2010年5月31日月曜日

存在感について

この夏シューベルトのソナタを弾こうと決めて、ピアノの友人と合わせている。2人とも間に旅行を計画していて、一ヶ月は間があくので、今のうちに固めておきたい。私はいつも自分が弾く曲は参考にCDを聴かないことにしているが、今回ピアニストが貸してくれたので、ちょっと聴いてみようかという気になった。一枚はバリバリの若手と思われる2人、もう一枚はチェコのスーク、ピアノはパネンカ。はじめに聴いた若手のものは、非常にテクニックも優れているし、いきが良くて中々良い。しかし続けてスークを聴いたとき、そのあまりの違いに驚かされた。CDにもかかわらず、最初の音から全く違う存在感、風格。スークという人はどちらかといえば、地味な感じと勝手にイメージしていた。何回も生で聴いていたのに、会場が悪かったか、トリオが多かったからか、あまりパッとしない印象が強かった。しかし、彼の最後のコンサート、引退直前に日本で開いたリサイタルを聴きに言った時のことは、今でも鮮明に憶えている。教養の深さ、人格の高潔さ、情の豊かさなどを、感じさせられる素晴らしい演奏だった。音楽は人なり。学問も芸術もすべて人柄を表すものとしたら、彼は人として非常に高みにいると思われる。アイザック スターンを最後に聴いたときも同じだった。若い頃の彼の演奏はあまり好きではなかった。しかし、その時は一切の飾りを捨て去った潔さ、共演者、名チェリストのヨーヨーマがにわかにくすんでしまう気品、存在するだけでひきつけられた。奇を衒い大声を張り上げれば人は注目する。でも、存在そのものが尊敬されるとは・・・・ それは私たちが素晴らしい芸術家に持つ愛。愛するなら、なにも語らなくてもそこに居てくれれば良い。そういうこと?かな?飾って飾って、頂点に達したとき、次は飾りを落としていくしかない。そうやって、飾りを落とし終わったとき、ものの本質があらわれる。そこまで突き詰められる人に対する、尊敬の念を受けられる、数少ない天才が彼らなのでしょう。

2010年5月30日日曜日

弔うチンパンジー

最近ギニアの野生チンパンジーの群れで、母親が死んだ我が子をいつまでも離さないという記事を読んだ。弔いの原点では・・とコメントしたのは、京都大学の松沢教授。そして、カメルーンでも、死んだ雌チンパンジーを弔う仲間の姿が観察されたそうだ。  名前はドロシー。人間に捕まって虐待されていたドロシーは保護センターに保護されたが、虐待で体を壊し、仲間に中々なじめなかった。仲間からもいじめられていたが、2歳のオスの孤児の面倒をみるようになり、やがて仲間にも受け入れられしだいに愛されるようになった。一昨年ドロシーが死ぬと、体をゆすって起こそうとしたり地面に倒れこんで咆哮する仲間たちがいたという。  ドロシーは地元の人々にも愛され、センターは葬式を計画。そこで、思わぬことが起きた。ドロシーを運び出すと、仲間がロープ越しに集まってきた。いつも騒がしい彼らがじっと彼女を見つめ、沈黙をまもり、埋葬がおわるまで一匹も立ち去らなかった。写真にはロープ越しにドロシーをみつめる仲間たちが、整然と並んだ姿が写っている。  今密漁によって、チンパンジーの数は激減しているという。人間の欲望の前に、他の動物の悲劇が繰り返される。快適な生活、美味しい食物、珍しい物への憧れ、多大な欲求を持つことを反省せずにはいられない。チンパンジーは身近ではないが、多くの他の動物の犠牲のうえで生活していることを、忘れてはいけない。涙なくしては読めない記事でした。(東京新聞5月29日号掲載の記事より)

2010年5月28日金曜日

たまさぶろう近況

たまさぶろうも年をとりました。人間なら80歳を超えるらしいです。私のベッドを独占したくて、モヤといつも攻防戦。今はカメラが恐くて退散です。

かわせみ

2日ほど前、いつもの散歩道。桜並木に沿って遊歩道がある。毎日朝1時間ほどカラスや鴨たちとご対面。しかし、いつもは見たことも無い鳥が、サッと水面をかすめたと思ったら、すぐ、岸に上がり口をモグモグ、ゴックン、羽の色は鮮やかなルリ色。わー、きれい。もしかして、貴方はカワセミさんですか?聞いた途端、いきなりピューっとうしろにフンを噴射。(だじゃれといったのはだれじゃ。)せっかく賛嘆の眼差しで見ていたのが、あらまあ。でも、入れたら出す。すばらしい。 先日この桜並木を消毒して回っている役所の人たちがいた。虫なら小鳥とカラスに任せればいいのに。消毒液のかかった虫を食べて、具合が悪くなる小鳥はいないだろうか。なぜ、虫がいてはいけないの。お役所はちゃんと考えて手入れの時期を決めるのだろうか?年2回、うちの前の川の草刈をしてくれるのだが、鴨が子育ての時期にすることがある。作業員は上からの指図で来るのだから、言ってもかわいそうだけど、腹が立つ。鴨達はパッタリ姿が見えなくなったりする。私の姉が「鴨は大丈夫なの?」といったことがあるそうだけれど、黙っていたそうで、そりゃそうだ。言われて来てるだけなんだから。カワセミを見て、カメラを持ってこなかったことを悔やみ、翌朝カメラ持参で出かけたが、そうそう都合良くいくわけはなく、それっきり姿がみえない。きたない川の魚食べてお腹こわしてない?
カワセミさん。

