなし。客席を向いている演奏者たちは笑いを堪えるのに必死になる。指揮者のせいなのにこちらが不真面目にとられてしまう。

そんな茶目っ気もあるけれど、私には忘れられない名演がある。定期演奏会で武満徹「ノベンバーステップス」を演奏したときは、音楽の神様が乗り移ったかと思える名演だった。舞台しもて袖で聴いていた武満さんが秋山さんの手をとって「どうしてこんないい音するの」と涙をこぼされた。秋山さんもその話をしたとき少し涙ぐんでいたようだ。

練習場で、これから練習にはいるという前に私が一人で新曲の練習をしていたことがあった。眼の前には指揮台がありそこの椅子で楽譜のチェックをする秋山さん。知らない曲なので速度がわからないから、ゆっくり弾き始め最後は練習のかいあってかなりのスピードで弾けるようになった。そして練習が始まるとものすご~くゆっくり。

「秋山さん!聞いていたんでしょう?それならゆっくりだっておしえてよ」きっとお腹の中で笑っていたに違いない。「あはは、苦労してる」なんて。

昔、彼はド派手なアメ車のサンダーバードに乗っていた。ところが交差点で事故って入院したという。お見舞いに行くとベッドに包帯だらけの上半身、弱々しい声で「nekotamaも気をつけろよ」と。私はその他大勢の一人だから替えがあるけど、秋山さんは取り替えようがない。人のこと心配しないでご自身が生きていただかねば。その事故以後、若くして髪の毛が真っ白になった。あの見事な銀髪はそういう経緯があったのです。

こんないたずらっ子でも、私がカナダの演奏旅行でこわーいソロを弾いたとき、本気で心配してくれた。弓が震えて飛んでしまうのをなんとかしようとアドバイスをくれる。どんなになってもいいから思いっきり弾いていいと言うので、優しくされればされるほど私はますますいじけて行き詰まった。そうしたらバンクーバーシンフォニーのコンマスが私を指さして笑うからそこで「ナニクソ!」負けじ魂が蘇った私。でも秋山さん、ありがとうございました。私の人生の一番愉快な頃にご一緒できて幸せでした。

安らかにお休みください。

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お別れの会のお知らせ

2025年1月31日(金)12時開会 13時30分閉会 (受付11時)

ミューザ川崎シンフォニーホール 川崎駅西口より5分

平服にて 献花は固くご辞退とのこと


一般向け記帳台 設置日時 2月1日(土)から3日(月11時から16時

        設置場所 ミューザ川崎4階企画展示室












2025年1月15日水曜日

疑う

 姉の家でお茶を飲みながら世間話をしていたらインターホンが鳴った。足が悪くたち上がるのが遅い姉の代わりに私がドアを開けると、作業着の男性が立っていた。いかにも実直そうな顔ではあったが、姉は高齢者。最近闇バイトで強盗を働くふらちな者共が跋扈しているので油断ならない。

無愛想にどういう用件か尋ねると、ガス器具の点検に来たという。ガス器具なら東京ガスの人ではないかと思ったけれど、別の会社名の入った名刺だし、家の中まで入られるのは剣呑だから努めて無愛想に応対した。お宅はどこの会社ですか?とかどうして点検に東京ガスではない会社から来るのかとか、こんなに時間を取るのにどうして無料なのかとか矢継ぎ早に訊く。それらに穏やかに質問に答える男性。

よく聞くのは、屋根が傷んでいるから修理すると言って屋根に上がり込んでわざと瓦を剥がしたり、ブルーシートだけかけて何万円も請求したりする人がいるというから、私は姉の保護者としてその者共に立ち向かわなければという使命感に燃えていた。終わってみればきちんと点検の書類も整っており、名の通った会社名が書かれていて、姉の家は電気もネットもガスも全部ひっくるめての契約になっているという。

