2025年6月5日木曜日

工事が終わって

レッスン室のドアはより防音効果が 大きくなって、隣家と隣接している窓も塞いで二重窓のガラスの真ん中に防音材を詰め込んだ。それだけでも今までとは本当に音のレベルが違ってきた。

長年壊れっぱなしでおいてあったオーディオ装置も外に出された。なんの役にも約立っていなかったチェストは玄関に追い出されてほんの少し家具が少なくなっただけでも響きが良くなった。あとは楽譜の整理、最も煩雑な仕事が残った。

楽譜はヴァイオリンを始めた当初からのものもあり、品質が悪く黄色く変色していて当時の日本の貧しい生活が忍ばれるというもの。それでも当時としては大変貴重で、戦後のいちばん大変な頃によくぞ買ってもらえたものと両親に感謝し続けている。私が21歳で入団した頃は、オーケストラの楽譜も手書きの楽譜が多かった。丹下吉三さんという写譜の名人がいて、オペラなどの膨大なスコアもことごとく写譜をした。

丹下さんのすごいところは書き直しがない。しかも譜めくりの箇所も独自の工夫でどのパートもうまく休符のところでできるようになっている。独特の筆致でひと目で丹下さんのものとわかる。まさに名手であった。今のように便利なインク消しとかコピーとかもない時代、気の遠くなるような仕事だった。丹下さんはちょっとお茶目で、弦楽器と違い管楽器などは一人で一枚の楽譜が独占できるから吹く人は決まっていて、その人だけが使うとわかると何かしらのメッセージが添えられていたりする。

その楽譜を使う人は、自分だけの貴重な楽譜と一層気合が入ると思う。丹下さんの楽譜はその後の急速な日本経済の発展とともに使われなくなったけれど、今でも私の蔵書に混じっていたりする。戦前からの日本のオーケストラの発展にはこういう人たちのご苦労が込められているのだ。捨てるに忍びないけれど、これも

楽譜の選別はなかなか難しい。カルテットの楽譜はたいていチェロのパート譜がかけている。整理を始めたはいいけれど、時には思い出にふけってしまったり、珍しい楽譜が出てくると試奏を始めたりで遅々として作業が進まない。床中に楽譜が敷き詰められて、いつ自宅に返してもらえるかわからない楽譜共はあくびをしている。

これらはあるべき場所に収まって、探せばすぐに取り出せるようにしたい。いつもレッスンの前に大騒ぎをして楽譜を探していると生徒たちは笑っている。先生の楽譜はしょっちゅう歩き回ってるんですよね、と。

全部引っ張り出してみたら同じ楽譜が何冊も出てきた。バッハのヴァイオリンコンチェルトなどは、数冊分、様々な解釈の違うものがあって、困り果てる。大合奏団が使うかと思われるほどの大量の弦楽アンサンブルの楽譜や、あらら、シェーンベルクの「浄夜」まである。これから先、いつ又この曲が弾けるのか、弾けたらいいなあなどなど・・・

人生の最終段階での貴重な数年間、つまらないトラブルに巻き込まれたことが返す返すも悔やまれる。しかし只今天中殺の真っ只中で来年からはもう明るい日々が待っている・・と思いたい。

多量の楽譜の整理は賽の河原で石を積む作業と同じで、整理すればするほど散らかっていくのが不思議。今や床に広がった楽譜の波に飲み込まれそうになっている。これが済んだらさぞ気持ちがいいだろうと、駄文を書いている暇にさっさとやれよと天の声が聞こえる。もう力がないのにこんなたくさんの曲が弾くけるわけないでしょう。それより私と遊んでよと猫の声。そうだにゃあ、でももう少し待ってと私の内なる声が。








2025年6月3日火曜日

気分は上々だけど

北軽井沢の庭にクリスマスローズがしっかりと根付いた。

久しぶりに北軽井沢に行って佐久平で美味しい蕎麦を食べ、浅間クリスマスローズガーデンを訪れた。佐久平は盆地なので夏は暑いらしいけれど、先日は少し霞がかった山々がぐるりと見渡せる高台にあるガーデンで心地よい風を受けて心あらわれる思いだった。

そこで癒やされた。初めてお目にかかったオーナーの穏やかな風貌と可憐な草花とは私にもう平常な世界に戻っておいでと語りかける。

去年私の森の家に植えたクリスマスローズは府中市にある農園のものだった。実に立派な株だった。見た目にもしっかりしていたので厳しい北軽井沢の冬を乗り越えることを疑いはしなかったけれど、木々の若葉が美しい今頃、こんなにもしっかりと育ってくれているとは期待していなかった。

今年はいつになく忙しく、北軽井沢に行くのがいつもの年よりも遅かった。見た目、庭は相変わらずボサボサで腐葉土が厚く堆積した土はなんの変化もないと思ったけれど、よく見ると植えて帰ったクリスマスローズの株の大半に花が咲いていた。この花は非常に地味で葉っぱと区別がつきにくい品種が多く、他の植物の影に埋もれてしまっていたのだ。しかし自分が植えた株がこんなに生き生きと根付いているのを見たときには本当に嬉しかった。

ここがまたこの花の特徴だけど、花が咲くか咲かないうちに摘んでしまわないと、株が丈夫に育たないのだという。それでは植える意味が全くわからないではないか。花だって咲いている意味がないではないか。種が落ちて繁殖することもできない。しかも株同士が密着しないほうがいいらしい。人間嫌いみたいな花なのだ。孤独を愛する人は多いけれど、花にもそんな性格があるとは思わなかった。

もっとすごいことに彼らは十分な太陽と水よりも日陰が好きで、乾燥にも十分耐えられるらしい。豊富な栄養も必要ないらしい。その彼らが生き生きと育ったのは、この森が長年手入れもされず放置されたことが良かったというしかない。

ノンちゃんが自然のままに放置したことが、この花々にとって最高の環境を作り出したのだ。彼女が生きていたらさぞ喜んだことと思う。返す返すも彼女がなくなったことが残念だった。

家の東側は庭の境界線の小川に向かって傾斜している。朝日はさすけれど、木々が茂っていて木漏れ日しか届かない。府中の農園主の女性がいったようにこの花は、日差しは木漏れ日程度、乾燥地帯でも厳しい気温の差にも耐えられる、雪も大丈夫、雪の下でたくましく生き延びるとか。

佐久平のガーデン主氏の言うことには、花は咲いたら切ってしまってドライフラワーにでもしたらいい。なんだか一生日陰で、こんな人生あり?それなのに欲しがらない、盗まない。清らかというか図太いというか、人の姿に変えて想像するに、筋肉質の自立した女性。声は柔らかなアルトでどんな境遇にいてもしっかり自分の足で立っていられるひと。素敵だなあ。

花々に心が癒やされて、そろそろ全快の兆しあり。もう過去は捨てようと思う。以前松本で街の真ん中にいても周囲に山が見えることに感激してこんなところに住みたいと思ったことが、今、半分実現できている。あとの半生を便利な都市部で暮らすか、毎日木々をわたる風音を聞き山を眺めて暮らすかそろそろ決断の時。

引退宣言以後、休んでいた演奏の再開を目指してリハビリ中ではあるけれど、最盛期のようには音がでない。それでも楽譜を読むに不自由はない。長年培った技術はそう簡単には忘れないらしい。

コンサート仲間からのお誘いもあって、私は不死鳥のように蘇るかもしれないのでその節はどうぞよろしくお願いします。












会長は亀?

 体内年齢が若い人がいる。老化は細胞の衰えに始まるらしい。ある種の人では細胞の老化が遅い。私達のスキークラブの会長の山田さんはその老化が特に遅いらしい。

ただいま90歳は超えて悠々自適、ピアノ調律師で日生劇場のバックステージ賞をとるなど、調律会の重鎮としての活動は知る人ぞ知る。90歳になる直前まで一緒にスキーをしていた。ある年、志賀高原で滑っていたとき、リフトから下りる通路でころんだ。これは本当に珍しく私は会長が転ぶのを見たのは長い年月でも初めてだった。

その後、会長がゲレンデの傍らで腕を組んで考えごとをしているのを目にして、ドキッとした。会長は自分を律するに大変厳しい人だった。ハチャメチャな連中と一緒に麻雀を楽しんでいてもよる9時には就寝、どんなに面白くてもきっちりと寝てしまう。他の人達は夜を徹してと言いたいところだが、よる年波で皆早寝になっていても会長ほどきちんとしてはいない。面白ければ夜中まで起きている。

会長は食べる量も決まっているようで、美味しそうに楽しそうに食事をしても過食で気分が悪いなどということは聞いたことがない。類まれな記憶力はだれもかなわない。細部にわたるまで覚えているので私達は彼の頭脳がどうなっているのか知りたい。転んでしまった直後会長はスキーをやめた。

そんな会長も最近は調律用の重たい道具を下げて電車に乗るのはできなくなったらしい。御本人がというよりご家族の心配が大きいらしい。私のピアノは何十年も彼の手で調律されてきた。なんとも言えない風合いで、鍵盤に触れると優しい和音が響く。弦楽器にとってピアノとのアンサンブルは戦いに近い。ピアニストは楽器の規模がまるで違うヴァイオリンに斟酌しない。ヴァイオリンは響きで音を飛ばさないとしっかり会場の片隅まで音がとどかない。

ピアノは鍵盤上を猫が歩いても音は会場中に届く。この違いが理解していただけないと良いアンサンブルは不可能なのだ。そのアンサンブルのために山田さんはあえて融通無碍に調律する。というより、ピアノの音階はヴァイオリン弾きにとっては理解できない。あ、その音もう少し高めにとか言いそうになる。オクターブを無理に12音に分けるので仕方がない。おや?と思っても、山田さんの調律は和音で弾けば深々と鳴り響く。まさに名人芸!そんな調律が好きで長年お願いしていたけれど、最近は重たい調律の道具を持って1時間以上電車に乗ってくるのはできないとおっしゃるので、ついに調律師を新たに探すことになった。

山田さんによれば調律は数学と深い関係があるそうで「サインコサインの世界ですよ」と聞いたときにはびっくりした。計算ずくでもあるのだ。ピタゴラスがやったらさぞ名人だったに違いない。山田さんが来られなくなったのでしばらく調律はほったらかしに。しかしそろそろ耐えられなくなって会長ご推薦の人をお願いすることになった。約束の日、ニコニコとして玄関に現れた人は明るく気さくなスタインウェイピアノの調律師のIさん。名門のピアノと私の家のピアノは雲泥の差と言われそうでかすかに緊張したけれど、でも友人たちが作ってくれたピアノ。作成に二年かかった。本体と鍵盤はヤマハ、椅子はカワイ、中身はベヒシュタインなど。

調律途中で覗きに行くと、新しい調律師に訝しげに「このピアノはどういうものですか」と尋ねられた。経緯を言うと「ああ、おもしろい、そうですか。いい音がしますね」ホッとした。私は友人が作ってくれたという理由だけでなく、本当に柔らかな音が好きなのだ。

二時間以上かけて調律が終わって、少し休憩をしながらIさんとお話をした。山田さんとくればスキー、彼も山田さんのスキー仲間だったというので私は嬉しかった。つい自慢したくて私が一番最後に買った板を見せた。これは北海道で作った「もく」というスキーです。白木の軽い板で、力がなくてゲレンデを担いで行くときなどは、私の分も先生が担いでくださるから気の毒で、軽い板にしたのだった。ビンディングも一番軽いものに変えても素早く滑る事ができる。そこらでお目にかからないから珍しがってフランスのヴァルトランスに行ったときにはよく質問された。「どこのスキーなの」と。

一気に話が盛り上がって、調律師はかえっていった。小手調べに鍵盤に触ると、抜けるような明るい音がする。これほど調律によって変わるかと思うほどの違い。今までアンサンブルだけで使ってきたけれど、久しぶりにソロが弾きたくなった。大好きなモーツァルトとシューマン。数十年ぶりにピアノを弾くと心が弾む。それから数日間、ピアノを練習したけれど、少しもうまくならない。

素敵だなあ、こんなにも違う二人の名調律師が私のピアノに関わってくださるとは。山田さんの調律は、深い森の中で木の葉のさんざめきや郭公の鳴き声などとともに安らぎを覚えるような、Iさんの調律は明るい5月の草原の輝きのような。

古い話になるけれど山田さんは、あの、ルービンシュタインから「モーツァルトの調律はミスター山田にやってもらいたい」と言われたそうなのだ。山田さんが調律を終えて気持ちよさそうにピアノを弾き始めると、軽やかで楽しげ。ドアの外でしばし聞き惚れたものだった。

人間は徐々に細胞が老化していくけれど、亀やトカゲなどは死ぬまで細胞が老化しないそうで、今その老化しない細胞の研究がされているようだ。するというと山田さんはもしかしたら亀だったのか。











2025年5月31日土曜日

ツンデレ

うちの、のんちゃんはツンデレ。元野良猫

ツンデレとはなにかとずっと思っていた。よくネットでお目にかかるので多分あんまり褒められたものではないと思っていたけれど、なんだ、簡単にツンツンデレデレの略だそうで、いつも私はのんちゃんにツンデレされている。ずっと意味謂がわからずやっとAIに教えてもらった。

のんちゃんは元野良猫。それも筋金入りの。きれいな毛並みのハチワレ乙女だった彼女もすっかり年をとって、家で寝ていることが多い。お兄ちゃんのグレちゃんはご近所の人気者で皆さんに可愛がられているけれど、のんちゃんは好き嫌いが激しくて人馴れできない。
人間もそうだけど、おおらかな性格は本当に幸せなのに、気難しいと苦労が多い。警戒心が強くて出会った頃は決して数メートル圏内に入ってくることはなかった。

それでも毎日餌をやっているうちに、最初は尻尾に触らせ次は鼻先を近づけというようにセンチ刻みで近寄ってきて、このあたりで彼女にさわれるのは私だけとなった。彼女を抱っこしていると通りすがりの人達が「あらまあ、よくだっこできるわねえ、この子は絶対に触らせてくれないのに」これはちょっと嬉しかった。きっと皆さん衛生面のことから触らないようにしているからだと思うけれど、野蛮人の私は動物に平気で触れる。多分免疫力が半端ないと思うので。

野良猫はバイキンの巣窟。でも彼女は見た目、すごくきれいでよごれていない。もしかしたら飼い主がいるのではと思うほど。長い時間をかけてだんだん警戒心が解けて今は私と同じベッドで寝るようになった。

私が野良猫でも平気なのは子供の頃から動物と慣れ親しんできたせいだと思う。実家にはいつもたくさんの動物、小鳥や鶏、アヒル、猫は入れ替わり立ち替わり、野良犬もくる。金魚や鯉、ネズミからヘビ、ヤモリ、トカゲ、ゲジゲジに至るまで、もう数え切れないほどの野生動物が共存していた。決して山の中の家ではないのに、家族がたくさんいて良く言えばおおらか、よく言わなければズボラでだらしない。こういう家は子供と動物には天国なのだった。兄弟が多いのにそれぞれ自分の動物がいて、これでは増えるのは当たり前。

北軽井沢に初めて行って前の持ち主のノンちゃんの家を見たとき、私の実家の裏庭にそっくりだと思った。前庭は祖父が風流人だったので大きな松、牡丹や躑躅の大株や珍しい植木が植えられ池もあってちゃんとした庭があったけれど、裏庭はあまり手入れがされず私の縄張りになった。

竹藪、群生する枇杷の木、葡萄棚、月下美人が怪しく咲いてボサボサ。面積は前庭より更に広く、子どもの空想力を高めるにはうってつけの環境で、一人遊びの好きな可愛げのない子どもの秘密基地、お稲荷さんには狐様がいて古い井戸があって・・ちょっと身震いが出ますよね。その裏庭には戦後のドサクサで誰かが住んでいた。家人も全く知らない人でテントを張って。親は呑気で追い出そうともしない。しかも家の廊下にも居候のなんとかさんが寝起きしていたし。
子沢山で親の目が届かないところで何があってもおかしくない。よくぞ大人にまで生きながらえたものと思う。

ノンちゃんの家を見てすっかり気に入ってしまったのはこのせいだった。ノンちゃんも自然のママが好きで庭木の枝は伸び放題、葉のしげるまま。「いいわねえ、実家の庭そっくり!」ひと目で気に入った私にのんちゃんはこの庭を託してくれたのだった。

私の裏庭遊びは小学生の間ずっと続いた。蜘蛛の巣が張られるのをじっと見たり、木々の梢が空に広がってコジュケイの鳴き声が聞こえたり、その中で動かず頭の中だけで想像力を膨らませた。そんな私は傍目に気持ち悪く、小学校3年生のときの担当教師は「子供らしさがなく可愛そうです」と通信簿に書いた。それを読んだ私は激怒した。もともと大っ嫌いな教師だったので絶対に懐かなく、父親が心配してその教師に相談したふしがある。子供らしさ?なにさ、それ。

その教師の前では私は大変な問題児となって、でも、今思うに、その教師が問題だったのではと思う。もし皆さんの周りにボーっとして傍目わけがわからない子どもがいても放っておいてください。私はずっと様々な観察と考え事をしていた。それがおとなになってからどれほど役に立ったことか。特に私を音楽に導いてくれたのもその御蔭だったと思う。父は私が考え事をしていると嬉しそうに「今なにを考えてるんだい?」と訊いてくれた。「なんか面白いことだろう」と。父と私はそっくりなのです。

そしてうちののんちゃんに戻る。のんちゃんは賢こすぎる程で、その分神経質で警戒心が強い。私にも本当に気を許してはいない。けれど、情が深く本心は甘ったれ。それが様々な場面でツンデレとして現れる。私がパソコンに向かって作業をしていると甘えたくなって膝に乗ってくる。デレデレとしてから愛情の発露で爪を立ててくる。それが痛い!爪を外すようにすると嫌な目つきで睨んでくる。それが怖い!

