2026年9月3日木曜日

病み上がりなのに

今日は我々のコンサートの会場練習が行われる日。まだ食べるものもほとんどのどが通らないというのに、一日バイオリンを弾くという初めての挑戦、しかもこの年になって、まあいいでしょう生きている証と思えば。心配は車の運転、慎重の上に慎重に。

風邪薬は昨夜で飲むのをやめたから午後からの外出は影響なし。一番の焦点はそのことで、私の素晴らしい運転経歴に傷がつかないよう祈るのみ。ただいま自動車保険の私のランクは20等級、これは最高の等級なのです。

車がないと私はもはや演奏できない。楽器を持って歩くこともそのほかの荷物をさらに持つなどもってのほか。我が家に執事がいて後ろから捧げ持ってくれるなんてこともないし、本当に今回のコンサートが最後になるとじっかんしている。猫が二匹無駄になついてくるだけでは何の役にも立たない。

その猫二匹、なんだか雲行きが怪しくなってきた。この夏の終わるころ、雌猫のノンちゃんがやたらと遠くを見ながらベランダで張り込んでいる。何かを待ち受けているようで、時には夜中もじっと。家に入らず徹夜で見張っている。時々声を出して誰かを呼ぶようなしぐさ。一日一回は顔を出すものの、時々餌も食べない。そして昨日は夕ご飯のあと、どこかへ行ってしまった。夜中に駐車場で抱っこして家に入れる毎日だったけれど、昨日は深夜になっても戻ってこなかった。

もともと野良猫だからいつかはこうなることを期待していた。彼らが我が家でしか餌を食べないとなると、私はいつも家にいないといけない。外出もましてや旅行もできなくなる。野良だったのだから自分で何とかするとはおもっていても、一度面倒を見たらこちらに責任がある。しかしもう一軒私のような家が見つかったら私の責任は半減する。

本当に心配していた。特にノンちゃんは人なれしない神経質な子で私以外の人には手を触れさせなかった。もしノンちゃんが馴れて餌をもらえる家があれば私は旅行にいけるのです。雲のようにふわふわと何処へでも流れていきたい私にとって、じっとしているのはこの上なくつらい。しばらく海外へも出かけていない。

もしのんちゃんが安心できる家が見つかったら私はどこへ出かけたい。今の私の夢は雲になることなのです。





2026年9月2日水曜日

涼しくなったら

やっと涼しくなってきたら、のどが痛い。風邪気味でだるい。

音楽教室の発表会に向けて弦楽アンサンブルの総仕上げの段階に入る。毎年夏に合宿をしていた。コロナの影響でこの数年いろいろあって、時にはスケジュール変更でばたばたした。越後湯沢や北軽井沢に宿泊してみっちりと練習をして楽しく過ごすというのが恒例だったけれど、その後は都内での宿泊なしの合宿、練習後のビールが楽しみな一日を過ごす、それが定着した。

メンバーがほとんど変わらず、長年の間には結婚や出産、転勤など人生の大きな節目に休んだとしてもまた戻ってくるというような形で維持されている。結成当初からのメンバーのほとんどがいまだに中心になって結束が固い。思えばnekotama家の音楽室から始まったこのアンサンブルの源流。その後渋谷の音楽教室で新たに継続されて、今年で何年目になるのだろうか。

今年はもう一人新しいメンバーが入会予定で、また充実しアンサンブルになることを期待している。今回の都内合宿は本番前の最後から二番目の練習で朝10時から午後4時半までの長丁場だったけれど、簡単なことの繰り返しをいとわず黙々と練習に励むメンバーたち。このコツコツと努力できるというところがこのアンサンブルの最大の長所。

特に今回ハイドンのシンフォニーの「エコー」が曲目と聞いて私は少し困ったなと思った。実は楽譜を見れば実に簡単な譜面ずら、こういうのが一番難しい。時々こういうアンサンブルには腕自慢がいてこんな簡単な曲は退屈とばかりにまじめに取り組まない者もいたけれど、周りの生真面目さに淘汰されてしまって今は超真剣な純粋さが全体を覆っている。

ハイドンの素晴らしいところは純粋な音楽とユーモア、人間的な温かみ、よく知られているのは驚愕シンフォニーのようなものがあるけれど、実際に演奏してみると決してごまかしの効かない厳格さもあり、それこそが彼の音楽の基本ではないかと思う。