それならと一安心。もちろんお金も取られなかったし終始感じの良い対応だったけれど、つくずく嫌な世の中になったと思わずにはいられない。犯罪者もやることが鬼畜になってきて、思い出すのは狛江の事件。90歳の女性に乱暴した挙げ句殺してまでカード番号を聞き出そうとした。もし自分の姉や母親がそんなことをやられたらと思うと居ても立っても居られない。そのやり方も信じられないほどの残忍さで聞くだけで吐き気がする。

そしてこれを書いている最中、今度は私の自宅に本物の東京ガスからガス器具の点検に来た。誰が見ても東京ガスの人だけど、今日は疑り深くなっているから、セコムの防犯ベルをポケットに忍ばせて対応した。本物かどうかということは、事前に点検のお知らせが来ていることと、紛れもない東京ガスのジャンパーを着ていたことだけれど、やはり一応疑ってかかる。そちらも何事もなく作業が済んだ。

私は一人暮らしになったとき、セコムに申し込んで安全対策がしてある。多少お金はかかるけれど、ドアにセコムのステッカーが貼ってあるだけでも防犯効果はあるらしい。けれど、操作を間違えると恐ろしく煩わしい。うっかり者のわたしはしょっちゅう誤作動を起こして、夜中や明け方にセコムから電話がかかってくる。

「ご無事ですか?」切迫した声で訊いてくる警備会社の人に「すみません、また間違えました」そのうちオオカミ少年のように誰からも信用されなくなるのが怖い。しかも素早く飛んできてくれるから、ぐちゃぐちゃの家の中を何回も見られてしまった。

これが一番恥ずかしい。












舘野英司さん

私のもと教え子のKちゃんからのメール。舘野先生が亡くなりましたと。彼にはここ数年お会いしていなかった。

舘野英司さんはピアニストの舘野泉さんの弟さんで、チェリスト。私がまだオーケストラにいた若かりしころ一緒だったことがあった。ある日舞台袖で話をしていたとき「フィンランドではねえ・・」と留学時代のことを語り始めた。

「地面が凍っているのでバス停で待っているときに強い風が吹くと、チェロが風を受けてズズズっと滑って前に進んじゃうんだよ」「ウッソー、いくらなんでもそんなことないでしょう」私はそれを聞いて大笑い。出番が来て演奏に入った。演奏が終わって舞台袖でヴァイオリンをケースにしまっていると、向こうからすごい勢いでまっすぐに私の方へ歩いてくる彼の姿が目に入った。

「さっきの話、あれ本当だからね」そばまで来ると真剣な顔でそう言って去っていった。嘘つき呼ばわりされたのが余程悔しかったとみえる。演奏している間ずっと悔しかったのではと思う。呆気にとられて後ろ姿を見送っていた私。それから半世紀、私の生徒となったKちゃんが結婚するというのでよろこんでいたら、そのお相手がチェロを弾く青年のT君だった。彼の先生が舘野英司さんとわかったのがご縁の再開のきっかけとなった。

東京文化会館の楽屋で数十年ぶりにあったとき、ふたりともほとんど同時に「変わらないねえ」と。その後奥州市のチェロフェスティバルに数年間参加させてもらったり他のアンサンブルもご一緒できて楽しい思いをしたけれど、年々彼の体が弱っていくのを目の当たりにすることになった。

練習のため私のレッスン室に来ていただいたけれど、エレベーターが無くて重たいチェロを持って階段を上らなければならない。ある時「僕はもうチェロを持ってこの階段をあがれないよ」とおっしゃるから「チェロは家のをお使いください」そう言うと嬉しそうに弓だけ持って来られるようになった。しかしそれも「僕は階段を登ることができないんだよ」に変わった。

私のレッスン室の玄関で、毎回「このうちは靴べらないの?」それでやっと靴べらを買ったけれど、それを使ってもらうこともなかったような気がする。もっと早く買っておけばよかった。毎度後悔の念ばかり。

それで最後のときには彼の家近くの楽器屋さんのスタジオが練習場所になった。その時がご一緒した最後だった。その後私は数年間、トラブルに巻き込まれ収拾に関わって時間がなく、演奏に参加させていただくことはなかったけれど、事あるごとにKちゃんからの報告を受けていた。「舘野先生が飲みすぎて心配です」とかなんとか。本当にお酒が好きだった。ファンのおばさまたちに囲まれて上機嫌に穏やかにお話を楽しんでいらした。

