2022年5月22日日曜日

題名のない音楽会の思い出

 私が東京交響楽団に入団したのが1965年、その少し前から放送開始されたのが「題名のない音楽会」現在テレビ朝日で放送されている。

ウィキペディアによれば、1964年 東京放送との専属契約を打ち切られ苦境に陥っていた東京交響楽団の活動拠点の場を与える意味で「ゴールデン・ポップス・コンサート 題名のない音楽会」として始まった。

日頃聞き慣れないクラシック音楽を楽しんでもらおうという趣旨でスタート。東京12チャンネルの開局から4ヶ月後のことだった。当時スポンサーの出光興産の社員のアンケートでは賛成はわずか17%だった。

その後テレビ東京の経営難の放送時間短縮により、「司会者、楽団、スタッフ」はそのままで他局への移籍を検討。出光興産は「会社が潰れるまで提供を継続する」方針であり在京他局が一斉に手を上げたが、当時専属オーケストラを持たなかったことが決め手となって現テレ朝から「題名のない音楽会」として再スタート。途中、中断があったものの1969年から再放送、現在に至る。

2009年、放送45周年を迎え「世界一長寿のクラシック音楽番組」としてギネス申請、中断後の再開した1969年以降の番組が対象となり「継続放送されているクラシック音楽番組」として世界記録の認定を受けた。

私がこの番組に出演し始めて間もなくの頃の騒ぎを未だに覚えている。当時のクラシック音楽奏者はプライドが高く、ポップスや歌謡曲などを一段下に見ている人が多かった。今では若き演奏家たちはクラシックであれジャズであれ、別け隔てなく楽しんでいるけれど、当時はそうはいかなかった。

日本の祭りの音楽がテーマだったので衣装は法被。血相を変えたチェロ奏者が一斉に抗議しているのを不思議な感じで見ていた。「俺たちはコメディアンじゃない、法被着てチェロが弾けるか!」口角泡を飛ばし真っ赤な顔で怒っているのはベテランのチェロ奏者。それでも公開収録の時間には説き伏せられて仏頂面で演奏していた。この番組が自分たちの生活にどれほど大切かということをこんこんと教えられたに違いない。

その通り、この番組のお陰で東響の今日があるのではと思うくらい全国に名前が知れたと思う。演奏旅行で全国津々浦々でかけたのでいろいろな人から声をかけられた。ある時鞆の浦の海に近い旅館に泊ったことがあった。その時は演奏会が午後9時終わり、会場からその宿まで帰ると10時近くなるので夕食は冷たくなっていいから出しっぱなしにしておいてくださいと頼んででかけた。疲れ果てて戻ると仲居さんたちが皆起きていて、温かいごはんを出してくれた。旅館の朝は早いのに待っていてくれたのだ。その時に一人の仲居さんが私に声をかけた。「あなたテレビに出てますよね」私はステージの一番客席に近いところの席だったのでよくカメラに捉えられていた。

私は人の顔が覚えられないという障害?があって、何回も会っている人の顔もおぼつかないのにさすが職業柄というか天才というか、たまに画面で見る顔がよくわかるものだと感心した。ところがその後も色々なところで声をかけられる。自宅の近所でさえも。こうなると悪いことはできない。この旅館の名前を覚えていたのに最近とんと名前を思い出せない。そのうち訪れてみたいと思っていたのに。

若くて怖いもの知らずの私でも初代司会者の黛敏郎さんは近寄りがたかった。他のスタッフ、例えば舞台監督や照明、音響さんたちとは仲良しでよくふざけていたけれど、ひどく無礼なこともあったと思う。舞台監督は「ぶたかんさん」などと呼んでいた。ずいぶんあとのこと、その人と六本木あたりで遭遇して「ぶたかんさん!」思わず大きな声で呼んでしまったけれど、ニコニコして失礼を受け入れてくれた。後にこの番組の楽団が別のオーケストラに変わったときにエキストラで行ったら、彼からさんざんからかわれた。「最近はお弁当が良くなりましたよ。でも2つ食べてはいけませんよ」「ここは若い団員が多いので、団員の平均年齢をあげないでくださいね」等々。お弁当といえば初期の頃はひどかった。日本がまだ全体に貧しかった頃の話だから。