そして今やわれらの音楽教室アンサンブルもその神髄をつかむべく練習にいそしんでいるというわけで、今回の都内合宿も無事終了した。終わった後でみんなで食事をするつもりだったけれど、どうも私は妙に具合が悪く先にお暇することにした。

帰宅するまでは気が張っていたらしく無事だったけれど、その先はもうここには書くことができない惨状が待ち受けていた。何が何だかわからないけれど、もはや気分が悪く起き上がれない。ひたすら横になって動けない。次の日近所の病院へ行ったら診断はインフルエンザだった。でもよかった、合宿に穴をあけずに済んで。今日やっと初めての食べ物を口にして三日間の断食終了。

少しはやせたかと思ったけれど、なんだかあまりウエスト周りは緩くならない。これは本当に残念なことで。












2026年8月21日金曜日

自殺未遂

 私はどれほど悲しくてもどれほど悔しくても死にたいと思ったことはない。生きているのがうれしくて死ぬことを考える暇があったら、次はなにをしようかと面白そうなことを考える。

その私が…自殺しそこなったのよ。すべてが粗忽者の自分のせいなんだけど。

数日前のこと、食器を洗っていた。マグカップの底にコーヒーのシミが付いていて取れないから漂白剤をヒュッと一吹きかけておいた。ほかの食器を洗ってちょっとその場を離れて戻ってみると、なみなみと水の入ったマグカップ。ちょうどのどが渇いていたから取り上げて口元までもっていった。そして違和感が!あ、しまった。このマグカップはさっき漂白剤を吹き付けていたものだ。

間一髪、口に含みそうになった水を飲むまいと思ったけれど、すでに遅し。口にほんの少し含んでしまった。踏みとどまろうと思ったけれど、年のせいで反射神経が弱っているから、ちょっとのどを通過してしまった。嫌なにおいと味。でもすぐに大半は吐き出せたと思うけれど、どうしていいかわからないから、とりあえず口を漱いだ。何回も何回も。

そのあと大量に水を飲んで胃液を薄める。これで正解かどうかはわからないけれど、しばらく嫌な焼けるような刺激があって、のどが痛い。飲んだ量はスポイトの一滴くらいだろうから命に別状はないと思った。それでも口の中は、とりわけのどの粘膜は少しヒリヒリし続けた。次の日、声を出すのが少しつらい。けれど今日で三日目だから痛みも消えて、生きている。良かった。

これからこんなことが続くようになると、粗忽で命を落としかねない。死ぬなら苦しまずに死にたい。漂白剤で死ぬのはあまり気分のよさそうな死にざまではない。何よりもおいしくない。

そのうち、北軽井沢で一人で住むことも選択肢の一つなんだけれど、うっかりやの私は誰かがそばについていないと何をしでかすかわからない。例えばあの家で階段から落ちて足を痛めてあるけなくなり、スマホがそばになく外部と連絡も取れないとなったら孤独死しかない。

別荘の管理人さんが自宅のウッドデッキを踏み抜いて足が腿まで入ってしまった話を聞いた。彼女は独り住まいで、すぐに足を引き抜いて事なきを得たけれど、もし足が抜けなかったらデッキで凍死するところだったという。こういう森の中の一軒家は危険がいっぱいだから必ずスマホを持っていたほうがいいですよと助言された。

でもいつでもスマホを持っているとは限らない。例えばトイレのドアが何かの拍子に開かなくなったら、庭に熊が来たら、イノシシが庭の下を流れる小川を伝って現れたら・・・とか自然がいっぱいの森の生活は危険もいっぱい。

私はあまりものをなくすのは惜しまないけれど、若さだけはもう少し残ってほしかったなあと思うのです。体力と気力、戻っておいで!






2026年8月20日木曜日

後悔はあとで

 岸恵子さんが亡くなって一時代が終わった感がある。

本当にきれいな人だった。私はきれいな女性が好きで、自分にないものをたくさん持っている人は常に羨望の的だった。彼女もそういう人だった。ただ美しいだけでなくしっかりと己を確立したまれにみる才女。知性と行動力と情熱と、どれもが私には不足しているものだから、本当に尊敬の的。

私が見た映画は「修善寺物語」なぜか母親と二人で見たのだった。まだ私はそのころ大人未満の年齢だったと思うけれど、内容はともかく岸さんの妖艶さに目を見張った。今脳みその奥からその時の印象を引っ張り出そうとしているけれど、あまり出てこない。しかし全体の雰囲気からの恐怖感、特に彼女の首筋の緊張感がなぜか思い出される。