なくなる前の日、新潟のホテルでお酒を召し上がって、次の朝、あちらの世界に行ってしまったとか。最後までチェロとお酒を愛した彼らしい人生の締めくくり方だったらしい。

御冥福をお祈りします。







2025年1月13日月曜日

コーラスライブ

3人の女性コーラスグループのライブを聽いた。ライブハウスは六本木の「keysuton」

    ヴォーカル 齋籐裕美子 内田ゆう 山下由紀子

    ピアノ:小野孝司 ベース:岩切秀磨 ドラム:丹寧臣 

    サックス:今尾敏道

メンバーはずっと以前からの仕事仲間たち。

私は地方で仕事のときには本番の前日に現地に行くようにしていた。交通の遅れの心配と体調を整えることなどのために。メンバーはそれぞれ自分のスケジュールに合わせて自分で行動するけれど、時々申し合わせて一緒に行動するときもあった。仕事日の前日に行って現地の観光をするのも役得の一つ。

浜田に仕事があった。一番近い空港は萩。今は沢山飛んでいるけれど、その当時の萩空港への飛行機便は、朝7時ころの出発便一本しかなかった。仕事当日は早朝自宅を出てその便で行って、それから10時間近い仕事をこなしてというハードスケジュールになる。それを避けると前日行ってしまえばその一日遊んで、次の日はホテルで昼近くまで寝ていられる。それから仕事をするなら随分楽になる。

コーラスさんたちのお誘いで私も前日行く仲間に入れてもらい、朝一番の飛行機に乗った。萩空港に到着してレンタカーを借りて、さてどこへ?なんの計画もなかったけれど、この辺、見どころはいっぱいあってどこでも立派な観光地。津和野は画家の安野光雅さんの生まれ故郷なので美術館がある。そしてプラネタリウムもあるけれど休館日で開いていなかった。私達が入り口付近でウロウロしていると、係の人が気の毒がってわざわざ開けてくれるという。

私は少し困ったなと思った。今まで何回もプラネタリウムに入ったけれど、一度もまともに見たことがない。最初の数分はきれいだと思うけれど、夜になって星がきらめくともういけません。あっという間に眠ってしまう。ようやく目が覚めるのは全部終わった頃。せっかく開けてもらってもねえ。

案の定、私はあっという間に眠ってしまい、気がつたら天井には朝がきていて全員起きた様子。自分だけかと思ったら皆ぐっすりだったようだ。早朝家を出て羽田空港に行き、飛行機で萩まで、それだけでもかなりきついのだからもっともなことで、せっかく見せていただいて申し訳なかったけれど、誰一人起きていた人はいなかったようだ。後ろめたい気持ちでお礼を言って、津和野、秋吉台にも行って、おそばを食べてなどなど。次の日は体力十分で仕事に勤しんだ。こんなふうに楽しく仕事をしていられたのも彼女たちのおかげだった。

というわけで久しぶりに六本木に行った。私がまだ仕事を始めたばかりの頃、六本木でニコラスという当時流行っていたピッツァのお店で遊んで夜明けに家に帰ったら、母が起きて待っていた。これはまいった。夜通し心配させてしまったらしい。昔はよく遊んでいた六本木なのに今は駅に降り立つこともなくなった。どんなに変貌したかもわからないからネットで地図をゲット。歩きのコースをスマホに挿入して万全の用意ででかけた。

しかし六本木はあまりにも変わってしまい、駅の中さえ右往左往。やっと会場付近にたどり着いたけれど、見た目があまりにも変わっていて、見当がつかない。困ってあたりを見回したら、ウーバーのお兄さんがバイクに乗り込むところだった。のがしてなるものか、走り寄ってスマホの地図を見せて「ここはどこ?」思いがけないほど穏やかな声で「あ、惜しかったですね、ここまで来て、すぐそこですよ」すごく優しく慰められた。