挙句の果てはバリバリと爪を立てながら膝から降りて怒りながら向こうへ行ってしまう。ツンツンして。これがツンデレだそうで、今まで意味がわからなかったのはどうしてかしら。もっと難しい表現かと思っていたので。人は単純でないといけない。
































2025年5月26日月曜日

相馬野馬追い

相馬野馬追いがテレビで報道されて、おや?と思った。なんだかずいぶん早くから取り上げているのね。いつもは梅雨明け前後に催されるのに、なにかの特集でも?と見ていたら、馬の健康状態を考えて涼しい中に行うようになったらしい。いや、馬と人の健康という方がいいかもしれない。

今から40年ほど前には毎年のように原ノ町の親戚の家に泊まり込んで見ていたので、暑い日差しと馬の疾走はセットになって思い出となっている。たしか6月か7月の最後の土日ではなかったかと思う。

私は馬が好きで本当に飼いたいと思っていたので、ここの親戚に行くのは馬の飼える場所を探していたから。馬を飼うために山一つ買って、いずれは私もそこに住もうという予定だった。しかし、当時のわたしの仕事は多忙を極め、馬どころか自分の身体を健康に維持するにも手が回らなかった。原ノ町の親戚は土地探しに付き合ってくれたけど、なかなか思うように決まらず断念した。

その家の前の大通りが野馬追の騎馬武者行列の通り道だった。農耕馬の太い足と穏やかな顔が可愛くてたまらない。この辺の殿様は相馬さま。ある年には、まだ大学生だった相馬家のお世継ぎが行列の先頭で馬を走らせていた。そのお坊ちゃまは、ほうぼうに親戚や土地の有力者や何かを見つけて、馬上から挨拶していたのがおかしかった。御殿様が「あ、どうもどうも」なんて、可笑しいでしょう?しかも茶髪のよく似合う若者だった。

圧巻は競馬。広場で行われるので少し早めに行って待っていると、遠くから異様な物音が聞こえ始めた。馬の蹄の音とも違う、今まで聞いたことのない音、遠くから馬の軍団がかけてくる。その物音は長い竿に取りつけられた旗が風にはためく音だった。旗が起こす風音が集団となって、地の底から湧き上がってくるような異様な音になる。近づくと馬の蹄の音、甲冑を着た武者姿の騎手たちの雄叫びの声。体を揺さぶられるようななんとも言えない響きに圧倒される。

馬の速さを競ったり、花火のように打ち上げられた布(タスキ?)なんという物はわからないけれど、長い布を奪い合って、それを手に入れた者はゴール地点へ向かう急な階段を駆け上がる。雄叫びの声や歓声や興奮は一気にクライマックスへ。今年は女性の騎馬武者も活躍したようだ。

結局馬のための山は見つからなかったけれど、そんなことをしていたので今私がノンちゃんから譲ってもらった北軽井沢の土地が手に入ったというわけ。でも北軽井沢の別荘地では馬は飼えない。管理人さんいわく「ま、犬までですね」

乗馬が大好きで千葉のクラブまで暇があればせっせと通った。馬の目は長い睫毛に縁取られ、体温が高いので触ると温かい。乗馬が終わって馬に水をやり、蹄の裏についた泥をかきだす。その間、こちらは後ろ向きで脚を持ち上げて泥をこそげ取る。次は反対側に回って自分の体重を馬の腹にかけて、馬の脚を浮かせて同じことをする。その間大人しければいいけれど、おちゃめな馬はいたずらを仕掛けてくる。時々カプッと二の腕を噛むこともあった。馬はそっと優しく噛んだつもりでも、しばらく青紫のアザが残ることも。それでも可愛くてたまらない。

乗馬が大好きで千葉のクラブまで暇があればせっせと通った。スキーと乗馬は未だに夢に見るほどなのに、もう今はできなくなって残念。年を取ると諦めなくてはいけないものが増える。賢い人はそこで老境に満足して穏やかに過ごせるようになるのに、私は未だ煩悩が消え去らず、欲深なのが困ったことです。





2025年5月23日金曜日

しっかりしなさいよ

 今年は仕事をやめた宣言をしたから、もうすっかり暇になって悠々自適と構えていたら、とんでもない誤算。まず、より美しい終焉を迎えようと企てたことで大忙しとなった。

北軽井沢を終の棲家にするか、都会で便利生活を楽しんで終わるかの決断はついていない。北軽井沢の森の生活はここ最近すっかり様変わりとなった。私の家の周りは定住している人が多いらしく、夜になると煌煌と電飾が点く。以前は怖いほど真っ暗だった森が陽気に様変わり。我が家の先住者のノンちゃんが生きていたら、さぞがっかりしたに違いない。

でも私は人の気配があるので以前のように緊張感がなくなった。どちらが良いかといえば静かな森がいいけれど、夜中にあまりの暗さと寂しさで心細く思うこともある。電飾の家はそうしたいならもっと都会でやったら?とも思うけれど、人それぞれで文句は言えない。周囲の4,5軒が毎日夕暮れになると明かりが灯る。

特別お付き合いをしたいとも思わないけれど、今朝、初めてご近所さんと会話を交わした。自宅隣の土地を購入して広々とした庭に改造中の男性は、造園業の職人さんを使って庭作りを始めた。私の家はノンちゃんの代から森の木には手をつけていない。伸ばしっぱなしの原生林の面影が濃く残っていた。

もしノンちゃんが木の手入れをもう少しやっていたなら、私は楽にしていられたのにと思う。なにしろ家の玄関ドアを開けると樹齢の見当もつかない巨木がそびえ立つ。この木こそノンちゃんが愛した自然のシンボルなのだ。繊細でいながら勇敢でおおらかなノンちゃんの人柄そのもののような。

それは素晴らしいのだけれど、ここの生活を始めて知ったのは、木の管理ってすごくお金がかかるのだ。 なにしろ樹齢の古い木は枯れ枝も巨大で、折れて落ちたら人や車に甚大な被害を及ぼす。私は神経を尖らせて点検に暇無い。家の屋根のはるか遠くの空に伸びる木の枝は高所作業車の厄介になるため、特に費用がかかるのだ。

枯れ枝の落ち方もダイナミック。ドシーンと夜中に音がして飛び起きた。朝庭に出たら、この巨木に寄生をしていた直径5センチもあろうかという太い蔦が数本まとめて落ちた音だった。これだけの太さになるには数百年もかかったに違いない。それを私がある日まとめて木の根っこの方から伐って枯れさせたのだった。こういう自然のダイナミックさを見てきたから、どうも電飾はいただけないと思っている。チャラくなってしまうもの。なにも森に住まうこともないのにと、ブツブツ・・・・

木にお金がかかるから私の家では造園に回すほどのお金はない。それで庭はふり積もった落ち葉の自然の腐葉土がフカフカと積もっている。それを取り除くときれいに苔むしたりして風情ある庭になる。私はノンちゃんと同じ考え方だからそれらを活かした庭にしたい。きれいに花のさく花壇にしたい。でもあまり手入れが行き届いた作られた庭は面白くない。

土地の条件をそのままにできる植物は何かと考えて、クリスマスローズが第一候補に上がった。去年府中市にあるガーデンを訪れて30株ほど手に入れた。この変わり者の花は性格は強く変わり者で一癖も二癖もある。花は地味で日陰を好む。太陽や水はそれほど欲しない。花同士が密着したくない。しかも条件によってどんどん色やはなの形を変えるという神秘に満ちた種類なのだ。

去年植え時のチャンスを逃して遅れがちになったので育つかなあと危惧していた。しかも森の土壌は腐葉土で根がしっかりはれないかも。木が多いからほとんど日陰という植物には条件が悪すぎる土地。

数日前、今年始めて北軽井沢に行くことができた。真っ先にクリスマスローズの植えられた場所にいった。驚いたことにひどすぎる土地の条件からは考えられないほどしっかりと根付いて、ツヤツヤと葉が輝いていた。なんて天邪鬼な花なんだろう!特に半分以上日陰の場所はクリスマスローズ天国らしい。見事に花がいっぱいついていた。しかし面白いことに、その花は咲いて種の袋ができる前に切り取ってしまわないといけないという。そうでないと株が弱ってしまうらしい。

株同士が近寄りすぎるのも警戒事案だそうだ。要するに人間嫌いの人が他人と交わりたくなくて距離をおくようなもの。しかも花の色も徐々に変わっていったり、日に当たりすぎると弱ってしまうらしい。そういう人はよく見かける。私自身にもそんな面がある。

ヴァイオリストの北川靖子さんとは仕事も遊びもよく一緒だった。彼女は私より年下だったけれど数年前に亡くなってしまった。自分の命が尽きることを察していた彼女と、亡くなる直前まで二人で旅行をした。唐招提寺、東大寺、京都御所などなど。東大寺では仏像が公開されていた。私はそこで出会った多くの仏様に北川さんのあの世の旅路の安らかなことを祈った。本当はこの世でもっと一緒に歩きたかった。でも私にも実際のことはわかっていた。私達は黙っていても、もうこれがお別れと察していた。

北川さんはちょうどクリスマスローズみたいなところがあった。激しい治療の激痛に耐え、愚痴もこぼさず平静さを保っていた。入院すると毎日メッセージが届いた。コロナのさなかお見舞いにも行けず歯がゆい思いで毎日メッセージをおくった。そしてある日ふっつりと返信が途絶え、訃報をきいた。

優秀で実力があるのに地味で威張らない。常に冷静で泣き言一つ漏らさず、ユーモアの感覚が抜群で、ときに楽しげに笑っていたひとだった。時々急に電話がかかってきた。「今日ひま?上野の博物館にいかない?」とか。

彼女が受けた治療内容の壮絶さを聞いたときには、言葉を失った。それを淡々と話す彼女の強さを今でも思い出す。ちょっとしたことにもすぐに泣き言を言う私とは大違い。今彼女が生きていたら静かな声で「しょうがないじゃない。しっかりしなさいよ」とでも言うかもしれない。











2025年5月17日土曜日

うるさい車

車の運転が大好きでもう運転歴60年、無事故で通してきたけれど最近は怖いことばかり。

無事故と偉そうに行っても、時々電信柱がすり寄ってきたりして擦る程度のことは数回。違反も少々。免停は一度。スピード違反で罰金6万円もとられた。キャイ~ン!

でも昨今の交通事情はなにをかいわんや、異様なことが多すぎる。人に怪我させて逃げる。わざと子どもの群れに突っ込む。悪質なあおり運転。

車が売れなくて自動車会社が窮地に陥っている。でも、これわかる。こんなに自動車がつまらなくなったのはあなた達のせいよと言いたくなる。私が乗るのは当然ながら安くて小回りのきく小型車。もっと上等なのに乗れば違うのかもしれないけれど、大きな車は自分の身体のサイズ(特に足の長さ)に合わない。

初めて免許を取ったときは車種が限られていたから、大きなセドリックで教習と試験を受けた。外側から見ると私はステアリングの下に顔があって、無人自動車ではないかと思われた。今の車みたいに運転席の調節も限られていたから、座布団持ち込みで教習に通った。たしか教室側にも用意があったと思う。たまたま自宅にあったのもセドリックだった。

そんな時代だったから今のように小うるさく、シートベルトしろ、白線はみ出すな、前の車に気をつけろのなんのかんの、車は無駄口をきかなかった。マニュアル車が普通だった頃には、時々エンストしたりガス欠したり、でも全ては自分の責任だった。シフトレバーを選ぶのも自分で、その頃の山道の運転はほんとうにおもしろかった。

今時の車は助手席にスイカを2つ乗せたらシートベルトをしろという。このものたちがシートベルトをしないで事故でもあったら、割れて真っ赤な汁が出て救急車を呼ぶとでも思っているのかしら?うるさすぎて腹が立つ。ドライバーを信用しない、運転中の集中力を妨げる、余計なお世話ばかり。いかにも親切ぶってとどのつまりは事故に責任持たない。うるさく言うなら最後まで事故を防ぐ仕組みでないといけない。最終的な危険回避に責任持つ自動運転車でないといけない。

バッテリーが上がったことがあった。ある猛烈に暑い夏の日、北軽井沢に出かけて一夜明けてさて、出かけようとエンジンを始動させようとしたらかからない。まだ新車で買ってから1年ほどの頃。

もちろんバッテリーがそんなに早く減るわけもなく、半年ごとの定期点検もバッチリ。自動車会社に電話した。北軽井沢は軽井沢の隣だから車屋さんも多いし、同じメーカーもあるはずだからそこからレッカー車を回してもらえると思ったらとんでもない。JAFを呼べという。たしかその会社の保険に入るときにJAFと同じサービスが受けられると聞いたのに受けられない。軽井沢の支店に車を引き取りに来てもらえないかというと、それもできない。

なんとレッカー車はJAFの群馬支部から来るために4時間もかかって到着。バッテリーについては私がヘッドライトをつけっぱなしにしたとか自己責任みたいに言うけれど、この車はエンジンを切ればヘッドライトは一緒に消える。室内灯をつけてあったのでは?とか言うけれど、室内灯はよほどのことがない限りほとんどつけない。それにあの真っ暗な森の中で灯りがつけっぱなしだったら気が付かないわけがない。

その日はあまりの高温で、方々でバッテリーの異常な故障があったと聞いた。それをドライバーのせいにするなんて!高温とバッテリーの関係についても説明はない。だんだん不信が募ってきた。

ある時、定期点検で私は整備士に頼んだ。タイヤのバランスが悪いから空気圧を同じにしてほしいと。高速を走るから危険のないようにと言ったら、いかにも意外と言わんばかり「え、高速を走るんですか?」こんな婆さんが4時間もかけて自宅と北軽井沢を行き来しているとは思わなかったらしく、鼻で笑う感じで答えた。車を受け取って自宅に帰るときに整備が甘いなと感じた。やはり少し何かが違う。本当に空気圧を点検したの?まだ、それほど重大には考えていなかった。

しかしそれからも車のバランスが悪い。徐々に運転しづらくなっていく。おかしい。もう一度空気圧の点検を頼んでしばらくするとまたどうしても変。本当に空気圧点検したのかなあ。3回目には非常に強くタイヤを見て頂戴というとやっとタイヤの穴開きが見つかったという。穴が小さかったから少しずつ空気が減っていく。でもプロの整備士がそれに気付かないとは考えられない。やはり私が言う言葉を信じなかったのではないかと思う。年寄りのひがみかなぁ、これって。

あとからヘラヘラとお世辞混じりに「あんな小さな故障に気がついたのはnekotamaさんが毎日運転しているからですよ」とか。でもね、安全に走るために必要なのは、まずブレーキとタイヤ、足回りの整備。整備不良車で事故起こしても年齢のせいにされたらかなわないわねえ。もしかしたらアクセルとブレーキ踏み間違えとされた事故の中に整備不良車も混ぜて考えないといけないのでは?

そんなわけで数年ごとに新車に乗り変えられるシステムがあって、今回もすすめられたけれど、もうそれは使わない。私はそもそも新車に乗りたいわけじゃない。大事に車と向き合って会話しながら馴らして行きたい。それなのに、ああしろこうしろ、うるさすぎてかなわない。誰がこんな車作ろうなんて頼んだ?本当に運転好きなら物言わぬ車のほうが運転に集中できるのに。だから車が売れなくなるのだわ。

それよりも整備よろしく。高齢者ドライバーが気がつく程度のことをプロの整備士が見逃すなんてねえ、世も末です。











2025年5月14日水曜日

工事がはじまった

レッスン室の防音と防熱、防犯のためにドアや窓をより強化したいというのは以前からの計画だった。いつもリフォームをやってもらうのはOさんの会社。信頼できる工務店が見つからず方々に依頼してもなかなか満足がいかなかったのが、たまたま姉の知り合いが近所に会社を立ち上げたというのでお願いしたことから、ずっと長いお付き合いが始まった。

Oさんは口やかましく、職人さんの仕事にずっとつきっきりで文句を言う。それをもの柔らかく受け流して黙々と作業をする職人さんたちは陽気で時間にきっちりしていて、もちろん仕事もバッチリ。だからOさんはガミガミ言う割にはもしかしたら優しいのかもしれない。あんまりうるさいときには私が口を出す。「そんなガミガミ言いなさんな。私が怒られているみたいじゃない」とか。

そんなチームできっちりとスケジュールが決まったとおりに進行するので私も行動の計画が立てられる。

初日はピアノや楽器類に工事のホコリや傷が及ばないように蔽いする。作業が終わるころ行ってみたら床にはシートが敷かれ、ピアノや家具類はすっぽりとビニールで覆われ、お化け屋敷風に様変わりしていた。これだけでも大変な作業ということがわかる。普通私のアパートくらいの安普請ならここまでやらなくてもと思うけれど、社長がうるさいので手を抜かない仕上げになっている。

今日はドアの交換、サイズが変わるのでドア周りの壁を切り取り新しいサイズの枠を作る。コンセントの位置や分電盤の位置をずらすため天井まで切り取ってあった。しかもまんまるに。この作業見たかったなあ。どうやってこんなに丸く切り取れるのか。本当はずっと見ていたかったけれど、外野がいると作業がやりにくいから迷惑だと思って遠慮していた。私はこういう現場を見るのが本当に好きで、建築現場を見つけるとしばらく足を止めて見ていることがある。大抵は警備員に追い払われるのだけど。

外の現場ならずっと見ていると思うけれど、狭く足元が悪い室内では職人さんたちのじゃまになる。いつも思うのは私が建築に関わる仕事でなくて良かったということ。ネジ一本、足りなくても危険なこともある。私のようにうっかり屋で、最後の一本の釘を打たなかったために建物崩壊に繋がりかねない。

以前、大きなマンションの土台のコンクリートの柱の寸法が足りず、地面に打ち込まれていなかったという信じられないようなことが報道されていた。その為にしばらくすると建物に亀裂が入りはじめ壁が落ちたりしたようだけれど、その後あれはどうなったのかしら。きっと私みたいないい加減な人間が計算間違ったか、経費節約で故意でやったのか。故意なら随分ひどいことやってくれるじゃないの。大手の不動産会社なのに。

今日の最後の作業が終わって覗きに行ったら、新しい綺麗なドアがスッキリとはめ込まれていた。ものすごく重たいらしい。アルミか何かで表面は薄茶の木目っぽい仕上がりで、今までの周囲の壁紙が安っぽく見えるから、ここをアラビア風の模様にしたらいいわねと言ったら、なにを馬鹿な!ふうな目でみられた。私なら思い切り派手な色で陽気に飾りたいところだが。クソ真面目に、ほかが白い普通の壁紙ですので合わないと思いますと返事がきた。わかってるわい、そんなこと。

困ったのは、せっかくヴァイオリンを弾き始めてやる気になっていたのに、練習ができない。もはや私の生きるエネルギーの元は音楽しかない。引退したらもう一度放送大学に行こうなどと思っていた。絵をおかきになったらなどと唆す人もいた。うん、それもいい。これからゆっくり本を読もうと思ったけれど目が言うことをきかない。旅に出たいけど猫が足を引っ張る。体力気力ともに新しいことに挑戦できる時期はとっくに過ぎている。