今朝のモーニングショーでのインタビューの思い出では「私は決心と行動は早い、後悔は…あとから考える」といった言葉。それが彼女の人生のモデルなんだと思う。いいですね、後悔はあとで考えればいいのよね。生きている以上行動するという姿勢が素晴らしい。

私も決心と行動は早いけれど、知性の裏打ちがないから昨日のように失敗する。あまりにも稚拙な行動であったと反省している。今頃になって。でもね、これはコンサートの前だからであって、何も予定がなければちんたらと高速道路を通らずとも、下の道を悠然と走っていたかもしれない。

私は引退を決意したのはもともと最初から80歳になったら引退と決めていたからだった。さすがに80になったら指も動かず脳みそもぐずぐずで役立たずとなっているであろうという見通しだったけれど、いざその年齢になったら、あれ?まだ大丈夫かな?

客観的に見れば本当に大丈夫ではないけれど、自分が許せばなんだってまだ、大丈夫。ついでに周りの皆さんにも我慢していただければまだやっていけるのではないかと。ごめんなさいね。

しかし、今回のプログラムは考えていた以上に重かった。というか、老化の速度が考えている以上に速い。なにかで読んだけれど、80歳を超えた老化は1年間に若いころの3倍の速度で進むのだそうで、さもありなん。実際に進行の速度は思ったよりも早い。去年何でもなかった指が少し強張ってきている。花もしおれかかるとあっという間に枯れてゆく。

それで考えたのは指を使わなければいいのでは?声はまだ出るかも。以前から気になっていたのは誤嚥が頻発した時期があった。のどの筋肉の衰えが始まったらしい。のどを丈夫にする運動などもあるけれど、やってみると実に詰まらない。歌が好きだから声楽を習うことにした。

ヴォイストレーニングを始めよう。コンサートの前は無理だけど、終わったら若い先生が私の面倒を見てくださることになった。若く美しく知性的だそうで、本当に楽しみ。今から時々声を出してみると、夢と現実のはざまでがっかりするけれど、後悔はあとでね。岸恵子さんの言葉が私を力ずけてくれる。

















2026年8月18日火曜日

やっと来たチャンス

朝目が覚めたら素晴らしく気分がよい。目ははっきりと見え、いつも気分が悪い寝起きのなんとさわやかなことか。 午前3時、チャンス到来、この機を待っていた。

今週水曜日に軽井沢でランチの約束をしていた。土日はまあ、避けたほうがよい。けれど今週はアンサンブルの練習も中休みだし、お盆が終わったから道路は渋滞なしであろう。さすがの軽井沢方面も道はすいていると見た。やっと北軽井沢に行ける。うれしくて鼻歌交じりで準備オーケー。天気はここ数日晴天らしい。昨夜の道路交通情報によれば渋滞なし。完璧!

4時には出発できる。冷蔵庫を調べ残り物がないか、ごみはまとめてあるかチェック。外に出ると猫が朝のご挨拶。君たち少し長めの外出だから餌は置いとくけど、明日朝来るお兄さんがくれるまでよそのお家でもらってね。

4時はまだ暗いからもう少し明るくなってから出よう。ふと先日買った楽譜を思い出した。ちょっと目を通しておこう。「ちょっと」が結局3時間。気が付くとおひさまは燦々といかにも暑そう。あわてて交通情報を見直す。やはり渋滞はないけれど、見慣れないマークはこれはなんだ。

電話がつながる時間になったので電話で問い合わせると、怪しいマークは高速道路の落し物の処理とからしい。「特に渋滞の予報は出ていません」と交通情報のお姉さん。しめしめ、なんと幸運な。

ゆったりとした気分で車を出す。一般道も全く渋滞なし。いつもは目も当てられないほど混んでいる環状八号線もあっという間に中央道の交差点まで到着。その前に大体何時ころ到着できるか調べよう。カーナビを点ける。ヒエッ、4時50分?14時の間違えじゃない?いや、数字の後にPMとついている。何回見ても同じ。今10時を回ったところ。この後約7時間。思ったときにはハンドルを切って右折車線へ。その決断の速さが後悔のもと。

自宅にUターン。昔、軽井沢に別荘を持つ友人が13時間かかってもまだ着かなかったといっているのを聞いて、軽井沢イコール渋滞の文字が頭をよぎる。しかし交通情報のお姉さんが渋滞しないって言ったじゃない。路線図にも赤い色は少なかったじゃない。どうしてどうして。でもこの後7時間運転はできない。熱中症にもなりかねない暑さだし、私はもう年だから自信はない。逃げるが勝ち。涼しい家に帰ろう。

