2015年9月29日火曜日

ラーメン

1年に1度くらいラーメンを食べる。
どちらかというと日本蕎麦党。

午前中整体院に行って気分良くなったところで家に帰って昼食を作るのも面倒、整体院の真向かいにラーメン屋さんがあるので店先の看板を眺めていた。
おねえさんが出てきてしきりとラーメンの説明をしてくれる。
おねえさんの努力に応じて、誘われるままに店内へ。

食券を買ってイスに座ると、なんとなく「あ、これはダメ」という気がしてきた。
カウンター内でペチャクチャしゃべって、いらっしゃいませでもない男性2人。
見た目精気が感じられない。
客の方を見ない。
丁度昼食時なのに、店内の入りは半分以下。
駅すぐ側の立地条件もいいのに。
コンスタントにそこそこの客入りがあるのかもしれないが、これでは永続きするかどうか。

半年ほど前にこのお店が出来たときには、連日満員だった。
今はいつ見ても空いている。

さて出てきたラーメンはと言うと、これはもうお笑いの部類。
麺は芯が残り(アルデンテ?手抜き?)スープは微妙に温度差が。
熱いところとぬるいところがあって、全体に均一に熱が回っていない。
これは超絶技巧だなあと感心した。
光熱費節約のため、極力弱火で保温してあるのだろうか。
特にスープは脂っこくて、コクとかうまみとか言うレベルでもない。
一口食べた途端に、もう2度と来ない店のリストに入ってしまった。

店先で客引きをしている感じの良いおねえさんの努力にも拘わらず、私の中ではこのお店は間もなく潰れると思った。

これ何回も書いたのでくどいとおもわれるかもしれないけれど。

東北に行ったとき、常磐自動車道のあるインターを降りたところに、中華料理の看板があった。
丁度お昼時、ラーメンでも食べてから目的地に行こう。
カウンターに座ると、奥の座敷にもう一組の家族連れがいるだけ。

普通ラーメンを注文するとすぐに麺をお湯に入れて温め始めるのが普通なのに、そこのお兄さんはアタフタと走り回っている。
麺が温まったらスープを注ぎ、あとはトッピング。
それだけの手順だから、他の料理を作りながらでも出来るはず・・・と私は考える。
けれど、お兄さんは他の注文に没頭というよりは、同時にいくつかのことが出来ないらしい。
やっと座敷の客の分が終った頃には、もう短気の虫が半分顔を出し始めていた。
それからやおら私たちの分に取掛かった。

まず麺を冷蔵庫から・・
冷えた麺は温めるのに時間がかかるでしょう。
注文受けた時点で、冷蔵庫から出しておけばいいのに。
というより、そこでお湯に浸ければもう出来上がっているはず。
やっとお湯に麺をドボンといれ、その間にスープを温めれば良いのに、ぼんやりしている。
大きな寸胴の大量のスープを温めるのは時間がかかる。
小鍋に取り分けて温めたら?と言いたくなる。
麺は温まったけれど、スープがまだ。
その間丼の中で麺達は「おおい、身体がひえちまうよ~」と騒いでいる。
やっと両者が合体して、いよいよトッピング。
葱は彼方の隅、メンマはこちらの方に、焼き豚は冷蔵庫のタッパーから、もう呆れかえってカウンターを指でイライラとはじいていたら、同行の連中が「怒るんじゃないよ、怒るんじゃないよ」と呪文の様に私に向かって小声でささやいている。
おにいさんはけっこう広い厨房をあちこち走り回り、床が濡れているらしく、時々滑って転びそうになる。
ラーメン作るのにこんなに走り回る人も見た事無い。
そのおかしさに思わず噴き出しそうになった。

出てきたラーメンはやはり麺とスープに温度差が。
でも今日食べたものよりは美味しかった。
お兄さんの健闘をたたえよう。

























2015年9月27日日曜日

ウルフドッグ

私は大型犬が好き。
大型犬も私が好き。
ふれあい動物センターで黒い仔牛ほどもある犬に出会った。
飛びつかれて地面に倒れながらじゃれあっていたら、飼育係が真っ青になって飛んできた。
襲われているのかと思ったらしい。
私が大喜びで笑っているのを見て、その場にヘナヘナと倒れそうに安堵した。

私が犬を飼わなかったのは、自分の事で忙しくて充分面倒みてやれないと思ったから。
特に大型犬は私の手には余る。
でも、もしかしたら、あちらが私の面倒みてくれたかもね。

こんな写真見ると、うらやましくて歯ぎしりしそう。
いいなあ、いいなあ!



動画、写真はこちらをクリックしてください。












2015年9月26日土曜日

爬虫類は苦手だけど

      このトカゲの赤ちゃんの壁ドンすごく可愛い。
            これなら飼えるかな。
          いや、やはり爬虫類はムリ。

激野菜

自家菜園でとれたという野菜をいただいた。
ジップロックにきれいにパックされて、中は丁寧に紙で包まれたピーマンの様な物。
ピーマンより小型で細長い。
多分ピーマンの親戚だと思ったから、生のままミキサーにかけて朝のジュースに混ぜようと思った。
半分に切って試しにちょっとかじってみた。
ピリッとくる。
おや、唐辛子の様な?
ジュースに混ぜないで良かった。
それでは茄子と相性が良さそうだから、煮浸しにでも混ぜてみようか。
中は種がびっしり詰まっていて、種ごと煮ても大丈夫そうだからそのままでもいいけれど、口の中でチャリチャリするといやだから一応取り除いておこう。

初めて見た野菜だけれど、瑞々しい緑色で小ぶりでツヤツヤして可愛らしい。
細切りにしてひじきの煮物に少し入れた。
茄子の煮浸しの相棒用には半分に切って、種を出す。
皮にしっかりとついている種は中々取りにくい。
半分に切って種を指でこそげ出す。
スプーンは入らないくらい小さいので、右手の親指と人差し指の爪を使って掻き出す。
20コほどもあっただろうか。
全部皮だけにして、やれやれ。

しばらくすると、手の平が猛烈に痒くなった。
少し赤くはなっているけれど、見た目、手の平に変化はない。
それでも強烈にかゆい。
しまった!かぶれた。
冷蔵庫から氷を取り出し、氷水に手を浸けると痒みは消える。
火傷したときに、痛みを消すために一晩中冷やしたことがあったけれど、このまま一晩中氷水に浸けるわけにもいかない。
冷やさないと痒い。
痒い!痒い!痒ーい!
半べそかいた。
ようやく痒みになれた頃お風呂に入ったら、暖まるにつれて又猛烈に痒くなって、お湯に手を浸けられない。