もう一度算数からやり直して数学を勉強するのもいいなとか、だいそれた事も考えた。私はショベルカーなどの特殊自動車の運転もしてみたい。欲深で結局一つものになったことがない。一番おもしろかったのがヴァイオリン?指がこんなに曲がらなければもう少しステージに立てたのに。

ピアノは指が曲がっても音程に関係ないから、モーツァルトのニ短調の幻想曲を練習している。でも工事中は練習できない。歌も歌いたいけれど、そのうち我が家にはホラー現象が起きると噂がながれるかもしれない。夜な夜な絶叫が聞こえるとか。ただでさえ評判の悪いうちなので。













2025年5月11日日曜日

マンナンライス

 若くてウエストに全く贅肉がないきれいな女の子が腰をくねらせて踊るコマーシャルはしょっちゅう見ているけど、興味がなくてなんのコマーシャルなのかも知らなかった。お米を買うということもなかった。大抵はさとうのご飯で済ませてしまい炊飯器をつかうこともなくなっていた。

最近のコメ不足の報道を見てスーパーの米売り場に行ってみるとなかなかの値段がするものと判明。高いなあ。最近、パエリアを作ろうと思っていて、家に米の備蓄がなく、さとうのご飯ではできないからどうしても米を買わねばならない。ふと隅っこを見るとマンナンヒカリなるものが小さな袋で売られていた。私はこれを少量販売のコメだと思ったから買ってきた。2キロや5キロなんて買ってしまうと我が家では10年くらいなくならないから、この大きさはすごく助かる。

朝ご飯を炊くかさとうのご飯でいいか考えたけれど、そういえばマンナンライスをまだ使っていない。早速炊いてみよう。袋を開けると米粒が小さい。ふーん、これで膨らむと普通のご飯になるものなのか。サラサラ軽いし、少し透明感がある。そこで普通の人は気がつくものなのに、私の天才的な脳はなにか米に特殊加工がされていてそうなっているものと考えた。

あんなにコマーシャルで毎日流されているのに気が付かないところも世界の七不思議。それも音楽の途中の合いの手が「にゃくにゃく」って。このニャという響きに弱い。猫がにゃあというのが可愛くてやたらに反応するのですのにゃ。

なんで家でご飯を炊く気になったかというと、先日見つけた弁当箱型炊飯器。ほんの少しの量でもご飯が炊けるらしい。新しもの好きな私はすぐに飛びついて先日はこれでご飯を炊いてみた。それで炊いても感激するほどではないけれど、マアマアの美味しさだった。それで今回ももう一度と思って準備を始めた。ところが前回使ったはずの取説がみあたらない。一度やれば覚えるかと思い捨ててしまったか。

私の頭脳は日に日に衰えて怖いくらいだから、先日どうやったかは全く覚えていない。水とコメの分量も定かでない。でもやって失敗すればもう一度考えればいい。場当たり的な思考の持ち主はいつもこれで失敗する。

コメと水の分量は多分同じでいい。一度コメを水に浸しておくと良いと書いてあったっけ?マンナンヒカリをおぼろげな記憶で計量して入れた。そして水もほぼ同じ?しかし失敗して器械を壊すといけないから一度は鍋で炊いてみよう。火にかけて沸騰して2分、なんだか変!蓋をあけると、なんと!もうご飯がたけている。まさか。

しみじみとご飯を見つめて考えた。このコメは特殊な加工が施されていて早炊きなのか。改めてマンナンヒカリの袋の説明を読むと、米を洗って水切り、マンナンは洗わずに米と一緒に・・・なんだ米と一緒にって・・・これはコメではないのか。

すでに炊きあがった米を食べてみたら、なーんだ、こんにゃくだあ。炊きたての御飯の甘みも香りもないけれど、食べて食べられないものでもない。なすと鶏肉のお浸しを混ぜて美味しくいただきました。特に今日の朝ご飯はカロリー控えめ。納豆にも合わないでもない。ダイエット効果抜群。これを食べていたら、私も贅肉ひとつない、すべすべのウエストのコマーシャルのお嬢さんたちみたいになれるかも。乞う、ご期待。ニャクニャク。

投稿してから一夜明けて、今朝気がついた。コマーシャルの歌の歌詞は

こんにゃく畑で🎵🎵🎵🎵って  ちゃんと蒟蒻って言ってるのをずっと聞いていたのにホント、馬鹿ですね。それに弁当箱型炊飯器の水加減も思い出して、今日は本当のお米が食べられそう。バカバカしいおはなしで申し訳ない。やはり睡眠は脳のビタミンですね。



















2025年5月6日火曜日

友来る その2

 雨模様の多い日が続きやっと晴天になったその日、友人Hさんはなぜか大きな荷物を持って楽器を背負い我が家に来てくれた。前回は彼女の家にお邪魔してカレーライスをごちそうになったから、今回は私の手料理でおもてなし。しかし、これを食べたら不味くてもう二度と来てもらえないのではと思ってためらったけれど、もう取り返しはつかない。

彼女の大きな荷物の中からお菓子や楽譜や手品のようにたくさん出てくる。年齢は彼女のほうが若いけれど、それにしても私はこんなにたくさんのものを運べないから骨が丈夫なんだなと感心した。帰宅しても具合が悪くなったという知らせはこないから、私の手料理で中毒はしていないらしい。

やはり練習を始めると音が違う。しっかりと骨太、個性の強い説得力のある音楽性。いやはや現役は強い。私はといえば、この練習が決まった時点で慌ててヴァイオリンを弾きだしたから、心のないか細い音。この楽器は非常に良い音が取り柄なのに、あまりにも長く放って置かれて心底怒っているようだ。頑として鳴ってくれない。

しかし久々の演奏は本当に私の命を呼び戻してくれた。久しぶりに心の底から笑った。マックス・レーガーのデュオはなかなか癖のあるもので、練習を始めた時点で覚えるのに苦労すると思えた。初見で一通り弾くくらいでは覚えられないし、しょっちゅう鍵をなくす私は脳みその衰えを二重三重にも思い知らされた。

だがめっぽう面白い。こんなに面白いことを放置して、残り少ない人生を無駄に使ったことは返す返すももったいないことをしたとおもうけれど、実際に体を動かそうと思っても動かすパワーも枯れ果てていた。やっと息を吹き返したようだ。

Hさんには感謝しかない。彼女が粘り強く私を放置しないでいてくれたことが、なによりも私の復帰に関与した。もちろん指が曲がったために音程が定まらなくなってしまったが、なんとか修正しながらのおぼつかない復帰だけれど。

ピアノの調律は山田宏さんの引退で、非常に優秀な方が引き継いでくださることとなった。スタインウェイピアノの調律師。山田さんの調律に慣れていたのでそれぞれの個性の違いに驚いた。山田さんの音は弦楽器に近い森の中の木々の梵のような、えも言われぬハーモニーが深々と響く。新しいかたの調律はしっかりと主張する明るいピアノの楽しげな心踊る響き。どちらも納得の素晴らしさ。こんなに調律で個性が変わるのだ、お二人の名人の音比べを楽しんだ。本当に良かった。

それもきっかけとなって最近ピアノを弾き始めた。モーツァルトの幻想曲二短調、それと歌も歌い始めた。オペラ名曲集に載っている「ボエーム」より「私の名はミミ」Fの音から上は絶叫!表に聞こえると110番通報される悲鳴に聞こえるから、音楽室の防音強化工事が来週から始まる。

歌に関しては先生を見つけようと思って歌の友人に声をかけたら、とんでもない大物を紹介されそうになった。あまりにも恐れ多いから、ご辞退申し上げた。まさかこれからオペラ歌手になるわけでもないのに、でも名手に教わるのは大変興味深いからどうしましょう。

人生の終焉はやはり音楽でというわけ?残念だなあ、ほか才能の可能性も花開く前に終わってしまうのか。でもやはり音楽が好き。体が2つあるといいのにね。

兄は理系の研究者だったけれど、大変高齢になってもまだチェロを練習している。だから私も、ほかの職業であったとしても音楽を手ばなせないのかもしれない。














友来る その1

オーケストラ内でも気の合うのや合わないのや色々いたけれど、しょっちゅう一緒にカルテットを弾いたりなにかにつけて合わせものをしていた人がいた。私がオーケストラを辞める前にしばらくオーケストラでも並んで弾いていた事があった。

彼女Hさんはセカンドヴァイオリンのトップだったし私はファーストヴァイオリンの一兵卒だったから、入団後の10年ほどは並ぶことはなかった。けれど、10年もやっていると飽きっぽい性格の私は変化を求めたくなる。

ファーストヴァイオリンはオケの花形!と言ってもほとんどの場合旋律を弾くだけで慣れてしまうと退屈でもあった。私は当時のコンサートマスターの鳩山寛さんという方に影響を受けて、内声部の面白さに目覚めて好んでヴィオラやセカンドヴァイオリンを弾くことに喜びを感じるようになっていた。けれどオーケストラではメンバーはポジションが決められているためおいそれと他のパートは弾けない。

鳩山さんはハトカンさんと呼ばれていたから以後はハトカンさんで。入団直後から様々なアンサンブルに参加させていただいて、ハイドンの弦楽四重奏曲全曲演奏のコンサートにも参加させていただいた。他の室内楽のコンサートでは私にファーストヴァイオリンを弾かせて、ご自分はセカンドやヴィオラを弾いてくださる。その時の楽しそうな様子ったらなかった。そしてハトさんは内声部の名手でもあった。

それを見ると私もセカンドヴァイオリンやヴィオラに意欲が湧いてくる。それぞれの面白さに目覚めると内声は本当に面白い。鳩山さんに内声部を弾かれると自分の実力以上のものが表現できることがあった。いかに内声部が重要であるかがよくわかった。

それでもオーケストラの中では鳩山さんをよく言う人は少なかった。アメリカ生活が長く個人主義的で歯に衣着せず我関せず的なところが当時のメンバーには癇に障ったのかもしれない。その中で私やセカンドヴァイオリンのトップ奏者のHさんは彼の恩恵を受けたメンバーだった。室内楽が好きというのも共通点だった。

私がセカンドヴァイオリンが弾きたいといったのも彼らの影響もあった。しばらく弾きたいと言い続けたけれどなかなか許可がおりなかったので脅すことにした。それでは私はオケを辞めるといったらようやく当時のコンマスだったTさんからお許しが出て、晴れてセカンドヴァイオリンにしてもらえ、Hさんと並んで弾くことになった。それからが面白すぎて大変!

大抵の人はファーストヴァイオリンになりたがる。オケの顔とも言える華やかなポジションだし。でもせっかくアンサンブルをやるなら内声の面白さに気付いてほしいと常々思っている。ファーストヴァイオリンの人たちで細かく内声を聞く人はあまりいないけれど、よく聞くとどれほど内部の力が働いているかよく分かる。

それから約2年ほどセカンドで幸せに演奏していたのに、オーケストラでは時々ファーストに戻されてしまう。それなりに面白いけれど、私は密かに内部工作をするスパイみたいなことが好きなのだ。だんだんとファーストに戻されそうになってついに戻ってしまい、楽しみがなくなった。

Hさんとのコンビはこれほど面白いことはないと思うほど。セカンドヴァイオリンは不慣れで長年演奏したファーストヴァイオリンが身についてしまっていたため失敗も多かったけれど、実に幸せな時間だった。その間ずっと毎日ニコニコしていたような気がする。なによりもべートーヴェンの第九はセカンドの面白さを十分に味あわせてくれた。それを捨ててまたファーストを弾けと言われる。でも本当のことを言えばファーストヴァイオリンは内声部よりも楽ではあり、ちょっとした虚栄心も発露できる。

セカンドは難行苦行、まず音の進行が不自然。しかも思っても見ないところに難所があって指揮者からいじられ、あんな易しい音なのにどうして合わないのなんて非難される。こんなことはご存知ないでしょうがこれ本当の話です。私のような天邪鬼でない限り弾きたいと思う人は少ない。とにかく面倒だから。怠け心が出始めて最近はファーストを弾くことが多いけれど、Hさんとポジション争いをしている。

Hさんが古典音楽協会の定期演奏会に来て、私も引退したので客席で出会った。デュオをしようと持ちかけたら二つ返事。一年に一度位の頻度でやっている。今年は私は暇になってやっとヴァイオリンを弾く気になった。なんかすごく嬉しい。



















2025年4月30日水曜日

今お使いの電話は

 2時間後につかえなくなります・・・って?どなた?あなたは。

それで「ちょうどよかったわ、詐欺の電話がかかってこなくなって」と言ったらものも言わずガチャンと! 失礼ね、お邪魔しましたくらい言えないの?

この手の詐欺が流行りだしてからどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。それでもなお騙される人が後を絶たないというのはある意味平和だなと思う。払えるだけのお金があるということでしょう。その詐欺のセリフにも流行り廃りがあるようで、一時期のオレオレ詐欺はもう流行らないかも。

うちには本当によくかかってきていたけれど、私はもう死んだことになっているのではと思うくらい最近は電話がない。久しぶりにかかってきたのが先程の電話。情報が売られていて高齢の少しボケ始めた女性は良いターゲットとして名簿にのっているらしい。

以前、あなたの口座に振込がありましたという偽メールがあった。郵便局に行ったついでに「本当に振り込まれてるの?」と訊いたら窓口のお兄さんは非常に不機嫌で「ありません」とにべもない。しょっちゅうこんな問い合わせが来るのでしょうね。儚く消えた私の夢の残念さをどこに持っていったらいいのか。

しかし、こんなふうに四六時中悪さを考える人生ってどんなことなのかと、泥沼にハマった人たちを多少気の毒にも思う。許されることではないと本当は眠れぬ夜を過ごしているのではないかと。結局捕まってしまうか悪事がやめられなくて冥い人生を送って、家族や子孫にも誇りを持って語れないまま死んでいくの?どこの曲がり角で曲がる方向を間違えたのか。

オレオレ詐欺全盛の頃、若い男性からかかってきた。「あのよお、俺今ムサコにいるんだけどさあ」「誰?あっちゃん?」あっちゃんは甥の名前だけど、そのときはもう亡くなってしまったからそうであるはずはない。「そうだよ、ムサコに仕事できていて」「そのムサコってどこ?」「武蔵小杉だよ」武蔵小杉は当時住みたい街の上位にランクする人気の街だった。

「ふーん、武蔵小杉で何してるの」「仕事だよ仕事」「それで?」「今休み時間になってさ・・云々」そろそろバカバカしくなってきたので終わらせようと「あのね、私の家族にあのようなんていう言い方をする子はいないからあっちゃんではないわね。悪いことをするのはやめなさい」と言うと驚いたことに電話を切ろうともせずに話を続けたがる。この子は詐欺師というより寂しいのではと思ったことがあった。もうバレているというのに。もしかしたら寂しくて悪事に走るということだったのかもしれない。

ある時区役所のなんとか係からの電話。多く支払いすぎの保険金が戻ってきますので銀行のATMに行ってくださいと。そこで係員がお待ちしていますので指示に従ってお金をお受け取りくださいと。

支払えと言うならともかく、戻すなら私の口座に入金すればいいだけの話。なんでATMなの?ややこしいお婆さんだと相手は手こずったらしい。しかも私の家に一番近い銀行でなく隣町のご指定。いやよ、そんなとこまで行くのはとダダを捏ねてみたらどうしてもそこでないといけないらしい。区役所の職員がわざわざ役所から抜け出して、お勤めご苦労さんと言いたくなる。しかし、もう少し賢い筋書きを考えたらどうかしらね。脚本が悪すぎる。

私が自分を幸運だと感じるのは、自分が本当に好きなものを持っているということだと思う。下手くそだったからそれはそれは大変だったけれど、その大変なことに向かって努力するのは、好きなことを繰り返し練習するということなので、本当に辛いわけではない。長時間の練習に耐えるのは嫌いだったら地獄だけれど、好きなことなら夢中になって時間が過ぎてしまう。

悪事に加担する人たちは、なにをやっていいかわからないのではと思う。自分が本当に好きなことがあれば、それに向かってどんな努力もできる。なければさてね?私は何をやっていただろうか。























2025年4月28日月曜日

聴き手になって

 前の投稿で「エッと思うくらい覚えていた」というのは嘘でした(笑)

二日ほど忙しくてサボったら元の木阿弥、綺麗さっぱり忘れていて最初から出直し。もうすぐ旧友が風船のように膨らんで張り切って我が家に突進してくるから、大慌て。さあて大変!大変だあ、叱られてしまう。彼女は私より少し年下で、オーケストラは退団したもののまだバリ現役。

忙しい。と、いうのは先週も今週もコンサート通い。アマチュアオーケストラが2つとヴァイオリン・ヴィオラの二重奏の3つ。アマオケは私の生徒さんたちが張り切っているからなるべく聴かせてもらうようにしている。それぞれ居住区での活躍。特に江戸川区のオケは非常に役所の思い入れ深く援助も厚いらしい。歴史もあるし優秀で、去年か一昨年だったかしら、マーラーの「5番」などををしれっと弾いてしまう。

先日のプログラムはモーツァルトの「魔笛序曲」から始まった。私の生徒はセカンドヴァイオリンで、「あの」難所の刻みの部分が大問題だったと。本番は無難に成功したので後で訊いたら、練習が大変だったとのこと。聞き手にはわからないけれど、オーケストラ曲には易しそうに聞こえてものすごく嫌な箇所があるのですよ。

そして昨日は中野区のオケ、初っ端「ドンファン」和歌山のではないですよ。リヒャルト・シュトラウスの名曲。少し荷が重いかと思ったけれどなんとか。そしてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲はソリスト小川響子さんの熱演で会場が沸いた。本当に今の若い人に国境はない。隔世の感がある。心から楽しんだ。

もう一つの素敵なコンサート。とても素晴らしかったのはヴァイオリンとヴィオラのデュオ。お二人はベテランの名手。会場が沸きに沸きました。

白寿ホール

ヴァイオリン 白井 篤 ヴィオラ 中竹英昭

ロッラ:ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 作品12-2

モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 K.423

リシュカ゚:2人のタンゴ

平川加恵:さくらさくら変奏曲 -ヴァイオリンとヴィオラのための

シュポア:ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 作品13

ヘンデル/ハルボルセン:パッサカリア

たった2本の楽器の奏でる空間に、ため息の出るような広がり、二人の奏者の呼吸が絡み合って、どこを切り取っても共鳴する音の世界。たっぷり楽しませていただきました。次回のduo演奏予定がわかりましたらここに掲載しますので、ぜひお聴きになることをおすすめします。

nekotamaの駄文を読むより、ぜひコンサートに足をお運びくださいませ。でも読まないと次回予告を知ることができないから読んでください。半ば脅迫ですが。

中竹さんは「古典音楽協会」のメンバーです。今年秋の定期演奏会にコンサートマスターの山中光さんとモーツァルト:コンチェルタンテ・シンフォニーのヴィオラソロを演奏します。

古典音楽協会第168回定期演奏会

9月25日(木)p.m.7:00     東京文化会館小ホール

J.C.バッハ:五重奏曲 Op.11-4

モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲  K.364

モーツァルト:チェンバロ協奏曲 K.107

モーツァルト:交響曲第29番 K.201

しばらく休んだら、聽くのは本当に楽しいけれど、やはり弾くほうがもっと楽しいという心境になってきました。私がプロとしては引退というのは事情があって、左手薬指の骨の変化から正しく音程がとれなくなったこと。それさえなければもう少し活動できるのにと悔しさと、半分は緊張から逃れられるというホッとした気分がある。これはもういかんともしがたく、ちょうど節目の年なのでということもあって引退を決心した次第。

チェリストの青木十郎さんが非常にご高齢(たぶん90歳)でリサイタルをなさった。それを聽いた人が、彼の音程の正確さに驚いたと言うのを聞いて本当に羨ましかった。どのように指のケアをなさったのだろうか?