2010年5月27日木曜日

モンスターペアレンツ

テレビでモンスターペアレンツについての放送を見てた。まさかと思っていたけれど、先日家にかかってきた一本の電話から、本当のことかもしれないと思えるようになった。初めてかけてきた女性、お宅でヴァイオリンを教えているかと訊ねて、自分の子供の話しを始めた。最近とんと生徒もいなくなって暇だから、ノンビリと受け答えしていた。       実は自分の子供は小学生で、と始まった。男の子です。専門家にするつもりはない。今、パガニーニの24番弾いています。(パガニーニの有名なカプリスの最後の曲。ラフマニノフの「パガニーニの主題による変奏曲」はこの曲を主題にしたもの。)     ほほう、パガニーニですか。その年で。私などは大学いってからやっと弾きました。    いまや、小学生がパラパラ弾いてのけている。   「それで、先生がですね。出だしの音がどうのこうのうるさく言って、うちの子供がやる気がないと言うのです。やる気がないなら、もうこなくていいといわれました。」  そうそう、私もよく言ったものです。やる気がないなら、お帰りなさい、と。    
「子供は専門家にするつもりはないから、出だしの音を何回も何回も弾かせられるので、閉口して先生を変わろうと思うので、お宅はどうかと思いますが、いかがでしょうか。」  勿論やんわりとお断りした。  あのですねえ、それはとてもよい先生なんですよ。私も出来なければ、何回も弾かせます。それがレッスンというものです。お金を頂戴している以上、相手がプロであろうとアマチュアであろうと、言うべきことは言うのが仕事です。でなければ、レッスンに行く意味がないでしょう。もし将来その子供がプロになりたいと言った時、困らないように、基礎をきっちりと教えるのが良心のある教師といえる。それがいやなら、ヴァイオリンなど弾かないことですね。

2010年5月26日水曜日

名誉教授

次兄の夢を見た。年もいってるし腎臓にガンはあるし、これは吉か凶かと一瞬考えた。なぜ、見たのか?しばらく考えた末、ああそうか。眠る直前に週刊誌を読んでいたんだっけ。土屋賢二さんの「ツチヤの口車」ユーモアたっぷりのエッセイは私のお気に入り。毎週楽しみにしている。彼が大学の名誉教授になったという。名誉教授とは、教授と違って給料も研究室も無く、授業もできないそうなのだ。その後の笑えるフレーズは、果たして著作権上、引用していいものかどうか分からないので控えるが、笑いたければ買うか私に貸してほしいと訴えてください。話しがそれたけれど、次兄が某大学の名誉教授で、偉いものだと思っていたけれど、無収入だったのかあ。チラッと考えたせいだと思う。それで夢に出てきたのね。次兄は子供の時から学問の道に進むしかないと、誰の目からもそう思える程の学問好き。一緒に遊んでいても突然地面にしゃがみこんで、敷石の上で計算を始める変わり者だった。恐ろしく無口なところは私と同じ。字がちょっと違う(六口)私はこちらの方です。40歳くらいで教授になったから、そうとう悪いことをしたに違いない。この前の投稿の鳩山さん。身なりに構わないと言ったが、兄はそれ以上。「その格好で電車に乗ってきたの」 思わず聞くくらいヒドイ身なりで来る。山下清という放浪の画家みたい。さすがにランニングシャツではないが、短パンにサンダルをつっかけて平気で電車に乗るなんざあ、ピアノも弾くお洒落な土屋先生とは大違い。だれが見ても大学の先生とは見えない。私がヴァイオリニストとは見えないように。世の中、見てくれの世界だから損していると思うが、それで、逆にあまり雑音の入らない研究生活ができるのかもしれない。

2010年5月25日火曜日

ハトカンさん。その2

鳩山さんは天才少年で、若くしてオーケストラのコンマスになり、タングルウッド音楽祭でミルシュテインなどと参加。とてもドライな考え方はアメリカ仕込み。よくいえば個人主義的なところが、オーケストラのメンバーからとやかく言われることが多かった。ただ、私とは非常にウマが合うというか、大変可愛がっていただいた。一緒に弾いていると、ああ、なるほど、こうやって弾くものなのか、と、大変勉強になった。布袋様みたいなお腹で、かまわない服装で、安そうなヴァイオリンケースをかかえて、およそコンマスらしからぬ風貌に、見る目のない人たちは馬鹿にした態度をとったけれど、私は尊敬していたので、喜んでコンサートに参加していた。どれだけ演奏したか、もう分からないくらいの回数で、そこで、今の私の基礎が築かれたといっても良いくらい。オーケストラでオペラを弾くときなどは、曲の合間に「ここは今、こんな場面なんだよ」と解説してくださる。飾り気のない性格があだとなって、鼻であしらう人もいたけれど、それなら貴方同じようにやってごらん、と、言ったらできる人はいないと思う。わたしにとっては、大恩人なのです。ところで、鳩山家の引越しにまつわる猫のお話。東京から那覇に転居のため、家に引越し屋さんが来て荷物をまとめている内に、2匹いた飼い猫の1匹が見えなくなってしまった。数日探し回ってあきらめて那覇へついた。新居に着いても荷解きはなかなか出来ない。でも、何かが必要でさがしていると、かすかに猫の声がする。つれてきたもう1匹の猫だと思っていたら、その猫は他の部屋にいる。エッと思って声のする荷物を解いたら、なんと、いなくなった猫がそこに蹲っていた。引越しやさんが恐くて、其処に潜んでいたらしい。奇跡の猫としてニュースにもとりあげられたそうな。基地問題で揺れる沖縄にも、のどかな生活が垣間見られる。