田舎のおばあさんが初めて六本木なんかに来て、泣き出すのではないかと心配してくれたのかもしれない。場所はもう目と鼻の先。どうしてわからなかったかというと、道路の真ん中が立体になっていて歩道は上、車道は下、反対側の歩道から見ると目印の建物が見えなかったのだった。

私達が昔、散々来ていた六本木とまるで様子が変わっていて、立派なオフィスのようなビルが立ち並んでいる。狸穴という地名が直ぐ側だけれど、あそこには本当にムジナが出たそうで、そのくらいのんびりとしたところだったようだ。大きな古いお屋敷もまだ残っていて、そこに私のヴァイオリンの先生が住んでいた。けれど今は開発の手は隅々まで行き届き街中ピカピカ。

客席はほとんど埋まっていてわずかに残った相席だった。前の席には若い女性が二人。向かい合わせに御夫妻と思しきカップルのテーブルに無理やり割り込んで肩身が狭い。けれど少しずつ会話をしていくにつれて、どんどん共通の仕事場と関係者の話題で盛り上がってしまった。面白いなあ、こういう場だから業界人が多いのはもとよりだけれど、あまりにも近い知り合いに近い人達だった。次回お会いしたらぜひまたご一緒にと言われて胸が踊る。

ステージは言うまでもなく楽しい。ベテランのコーラス・ガール3人が老眼鏡をかけて歌う素晴らしさ。3人それぞれ持ち味が違い、声の質も違い、ちがうからこそ素敵なハーモニーになる。人生の深味を感じる。若さだけでは味わえない心の琴線に触れる味わい。生きるって素晴らしい。どんなに苦労や悲しみがあってもそれが表現に豊かさとなって人の心を打つ。私がこういう人たちと知り合ってどれほど幸運であったかと思うと感謝の気持ちしかない。

珍しくしんみりとなって会場をあとにした。
















2025年1月9日木曜日

嵐を呼ぶ女たち

 湘南在住のM子さんからお誘いがあって、江の島にイリュミネーションを見に行くことになった。

彼女と私は仕事仲間、猫つながり、漫才のコンビ?体型は細長のM子さん、樽型の私とひどく対照的ながら共通点はたくさんある。一番の共通点は2人で組むと物事がただでは済まないということ。

今年6月、M子さんの誕生日のお祝いをしようと中華街に出かけた。その日は雨の予報であったけれど決行することにした。家を出たときにはまだ軽く降っているだけだったけれど、中華街の駅に到着した頃には猛烈な降りとなった。駅で待ち合わせならそこで予定変更したのだが、店を予約してあったので店で合流といことで仕方なく歩き始めた。それはもう道を歩くというより川をわたるといったほうが良いほどの状況だった。

ようやく店にたどり着くき「本当に私達って性格激しいから」とかなんとか云いながら美味しい食事を堪能して、再び猛烈な雨の中、カフェを探して飛び込んだ。しばらくするとようやく雨脚は弱まって来たので帰路についた。せっかくの誕生日祝がこれでは悲しいけれど、思い出に残る記念日とはなった。

あるときはイグノーベル賞の展示会に後楽園まで二人ででかけた。月面歩行を体験できる装置を開発したとして受賞した器具の展示場所まで来た。上からハーネスのようなものがぶら下がっていて、それを身につけるとちょうどつま先が地面に届くほどの高さに足が浮く。それをつけて移動すると月面での無重力状態の感覚を味わえるというわけ。

体格の基準があって、私は残念なことに身長が低すぎてつま先が地面に届かない。M子さんは体重がかるすぎて装置がぶらさがっているワイヤーが撓まない。ふたりとも失格となってしまった。発明家?らしき人がひどく気の毒そうにしていたけれど、規格外の人間ということで全くもって我々らしい結果となってしまった。

そして江の島でイリュミネーションを見ない?とM子さんのお誘いがあったのでもちろん快諾したものの嫌な予感があったのも否めない。またなにか?

