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2025年1月2日木曜日

箱根駅伝

 超絶美しい富士山。心地よい日差し。そんな平和な朝、学生たちは何を思って苦しい山坂を走るのか。

強豪青山学院大学の最初のランナーが不調で、首位争いに加わるかと思っていたけれどまさかの10位。どこの学校を贔屓にということはないけれど、やはり優勝常連校は気になる。青学は4区までは後ろの方にいたのに終わってみれば首位にいた。往路優勝!ここがすごい。

いつも思うのは監督の余裕の心の広さ。最初のランナーをちょっと睨んで「お前がちゃんと走れば」的な苦言を言っていたけれど、何故か愛情を感じる言い方で心の広さが素晴らしい。言われた生徒も監督の方を向いて叱責を受け止める。監督は失敗はそのまま受け入れてよくできた他の生徒を褒める。これは天性の懐の大きさだと思った。失敗は誰にでも起こる。まして駅伝の厳しさは監督自身が一番良く知っているし。

団体の順位が個人的な記録のトータルで決まるというのは少し残酷なような気がする。個人競技なら自分の調子が悪くても仕方がない、また頑張るさと考えればいいけれど、団体だと、あいつのせいで自分たちがせっかく頑張ったのに負けた・・・なんて思わないかしら。誰でも常に絶好調とは限らない。中央大学の最終ランナーはずっと首位にいたのに、最後の山登りで青学に抜かれた。

終わってから中大監督が思いがけなく晴れやかな顔で、明日も頑張ればと言うようなサバサバしたコメント、昔の監督ならげんこつが飛んだのではと思う。中大の最終ランナーが悪かったのではなく、それほど青学の記録が素晴らしかったのだ。

人はリラックスしたときに最も力が発揮できる。でもリラックスしすぎてもだめで適度な緊張を持続したあとでのリラックスが最強だと思う。

パリオリンピックで兄妹の柔道選手が揃って金メダル獲得の呼び声が高かった。しかし前日テレビで見た競技場を下見に来た妹さんのほうがあまりにものんびりした顔をしていたのでおや?と思った。周囲に悠々とした態度で手を振っていたのでこれはやばい!余裕で勝てると思っているらしい。

ああいうときは事前にギリギリに緊張しておかないといけない。それで少し疲れてよく眠れる。眠らなくても緊張の持続は時間が経つと一度緩むから、そこでリラックス。直前にもう一度緊張が来ても一度経験しているから二回目の緊張は少し緩め。そしていざ勝負というときにはすべて真っ白の中で集中できると、こういうのが一番理想的なんだけど。

例えばコンサートの前に全然緊張しないから、余裕で舞台袖で話したり笑ったりしていると最悪な事態になることが多い。舞台に出ていざ音を出そうとするといきなり体がこわばってしまう。そうなったらもう失敗街道まっしぐら。立ち直れなくなる。柔道の妹さんもそんなことだったのではないかと思うけれど、それでも失敗したことは良い経験と諦めてその後の競技を頑張ってほしい。

なんだかんだ言われても、学生たちは一人でひた走るだけでなく友人たちとの絆を深められるこの競技に魅力を見出していると思う。たった4年の特別な期間、輝かしい時間を共有し燃え尽きても、それは生きる者にとって最高の宝になる。失敗しても苦しくても、できるならやったほうがいい。横からとやかくいうことではない。

と思っていたら、カラコルム・シスバレーに新ルートを見つけるために4度目の挑戦をした登山家のドキュメントをやっていた。これはもう命がけの話で燃え尽きるどころか死を賭してのはなし。

前人未到のシスバレーの空白地帯に新ルートを見つけるために二人の登山家はほぼ垂直の雪の壁を登る。荒い息遣いが聞こえる。その人を上から撮っているカメラマンは同行者なのか、プロのカメラマンなのか。こういうときに登山家よりもカメラマンに驚嘆する。

今でこそ小さいカメラなどが開発されているけれど、そして今回の登頂にもそんなカメラが活躍していると思うけれど、昔は大きなカメラを担いで登山家やスキーヤーと共に上り、あるときは先に登って上から撮る姿が写っていたりすると、カメラマンの方が技術的に上でないとできないのではと思ったりした。

激しい風や雪崩に悩まされながら4回目の挑戦、北東壁のルートを見つけて2日目に下山した二人の山男は大きな肉にかぶりつく。どす黒い顔がところどころ赤黒く焼けて、どちらが誰かわからないほどそっくり。それでも嬉しそうに笑っている顔は可愛い。命がけで登るのはどんな気持ちなのか知りたい。登ったけれど降りるのはもっと難しいと思うのですが。