もう12時間以上経っているのに、今朝はピリピリと痛くなってきた。
手を充分洗って水に流したつもりだったけれど、うっかり石けんなどを使って刺激するといけないから、ひたすら流水で流す。

幸い指の先はダメージが少ないので、ヴァイオリンを弾くには支障はなさそう。
この手で顔に触ったりしたら、顔までヒリヒリしそうで怖い。
この野菜をいただいたのは作った人からではなく、それをもらった人からのお裾分け。
彼女は大丈夫かしら。

手の平にこんな刺激があるなら、こんな激しい野菜を食べて大丈夫なのか、今悩み中。
これは食べられたくないという野菜の意思表示ではないのか。

植物はけっこう邪悪なものが多くて、食虫植物などを見るとぞっとするほどの戦略。
この野菜もたぶん食べられまいとしてこんなに刺激的に進化したのに、せっかく進化したのにもう、人間の方がよほど邪悪だった。

人間は凄い。
もうすぐ地球も壊れそうだし。






































2015年9月25日金曜日

ゾウもネズミも人も一生は同じ

今週初めの日曜日から2日おきにコンサートが入るスケジュールは、若いうちならともかく、最近ではかなりきつかった。
その締めくくりが古典の定期。
やれやれと息つく暇も無く、明日からはトリオの練習が入っている。
しかもこの後、フランクの交響曲、シベリウスの交響曲など、オーケストラの楽譜が送られてきている。
おいおい、大丈夫かい?自分に問いかけると、もうダメ、限界との答え。
でも今の所元気で、例えば列車の走り始めはゴットンゴットと重く、走り出してしまえばスピードが出せるのと同じように、きついことも最初のうちだけで、リズムに乗ってくれば案外乗り切れるのかも知れない。

全然関係ない足首のことだけれど、夏には激しく痛んで歩くと腫れ上がっていたのに、痛みを無視して歩き続けた結果、今はほとんど全快している。
時々変な風に足首をねじったりすると、痛みが蘇ってしまうときもあるけれど、普段はもう殆ど痛みも腫れも無くなった。
今週3回のコンサートで9㎝のヒールを履いて、足首が痛くならなかったのが最大の収穫。
そもそもハイヒールが履けたことが驚きだった。
良い靴が見付かって、もうハイヒールは全部捨ててしまおうと思っていた。
捨てなくて良かった。

体力が無くなってきたからと言って楽をしようとすると、逆に身体の機能が衰えて、益々物事が辛くなるのではと思うようになった。
ただ、自分が信用出来ないのは、なんでも調子に乗ってやりすぎる。
挙げ句の果てにいきなり倒れて、周りに迷惑をかける。
年相応に、無理は禁物・・・わかっちゃいるけど。

ネットニュースで、年齢別の睡眠時間が出ていた。
それに依れば成人、高齢者共に7~9時間が適切となっている。
そういうのをみると、いつも困ってしまう。
私はずっと5時間以下の睡眠時間で、いつもこういう統計をみるとひどく身体に悪いことをしているようで、気がとがめる。
ふだんは5時間寝れば良い方で、3時間4時間はざら。

この1週間、スケジュールがきついからと、7~8時間以上の睡眠をとるようにした。
入眠に関しては名人クラスで、暗い所で静かに横になればあっけなく寝てしまう。
そうしたら、頭はボンヤリ、耳は聞こえなくなり、一日中身体がだるくて閉口した。
睡眠時間を少なくしたら、元気にシャンとなった。
人それぞれの睡眠パターンがあるはずで、私の父親は私と同じショートスリーパーで、96才まで生きた。
しかも死ぬその日まで活き活きと生活し、人の世話になることも一切なく大往生。
統計で睡眠時間を決めて、それ以下では身体に悪いとか言って脅かさないでほしい。
いつもこのことに関しては、後ろめたく感じてしまうのだから。
私は3時間では少なすぎるけれど、4時間だったら大丈夫。
それが悪い?と訊きたい。
もしかしたら早死にするかも知れないけれど、沢山眠る人より一日何時間も得しているのだから。

本川達雄著「ゾウの時間ネズミの時間 (クリックでリンク)」という本がある。
ゾウもネズミも心臓は15億回鼓動すると、止まるらしい。
象は鼓動がゆっくり(ドキンが3秒)ネズミは早い(0.1秒)
だからゾウは長生き、ネズミは短命。
それでも象は象なりの、ネズミはネズミの生涯をちゃんと全うしているのだそうな。
私はチビだから、大きな人よりも鼓動が早いかもしれない。
動作もせっかちだし。
大きな人よりも早く死んでも、ちゃんと私なりの生涯を生き抜いたことになる(らしい)
だから、寝なくてはいけないなどと言わないで夜更かしさせてくださいな。
美味しいチョコレートとブランデー、面白い本があって、夜中に1人それらを味わう至福の時。
そんな幸せな時間を、後ろめたく感じながら過ごすのではつまらない。
自分の人生を決められた時間で縛られたくはない。

話しが逸れてしまいましたが、地獄の1週間は無事終わりました。
















2015年9月24日木曜日

古典音楽協会第151回定期演奏会

最近ソプラノの嶺貞子さんの、モーツァルトアリア集のCDが出た。
嶺さんは、イタリア政府から勲章をいただくほどの名ソプラノ。
数年前までは毎回定期演奏会の華として、出演されていた。
その透き通るような美声と輝く音楽性は、私たちを魅了し続けた。
1980年代に録音された珠玉のアリア集。
今からほぼ30数年前の録音で、私も伴奏を弾いている。

この頃は私はまだメンバーでは無く、当時のヴィオラ奏者伊藤正さんに誘われて、エキストラとしての参加。
その後指揮の三瓶十郎氏が亡くなって、「古典」再建のときから正式にメンバーに加わることになった。
その当時はヴィオラ奏者として、その後ヴァイオリンのメンバーが海外留学に行ってしまってヴァイオリンに欠員が出来たために、ヴァイオリンに移動。
それからずっとコンサートマスターの角道さんの横で、彼の足を引っ張り続けているというわけで。