昼過ぎコンビニで待ち合わせた。そこからは江の島まではたいそう近いので期待にワクワクしながら車を走らせる。よくテレビなどで放送される江の島入口の橋をわたって駐車場へ。ウィークデイの昼過ぎなので混雑はなく、車を停めて歩き出す。ここの神社は弁天様だそうで私達芸能に携わる者はお力添えを賜りたく拝礼することに。これが今年の初詣であることに気がついた。

お正月は大抵志賀高原スキー場からの帰り道、長野で善光寺にお参りすることが多かったから、暖かい初詣は珍しい。海を見るとかなり白波がたっているので風の強さがわかる。拝殿で手を合わせ、何もお願いが思い浮かばないので、ここまで無事に生きられてよかったとの感謝のみ。そこからは長い階段が上に伸びている。

最近膝も随分良くなったので登るのは構わないけれど、下りのことを考えるとしんどい気持ちになる。しかも上りだけエスカレーターがあって楽、下りのほうが私にとってはきついのだ。下りもついでに作ってくれればよかったのにと恨めしい。長いエスカレーターは改札機にチケットをかざして通る。最初の改札口を通ろうとしたら機械が反応しない。なぜだ?すると係の人が「それ、駐車券です」

あらま、毎度おなじみのボケ!一度やったら二度としないという人ではないので、二度三度性懲りもなく繰り返す。人間が文明社会に適応していないらしい。頂上のカ゚フェで腹ごしらえ。まだ日は高くイリュミネーションは木々に巻き付くワイヤーや電球が見えている。その頃になると風はいよいよ強く、吹きすさぶようになってきた。この二人の組み合わせではまだまだ強くなるに違いない。

きれいな海と山を見て日没を待つ。赤々と山に沈むおひさまを眺めてカフェを出ると猛烈な冷たい風に襲われた。ところどころ電飾がきらめき始め開始時間にカウントダウンで一斉に灯火がついた。薄紫のトンネルには藤の花のように灯火がきらめく。それを抜けて様々な場所にチューリップの花と電飾と、夢の中にいるようだ。相変わらず冷たい風が吹きすさぶ。下る階段は狭く急で怖い。やっと階段が終わったとき急に風がやんだ。

海風が山で遮られたのかと思ったけれど、そうでない場所に行っても風は明らかに弱くなっている。さては我々二人を狙っての所業であるか。風の神さま出てらっしゃい!デコピンしてあげるから。

やはりただではすまなかった。嵐を呼ぶ二人の女、最悪の組み合わせ。



















加藤慧子さん(にのきんさん)

 加藤さんのことを「にのきん」さんというのは彼女の旧姓が二宮さんというから。にのみやきんじろう・・・縮めて「にのきん」

わたしたちが小学生の頃のには、どこの学校にも二宮金次郎の銅像が立っていた。背中に薪の束を背負いながら本を読んでいる少年の姿。仕事も勉強も頑張って偉い人になりました、すごいですねと言いたいけれど、私はひねくれた子どもだったから、仕事は仕事、読書は読書に専念したほうが効率的だし、薪を背負っていたら足元が危ないのになんて思う生意気なガキでした。今だったら歩き読書は禁止。

金次郎さんのことはともかく、二宮さんは私の3才年上でオーケストラの先輩。私がおずおずと新人で参加したオケではもうすでにベテランとして頑張っていた。文字通りのがんばりやさん、そこは金次郎さんと通じるものがあった。いつも目をキラキラさせて声も大きく張りがあってその存在感は他を圧倒していた。

高校生の時に三重県の津から上京して、一人暮らしをしながら世の荒波をわたっている姿は、私の母に多大な印象を与えた。私の家に泊まりに来たときに、私が彼女の一人暮らしの話をすると「偉いねえ、本当に偉いねえ」「あの人はどうしてる?」母は死の数年前まで彼女のことを忘れずに褒め続けていた。過保護で甘ったれの私を見るにつけ、心底彼女には感心していたようだった。