ハトカン(鳩寛)さん。その1

沖縄から手紙がきた。差出人は鳩山寛氏。かつての東京交響楽団のコンサートマスターで、只今おん年87歳。新聞の切り抜きが同封されていた。最近の沖縄の文化についての記事に、懐かしい写真が掲載されていて、感慨深いものがあった。去年仕事で沖縄の名護に行った時、連絡すると、那覇空港に奥様が出迎えてくださった。モノレールで市役所近くのお宅にお邪魔して、ほんのひと時だったけれどお話をして、ご健在を確認してきた。玄関を入るとヴァイオリンの早いパッセージが聞こえてきた。全く指は衰えていない。ただ、足がだいぶ不自由だとのことで、身軽にどこへでも出かける方だったので、お気の毒ではあるけれど、ヴァイオリン弾きは指が動くことがなによりなので、それはそれでお幸せなのではないかと思う。その日は名護に行かなければならないので、バスの時間に合わせて退去したけれど、その後どうしていらっしゃるかなあと思っていたところ、お元気な便りうれしく拝見した。私がオーケストラの入団テストを受けた翌日、まだ合否も分からずオズオズと顔をだすと、まず、鳩山さんから声をかけられた。「いい音だったねえ。楽器はなに?」それで、もしかしたら受かったのかなあ、その次にもう一人のコンマスからも声をかけられて、「とても良いベートーヴェンだったね。」これでやっと安心。それが苦労の始まりとも知らず、大喜びをした。鳩山さんはなにかにつけて目をかけてくださった。当時ハイドンの弦楽四重奏の連続演奏をなさっていて、そこにも参加。そのほかのコンサートにはいつも声をかけていただいた。ところが、オーケストラのメンバーには室内楽の演奏を快く思わない人もいて、当時のインスペクターにはずいぶん意地悪をされたけれど、もともと好きな道、めげずにやっていて、その頃の室内楽仲間にはいまだにお世話になっている。いまだに一緒にやろうと声がかかるのがうれしい。

2010年5月24日月曜日

猫ってやつは

猫って全く役に立たない。夜中に騒いで起こしに来る。起きるまで耳元で、大音声で泣き喚く。トイレの砂をザッザッと音をたててかき回す。冷蔵庫からテーブルへ、テーブルからテレビへとムササビのように飛び移り(部屋が狭いから可能)、妙なうなり声を発する。いつも3時4時、時には2時、一通り気が済むとサッサと寝てしまう。そして5時、メシよこせの大コーラス。飼い主は怒り心頭、毎晩寝不足。5時には怒りながら缶詰を開けているうちに、目が覚めてしまう。もう一眠りと思ってベッドに入っても、もう眠れない。怒っているから。毎朝怒り狂っての目覚め。そして、仕方が無く起きてコーヒーを淹れ、新聞を読み始める。そこで又登場するのが猫。人が読んでいる新聞の向こうから猫の顔がヌッと突き出る。バリバリッと新聞を乗り越えて、こちらに。読んでいるページの上に長々と横になり、お腹を見せて可愛らしいポーズ。一応怒って見せるが、こちらはメロメロ。手をどけ、足を持ち上げて、新聞を読ませていただく。飽きて向こうへ行ってしまうと、やっと読めるとおもいきや、今度は肩越しににゃあと来る。別人(別にゃん)が毛繕いに登場。わざわざすみません。でも、私は猫じゃないから、ちゃんとシャンプーもしてあります。結構です。と言ってお断りしても、やめない。私のお母さんのつもりらしい。他の猫登場。朝かならず抱っこをせがむ猫。抱っこすると私のたっぷり脂肪の詰まったお腹を、両手でもみもみしてくれる。おっぱいをせがむ子猫の行動。エステではないから脂肪はいっこうに減らない。一連の朝のイベントが終了。すると、猫どもはさっさとお休みモード。こちらは寝不足で仕事や家事が待っている。全く猫ってやつらは、ほんとにもう。

