2024年4月28日日曜日

恐怖のドライブ

いつも早朝というより真夜中に目が覚める。午前4時、雨は小降りで猫も二匹揃っている。野良は私が出かけるのを諦めたと思って油断している。ときは今。出かける前に老猫のこちゃのトイレを済ませないといけない。こちゃだけ車に乗せてそこいらへんを走り回る。ついでに24時間営業のドラッグストアで餌の買い出し。さて野良のトイレ事情はわからない。いつもは目が覚めると私にドアを開けさせてしばらく帰ってこないからそのへんでトイレを済ませるのだろう。そこで仲間の猫たちに出会うと昼ころまで帰ってこない。それでは渋滞が始まってしまうから可愛そうだが出発してしまおう。

野良は私に抱っこされてもまさかその後の苦難が待ち受けていようとは知る由もない。車のドアを開けると珍しそうに中を覗き込む。今だ!ファスナーを開けてあったケージに放り込まれてしばらく理由がわからなかったようだけど、その後は猛烈に騒ぎ始めた。ファスナーがちゃんとしまっているかどうか点検して、よし、完璧。

このあとの騒ぎはその時から始まった。

仄明かるい道を走り始めると二匹の猫の合唱が始まる。野良は若いから高い声で「ニャン、ニャン」こちゃはどすの利いた声で「ガオーガオー」一斉に合唱が始まって、驚いたことにその後3時間半、途切れることがなかった。私は気が狂いそうになった。そのうち野良がケージをガリガリ引きちぎろうとする。ネットになっている部分が切れるのではないかと心配になるほど。それが不可能と知って諦めても鳴き声は収まらない。

おかしいことに二匹の声の大きさと音程は車のスピードに合わせて上下する。スピードに合った声があることに気がついた。自動スピード検査機を積んでいるようだ。幸い野良はトイレを我慢できているようで、数回の検査でもセーフ。やっと高速をおりたと思ったら運転している私の顔の横に野良の顔が並んだ。仰天して思わずブレーキを踏んだ。一体どうやってケージから抜け出したかわからないけれど、出入り口のファスナーをどうにか引きずり下ろして抜け出たらしい。しかしどう見ても猫が通れるほどの空き方はしていない。猫は液体であるという説は正しいらしい。

そこは[カフェ春木]の直ぐ側だったから駐車場に車を止めて、悪戦苦闘の末野良をケージに戻しこんだ。ここのカフェには時々朝食時に寄るけれど、そのときはまだ8時になったばかり。開店は8時30分になっているけれど、ここのご主人はたいてい起きていないらしい。しかしその日は珍しく起きていたようで車の側まで降りてきた。「うちにきたの?」「違う、ごめん勝手に車停めて。猫が逃げそうになって」猫をケージに押し込めるのに苦労していると「うちに来たのでなければいいんだ」まだ朝食の用意はできないよと言いたいらしい。寝起きのご主人は犬派だから猫に興味はない。

ここまで来るとあとは難所の山道。急カーブが続く。そこでコチャが気分が悪くなった。もうすぐ家に着くというのに。家に入ると冬中切らずにおいた床暖房のほんわかした温かさがありがたい。

コチャは毎度来慣れた家、しかし野良は見たこともない家に連れてこられてびっくり。しかおどおどしないのはさすが頭脳も度胸もあるうちの野良。真っ先に階段を見つけてロフトの探検に出かけた。その間年寄り猫のコチャはしっかりと野良の監視について歩く。一通り家の見取り図を頭に入れたらしい野良は、私が自宅から持ち込んだ彼女専用のベッドに収まった。

やれやれ、外は雨で気温9度、肌寒くまだ新芽も出ていない森の木々は裸で震えている。その中でひときわまっすぐに丈高くそびえて白い花を咲かせているのは辛夷。そこに鳥が飛んでくる。声の感じでは歌がまだ下手くそなうぐいすなのに、見た感じは一回り大きい。なんという鳥かしら。生き物がいるのは楽しい。周辺の家も森の中もほとんど人の気配はなく、僅かに連休に備えて家のメンテナンスを頼まれた業者の車が通り過ぎるのみ。

疲れていても食い気は健在、御代田の蕎麦の名店「地粉や」に行ってみよう。道も空いているし連休前のこんな寒い日なら混んではいまい。11時半ころ駐車場に入っていくと空きがある。ラッキー!店にはすぐに入れて念願のクルミそばをいただく。その後は佐久平に車を走らせて新しいカインズホームを探した。けれど以前にも行ったはずが見当たらない。おやおやどうしたものか。とりあえず新人野良が心配なので家に帰ろうと車を回すと、なあんだ、近くの別のところにあったではないか。

あまりの広さに圧倒されて疲れ切った私はおそばのエネルギーだけでは持たないから帰って眠ることにした。二匹の猫は騒がしく鳴いて餌を要求したあとぐったりと寝込んだ。しかし野良の様子が気になる。家を出たのは夜明け、その前に排泄したのは何時ころかしら。見るとお腹がやけに張っている。新しく用意された彼女専用トイレはずっと小綺麗なままで心配になる。時々部屋を徘徊してそのトイレまでいくものの、用は足せないらしい。

そのうち夜になった。しかし彼女のお腹はパンパンに膨れたまま。これはおお事だ!もしこのまま出ないと尿毒症に。明日朝帰らないといけないかも。しかし近所にこのあたりで有名な動物病院がある。万一のときには駆け込もう。でも電話番号を知らない。いざというときには地元の人に訊こう。

その時ふとひらめいた。いつもの野良は外がトイレだから土の上にならできるかも。クリスマスローズのために買い込んだ土があるじゃないの。もったいないけど試してみよう。

その時ほど自分を「天才」だと思ったことはない。クリスマスローズの美味しそうな土のトイレに早速入っていった野良はめでたくことを済ませて、二人で安堵のため息を漏らした。ああ、良かった。これで明日から花作りに専念できる。

次の日は絶好の花作り日和、シャベルと落ち葉掃きの熊手を持ち長靴を履いての作業は初めは簡単に思えた。しかし30本近い苗を植え終わったときには足はガクガク、傾斜地で転びそうになってよろよろ。最後の水やりはとてつもない重労働に思えた。もう食欲もなく近くのコンビニで買ったお惣菜を食べて二匹の猫と爆睡した。

夜中に同じベッドで寝ていた野良を蹴ったらしい。朝起きると私を嫌な目で見ている。近づくと逃げる。しかも猫同士の確執も一向に改善されていないから仲裁に駆け回る。私はもう疲れ果て、帰路についたときには心底ホッとした。

今回初参加だった野良はまだ正式の名前がない。今回思ったのは、北軽井沢の家の前の持ち主の田端純子さんの通称はノンちゃん、そのノンちゃんのお名前をいただこうと思う。年齢からいって野良は私の最後の猫となる。本当はコチャが最後のつもりだったけど野良が来るようになって、それなら飼えるだけ飼ってみようと覚悟を決めた。

賢く情が深く人の気持ちを素早く察知してしかれば二度と同じことをしない。真に飼い主とは正反対の利口者。ノンちゃんも賢くおおらかで勇敢な素晴らしい女性だった。天を仰いでお許しを乞うたら優しい声が「いいわよ、nekotamaさん」と聞こえたような気がした。
















猫は宇宙で一番偉いのだ

野良は自慢じゃないが知能が高く人の気持を読み取る術に長けている。私が北軽井沢に行くときにこっそりと旅支度をするのはすぐに分かってしまう。「また私をおいてどこかに出かけるのね」それがわかるとぷりぷりしながらさっさと近所のスペアの飼い主さんたちに媚を売りに行くのだ。

 出かけるときは前日から車に荷物を積み込んでいつでも出発できるようにしてある。今回は北軽井沢にいよいよイングリッシュガーデンを出現させるための試み。

少し前に花郷園で買い込んだクリスマスローズをすべて積み込んだ。きっちりと鉢を並べるとやっとどうにか全部いれることができた。やれやれ、今回は猫が二匹になり、久しぶりの遠出なので荷物が多いところにクリスマスローズが20本、それに添える花が10本ほど。車の中はジャングルかと思えるほどの植物の葉が茂っている。

いまごろ車の中は植物の息でムンムンしているに違いないから、乗り込むときにご挨拶をしておかないと意地悪をされそう。問題は二匹目の猫をケージにだましていれるのに成功するかどうか。とりわけ賢く人の気持を読むのができるので一筋縄ではいかない。昨日から置かれている新しいいケージのにおいを嗅いでいる。なにか察しているかもしれない。しきりに膝に乗ってくるのを邪険にしたらとっとと外の空気を吸いに出ていってしまった。

花郷園で株を選んでもらって買ってきた花はいずれもしっかりとした株で、1週間ほど自宅のベランダや浴室で暮らしていた。私は20鉢ほどと言ったのにそれよりもたくさん入っていた。北軽井沢の家はおとぎ話の魔女の家のように小さいのに、庭はとても広い。私には手に余る広さで、前の持ち主のノンちゃんは草木がはびこるままにしていたからイングリッシュガーデンは実現できるかどうか。庭の写真を見せてこんなところですと言ったら、結構理想的な環境ではないかと彼女はいう。花郷園の美しい社長が張り切って選んでくれた株はすごく健康で茎がしっかりしている。

植物を飼うのは初めてなので北軽井沢に移植するまでに枯らしてしまうのではないかと心配だったけれど、とんでもない。全てピンシャンと天に向かって伸びている。しっかりした茎がたくさんの花を支えている。どうやら直射日光は苦手らしい。ベランダで毎朝たっぷり日を浴びているもの、室内で網戸越しに朝日を4時間ほど浴びるもの、南側のベランダで日没まで必死で日光浴をしているものを比べると、室内網戸越しが一番お好きなようだ。南側ベランダが一番辛そうにしている。

時々場所を変えて観察するに段々彼らの性向がわかってきた。お日さまは少しで弱めでいい。お水は乾ききったらたっぷりと飲みたい。毎日でなく数日おきが良い。なんて手のかからないお花たち。

これを書いたら八代亜紀さんの・・・肴は炙った烏賊でいい・・・なんていう歌詞を思い出した。

私は植物の気持ちがわからないからこれから勉強していかないと。わけもわからずあじさいやダリアなど買ってきて植えては枯らしていた。今日から手に豆を作って畑を耕すのだ。しかし天気は悪そうで一日目は雨らしい。木・金曜日が晴れそうなのでそこで一気に。行けば美味しいおそばが食べたくなる。

ここ数ヶ月北軽井沢にはとんとご無沙汰だった。美味しいおそばが食べられなく飢餓状態になって自宅付近の蕎麦屋に入ってがっかりした。蕎麦はまだしも蕎麦つゆが真っ黒でしょっぱくて半分も食べられなかった。信州で食べるお蕎麦とは大違い。都心で食べる美味しいお蕎麦は味が良くても高価で少量、ざる蕎麦は食べてもお腹が空く。いっそのことザルまで食べたくなる。