「古典」に初めて参加した時、なんと物静かな人達なのだろうと思った。
練習中ほとんど誰の声もきかない。
その頃は三瓶先生の体力はほとんど燃え尽きていたようだけれど、最後の力を振り絞って指揮をなさった。
舞台裏の通路を自力で歩く事ができなくて、両脇を2人の男性に支えられて移動していた。
それでも指揮台に立つと、何事も無いかのように指揮をなさる。
魂の存在が感じられる瞬間だった。

その後「古典」のメンバーは、本来お茶目で笑い上戸であることが判明。
それから30年以上、本当に楽しい時間を共にしてきた。
皆一緒に年をとり、目が見えない、頭が惚けたと言いながらの定期。

今日も沢山のお客様が、東京文化会館小ホールに足を運んでくださった。
回を追う毎に聴衆が増えるという、有り難い現象が起きて居る。

今回は「楽しいバロックの名曲」のタイトル。
皆さんよくご存じの名曲が並び、演奏するほうもとても楽しいけれど、目が良く見えなくなってからのステージは緊張の連続。
最初の曲は、テレマン「古代人と現代人」というタイトルの曲。
ドイツ人の昔と今とか、スエーデン人の昔と今などの曲がある中で、何故か最後の曲が「年老いた女達」となっている。
半音階の下降形から始まるのは、ため息の表現らしい。
足も弱ってヨロヨロと消えるように去って行く。
この曲が一番上手いと、若手からの評判。
なにさ、貴方たちだってそのうちにこうなるのよ。
古代人と現代人の中にこんな冗談をいれるなんて、テレマンはたいそう面白い人だったみたい。
そう言えば私もパソコンでしょっちゅう失敗して、原始人だという評判もあるけれど。

今回も満員のお客様。
毎回暖かい拍手を頂けるのも、私たちがどこまで頑張れるかという瀬戸際での激励の拍手と思い、もう少し頑張ってみます。

嶺さんのCDはフォンテック、FOCD9679。
ぜひお聴き下さい。















2015年9月23日水曜日

ヘトヘト

昨日は音楽教室の発表会。
この教室も約20年。
数日前、オーナーだった故小田部ひろのさんの写真が、ひょっこり出てきた。
初期の頃のジャズの発表会で、彼女が天使の衣装、私が悪い黒猫の衣装で楽しそうに笑っている。
若い!

始めの頃のハチャメチャな発表会は、実に楽しかった。
出演の生徒さんたちもステージの上で、ニコニコ笑いながらの演奏。
特にジャズの発表会にはまだ講師の人数も少なかったから、クラシックの講師陣も必ず参加していた。
チックコリアの「スペイン」を一流ジャズメンたちと一緒に演奏させてもらった事もある。
けれど、思いっきりはじけたつもりでいたのに、ビデオを見てがっかり。
私だけキッチリ楽譜通りに弾いているので、笑った。
音を聴いて楽譜が書けるくらいキッチリと。
これはオーケストラで長年訓練されたために、枠を外すことができない悲しい習性。
で、恥ずかしくてジャズはその時点で諦めた。

その後生徒数が増えて、クラシックの方だけ出るようになった。
この教室の受講生のやる気の多さには、ビックリする。
クラシックの名曲を競い合って演奏したがる。
その結果、曲目はずらりと大曲が並ぶようになった。

ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、バッハのコンチェルト等々。
そしてこの教室の強味は、管楽器の講師も弦楽器の講師も共に、オーケストラの経験豊かなこと。
だから大抵の曲は、すんなりと伴奏してもらえる。
人数は少ないけれど、指揮者無しでもなんとか伴奏してしまう。

昨日も協奏曲や室内楽が続いて、伴奏の講師達はヘトヘトになる。
緊張して暴走したり音が抜けたり、そんな暴れ馬をドウドウと手綱を引きながらの伴奏。
絶えず耳をこらし、ほんのちょっとの動きも聞き逃さないようにするので、こちらの緊張もハンパない。

それにしても生徒達の盛り上がりは素晴らしく、次々に弾きたい曲が候補に挙がって、それも講師泣かせの難曲大曲。
でも彼らは仕事の合間の限られた時間で最大の努力をしてくれるから、なんとか協力してあげたい。
去年まではステージですくみ上がってしまい、わなわなと弓を震わせていた人も、今年はなんとか弾きおおせた。
あまりにも真剣で、初期の頃のように冗談みたいなステージが嘘の様。
その頃、私の生徒がバッハの無伴奏を弾いて途中で混乱。
「バッハを弾いたつもりでしたが現代音楽になってしまいました」と演説を始めたのでびっくり、大爆笑となったり。

楽屋に小田部さんの写真を持参して、壁に貼っておいた。
きっと彼女もこの会場のどこかで、聴いていたに違いない。






































2015年9月21日月曜日

9年連続イグ・ノーベル賞受賞の日本人

ユーモアのあるすぐれた研究に与えられるイグ・ノーベル賞。
9年連続で日本人が受賞した。
今年の受賞者は大阪の開業医、木俣肇さん。
熱烈なキスが、アレルギーに対してどのような反応の変化をもたらすかの研究。
英国人カップルに30分間キスをしてもらった。
雰囲気を高めるためにラブソングを流しながら。
その結果、花粉症のこのカップルのアレルギー症状が改善されたという。
しかし、カップルならいつもそうしているのではないかと思うけれど。
このカップル、実験が終ってから唇がヒリヒリしたとか。
真剣に実験に貢献していたらしい(笑)
研究熱心なのか本気だったのかは、分からない。
私はいつもタマサブロウがベトベトした口ですり寄ってきて困っていたけれど、あれもなにがしかの効果があったのだろうか。
猫の持つ癒やし効果は絶対にあるけれど、汚い舌でざらざら舐められるのには閉口していた。

去年は北里大学の馬淵清資教授の、バナナの皮はなぜ滑るのかの研究で受賞。
馬淵教授は関節と人工関節の研究をしている。
バナナを踏むと革の内側からしみ出た液体が、潤滑効果を生み出す事を実証。
それが人の関節を研究することにつながったという。
毎年今頃になるとこの賞のニュースを心待ちにしている。

ちなみに今年の受賞の内容は下記。
記事はこちらから。

ig

2015年9月20日日曜日

ご無沙汰していました。

体調がいまいちなのと次々にコンサートが続くので、こちらに投稿する話題も耳がどうの、身体がどうのでは面白く無いのでお休みしていました。再開しても結局愚痴になるのだけれど・・・