黛さんは周知の事実として極右的政治思想の持ち主だった。しょっちゅう軍歌など弾かされたけれど、軍歌は必ずしも闘争意欲を掻き立てるだけでなく戦いの悲しみを表しているものが多いということも知ったのはこのおかげだった。軍隊にわからないように反戦の気持ちを忍ばせたのではないかと時々思ったりもした。当時の作曲家がひそかに自分の気持を込めていたのでは?と。

昨夜10時ころ就寝、目がさめたのが午前1時。すっきりと起きたので睡眠不足の感じがしない。夜明けにテレビをつけたら「題名のない音楽会」の紹介番組をやっていて、懐かしく思い出した。本当に元気だった若い頃の自分にしばし戻った。当時は下品とか言われてクラシック奏者からは鼻も引っ掛けられなかったポップスや演歌などの垣根を取り払い、現在の若い演奏家たちはジャンルを問わずものすごくうまく演奏している。先日も1部はクラシックの弦楽四重奏曲、2部はジャズとオリジナルのアドリブを演奏するグループのコンサートを聽いた。あまりの上手さに舌もしっぽも巻きっぱなし。キャイ~ン!






2022年5月11日水曜日

漆にかぶれる

4月末に北軽井沢で過ごし、大風の日に根っこから倒れた枯れ木を片付けた。追分に住むKさんが機動力を発揮して根本からのこぎりで伐採、私も斜めに倒れて隣の木に引っかかったままの幹にぶら下がってなんとか引きずり下ろした。ポッキリと折れて2つになった幹がやっと地面に落ちたと思ったら私ごと倒れて、私は頭を打った。

幸い下に落ち葉が積もっていてふかふかしていたので頭は無事。元々物忘れが激しいから毎日鍵を探して大騒ぎするのは日常的、打ったせいでこうなったのではないのは確か。そして都内自宅に帰ったKさんからの連絡で、彼女が漆にかぶれたらしいと聞いた。私?ううん、なんでもないわよ。頭は普段と変わらないし。他人事のような返事をしていたのだが・・・

昨日目が覚めたら右手首から5センチほど上に赤いかすかな傷のようなものができていた。寝ている間に凶暴なうちの猫に引っかかれることがあって、気が付かなかったなあ、よほど爆睡していたのかな。疲れが溜まっていたのね、などと呑気に構えていた。ほんの2ミリほどの赤い筋が6箇所、最初は痛くも痒くもなかったのだがなんとなく傷跡をなぞっていたら、猛烈なかゆみが。みるみるうちに傷は発疹のようになった。とにかく痒くてたまらない。この痒さ初体験。

Kさんはどうしたかと気になった。彼女は帰ってすぐに病院へいって漆かぶれと言われ大変な目にあったらしい。腕だけでなく髪の毛にも入り込んだ漆の屑が作用して顔まで腫れ上がったという。それも他人事のように聞いていたけれど、私はたったの1センチほどの範囲に発疹があって、その周りの皮膚が直径3センチほどこんもりと盛り上がっている程度にもかかわらず猛烈な痒さに我慢出来ないほど。Kさんはそれが上半身、顔から頭の中までというから悲惨な状態だったらしい。すまない!うちの漆が悪さをしてごめんなさい。

他の木にウネウネと絡みついて枯れさせてしまうほどの悪行、のんちゃんのお気に入りだった大木にも何本もの蔦が絡まってこの大木が枯れてしまったときのことを考えるとゾッとする。のんちゃんは心の大きな人だった。なんでもなすがままの流れを大事にして余計な手出しをしない。それが時として困ったことになる。