2010年5月22日土曜日

蜃気楼のニュース

富山で蜃気楼が現れたとのニュース。今まで富山はずいぶん行ったけれど、蜃気楼にはとんとお目にかかれなかった。あるときなどは、魚津に現地の友人に連れて行ってもらったけれど、一日違いで見られず悔しい思いをした。帰りの飛行機が羽田に着いて、携帯の待ちうけメールを開けた途端、蜃気楼が出ましたとのこと。うなってしまった。いつも、とても運が良く、アラスカのオーロラなども、たった1日居ただけで見えたり、なんとなく晴れ女だったりするのに、その日はだめでした。行いが悪かった?    富山といえば、結構長期滞在で仕事をすることが多かった。ある時、仕事が終わって、仲間と其処かへ飲みに行こうということになり、ふと思いついたのが以前行ったことのある飲み屋。駅前の一角に古い映画館があり、その並びに居酒屋が軒を連ねている。ずいぶん前に行ったので、果たして場所がわかるかしら、それに今でもあるかしらと、危惧しながら歩いてみると、なんのことなく見つかった。やれやれ、座ってあたりを見回していると、「お客さん、前に来たことあるよね」と、ご主人から声をかけられた。「あら、覚えていてくれたの。お久しぶりです」「そう、あれは7年前だったよね。あの時は其処じゃなくて、こっちのカウンターに座ったよね。一緒に来たのは別の人とだったね」   腰を抜かしそうに驚いた。たった1回、いや、実は2回。昼ごはんを食べにはいったら、ヒラメを水槽から出して、さばいて刺身定食。ヒラメのアラと骨の味噌汁。シンプルだけど、とびきり美味しく、又夜来るからと言って、その晩も飲みに行った。それっきり、その後一度もいってないのに、よく、覚えていたものだ。どうやって覚えていられるのか、知りたい。聞いても笑って応えなかったけれど。

2010年5月20日木曜日

動画2枚目

2枚目はもやちゃんです。やっと独りで撮影からブログまで持ってこられました。もやは私が病気のとき、枕辺に座って慰めてくれた、やさしく賢い子です。目が悪く、喘息もちで可哀想なのに、普段はとてもお茶目さん。この画像を見終わると、下に小さなウィンドが出てきます。これは、画像を取り込んだときに一緒についてきてしまったもので、私には全く関係ないものです。どうやって、削除するのかわからないので、そのままにしておきます。

初めての動画

初めて撮ったのがこの動画とも言えないしろものだけど、感激です。こちらの画面は途中人の手(猫のではない)を借りました。中々ひとり立ち出来ないのが情けないけれど、うれしい。

2010年5月18日火曜日

大洪水

朝洗濯機を回し終了の合図。中から洗濯物を取り出していると、足元に水溜りがあるのに気が付いた。猫がこんな所で用足し?叱ろうとしたら、あっという間に水が広がり、付近の床一面に広がってゆく。呆然として見ていると、瞬く間に食器棚の下にしみこんでゆく。わーあ、どうしよう。新聞紙をひろげ、雑巾で拭き、でも、そんなことでは追いつかない。食器棚を持ち上げ下を拭こうと思っていたら、扉が開いて、中から食器が飛びだしガッチャン・・・一番好きなコーヒーカップが欠けてしまった。中を空にするひまも無く水はしみこんでゆく。床下に暖房が入っているので、水は大敵。大丈夫だろうか。ようやくなんとか拭きとって、近くの工務店に行き、事情を話して工事の人に来てもらった。洗濯機の排水口に猫の毛や、爪を研いだ壁紙のはがれた物などが、詰まっていたらしい。猫は自分たちが原因の大騒動を、興味深々、工事のお兄さんを洗濯機の上からながめ、入れ替わり立ち替わり、様子を見にくる。工事の人は猫好きらしく、うしろを振り返ったとたん、洗濯機の上の猫とご対面。すると、鼻を寄せ合って親愛の挨拶をしている。うちの猫達は外に出ないので、外部からの人には警戒新丸出しにするのに、この人を少しも恐がらない。時々そういう人がいる。私の姪にも一人。猫の中でも一番警戒心の強いのが、全く恐れずよっていくので「動物が寄っていくのね」といったら「うん、鳥もくるよ。人も来る」ボソリという。ひどく無口で(私に似て) だれ、「うっそー」なんて言ったのは。 小学校5年生の時、「私は福祉の仕事をする」と言って大学も福祉の勉強、その後イギリスに留学して、今、養護学校で自閉症児と向き合っている。「かわいいよ」と又一言。叔母の私に似てやさしいね。もう1人の姪が「うそだーい」と言うのが目に見える。いやいや、あなたもとてもやさしいけど、口が悪い。誰に似たの?