ざる蕎麦を生まれて初めて食べたとき、まだ子供だった私はなんて不味いのかと驚いた。こんなものをどうして大人たちは美味しそうに食べるのかしら。

音大に入って校舎の前に日本そばやさんがあった。私はどうしてもほしい弓があって、その頃は少しずつスタジオの仕事などもやっていたので自分で買おうと思った。昼ご飯は一番安いもりそば。来る日も来る日も、もりそばを食べていて

食べていたらその後はもりそばが好きになった。特に野尻湖周辺の山の中で食べたそばがきなども美味しかった。そして最近時々行くのは御代田にある地粉やさんという蕎麦屋。最初の頃は何回行っても地粉やさんのおそばにありつけなかった。あっという間に売り切れてしまうか定休日だったりして。

できれば月曜日に北軽井沢に行きたいのだけれど、野良はたぶん旅慣れていないから彼女のご機嫌次第。こちらはラッシュに走るのは嫌だからできれば早朝か昼過ぎに出たい。そのときに家にいてくれればいいけれどいないときには時間がずれてしまうと困る。なぜそれほどまでに猫ごときに気を使うかというと、ひたすら猫に嫌われたくないという弱みがあるので。

月曜日には私の気持ちを察して野良は非常に神経質になっていた。私もイマイチ出かける気持ちにゆるぎがある。二匹の猫を積み込んで大量のクリスマスローズに囲まれて運転することに怖気付いている。とにかく植物はどちらかというと苦手で。今回ばかりは車の小ささが不便に思える。

私が出発を諦めたかのように思えるまで呑気そうな顔を装って、猫に本心を悟られてはいけない。ここが犬の飼い主さんとの違いなのだ。ワンちゃんの飼い主は犬に言うことを聞かせるのにためらわない。しかし猫の飼い主はあくまでも猫の機嫌取り。卑屈になってしまう。宇宙で一番えらいのは猫であって、飼い主はしもべでしかない。

その日は夜になってやっと野良の疑いは晴れたらしく、夜の出発はこちらもありがたくないから翌日に延期となった。


















2024年4月18日木曜日

野良に噛まれる

 コロナを患って予後がよくない。なにか体力のすべてが消えてしまったような、生きる気力をなくしたような、これで何歳まで生きなきゃいけないの?みたいな虚無感に襲われる。眠ってばかりいる。

家にいるから猫が喜ぶ。特に野良はまだ元猫との関係がギクシャクしているから私がいることで保護されて安心できる。家に来始めた頃から野良はすごく変わった。それまで遊ぶということを知らなかったから、猫じゃらしでじゃらしても怯えてしまう。ボールを転がしても意味がわからないらしく追いかけようともしない。ちょっと手を頭の上にかざすと逃げ出す。遊んでいる余裕はなかったのだ。ひたすらその日食べるものと温かい寝床を求めてうろついていたのだから。

家に入るようになってから3ヶ月ほど、私の膝によじ登ってくるようになった。しっかりともたれかかって嬉しげに喉を鳴らす。そのうちだんだん感情が高まってきて・・・がぶり!

脛に歯型ができる。腕を噛まれる。彼女の精一杯の愛情表現なのだ。そして最大級の噛み傷ができたのが数日前。たぶんお腹が空いていたのだろう、しきりに私の膝で腕を甘噛してきた。そのうち興奮状態でだんだん激しくなったので、床におろした途端スネをがぶりとやられた。傷が深いのはよくわかった。

翌日スネが腫れ上がったので病院へ行った。最近見つけた家近くの病院。最初に行ったときに先生が気に入って私のホームドクターになってもらおうと思った。そのときは患者さんが大入りだったけれど、その日はがらんとして患者の姿はない。見回せば診察室やリハビリルーム、処置室など設備は整っているのに医師は一人、看護婦一人受付二人と人手不足状態。どこも厳しいのだ。

そして先生は先日の楽しげな人でなく、少し憂鬱そうな初老のおじさん。あらあら、残念、お疲れのようだ。脛に傷持つ身の私はふくらはぎがだんだん腫れていくのが憂鬱。猫の爪や牙は鋭く、特に若猫は力任せに襲ってくる。近所中をうろついて泥の中を裸足で歩くから爪のカーブの裏側や牙には毒がある。猫による傷は「猫ひっかき病」と言って恐れられている。

前日の傷はすでに10センチあまりに赤みが広がっている。その傷を某研究所の医師に見せたら「腫れたら危ないから必ず薬を飲むように」とアドバイスを受けた。その先生の専門ではないので他の科で受けるようにと。なお「腫れて化膿したらその部分をくり抜いて薬を入れないといけない」と手真似でメスを入れる仕草までして。外科の医師は本当に切ったはったが好きなのかなと思う。優しそうな顔した若い先生だけど。

近所の医師は傷を見るなり抗生物質と胃腸薬を処方して、なお言うには「破傷風の予防注射もしておいたら」と。破傷風?おお、怖い。でも少し大げさではないかな。却下して診察室を出る。処方箋の待ち時間にもう一度看護婦から声がかかった。「先生がお話があるそうです」

先生はまた諄諄と語りかけてくる。「やはり破傷風の予防注射をしておくのをおすすめします」破傷風の怖さは子供の頃読んだ本で知っている。未だに忘れられないほど怖かった。けれど、もう間もなく人生の終焉を迎える身としては今更死ぬの生きるのは神様にお任せしたい。予防注射の後遺症のほうがよほど怖い。しかし、待てよ?

急に北軽井沢の庭作りの事が頭を過った。これから広い庭の方々を掘り返すのだから、どんな黴菌が巣食っているかわからない。特に手つかずの森林を20年ほど前に伐採してノンちゃんが建てた家。原始から住んでいるバイキンに溢れているに違いない。一昨年漆にかぶれてひどい目にあったことを思い出した。もしかしてこの先生の言う事を聞いておいて良かったと思えることがあるかもしれない。先生曰く「狂犬病の予防注射よりはよほど必要性があります」

狂犬病の予防注射は今から20年ほど前、チベットに旅行する前に受けた。そのときはチベットでチベタンマスティフと出会って噛まれたらという心配からだったけれど、実際のチベット犬はおっとりとしてもふもふの巨きく穏やかな犬だった。悔やまれるのは写真を撮ってこなかったこと。犬と一緒に写真が撮れる場所があって、そこの犬の飼い主のあまりにも貧しく悲しげな様子に泣き出しそうになって、その場を離れてしまったのだった。撮影費用だって僅かなものだったろうに、飼い主と犬の食事代になったであろうに。

チベットに行ったのを思い出すと未だに後悔と悲しみが襲う。なんとかできるものではない。あの国の人々は貧しくとも自立していた。それを中国が踏みにじった大きな波は私ごときのどうにもできることではない。無力感がいつも私に涙を流させる。

その時私に出された食事は羊の臭くて硬い肉、それでもあちらではごちそうなんだと思うと一口かじってあとは喉を通らなかった。広大な湖の広がる人通りのない道を五体投地でラサに向かって進む人の姿があった。何日もかけて膝を擦りむいてたった一人、疲れ果てラサまで到着できないかもしれないのに。それほど現実が厳しいということなのだ。

私を噛んだ野良はしっかりとそれはいけないと私に叱られた。もともと賢い野良は一度でそれを学んでその後囓みたくなると私の顔を見る。だめというと甘噛してすっと離れていく。人間の子供よりよほど聞き分けがいい。













2024年4月17日水曜日

春の四重奏

 富山県朝日町に春の四重奏を見に行った。聞きにではなく「見に」です。

アルプス山脈の雪の白、桜の桃色、菜の花の黄色、そしてチューリップの赤の四色で奏でるハーモニー。それが重なって一緒に見られるのが朝日町で新幹線の富山宇奈月温泉駅から車で約30分ほど。

前日は軽井沢のY子さんのマンションに泊めていただくことにして、夕方軽井沢到着。食事のあとすごく上手な整体師がマンションに来てくれたので施術してもらいぐっすりと眠ってしまったら、次の朝は目覚ましのアラームの音が聞こえないくらい熟睡した。

次の朝、軽井沢から富山宇奈月温泉駅まで約1時間20分、始発に乗って富山宇奈月温泉駅到着は8時55分。そこから富山県人のKさんの車でいざ出発。ちょうどその日が朝日町の桜の満開日だそうで道々あちこちに桜の群生が見られてのどかな田園風景と相まって眠気を誘う。晴れてはいるけれど薄く霞のかかったような天気模様で、すべてが平和。

北アルブスは雪で白く桜は満開ではあるけれど、手前にあるはずのチューリップはまだ咲き始めたばかり。畝ごとに色分けして植えてあるので、赤は咲いているけれど、他の色はまだ蕾が固く閉じられていた。ところどころ黄色が咲き始めている。これが一斉に開くということはなく、色ごとに時期によって咲いていたり散ってしまったりするらしい。それは植物だから訓練しても一斉に咲くということは無理なので、なるべく一緒に咲いている時期を狙うしかない。

しかし広い!空が全部見える。富山に来るといつでもそう思う。富山駅の周りは流石に高い建物があるけれど、郊外に出れば畑と海と山、人々の口調もどことなく雅で、先日高岡の市内を歩いていたら大伴家持の子孫に出会った。つれが「あ、大伴さんだ」と言うから素早く振り返ったけれど残念ながら見えなかった。家持の子孫だからといって特別なお顔でもあるまいが、でも見たいじゃないですか。

昔の北陸の漁港は賑わっていて、北海道まで魚を積んで行って昆布を引き換えに積んで帰ったそうだ。それで巨額の富を得た商人たちが、派手なお祭りの山車を寄贈して今日までまつりが残っているというわけ。新幹線が伸びて東京からも一直線で行ける。時間も短縮された。昔富山に行くのは飛行機が主だった。河川敷の飛行場に手に汗を握る着陸を楽しんだものだった。着陸地点の少し前の交差する道路に橋がかかっていて、飛行機の車輪が引っ掛かるのではないかといつもヒヤヒヤした。一度ならず、強風で着陸がやり直された。正しく着陸されるとホッとしたものだった。

だからといって怖いとは思わない。けっこう好きな空港の一つだった。新幹線の延長でその楽しみが一つ消えた。どうやら私は飛行機が非常に好きらしい。広島空港から飛び立って10分ほどで飛行機に落雷があったらしい。その後機体は激しく乱高下、それでもあまり怖いとは思わず読書に没頭していたことも。メキシコの黄色い飛行機「バナナ」滑走路に向かって斜めに傾きながら突っ込んでいく。車輪が滑走路に接触する直前でいきなりまっすぐに姿勢を正してドカンと着陸、笑いながら楽しんでいた。真冬の稚内、猛烈な吹雪の中で着陸するのもスリルまんてんだった。