私の母が亡くなってからもう30年ほどになるけれど、母の入院していた病院には野良猫が住み着いていた。毎日母の世話に通っているうちにいつもの通り、野良は私に懐いた。その子は来るべき寒さに向かって必死に私にアピール。車に載せていけと。私もずいぶん迷った。そのころ家にはもうすでに5匹ほどの獣がひしめいていた。どうしよう。

ちらっとのんちゃんにその話をしたら「野良は自由がいいのよ。自由にさせて上げて」一生懸命私を説得するのだった。「自由に」って。いやそういうことでもないんだけど。でも私も猫飼育の負担の大きさに疲れていたから、それは良い口実だった。そしてある日その子が車にひかれて死んでしまったと守衛さんから告げられた。いまでも後悔している。病院は大きな総合病院で優しい先生や守衛さんに守られて数匹の野良たちはダンボールの家を与えられ、私のような猫キチがいて餌をもらえる。それでもその子は私に必死に連れて行ってと頼んでいたのに。

のんちゃんはおおらかで優しい人だったけれど、彼女が望んだのは自由であること、平和であること、今の世に生きていたらウクライナに乗り込んでいきかねない気骨のある人だった。だから野良にも凜とした人に阿ることのない生き方をさせたかったのか。

猫は無理なのよのんちゃん。ひたすら暖かさと美味しい食事と安穏な毎日が好きなんだから。まるで私のようにね。

今朝になって私の発疹は少し赤さが薄れてきた。傷口に水疱ができている。これを潰したいところだけれど、そこは我慢。大抵火傷の痕とかかさぶたとか引っ剥がして治りを遅くするのが私の悪い癖。人にもズケズケと物を言って関係を悪化させる。

Kさんから電話があって「病院へ行った?」と。私は何でもワンテンポ遅いから昨日は病院へ行くのではなく検索していた。良さそうな病院はどこ?評判が良いのは最寄り駅から3分、女医さんで丁寧な診察という口コミ。それで大変混んでいるというから、たとえ餓死寸前でも行列には並びたくない私は痒さを我慢する方を選んだ。

なぜKさんと私で発症の時間差が出たかというと、彼女は先頭に立って働いたから。私はそばでニャアニャア言って口だけ出していた。危険だから数メートル離れて。時々手を出していたときに多分上着の袖口に漆の粉がついたと考えられる。それが数日して残っていたらしい。買い物に出るときにその上着を羽織ってでかけたのかしら・・・そういえば数日前買い物に行った。と言うと、どの上着を着ていたかが問題だけど思い出せない。その上着を洗濯しないとまたこういう目に遭う。

最初発疹が出たとき私はうちの野良を疑った。どこかでイエダニかなんかを拾ってきたのだと思っていた。でもうちの野良たちが行くお宅は皆清潔らしく、いつも小綺麗な野良たち。我が家が一番怪しい。それでも野良たちが出ていったあとは鬼のように掃除機をかける。先日も駐車場に車を駐めていたら野良がお出迎え。それを見て「お帰りを待っていたのね」と通りすがりの人が笑っていた。たぶんその人も地域猫同盟の一員かとおもわれる。疑ってごめん野良たち。

Kさんには「うちの漆が大変失礼なことをしました」と謝っておいた。実は私が怠け者でなんでも人に仕事をしてもらいたがる性格が一番悪い。それでプロに任せることにした。別荘の管理事務所のそばに木工の細工所があって、そこのご主人は雪好きが昂じて東京での仕事を放り出し移住してきたそうで、雪と木に関してのしごとは任せられる。こんな人材が近所にいるとはうってつけ。こうしてじわじわと私の冬の山籠りの準備が整っていく。それまで足が言うことを聞いてくれればの話だけれど。そのうち群馬県の山の中で熊と暮らす老女の噂を聞いたら、それはきっと私のことです。