ある時沖縄に一緒に遊びに行ったことがあった。早朝二人で海岸を散歩していたら石垣があって、たった1m位の高さなのに私は飛び降りることができない。するとその時すでに中年だった私より3歳年上の彼女がひらりと身軽にとびおりたのにはびっくりした。聞けば朝毎日彼女の信仰する宗教関係の新聞を配っているのだという。

その時の年齢で毎朝新聞を配ることにも驚いたけれど、体の身軽さにも度肝を抜かれた。性格は超負けず嫌い、どんなときでも自分が悪いとは言わないから、周りの人たちは辟易していたけれど、それでも愛されていたのは彼女の真っ直ぐな性格。歯に衣着せぬところがあってもなお周りには優しい人たちがいて彼女を守っていた。

歯に衣着せぬというところはオーケストラの練習の時も発揮されて、他の人の音の間違いや弓つかいの間違いなど気がつくと容赦なく指摘してくるのでイラッとする人も多かったけれど、ベテランだからあまり逆らえない人が多かった。私は叱られても耳から耳に聞き流す特技があったからいつも平和。

ある時、私が弓使いを間違えたら椅子から立ち上がって早速のご指摘。その時私はたまたま虫の居所が悪かった。本当に何も考えずに反撃してしまった。「間違えたことは自分が一番良くわかっているの。だからいちいち言わないで」

するとあれほど気の強い彼女が無言ですっと椅子に座って、その日はシーンとして何も言わなくなってしまった。今度は私が慌てた。「ああ、どうしよう、先輩に向かってなんてことを。でも謝ってももう手遅れだし、第一どうやってなにを謝るの?無言でいる彼女に心のなかでごめんと言う。

ときには私の強気が彼女を上回ると、周りの皆はヒヤヒヤするらしい。けれど彼女は本当にお腹の中は真っ白な人で、ずっと仲良くしてこられた。常に直球を投げる人だった。

けれど、にのきんさんは亡くなってしまった。昨日訃報を受けた。彼女はまっすぐに生きてあまりにもまっすぐだったので、いつも太陽の燦燦と降り注ぐ道を歩いていたにちがいない。

御冥福をお祈りします。


















2025年1月4日土曜日

年賀状

年賀状は数年前に 停止する旨を書いておいたのだけれど、行き渡らず未だに送っていただくことがある。元旦にのんびりしていて夕方近くに郵便受けを見ると数葉の年賀状を見つけた。やはりいただければ嬉しい。ありがとうございました。

すぐにコンビニに行ってまだ残っている年賀はがきを買い求めた。以前の枚数は200枚を超えていたので暮には死にもの狂いで年賀状書き。今は20枚ほどで収まってくれればいいなと思っているけれど、7日過ぎまでは油断ならない。それまでにあと何枚か来るとなったらはがきの用意をしておかないといけない。10枚ほど追加したけれど、今日もまた追加のためにコンビニへ。今から出そうと思われた方、そういうことですので・・お願いします。

食っちゃあ寝の正月太りを解消しようと追加は少しずつ買いに走る。今必要なだけ買うことにした。面倒だからと多めに買うと必ず余る。かといって必要だけギリギリに買うと必ずといっていいほど1枚足りないとか、私のやることはいつも中途半端。

10年ほど以前、年の暮れに義理の姉が亡くなって200枚ほど書き終えた年賀状が宙に浮いて大慌て。喪中の印刷を近所の店に注文しに行ったら「先ほど同じ方の喪中はがきを注文なさった方がいらっしゃいましたよ」と言われた。「それ私の姉」だった。

年賀はがきを書くのは秘書がいるような人ならいいけれど、私のような暮から正月にかき入れ時というような商売ではなかなか大変なのです。でも、もう暇になったからいただいても余裕、嬉しいけれど、やはり来年からはご遠慮申し上げます。

私が毎日家にいるので昨年から家猫になったのんちゃんが穏やかになってきた。はじめのうちはビクビク、私でさえも油断ならないと思っていて、なんの悪気もなく私が急に動いたりすると怯える。膝に乗ってくるからまったりと抱っこしていると、途中で急にシャアーと唸って噛みついてくる。私は身に覚えのない敵意にさらされた。