怖いもの見たさの野次馬根性の持ち主なのに、のどかに花を愛でる様になってきたのは歳のせいなのか。今レッスン室はクリスマスローズの鉢植えで埋まっている。先日花郷園で買ってきたものの北軽井沢に行く時間がなかったので家に保管してある。床に新聞紙を敷いて鉢植えの花が20個、ベランダに出して日光浴をさせたり、水をやったり、よく見ているとコンディションがわかる。なかなか手がかかるけれど、可愛いものだと最近は植物にもハマりそう。

猫は絶好調、餌やトイレの習慣などが変わったら、数年前にはもう死ぬと思っていた百歳超えのヨボヨボ老猫が蘇った。すごい勢いで餌を食べ、あとから入った野良猫を威嚇し、その猫の食べ残しを食べる。これは予想だにしなかった。後ろ足を引きずりながらも野良を威嚇する貫禄はなかなかのもの。のらも賢くて威嚇されても私は今ここにいませんよみたいに空っとぼけて不動の姿勢をとる。両者ともにたいした役者なのだ。

春の四重奏を見たから来週から北軽井沢に大量のクリスマスローズを運んで庭作りを始めようと思う。野良は北軽井沢初逗留、果たしてうまく行けるかどうか、今からハラハラ・ドキドキしている。飛行機は怖くないけど、猫のご機嫌取りは怖い。果たしてうまくいくだろうか。














2024年4月4日木曜日

クリスマスローズ

 府中にクリスマスローズの栽培で有名な農場があると聞いて、一度は行ってみたいとおもっていた。花郷園という。

www.kagoen.co

北軽井沢の殺風景な庭はやたらとだだっ広く、厳しい気象条件で花を植えればすぐ枯れる。なにを持ってきても根付かない。落ち葉のフカフカとした堆積は腐葉土のようでいかにも植物に良いようでいて、ある種の植物に良くても他の植物は受け付けない。本当に手の焼ける地面でやっとビオラやパンジーのスミレ類がショボショボと年を越してくれる。私のような非力なものはスコップで数か所穴をほっただけで息が上がってしまう。去年から今年の冬はあちらで越冬するつもりだったけれど、諸般の事情でできずにいたから一体庭がどうなっているかは考えるだけで恐ろしい。

昨日やっと体調も回復の兆し、雨がしょぼ降る中、車を走らせて府中へ出かけた。道路沿いに温室がならんでいる。建物に近づいて中を覗いても閑散として、呼びかけても返事がない。漱石の「道草」の冒頭を思い出した。

しばらく彷徨いていると別棟から女性が現れた。見るとホームページに載っていた花郷園の社長さんだった。髪の毛を後ろに束ね、化粧気がないけれど美しいお顔。スラリと背が高い。北軽井沢の気象条件や日照時間、季節の変化環境などを話して庭の写真を見せると、本当にぴったりの条件でクリスマスローズに適していると。

どこにでもへそ曲がりはいる。花の世界での変わり者はクリスマスローズ、ほったらかしにしても気温の変化も耐えられる、多年草で丈夫、冬の雪の下でも枯れかけても春には生き返る。しかも花は多彩で様々な色の変化が見られる。まさに無精者のためにあるような花なのだ。非常に生命力が強いのでほったらかしにしてもどんどん繁殖するそうで、しかもこの農園のクリスマスローズはそこいらへんの園芸店においてあるものとは雲泥の差、茎が太くまっすぐにしっかりと立っている。

たまたま即売会のイべントが終わったあとで、あまり残ってはいないけれど、その時の値段で譲ってもらえるとのことだった。ラッキー!!あれもこれも欲しいけれど数年経って庭中がクリスマスローズになってきたときに押し合いへし合いにならないように、少し間合いを取って植えるようにとアドバイスを貰った。

車に積むと座席は全部埋まって、これで二匹の猫を連れて行けるのかと心配になってきた。二匹は仲が悪いからケージは2つ、どうやって載せられるか頭が痛い。乗用車でなく軽トラックを買えばよかった。

不思議なことにクリスマスローズは親株から発生した次世代株が親の花とは異なる花が咲くらしい。中にはバラかと見紛う華やかなものから可憐なすみれのようなものもある。

らしいというのは私はまだこの花を育てた経験がないからで、なんという親子関係なのかと不思議に思う。
動物なら大きな馬からネズミは生まれないでしょうに。
とにかく丈夫でたくましいらしい。
形も色も様々で寒さに強い。
雪の中で隠れていた根っこを掘り起こしてみると再生するらしい。
最近やっと植物にも興味が湧いてきた。今までは動物は可愛いけれど植物はちょっと苦手だったけれど。
様々な性格の植物があって世界中に花が咲く。
植物は平和そうに見えるけれど本当はかなり策略家で獰猛なものもいる。
それが動物とも重なるところが面白い。













2024年4月3日水曜日

手が震える

 先日仲間の集まりがあって様々な問題点の話し合いがあり、食事をしながらビールを飲みながらの雑談も始まり、オーケストラ時代の思い出などで盛り上がった。オケに入ったら弓が震えてと手真似で言う人がいた。彼は先日リサイタルで素晴らしい名演を聴かせてくれた人だった。

オーケストラというところは巨大な演奏家の集団で、われこそはと思う人たちが集まっているのに抑制され集団で演奏するため周りとの協調性が必要とされる。それで生じるストレスは相当なもので、緊張のあまり弦楽器なら弓を持つ手が震えて止まらなくなったり、管楽器なら唇に力が入って音がひっくり返るなどの恐ろしい現象が起こるともう大変。当分の間夢にまで出て悩まされることに。

それは難しいパッセージなどでなく単に音を伸ばしているときに現れるから、その癖があった頃の私は二分音符以上の長さの音符を見ると青ざめたものだった。長く弾く音符は二分音符、全音符などオタマジャクシの頭の部分が白抜きで、大抵はそれにスラーという記号がついていてピアニシモで数十秒間とか続く。それはそれは数十分にも感じられるほどの恐怖だった。

それを克服するために様々な練習と人からの助言と自分のコントロールによって今はもう現れないけれど、それまでにどれほど悩まされたことか。あるベテランチェリストが演奏が終わってステージ袖に引っ込むときに「震えちゃったなあ。これでまたひと月はだめだなあ」とつぶやいていたのを聞いたこともあった。ああ、この方も?こんな有名なチェリストなのに。クラリネットの大先生も「またキャアって言っちゃったよ、あーあ」とつぶやきながら帰る。

それは技術よりもメンタル面のことだから、どんな上手い人にも一度現れたら当分の間取り付いて離れない。先日の話し合いの中でオーケストラ時代に弓が震えた話が出た。一度震え始めたらこの世の中に自分だけたった一人、恐ろしい孤独感に苛まれる。それは聴衆よりも身内のプレーヤーに対する恥ずかしさであり、ある有名なコンサートマスターはオーケストラの中でのソロが一番怖いと言っていた。

私といえばカナダとアメリカ西海岸、メキシコの演奏旅行の際、黛敏郎さんの「舞楽」という曲のはじめにたった一人で長い音を弾き始めるというポジションを与えられて難儀したことを思い出す。そのポジションはセカンドバイオリンのトップサイドであり、普通ソロはコンサートマスターが受け持つのだけれど黛さんはなぜかセカンドのトップサイドから始めるように意図して書いたのだった。

その時私はずっとファーストヴァイオリンを弾いていたのに、わざわざその場所に行くようにと言われたのだった。よほど私が図々しく上がることなどないと思ったのか、指揮者やコンマスからの指示となった。私は本当のところひどい上がり性だったけれど、アメリカの演奏旅行に行く直前の定期演奏会で同じプログラムで弾いたときには震えることなく弾けた。

そして生まれて初めての海外への演奏旅行、なにもかも緊張の連続だった。悪いことに当日バンクーバーのテレビ局がやってきて録画があるという。そして始まると私の弓を持つ手元のアップから始めるのだった。もう震える条件満載、弓を弦に乗せるとカタカタと到底長い音とは思えないスタッカートが出てきてしまう。カナダには数日いたけれど、毎日カタカタと震えっぱなし。時差もあるし夜も眠れない。

それがあるときからピタリと止んだ。全く普通に弾けるようになったのだ。なにが私を蘇らせたかというとバンクーバー交響楽団のコンサートマスターの行動だった。かれは私が震えているのを見て嘲笑したのだった。私を指さして笑いながら弓が震える仕草をしたのだった。そうやられた私の負けじ魂に火がついた。なにお!と思ったら私の弓はピタリと弦に張り付いてスーッと滑らかに長い音が出るようになったのだ。

オケのメンバーたちは皆心配して私を見守っていたので、私がすっかり冷静になると次々に良かったと喜んでくれた。当時のコンサートマスターはハンガリー人で、私が震えている間は「おお、かわいそう」と言って出会うたびにハグしてくれた。その彼も私が普通になると大喜びで笑いかけてくれた。

私は留学経験がない割には海外の人と共演するチャンスが度々有った。私も彼らと一緒に弾くのが好きだった。なぜかというと彼らは日本人のような忖度や遠慮がない。陰で悪口をいう代わりに正面から悪ければ悪い、変なら変とはっきりいう。ときには意地悪いと感じる人がいると思うけれど、私はそのようにはっきりした態度が好きなのだ。カナダで開き直ったからその後の演奏はすっかり立ち直ったけれど、他の場面では相変わらず震えることが多かった。

よく大勢で弾くからオーケストラは目立たなくて楽でしょう?という質問を受けることがあるけれどとんでもない。一度オーケストラで震えたらその怖さは世界共通、海外の一流オーケストラでも震えに悩む人が多いと聞く。私が震えから脱出できたのは様々な練習とメンタル面の訓練、オーケストラが大勢で弾くから楽だなんて滅相もない。ある時電車で他のオーケストラのメンバーとばったり出会ったことがあった。彼が「昨日新世界をやったんです」「どうだった?」「ええ、みんな震えました」これはドボルザークの「新世界交響曲」のラルゴのヴァイオリンのソリ(ソロの複数)のこと。

もちろん、そんなことには無縁な人もたくさんいるし大胆で怖いもの知らずの若者は不思議そうに手の震える人を見ている。けれどひょんなことで一度震えると恐怖で眠れなくなる。

絶対震えそうもない人たちがいる。ある時言うことを聞かないホルン吹きに向かってこう言った指揮者がいた。「俺はカラヤンだ」

するとそのホルン奏者が立ち上がって「俺はザイフェルトだ」と言ったそうな。
















2024年4月2日火曜日

筋トレウオーキングやめたら

ここ数年左膝の故障と右足のしびれ、指先の痛みなどに悩まされ歩くこともままならない状態。せっかくの演奏会にヒールの靴も履けない。ぺったんこのサンダルみたいなものでごまかしていたけれど・・・・

ある時、歩くな筋トレするなという整体師の動画を見つけた。何を馬鹿なと思ったけれど先ごろコロナ感染して約1週間寝込みその後も表に出られないのでウオーキングもしなかった。そして体が弱っているので筋トレもしっかりとできない。その動画を見て蹲踞のような筋トレを真似したらもっと痛くなって、この先、生涯この状態で過ごさねばならないのだとすると辛い。そう思っていたら、治りましたよ。