今日は代々木八幡のムジカーザで、友人とその門下生達のコンサート。
Sさんが音大で教えた人達が巣立ち、毎年先生を囲んでコンサートを開いている。
その20周年のコンサートで、モーツァルトの協奏曲2曲の伴奏、シューマンの四重奏曲を弾くので少し緊張気味で臨んだ。
モーツァルトはもともとオーケストラの曲なので、それを四重奏で伴奏するのは非常につらいものがある。
しかも単純な曲ほど難しいので、腕がこわばって、なかなか上手くひけない。
情けないけれど、何年経っても本番は怖い。
緊張していたK414の協奏曲はなんとか無事に。
先生のSさんの弾くK466のニ短調の有名な曲は、ソロは素晴らしかった。
彼女は学生時代から優秀だったけれど、私と同じ年なのにまだどんどん上手くなる。
それに引き替え私は今や、ヒョロヒョロで音もかすれ気味。
終楽章のカデンツァが終ってオーケストラがなだれ込む一番のクライマックスで、失敗してしまった。
カデンツァの楽譜を見ていてオーケストラの楽譜に戻ろうとした時、一瞬どこに戻るのか楽譜が目に入らなくなってしまったのだった。
ここの部分は絶対に自信を持って弾けるはずのところだった。
それが目が游いでしまって気が動転して、ようやく楽譜に戻れたけれど、その間の数秒間は悪夢だった。
聴いていた人が、え、気がつかなかったけどと言ってくれたけど、これは大失敗。
こんな馬鹿なことは今までやったこともない。
この曲の中でも一番素敵なところで、こんな失敗をしてしまうとは。
臍をかんだけれど、取り返しはつかない。
大事な友人の記念すべきコンサートで、この失敗。
バカバカと言って自分の頭を叩きたくなる。
シューマンはモーツァルトに比べればまだ楽なのだ。
音の難しさやアンサンブルの複雑さはモーツァルトに比べて、ずっと大変なはずなのに。
体調が悪いと言って、自分に暗示を掛けていたのかも知れない。

この数日睡眠時間をなるべく多くして、身体を休めているつもりだったのが、逆効果だったようだ。
いつものように短い睡眠で、ヘトヘトになるまで動いてというパターンが私には向いているのかも知れない。

出演者はそれぞれ立派な演奏で、華やかに幕を閉じた。
何年もこうして卒業させた生徒が集まって、コンサートを開けるのは先生冥利に尽きると思う。
Sさん自身が立派な演奏家であることで、生徒達にお手本を示しているけれど、私の生徒達は私よりずっと上手くなってしまった。
そろそろ年貢の納め時かな。
もう何年も前からそう思っているのだけれど、1度赤い靴をはいてしまったので、踊りをやめられないのですよ。























2015年9月15日火曜日

耳が・・・

半ば引退しているつもりなのに、このところ忙しい。
3日前は友人のピアノのコンサートのリハーサル、ピアノ協奏曲の伴奏とシューマンの四重奏曲を5時間。
これが中々気骨が折れる。
一昨日は音楽教室の発表会のリハーサル。
13時過ぎから20時近くまで、生徒達の伴奏に大童。
泣きそうになって帰る子もいれば、嬉しそうに満足して帰る子もいて、叱咤激励したり褒めたり、色々忙しい。
そして昨夜は、古典音楽協会定期演奏会のリハーサル。
連日のリハーサルに疲労困憊青息吐息。

依頼があれば嬉しくて、つい仕事を引き受けてしまう。
後でカレンダーをみて真っ青になる。
こんなに予定を入れて、果してちゃんとこなせるのだろうか。
最悪の事態が頭をよぎる。
今回は2日毎にコンサートが続く。
若いころでもコンサートが連日続くと、毎日調子が良くいくわけではなく、前の日が良ければ次の日は低調という風に、波が出来る。

ひどいときには楽器を支えられないほど、疲れているときもある。
けれど、そういう時の演奏が悪いかというと、そうでもなかったり、今日は体調も良く気分良く弾けたと思った演奏が、後で録音を聴くとう~んと唸るときもある。
本当にこればかりは、分からない。
一か八か、人生賭けですなあ。

この2,3日少し風邪気味だったせいか、耳が塞がったようになって、良く聞こえない。
時々空気が通って聞こえるのだけれど、今日は特に聞こえが悪い。
昨日から咳が出ているので風邪だとは思うけれど、突発性難聴の危険も頭をよぎるので心配になってきた。
とにかく耳が命。
突然聞こえなくなって来週の3回ある本番が出来ず、必至にピンチヒッターを探す自分の姿が目に浮かぶ。
夕方になっても耳はツーンとなって、耳鳴りまで始まった。

いつも行く総合病院は診療時間が終っているので、個人病院で評判の良いという所へ行ってみることにした。
待合室は子供と大人でごった返している。
これは長期戦と覚悟を決めたけれど、案外スラスラと診察が終って出てくる人が多く、すぐに番が回ってきた。

症状を話すと医師の顔が曇った。
これはもしや?
聴力検査と鼓膜の動きを見る検査を受ける。
聴力、鼓膜、共に異常なく、軽い風邪気味らしい。
突発性難聴の恐れは無くなって、気持ちが晴ればれ。
現金なもので、急に聞こえが良くなったような気がする。
耳鳴りも少し静かになった。
やはり病は気から。

とたんにお腹が空いてグウと鳴る。
想像力が豊なのはいいけれど、余計な心配をするところがあって、いつも取り越し苦労。
病院の待合室は子供の泣き声と叫び声で、阿鼻叫喚の巷と化している。
診療室の中からは、ギャーと言う悲鳴。
その中で落ち着いた医師の声が時々聞こえる。
看護婦さんも常に落ち着いている。
良い病院だなあ。
評判が良いのが分かるような気がした。






























2015年9月12日土曜日

Braava

演奏が終って出来が良ければブラボーがもらえる。
女性の演奏者だったらブラーバ!と女性形でいう事もある。
我が家に昨日ロボット掃除機がやってきて、その名がBraava。
このロボットは女性?