こうして1日中テレビを見て終わるのが毎年のこと。











2024年2月8日木曜日

ノラの言い分

ずっと前から我が家に通ってきたノラ 。とても野良猫とは思えないほどの上品な立ち居振る舞い。毛並みはすべすべとして汚れもない。大声を出さない。ガツガツ食べない。およそ私とは正反対の品の良さ。

どこかで飼われていると思われるのにそれらしい家も見当たらない。やたらに甘えないし意志がはっきりしていてどうやら我が家がお好みらしいということはわかる。かと言ってずっと居付くわけでなく気ままに猫社会の社交生活に参加したいらしい。お腹が空くと帰ってきて満腹になれば少し寝てお友達が迎えに来れば出かける。その都度ドアを開けろとかなにか食べたいとか下女をこき使う。最初のうちは抱っこも嫌がっていたのに、最近は私の膝でつきたてのお餅のようにとろりとなって眠ることもある。重い。

その品の良い野良猫に対してうちのコチャのなんと野蛮なことか!ずっと長い間押し入れで暮らしていた彼女は猫嫌い。玉三郎を始め4匹の猫たちと暮らしていたけれど、コチャは決して仲間として彼らとは接しなかった。彼らを避けるために狭い家の中では押し入れ生活を余儀なくされていた。玉三郎やモヤがなくなってやっと一人になれたコチャはやっと安住の地を得て私に思い切り甘えられる事になった。何という幸せな余生!かと思ったらノラの侵入によってあっけなくストレス倍増、押し入れで思いっきり喚く毎日となった。

可哀想ではあるけれど、いい加減猫社会に溶け込んでほしい。つやつやの毛並みと賢さで人間受けの良いノラと、不器用でボソボソの毛並みのコチャでは勝負あり、ノラはご近所の評判もいい。でもコチャは人目につかないように家から出ない。時々北軽井沢に行くときに車に載せようとケージに入れて外に出すと大きな声を振り絞って鳴く。その声たるや到底猫とは思えないどら声。声を聞いただけで汚い猫がいるようだと思われてしまう。しかしその実態は、可愛いクリクリ目とオオサンショウウオのような斑の毛並みは中々かわいい。それは私だけの基準であっても、この世にたった一人でも彼女を可愛いと思う者がいるだけで素晴らしいニャン生なのだ。すでに腰も曲がり後ろ足に力が入れられないために排泄もままならない私のコチャに幸せあれ!

そして今年はくまさん受難の年、人間も大変、動物とひととの関係が見直されるような時代になったのだろう。昨日のニュースで公園で遊んでいた子どもたちが犬に噛まれて大騒ぎ。犬は最初は尻尾を振って遊び気分だったらしいのに、犬に噛まれたことのある子供が怯えて逃げ出したために追いかけて嚙んだらしい。ひとは怯えると独特の匂いを発すると聞く。その子は最初から犬が怖くて噛まれた経験で余計に怖くなって逃げるという最悪な事になってしまった。普通に飼われている犬はこちらが怯えなければ噛んだりしない。急な動作とか攻撃的な態度を取らなければ普通は大丈夫だけれど、ときには犬だから人にはわからない理由で噛むこともあるのだと思う。

私が多摩川の河原を自転車で走っていたら後ろからシェパードが吠えながら追いかけてきたことがあった。それで自転車を止めて「なあに?」と訪ねたら急に大人しくなってちょっと照れた風でおすわりをする。こちらはもとより犬に用事はなく「じゃあね」と自転車を漕ぎ始めるとまた吠えながら追いかけてくる。何回も同じことを繰り返してはいたけれど他人様のワンちゃんを連れて歩くと誘拐犯に間違われそうだから困った。吠えられてそのまま逃げていたら後ろからガブリとやられていたかもしれない。そのうち飼い主が現れて事なきを得たけれど、犬に追いかけられたらまっすぐに向き合って止まれば良い。大丈夫、ワンちゃんは頭がいいからムダに噛んだりはしない。落ち着いて対応すれば向こうも怯えない。けれど、中には稀に本当にやばいやつもいる。これはひとも同じだからそういう犬にはゆっくりと対応すればいい。けっして怯えたふうを見せないように。

ところがうちのノラは私に抱っこされると噛み付いてくる。甘噛みなんて程度ではなくガブリとおもいッきり。これは参った。ひとに甘やかされた経験が少ない。程度がわからないらしい。それでもこれがノラの精一杯の愛情表現だと思うと叱ることもできない。かみながら顔は優しい。程度をわきまえるように時々コツンとかるくげんこつで叩く。そのうち程度を覚えるだろうと思うけれど、なかなか痛い思いが続く。

人間もそうかもしれない。可愛がられなかった子供が相手の気を引こうとわざわざ悪さをしたり。それも愛情表現がもしれないけれど、人だと困ったことになりかねない。生きるのは大変。猫の場合、くまの気持ち、犬の言い分、人間の立場。一つの世界に密集していると誰が悪いわけではない。