今年はスキーを始めてから61年、初めてゲレンデに立てなかった。スキーの先生と話していたら筋トレのやり過ぎでは?と言われた。私もうすうすとは感じていたので今回のコロナが良い機会と思って筋トレを全くやめてみた。それ以来膝痛も足のしびれもない。

まず体重が2キロほど減ったのが勝因。それでも毎日時間があればせっせとつま先立ち、寝転んでのゴキブリ体操、太もも内側の筋肉のためのねじり脚上げ。などなど。その他毎日雨が降ろうが暗くなろうが毎日数キロは歩いていたのもやめた。その代わり食生活には気を配った。腹六分、食事の間の時間を6時間以上開ける。お腹が空いていないのに食べることはしない。食べすぎたと思ったら翌日一回食事を抜く・・等。体力が無くなる心配もあったけれど結果、足の痛みは消えて毎日平和に暮らしている。

一番心配したのは高齢者の栄養失調。骨がもろくなったりしないだろうか。毎朝乗るタニタの体重計には骨量も計る機能がついている。それによれば私の骨量は去年の後半から少し落ちてきている。ただ昔から私の骨量は非常に多いと出るから、まだ標準範囲で収まっている。そろそろ骨密度を高めるサプリメントでもとは思うけれど、迂闊に飲んで健康障害が起きることもあるから用心しないといけない。

現在、足の痛みがなくなって歩く量も少なくなって、いわゆる健康年齢は高くなっている。これはいかがなものか、先日も歳を取ったら少し小太りのほうが元気でいられるという説を唱える医師もいた。それは極端に痩せてはいけないけれど体重はそれを支えられる足あってこそ、筋力以上の肥満はいけない。それが悪循環の始まりになるのだ。

私の素人考えでは結局物事すべてバランス。筋力が弱い人はそれに見合った体重でないと足を痛める。足を痛めて健康な生活を送るのは至難の業。小太りで足を痛めたらすぐコレステロールが増え、サプリを飲むと小林製薬紅麹事件が発生したり。

私はずっと小太りだけれど、それが健康だと思っていたこともあって、無理に体重を減らさなかった。コロナで寝たきりになったときこんなに食物を摂らなくても全然平気で生きていられるのだと思って愕然とした。今までなんであんなにいっぱい食べていたのだろうか。朝からタンパク質や鉄分やカルシュウム、繊維質などのことを考えると結構な量となる朝食をせっせと食べていた。それでいつもなにか摂取しないではいられない。カロリーオーバーになって胃腸障害や胸焼け、膝の痛みにつながった。

先日寝込んだときにはほとんど水を飲む気も起きなかったけれど、介護士の友人がいち早く飛んできてくれてそういうときに患者に飲ませるという高カロリーの飲料缶を持ってきてくれた。それをうつらうつらしながら飲んでは眠りを繰り返す。近くに住む「古典」のメンバーがお粥を差し入れてくれた。姉は野菜のジュースなどをドアの外においていく。それで約2週間経って胃袋が空っぽになった頃、体調はメキメキ回復した。

すっかり浄化された血液が流れ始めたかのようで、どす黒くなっていた血管が次第に青みを帯びてきた。今はほとんど血管が目立たなくなった。筋トレや過剰なカロリー摂取はアスリートや若者たちのように自力で消費できればいいけれど、私のような高齢者には毒となるのだと初めて実感した。もうこの辺でゆったりと暮らそう。ずっと突っ走ってきたのだからこの辺でね。






















2024年3月28日木曜日

落ち着かない大人

 PCR検査の結果を姉に知らせたらすぐに飛んできた。最初のうちは食物の入ったバスケットが遠慮がちに玄関前においてあったけれど、3日も経つと「足りないものがあったら連絡して」と言ってそれっきり。私は潤沢な食物で何不自由なく暮らしていた。こんなにも冷凍食品があったなんて、これなら震災があっても1ヶ月間は持ちこたえそうだった。それに最近サプリメントで多少カロリーの軽減、体重を極力減らすように努力しているから食べ物が減らない。

姉は小さなケーキを持参していたのでコーヒーを淹れて全快祝い。ずっと甘いものも控えていたので美味しい。今回の検査でわかったのはあれほどコロナコロナと騒いでいたのに、今は検査を受けられる場所もよくわからない。役所の対応はもはやコロナは過去のもの?症状は出なくなったけれど本当に治ったのかどうかを調べないと患者は不安で仕方がない。

今朝たまたまネットで見つけたのが自宅付近の発熱外来だったから良かったけれど、昨日まではそれも良くわからず自宅から電車に乗っていく距離のところばかり。もし陽性のままだったら他人に感染する。

見つけたのは偶々だったけれどラッキーだった。電話をして予約、到着したときにはほんの数人の患者がいるだけだった。すぐに検査は終了して医師の診察を受けると、彼女は少し腹立たしげにあなたの場合は保険診療のケースではないと。なんで同じ検査で保険が効くか効かなくなるのかよくわからないけれど現在発症していないから保険は使えないとか。発症しているのとしていないのとで検査のやり方が違うわけではないらしい。

私はもう症状が治まったこと、それでも大勢の会議とか花見とか旅行とか検査したとしないのとは大違い。PCR検査の陰性の証明があれば気兼ねなく動ける。検査のどこが違うのかはわからないから黙っていたら帰り際にも受付で今度から正しく申告してくださいと言われた。嘘ついたと思われた?なんだかわからないけれど非常に不快な思いをした。それなら最初からきちんと説明してほしい。保険が効かないとしても必要な検査だから受けたいと思っていたので。

自宅に戻って姉に陰性の報告するとえらく喜んでくれてケーキ持参の訪問となったしだい。私の兄弟たちはよく昔のことを覚えている。特に私は彼らのおもちゃだったから今頃になって様々な思い出話しが飛び出してくる。姉に言わせれば私は「夏休みの宿題はね・・・」と始まる。

私は夏休みに入ると先に日記を全部書いてしまったという。へえー、そんなことあったかしら。それで毎日その日のページを開いてそこに書いてあることを次々とやってから「はい、これでおしまい」と言って終わりにしたそうなのだ。そりゃあ能率的だわいと私は思う。10分もあれば済ませられることを済ませてあとは縁側で空に浮かぶ雲を飽かず眺め、レコードで音楽を聴き、ラジオで落語を聞く。毎日何冊もの本を読む。母はそんな私が嫌でまるで子供らしくない子供として持て余していたらしい。時々引っ立てられて近所の同い年くらいの子どもと遊ばせようとさせられるのが本当に嫌だった。話したって面白くない、縄跳び、缶蹴り大嫌い。男子は鼻垂らしてきたないし、なんて。

だから当然体操音痴、跳び箱、縄跳び、鉄棒全部できない。走らせても全力疾走なんてカッコ悪いと思っているから絶対に歯を食いしばって走るなんてことはない。そのつけが全部回ってきて、今は何でもやりすぎている。人間は生涯での運動量が決まっていると私は思っている。子供の頃運動しなかった私は今になってもスキーを諦められない。最後の海外旅行、フランスのヴァルトランスのアルペンスキーの楽しかったこと。スキューバダイビングで死にかけたり、モンゴルの大草原で落馬して大地に叩きつけられたり、大変な思いをしてもなお変ったことがしたいと未だに憧れ続けている。例えば成都からラサまでの青蔵鉄道にもう一度乗りたい・・・とか。高山病で危うかったのに。

子供の時の私がほんとうなのか、大人になってからの私が子供に戻ったのかよくわからないけれど、差し引きゼロにしてから死ぬつもりでいるから、どうぞ皆さんよろしく。






















めでたく陰性。

 私の性格は陽性だからコロナもなかなか離れないかと思ったら今朝の検査で陰性判明!まずはホッとしたところです。

子供の時から様々な病気とお友達なのに決して命にはかかわらない。並べて書いたらゾッとするような病歴なのにいつものんびりと「これで本が読める」とかなんとか言いながら陽気な入院生活。医師も驚く治癒力を誇っていたのに、流石による年波には抵抗できずと思っていたけれど、終わってみれば症状はほとんどなくてひたすら眠って疲労を回復していただけの話となった。

最初の眠り期では食欲もなくひたすら夢の中。これは一番幸せだった。体重が落ちたせいか膝の痛みが消えたのがラッキー。起きられるようになったときにはミツバチのようにスムージーに蜂蜜などの流動食、それが約一週間持続したにもかかわらず空腹感がない。そして確実に体重が2キロほど減って体中が軽くなり、胃腸の具合も良くなり、今までいかに食べ過ぎていたかを思い知らされた。

今ならスキーにも行けそうな膝のコンディションで、もう少し早めにこうなってほしかったと思った。今年はスキー歴60年、はじめて滑りにいかなかったシーズンとなってしまった。去年まではなんとしても這ってでもゲレンデに立つという課題を自分に課していた。今年は「古典」が新体制になった初めてのコンサートでもあり、大事を取っての我慢。幸い古典の再出発は成功裏に終わり、これで持続できる目処がついた。新しい事務所と会計さんの努力の賜物であり、メンバーも張り切っているので老兵は去りゆくのみ、私は安心して引退できる

スキーの先生と話をしていたら、なにか来年もできそうな気がしてきた。何よりも膝さえ痛くなければ初心者むきゲレンデだったら十分に行けそうなので、頑張ってみようと思った。それには膝の痛みを出さないこと。ここ数年筋トレに励んできた。もしかしたらそれが元凶だったのかもしれない。私の性格上なんでもやりすぎる。痛い膝を無理に動かして筋肉をつけようとしていたのかも。nekotamaさんはたぶんやり過ぎ。俺だってそんなには筋トレやらないもん、とか先生は言う。毎日のあの努力は何だったのかしら。そういえば整形外科のリハビリを見ているとイライラした。

なぜかというと皆さんベッドに寝たまま療法士のなすがまま、手足を動かしてもらっている。私だけガツガツと歩いたり階段を登り降りしたり。スクワット一日30回とかやって寝る前に手足ブルブルゴキブリ体操、太腿の筋トレなどなど、暇さえあればやっていた。それでも筋力はさほどつかず、逆に目が覚めたときにすぐに歩けなかったりしたものだった。今は椅子に座って貧乏ゆすりを時々するだけ。それでも体重の管理をすれば痛みもなく歩けることが判明した。ようし、来年こそはスキーヤーとして不死鳥のように蘇ろう。

ここに来て生活の見直しができてラッキーだった。胃腸の不調もスッキリと治った。猫たち(実はノラが家族の一員となった)とのんびり楽しく暮らそう。食べ過ぎの弊害がこれほどのものだとは思わなかった。不足を心配するより過剰をセーブすることの大切さを学んでもいまだ悟りが開けない。今日も早速全快祝いにケーキを食べる。これさえなければねえ。