2010年5月17日月曜日

思い上がり

前の投稿「夢見る元少女」を読み返したら、なんと思い上がりもいいとこ、芸術家だけが幸せみたいになっている。半睡状態で書いたとは言え、いくらなんでもちょっとね。色々な人が居て良いと思うのが芸術の原点なのに。たとえばお金が好きな人が、お金を集めるのだって一種の幸せ。まさに、金の無いやつのひがみ、負け犬の遠吠え。毎日反省ばかりしている。その割には又同じことを繰り返し、進歩がみられない。それは、少しも応えない大雑把な性格だから。ヴァイオリン弾きになるための、決定的な資質が欠けている。それで何故今まで仕事が出来たかというと、出ない釘は打たれないから。突出していない、競争心が少ない、そこそこ真面目である、等、トップにはなれないが、なんとなく周りが存在を許してしまう。一緒に居て気が楽なんでしょう。時々年の功で表に出ると、たいがい失言を繰り返し、周りを怒らせてしまう。でも、本人は悪気で言ったわけではないので、逆切れしてトラブッたりする。まったく、どうしようもない子供大人(こどな)。由来とするところは、大家族で育ったせいではないかと思う。今、問題児と言われる子供たち、核家族が槍玉に上がっている。以前心理学のゼミで、教授がなんでも核家族でくくるので、猛反発をしたことがあった。「大家族にだって、問題はあります」と食い下がって嫌がられた。特に、末っ子はそれだけで病気と言われる。自分でもそう思うことが多いので、それは確かでしょう。大人ばかり相手にしているから、知識も他人の顔色を窺うのも、長けてくる。手厚く庇護されるから、すっかりヤワになっているのに、生意気だし、一人っ子、あるいは長男、長女のように独立心は強くない。人の面倒はみたくない。人から面倒みられたい。でも、束縛はいや。手がつけられません。もしかしたら、私は不幸なの?と、散歩の時考えた。どっちでもいいや。食べ物が美味しいうちは。大雑把な性格は救世主でもあります。

夢見る元少女

夜も更けたというのに眠りたくない。起きていれば楽しみや(勿論心配事だってある)やりたいことがいっぱいあるのに、なぜ、寝なければいけないの。子供の頃、必死で起きていても、あっという間に眠ってしまい、朝、目が覚めると、お布団に地図。そう、おねしょを4年生までしていたつわものは私です。寝付くまえのひと時の楽しみは空想の世界。色々なキャラクターがいっぱいいて、今日はこの人を主人公にしようと決めて、物語を作る。でも、途中で眠ってしまい、次の朝目がさめるとすっかり忘れてしまっている。どこまでが自分のはなしで、どこからが夢だったのか。大人になって、お酒を覚えると、どこからが酔っ払っていたのか、が加わるようになる。多少境界線上にいる自分をながめて危ういと感じるが、どちらかというと、これは幸せなのかもしれない。現実がとてもよく把握出来る人がいる。見ていると取り越し苦労や、生活苦を人一倍感じてしまうのではないのか。「お金がない」「夫と上手くいかない」「子供が心配」「体が思うように動かない」などなど。  うちにはお金もないし、最近仕事もないし子供もいないから、老いさらばえたら独りで生活苦を乗り越え、生きていかなかればいけない。でも、生まれてきたときも独りでどこかから来たのだから、逝くときも独りで行けるでしょう。人間、本当に孤独なもの。だれも、一緒には逝ってくれないから、孤独を楽しいと思えるようにしないと。幸い子供の時から独りが苦にならなかった。 音楽がいつもあったから。気障な言い方だけど、同じだけの生活水準なら、芸術が愛せたなら、幸せ度は天と地ほどの差がある。
早い話がモーツァルトを聴けば、不幸せなんて消えてしまう。(モーツァルトは大変な高給取りだったそうですから、私はその点、彼よりずっと不幸なのかしら)下の句は「それにしても金のほしさよ」にならないよう、さもしい人間にならないように、現実から目をそむけて生きていくのが一番。
こんなこと言ってると、世間からつまはじきだね。

2010年5月15日土曜日

麻布チェチーリア

アマチュアの合唱団でありながら、洗練された歌唱力、力強い声量に感心する。指導者の阿部葉子さん(二期会)の指導力に脱帽。浜離宮朝日ホールでのマチネー。結成10年の記念コンサートのお手伝いに、いつも仲の良い、弦楽アンサンブルの仲間たちと伴奏をした。第3部、ペルゴレージ作曲「スタバートマーテル」(悲しみの聖母) 曲も良いが、合唱もすばらしく、気持ちの良いコンサートとなった。久しぶりに清らかな気分を味わう。 メンバーの一人、コントラバスの富永さん。実は富永さんのお父さんと私たちは、良きアンサンブル仲間であり、スキー仲間、食べ歩き、遊びもよく一緒だった。だが、彼は若くして心臓病で倒れてしまった。私たちが病院のベッドサイドで泣きながら「逝かないで」と呼びかけたのに、ついに帰らぬ人となった。今日一緒に演奏するのは、彼の遺児である八峰君。芸大をでて、立派にオーケストラで活躍している。そして・・・今日がお父さんの10年目の御命日だと言う。合唱団の10周年の記念コンサート、曲は「スタバートマーテル」弦楽合奏は全員お父さんの仲間たち。しかも、始めは彼以外の人が来る予定だったのが、都合で彼になったという。             なにか、深い縁を感じて感無量となった。こんな事ってあるのですね。「お父さんは絶対今日一緒に弾いていたよね」と言うと素直な息子さんは「はい」と言う。お父さんの遺品のコントラバスを、きっと親子で弾いていたのでしょう。音楽にも美術にも抜きん出ていた富永さんの二人の息子さんは、一人は今日一緒だったコントラバス奏者、もう一人は美術の道に進んで、立派に大成しているという。