私の左手指先は、薬指が小指側に5ミリほども傾いてしまった。今思えばこういうことがあるならピアノをやっておけば良かったかとも思う。けれど、ピアノの先生の熱烈なお誘いを断ってもヴァイオリンが弾きたかったのは、やはり弦楽器の持つ無限の音の響きに魅せられてしまったから。蠱惑的で自由奔放で捕まえたと思ったら逃げられる、猫みたいな。










2025年4月19日土曜日

自分を取り戻す

 もう7ヶ月ほどにもなる。

ヴァイオリンをほとんど弾かなかった。黄色い私のヴァイオリンケースは毎日レッスン室の椅子にポツンと置かれて無聊を託っていた。可愛そうだけれど、手が出せない。時々抱っこしてよしよし、ケース越しに語りかける。中からはうんともすんともない。

数日前、友人と約束したデュオの楽譜が届いて、これはもう弾かねばならないと覚悟を決めて譜読みが始まった。マックス・レーガーの小さな二重奏曲。しかし手強い。しばらくサボっていたために感覚が鈍っている。サクサクとは覚えられない。

何回弾いても途中で挫折。音が覚えられない。それほど難しくはないのに。レーガーは好きな作曲家でもあるし、復帰に際して選ぶにはちょうどよいレベルであるのに手強く感じる。引退することで一度火を落としてしまったので、再燃するためにはエネルギーが要る。

先日「やっとヴァイオリンが彈きたくなってきてね」というと集まった友人たちが一様にニヤリと笑った。すでに見透かされていたか。しかしプロとしてやっていくという意味ではないので自分の楽しみだけで弾くなら復帰宣言は不要だった。

このところ体重が少しも減らないので、食べる量や食べ方や運動の仕方など変えていたけれど、なんの効果もなかった。鏡に映る私のお腹はなだらかに下方に垂れ下がっている。信楽焼のたぬきはポコンときれいにつきでているけれど私のそれはたるんたるんと揺れ動く肉の塊で、たいそう見苦しい。良く言えばつきたてのお餅のようだけど。お餅と違うのは引きちぎって捨てることができないこと。

ヴァイオリンの練習を始めてまだ一週間弱なのに、そのたるんたるんが少し筋肉質になって来たのに気がついた。ああ、こんなに腹筋も使っていたのだ。練習三日目には疲労が半端なく寝ても寝ても疲れていた。ほとんど起きている暇がない。筋肉には影響ないくらい脱力ができていると思っていた私もヴァイオリンを弾くのにこんなに筋肉が必要とはおもっていなかった。

少し体重が減った。演奏には本当にエネルギーを使っていたのだったと今更ながら驚く。日常的に練習や本番をくり返してきたから、それほど体力を必要としないと思っていた。引退したら血圧もコレステロール値もぐんと上がった。

私は運命的に仕事に生きるようになっているらしい。仕事と言ってもヴァイオリンを弾くだけではなく、なにか新しいことに挑戦するのもお金にはならないけれど仕事のうちと思えば生きることがすべて仕事。

オーケストラ時代、常に身近に交流のあったWちゃん。彼女はしばらく体調を崩し聴覚に問題が出て演奏を止めた。最近は自身の人生の集大成として心の巡礼をしているそうで、久しぶりに電話をしたら2日前にギリシャから帰国したばかりだという。私がしばらく心を病んでいたときに平泉寺のことを教えてくれて、私はそこに行くことによってやっと平静になれたのだった。

彼女が言うには「ギリシャにお誘いしたかったのよ。でもね、このグループは会員でないと参加できないので誘えなかったの」もう、残念としか言葉がない。しかも一ヶ月を超える長時間の旅で、神話の世界を経巡ったそうなのだ。学生時代、少し興味があって平凡社の世界名作全集などで「ホメロス」などをかじろうとしたら手強く拒絶された痛い経験があって、私は無理と諦めてしまった。本当に少しもわからなかった。

それを言うとWちゃんは「一人では無理、絶対にわからないわよ」研究者や大学教授が同行してくれて徒歩でギリシャを経巡ったという。そのための研究グループだそうなのだ。「あなたが数年前にフランスで山岳スキーをしたということを聞いていたので、それなら一緒に行けると思って、誘いたかった」と。「今度は必ずお誘いするから」と嬉しいお言葉。一生懸命元気でいきていようと思った。

私は足も心もずたずたになって最近まで病んでいたのだった。まだ少しふらつくけれど、いつまでもくよくよできないから強くなろうと思う。足かせは猫。彼らをどうしよう。面倒見てくれる人を探さねば。多分猫を飼っていなければ、私は日本にはいない。

命尽きるまで、大草原や山岳地帯を彷徨っているかもしれない。鳥さんたちに食べられてもいい。狼さんの餌食になるか・・・案外こたつで猫と丸くなって命尽きるか。なんだか世界が小さくなってきたなあ。

二重奏曲の譜読みはほんの数日前になんとかできたけど、覚えられないのは相変わらず。それでも今日弾いてみたらエッと思うほどおぼえていたのだった。変だな、こんなはずはないのに。すると、脳みそはまだ糠味噌と入れ替わってはいなかったのかしら。子供の頃に長時間睡眠の生活をすると脳の一部の海馬が発達するという。

私は子供の頃はものすごくロングスリーパーで学校から帰って夕飯が済むとバタンキュー!翌朝までぐっすりでおねしょをしても起きない子どもだった。その頃の習慣が今生きているのかもしれない。




2025年4月12日土曜日

芹澤英雄さんのこと

 コチャが死んでその後にハチワレの、のんが家に入ってきて、しばらくするとその兄弟猫のグレがだんだん長逗留するようになってきた。ふたりとも幸せそうに昼寝したり喧嘩したり。やっと安定した家に入ってきても野良は.野良気質が抜けない。我が家にいても警戒心は忘れず必ず逃げ道の確保をしている。安全点検が済んでこれで大丈夫と言うまでは、私に窓を開けるように促してくる。

窓を開けたままではセコムの警報がセットできないので、夜は表に出されてしまうのに。寒い夜、しょんぼりと出ていくのは可哀想だけど。かといって窓をしめると開けて開けての大騒ぎ。朝私が起きて早速窓を開けると、冷たい猫が待ってましたと入ってくる。少し我慢して一晩うちで寝ていけばいいのに。

寒い時期には可哀想だからベランダには段ボールにキャッツシートを敷いておいてある。かろうじて風雨がしのげるくらいで、大風の日には吹き込んでくるし、雨が強ければ濡れてしまう。だからもう覚悟を決めてうちの子になってしまえばいいものを、野良生活はなかなか捨てられないらしい。何でしたっけ、役者と乞食は3日やったらやめられない、でしたっけ?

楽隊も3日やったらやめられない、多分自分の仕事を3日やったらやめられない人が多いと思う。好きなことが仕事に出来る人は全体のどのくらいの割合かはわからないけれど、逆に言えば仕事を得たら、好きになればいいだけのこと。それで赤貧洗うがごときの生活でも幸せだと思って長年生活してきた。別にヴァイオリンが好きだったからではなく、ヴァイオリンが近寄ってきただけのこと。・・・と思って引退してヴァイオリンを弾くのをやめた。

去年の9月から私はヴァイオリンを捨てた、皆に宣言して楽器のケースはとじられたままだった。しかし、雀百まで、業ですねえ。というわけで古い仲間に声をかけられたらもうその気になっちゃって、いそいそと練習を始めた。

そして古い楽友であり先輩である元東響の打楽器奏者の芹澤英雄さんの訃報が届いた。この方こそ、まさに楽隊は3日やったらやめられなくなってしまった人なのだ。博識、多才であり薬剤師の資格を持っているのにもかかわらず、途中で学業か楽業になってしまったという。音大に入り直し打楽器奏者となり、オーケストラで活躍。引退後は税理士の資格をとってしまう。普通の人ならそのうちのどれか一つの資格を得るのも難しい。人生を三回生きたような人だった。いつも穏やかで誰がどんな質問をしても回答の用意があるほどの博識。

毎年のように彼を囲んで飲み会が開かれていたけれど、数年前から足が弱って介護施設に入り、ここ数年お目にかかっていなかった。オーケストラの生き字引だったから私は彼の話を書き取っておこうと思っていたのに、できなかったことが悔やまれる。

芹澤さんの御冥福をお祈りします。

今度お目にかかるときには、ビールですか?日本酒ですか?おや、ワインですか。この銘柄なんていかがですかなんて、またご一緒に。ハスの花が綺麗に咲いた天国でね。














運がいいのか悪いのか

あまりまめに健康診断を受けることはないけれど、たまには受けて、悪いところがあれば今から気をつけておこうと 柄にもなく病院へ。これが良くなかった。この年になればもうどこか悪いところは必ずと言っていいほど見つかるものだとは思っていた。

仕事をやめてなんとなくぼんやりと食っちゃ寝を楽しんでいれば、運動不足、肥満、高血圧にもなろうというもの。役所から高齢者健康診断の受診券が送られてきて、去年の分と今年の分がダブって余ったので、貧乏性が「もったいない」と囁く。自由時間が増えて睡眠も以前より長くなっていつもなんだか眠い。

緊張のなさが眠気とだるさを誘う。暇になったら家の片付けと将来に向けての準備など考えていたことを実行しようと、いつもお願いしているリフォーム業者に頼んでクロスの張替え、壊れているドアクローザーの修理、窓の防犯防音工事など依頼した。その工事の日程が飛び飛びに入ってきて5月連休すぎまで落ち着かない。

検診の結果は毎回の例に漏れず、コレステロールと血圧が少し高めのほかは変わりなかったけれど、胃の内視鏡検査で黄色信号点灯!荒れた私の胃袋はなんか嫌な茶色い部分が認められた。それでも食欲があるうちは大丈夫。

猫が具合悪いときの基準は食欲の有無。獣医さんに猫を連れて行く基準は食欲があるかどうか。末期的になっても食べられればまだ大丈夫の診断が下る。だから自分的には食欲があるから大丈夫だったけれど、流石に再検査や再々検査は厳しい。

で、昨日は造影剤使用のCTスキャン検査を行うことになった。なんでも新しいことは興味津々で喜んで検査を受けるけれど、検査スタッフがなにか物々しく、造影剤の注入もバカ丁寧な言葉遣いや親切すぎる行動がいかにも重大なことが始まるような態度が恐ろしい。まるで重病人になった気分。

私は血管が細くてなかなか注射針が通らない。それでも去年入院した別の病院に比べれば雲泥の差で、そちらはこんな病院本当にあるのかと思うほどの下手くそな看護師で腕中紫色になってしまった。両腕の下半分紫色になって何箇所刺されたか勘定していたら7箇所も刺され、血液が漏れて絆創膏だらけ、素人の私が看護師に指図をしてやっと点滴を受けられた。

それに比べればこちらの病院は全く心配はないけれど、彼らの患者に対する慮りがかえって恐ろしい。昨日受けた注射針の痕跡もほとんど消えかけているくらい無駄な出血は抑えられている。

すっかり疲れ果てていつもより早めに就寝したら夜明けにセコムの電話、しまったまた警報装置のセットを忘れて電話されてしまった。この装置は私が万一死んで決まった時間内に生体反応がなくなると警備員が駆けつけてくれる仕組みになっている。けれど毎度お騒がせの私が装置のセットをし忘れるので、真夜中の電話となる。はじめの頃は緊張した声で電話してきたセコムさんも、最近はのんびりとした声で「またかよ」とは言わないけどそのような雰囲気を漂わせながら。せっかくもう少し長く眠るつもりだったのが超早起きになってしまった。

それで頭が重い。朝一の美容院の予約があったから二度寝もできない。そこから素晴らしいタイミングがはじまった。

電車の乗換案内で私の使う路線を調べたら、乗り入れの他社線が遅れているという。私の乗車予定の電車は変わりなし。しかし同じ線路を走るのだから、きっと影響をうけて混雑と遅延が出るだろう。迷ったけれど少し早めに起きたのでとりあえず家を出た。

歩き始めてバス停そばまで行くとちょうどバスが来た。いつもならバスには乗らないで最寄り駅まで歩くのが、せっかく来たのでほい!と乗る。朝のラッシュを少し過ぎたところで空席はない。しかし眼の前の学生さんがすっと立ち上がってどうぞと行ってくれた。直ぐなんだけどせっかくだから座らせてもらった。そして駅につくと電車のタイミングも待ってましたとばかり。そこでもすぐに席を譲ってもらう。

ごめんなさいね皆さん、本来通勤時間帯には仕事やさんが優先で老婆は乗ってはいけないとおもっているのに、私はつい最近まで現役だったのでそれに免じて座らせてもらう。たった二駅で目的駅についた。予約時間には早すぎるけど、まあ、コーヒーでも飲んでから行こう。ここまでは幸運のラッシュ。こんなに全部うまくいくなんて。

コーヒーはなみなみと大きなマグカップで、それを抱えて席についた。しばらくすると店員さんが来て1円玉を差し出された。お釣りをもらうときにお金をわすれたらしい。財布に入れようと手を動かした途端、マグカップに触ってコーヒーがこぼれ、哀れマグカップは床に、そのへんコーヒーの洪水になった。幸い両サイドの人には被害はなかったけれど、私の膝から下はずぶ濡れ、店員さんは大慌てで掃除をする羽目に。

店員さんは嫌な顔ひとつせずに掃除をしてくれてなんとおかわりを勧めてくれたけれど、そこまで図々しくはできないからお断りして店を出た。コーヒーで濡れたヒザ下からのシミはなんとも微妙な位置で、私くらいの年だと「我慢できなかったの?」と取られかねない。でも私はカフェの隣がユニクロだと知っていたのですぐに隣の店に入った。

「隣でコーヒーこぼして濡れっちゃったの。なにか着替えがあるかしら」そう言うと目の前にスエットパンツのようなものがぶら下がっていて、すぐに購入。すぐ近くに多目的トイレがあってすぐに着替え。幸いその日の服装はすごくカジュアルで買ったものがぴったりで。

ユニクロで自分のものを買うのは初めてで、これほど着心地がいいとは思っていなかった。これはこれは、おみそれしましたユニクロさん。薄くて軽いのに温かい。運動するときには最高、歩きやすい。

家を出てからここまでがほんの30分ほどのでき事、これほどタイミングよく物事が進んだら時短になるなあ。美容院が終わって友人と食事をして帰宅、すぐスーパーに買物にいく。

午後4時に壊れていたドアクローサーの交換の予約があったので3時半頃戻ると駐車場に職人さんの車が止まっていた。「前が少し早く終わったのでいま来たところです、始めてもいいですか」というからお願いします。工事は1時間ほどで終わり、なんだか計ったように時間が無駄なく埋まっていく。

こんなドンピシャの日は本当に珍しい。気持ちがいい。その日は多分世の中のすべての予定がうまく行っているのではないかと思われるほどだった。

よる、姪の娘から5月19日(土)に行ってもいいかとメッセージがきた。今年5月19日は土曜日ではないから「お前さんそれは何時代のこと?今は2025年だけど」と返信。剔れは彼女の思い違いで4月のことだった。やはり我が身内にはズレているのがいる。これがその日の〆。残念でした。












2025年4月8日火曜日

復帰間近?

 オーケストラ時代、というとすでに50年ほど以前、よく一緒にアンサンブルをしていた音楽仲間の・・・あれっ!名前がでない。

そうそうHさんでした。

先日電話で話をしていたら、昔のようにデュエットしようよという話が出た。最近名前が出ないのは序の口、時には全く顔も思い浮かばないことが多い中で、彼女だけは流石にそういうことはないと思っていたのに。日々物忘れが激しくなっていく。

それでHさんの好きな曲を選んでと頼んだら、早速楽譜を送ってきた。そのまま知らん顔して忘れてしまえばヴァイオリンは弾かなくてすむなとしばらく逃げ腰だったけれど、結局、練習日が決まってしまい仕方なく楽譜に目を通すことになった。

ぶよぶよになった指がはたしてうごくのか。固まってしまった上半身は楽器を支えられるのかしら。楽器は休眠状態、持ち主はポンコツ。最後のステージが昨年9月。その後ロクに練習していない。時々生徒とキラキラ星彈く程度の練習では全く仕様もないと思っていたけれど、彈いてみると楽に体が動く。これは驚いた。むしろ引退したことで緊張が取れて力みがなくなった。

長年の訓練とはなんと恐ろしいものか。楽々音が出る。楽器もリラックスして柔らかく良く響く。久しぶりに聴く我が愛器の声。本当にお前さんは美しい声だねえ。ここまでは良かった。

さてどんな曲かな?

私は初めて弾く曲の譜読みが大好きで、ワクワクしながら練習に取り掛かる。まず一度サッと目を通す。8小節間をもう一度。若い頃ならほぼ初見でもすぐに覚えられて、二度目はもう間違えないくらい譜読みの速さを誇っていたけれど、ありゃー!何回弾いても覚えられない。

何回も何回も・・・弾いても弾いても。やっと最後までたどり着くとまた初見の気分。

そしてHさんもまたぼやく。彼女の初見の速さは驚異的だった。私も負けじと頑張っていたオケ時代。その彼女が同じように嘆くとは。

しかし、引退後妙に太ってしまいぼんやりしていた私の体中の血液が流れ始めた。雀百までとはよく言ったものだわ。かと言ってもはや演奏家として復帰できるとは思えない。集中力や気迫が残っていない。これからは一アマチュアとして心底楽しんで演奏しよう。とか思っても燻っていたプロ根性が頭を持ち上げてくる。すぐにムキになる。弾けなきゃ悔しい!でも何回弾いても音が覚えられない。

ということは体に染み付いた熟練した技術は保存されるけれど、スカスカになった脳はもとに戻らないということ?