私の一番苦手な家事はお掃除。
自分の中のランクでは、まず仕事、食事、友人との遊びなど数々ある中で、最下位がお掃除。
必要に迫られていやいやするものの、真心が籠もっていないから、いつまで経っても下手くそで、家中グチャグチャ。
それに最下位ランクの家事だから、忙しいと上から順にやっていって時間が足りなくなるので放置。
長年のパソコンの師匠でもあるH氏は、私のところへ来て部屋に入るなり、まず「ハックション」ダストアレルギーなのだ。
それが堪らないらしく、時折お掃除指導までしてくれる。

昨日彼は、鞄からなにやら白い四角い箱を取り出した。
なんだろう。
好奇心に駆られて見ていると、その箱を始動させた。
電子音がピロロンと鳴って動き出した。
音は静か。
スーッと動き出して辺りを走り回る。
角に行くと、その辺りを探りながら上手く方向転換をして、更に部屋をくまなく掃除していく。

今まではルンバでお掃除していたけれど、これが意外とやっかいもので、少しの段差でも乗り越えてその天辺で立ち往生。
しばらく放置して見に行くと、今朝も窓の敷居部分でジタバタしていた。
時々譜面台の足元に乗り上げてご臨終なんてことも。
このブラーバは雑巾がけのロボットだから、下に力を押しつけて走る。
それで段差は乗り越えない。
四角い箱状のボディーで、角角もきちんと几帳面に拭き取っていく。

しばらく放置しておいて1時間ほど経って見に行ったら、フローリングワイパー用のシートは真っ黒!
うへ~、気持ち悪い。
こんなゴミの中で暮していたのか。
お掃除が嫌いでも汚いのが好きなワケではないから、時々は自分でも拭き掃除くらいはする。
その時に、きれいになったと自己満足する度合いのはるか上の状態になった。
すごいロボットさん。
これがドライなシートとウエットなシートが使えて、ウエットシートは雑巾がけと一緒。
しかも私の超杜撰なやり方とは大違い。
1時間ほどして見に行ったら、部屋がこざっぱりして気持ちが良い。

ブラボーの最上級はブラビッシモ。
このロボットはブラーバだけどブラビッシモ。

ある有名な美人ヴァイオリニストは家が汚れると、さっさと引っ越してしまうと聞いた。
お掃除の方が引っ越しよりも簡単だと思うけど、丸ごと捨ててしまうのか。
レッスン室に入ると、生徒が譜面台にたどり着くのが大変なくらい散らかっていると評判の人も居る。
以前住んでいた私の家は、階段に新聞紙が積んであった。
ある時、生徒に「階段が散らかっていてごめん」と言ったら「いえ、まだこちらはいいほうです。前の先生は階段にキャベツがありましたから」と答えが返ってきて笑ったことがある。
こういう例を出して言い訳をするのもどうかと思うけれど、音楽もお掃除も才能があるか無いかで、随分違うと思う。

昔、ヴァイオリンのケースを服装に合わせて取り替える人が居た。
いつも身ぎれいで髪の毛もビシッと撫でつけて。
でも音がすごく汚くて、この人、服装よりも音をきれいにした方がいいのでは?と思ったことがある。
人はそれぞれ自分の関心のあることには厳しい。
私の手抜きお掃除は、猫のトイレ掃除の下にランクされているけれど、段々生活がヒマになっていったら、少しランクが上がるかも知れない?と期待しておこう。

ルンバもそれはそれで可愛いところがあって、最後に自力でホームにたどり着き、安心した様子で充電器から気持ち良さげに充電している姿なんか見ると、愛おしくてたまらなくなる。

それにしてもロボットはすごい。
私が寝たきりになる頃には、介護ロボットのすごいのが出来るかもしれない。
ロボットなら頭叩かれたりベランダから放り出されたりしないで、安心していられる。
川崎の老人ホームの事件、やれやれ嫌な話しですね。



















2015年9月10日木曜日

猫のおかあちゃん

ママは子猫を必死で家に入れようとしています。
子猫はとっくに自力で入れるようなのに、ママにとっては、いつまでも子供は子供。
もうそろそろ子離れしないとね、おかあちゃん!
こちら」にも沢山可愛い猫動画あります。

2015年9月8日火曜日

泣き虫ゆうこちゃん

ゆうこちゃんが私の所にヴァイオリンを習いに来たのは5才のとき。
きちんと躾けられた良いお嬢さんだった。

お母さんはレッスン室の絨毯の上で1時間正座して、きっちりと身じろぎもせず聞いていた。
終ると袱紗から謝礼をうやうやしく取り出して、正座のまま差し出すので、こちらは中腰で中途半端にそれを頂く。
時には同じように正座して頂くという事もあったけれど。
訊いたことはないけれど、彼女はたぶん、華道、茶道などを嗜むのではないかと思われる。

ゆうこちゃんはしっかりしたお嬢さんだったけれど、レッスンの途中で私に言われたことがその場で出来ないと、悔しがって涙をこぼした。
こういう子は後にも先にもこの子だけ。
叱られて泣く子はいたけれど、自分が出来ないからと泣く子はいなかった。
泣くと私から叱られる。
「泣いたら弾けるようになるの?ならないでしょう。それなら泣くのはやめなさい。泣くだけムダよ」と。
叱られる時には泣かない、自分の不甲斐なさを感じた時だけ泣く。
言われたことは次の週には、ほぼ完全にクリアしてくる。
相手が学齢前なのに、私はなぜこういうことをしなければならないかを、こんこんと説明した。
今は分からなくてもいつか分かって「ああ、あの時先生が言ったのはこのことだったのか」と思い出してくれれば良い。
そういうことが通じる子だった。

めきめき上手くなっていったので私も随分楽しみにしていたけれど、しばらくするとお父さんの仕事の都合で、関西に引っ越してしまった。
そちらで師事する先生を探してもらいたいと、私は大阪フィルの友人にお願いした。
運良くとても良い先生に巡り会って、どんどん上手くなっていくのが、毎年送ってくれるテープやヴィデオで知ることが出来た。
当然どこかの音大に入るものと思っていたら、高校生の時に数学に興味を持って、理系の大学に進学。
私も随分がっかりしたけれど、でも理系なら就職も有利だし、かえって根無し草にならずに済むかと思った。

私が大阪の厚生年金ホールで仕事があって、ここまで来たから彼女に会っていきたいと思って電話した。
ところがその時は試験の真っ最中で、ちょっと夕飯でもと思ったけれどそれは叶わなかった。