明日会う予定の軽井沢のY子さんに電話するとびっくりして「変ですね」という。変なのよね、どこが渋滞なのかしら、でも7時間の運転は無理だからと約束をキャンセルした。帰宅するとすぐ情報を確認、相変わらず高速道路は真っ白だし事故情報もない。やはり軽井沢周辺の観光地がこんでいるのだろう。

ショックですっかり疲れて眠り込んだら、目が覚めたのは午後6時。いくらでも眠れる。近所のスーパーで帰宅途中に買ったトンカツと大きなおにぎりをもさもさと食べる。私は普段はすぐ胃もたれするのにショックを受けたりしたときには馬鹿食いする。そういう時には巨大なエネルギーが作用するらしく、なぜか胃もたれしない。そもそもトンカツなんて1年に数回も食べないのに。

夜、軽井沢のY子さんに電話をした。「変ですねえ、どこが渋滞だったのでしょうね。軽井沢も渋滞はほとんどしていませんけど。あ、もしかしてカーナビの検索条件を一般道優先にしていませんか?」それだ!しまった。重大な早とちり。

自分で自分をなぐりたい。せっかくの1年に何度もない空いた高速道路を走る幸せをのがしたのだ。あそこで急にUターンしなければ、落ち着いて考えれば・・・

すべては私のせっかち及び早とちりに尽きる。そのうかつさで行倒れの人を抱えて「お前は俺?こんな死に方しちまって。死んだのはおれ?するてえと、抱えてるおれはだれなんだ?」落語を思い出しましたよ。今夜は北軽井沢で落語を聞いて笑おうと思っていたのに。

はい、お粗末様でした。









2026年8月16日日曜日

ヘアカラー

久しぶりに髪の毛の色が茶色になった。

しばらくグレーヘアを楽しんでいたけれど、先日美容院へ行ったら衝撃の変色、「いかかがでしょうか」と美容師の Kさんが言うので鏡を見てぎょっとした。髪の毛が茶色になっていた。しかも濃い茶色に赤みががったつやのある、まあ、それはきれいな色だけど、茶色にしてとたのんだことあったかしら?

確かに時々突拍子なく色を変えるから美容師泣かせの客ではあるけれど。そういえばこのところあまり変化がないので「次はベージュ系、ほら、前にずっとそうしていたじゃない。あのきれいな色にして」といったような気がする。それは時々言っていたけれど、こんな変色とは…

そういえば最初に「濃いめでいいですか?」とは聞かれて「いい」とは言ったけれど、一気にここまでやるか!急に髪の毛の色だけ若返って呆然とする自分の顔を鏡で見て絶句した。しかし髪の毛の色で年齢が一気に若返る。それはよく見れば顔のしわや艶のなさですぐばれるけれど、一瞬見ただけではまず白髪は堂々と優先席に座れる。最近ずっと白髪にグレーが定番だった私は「これで電車の席を譲ってもらえないかも」なんてつい嫌味を言ってしまった。

先月はグレーにきれいな青を混ぜてもらったけれど、シャンプーしたらすぐその青が落ちてしまって、それで文句を言ったから今度はなかなか落ちない濃い色にしたのかもしれない。私のようにころころと色を変える客は美容師泣かせ、私が美容師だったら面白がって実験してみるけれど、忙しい彼らには非常に迷惑なのかもしれない。

日頃「思い切って変わった色にしてもいいわよ」なんてけしかけていた手前文句はいえない。けれど急に濃い茶色になったときに、そのことで髪の毛があるという実感がして、なんだか落ち着かない。いやなのは濃い色にすると、その色が落ちてきたときに生え際が目立つことで、ずっとグレーだった最近はすっかりそのことを忘れていた。

一度グレーにしてしまうと、濃い色が頭の上にあるというだけで心が落ち着かない。白髪は表情を優しくする。この猛々しい私でさえも柔和なおばあさんに見えるらしい。最近はスーパーで買い物をしていると店員さんがニコニコと親切にしてくれる。電子マネーでの買い物をするときも、戸惑う私に嫌な顔一つせずにポイントを使う手伝いをしてくれる。

それがこんな艶のある髪の毛では対応がどう変わるかわからない。なんていらぬ心配をしている。

だいたい髪の毛が黒かろうが白かろうが、年齢は姿勢や声のトーンですぐにわかる。若く見られたいなら、姿勢から歩き方声の張りにも気を付けないといけない。それが白髪になるとスッと肩の力が抜けてくる。不思議なことにそうなると気持ちまで優しくなる。