2010年5月14日金曜日

猫のDNA

本の読み止しのページにはさんでおく紐、本についているあれを一体なんとよぶのでしょうか?
今朝、電車の座席に座っていたら、前に立った人が村上春樹の「1Q84」を読んでいて、その紐が目の前でブラブラゆれていた。うちのたまさぶろうはそうしておくと、必ずじゃれてきて最後には興奮して大変なことになる。部屋飼いの猫だから、ほかに楽しみもないから仕方が無いかと思っている。
ところが、私も急にじゃれたくなった。ムズムズする衝動を抑えるのに、苦労した。急に目の前のおばさんがじゃれついたら、この人はどんなに驚くだろうと考えたら、口の周りがヒクヒクしてきた。
今日の仕事場が浜離宮朝日ホールなので、大江戸線築地市場でおりる。1時からの仕事なのになぜか11時に駅に着いた。何故か? 勿論、築地市場のお魚さん目当てさ。仕掛け人は決まって、同じ合奏団の絵美さん。美味しい物あるところに必ず姿を現す。3人が待ち合わせて市場中へ。どこのお店も昼前なのに、ずらりと行列が出来て、外国人の姿も多い。仲屋というお店の前で、待つこと30分ほど、やっと順番が来てウニのせ海鮮丼にありついた。ウニをこんなに沢山、しかも新鮮なものを食べられて、幸せー。ムフフフ。こんなに魚が好きなのは、やはり、私には猫のDNAがあるらしい。だって、さっきのじゃれたい本能だって、人間には・・・しかもこの年で・・・あまりないでしょう。

2010年5月13日木曜日

若葉

2日ほど前デジカメが届いて、初めて撮ったのがこの画像。
いつもマニュアルを読まないで行き当たりばったり。でも、やっと、ちゃんと読んでみようと思って読んでみると、意外と分かる物なのだ。マニュアルは分からないように書いてあると思っていたので、大発見。でも、この写真はちとおそまつ。そのうちに、背景をぼかしたりしてみようと思っている。動画も撮れるから、玉三郎がフニャフニャしているところも、その内お目にかけようと思っているけれど、まず、部屋をかたずけないといけないのが、頭痛の種。よく、動物の動画の投稿を見るけれど、大抵の家は綺麗にかたずいている。動物を飼っていても、あんなにきれいにしておけるのは、大変な努力だと思う。我が家は玄関に置いてある靴なんて、転げまわる猫達のお陰で、四方八方に拡散。時にはその中になにか不気味なものが入っていることもある。靴を履いたとたん、絶叫することも・・・・。クリーバンという猫絵描きさんがいるけれど、彼が書いた本の文中に、コーヒーに猫の毛が入っていても、気にならないくらいでないと猫は飼えない、たしか、こんなことを書いていた。猫嫌いが読んだら、怖気をふるうだろうと思う。家を新築したときに買った、ゴブラン織りの綺麗な椅子。爪とぎにちょうど気持ちが良いらしく、今は周囲からフリンジが垂れ下がり、クッション部分はガサガサ。一度張替えてもらったけれど、すぐに恐ろしいことになり、今はとっくにあきらめムード。しかも、キャスター付きなので、飛び乗ってはスケートボードのようにして遊んでいるから、あらぬところに移動している。よそ様ではどうしてあんなに綺麗にできるのか?謎。

2010年5月12日水曜日

拝観料取るぞー

私の写真をプロフィールに載せたら、色々なところに顔が現れてしまった。困ってプロフィールから削除したのに、その後も出っ放し。ついに顔を見たら拝観料を頂くぞ、と脅したらパッタリ写真が消えた。こんな顔を見て、拝観料取られちゃたまらないと、思ったのはパソコンさんですか。逆にみてやるからお金払いなさいと言いたいくらいなのに、拝観料とは盗人猛々しい、と考えたからなのか。
削除しても、反応が出るのに時間がかかるのですね。グローバルな時代に情報が回るのが恐ろしく早く、しかも、一度出ると取り返しがつかない事を実感。私的な世界のことで、誰も気にしちゃいないと思うけれど、やはり誰が見ているか分からないから、多少緊張する。今でも続いている長寿番組に『題名のない音楽会』というのがある。初期の頃、毎週オーケストラのメンバーで出演していた。座る場所がちょうど初代司会者の黛敏郎さんのうしろあたりだったので、いつも、画面に映っていた。時には私のアップからカメラが引いて、全景に移ることも多く、よく、あちらこちらで、「テレビに出てますね」といわれた、ある時、鞆の浦の旅館に泊まったときも、仲居さんからそう言われた。演奏旅行だったので、仕事が終わって旅館に着くのが、夜10時頃「大変だから、食事は冷たくて構わないから、お膳だけ出して置いて」といって出かけた。でも、帰るとみんなで起きて待っていてくれて、温かいおにぎりを出してくれた。心に残るおもてなしでした。近所のおじさんからも「いつも見てるよ。歌のない?音楽会」とよく言われた。