それからしばらくして、彼女がやはり音楽の夢捨てきれず、音大に入ることにしたと連絡があった。
今は神戸や大阪で、演奏や教師として活躍している。

そんな彼女から結婚の知らせがきて、この夏、ご主人と挨拶に来たいと言ってきたけれど、今度は私がルオムの森で浮かれ騒いでいたために実現できなかった。
それでも私に会いたいと言って、彼女は神戸からやってきた。
今回は平日なのでご主人は来られず、彼女1人。
なんとか時間をやりくりして来てくれたらしい。

私の家の最寄り駅に着く頃、車で迎えに行ってあげる約束をした。
バスやタクシー乗り場のあるロータリー付近で待っていると、背のすらりと高い、ヴァイオリンを持った女性が見えた。
ゆうこちゃん、何十年ぶりかしら。
私はもうおばあさんだけど、貴女は結婚したばかり。
花のような若奥様になって。
あの頑張り屋のゆうこちゃん。
弾けないと言って泣いたゆうこちゃん。
最初の発表会のキラキラ星、リハーサルは見事だったのに、その後同じくらいの年の少年とふざけ回って疲れてよれよれになって、眠くて瞼がふさがりそう。

私がこれらの事を思い出していたら、彼女もそっくり同じ事を覚えていたのには驚いた。
5才の子の記憶にそんなに残っているとは。
彼女が言うには、私が彼女を子供扱いしないで、対等に接したことが印象に残っていると。
そうだったかしら。
彼女にそうさせる何かがあったのだと思う。
そしてレッスンがとても楽しかったとも。

今日は楽器を持ってきてくれたので彼女の演奏と、私とのデュオを楽しんだ。
数十年もの時間を越えて、あっという間にかつての関係に戻る。
もう師弟では無くて、対等な演奏家として一緒に弾けることは、この上ない喜びだった。

上手くなったね、ゆうこちゃん。
聞けば彼女が教えた子が、毎コンの関西部門で優勝したとか。
頑張り屋さんで泣き虫で、でも今回は私が泣き虫になりそうだった。































2015年9月7日月曜日

不思議

今日はトリオのステージリハーサル。
昨日合宿から帰って楽譜を探したら、私にしては珍しくきちんとファイルしてあって、そのまま持ち出せば良いようになっていた。
午前からの練習だから、急いで探すといけないので一昨日家を出る前に、そうして置いたのは我ながら出来すぎ。
私はなんて几帳面なんでしょう!

それでで昨日帰宅してから一応目を通しておこうと、ファイルを開くと、中から3冊の楽譜が出てきた。
出版社は違うけど、全部同じ曲。
はて、どの版を使っていたっけ?
最初に開いた楽譜はほぼまっさら。
練習の時に書き込んだ鉛筆の跡がない。
次の版もきれいなまま。
もう一枚はコピー譜で・・・これも殆ど使った形跡がない。

え!まさか、この曲は今まで何回弾いたかわからないくらいなので、楽譜が鉛筆の書き込みで埋まっているはず。
それなのに、こんなきれいな楽譜ばかり。
謎は深まるばかり。
たしかこのページには指使いが沢山書き込んであったのに、書き込みがない!

出発の時間は刻々と迫っていたので諦めて、書き込みのない楽譜を持って行くことにした。
自分の記憶がどんどん消されていくような焦燥感を覚える。
別に指使いが書いて無くても大丈夫なのだけれど、チェロと同じボウイングをしないといけないところが書いてないと、お互いに焦ってしまう。

ボウイングとは何かと質問されたことがあるので、説明すると
弦楽器は弓を往復させて演奏する。
弓の一番手元から先へ弾き下ろしていくのを、ダウンボウ、弓の先端(手元から一番遠い部分)から上へ向かって押し上げていくのをアップボウ。
同じフレーズを弾く場合、同じ弓の使い方をするのが普通で、例えばヴァイオリンはダウンボウで、チェロはアップボウで同じフレーズというのは普通は考えにくい。
同じ方向に動かすために、最初にお互いに相談して決めておく。
それからある音と音を滑らかに繋げて弾く、あるいは音の間を切って短く弾くとか、そんなことも全部決めておかないといけない。
練習の時に決めて書き込んでおくけれど、真っ新な楽譜を初見で弾く場合、人それぞれのクセや好みがあって、完全にボウイングを合わせるのは難しい。

例えば、ダウンボウで弾き始めたらチェロがアップボウで弾いて違ってしまうと、お互いに慌てて相手に合わせようとする。
そこで2人でアタフタするので、決めたことは書いておかないといけない。
その書き込みが無いと非常に不安になる。
オーケストラではコンサートマスターと各セクションのトップが、あらかじめ決めたボウイングを楽譜に書き込んで送ってくれる。
その楽譜を見て練習しておくので、最初の練習から弓使いが合う。
そうしないと、人数が多いので大変なことになる。

以前オーケストラの隣に座った男性が非常に敏感な人で、私とボウイングが違うと、次に同じフレーズが出てきたとき、私が使ったボウイングに合わせてくれる。
ところが私も非常に敏感なので、私の方はその男性のボウイングに合わせてしまう。
それでお互いにいつまでいっても相手が使ったボウイングになるので、平行線を辿ったことがある。
その時は書き込みのない楽譜でお互いに初見だったから、そんなことになってしまった。

その人は今や偉い先生になっているけれど、その当時は学校出たての坊やだった。
それで先輩である私を立ててくれたのだけれど、私はずっと年下でも彼の腕が私よりずっと上だと知っていたから、お互いに気を遣いっぱなしで疲れた。
2人とも相手の出方をうかがって、この次はどう出るかな?と横目で見ながら弾いていた。

こんな話しはともかくとして、いつも使っている楽譜はいったいどこへ行ってしまったのか、それが我が家の不思議なところ。














2015年9月6日日曜日

駅弁

石打丸山スキー場の中にある豪華マンションにお住まいのNさんのお世話になって、今年も音楽教室の弦楽アンサンブルの合宿をしてきた。
Nさんは名スキーヤーなので冬場はこのマンションに籠もってスキーの修行、それで都内で冬、アンサンブルの練習をするときはお休み。 
今はシーズン前なのでチェロに専念する。
そのお陰で、私たちはこんな素晴らしいマンションで練習が出来る。
このマンションには立派なステージもあって、練習はそこで行う。