2024年3月22日金曜日

治癒

今朝目が覚めたとき、昨日までの体調とは明らかに違うことに気がついた。「あ、治った」そう感じた。 体の中から力が湧いてくる。背筋がシャンと伸ばせる。

昨日はまだコロナが私の鼻腔の中にわずかに残っていると感じていたから、何処ぞの病院で治療を受けねばと病院を探していた。19日の午前中、眼瞼下垂手術のために抗体検査を受けて陽性の診断がくだされた。けれど病院側はコロナ患者が自分の病院にとどまることを恐れて現場での検査結果を直接本人に言わない。これは上手く考えたもので、もし結果が陽性ならばその場で患者は入院を希望すると思う。患者を受け入れたくないので本人が帰宅してから電話で結果を報告するという姑息な手段が取られているのだ。

私は自覚症状が軽かったので花粉症くらいにしか思っていなかった。帰宅したら留守電に医師からの報告、すぐに折り返したら陽性を告げられた。一体その治療はどうしたものかとぼんやり考えてもわからない。その病院にいればすぐに診察が申し込めたのにと恨めしい。

とにかく次の日に「古典」の会合があって準備をしなければいけないので、どうしたものか。合奏団のメンバーに相談をしていろいろ考えた結果、やはり中止となった。そのままベッドに倒れ込んでぐっすりと眠る。寝ても寝ても起きていられないほどの眠気に襲われた。たまに目が覚めても水分の補給のみ。食欲はまったくないものの食べないといけないと思ってきゅうりをかじってまた寝る。今朝、珍しくココアが飲みたいと思った。甘いココアは喉に優しく落ちてゆく。そしてふと思った。「治った」

昨日検査や治療を受けようと医療機関に電話してみた。ネットでPCR検査をしてくれるところを探して治療の相談をするともはやコロナでは儲からないと思ったのかけんもほろろの対応。明らかに院長らしき女性が拒絶の気配濃厚で来るなという。何をしたいのか、うちでは治療をしていないからと。それでも医者ですか?

それではと高齢者医療保険の役所に電話してみた。すると身近な区役所に相談しろと。そして最後に救急医療センターへとたらい回し。そこで自宅住所を言って近隣で治療が受けられるか、せめて自分がそのような状態なのか知りたいと思った。すると自宅付近のクリニックでコロナの治療をしてくれる病院を探してくれた。

その中の一つが我が家から徒歩5分、先月初めて診察をしてもらった病院だった。その時初めて会った医師は初対面だったけれど、なんという良い人だろうという印象だった。髪はボサボサ飾り気のない風采の男性医師、しっかりと話しを聞いてくれた上、私が足を引きずっているのを目ざとく見つけて事情を聞くなど、鋭い観察眼があった。何よりもその先生自身がとても幸せそうな表情なのだ。こんな医者は初めて見た。

その病院を教えてくれた役所の人に思わず「ああ、良かった」と私はお礼をいった。すぐに電話で相談するとテキパキとした看護婦が対応してくれて私の杞憂はすべて吹き飛んだ。私の症状からみて軽症だしもう治りかけている、だから今から5日間過ごせばもう大丈夫と言われてすべての心配は吹き飛んだ。最後にちょっと怖い声で「でもやたらにウロウロしてはいけませんよ」釘を刺された。

それで今日はまだその待機期間だから表には出られない。具合の悪いときにはいくらでも眠れたのにもう眠るのも飽きた。食料は差し入れが多かったからまだ十分に備蓄がある。いい気になって食べると体重が増えてしまうから未だにダイエット中。なにもすることがない。狭い家の中を檻の中の熊のように歩いたりして動物園の檻の中の猛獣たちに同情の念を抱いた。

しかし年齢が高くなってから良い医者に会えたのが私の強運の賜。本当にこの先生にホームドクターになってもらおう。聞けばコロナ患者を受け入れるのを躊躇う病院がほとんどだったのにこの病院では受け入れてくれたそうなのだ。

今日は本当に気分が良く久しぶりにコーヒーが飲みたいと思ったけれど見当たらない。もうジタバタして禁断症状と戦っている。いつもなら夕方ふらりと近所のカフェに出かけるのに出られない。自由自在に出入りを繰り返している我が家の野良猫が羨ましい。








2024年3月20日水曜日

矢でも鉄砲でも・・持ってこないで

コンサートのあとのホッとした気分とこれで終わってしまったという喪失感がないまぜになって起き上がる気力もなく毎日眠り続けて気がつくともう一週間が過ぎた。咳が出るけれど殆ど眠っていたので喉の痛みもない。どうやったらこんなに眠れるのかと思うほどの深い眠りに落ちては浮かび上がりまた落ちてゆく。

その間時々夢を見る。ギリシャ神話に出てくるような不思議な人物と動物。今まで絵でも見たこともない想像上の遥か上を行く情景。私の脳みその中にこんな者たちが住みついていようとは。一瞬で高く舞い上がって消えてしまったけれど、脳裏に焼き付いている。これは私の体験からくるものではなく、もともとヒトの遺伝子かなにかに組み込まれていたものなのか、それとも覚えていないだけで幼少の頃本の挿絵で見たものなのか。

うつらうつらとしていたら1週間が過ぎ、申し込んでいた眼瞼下垂の手術を受ける日が近づいた。北里研究所病院の形成外科で明日からの予定だった。長年長時間、楽譜を読んでいると目のコンディションは非常に能率に影響する。最近なんだか世の中が鬱陶しく見えると思っていたらどうもまぶたが下がってきているらしい。鏡を見ると昔はバンビのようだった大きな目が約半分の大きさになっていた。北里研究所病院で指摘されて初めて気がついた。これ上げると楽ですよ、クリンと金属製の器具で瞼を持ち上げられると、あった!もとの目玉が半分。そして世の中急に明るくなった。

見えにくいと頭も重くなる。集中力も下がる。とりわけ最近は脳みそにも曇りがかかっているからダブル効果のパンチ。練習時間も短くなってきた。それならやってみようかな。新しもの好きな私はちょうどコンサートが終わることだからとスキマ時間に手術を受けることにした。昨日は手術前の最終段階、最後の抗原検査だった。そしてコロナ感染が発覚した。

1週間近くひたすら眠いだけでよく聞くコロナの症状もなく頭も痛くない。流石に眠ってばかりだから食欲もない。いつもこういうときに助けてくれる友人がすぐに駆けつけてくれて、高カロリーの栄養補助の缶詰を届けてくれた。やれやれありがたい。これを飲んでは眠り眠っては飲む。しかし人がこんなに長時間眠れるとは知らなかった。こんなに食べずにいてもお腹もすかないというのは生まれて初めての体験だった。

手術は即中止。本当は今頃「古典」の仲間が我が家に集まって大いに盛り上がる予定だったけれど、それも中止。そして今一人寂しくパソコンに向かっているという悲しい状況。明日は病院に入院して猫も何もかもほったらかして眠りたいだけ眠るつもりだった。

最近の世界的な気候変動の激しさ、異常気象に振り回されていることなどが我が身にも影響しているとしか思われない。今まではほとんどいいことばかり、安穏と人生を歩んできたのにどうもそうもいかなくなってきたようだ。身近な人に対する不信感や憤りなどは私の人生にはなかった。しかし、そんな呑気な状況ではなくなってきているようだ。

嬉しいことと悔しさ悲しみの間の落差が大きくなったような気がする。これは年寄りにはちときつい。激動の人生を送ってきてやれやれホッと一息、これからはのんびりと北軽井沢でイングリッシュガーデン作りに励もうとしていたのに。こうなったら矢でも鉄砲でもと言いたいところだけれど、矢はもうたくさん。コロナさんも早くお引き取りいただきたい。

今朝目が覚めると気分が明らかに良くなっている。なにかひとくち食べたいとは思っていても寝てばかりいるのだからうっかりすると消化不良になる。気をつけないといけない。朝はサプリメントのグリーンスムージーにチアシードという不思議な種子を食べる。グリーンスムージーは大さじ一杯でレタス2個分の繊維質がとれるらしい。チアシードは南米産の植物の種を水で溶くと30分ほどでヌルヌルしたゼリー状のものに変わり、それを食塩、レモン汁等と混ぜて飲むと体内ではできないオメガ脂肪酸に変わるとか。

そして昼食時何が食べたいかと言ったら「きゅうり」無性にきゅうりが食べたい。野菜室にきゅうりは6本、3本を塩麹の液体につけてほんの5分、食べ始めたら止まらない。こんなにも水分が欲しかったのかと思うくらい水分を欲していたことに気がついた。ぺろりと平らげあとの3本を漬ける。しばらくしてその3本も平らげてしまった。今日の昼食はきゅうり6本でした。

徐々に気分は良くなっておそらく体内のコロナは絶命しているのではと思うのでPCR検査を受けに行ってこようと思う。しかしながら相手はあの「コロナ」だから迂闊に出歩けない。クリニックをネット検索してやってくれる病院がみつかった。はやく陰性になってくれないと散歩にも行けない。

近所に住む友人と姉から差し入れが届く。気配りのきいた食料が入っていて感謝ではあるがなにせ一人で食べるのでは多すぎる。今日も自分で作っておいた煮物を食べきれず小分けにして冷凍したばかり。「コロナ」のお陰で優雅な休養生活ができて美味しいものが食べられてなにか筋書き通りの休養生活になった気がする。重症ではなかったので症状は眠いだけ、食べられなかったのは睡眠に食欲が勝てなかったから。たべないでいたら体重が減って膝の痛みがなくなった。良かった良かった。






2024年3月16日土曜日

眠りから覚めて

 遥かに以前のことのように思える古典のコンサート、まだ1週間にもならないほどの経過だけれど様々な評判が聞こえてきた。

まだ今日も胃袋にはなにも入っていないけれどレッスンに訪れる生徒が部屋に入ってくるなり皆一様にニコニコと笑っている。ああ、聴きに来てくれたのね、ありがとう!「本当に良かったです、ヴァイオリンの音が素敵だった」皆山中さんの音が大いに気に入っているようだ。その中のいつもは物静かな男性も満面の笑顔。どうやらお世辞抜きで本当に良かったようだ。

良かったでしょう?本当に素敵な音よね。私も自分のことのように嬉しい。テレマンの幻想曲の評判が良くて静けさの中にりんとした筋の通った演奏が「鳥肌モノ」「禅のよう」「居合抜き」などなぜか日本の武道のような捉えられ方をされているのが印象深かった。なるほど、山中さんは日頃から物静かで大きな声を出しているのを見たことがない。弓の先から下まで神経の研ぎ澄まされた奏法は日本刀の扱いにも似ているかもしれない。ふーむ、古武道とヨーロッパの古典とコラボできるか・・・なんて

いろいろな意見の中でも面白かったのは、ブランデンブルク協奏曲をチェロ以外の楽器が立って演奏したので、その身長差が見ものだったという意見。今回は特に年齢の若い女性が入ってかなり身長が高い。スラリと伸びた手足、小顔でその先に行くと私と同年代のメンバーは小柄、その先はもう少し大きく私に至ると立っているのか座っているのかわからないくらい小さくて、その曲線が面白かったと。

まあ、同じ犬でも犬種によって大きさがあれほど違うのだから人間もそのくらい違っても不思議はない。

その曲線は戦後の時代背景よというと、なるほどと相手が答える。私と同年代は戦後の最悪の食糧事情、親の体力も限界だった頃の生まれ。すぐに戦後から日本人の背は伸び始める。私ももう少しあとに産まれればあと10センチは大きくなれたかも。しかいこの小さな体でヴィオラまでひけるんだぞ、どうだ偉いだろう!いや、どう見てもあなたがヴィオラを弾いているというよりもヴィオラがあなたを支えていると言うほうがあたっている。なにお、このべらぼうめ!