2025年4月7日月曜日

公開しわすれて

 私は仕事をやめて悠々自適、のんびりと生活しようと思っていたのに思いの外忙しく気忙しい毎日、寒暖の差の激しいお天気に振り回されて疲労もたまり、花粉で目が痒く・・・などなど毎日が刺激に満ちている。

古典音楽協会は新体制となって3回目の定期演奏会を無事終えて、順調に再出発の波に乗ってきました。これも毎回聞いてくださる皆様のおかげと感謝しております。

長年の疲れと緊張がほぐれてきたので久しぶりに健康診断を受けたら何やら不穏な動き。胃の内視鏡検査で少し問題があるようだけれど、食べ過ぎのせいと思う。再検査がないといいなと思っています。

食べすぎといえば、先日、白洲次郎さんが町田市に残した武相荘(ぶあいそう)に行ってきた。嵐を呼ぶデコボココンビのMさんと一緒だからこれはただではすまないと覚悟。江の島では強風にあおられ、中華街では南岸低気圧による土砂降りに降られ、散々な目にあっているのになぜかまた一緒。緑色の髪の乙女(元・はるか昔)と鶴川駅で待ち合わせた。車で走ること15分ほどで古民家のある庭園について、よろよろと歩き始めたけれど、風も吹かない、雨もふらない、いつもと約束が違う。このコンビニはふさわしくない穏やかな晴れた日だった。

まさか平日の昼下がり、こんなに人が訪れてくるとは思わなかったけれど、現在では高齢者が暇を持て余しているらしい。かくいう私達もその一味であるわけで、ランチにありつこうと思ったのに、すごい数の予約で待ち時間がしんどいので帰ってきた。

それで私と彼女のお墓のある霊園近くのイタリアンにと思ったらそこも満員御礼。諦めて駅前の台湾料理の店でささやかにおそばを食べてドトールでコーヒーを飲むという、毎日の生活と同じような行動になってしまった。

そう、実は彼女と私は墓友なのです。私が7年ほど前に買った樹木葬のお墓の向かい合わせに彼女も猫さんたちと入れるお墓がある。私の隣は旧友のHさんのお墓、みんな入ったらさぞ賑やかなことになるでしょう。夜中にお隣さんからほとほとと壁を叩く音が聞こえると、私はガバっとおきあがりお隣へ。その次にお向かいさんに声をかけて誘い出す。夜中じゅう騒いで夜明けとともに穴に戻るという楽しみが待っている。

場所は町田市の小高い丘の上、全山桜が咲くとそれはそれは見事な桜色の丘になる。気持ちの良い風に吹かれて庭園ごとに様々な花が咲いて、ここを見つけた時には本当に嬉しかった。早く入りたいとは思わないけれど、最後の住処が一番上等というのが良い。決して贅沢ではないけれど、理想の終の棲家ではある。

それで安心して遊んでいる。レッスン室の改装がまもなく始まる。今までは頼りない防音ドアだったけれど、それをスチール製のより防音効果の高いドアにする。窓は二重窓の間に防音材を詰め込んで、防犯も兼ねる仕様。リビングの方もベランダの防犯が脆弱なので内側にもう一つの窓を作る。ガラスを割れない三重ガラスに。猫の出入りには少し不便でも、安全第一で、工事をすればお金もなくなって、これだけでも防犯になるでしょう。今お金があるという意味ではありませんよ。更になくなるということで、うちは狙わないでくださいね。泥棒さんたち。

ここまで書いたら気が済んで公開し忘れていた。

今開けてみたらもう一ヶ月書けない日々のnekotama、職業作家でなくて本当に良かった。自分の中からものを創り出すということの辛さほんのひと欠片を味わう。私の場合日記だから何を書いても、つまらなくても、本職でないからと言い訳がたつ。けれど、公開するとすぐに読んでくださる人がいらっしゃると思うと、おまたせしてはと気が焦ることもある。

そういえば古典音楽協会をというよりヴァイオリンを弾くことを引退したら「先生が演奏しないならもういかない」と言って数十年にわたる古典の演奏会に一度も休まず来てくれた元生徒さんが言う。おやおや、私のために来てくれていたのね、ありがとう。だけど私が客席に行くから一緒に聴いてほしいなと思う。

長年ありがとうございました。今後は新メンバーによる更に進化した新たな取組をどうぞ聴いてください。よろしくお願いします。









2025年3月10日月曜日

大雪の便り

雪の便りといっても遊びの情報ではなく危険信号。

北軽井沢の別荘の管理人から電話が来た。管理費未払いの請求かな?あるいは去年の秋に作った猫の家が雪で潰れた?いやいや、随分しっかりした家で、雪はあまりふらない北軽井沢ではびくともしないだろうし。

それは庭の道路に面した木が倒れそうという知らせだった。ここ数日の北軽にしては珍しいほどの積雪で、電線の上に張り出した木の枝が雪の重みで線に触れそうになっているらしい。危険だから東電に頼んで切ってもらわないといけない。それについては家の所有者からの依頼が必要なので私が電話しないといけないと。

そのことは気になっていた。去年末に庭木の伐採を頼んだ業者さんからも、来春に来たときに東電に知らせて切ってもらうようにと言われていた。電線に関する木の伐採は庭師さんでなく電力会社にお任せしないといけないらしい。電線の近くの仕事は危ないということで。

それでも毎年積雪量は少ないから冬でも来られますよという管理人さん。それが今年は異例の雪の多さでこういうことになった。今日あたり調査が入って次に行ったときはあの木はもうなくなっている。木を切るのは本意ではない。切られる木の悲鳴が聞こえるようで、心が騒ぐ。しかしあまりにも鬱蒼と茂っていたので家の周りだけ少し切らせてもらった。

私の前に家の所有者だったノンちゃんは自然にあるがままが好きだった。それで彼女が住んでいた10年間、木は伸々と葉を茂らせていたので、新芽の時期の庭は若葉色の海のようだった。それはそれは美しかった。私がここに住みたいと思ったのはそのせいだったかもしれない。しょっちゅう遊びに行って泊まらせてもらって、ヴァイオリンを弾いていたからノンちゃんはこの部屋に音楽が流れるのをよろこんでくれた。そして彼女は私をこの家の跡継ぎにと考えたのだと思う。

ある日一緒に中華料理のお店で食事をしていたとき、彼女が急に箸を置いて膝に手を揃えた。背筋を伸ばして「nekotamaさん、あの家買ってください」

びっくりしたしもとより買えるほどのお金の用意もなかった。でもいつかはこうなるだろうという覚悟はあったと思う。そういうときに私はものを、考えるのをやめてしまう。なんとかなるさ!そして家を私に譲ったあと、あっけなく彼女は天国へ旅立ってしまった。今でもノンちゃんの大好きだった庭の大木に手を合わせて「ありがとう、ノンちゃん」と事あるごとに感謝の気持ちを口にする。

暑い季節には北軽井沢の気温がありがたい。朝夕は下界より10度も低い。流石に昨今の気温上昇で日中は暑く感じることもあるけれど、都会のジメッとした暑さではないし、夕風が吹く頃には本当に快適になる。移住を模索していたけれど、ここ数年の体力と気力の低下が著しく断念した。けれど、思い切って引退し数ヶ月の無為の時間を過ごしているうちに、少しずつ気力を取り戻し始めた。

いつも痛かった膝が快方に向かい心の傷も癒えてきた。笑うことも忘れていたけれど、最近は声を上げて笑っている自分を発見する。ああ、笑っている。自分でびっくりしている。笑うとどんどん体調も良くなってきた。

今日はきれいな夕焼けが家々のシルエットの間から見えた。その温かい赤は戦争や山火事などの災害のそれでないことに心から感謝した。今もどこかで恐怖と飢えや寒さに苦しんでいる人たちがいることに心が痛む。他人の痛みにようやく思いやれるようになった。私は元気になりました。











2025年3月9日日曜日

部屋が寒い

 私はいつも家の中は過剰なほど暖かく設定された暖房で、ぬくぬくと暮らすのが好き。電気料金高騰の昨今、不経済だから倹約しないといけないのだけれど、あまり着るものもこだわらない、ケリーバックがほしいなんて野心もない、車も日産ノートでガソリン食わず、猫は野良猫あがりとまあ、それはそれは質素なのでなんとか生きていける。最近はお米すらちょっぴりしか食べない。野菜は葉とか茎とかまでかじり尽くす。

費用の殆どは暖かく暮らすために使っていたのに、最近の我が家は寒い。それは二匹の野良猫のうち、お兄ちゃん猫のグレのせいなのだ。妹ののんちゃんはすっかり家猫になって私を信用してきたけれど、あとからおずおずと我が家に滞在するようになったグレはまだまだ野生のまま。どれほど怖い思いを重ねて生きてきたのか。

部屋にはニコニコして入ってくるけれど、必ず逃げ道を確保しないと心配でいたたまらないらしい。必ず窓は開けたままでないと泣きわめき始める。グレの寝ている間にそおっと足を忍ばせて窓を締めに行く。しばらくすると眠っているはずのグレが頭を持ち上げて「ん?」と起き上がって偵察に行く。そこで窓が閉まっていると大騒ぎになる。開けないと開けるまで「開けて」アピールがうるさい。

きっと過去に家に閉じ込められていじめられた記憶が残っているのだろうと思うと、不憫でならない。かといってこのまま常に窓を開けておくわけにはいかない。とにかく寒いし不用心だし。強盗が入ってきても猫は役に立たない。そんなときは私は猫派から犬派になってしまおうかと思う。犬は役に立つけれど、猫はだめなので。猫は本当に役に立たないだけでなく、人を人とも思わないで使役する。

グレのためにどれほど窓を開けさせられ、寒い思いを我慢させられたことか。今年の気温が不安定で、考えられないほど温かいと思えば急に真冬の寒さになる。そういう日にはグレも寒いから室内にいたい。窓を閉めるなと言われてもヒュウヒュウ風が入るから私は我慢できない。真夜中に猫と人間のバトルは頂点を迎え、おちおち寝てもいられない。

夜中に窓が閉められないと最近の詐欺集団の強盗事件が怖いから、私はセコムの防犯ベルを手の届くところにおいてカーテンを時々開けては閉め、怪しげな行動になる。外から見たら我が家が一番怪しい。物音がすればスワッと起き上がって電気をつけて・・もう本当に疲れる。猫と強盗の被害が怖くて・・というのは言い訳で、実は老人性の睡眠障害なのかも。誰に遠慮することもなく夜通し起きていられるし、昼寝もほしいままでなんと気楽なことか。

この気楽が良くないと、最近体調が戻り体力が出てきたことで考え始めた。やはり人は社会の絆とともに生きていく動物だから、外に出て他人との接触が必要だなあと。暖かくなって猫たちが外で寝てくれれば私も泊りがけの外出ができると思う。近所の猫友にお願いしていけば餌は与えてもらえる。ベランダの段ボールベッドが2台、雨除け対策をしていけば猫も喜んで外で寝る。そうなったらまた海外にも行けるなんて。

海外、どこがいいかな。ヨーロッパは遠すぎるからアジア圏がいい。それより日本国内が一番無難だけど、どこもすでに行ったことがあって、目新しくない。結局グルメに走れば肥満対策に翻弄される。めんどくさい。家でごろ寝。猫と遊ぶ。これが至福のとき。一日が猫的時間で過ぎてゆく。







2025年3月3日月曜日

お雛様

 私の母は猛女でありました。我が子のためならどんなことでもやってのける。私を一年早く小学校にいれるために名簿に名前が載っていないから机の用意もない小学校に押しかけて、私を無理やり入学させてしまった。こんなひどいことも戦後まもない頃はできてしまったらしい。

私は本当は4月生まれなのに出生届は3月にして、それも一度は4月で届けたものを間違いでしたと訂正したらしい。そのへんのゴチャゴチャで入学時のすったもんだがあったらしい。

そんなことで私はその学年最年少、この頃の一年の差は非常に大きく低学年の頃は私はメソメソとよく泣いていた。この頃になると必ず思い出すこと。nekotamaにこれを書くのはもう3回目で、ちょうど今日のようなジメジメした寒い雨の日。

工作の授業で教材が配られた。石膏のお雛様の顔とその着物を作るための折り紙が配られた。紙の尖った部分に顔を糊付けして余った部分を着物の衿のように重ねていく。手先の不器用な私はすぐに手が糊でベトベトになり、真っ白な顔が汚れてしまい情けなさでいっぱいになった。

誰かしらに手伝ってもらえる家の中と違って、学校では誰もやってくれない。人生で味わったったはじめtの挫折かもしれない。そして今日は寒い雨の降る同じような日に確定申告用紙を郵送するために封筒に糊付けをして、相変わらず不器用なので封をするのに苦労していた。あの時と同じ、全く同じ。気分も手の動きも。

歴史は繰り返す。それでも自分の手から申告用紙が離れた途端、急に気分が良くなった。やれやれ。あんなに嫌だったのに、最後の方になったら少しおもしろくなってきた。毎日やっていれば慣れて簡単に思えるのでしょうね。年に一度だから領収書などを揃えるのがめんどくさい。あらかたどこかに遊びに出てしまっている書類を探すのに一番苦労する。

こんな面倒なこともマイナンバーにデータを入れれば、支払済か領収済みかすぐにわかるのでしょう。なんのためのマイナンバー?そこまで税務署でやってくれればいいのにと思う。そのくらいできるんじゃない?あとに家庭の事情だけ計算すればいいようにお膳立てくださればルンルン。年金額や保険料金、かかった治療費やなんかは役所で把握しているのだから、そこまで計算しておいてくれないかなあ、なんて夢でしょうか。













2025年3月2日日曜日

ホームコンサートのお陰でダイエット

とんだ出費!

ホームコンサートのキーキーガーガーと不気味な音が鳴り響く数時間は、ご近所の人たちの大迷惑になるにちがいない。でも50年以上に亘る私のヴァイオリンを聞かされていたご近所は、もはや驚かないか彼らの耳が遠くなっているかで、まあ苦情も来ないだろうと。そうは言っても、気になるからレッスン室の防音を強化することにした。

頼りない防音は最初に建てたときに施しているものの 、やはりかなり音が漏れる。いつも頼んでいるリフォーム業者Oさんに連絡をして来てもらった。特に昨今の闇バイトによる強盗事件の防犯対策も考えて、窓に多重構造の強化ガラスの窓を追加する。レッスン室はもともと二重窓になっているので更に強盗にはダブルパンチになろうというもの。その上にセコムのセンサーが効いているから防犯的にはバッチリ。しかし音はどこからともなく忍び込んで、ドアを通って出ていくらしい。

Oさんいわく「以前私が工事に来ていたときに大勢集まって練習していたでしょう。あのときは階段にまで音が漏れていましたよ」それではドアがいけないというので、ドアをスチールに変えることになった。私としては録音スタジオ級の分厚いドアが欲しくて建てるときにもそうお願いしたけれど、建築士がうんと言わないので諦めた。

そんなわけで今年も沢山おカネを使う羽目になった。もう私も数年の命、お金がなくなって食べられなくなったら、断食の修行に入ってお釈迦様と暮らそうと思っている。お釈迦様がうんとおっしゃるかは疑問だけど。ダイエットにもなるし。そんなわけで、今年も赤貧洗うがごときの軽やかな生活が送れそうで良かった良かった!

窓ガラスといえば、上の階に暮らしている人から窓ガラスがヒビ割れたと連絡があった。驚いて見に行くと、ベランダの出入り口のガラス戸に縦に亀裂が入っていた。しかしどこにも外からの打撃の跡がない。ヒビが入ったのはなにかで強く叩いたからと思って、一瞬強盗事件が頭をよぎったけれど、そうではなく自然にできた傷かと思える。

Oさんが言うには、それは熱による自然発生的なヒビだそうで、そうめずらしいことでもないらしい。この部屋は日中ずっと陽が当たっているのでかなり暑くなる。それなら今後の暑さ対策も必要、ひび割れ修理は不動産屋さんの保険が使えるらしい。ラッキー!

確定申告書の提出は明日の予定。四苦八苦しながらなんとか計算してみたけれど、多分またミスだらけ。でも仕事をやめるおかげで来年からは楽になる。今までは演奏の仕事、講師としての仕事、不動産の経費など、複雑に入り組んでいて本当に大変だった。毎年の経費の計算などもお手上げ状態。この季節は私にとって地獄だったけれど、来年からは助けてくれる人がいる。それだけでも世の中バラ色。単純なものです。

しかし好事魔多し、先日、胃カメラ呑んだら生体検査になり、その結果またまた一悶着かも。本当に退屈しない面白い老後なんだから。私は10年周期くらいで大病をすることになっている。今度は胃に来たかも。既往症は、腎臓、肝臓、心臓、そして今年は胃、そろそろ脳に来てもおかしくない。

脳といえば記憶を司る海馬の発達には幼少時代の睡眠量が影響するらしい。いまでこそショートスリーパーであるけれど子供の頃は一日10~14時間はくだらないロングスリーパーだった。その頃発達した海馬が今の私をかろうじて支えているらしい。

小学校の先生が皆に睡眠時間を訊ねたことがあった。私の睡眠時間を聞いてあきれていたことを覚えている。70年も前のことを覚えていられるくらいだから、私の海馬はその時代に巨大に発達したらしい。しかし大きくはあっても質が悪いのでたぶん駄馬に違いない。

そういえば最近長い事、馬に乗っていない。もはや鐙に足が届かず、届いたとしても鞍に自分の力で上る力はない。またがってしまえば走らせることはできるかもしれないのに。どんどん残念なことがふえていく。








2025年2月27日木曜日

トイレの並び方

 確定申告の相談で並んで待っていたら、税理士一人に二人の相談者がつけられた。片方が相談しているともう片方はその人が終わるまで待つという仕組み。これ誰が考えたのかしら。ものすごく時間の無駄だと思うけど。

一見効率的?に見えるかもしれないけれど、それぞれ相談する時間の長さが異なるから遅い人のあとにつくと待たされる。それなら普通に一人ずつ終わった人のあとに案内すればいいことなのに。結局ゴチャゴチャになってかえって能率は落ちるはず。二人同時ということは相談する方には無駄が生じるはずで、空いたところに次の人を誘導すればなんのことはない。このやり方をする前に時間を計ってみたのかしら。ただ相談する方のトータルの時間は一緒なんですよね。よくわからない。面白いから少し考えてみよう。数学強い人考えてください。

日本の昔の公共トイレの並び方を覚えていますか?