1日目は午後から夕方までみっちりと練習して夕食。
夕食の時、私は色々と譜読みをしなければならないのでパスして、皆を送り出した。
さて、練習をと思ったら、あらまあ、1曲しか楽譜を用意していなかった。
1曲を自室で練習して居ると、途中で集中力がなくなる。
ちょっと休憩しようかなと思っても、1人だから下のリビングに降りていくのが怖い。
冷蔵庫にわんさかビールがはいっていたので、あれをちょっと失敬して飲みたいと喉が鳴る。
でもこの立派なゲストルームはとても広くて、階段の曲がった先になにか見えたらどうしよう。
白い着物を着た人が後ろ向きに・・・なんて思うと、きゃ~怖い。
それで泣く泣く同じ曲を、お化け怖さに弾き続けた。

それでもたまりかねて練習を中断、無事に階段を通り過ぎて冷蔵庫に到着、中にはびっしりとビールが。
これは世話役のY夫妻の用意してくれた物。
ゴクンと一口飲めばお化けは雲散霧消。
飲みながらメンバーの帰りを待つ。

夕食で、すでに大分きこしめした方々は上機嫌で帰って来た。
それからワインを飲みながらの初見大会で、ハイドンの弦楽四重奏「皇帝」バリエーション、バッハ「アリア」ディズニーの映画音楽などを入れ替わり弾いて楽しんだ。
私は1時過ぎに自室に帰ったけれど、まだ宴たけなわで、その後はどうしたことやら。
今朝、朦朧として起きてきた人達も、練習の開始は情け容赦なく9時。
それから何回も何回もモーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジ-ク」の1楽章4楽章を繰り返し弾いた。

去年のレスピーギ「リュートのための古代舞曲とアリア」の録画を見ると、かなり良い線いっているのに、やはりモーツァルトはアラが見えて難しい。
何回練習しても次々問題が出て来る。
でも、皆が言うには、この弦楽アンサンブル結成の当初、この同じ曲に歯が立たなかったから、今は大した進歩だと。
しかも時々ハッとするほど良い響きの時がある。
初めは偶然だったけれど、この頃は当たりが多くなってきた。
弾けば弾くほど味が出て、少しも飽きがこないのは名曲中の名曲だから。
このアンサンブルは、メンバーが殆ど入れ替わらないのも強味の一つ。
せっかく努力してもメンバーが入れ替わると、又出直しになる。
そういうことが殆ど無い。
しかも今年の発表会には、コントラバスが入ってくれるというので、皆大喜びしている。

私は12時まで練習に付き合って、先に帰って来た。
お土産は駅弁の釜飯。
昼食に用意してくれた物を、列車内で食べるようにといただいた。

指定席に腰を下ろし、釜飯を開ける。
マイタケ、鶏肉、レンコンなどが豪快に入っている。
やたらに容器の周りが分厚くて、かさばる。
食べ始めると少し味が濃すぎるような気がする。
4半分くらい食べた頃、容器の脇に糸のような物がついているのを発見した。
何だろうと思って引っ張ると、急に熱い蒸気が噴き出してきて、危うく火傷をする所だった。
ああ、こうやって温めて食べるのか。
しばらく温めると、ホカホカ湯気の立った美味しいご飯になった。
味の方も少し濃い目かと思ったけれど、温まると丁度良くなる。
美味しくいただきながら考えた。
この駅弁をこれだけ美味しくするには、何回も何回も実験して、温める時間と温度、味の濃さ、ご飯の堅さ、具の切り方などを試行錯誤したのだろうと。

捨てた包み紙を良く見ると、ちゃんと温めかたが書いてあった。
マニュアルが読めないから、絶対にこういうところも読まない。
それでも容器の不思議な厚みと素材ですぐにピントこないのは、食い気が先にたってしまうから。
せっかく努力しても私みたいな人がいて、火傷したとか、味が濃すぎるとか苦情が来たら、メーカーさんはやりきれないだろうなと同情する。

若い人達と2日間過ごして、エネルギーをもらってきた。
出かける時よりも、大分元気になったみたい。
















2015年9月3日木曜日

弱音を吐かせて

去年は年齢の変わり目というのか、体調が急に悪くなった年で、一番顕著なのが足の老化。
膝から始まって腰に来て、次は足首と故障する場所がグルグル回る。
これは面白い発見だった。
要は、どこかが悪くなるとそこを庇うために他の場所に無理が来て、悪いところは治っても、次に無理したところに影響があるという具合。
故障場所が身体を駆け巡る。
足首が痛くてしばらく運動を控えていたら、身体全体の調子が悪くなった。
足首は歩く限りはどうしても使わなければいけないから、痛くても我慢して使っていたら、自然に痛みが消えてきた。
なんだ、こんなものかと思って今せっせと歩いている。
ところがなんでもやり過ぎるのが私の性格で、歩きすぎて疲れが溜っている。
それでも次の日は懲りもせず歩く。
休まないといけないのに、むきになって歩く。
これで体調を崩したら元も子もないのに。

足の方はどうでも良いけれど、肝心のヴァイオリンを弾く手の方も、大分怪しくなってきた。
朝起きると手指がこわばっているので、伸ばしたりそらしたり、手のストレッチ。
今年前半はやけに調子よくて、弓が軽く持てるようになって、これで後10年位は保つかと思ったけれど、そうは問屋が卸さなかった。
気温が低くなってきたとたんに、調子が悪くなってきた。
今年前半の調子の良さに調子に乗って(なんだか語呂合わせ)11月にモーツァルトのディヴェルティメントK.334を弾くなんて言ってしまったけれど、こんな具合で弾けるかどうか怪しくなってきた。
モーツァルトの中でも特に難しいので、これで最後と頑張ってみようと思ったけれど、どうかな?