べらぼうというのはもともとはへらぼうと言うのだそうですよ。私が最近買った古今亭志ん朝師匠のCDでも言ってますよ。昔の大工さんはヘラの上で糊の代わりにご飯粒を潰して使っていたそうで、飯を潰すで轂を潰す、それで役立たずの職人のことを穀つぶし、へらぼうめというところをそれでは喧嘩にならないからべらぼうになったという。この説明を志ん朝師匠が説明するとどうしてこんなにも面白いのか。声を出して笑ってしまう。志ん朝さんは落語会のモーツアルト=天才ですなあ。

そうそう、単純なテレマンの楽曲が見事な曲になるか、ただの短いつまらない曲になるかはあなた次第・・ということなのですよ、ね。

さてまた寝るか。それではまた明日。














2024年3月15日金曜日

古典音楽協会新たな旅立ち

第165回古典音楽協会は新しい体制になってこの日を迎えた。

メンバーはヴァイオリンが3人、ヴィオラに一人の新メンバー、年齢もかなり若返った。中でもnekotamaは最年長になり今年最後のご奉仕となる。今回のコンサートで隣に座ってくれたのは私の元生徒。5歳の時からうちに来て、キャッキャと楽しげにヴァイオリンで遊んでいた子。楽しさが嵩じてついにプロになってしまった。いつでもニコニコ穏やかで背丈もスラっと伸び華やかさもあって、メンバーともすぐに打ち解けた。こんな幸せなことはない。

コンサート当日は天気予報がとんでもなく嫌な情報を流していた。夜になると関東地方に暴風雨が吹き荒れるとか。お客さまの中にも事前に断りを入れてくる人もいるくらいだった。もし酷い天気だったら行かれないかもと。しかし心配するほどのこともなく、群馬県の友人もお祝いに駆けつけてくれた。

まずカール・シュターミッツの「オーケストラカルテット」のびのびと快活なこの曲を以前から私は温めていた。新しいメンバーになったら第一曲はこの曲と。コンサートマスターは本当に素晴らしいテンポを出してくれて一同心地よく演奏することができた。なんて素敵な心地よさ。空を飛んでいるようだわ。

次はヴィヴァルディの「調和の霊感」から二曲、オーボエとヴァイオリンの協奏曲、短くて明るい曲、そして次は、これは今回の目玉と思うテレマンのソロ幻想曲。短いけれど無限の広がりを感じるこの曲を山中光さんは静かに心に染み入るように演奏してくださった。短いというだけでこの曲をバカにする人もいたけれど、とんでもない、短いし音が単純であってもこのように美しく弾ける人にはこんなに名曲になるという見本。

そして後半の目玉はチェンバロのソロ。「古典」ではいつも協奏曲でしか聞かれないチェンバロを客席で聴くとよく聞き取れないという意見が多かったので、思い切ってソロ楽器として演奏してもらうことにした。チェンバロは楽器自体も美しい。装飾が施され蓋の裏にも絵が描かれている。曲は「調子の良い鍛冶屋」の名前で知られている楽章の入っている「組曲第5番」

私の学齢前、兄弟たちが学校に行ってしまうと広い家はガランとしてとても寂しくなる。縁側に手回しの蓄音機がおいてあって、皮表紙のレコードアルバムがあった。その中から毎日お気に入りの曲を聞いたものだった。特に調子の良い鍛冶屋は何回も何回も聴いたものだった。こんな不思議な音のする楽器ってどんなものだろうか。しかし私にとってはチェンバロよりもハイフェッツのヴァイオリンのほうがより魅力的だったようでヴァイオリン弾きになってしまったけれど。

今までの「古典」の演奏会ではチェンバロはステージ奥に置かれよく見えなかったと思うけれど、今回はステージの真ん中で粛然とその優雅な姿を見せている。演奏が始まるとやはりこの曲を弾いてもらってよかったと思った。おなじみの鍛冶屋さんのメロディーが始まると楽屋にも「ああ、この曲」という声がした。皆さん他の楽器のことはよく知らないけれど、この曲は学校の教科書にも乗っているのではないかと思うくらい親しまれている。装飾音のたくさんついたジャラジャラという音が心の奥をくすぐられているようで心地よい。私は大満足。家の縁側で聞くよりもずっと素敵だわ。

最後はチェンバロをステージの片側に寄せて「ブランデンブルク協奏曲第3番」を演奏。椅子が片付けられているため、最後の曲は全員立って弾くことになった。やはり立って弾くのはとても弾きやすい。今回の演奏会は皆の熱気が強く今まで演奏した中での最高の喜びになった。

とまあ、演奏会は良かったものの、終わってみたら酷い気分の悪さ、ロビーでお客様と立ち話をしていても、果たして自分は家に帰れるだろうかといった状態だった。楽器2つとたくさん頂いた花束などを車に積んで家路をたどりようやく家に転がり込んでベッドに倒れ込んで、ほぼ3日間ものも食べずに眠り込んだ。ときたま目を覚ますと珍しく猫たちもおとなしい。飼い主の異変を気ずいているような。しかし良くもこんなに眠れるものかと感心するくらい全く起き上がれない。人生の疲れがどっと出たらしい。

今日三日目、ようやく起き上がってこれを作成中。初めてなにか食べようという気が起きてきたので、フレンチトーストを食べようかと準備して卵とミルクが食パンに染み入るのを待っている。軽井沢には素敵に美味しいフレンチトーストが食べられるカフェがある。なんだか遠い昔だったような気がするくらい今回のコンサートの準備に没頭していたようだ。素晴らしい仲間が増えて演奏はバリバリに向上したし、これで私も思い残すことなく引退できる。

今後の「古典」を皆さんよろしく見守って頂きたいと思います。





2024年2月28日水曜日

続々と教え子たちが

最近私の身辺はにぎやか。準備が整って新生「古典」の最初の定期演奏会がまもなく開かれる。長い間の闇から抜け出して本番が実現した裏にはメンバーたちの聞くも涙の物語があって、本当にご苦労様でした。しかし序の口が良くても継続するにはもっと大変なエネルギーを必要とする。この先、誰がそれを支えていけるかが重要になる。

それでもやっと無事に演奏会が開かれる見込みができたことで私の気持ちはぐっと上がった。そしてやっと笑顔が出てくるようになった。ニコリともせずいつも暗い顔をしていた頃、人はやはり気まずい思いで私を遠巻きにいていた。気楽に話しかけるのも怖いので恐る恐るというように。

今年に入ってから声を出して笑えるようになった。以前はいつもコロコロと笑っていたのに笑い方を忘れてしまったかのように塞ぎ込んでいた私は、人生の最後のときにつまらないことになってしまったこと、それが私の人を見る目のなさを暴露するものであり、それによって残り僅かな人生が寂しいことになってしまったという後悔や悲しさで毎日胸が痛んでいた。家にこもり猫と二人っきり、もうこのまま沈んでいこうかとも。

それがやっと目の前が開けて前進する気持ちが生まれてきたことは、周りのひとたち、特に「古典」の一部の頑張り屋さんたちのお陰とそれを喜んでくれる友人たち、そしていつもに変わらず私のもとに集まってくれる教え子たちのおかげと言って良い。ごく少数だけれど長年我が家を訪れてくれている生徒の一部でアンサンブル結成の気運が芽生えてきた。今はまだ3人だけでも将来は弦楽アンサンブルの発表会ができたら嬉しい。

私の機嫌が良くなったので生徒たちがホッとして余裕ができたらしい。ちいさな曲を合奏してもらったら・・・それがいい音するのよ。彼らに長年、音は力ずくで出すものではないということを教えてきた。響きを殺してはいけない、無駄な力はナンセンスというと不思議そうな顔をしていた彼らも、今では響く音がいかに遠くに届くか、増幅された音がどれほど美しいかをよく理解するようになった。これからが楽しみ。

午前、午後、と個人レッスンやアンサンブルを教えたら、夕方には音楽教室で以前教えていた生徒たちがやってきてビールを飲み始めた。楽器のこと、音楽のこと、他のグループでの活動など話題は尽きず。千客万来は大げさだけれど、この2年間塞がっていた私の心に合わせるように沈んでいた生徒たちも開放されて久しぶりに楽しい時を過ごした。

やっと抜けた暗い道の向こうに穏やかな夕暮れの光が見えるように明るい気分にさせられた。ありがとうみんな。あなた達が私の行方を照らしてくれているのよ。

心は明るくなっても足の状態は一向に良くならない。このままだとステージでも足を引きずって歩くというみっともないことになりかねない。去年1年間ご無沙汰していた高周波振動による施術室に治療を受けに行くことにした。久しぶりの治療を受けて先生とお話してやっと希望が持てるように感じた。たった一回の施術で椅子から立ち上がったあとあるきはじめるのが困難だった足の具合が見違えるようにスムーズになった。もう2.3回は治療が必要かもしれないけれど、なんとか3月12日の大事なコンサートには間に合う。よかった。

今朝目が覚めると、昨日の夜薬を飲まなくてもは足が攣らなかったし、歩きはじめにもたつくこともないことに気がついた。なんとか大事な日に間に合うようだ。残念なことにドレスに合ったハイヒールはもう履くのは無理なようでぺったんこのサンダルを履くことになると思うと憂鬱なのです。もう少しおしゃれをしていたいのに。











2024年2月25日日曜日

新メンバーによる練習が始まった。

 最近まで異常に暖かい日が続いたので足の痛みはさほどでもなかった。しかしここ数日は急転直下冬日に戻ってしまった。春分過ぎての寒さはこたえる。春先のウキウキ気分に水をさされて浮き立った気持ちが一気にしぼむ。足は以前にもまして痛みが激しい。椅子から立ち上がってあるき出すまでがつらい。歩きはじめて5分ほどで普通の状態に戻る。

「古典音楽協会」の新メンバーによる初めての定期演奏会の練習は着々と進んでいる。いずれ劣らぬ腕利き揃いで一回目から生きの良い演奏となった。ヴァイオリンは半分は新人で年齢が下がったからテンポも軽快で心地よい。コンサートマスターの山中さんは非常に端正な演奏で知られている。立ち居振る舞いもどこまでも上品なので「殿」の呼び名がついている。

そして中程には古くからのメンバーが安定感を見せている。最後はフレッシュな新人としんがりは最高齢の私。セカンドヴァイオリンの末席に陣取っているのは、最後のブランデンブルク協奏曲3番でヴィオラを演奏するときに都合が良いから。