自分の選んだドアの前に立っていると、隣のトイレは早く回転するのに、中には長い人のいるドアだと長蛇の列。しかもトイレの出入りがごちゃごちゃ混雑した。それが欧米式ですれば、トイレの入口に一列で並び、どの場所であれドアが開くと、一列に並んだ次の人がそこへ入るという形が定着したので、最近は非常にスムーズになった。

これは演奏会場などで休憩時間に一斉にトイレに殺到するときなどは、たいへん助かる仕組みなので。そうなる前はドア前の長い列に並んだ人は休憩時間内に用を済ませられずにヒヤヒヤすることが多かったのだ。いまだにそれと似た形式を取っているからこんなことになる。これが正しいかどうか、誰か計算で出してもらえないかな?数学強い人にきいてみたい。

サントリーホールができたとき、入場者数に対してトイレの少なさに危惧したことがあった。これではトイレ待ちで休憩が終わってしまい、ロビーでの会話の時間がなくなると。今はスタッフが誘導して上下のトイレの人数を管理、なんとか後半の開演時間に合わせるので事なきを得ている。もし、昔からの日本式の並び方だったら右往左往して混乱が起きる。ドアの前に二人ずつ並ばせてみよう。すると時間の差が出て使用者は右往左往するでしょう?

と、毎日怒ってばかりいるからお腹が空く。健康に良い。

けれど私はしばらく非常に緊張した毎日を送っていたので、ストレスが無くなった今健康にはなってきたものの、未だに本調子ではないから健康診断を受けることにした。

病院に電話をして予約、高齢者の特定診断の書類が送られてきていたから、それを大事にテレビの前に飾っておいた。二日前、受診票を探したら、あら、不思議、ない。どこを探してもない。慌てて病院へ電話すると、役所に電話して再発行してもらうようにと言われた。

オプションで付けた胃がん、大腸がん検診などの予約を無駄にしないように、書類がなくても予定通り受けてもいいというから、今日カメラを飲んできた。

何回受けてもカメラは嫌だから麻酔での検査を選んだら飲み薬で、これが恐ろしく苦くてまずい。この世にこんなまずい味が存在するのかと思ったけれど、あっという間に眠りに落ちたから、目が覺めたらもうすっかり検査が終わっていた。

それで家に帰ってきて郵便受けを見たら、受診票が届いていた。今年私の運勢は天中殺だから、すべてこの通り間が悪い。来年はなにか良いことあるかなあ。






2025年2月26日水曜日

確定申告クソ食らえ!

楽しい確定申告の季節、ことしこそ完璧にと思うけれど毎日することではなく、この時期の間だけなので、一年も経つとやり方はほぼ頭から消え失せている。それでも毎年ああそうだったのかという発見はあり、一つ進歩しては2つ退歩。いつも完璧とはいかない。それで今回は 一度だけでも税理士を頼んでやってもらおうと思ったけれど、探すのが難しい。

そう言ってこのブログで嘆いたら早速助け舟がきた。今年依頼した税理士さんをご紹介しましょうかと言う人がいて、少し前から申告書の作成に取り掛かっていた私は心が動いたけれど、税理士を頼むほどの金額でもなし、まずは自分でやってみようかと思った。

フリーで仕事を始めてから約60年、その間忙しい合間にやっとの思いで期限内に間に合わせる。それでも昔の役所はのんびりしていて、向こうから電話をかけてくれて計算違いや書き落したものを補充してくれた。電話の向こうで「これはなんの数字かな?あ、そうか、これは少し払いすぎですから訂正しておきますね」なんて本当に親切だった。古き良き時代!仕事を終えたら急に暇になったので今度こそちゃんと書こうと思って、税務署の申告書作成相談を予約して出かけた。

去年行ったとき、あまりの署員の態度の悪さに立腹したことがあった。私を激怒させたそのときの税務署員は、私の書いている申告書を覗いて「おいっ!誰のを書いているんだ」と怒声を浴びせかけたのだった。私の名前は男女共通で使われることもあるような名前だから漢字一文字。それを見て私が男性の申告書を代理して書いていると思ったらしい。いくらなんでも納税者に対して「おい!」はないでしょう。怒りのあまり頭に血が登ってその場を去った。帰宅して書き終えた申告書を郵送、中身の点検も済ませてなかったから、間違えだらけではなかったかと思う。なんだかやたらに税金が高かったから、控除しないでいたものも多かったかと。

そういうときには役所は黙っていて、少しでも足りない収入のミスでもあろうものなら鬼のように言ってくる。こんな零細企業をいじめてどうする。そんな恨みがあるから今年は怒らないようにしようと心を静めていたのに、又々怒り心頭になって帰ってきた。

予約していったのでちゃんと順番通りに進むかと思ったら大違い。一人の税理士に二人ずつ待たせるので、その片方が長引くと並んだ順でなく後方の運の良い人が先にどんどん進むことになり、私は立腹した。なぜ、一人ずつ順に見ないのか?ものすごく遅い人の組になってしまって後ろからどんどん新しい人が終わって行くのを見ていたら、今年こそ我慢と思っていた気持ちは吹っ飛んだ。

いくらなんでも癇に障るから並ばせた人に文句をいった。そりゃあこんなときに怒られるのは理不尽なことと思うけれど、他の空いているところに次の人を入ればいいのに、あいているのでぶらぶらしている職員もいる。お役所仕事というのはこういうものかという典型。文句を言うとそれは悪かったと言って抱きしめられた。「おい!セクハラだぞ。なんてことをするんだ」と去年のお返しをしたい。

私は小柄で子どもほどの体格だから(ウエストまわりを除く)御しやすいとみなされるのだ。もう80才にもなるからセクシーな気分にはならないかと思うと、私だって好みの男性にされるならともかく、デブの中年男は趣味ではないのよ。振り払ってやっと自分の番になった。担当者は、はじめからこんなばあさんが納税者だと考えていないのはあきらかなのだ。この人たちは税理士であって職員ではないかもしれないけれど、本当にいつも腹立たしい態度をとる。

自分で今までやってきたけれどわからないところがあるというと、それをするにはまず所得を出してからでないとできないという。それはとっくにわかっているけれど、今書くのではなく計算の方法だけわかればいいわけで、その都度ことごとく馬鹿にした態度。こんな婆さんが何を訊いているのか。そして用紙をパタパタと叩きながらこれがあるか?というから、自分のものを探し始めた途端、後ろにいる次の人の相談にとりかかってしまった。それっきり振り向きもしない。

用紙が見つかったと言っても振り向きもしない。そこで私の怒りは更にメラメラと燃え上がった。今年こそは怒らないようにと思ってきたけれどもう帰ると言ったらグズグズ振り返って、先ほどと同じようなバカにした態度。「それで?収入はあるの、年金だけ?」収入はこれこれというとちょっと居住まいを正した。「それに年金は?」言うと急に態度があらたまっただけでなく言葉が敬語になったのだ。それにはこちらがびっくりした。

今までの態度は消えて「今日は申告書の作成はしていかれますか?」敬語に切り替わっておべっかを使う顔になった。はあ!税金を払う立場の人に対しては態度が違うのだとわかった。雀の涙でも税金を払う人にはころっと態度を変える。私の年代では控除の手続きの人が多いと思うけれど、私は曲がりなりにも去年までは仕事をしていた。税金もしっかり払っていた。

立場によってこんなに態度が変わるなら、運が悪く大変生活に困っている人などにはどんな態度を取るのか。人生の一瞬で浮き沈みのさなかに意地の悪い役人にあたったら、最初の私のように雑に扱われてしまうのだ。なんで税金を払う人より税金を払わせる方が偉いのか。私は運が良くて生活に困ることはあってもすっからかんとまではいったことがない。ある時期つまずいて生活困窮者になった人がいたとしても、犯罪者でなければそういう人たちを決して馬鹿にはしない。

ここまで露骨に態度を変えるとは。あまりにも不快なので帰って自分でやるからいいと断って帰ってきた。行くたびに不愉快な税務署。お金のために根性が腐ったとしか言いようがない。あなた達の給料を払うためにも私達は文句も言わず税金をおさめているんですよ。おわかり?

それで結局自分でいつも通りに計算することにして、昼の暖かさに誘われて時々うつらうつらとしていたらやはり税申告でお困りの友人からライン着信。だいぶ前のこと、彼女から紹介されていた青色申告のグループがあって、そこに行ってみない?と。ありがたい。

しかし青色となると領収書の確保が必要でしょう?私は買い物が済むといきなりレシートをポイ捨てしてしまうのが癖で、それでポイントが使えなかったりする。無意識にやってしまう癖だからまずそこを直さないといけないかなあ。とにかく財布に入れたものはお金以外すぐになくす。お金はないので入れていないからなくすことはないのですが。

今年はもう自分でやりかけたからもうこのまま出すとして、来年からお願いしようということになった。















引退してから

本当に何もしない日々。本を読むでもなくヴァイオリンを弾くでもなく、ひたすら時間を無駄に過ごしている。

7年前から生まれて初めての一人暮らしが寂しくもあり嬉しくもあり、どのように自分の生活を構成していくか心細い思いもあった。けれど今までの自分の生き方を考えると、なにもせずにいるのが一番というところに落ち着いた。ぼんやりとしているとあちらからなにかやってくる。

音楽家になるつもりは一切なかったのに、周りから押し上げられるように音楽の道に進んだのも、自力ではなく目に見えないなにかに道筋を辿らされたかのように思える。両親も私にヴァイオリンを強要したわけでもなく、自分の意思が働いたわけでもない。特に母は猛反対。死ぬ間際まで、もうヴァイオリンはやめなさいと。

これも極端な話だけれど、こんな下手くそでは業界で生きていくのはさぞ辛かろうと思ったのかもしれない。特に女の子は家庭に入るのが一番と考える人だったから。私の低い鼻を喜ぶような人だった。「女の子の鼻が低いのはいいことだから」なぜかというと人相学的に見ると、家庭に波風立たないから・・だそうで、何を根拠にそういうのか。兄弟で私だけ特に鼻が低いのを憐れんでフォローしてくれたのかも。

そんなこと言う割に母は女学校時代、ハイフェッツを聞きに行ったとか言う。私のヴァイオリンはいけなくてなんでハイフェッツはいいのよ。それはそうだ、あのハイフェッツのヴァイオリンは人類の宝、私のは、うーん残念。わかっていたのね。

母は常日頃、私の姉や兄たちに私の面倒を見るようにと言っていた。なぜなら私は末っ子で、両親と一緒にいられる時間が誰よりも短いのだから可哀想だと。だから兄姉で面倒見るようにと。私の立場は他の兄姉よりも一段低く、姪や甥のガキ大将的立場だった。それで次兄からは私が中年になっても毎年お年玉をもらった。時々お小遣いももらったし。

最近家にいる私のところに姪や甥が集まるようになった。彼らもその親達から言われているのだろうか。おばちゃんはおばかちゃんだから面倒見るようにと。そのまた子どもたちもくるようになって、今月の末に「ほーむこんさーと」が開かれた。

きっかけは今までおよそ音楽には関係のない甥が、最近ギターを始めたというのでみんなで聞いてあげようではないかということに。それに姪の娘がヴァイオリン初心者でチイチイパッパやっている。その子の母親である姪は、最近沖縄の三線をはじめて、涙そうそうが弾けるとか。ドラムもやっているしピアノも弾ける。私もちょっとだけヴァイオリンが弾ける。メンバーがそろった。

他の関係者に連絡すると、その日は来られないけど次は絶対に行くから決まったら教えてという諏訪に住んでいる甥の息子からのメッセージ。私はまだその子にあったことがないから初お目見え、というわけで親戚の2世代年下の子どもまで来るようになるかも。するとその両親も来ると思えるし。世捨て人しているつもりが、なんだか賑やかになりそう。

第一回目はつい先日、甥のYはギターを下げて登場。姪のNは三線、その娘二人はリコーダーとヴァイオリンを持ってきた。

まず言い出しっぺのYがサザンの曲。いとしのエリー?かな。私はよく知らないので多分ということで。聴いたことはあるのでなんとか一緒に歌えた。あれほど仕事で音楽番組をやっていたのに、何にもわからない。けれど、こういう曲も素敵だなあと思う。いつもベートーヴェンだのバッハだのでは長すぎて気軽には歌えない。甥が音楽に目覚めてくれたのは何より嬉しい。

三線は涙そうそう、ヴァイオリンはメヌエットと楽しき農夫。

今「のうふ」を変換したら納付とか納付期限とか、どこまでも確定申告に追い回されている。姪とその娘二人はリコーダーで合奏。驚いたことにすごくうまい。音も音程もしっかりしていて、聞けば今どきの小学校ではリコーダーの授業があったらしい。これはすごくいいことで、楽器が安くて手軽に持ち運べて技術は易しいけれど、かなり高度な曲も演奏できる。いいところに目をつけた小学校教育はでかしたと言いたい。もちろんフランス・ブリュッヘンのような名手になるのは恐ろしく大変だけど、最初の楽器演奏の入門としてはなかなか優れた考えだと思う。

姪は子供の頃ピアノを習っていた。ショパンのエチュードくらいまでは行ったらしいから簡単な伴奏なら弾ける。ジャズで愛のあいさつを弾いたけど、根が超生真面目だからクラシック弾きで超真面目。これからグズグズにくずしていかないと、ジャズっぽくならない。姪の娘にはきちんと弾けと言って、姪には崩せといって、たいそう忙しい。

皆で合唱したりしたあとは一斉に昼ご飯。飲んだり食べたり、話しが弾む。夕方少し気温が下がってきたので暗くなる前にお帰りと言って帰らせた。近所に住む姉とその長男も次男坊のギターデビューを嬉しそうに見ていた。

姪のNのドラムがそのうちこれに加わるなら、部屋の防音をもっと強化しないと近所迷惑になる。防犯も兼ねてもう一度防音の見直しをしないといけない。








2025年2月23日日曜日

野良の恩返し

最近野良の雰囲気がやっと家猫らしくなってきた。穏やかな眼差しが艶々した毛並みとよく似合う。昼寝する姿はもうあけっぴろげ。お腹を無防備に見せてひっくり返っている。私が撫でようとすると、以前だったら少し身構えていつでも逃げ出せる態勢ををとってから、撫でられるとほっと力を抜くところがあったけれど、今や触っても目も開けないで伸びをしたりあくびをしたり。

この野良たち二人とも 同じくらいの年だからそろそろ猫としては中年すぎで、長年の暮らしが変わっても、そうそう本人たちは変われない。最初に写真が残っているのが2017年でその時すでに大人だったからかれこれ9歳から10歳、いやもう少し上かも。野良猫としては相当な長寿で健康で幸せな方だけど、それでも厳しい生活をしてきたのだった。

最近は温かい家にいれてもらい、餌にも不自由なく穏やかに生きられるようになってきた。そのことに御礼を言うつもりなのか、二匹で勢いよく外から飛び込んできたと思ったら、私の足元にぽとりと落としたものがあった。黒っぽい塊でなんだろうとよく見ると、きゃあー!小鳥さんだった。

雀ほどの大きさだけどもう少し小ぶりなので、子雀かとも思えるけれど毛色が違う。背中が薄緑。ピクリともしないからもう死んでいるのはわかるけれど、この二匹の中年カップルがこんな小さな鳥を素早くゲットできるとは思えないから、他の猫が落としていったものを拾ってきたに違いない。それを私に持ってきてくれたのは日頃の感謝のしるし?ありがとう。でもこんな恩返しはご遠慮させていただきますよ。コトリさんがかわいそうでしょう。

小鳥が活発に餌を探して飛び回る頃、人間たちは税金の確定申告で大わらわ。私は昨年と一昨年は体も脳も死んでいたから、ひどく雑な申告をしたために容赦なく税金を取られてしまった。計算間違いもあり、説明不足により経費が認められなかったりして、生活苦に拍車がかかった。今年はそうなるまいと密かに備えていた。

今までは忙しさのあまり、領収書などをポンポンと抽斗に放り込んでいたので、いざここというときに見つからないことが多く、なきたいほど嫌な作業だったので今年は少し頑張ってみた。その結果、昨年までとは見違えるほど楽に見つけることが多くなって、なあんだ、こんなに楽にできるじゃないと思って、またすぐに油断をしてただいま休憩中。

ちょっと見通しが良くなったので、もう怠け癖が出てネットの漫画なぞをぼんやりと見ている。これが実にくだらないというかどれもが嫁姑問題、夫婦の浮気や離婚などが題材で、それを毎日見ているうちに面白くなってきてついつい続きを待ち構えるようになってしまった。それもこれも暇で時間がたっぷりあるので。面白くて絵がうまいというのはほんのひとにぎり。うーん、漫画の世界も厳しいのだろうなあ。

こうしてうだうだしているとあっという間に時間が流れて確定申告の書類提出期限に遅れてしまうのだろうなあと、毎度のことながら今年も嫌な気分で過ごす羽目になっています。なぜこんな面倒なことをしなければいけないのかと毎年考えていたので、今年は税理士を頼もうと思った。

一体どこで頼めるのか、全くのド素人なので市役所に訊いてみた。すると役所近くの商工会議所の電話を教えてくれたから電話してみると、「ここは税理士さんの紹介所ではないから税務署に訊け」という。税務署では親切ではあるけれど一向に結論が出ずに日が暮れてしまいそうな長話しとなって、結局申告書作成会場に予約して税務署の相談会場に来るるようにと。こんな人でもお給料をもらえるのかなと思えるほどのトロさ。これなら私にもなれる!