2010年5月11日火曜日

ディナーの前菜はさつま揚げ

近くのデパートの食品売り場に買い物に行った。色々なお店が出店していて、鹿児島のさつま揚げを出していたので、何種類か買ってきた。
2,3年前に鹿児島に行った時のこと。午後の便で空港に着いて、バスで市内に。黄昏時。ホテルは鹿児島東急イン。日が落ちるのが早くチェックインしたときには、薄暗くなっていて、今まで何回か鹿児島に来てはいたものの、この周辺は初めてだったので、一人だしホテルで食事も悪くないかと、レストランに向かった。セットのメニューをたのんで、せっかくだから芋焼酎をつけてもらって、食事が運ばれてきた。大勢で食べるのも楽しいけれど、結構一人でも楽しめるほうなので、なかなか良い雰囲気のレストランだし、まったりとした気分で始めた。前菜は綺麗なお皿に・・・さつまあげ。しかも、ナイフとフォークがセットされているので、うやうやしく食べ始めたが、なんとも、違和感がある。だって、さつま揚げって、場合によっては手掴みでたべることだってあるでしょう。そのものは非常に美味しいのに、これはたまらん。回りを見回すと、なんだ、みんな箸でたべてるじゃん。
お箸をたのもうと思ったら、良く見れば、テーブルにちゃんとお箸も用意されていた。行き届いてました。外は真っ暗で、でも海に面しているらしい。何も調べてこなかったので、ロケーションがよくわからない。チラチラと船の明かりらしい物が、点滅している。次の朝、朝食をとりに昨夜のレストランに行くと、なんとまあ、目の前に海が広がり、対岸には穏やかに丸みを帯びた山が見えた。わあ、すごく良い所だったのね。ウェイトレスが来たので、ウッカリ「あの山はなんという山?」と聞いてしまった。彼女はハッと息を呑んだ。それで、気が付いた。ここは鹿児島、鹿児島といえば・・・・「桜島です」彼女はなにごとも無かったように、にこやかに教えてくれた。

2010年5月8日土曜日

後悔すること。ムクイヌ編

5日の投稿、犬もおだてりゃ、の写真はよそのブログのをちょっと失敬。実は盗んだのですが、毎日可愛いなあと眺めている。あの宙ぶらりんの後足の可愛いこと。どうやって、こんな写真を作るのだろうか。動物好きで犬でも猫でもどちらも良いのに犬には・・・ 苦い思い出がある。   ここに一葉の写真があります(だれのパクリかな?)   幼い頃の私と茶色のムクイヌ。上から見下ろす私と、下から見上げる犬。犬は野良犬で、よく家に遊びに来ていた。私と大の仲良しだった。当時の我が家はさまざまな動物がいた。猫、アヒル、小鳥はカナリア、十姉妹、鶏、家ネズミまで、私の飼育下に置かれ、人間も沢山いるし、にぎやかに共存していた。ある時、鶏が襲われ、数羽が死んでいるのが見つかった。それは、あの野良犬のせいに違いない、という者もいた。証拠はないのだけれど、誰もがそう思った。私は可愛がっていた鶏が不憫でたまらない。所へかのムクイヌが私を見てうれしそうによってきた。私は手に持っていた松ぼっくりを、コッコちゃんの敵、とばかりに思いっきり犬にぶつけてしまった。彼はキャンと一声鳴いて姿を消した。そのとき、それを見た姉たちの怒るまいことか。「犬は悪いことした時に怒らないといけないのよ。後で怒ったら、いじめたことになるんだよ。かわいそうに、なんてことするの」     こっぴどくしかられ、ぶつけた瞬間にはすぐに後悔していたので、わあわあとないてしまった。可哀想に、それ以来犬はパッタリ来なくなってしまった。今でも、思い出すと、胸がキリキリ痛む。後で何回か鶏が襲われ、いたちの仕業らしいと判明。私はその犬にもし会えたら、土下座します。ムクや、痛かっただろう。でも、きっと胸のほうがもっと痛かっただろう。私も痛い。

2010年5月7日金曜日

お菓子やさん情報

昨日、緑の風に乗って・・・などと、気障な題名の投稿を読んでくださった方から、文中のお菓子屋さんのお問い合わせがありました。これが、そこの名刺です。246を厚木方面から来ると、野川団地入口の信号右折。宮前休日診療所のすぐ近く、信号のある、交差点の手前左角です。
大きな木に埋もれるように建っているので、見逃してしまいそうになります。リクエストに応えて、アレンジのケーキもできるそうです。

曇天のドライブ

昨日は新緑の輝く一日。今日は重ったるいモスグリーンの日。川崎側から、尻手黒川線を府中に向かう。途中多摩丘陵を巻く道が楽しい。向ヶ丘遊園あたりは、森林公園やつつじやアジサイで有名なお寺、日本民家園など。向ヶ丘遊園地の跡地にある、バラ園などもある。遊園地が健在だった頃は、よくスケートを滑りに来たものだけど。このへんから、府中街道に合流。まだ早いけれど梨の季節には、多摩川梨の自家販売場が並ぶ。聖蹟桜ヶ丘を回ったところで、乗馬クラブ発見。名門桜ヶ丘カントリーの前を通って、分倍河原あたりから、20号線を横切る。     月例のお勉強ホームコンサート。今日は府中の友人宅が会場。同級生の会なので、年回りが家族の介護や本人の健康が勝れないなど色々重なって、出席者は3人のみ。ピアニスト2人、ヴァイオリン1人。ショパンのエチュード2曲、バッハ、インベンション。シューベルトのピアノソナタ、同じくシューベルト、ヴァイオリンとピアノのソナタ、イザイのソロソナタが今日のメニュー。人前で弾くのはどんな時でも、状況でも緊張する。冷や汗をかきながら、終了。ピアニストは本当にまじめな人が多い。こつこつと力を溜め、向上心が持続する。その点私はよく言えば、融通がきく。悪く言うとチャランポラン。仕事ずれしているので、楽譜を読むのは早いけれど、しっかり弾きこんでいないのは、一目(耳?)瞭然。ばれますねえ。後は食事をして、おしゃべりをして、解散。ますます空が暗くなって、雨の降る中、多摩川の是政橋から下を見ると、この季節は水も河岸も優しい色合いで、特に雨の時はすべての色が溶けたようににじんでみえる。日本は美しい。