一緒に眠るようになっても、朝起きると片方の腕だけ引っかき傷だらけになっていて驚く。でも今はもう、うまく私の寝相の悪さを回避してくれるらしく、ほとんど無傷でいられるようになった。

世間の意地悪に出会うことが多かった野良時代が思いやられる。いつも人の手は自分を追いはらい打擲するためにあると思っていたに違いない。お腹をすかせてやっと見つけた餌を取り上げられ追いかけられもしたでしょう。少しだけ人間を信じられるようになったらしい。

ところで猫の親愛の情は、自分のおしりを飼い主の顔に近づけることで表現するとご存知でしたか?毎日猫が私の眼の前にお尻の穴を見せに来る(笑笑)これはあんまりうれしくはない。なんでかな?

















2025年1月2日木曜日

箱根駅伝

 超絶美しい富士山。心地よい日差し。そんな平和な朝、学生たちは何を思って苦しい山坂を走るのか。

強豪青山学院大学の最初のランナーが不調で、首位争いに加わるかと思っていたけれどまさかの10位。どこの学校を贔屓にということはないけれど、やはり優勝常連校は気になる。青学は4区までは後ろの方にいたのに終わってみれば首位にいた。往路優勝!ここがすごい。

いつも思うのは監督の余裕の心の広さ。最初のランナーをちょっと睨んで「お前がちゃんと走れば」的な苦言を言っていたけれど、何故か愛情を感じる言い方で心の広さが素晴らしい。言われた生徒も監督の方を向いて叱責を受け止める。監督は失敗はそのまま受け入れてよくできた他の生徒を褒める。これは天性の懐の大きさだと思った。失敗は誰にでも起こる。まして駅伝の厳しさは監督自身が一番良く知っているし。

団体の順位が個人的な記録のトータルで決まるというのは少し残酷なような気がする。個人競技なら自分の調子が悪くても仕方がない、また頑張るさと考えればいいけれど、団体だと、あいつのせいで自分たちがせっかく頑張ったのに負けた・・・なんて思わないかしら。誰でも常に絶好調とは限らない。中央大学の最終ランナーはずっと首位にいたのに、最後の山登りで青学に抜かれた。

終わってから中大監督が思いがけなく晴れやかな顔で、明日も頑張ればと言うようなサバサバしたコメント、昔の監督ならげんこつが飛んだのではと思う。中大の最終ランナーが悪かったのではなく、それほど青学の記録が素晴らしかったのだ。

人はリラックスしたときに最も力が発揮できる。でもリラックスしすぎてもだめで適度な緊張を持続したあとでのリラックスが最強だと思う。

パリオリンピックで兄妹の柔道選手が揃って金メダル獲得の呼び声が高かった。しかし前日テレビで見た競技場を下見に来た妹さんのほうがあまりにものんびりした顔をしていたのでおや?と思った。周囲に悠々とした態度で手を振っていたのでこれはやばい!余裕で勝てると思っているらしい。

ああいうときは事前にギリギリに緊張しておかないといけない。それで少し疲れてよく眠れる。眠らなくても緊張の持続は時間が経つと一度緩むから、そこでリラックス。直前にもう一度緊張が来ても一度経験しているから二回目の緊張は少し緩め。そしていざ勝負というときにはすべて真っ白の中で集中できると、こういうのが一番理想的なんだけど。

例えばコンサートの前に全然緊張しないから、余裕で舞台袖で話したり笑ったりしていると最悪な事態になることが多い。舞台に出ていざ音を出そうとするといきなり体がこわばってしまう。そうなったらもう失敗街道まっしぐら。立ち直れなくなる。柔道の妹さんもそんなことだったのではないかと思うけれど、それでも失敗したことは良い経験と諦めてその後の競技を頑張ってほしい。