「古典」ではブランデンの3番を演奏するときには私はヴィオラ弾きになる。これは角道さんがコンマスだった頃からのことだった。ヴァイオリンとヴィオラのパートが3つに別れているこの曲はヴァイオリンが7人いる場合、ソロとトゥッティが3組、そうすると一人余ってしまう。そして貧乏な我が楽団はエキストラを頼む余裕がない。一人足りないヴィオラパートにその余ったヴァイオリンを一人回す。だから誰かがこの時だけはヴァイオリンとヴィオラを弾けばヴィオラのエキストラを頼まなくてもすむ。経費が安上りということでずっと私がヴィオラパートに回っていたのだ。

ヴィオラ大好きな私は喜んでヴィオラを引き受けるけれど、実は一つの演奏会でヴァイオリンとヴィオラを弾くのは難しい。まず楽器の大きさが違う。しかも私は人間の中でもかなり小柄であり、ヴァイオリンより一回り大きい楽器に移るのは音程や音色の面からもとてもむずかしい。私がヴィオラを弾いているのかヴィオラが私をぶら下げているのか見た目非常におかしな図柄になるのだ。

楽器が大きくなるから左手で音程を取るのも少し幅が広くなる。ヴァイオリンと同じ指のサイズでは音程が低くなってしまう。それを曲と曲の合間に調整できないとぶら下がった音程となってしまう。一度それで失敗したことがあった。プログラムを最初に組んだとき、ヴァイオリンの演奏をして次にピアノの独奏を入れて指馴らしをしてからヴィオラの演奏をするつもりがで組んだのに、ピアニストのわがままでヴァイオリンとヴィオラを連続する羽目になった。後で動画で聴いたら最初の楽章はものすごく音程が低くてがっかり。次第に音程が合ってきたけれど非常に恥かしかった。音程がいつも決まっているピアノとはわけが違うことをピアニストに知ってもらいたい。

今回は間にチェンバロのソロが入るので十分な調整時間が取れてありがたい。練習はいつも楽しい。どんなに難しくても演奏の解釈が違って意見が別れても、まとまってくると本当にいい音がする。その時が至福のとき。私は足が痛くて演奏が終わったあと椅子から立ち上がれるかどうかが目下の試練なのだ。ぐちをこぼしていたらブランデンブルク協奏曲3番の演奏は最初から立って演奏できることになった。チェロ以外の弦楽器は全員チーター(楽隊用語で立って演奏すること)

それで思い出したけれど私が今よりずーっと若い頃、生まれて初めてレコードでなく演奏会場でマーラー「交響曲第一番 巨人」を聞いたときのこと。ずらりと並ぶホルンの数の多さにびっくり。しかもその後ホルン族がいきなり起立して無数の角笛がなるように一斉にスタンドプレー、なんと格好の良い、なんと素敵な・・・それ以来私はマーラーが大好きになった。コントラバスが一人で演奏するのを初めて聴いたのもその時のこと。

そこから半世紀以上、まだステージで演奏していられる幸せを噛み締めている。さすがに足が悪くて椅子から立ち上がれなくては様にならない。今年の秋の定期演奏会が私の最後のステージになっても思い残すことは全くない。私ごときのレベルの演奏家としては十分すぎるほどの数をこなした。その間ずっと聴いて支えてくださった方々、ともに演奏した仲間たち、その中には身に余るほどの名手たちも含まれているけれど一言「感謝」の文字しかない。

思えば私は音楽家になるつもりは全く無くヴァイオリンはおもちゃだったはずなのに、その魅力に取りつかれアンサンブルの楽しさから逃れるすべもなく魔力に嵌まってしまった。なんてこった!他の人生もあっただろうに。どこで道を間違えたのか。これも私が酷い方向音痴のせいかもしれない。














2024年2月21日水曜日

店頭で転倒

 1月の半ばまでは私の足は絶好調だった。ダイエットの効果もあって膝の痛みは消え、これならスキーに行けるかもしれない。今年のスキースクールは人数が少ないから行かれない?と幹事さんから問い合わせがあったけれど、返事は保留にしておいた。毎日コンディションが変わるので間際まで返事ができない。

しかし何事もなく、それでは行くと返事をしようかと思っていたらその前日いきなり痛みが始まった。結局また痛みがしばらく続き諦めるしかない。そのあと小康状態が続き毎日軽やかに散歩に励んでいたけれど、ここ数日、今までにない痛みが始まって夜明けの足攣りまで仲間入りして大騒ぎ。2日立て続けに足が攣ったのでこれはいかん、やっと病院に行く気になった。

何科に行けばいいのかわからないから家から徒歩5分の病院へ。初めて入った待合室には当然のことながら患者さんがいっぱいいて、ほう、流行っているではないか。表の看板には内科、外科と書いてある。ということは先生は二人いるのかな?病人がたくさんいるけれど診察は早めでサクサク終わる。あまり待たずに名前を呼ばれた。はじめまして、よろしくお願いします。

眼の前にいかにも機嫌良さそうなボサボサ頭の先生が嬉しそうにこちらを見ている。どうしました?「足がたいそう攣ります。なに科に行けばよいかわからないのでこちらで診ていただけるかどうか来てみました」ごきげんな先生は「いい薬があります。有名な薬ですから出しておきましょう。これを夜寝る前に飲んで様子を見てください」と言って処方箋を書いてくださった。

医師で陽気な人はあまりお目にかからないから、この病院がなぜこんなに患者さんが多いのかよくわかった。ここに来ると大抵の痛みは治るのではないかと思う。いかにも町医者らしい一家に一台ほしい医師。家族全員がかかりつけの家庭医。この次からなにかあったらここに来よう。処方箋や領収書も小さくて無駄に紙を使っていない。私は病院へ行ってもあまり長居はしない。自分の訊きたいことだけ聞いたらさっさと帰ろうとして椅子から立ち上がったら目ざとく私の足が良くないことを察して引き止められた。

その瞬間急に専門家の顔をしたのが印象的で、陽気な呑気さがすっと消えた。これはこれは、次回はきちんと足のことを相談してみよう。良い病院が見つかった。しかもこんなに近所で。今までは高層ビルの小綺麗な医院に通っていたけれど、イマイチ不満が残っていた。その日から足が攣っていない。

攣らなくなったので楽になった。少し歩度を伸ばそうと歩いた途中カフェに立ち寄って小休止と思った。入口付近の自転車が邪魔で避けようと思ったらころんだ。転びの天才のわたしは怪我はしないけれど、起き上がろうと思っても自転車やら段差やらでなにもつかまるものがないのでさあ、どうしたものかと思案していた。けれど入り口で人が伸びていたらカフェも営業がやりにくかろう。すると「大丈夫ですか」と上から声がした。

首を回して後ろ上を見ると若い男性が見下ろしている。起こしてくださいとお願いすると片方の手だけ引っ張る。それでは起きられないのよね。すると両脇を支えて起こしてくれた別の男性が。見ると入口付近にきちんとスーツを着たハンサムな男性が四人。あら、素敵!自転車も片付けてくれた。

思わずニコニコ、あちらもニコニコ。今日はいい日だわ。「皆さんありがとう」思わず舞台で挨拶している気になっている自分を見て呆れている自分がいる。こんな無様な瞬間でも演奏家気取り。日本男子も随分進化した。いい子たちね、あなた方は。それにしても気が利かないカフェの店員、と思っていたら帰り際にコーヒーカップを持って立ち上がったら飛んできて下げてくれた。いつもならとぼとぼと返却するためにあるくのに。みんな親切。

帰宅するとお隣の奥さんが訪ねてきた。話題が足の痛みになって、彼女のお孫さんがダンスをやっているので歩き方を教わったら痛みが治った話が出た。つま先を少し外側に向けるようにして歩くといいらしい。早速昨日から始めてみたら調子がいい。なるほど、これは良きことを教わりました。

同世代の仲間が「歳を取るとただ生きていくだけのためにこんなに努力がいるのね」といったのを聞いて、本当にと思った。ただ歩くだけのために歩きかたに気をつけ、筋トレに励み、でないとすぐに痛みや筋力の衰えにつながる。きっと神様がなにも仕事がなくなった老人たちが退屈しないように課題を与えているのだ。でも私はたくさんのやりたいことがあって筋トレだけしているわけにはいかない。

ところが良くしたもので楽器を弾くという行為だけでもそれが筋トレにも健康維持にも繋がっていくのだ。だから仕事はやめないほうがいい。せっかくのんびりと過ごしたいと思っているのにできないのはまだもう少し元気でいるようにとの天の声?仕方がないから生きている限りなんらかの努力は続けないといけないのです。ヤレヤレ














2024年2月9日金曜日

確定申告は苦難の道

毎年ことしこそはと思いながら何回やっても失敗する確定申告。今年はいち早く税務署に行って 夕方にはスッキリと終えてくるつもりだったけれど、結局書類の不備が多すぎて失敗。それでも今まで全然わかっていなかったことがようやくわかったりしたので、急いで家に帰り申告書に記入しようと慌てて税務署を出た。なぜその場で記入しなかったかというと領収書を忘れてきたのでリフォーム会社に支払った金額がわからない。後で書き込もうと思うと忘れるから全部家で一気に書き込みをと勇んで税務署最寄り駅に戻ったら、売店で京都のお菓子を売っていたのでつい立ち寄ってしまった。

京菓子は小さくてきれい。濃いお茶に小皿に数種類のきれいな彩りの小さなお菓子を載せてお客様に差し上げたくなる。

しかし私は不調法者だから決して品良くはできない。たいてい紙皿に紙コップ、熱めのお茶をドボドボと紙コップに注いで食べりゃいいんでしょうてな具合になる。ここのところがガサツでいけない。昔大学の同級生の男性がお茶を煎れてくれたことがあった。飲み終わると口の中にお茶の香りとほのかな甘さが残ってこれが本当のお茶の味なんだと感心させられた。その後もあまり美味しいお茶は飲めなかったけれど、やはり男性の煎れたお茶が美味しかった。どうやら男性の方が女性よりも実際はデリケートなのではないかと思ったしだい。

横道にそれました。それでお菓子を買って帰ったらご飯よりもお菓子が食べたい。税務酒でかなりのストレスを感じていたようだ。なま八ツ橋をガバと4個あっという間に飲み込んだ。しばらくしてやっと夕飯を食べようかと思ってもお菓子が食べたい。私は事務関係の仕事は超絶苦手。眼の前に書類があるだけで胃袋がキュッと締まる。やっと落ち着いたところでさて申告書を開いたら、肝心の提出書類が見当たらない。一体どこへ・・・

ここからまた私のパニックが始まった。半ば金額などが書き込まれた書類、悪い人の手に渡ったらなにをされるかわからない。しかし、駅でお財布を出した以外リュックは中身を出していないから、これは税務署の中に置き忘れたとしか考えられない。もう役所は閉まる時間だから電話はかけても仕方がない。明日朝とりに行くしかない。急になにか食べたくなるのは酷いストレスを感じたからで、これでストレス太りに時々襲われるからダイエットが遅々として進まないのだった。