ネットで探した税理士の料金がえらく高いのにはびっくり。いくらなんでも普通の家庭人が確定申告書の作成に20万とか出せます?それにそのサイトの電話が頭に+のついた番号で、詐欺事件などで外国から指示している番号もそのような番号ではなかった?最近はなにもかも怪しいので、古いと言われようとアナログな手段で探すほうが良さそうですよ。これ本当に大丈夫なのかしら。知っている人がいたら教えてほしい。

もし私の確定申告を代行してくれる人がいたら、私は小鳥なんかではなく大きな鳥を恩返しに差し出すのに。ハシビロコウなんか私は好きなんだけど、どうかしら?今の私はハシビロコウに変身しかねないほど暇で。漫画の悪口言ってるけれど、このブログだってそうとう退屈なのによくいらしてくださいました。御礼申し上げます。










2025年2月8日土曜日

野良たち、やっと遊び始める

元というか今でも野良なんだけど、うちに入り込んできたのんとグレの二匹。

のんは殆ど家猫になり、かなり落ち着いてきた。甘え方もすっかり家猫らしくなって可愛い。グレの方はやっと家に入ってきても警戒心が強く、ベランダの窓を少しだけ開けておかないと、ソワソワし始めて逃げ道の確保に努めるので家中が寒い。彼がいるうちは窓を10センチほど開けておくので寒風がヒュウヒュウと部屋を横切っていく。以前はそのうち猫の通り道を作ってやろうと思っているうちに猫が全滅したのでそのままになっていた。

一時期私が死んだら猫たちが取り残されて可哀想と思い、もう飼わないことにしてあったのに、いつの間にかまた増えてしまった。これはやはり猫の持っている類まれな魅力と、野良の環境の悪さへの同情とがあるので仕方がない。それでも二匹は片時も警戒を怠らない。いくらかわいがっても私に対してさえも気を許さない。

近所の人に聞いたところではこの二匹は兄弟で、ある日その人の家に母猫が連れてきておいていったそうな。母親が毎日餌をもらっているうちに大きくなった子猫たちは、そのうち兄の方だけ母猫から邪険にされて追い出されたという。近親相姦を避けるため?かもしれない。

女の子はその後も母猫と一緒にいたけれど、母親はいつの間にかいなくなった。そしてずっと兄弟で地域の人達から可愛がられて大きくなった。けれどいくら優しい人たちが多くても中には意地悪な人もいる。猫の嫌いな人がいるのは当然のことで、さんざん辛酸を舐めたに違いない。

のんはすっかり甘えん坊になって可愛いけれど、未だに私が急に手を動かすと怯えてしまう。だから私はのんの前ではあまり体を動かせない。その代わり抱っこしてほしいときには膝に乗ってくるのでぎゅっと抱きしめても怖がらないようになった。

二匹とも今まで猫の遊びをしたことがまったくなかったらしい。猫はどの子も遊ぶものだと思っていた私は、朝の散歩の帰り道にすすきの穂や猫じゃらしを摘んできてお土産にしたけれど、のんは怯えて逃げ出してしまった。これはショックだった。

そのうち男の子のグレが来るようになっても、二匹とも遊びをしない。紐やアルミホイルを丸めたものを投げると怖がるのでびっくりした。以前は常に4.5匹の多頭飼いだったから、おもちゃには家中を猫が走り回って壯觀だったけれど、こんなに怯える猫がいたのにはショックだった。

彼らは毎日、餌を探すのと安全な寝床にありつくのに一生懸命で、こんな意味のないことをやっていられなかったのではないかと思う。のんは飼い始めてからもあまりの警戒心の強さにがっかりさせられた。私にも明らかに敵意を見せたりする。

それでも毎日同じベッドで寝るようになってからは随分警戒心が溶けたようだけど、目が覚めると私の腕や足には引っかき傷が絶えない。こんなに引っかかれても目が覚めない自分にはびっくりする。

先日ペットショップで猫のおもちゃを買ってきた。すると、それには二匹とも激しく反応して大喜び。ずっと遊んでいる。そして交代に遊ぶのがどちらかが待ちきれず取っ組み合いになる。初めてこの子達が遊び始めたのだった。さすが人間の悪知恵はすごい。

遊び疲れて夕方になった頃、グレがその玩具を口に咥えてベランダから逃げようとしているのを発見した。「こらっ!」と言うと慌てて飛び降りて隣家の塀の中に落として逃げていった。お隣さんへ行って拾わせてもらって奥さんと立ち話をすると、皆この子達はよく知っていて、特にグレは人気者らしい。兄弟猫でものんは頭が良くて警戒心が強く、グレは太って巨大になりのっそりとしているけれど、気が良くて可愛がられている。

二匹で遊ぶにはやはり2つ必要なので、次の日ペットショップに行ってもう一つ同じ猫じゃらしを買った。これで安心と思って外出して帰ってきたら2つともおもちゃが消えていた。どうやらグレがどこかに持っていったらしい。それではとアルミホイルをボールにして転がしてみたけれど、二匹とも反応しないばかりか、少し怯えてしまうのだった。やれやれ、猫のおもちゃって結構高いのに。私はやすいシャツを着ているのに、猫は随分お金ガかかるのよね。

でもこの二匹が遊び始めたのは大した進歩。衣食足りて余裕が出てきたのか、人間への信頼ができたのか。







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2025年1月29日水曜日

秋山和慶さん

 秋山さんの訃報が届いた。

2025年1月26日肺炎のため亡くなられたそうです。1月1日自宅で転倒し大怪我を負い1月23日音楽活動からの引退を表明して治療に専念していたところであったそうです。

心から御冥福をお祈りします。

秋山さんと私は東京交響楽団の同時代を生きた。物静かで端正な風貌にも関わらず、彼は札付きのいたずらっ子で、私達はよくひどい目に遭わされていた。指揮者は客席に背を向けているからお客さんにわからないようにメンバーを笑わせるので困ることが多かった。

あるときには「ルスランとリュドミラ」のあの早い序曲を猛烈な速さで振るのでヴァイオリンは青息吐息、終わってからみんなに責められても何のその、演奏中は皆の苦労を嬉しそうに眺めるなどは序の口で、あるときはご自身のメガネを途中で外すのでなにか?と思っていると、おもちゃの鼻眼鏡をかけて振り出す。ちょび髭がついていて思わず吹き出す。これも本番でのはなし。客席を向いている演奏者たちは笑いを堪えるのに必死になる。指揮者のせいなのにこちらが不真面目にとられてしまう。

そんな茶目っ気もあるけれど、私には忘れられない名演がある。定期演奏会で武満徹「ノベンバーステップス」を演奏したときは、音楽の神様が乗り移ったかと思える名演だった。舞台しもて袖で聴いていた武満さんが秋山さんの手をとって「どうしてこんないい音するの」と涙をこぼされた。秋山さんもその話をしたとき少し涙ぐんでいたようだ。

練習場で、これから練習にはいるという前に私が一人で新曲の練習をしていたことがあった。眼の前には指揮台がありそこの椅子で楽譜のチェックをする秋山さん。知らない曲なので速度がわからないから、ゆっくり弾き始め最後は練習のかいあってかなりのスピードで弾けるようになった。そして練習が始まるとものすご~くゆっくり。

「秋山さん!聞いていたんでしょう?それならゆっくりだっておしえてよ」きっとお腹の中で笑っていたに違いない。「あはは、苦労してる」なんて。

昔、彼はド派手なアメ車のサンダーバードに乗っていた。ところが交差点で事故って入院したという。お見舞いに行くとベッドに包帯だらけの上半身、弱々しい声で「nekotamaも気をつけろよ」と。私はその他大勢の一人だから替えがあるけど、秋山さんは取り替えようがない。人のこと心配しないでご自身が生きていただかねば。その事故以後、若くして髪の毛が真っ白になった。あの見事な銀髪はそういう経緯があったのです。

こんないたずらっ子でも、私がカナダの演奏旅行でこわーいソロを弾いたとき、本気で心配してくれた。弓が震えて飛んでしまうのをなんとかしようとアドバイスをくれる。どんなになってもいいから思いっきり弾いていいと言うので、優しくされればされるほど私はますますいじけて行き詰まった。そうしたらバンクーバーシンフォニーのコンマスが私を指さして笑うからそこで「ナニクソ!」負けじ魂が蘇った私。でも秋山さん、ありがとうございました。私の人生の一番愉快な頃にご一緒できて幸せでした。

安らかにお休みください。

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お別れの会のお知らせ

2025年1月31日(金)12時開会 13時30分閉会 (受付11時)

ミューザ川崎シンフォニーホール 川崎駅西口より5分

平服にて 献花は固くご辞退とのこと


一般向け記帳台 設置日時 2月1日(土)から3日(月11時から16時

        設置場所 ミューザ川崎4階企画展示室












2025年1月15日水曜日

疑う

 姉の家でお茶を飲みながら世間話をしていたらインターホンが鳴った。足が悪くたち上がるのが遅い姉の代わりに私がドアを開けると、作業着の男性が立っていた。いかにも実直そうな顔ではあったが、姉は高齢者。最近闇バイトで強盗を働くふらちな者共が跋扈しているので油断ならない。

無愛想にどういう用件か尋ねると、ガス器具の点検に来たという。ガス器具なら東京ガスの人ではないかと思ったけれど、別の会社名の入った名刺だし、家の中まで入られるのは剣呑だから努めて無愛想に応対した。お宅はどこの会社ですか?とかどうして点検に東京ガスではない会社から来るのかとか、こんなに時間を取るのにどうして無料なのかとか矢継ぎ早に訊く。それらに穏やかに質問に答える男性。

よく聞くのは、屋根が傷んでいるから修理すると言って屋根に上がり込んでわざと瓦を剥がしたり、ブルーシートだけかけて何万円も請求したりする人がいるというから、私は姉の保護者としてその者共に立ち向かわなければという使命感に燃えていた。終わってみればきちんと点検の書類も整っており、名の通った会社名が書かれていて、姉の家は電気もネットもガスも全部ひっくるめての契約になっているという。

それならと一安心。もちろんお金も取られなかったし終始感じの良い対応だったけれど、つくずく嫌な世の中になったと思わずにはいられない。犯罪者もやることが鬼畜になってきて、思い出すのは狛江の事件。90歳の女性に乱暴した挙げ句殺してまでカード番号を聞き出そうとした。もし自分の姉や母親がそんなことをやられたらと思うと居ても立っても居られない。そのやり方も信じられないほどの残忍さで聞くだけで吐き気がする。

そしてこれを書いている最中、今度は私の自宅に本物の東京ガスからガス器具の点検に来た。誰が見ても東京ガスの人だけど、今日は疑り深くなっているから、セコムの防犯ベルをポケットに忍ばせて対応した。本物かどうかということは、事前に点検のお知らせが来ていることと、紛れもない東京ガスのジャンパーを着ていたことだけれど、やはり一応疑ってかかる。そちらも何事もなく作業が済んだ。

私は一人暮らしになったとき、セコムに申し込んで安全対策がしてある。多少お金はかかるけれど、ドアにセコムのステッカーが貼ってあるだけでも防犯効果はあるらしい。けれど、操作を間違えると恐ろしく煩わしい。うっかり者のわたしはしょっちゅう誤作動を起こして、夜中や明け方にセコムから電話がかかってくる。

「ご無事ですか?」切迫した声で訊いてくる警備会社の人に「すみません、また間違えました」そのうちオオカミ少年のように誰からも信用されなくなるのが怖い。しかも素早く飛んできてくれるから、ぐちゃぐちゃの家の中を何回も見られてしまった。

これが一番恥ずかしい。












舘野英司さん

私のもと教え子のKちゃんからのメール。舘野先生が亡くなりましたと。彼にはここ数年お会いしていなかった。

舘野英司さんはピアニストの舘野泉さんの弟さんで、チェリスト。私がまだオーケストラにいた若かりしころ一緒だったことがあった。ある日舞台袖で話をしていたとき「フィンランドではねえ・・」と留学時代のことを語り始めた。

「地面が凍っているのでバス停で待っているときに強い風が吹くと、チェロが風を受けてズズズっと滑って前に進んじゃうんだよ」「ウッソー、いくらなんでもそんなことないでしょう」私はそれを聞いて大笑い。出番が来て演奏に入った。演奏が終わって舞台袖でヴァイオリンをケースにしまっていると、向こうからすごい勢いでまっすぐに私の方へ歩いてくる彼の姿が目に入った。

「さっきの話、あれ本当だからね」そばまで来ると真剣な顔でそう言って去っていった。嘘つき呼ばわりされたのが余程悔しかったとみえる。演奏している間ずっと悔しかったのではと思う。呆気にとられて後ろ姿を見送っていた私。それから半世紀、私の生徒となったKちゃんが結婚するというのでよろこんでいたら、そのお相手がチェロを弾く青年のT君だった。彼の先生が舘野英司さんとわかったのがご縁の再開のきっかけとなった。

東京文化会館の楽屋で数十年ぶりにあったとき、ふたりともほとんど同時に「変わらないねえ」と。その後奥州市のチェロフェスティバルに数年間参加させてもらったり他のアンサンブルもご一緒できて楽しい思いをしたけれど、年々彼の体が弱っていくのを目の当たりにすることになった。

練習のため私のレッスン室に来ていただいたけれど、エレベーターが無くて重たいチェロを持って階段を上らなければならない。ある時「僕はもうチェロを持ってこの階段をあがれないよ」とおっしゃるから「チェロは家のをお使いください」そう言うと嬉しそうに弓だけ持って来られるようになった。しかしそれも「僕は階段を登ることができないんだよ」に変わった。

私のレッスン室の玄関で、毎回「このうちは靴べらないの?」それでやっと靴べらを買ったけれど、それを使ってもらうこともなかったような気がする。もっと早く買っておけばよかった。毎度後悔の念ばかり。

それで最後のときには彼の家近くの楽器屋さんのスタジオが練習場所になった。その時がご一緒した最後だった。その後私は数年間、トラブルに巻き込まれ収拾に関わって時間がなく、演奏に参加させていただくことはなかったけれど、事あるごとにKちゃんからの報告を受けていた。「舘野先生が飲みすぎて心配です」とかなんとか。本当にお酒が好きだった。ファンのおばさまたちに囲まれて上機嫌に穏やかにお話を楽しんでいらした。

なくなる前の日、新潟のホテルでお酒を召し上がって、次の朝、あちらの世界に行ってしまったとか。最後までチェロとお酒を愛した彼らしい人生の締めくくり方だったらしい。

御冥福をお祈りします。







2025年1月13日月曜日

コーラスライブ

3人の女性コーラスグループのライブを聽いた。ライブハウスは六本木の「keysuton」

    ヴォーカル 齋籐裕美子 内田ゆう 山下由紀子

    ピアノ:小野孝司 ベース:岩切秀磨 ドラム:丹寧臣 

    サックス:今尾敏道

メンバーはずっと以前からの仕事仲間たち。

私は地方で仕事のときには本番の前日に現地に行くようにしていた。交通の遅れの心配と体調を整えることなどのために。メンバーはそれぞれ自分のスケジュールに合わせて自分で行動するけれど、時々申し合わせて一緒に行動するときもあった。仕事日の前日に行って現地の観光をするのも役得の一つ。

浜田に仕事があった。一番近い空港は萩。今は沢山飛んでいるけれど、その当時の萩空港への飛行機便は、朝7時ころの出発便一本しかなかった。仕事当日は早朝自宅を出てその便で行って、それから10時間近い仕事をこなしてというハードスケジュールになる。それを避けると前日行ってしまえばその一日遊んで、次の日はホテルで昼近くまで寝ていられる。それから仕事をするなら随分楽になる。

コーラスさんたちのお誘いで私も前日行く仲間に入れてもらい、朝一番の飛行機に乗った。萩空港に到着してレンタカーを借りて、さてどこへ?なんの計画もなかったけれど、この辺、見どころはいっぱいあってどこでも立派な観光地。津和野は画家の安野光雅さんの生まれ故郷なので美術館がある。そしてプラネタリウムもあるけれど休館日で開いていなかった。私達が入り口付近でウロウロしていると、係の人が気の毒がってわざわざ開けてくれるという。

私は少し困ったなと思った。今まで何回もプラネタリウムに入ったけれど、一度もまともに見たことがない。最初の数分はきれいだと思うけれど、夜になって星がきらめくともういけません。あっという間に眠ってしまう。ようやく目が覚めるのは全部終わった頃。せっかく開けてもらってもねえ。

案の定、私はあっという間に眠ってしまい、気がつたら天井には朝がきていて全員起きた様子。自分だけかと思ったら皆ぐっすりだったようだ。早朝家を出て羽田空港に行き、飛行機で萩まで、それだけでもかなりきついのだからもっともなことで、せっかく見せていただいて申し訳なかったけれど、誰一人起きていた人はいなかったようだ。後ろめたい気持ちでお礼を言って、津和野、秋吉台にも行って、おそばを食べてなどなど。次の日は体力十分で仕事に勤しんだ。こんなふうに楽しく仕事をしていられたのも彼女たちのおかげだった。

というわけで久しぶりに六本木に行った。私がまだ仕事を始めたばかりの頃、六本木でニコラスという当時流行っていたピッツァのお店で遊んで夜明けに家に帰ったら、母が起きて待っていた。これはまいった。夜通し心配させてしまったらしい。昔はよく遊んでいた六本木なのに今は駅に降り立つこともなくなった。どんなに変貌したかもわからないからネットで地図をゲット。歩きのコースをスマホに挿入して万全の用意ででかけた。

しかし六本木はあまりにも変わってしまい、駅の中さえ右往左往。やっと会場付近にたどり着いたけれど、見た目があまりにも変わっていて、見当がつかない。困ってあたりを見回したら、ウーバーのお兄さんがバイクに乗り込むところだった。のがしてなるものか、走り寄ってスマホの地図を見せて「ここはどこ?」思いがけないほど穏やかな声で「あ、惜しかったですね、ここまで来て、すぐそこですよ」すごく優しく慰められた。

田舎のおばあさんが初めて六本木なんかに来て、泣き出すのではないかと心配してくれたのかもしれない。場所はもう目と鼻の先。どうしてわからなかったかというと、道路の真ん中が立体になっていて歩道は上、車道は下、反対側の歩道から見ると目印の建物が見えなかったのだった。

私達が昔、散々来ていた六本木とまるで様子が変わっていて、立派なオフィスのようなビルが立ち並んでいる。狸穴という地名が直ぐ側だけれど、あそこには本当にムジナが出たそうで、そのくらいのんびりとしたところだったようだ。大きな古いお屋敷もまだ残っていて、そこに私のヴァイオリンの先生が住んでいた。けれど今は開発の手は隅々まで行き届き街中ピカピカ。