モーツァルトは特に好きな作曲家だから、今まで好んで弾いていたけれど、彼の曲はキラキラした軽やかさが命。
それは技術的にも究極の難しさで、楽譜自体はそれほどの事は無くて小学生でも音を並べることは出来る。
しかし、音楽的には軽さというのは、中々出せるものではない。
技術的な基礎がしっかりしていなければ、ただの音符の羅列。
彼の軽さの陰に潜んだ凄味とか悲しみが、表せない。
モーツァルトの心の闇のぞっとするような部分があってこそ、外側のあのきらめきがより一層輝くので、単に明るく弾けばいいと言うものではない。
そこが他の作曲家よりも難しい所以かなと思う。
私には到達できる境地ではないけれど、いつも共鳴して涙する。
モーツァルトを聴くと、胸が一杯になる。
表現するには高い技術が必要になるので、子供の頃ろくに練習しなかったのが今頃悔やまれる。

友人のSさんのコンサートで、モーツァルトのピアノ協奏曲の伴奏をすることになった。
弦楽四重奏で伴奏出来る楽譜が出版されていて、今回SさんはK.466のD mollを弾く。
そして他の人がK.414とシューマンのピアノ四重奏曲。
弦楽四重奏でオーケストラパートを弾くということは、管楽器の分も弾かなくてはいけないので、通常の伴奏よりも難しい。
今まで何回も伴奏したけれど、こんなフレーズ見た事無いという所が何カ所もある。
しかも、管楽器と弦楽器はメカニックが違うから、例えばフルートのパートは弾けないことはないけれど、弦楽器で弾くと、とても弾きにくかったりする。
しょっちゅう弾いている曲なので油断して練習していなかったら、そんなことで慌てふためいてしまった。
かつては初見の鬼だったのに、衰えたことだわいと苦笑。
そこは化け猫に近いから、弾いているように誤魔化すけれど、冷や汗たらたら。
いつになっても本気で練習しないといけない。
赤い靴を履いてずっと踊っていなければならないように。

今年の九月は殊の外忙しくて、30日までコンサートが続く。
それなのに明後日から、生徒たちの弦楽アンサンブルの合宿に付き合うことになった。
去年、石打丸山のスキー場の中にある大きなマンションのゲストルームを借りて愉快に練習したので、うっかり今年も引き受けてしまったが、考えると生徒達にかまって遊んでいるヒマは無かった。
自分の事で目一杯なので。

楽譜がコンサート毎に区分けされて、ピアノの上に積み重なっている。
それを横目で見ながら、一番近い仕事の練習をしていても、他の曲が気になって落ち着かない。

ストレスを感じると靴を買う習性があって、明日又3足届く事になっている。
しかも同じメーカーの同じデザインの色違いの靴が。
前世はムカデだったとして、来世も又ムカデかなあ。
いやだなあ。
早く赤い靴は脱いでしまいたいという、潜在意識のせいかもしれない。

















2015年9月1日火曜日

火花

芥川賞を受賞した又吉直樹「火花」を読んだ。
あの芸人さんは不思議な人だとかねがね思っていた。
やはりなにかどこか人と違うものを持っていたのだ。
大勢の芸人のいる中でいつも静かに片隅にいて、時々ぽつんとコメントを言うのも小さな声で、表情も殆ど変えない。
ほとんどの出演者が声高に自己主張する中で、どうやって芸人をやっていくのかと心配するくらい。
かえってそれが目立って、私は彼のポーズだと思っていたけれど、物書きと知って初めて納得した。
書いていない時は、周りのことを吸収し考察しているのだと思う。

私は殆どテレビを見ない。
朝の報道番組と天気予報、1ヶ月に2,3回は見たい番組もあるけれど、テレビを点けっぱなしにしておくような見方はしない。
漫才やバラエティー番組は、10分も見ると飽きてしまう。
漫才を馬鹿にしているのでは無くて、最近のお笑いの傾向についていけないだけなのだが、私にとっては興味のない分野になってしまった。

随分以前、テレビでつまらない漫才を見ていた。
あまりにも笑えないので「この漫才はつまらない」と言ったら、私の姉が「でもね、もし、電車の中で普通のおじさんがこういう会話をしていたらと思ってみてごらん。すごく可笑しいから」と言う。
そう言われて、以後そんな風に聞いていると、なるほど可笑しい。

かつて「やすしきよし」がいた頃までは、本当に可笑しかった。
切れの良い、アクの強いやっさんの破滅型の人生は、いかにも真性の漫才師。
最近の若者の芸は見た事がないので、もちろん又吉という名前すら知らなかった。
芸名は又吉ではないのかな?
時々バラエティー番組でチラッと見かけるので、大騒ぎしている人達の中で1人だけ物静かに居る、顔色の悪い人という印象しかない。

「火花」は自分が師匠と仰ぐ天才肌の漫才師神谷の生き方と、主人公の徳永の笑いを追求する姿を描いている。
徳永は出会った瞬間から神谷を認め、彼を全面的に肯定していく。
ここがすごいと思う。
神谷はお人好しだが破天荒な生活を送り、借金にまみれ、女に振られ、社会的にはくず同然。
自分のすべてを笑いのために費やしているような人物。
徳永はそんな彼をどこまでも突き放せない。
神谷は変な事を言うけれど、徳永はそれを自分の想像力で浄化してしまう。
そんな徳永に神谷はいらだちながら、お互い別の生活をしていても、切り離せないものある。

最後に笑いを追求する余り、神谷は自分の胸にシリコンを入れて、女性のような胸になる。
そのことで徳永は神谷をいさめる。
「それのどこが面白いのか」
「ジェンダーでなやんでいる人達がどう思うか」と。
そして自分でも真っ当すぎる言葉に驚く。
人としての限度を外せないことが、とことん笑いを追求する神谷とは一線を画すのかもしれない。
けれど神谷はその真っ当な言葉に涙する。
この人も又人間としてまともすぎる。
それを呆れ、腹を立てながらも、優しく受け入れる徳永。
それでも徳永は、大勢で入らなくてもいい露天風呂付きの部屋のある旅館に、神谷を招待する。
神谷は天才であるけれど、その神谷を何処までも純粋に敬愛する徳永の感性の瑞々しさが、感動もの。
師匠と弟子がこのへんから逆転していくのではないかと思っている。
できたら続編が読みたい。

話題性はあっても、果して本当に面白いかは半信半疑だったけれど、とても良い作品だった。
作者自身が澄んだ目を持っているのだと思う。
ほとんど起伏も無く淡々と物語っているのに、惹きつけられて読み終えた。

花火のシーンから始まり花火のシーンで終る。
きれいにまとめすぎかなとも思う。
ただ、最初の花火と最後の花火では、作者の感情の意味合いがまるで違う。

しかし、作者はこの先どうするのか。
漫才師としては、相方に敬遠されないだろうかなどと余計な想像が働く。
この作品で先生と呼ばれ、お笑いの世界で先生ではやりにくかろう。
落語の枕に「先生、下駄とっておくれよ」なんて台詞がある。
芥川賞をとったばかりにお笑いが遠くに行ってしまうのは、本意ではないと思うけれど。