翌朝税務署へ。落とし物は総務課へというから窓口に向かった。若いキビキビしたお姉さんが対応してくれて事情を話すと「それで?どうしたいのですか」「だから新しい用紙がほしいのよ」「なんの?」「なんのって確定申告の提出用紙」「でもここにあるじゃないですか」「でもそれは一般用だから不動産の用紙がほしいの」「どうして?これにかけるでしょう」「でもそれは一般用でしょう。不動産の申告用紙がほしいの」「でもここに書けばいいじゃないですか」「だってそこにかけるの?」「そうですよ、各々計算してここに両方かけばいいのです。一枚にまとめて提出できます」「へー!そうなの。初めて知ったわ」私の絶叫が部屋中に轟いた。

私は数十年間、不動産と一般の項目を分けて計算したり、あちらの収入を違う方に書いてしまって大慌てで消して祇を真っ黒にしたり、それは忙しかったのだ。両方突き合わせると同じ項目が重複していたりする。それはそれは大変だった。やっとこの年になってすごく簡単なのだと理解したときのショックは大きかった。「で二枚出していたのよ。な~あんだ。」いつも大変だったのだ。キビキビしたお姉さんは最初思っていたよりずっと親切で笑い上戸だった。昼休みになったら同僚たちと笑いながら話すのだろう。「今日来た人がね・・うふふ、何考えているのかしら、考えればわかるのにね。おかしいわねえ」なんて。

時々思う。自分の専門のことには優れた才能を発揮するのに実生活がズブズブという人、才能が偏っていてある分野では天才なのに実生活まるでだめという人と脳みその容量はあまり変わらなくても実生活はバッチリという人はそれで人格が成り立つ。生活感丸出しの人では世の中せわしない。かといって天才でもお金の勘定ができなければ生きていけない。大体のところでうまく釣り合っているらしい。

去年のわたしはすごく収入が多かった。すごい、私はこんなにお金持ちなんだと思っていたら重複して申告した分があったらしい。その御蔭で税金も後期高齢者の介護保険料もものすごく高くて、これでは生きていけないレベル。困っていたけれど、それで原因がわかった。税務署さんは多めに取れるのは何ら問題にもせず、少ないときにはめくじら立てる。こちらは迂闊に物言うと目立つといけないと小さくなっているのに。結局余分なお金を支払っていたのは問題にしてもくれない。今年は正しく計算できそうなので収入は去年とかわらずでも急に貧乏になった。









2024年2月8日木曜日

ノラの言い分

ずっと前から我が家に通ってきたノラ 。とても野良猫とは思えないほどの上品な立ち居振る舞い。毛並みはすべすべとして汚れもない。大声を出さない。ガツガツ食べない。およそ私とは正反対の品の良さ。

どこかで飼われていると思われるのにそれらしい家も見当たらない。やたらに甘えないし意志がはっきりしていてどうやら我が家がお好みらしいということはわかる。かと言ってずっと居付くわけでなく気ままに猫社会の社交生活に参加したいらしい。お腹が空くと帰ってきて満腹になれば少し寝てお友達が迎えに来れば出かける。その都度ドアを開けろとかなにか食べたいとか下女をこき使う。最初のうちは抱っこも嫌がっていたのに、最近は私の膝でつきたてのお餅のようにとろりとなって眠ることもある。重い。

その品の良い野良猫に対してうちのコチャのなんと野蛮なことか!ずっと長い間押し入れで暮らしていた彼女は猫嫌い。玉三郎を始め4匹の猫たちと暮らしていたけれど、コチャは決して仲間として彼らとは接しなかった。彼らを避けるために狭い家の中では押し入れ生活を余儀なくされていた。玉三郎やモヤがなくなってやっと一人になれたコチャはやっと安住の地を得て私に思い切り甘えられる事になった。何という幸せな余生!かと思ったらノラの侵入によってあっけなくストレス倍増、押し入れで思いっきり喚く毎日となった。

可哀想ではあるけれど、いい加減猫社会に溶け込んでほしい。つやつやの毛並みと賢さで人間受けの良いノラと、不器用でボソボソの毛並みのコチャでは勝負あり、ノラはご近所の評判もいい。でもコチャは人目につかないように家から出ない。時々北軽井沢に行くときに車に載せようとケージに入れて外に出すと大きな声を振り絞って鳴く。その声たるや到底猫とは思えないどら声。声を聞いただけで汚い猫がいるようだと思われてしまう。しかしその実態は、可愛いクリクリ目とオオサンショウウオのような斑の毛並みは中々かわいい。それは私だけの基準であっても、この世にたった一人でも彼女を可愛いと思う者がいるだけで素晴らしいニャン生なのだ。すでに腰も曲がり後ろ足に力が入れられないために排泄もままならない私のコチャに幸せあれ!

そして今年はくまさん受難の年、人間も大変、動物とひととの関係が見直されるような時代になったのだろう。昨日のニュースで公園で遊んでいた子どもたちが犬に噛まれて大騒ぎ。犬は最初は尻尾を振って遊び気分だったらしいのに、犬に噛まれたことのある子供が怯えて逃げ出したために追いかけて嚙んだらしい。ひとは怯えると独特の匂いを発すると聞く。その子は最初から犬が怖くて噛まれた経験で余計に怖くなって逃げるという最悪な事になってしまった。普通に飼われている犬はこちらが怯えなければ噛んだりしない。急な動作とか攻撃的な態度を取らなければ普通は大丈夫だけれど、ときには犬だから人にはわからない理由で噛むこともあるのだと思う。

私が多摩川の河原を自転車で走っていたら後ろからシェパードが吠えながら追いかけてきたことがあった。それで自転車を止めて「なあに?」と訪ねたら急に大人しくなってちょっと照れた風でおすわりをする。こちらはもとより犬に用事はなく「じゃあね」と自転車を漕ぎ始めるとまた吠えながら追いかけてくる。何回も同じことを繰り返してはいたけれど他人様のワンちゃんを連れて歩くと誘拐犯に間違われそうだから困った。吠えられてそのまま逃げていたら後ろからガブリとやられていたかもしれない。そのうち飼い主が現れて事なきを得たけれど、犬に追いかけられたらまっすぐに向き合って止まれば良い。大丈夫、ワンちゃんは頭がいいからムダに噛んだりはしない。落ち着いて対応すれば向こうも怯えない。けれど、中には稀に本当にやばいやつもいる。これはひとも同じだからそういう犬にはゆっくりと対応すればいい。けっして怯えたふうを見せないように。

ところがうちのノラは私に抱っこされると噛み付いてくる。甘噛みなんて程度ではなくガブリとおもいッきり。これは参った。ひとに甘やかされた経験が少ない。程度がわからないらしい。それでもこれがノラの精一杯の愛情表現だと思うと叱ることもできない。かみながら顔は優しい。程度をわきまえるように時々コツンとかるくげんこつで叩く。そのうち程度を覚えるだろうと思うけれど、なかなか痛い思いが続く。

人間もそうかもしれない。可愛がられなかった子供が相手の気を引こうとわざわざ悪さをしたり。それも愛情表現がもしれないけれど、人だと困ったことになりかねない。生きるのは大変。猫の場合、くまの気持ち、犬の言い分、人間の立場。一つの世界に密集していると誰が悪いわけではない。








2024年1月2日火曜日

能登を悼む

 暑い夏が始まる前、私はしきりに能登へ行きたいと思った。

しかしその頃石川県は大きな地震に見舞われたので断念、そして秋になり10月1日から高岡市新湊の曳山祭りを見に行くことになった。私は非常に周囲に感化されやすいものと思われる。自分で気がついていないうちに何かでちらっと目にしたことを自然に自分に取り込んでいることが多い。

今年北陸新幹線が福井まで伸びるので、旅行社が目の色を変えて客の呼び込みをしている、それに引っかかったらしい。北陸は今まで日が当たらない場所だった。交通手段が少ない、地味であるので都心からはおいそれと行きにくい。しかし新幹線が福井まで伸びるならかなり行きやすくなる。

それらをいつの間にか目にしていたらしく、今年は春先から蜃気楼や射水市の曳山祭りや能登半島に目の色を変えていた。その前にまだ春先、高岡市の新しく国宝に指定されたお寺も見に行っている。万葉集の記念館にも行っている。なぜか北陸が私を呼んでいるように思えてならなかった。

私の北陸好きは仕事と大いに関係があった。富山へは毎年のようにいった。美味しい行きつけのお寿司屋さんがあって、仕事が終われば仲間たちと毎日のように通った。仕事が終われば朝市でカニを自宅に送って帰宅するとすぐに食べる。魚も米も立山も何もかも好きだった。

去年から今年、私は大変つらい毎日を送っていたことはもうくだくだと言うまい。そのストレスが溜まりに溜まっていた。nekotamaの投稿も滞るほど突き詰めていた。そして時々「ああ、立山が見たい」あの真っ白にそびえ立つ立山連峰。波立つ富山湾の風景が懐かしい。

やや問題に先が見えてきた頃、蜃気楼が見たいと思って富山県人のKさんに尋ねた。蜃気楼はいつ頃出るの?そこから夏の曳山祭りの見物に繋がり、最後に能登半島巡行の話になり、私の能登半島一周の実現となった。それは前から予定されていたかのようにあっという間に実現して、その後の福井県勝山市の平泉寺に繋がった。そして長い間悩まされていた合奏団の新生の問題が見事に解決したのだった。

なにもかも予め決まっていたかのような解決になったのだ。ジグゾーパズルのピースが正しいところに収まるように。宗教的には無神論の私がやはり神様はいるという気持ちになるほどの見事な解決だった。この一連の流れを見ると私は畏敬の念に打たれる。能登の旅は私の人生の締めくくりをつけてくれたというべき出来事だった。

その能登が揺れている。家が壊れている。人が亡くなっている。あんなに明るい日差しの中で見た美しい海が荒れている。悲しみで言葉にならない。私が訪れたとき、10月のそろそろ肌寒くなろうという頃だったのに、暖かく明るかった。コスモスが咲く頃で、この次はコスモスを見に行きたいと思った。その一週間後、平泉寺を見たあとコスモスの群生に出会った。完璧!

やはり筋書きは決まっていたようだ。いつも思う。あとから考えてみるとなにもかも最初から決まっていた道を歩いてきたのだということを。ジタバタせずに静かに心の声に従えばいい。

能登だけではなく、案内をしてくださったKさんも被災者。驚いて連絡したら無事だというのでほっとした。本当に良かった。あのときの美しく穏やかな能登半島は嵐の前の静けさだったのだろうか。あのとき通った道も崩れ落ち、今はどうなっているのか。塩田の作業をしていた男性や稲刈りの人々、みなさん無事でおられるのだろうか。

私の頭の中の能登は幻の白昼夢の記憶のようにしか感じられない。しかし現実はあまりにも無惨で耐えられない。