なんだかんだ言われても、学生たちは一人でひた走るだけでなく友人たちとの絆を深められるこの競技に魅力を見出していると思う。たった4年の特別な期間、輝かしい時間を共有し燃え尽きても、それは生きる者にとって最高の宝になる。失敗しても苦しくても、できるならやったほうがいい。横からとやかくいうことではない。

と思っていたら、カラコルム・シスバレーに新ルートを見つけるために4度目の挑戦をした登山家のドキュメントをやっていた。これはもう命がけの話で燃え尽きるどころか死を賭してのはなし。

前人未到のシスバレーの空白地帯に新ルートを見つけるために二人の登山家はほぼ垂直の雪の壁を登る。荒い息遣いが聞こえる。その人を上から撮っているカメラマンは同行者なのか、プロのカメラマンなのか。こういうときに登山家よりもカメラマンに驚嘆する。

今でこそ小さいカメラなどが開発されているけれど、そして今回の登頂にもそんなカメラが活躍していると思うけれど、昔は大きなカメラを担いで登山家やスキーヤーと共に上り、あるときは先に登って上から撮る姿が写っていたりすると、カメラマンの方が技術的に上でないとできないのではと思ったりした。

激しい風や雪崩に悩まされながら4回目の挑戦、北東壁のルートを見つけて2日目に下山した二人の山男は大きな肉にかぶりつく。どす黒い顔がところどころ赤黒く焼けて、どちらが誰かわからないほどそっくり。それでも嬉しそうに笑っている顔は可愛い。命がけで登るのはどんな気持ちなのか知りたい。登ったけれど降りるのはもっと難しいと思うのですが。

こうして1日中テレビを見て終わるのが毎年のこと。











2025年1月1日水曜日

あけましておめでとうございます

今年もどうぞよろしくお願いします。

このブログを始めたときは日記のようにその時の時代背景や自分の辿った道を書き残して置こうと思っていた。元々ろくでもない人間なので誰が読んでもつまらない、読む人などいないと思っていたら、思いがけないところでnekotama読んでますと言われてびっくりすることがある。まあ、物好きな。でもありがとう。

日記なら公開にしなければいいのだけれど、そうなると継続が難しい。ヴァイオリンも聴いてもらえなければ弾かなくなってしまうかも。それであえて公開することにした。自分だけで書いていると自身の心の毒をそのまま吐き散らしてしまう。いつも公開する前に下書きを読み直すと、自分の心のはけ口のみになって人に伝えようとする努力をしなくなっていることに気がつく。

何回か書き直してギリギリ人に伝わるように書き直す。そのあたりで心の毒を客観的に見ることができるようになる。冷静になれるのはその書き直しの段階で徐々にカタルシスをしながら自分を外側から眺められるようになるのだった。それは私にとって非常に大事なことになった。

思い込みの激しい自己中心的な性格なので、そうでなければ常に冷静ではいられないけれど、書くことによってそれを人に伝えるための作業がどれほど役に立っているか。プロの物書きではないので上手に描けなくても構わない。自分の考えが整理できたらそれだけでもよしとすることに。

そんな拙い文を長年読んでくださる方々、ありがとうございます。

元日の今日もなんの予定もなくぼんやりしていたら、自作の料理をぶら下げて来てくれた人がいた。何を話すでもなくテレビを見てアハハと笑ったりして帰っていった。お正月はこういう意味なく楽しめる貴重な時間なのだ。

雪国からは、自分の立ち位置からきれいな雲や空や海の写真がリアルタイムで送られてくる。家に座っていて目の保養。きれいな川が写っていたから「泳いでみて」とけしかけたら「川の水がわくまで待ってください」だと。どうやって沸かすのかしら。

そうこうしているうちに、だんだん自分の進むべき道が見えてくる。時々こういう時期が私には必要で、全く予想もしていない道筋ができることがある。あとから考えると、その道を歩いたのは必然だったと思うことが多い。努力をしたわけではない、導かれたのだとも思う。

自分がどうなるか大いに楽しみで、年齢的にはこれが最後の分かれ道。最後のチャンスはさてどうなりますか。

皆様の御多幸とご健康をお祈りしております😻nekotama