客席はほとんど埋まっていてわずかに残った相席だった。前の席には若い女性が二人。向かい合わせに御夫妻と思しきカップルのテーブルに無理やり割り込んで肩身が狭い。けれど少しずつ会話をしていくにつれて、どんどん共通の仕事場と関係者の話題で盛り上がってしまった。面白いなあ、こういう場だから業界人が多いのはもとよりだけれど、あまりにも近い知り合いに近い人達だった。次回お会いしたらぜひまたご一緒にと言われて胸が踊る。

ステージは言うまでもなく楽しい。ベテランのコーラス・ガール3人が老眼鏡をかけて歌う素晴らしさ。3人それぞれ持ち味が違い、声の質も違い、ちがうからこそ素敵なハーモニーになる。人生の深味を感じる。若さだけでは味わえない心の琴線に触れる味わい。生きるって素晴らしい。どんなに苦労や悲しみがあってもそれが表現に豊かさとなって人の心を打つ。私がこういう人たちと知り合ってどれほど幸運であったかと思うと感謝の気持ちしかない。

珍しくしんみりとなって会場をあとにした。
















2025年1月9日木曜日

嵐を呼ぶ女たち

 湘南在住のM子さんからお誘いがあって、江の島にイリュミネーションを見に行くことになった。

彼女と私は仕事仲間、猫つながり、漫才のコンビ?体型は細長のM子さん、樽型の私とひどく対照的ながら共通点はたくさんある。一番の共通点は2人で組むと物事がただでは済まないということ。

今年6月、M子さんの誕生日のお祝いをしようと中華街に出かけた。その日は雨の予報であったけれど決行することにした。家を出たときにはまだ軽く降っているだけだったけれど、中華街の駅に到着した頃には猛烈な降りとなった。駅で待ち合わせならそこで予定変更したのだが、店を予約してあったので店で合流といことで仕方なく歩き始めた。それはもう道を歩くというより川をわたるといったほうが良いほどの状況だった。

ようやく店にたどり着くき「本当に私達って性格激しいから」とかなんとか云いながら美味しい食事を堪能して、再び猛烈な雨の中、カフェを探して飛び込んだ。しばらくするとようやく雨脚は弱まって来たので帰路についた。せっかくの誕生日祝がこれでは悲しいけれど、思い出に残る記念日とはなった。

あるときはイグノーベル賞の展示会に後楽園まで二人ででかけた。月面歩行を体験できる装置を開発したとして受賞した器具の展示場所まで来た。上からハーネスのようなものがぶら下がっていて、それを身につけるとちょうどつま先が地面に届くほどの高さに足が浮く。それをつけて移動すると月面での無重力状態の感覚を味わえるというわけ。

体格の基準があって、私は残念なことに身長が低すぎてつま先が地面に届かない。M子さんは体重がかるすぎて装置がぶらさがっているワイヤーが撓まない。ふたりとも失格となってしまった。発明家?らしき人がひどく気の毒そうにしていたけれど、規格外の人間ということで全くもって我々らしい結果となってしまった。

そして江の島でイリュミネーションを見ない?とM子さんのお誘いがあったのでもちろん快諾したものの嫌な予感があったのも否めない。またなにか?

昼過ぎコンビニで待ち合わせた。そこからは江の島まではたいそう近いので期待にワクワクしながら車を走らせる。よくテレビなどで放送される江の島入口の橋をわたって駐車場へ。ウィークデイの昼過ぎなので混雑はなく、車を停めて歩き出す。ここの神社は弁天様だそうで私達芸能に携わる者はお力添えを賜りたく拝礼することに。これが今年の初詣であることに気がついた。

お正月は大抵志賀高原スキー場からの帰り道、長野で善光寺にお参りすることが多かったから、暖かい初詣は珍しい。海を見るとかなり白波がたっているので風の強さがわかる。拝殿で手を合わせ、何もお願いが思い浮かばないので、ここまで無事に生きられてよかったとの感謝のみ。そこからは長い階段が上に伸びている。

最近膝も随分良くなったので登るのは構わないけれど、下りのことを考えるとしんどい気持ちになる。しかも上りだけエスカレーターがあって楽、下りのほうが私にとってはきついのだ。下りもついでに作ってくれればよかったのにと恨めしい。長いエスカレーターは改札機にチケットをかざして通る。最初の改札口を通ろうとしたら機械が反応しない。なぜだ?すると係の人が「それ、駐車券です」

あらま、毎度おなじみのボケ!一度やったら二度としないという人ではないので、二度三度性懲りもなく繰り返す。人間が文明社会に適応していないらしい。頂上のカ゚フェで腹ごしらえ。まだ日は高くイリュミネーションは木々に巻き付くワイヤーや電球が見えている。その頃になると風はいよいよ強く、吹きすさぶようになってきた。この二人の組み合わせではまだまだ強くなるに違いない。

きれいな海と山を見て日没を待つ。赤々と山に沈むおひさまを眺めてカフェを出ると猛烈な冷たい風に襲われた。ところどころ電飾がきらめき始め開始時間にカウントダウンで一斉に灯火がついた。薄紫のトンネルには藤の花のように灯火がきらめく。それを抜けて様々な場所にチューリップの花と電飾と、夢の中にいるようだ。相変わらず冷たい風が吹きすさぶ。下る階段は狭く急で怖い。やっと階段が終わったとき急に風がやんだ。

海風が山で遮られたのかと思ったけれど、そうでない場所に行っても風は明らかに弱くなっている。さては我々二人を狙っての所業であるか。風の神さま出てらっしゃい!デコピンしてあげるから。

やはりただではすまなかった。嵐を呼ぶ二人の女、最悪の組み合わせ。



















加藤慧子さん(にのきんさん)

 加藤さんのことを「にのきん」さんというのは彼女の旧姓が二宮さんというから。にのみやきんじろう・・・縮めて「にのきん」

わたしたちが小学生の頃のには、どこの学校にも二宮金次郎の銅像が立っていた。背中に薪の束を背負いながら本を読んでいる少年の姿。仕事も勉強も頑張って偉い人になりました、すごいですねと言いたいけれど、私はひねくれた子どもだったから、仕事は仕事、読書は読書に専念したほうが効率的だし、薪を背負っていたら足元が危ないのになんて思う生意気なガキでした。今だったら歩き読書は禁止。

金次郎さんのことはともかく、二宮さんは私の3才年上でオーケストラの先輩。私がおずおずと新人で参加したオケではもうすでにベテランとして頑張っていた。文字通りのがんばりやさん、そこは金次郎さんと通じるものがあった。いつも目をキラキラさせて声も大きく張りがあってその存在感は他を圧倒していた。

高校生の時に三重県の津から上京して、一人暮らしをしながら世の荒波をわたっている姿は、私の母に多大な印象を与えた。私の家に泊まりに来たときに、私が彼女の一人暮らしの話をすると「偉いねえ、本当に偉いねえ」「あの人はどうしてる?」母は死の数年前まで彼女のことを忘れずに褒め続けていた。過保護で甘ったれの私を見るにつけ、心底彼女には感心していたようだった。

ある時沖縄に一緒に遊びに行ったことがあった。早朝二人で海岸を散歩していたら石垣があって、たった1m位の高さなのに私は飛び降りることができない。するとその時すでに中年だった私より3歳年上の彼女がひらりと身軽にとびおりたのにはびっくりした。聞けば朝毎日彼女の信仰する宗教関係の新聞を配っているのだという。

その時の年齢で毎朝新聞を配ることにも驚いたけれど、体の身軽さにも度肝を抜かれた。性格は超負けず嫌い、どんなときでも自分が悪いとは言わないから、周りの人たちは辟易していたけれど、それでも愛されていたのは彼女の真っ直ぐな性格。歯に衣着せぬところがあってもなお周りには優しい人たちがいて彼女を守っていた。

歯に衣着せぬというところはオーケストラの練習の時も発揮されて、他の人の音の間違いや弓つかいの間違いなど気がつくと容赦なく指摘してくるのでイラッとする人も多かったけれど、ベテランだからあまり逆らえない人が多かった。私は叱られても耳から耳に聞き流す特技があったからいつも平和。

ある時、私が弓使いを間違えたら椅子から立ち上がって早速のご指摘。その時私はたまたま虫の居所が悪かった。本当に何も考えずに反撃してしまった。「間違えたことは自分が一番良くわかっているの。だからいちいち言わないで」

するとあれほど気の強い彼女が無言ですっと椅子に座って、その日はシーンとして何も言わなくなってしまった。今度は私が慌てた。「ああ、どうしよう、先輩に向かってなんてことを。でも謝ってももう手遅れだし、第一どうやってなにを謝るの?無言でいる彼女に心のなかでごめんと言う。

ときには私の強気が彼女を上回ると、周りの皆はヒヤヒヤするらしい。けれど彼女は本当にお腹の中は真っ白な人で、ずっと仲良くしてこられた。常に直球を投げる人だった。

けれど、にのきんさんは亡くなってしまった。昨日訃報を受けた。彼女はまっすぐに生きてあまりにもまっすぐだったので、いつも太陽の燦燦と降り注ぐ道を歩いていたにちがいない。

御冥福をお祈りします。


















2025年1月4日土曜日

年賀状

年賀状は数年前に 停止する旨を書いておいたのだけれど、行き渡らず未だに送っていただくことがある。元旦にのんびりしていて夕方近くに郵便受けを見ると数葉の年賀状を見つけた。やはりいただければ嬉しい。ありがとうございました。

すぐにコンビニに行ってまだ残っている年賀はがきを買い求めた。以前の枚数は200枚を超えていたので暮には死にもの狂いで年賀状書き。今は20枚ほどで収まってくれればいいなと思っているけれど、7日過ぎまでは油断ならない。それまでにあと何枚か来るとなったらはがきの用意をしておかないといけない。10枚ほど追加したけれど、今日もまた追加のためにコンビニへ。今から出そうと思われた方、そういうことですので・・お願いします。

食っちゃあ寝の正月太りを解消しようと追加は少しずつ買いに走る。今必要なだけ買うことにした。面倒だからと多めに買うと必ず余る。かといって必要だけギリギリに買うと必ずといっていいほど1枚足りないとか、私のやることはいつも中途半端。

10年ほど以前、年の暮れに義理の姉が亡くなって200枚ほど書き終えた年賀状が宙に浮いて大慌て。喪中の印刷を近所の店に注文しに行ったら「先ほど同じ方の喪中はがきを注文なさった方がいらっしゃいましたよ」と言われた。「それ私の姉」だった。

年賀はがきを書くのは秘書がいるような人ならいいけれど、私のような暮から正月にかき入れ時というような商売ではなかなか大変なのです。でも、もう暇になったからいただいても余裕、嬉しいけれど、やはり来年からはご遠慮申し上げます。

私が毎日家にいるので昨年から家猫になったのんちゃんが穏やかになってきた。はじめのうちはビクビク、私でさえも油断ならないと思っていて、なんの悪気もなく私が急に動いたりすると怯える。膝に乗ってくるからまったりと抱っこしていると、途中で急にシャアーと唸って噛みついてくる。私は身に覚えのない敵意にさらされた。

一緒に眠るようになっても、朝起きると片方の腕だけ引っかき傷だらけになっていて驚く。でも今はもう、うまく私の寝相の悪さを回避してくれるらしく、ほとんど無傷でいられるようになった。

世間の意地悪に出会うことが多かった野良時代が思いやられる。いつも人の手は自分を追いはらい打擲するためにあると思っていたに違いない。お腹をすかせてやっと見つけた餌を取り上げられ追いかけられもしたでしょう。少しだけ人間を信じられるようになったらしい。

ところで猫の親愛の情は、自分のおしりを飼い主の顔に近づけることで表現するとご存知でしたか?毎日猫が私の眼の前にお尻の穴を見せに来る(笑笑)これはあんまりうれしくはない。なんでかな?

















2025年1月2日木曜日

箱根駅伝

 超絶美しい富士山。心地よい日差し。そんな平和な朝、学生たちは何を思って苦しい山坂を走るのか。

強豪青山学院大学の最初のランナーが不調で、首位争いに加わるかと思っていたけれどまさかの10位。どこの学校を贔屓にということはないけれど、やはり優勝常連校は気になる。青学は4区までは後ろの方にいたのに終わってみれば首位にいた。往路優勝!ここがすごい。

いつも思うのは監督の余裕の心の広さ。最初のランナーをちょっと睨んで「お前がちゃんと走れば」的な苦言を言っていたけれど、何故か愛情を感じる言い方で心の広さが素晴らしい。言われた生徒も監督の方を向いて叱責を受け止める。監督は失敗はそのまま受け入れてよくできた他の生徒を褒める。これは天性の懐の大きさだと思った。失敗は誰にでも起こる。まして駅伝の厳しさは監督自身が一番良く知っているし。

団体の順位が個人的な記録のトータルで決まるというのは少し残酷なような気がする。個人競技なら自分の調子が悪くても仕方がない、また頑張るさと考えればいいけれど、団体だと、あいつのせいで自分たちがせっかく頑張ったのに負けた・・・なんて思わないかしら。誰でも常に絶好調とは限らない。中央大学の最終ランナーはずっと首位にいたのに、最後の山登りで青学に抜かれた。

終わってから中大監督が思いがけなく晴れやかな顔で、明日も頑張ればと言うようなサバサバしたコメント、昔の監督ならげんこつが飛んだのではと思う。中大の最終ランナーが悪かったのではなく、それほど青学の記録が素晴らしかったのだ。

人はリラックスしたときに最も力が発揮できる。でもリラックスしすぎてもだめで適度な緊張を持続したあとでのリラックスが最強だと思う。

パリオリンピックで兄妹の柔道選手が揃って金メダル獲得の呼び声が高かった。しかし前日テレビで見た競技場を下見に来た妹さんのほうがあまりにものんびりした顔をしていたのでおや?と思った。周囲に悠々とした態度で手を振っていたのでこれはやばい!余裕で勝てると思っているらしい。

ああいうときは事前にギリギリに緊張しておかないといけない。それで少し疲れてよく眠れる。眠らなくても緊張の持続は時間が経つと一度緩むから、そこでリラックス。直前にもう一度緊張が来ても一度経験しているから二回目の緊張は少し緩め。そしていざ勝負というときにはすべて真っ白の中で集中できると、こういうのが一番理想的なんだけど。

例えばコンサートの前に全然緊張しないから、余裕で舞台袖で話したり笑ったりしていると最悪な事態になることが多い。舞台に出ていざ音を出そうとするといきなり体がこわばってしまう。そうなったらもう失敗街道まっしぐら。立ち直れなくなる。柔道の妹さんもそんなことだったのではないかと思うけれど、それでも失敗したことは良い経験と諦めてその後の競技を頑張ってほしい。

なんだかんだ言われても、学生たちは一人でひた走るだけでなく友人たちとの絆を深められるこの競技に魅力を見出していると思う。たった4年の特別な期間、輝かしい時間を共有し燃え尽きても、それは生きる者にとって最高の宝になる。失敗しても苦しくても、できるならやったほうがいい。横からとやかくいうことではない。

と思っていたら、カラコルム・シスバレーに新ルートを見つけるために4度目の挑戦をした登山家のドキュメントをやっていた。これはもう命がけの話で燃え尽きるどころか死を賭してのはなし。

前人未到のシスバレーの空白地帯に新ルートを見つけるために二人の登山家はほぼ垂直の雪の壁を登る。荒い息遣いが聞こえる。その人を上から撮っているカメラマンは同行者なのか、プロのカメラマンなのか。こういうときに登山家よりもカメラマンに驚嘆する。

今でこそ小さいカメラなどが開発されているけれど、そして今回の登頂にもそんなカメラが活躍していると思うけれど、昔は大きなカメラを担いで登山家やスキーヤーと共に上り、あるときは先に登って上から撮る姿が写っていたりすると、カメラマンの方が技術的に上でないとできないのではと思ったりした。

激しい風や雪崩に悩まされながら4回目の挑戦、北東壁のルートを見つけて2日目に下山した二人の山男は大きな肉にかぶりつく。どす黒い顔がところどころ赤黒く焼けて、どちらが誰かわからないほどそっくり。それでも嬉しそうに笑っている顔は可愛い。命がけで登るのはどんな気持ちなのか知りたい。登ったけれど降りるのはもっと難しいと思うのですが。

こうして1日中テレビを見て終わるのが毎年のこと。











2025年1月1日水曜日

あけましておめでとうございます

今年もどうぞよろしくお願いします。

このブログを始めたときは日記のようにその時の時代背景や自分の辿った道を書き残して置こうと思っていた。元々ろくでもない人間なので誰が読んでもつまらない、読む人などいないと思っていたら、思いがけないところでnekotama読んでますと言われてびっくりすることがある。まあ、物好きな。でもありがとう。

日記なら公開にしなければいいのだけれど、そうなると継続が難しい。ヴァイオリンも聴いてもらえなければ弾かなくなってしまうかも。それであえて公開することにした。自分だけで書いていると自身の心の毒をそのまま吐き散らしてしまう。いつも公開する前に下書きを読み直すと、自分の心のはけ口のみになって人に伝えようとする努力をしなくなっていることに気がつく。

何回か書き直してギリギリ人に伝わるように書き直す。そのあたりで心の毒を客観的に見ることができるようになる。冷静になれるのはその書き直しの段階で徐々にカタルシスをしながら自分を外側から眺められるようになるのだった。それは私にとって非常に大事なことになった。

思い込みの激しい自己中心的な性格なので、そうでなければ常に冷静ではいられないけれど、書くことによってそれを人に伝えるための作業がどれほど役に立っているか。プロの物書きではないので上手に描けなくても構わない。自分の考えが整理できたらそれだけでもよしとすることに。

そんな拙い文を長年読んでくださる方々、ありがとうございます。

元日の今日もなんの予定もなくぼんやりしていたら、自作の料理をぶら下げて来てくれた人がいた。何を話すでもなくテレビを見てアハハと笑ったりして帰っていった。お正月はこういう意味なく楽しめる貴重な時間なのだ。

雪国からは、自分の立ち位置からきれいな雲や空や海の写真がリアルタイムで送られてくる。家に座っていて目の保養。きれいな川が写っていたから「泳いでみて」とけしかけたら「川の水がわくまで待ってください」だと。どうやって沸かすのかしら。

そうこうしているうちに、だんだん自分の進むべき道が見えてくる。時々こういう時期が私には必要で、全く予想もしていない道筋ができることがある。あとから考えると、その道を歩いたのは必然だったと思うことが多い。努力をしたわけではない、導かれたのだとも思う。

自分がどうなるか大いに楽しみで、年齢的にはこれが最後の分かれ道。最後のチャンスはさてどうなりますか。

皆様の御多幸とご健康をお祈りしております😻nekotama