やはり次はもう一度白髪に戻そう。そして人類みな兄弟になろう。トランプ氏も黄色い髪の毛でなく白髪にすればいい。







2026年8月14日金曜日

バレエ

高校時代の同級生にバレエ学校の校長先生がいる。S君という彼は高校~大学での専攻は作曲科。数年前の高校の同窓会で長い年月を経て再会した。

私は音大付属高校の器楽科で、いなかっぺの猿もどき、幼いころから庭のびわの木に登って実をかじり、枝の上に広げた座布団の上で昼寝をする毎日。しかし、わが母校には由緒正しいお家柄の子女があふれている。それで私はなんとなく浮いた存在。私の父母の関心は兄に集中し、私はなんのしつけも受けていない田舎娘。着ているのはお下がりの服、髪の毛もぼさぼさ。

高校の先輩には「あの」美輪明宏さんがいる。だから少し変わっているといっても皆さんエレガントで華やかな雰囲気だった。当時はやりのペチコートで膨らませたスカート履いて瞼が青い女子たち、当時は私はアイシャドウなるものも知らなかったのでびっくりした、そんな同級生がたくさんいて、でも私のようにダサい高校生もいじめられることなく楽しい学園生活を送っていたのだった。

それはわが母校の最高のところで、喧嘩はするかもしれないけれど、意地悪な人はまれだった。要するに陰湿さがなくて明るい校風に助けられて私ものびのびと通学していた。

それで授業の一つに社交ダンスがあったのだ。玉置先生という非常に有名な方が講師として指導されていた。一度に大勢の生徒の指導なのでわかりやすく「はい、大学のほうを向いて。ハイ、次は寮のほうに歩く」とか、そこいら辺の建物を利用したわかりやすいご指導。楽しくはあったけれど、私は手のひらが多汗症でいつもじっとりとしていた。

いつもペアで組んでくれるのは親友のM子さん。でも時々機嫌が悪いと「あなたの手のひらは濡れていて気持ち悪いのよ」と放り出されることがあった。それで相手を探す気力もないので壁の花になって皆のダンスを見ていると、必ず、すっと寄ってきて黙って手を差し伸べてくる人がいた。それがS君だった。

彼はすでにお父様のバレエ学校の後継ぎとして、ステージに立っていたのだと思う。身長差が多分40センチくらいあったかもしれないけれど、リードがうまいので非常に心地よく踊れた。

一番面白かったのは、ドッジボールをして遊ぶと、彼の球のよけ方が素晴らしかった。普通はどたどた走って逃げまわるのに、彼はボールがあたる寸前に両足開脚、まっすくに長い足を一直線に開き跳躍する。ボールは何事もなくかすりもしないで飛んで行ってしまう。それでみなはやんやの大喝采。卒業後かなり経ってから「引退するので最後のステージを見てほしい」というご案内をいただいた。

私は、そのころはオーケストラの仕事やスタジオプレーヤーだったりで目の回る忙しさだった。心惹かれても仕事第一。思えばそんなに仕事ばかりしないで、同級生の引退のステージを見に行くべきだったと悔やんでいる。それがずっと心残りだった。

そしてまた幾年月、80歳の記念同窓会で再会した時にそのことをわびたのだった。すると次のバレエ教室の舞台の招待券をいただいた。ご本人はもう踊らなくなっていたけれど、その生徒たちの踊る姿は、彼の指導の過程がわかるほど、きちんと踊る子供たち、大人たち、プロも交えての姿勢が垣間見られて非常にうれしかった。

そして数日前はバレエ学校の卒業コンサート。会場の駐車場がいっぱいで付近のコインパーキングをうろついて、やっと停められた時は開場時間をだいぶ過ぎてしまった。自分の座席に行かなかったので、ほかの同窓生や校長先生であるS君とも会えなかったけれど、すごくきれいなステージに満足して帰ってきた。

そして今ようやくわかったのは、私が踊れなくて独りぼっちだった時手を差し伸べてくれたように、ほかの学友にもそうしたのだろう。今でも彼は自分の生徒達にそうしているのだろうということ。無口であまり声を聞いたことはなかったけれど、必要な時には黙って手をさしのべる、ああ、すごく良い先生なんだなと初めて納得した。

高校時代の友人たちは私の長い人生の中でも特別な存在で、あの大きな有馬大五郎校長先生の教えが今でも生きているのではないかと思う。母校、大好き!