2010年5月6日木曜日

緑の風に乗って。

急に暑くなってきた。緑滴る初夏。最近家に居ることが多くなってきた。仕事もほんの少し。あとはゆっくり気儘に過ごしている。忙しくなくなったら、家を片付けてなんて思っていたけれど、暇があると、ちっとも片付かない。気持ちの良い日なので、生協に買い物に出かける。久しぶりに愛車を駆って246を長津田方面へ。なぜ、そんな遠くまで行くのかというと、わけがある。以前通っていた乗馬クラブの近く。その周辺に住んでいる友人の紹介で、入会した。一度買い物に付き合ったら、お肉が美味しい。野菜もおいしい。安全性も信用できる。そこで、月ぎめでお米を契約。だから、乗馬クラブをやめても、必ず月1回はお米をとりに行かないといけない。窓を少し開け、風を入れながら走る。道はすいているし、晴天だし、「ボエーム」なんか口ずさんでご機嫌で。もちろん「ムゼッタのワルツ」  お米をもらい、山のようにお肉と野菜を積んで帰り道。いつも気になっていたお菓子やさん。あっという間に通り過ぎてしまうので、いつも、しまったと思いながら、後ろから来る車に遠慮して、走り過ぎてしまう。でも、今日は後ろに車もいない。しめしめ。大きな木に張り付くように、小さな御伽噺のなかの家みたいに、ひっそりと建っている。  お、お、美味しいっ。濃い目のコーヒーと上出来のケーキ。こんな小さなケーキやさんに、こんな洗練されたケーキがあるなんて。うーん、今日も良い日だったなあ。

2010年5月5日水曜日

犬もおだてりゃ  登る?

見ればみるほど変な写真。片手だけでつかまって。
たかみのけんぶつじゃあ。足は宙ぶらりん。
世の中にはこんな写真を作って喜んでいる人がいる。人生喜びをもって生きねば。おだてられて木に登る人もいれば、おだてられるとプレッシャーになってだめになる人もいる。私は後者。おだてられると耳には心地よいが、その後、変に緊張してしまう。ヴァイオリンのレッスンも褒められた次の週は出来がわるかった。私が習った先生方は優しい方ばかり。あまり、叱られた記憶がない。もっとも、叱らないのは見込みが無いからかもしれない。でも、先週褒められたから、今日も上手く弾かねば、が仇となって、上手くいかない。楽器を弾くのは集中しないとダメだから、気持ちに雑音が入ると気が散って、力が入りすぎたり、楽譜をみまちがえたりする。  高校、大学と約7年間教えていただいた先生は、男性だけどエレガントな方でした。先日たまたま、アマゾンでCD見つけたので、購入した。私の大好きなR・シュトラウスとフランクのソナタ。それを見たとき、こんなにも先生の影響が大きいものか、と思った。もし私がCDを出せるくらい上手ければ、なにを弾きたいかと言ったら、この2曲は絶対入る。そして、音を聞いたとたん、自分の音のルーツはここだったのだ、と感じた。良く似ているといったら失礼だけど、音の出し方はそっくり。その後何人もの先生に師事したけれど、一番感じやすい時期に受けたレッスンが一番身になるのだと思う。いつも、レッスンをさぼっては遊びにいってしまうので、先生は他の人に嘆いたという。「勉強できるのは今だよ。勉強しなさい」いつも、先生はそうおっしゃた。フフンと鼻で笑って遊んでいたことを、とても申し訳なくて、今涙が出てしまった。先生ごめんなさい。

2010年5月3日月曜日

放送大学その3

放送大学は誰にも開かれていて、高校卒の資格があれば無試験。でも、数学科を出た友人が教科書を見て驚くほど、内容は充実している。当然試験も難しいから、一筋縄ではいかない。3回受けて単位が取れず、あきらめた4回目にやっととれた、なんてことも。卒論はパスして(仕事でたぶん教授の指導にいかれないから。決してやる気がなかったわけではありません)代わりに8単位のノルマ。しかし、卒業間際は特に忙しく、しかたなく専門の音楽でドサクサ紛れに単位をとって、めでたく卒業。だが、卒業式にも出席できず、郵送された卒業証書を見て、初めて実感がわいた。在校年数ラインギリギリの10年でした。在校できるのが普通の大学より長くて、それでなければ不可能だったと思う。しかし、中にはサラリーマンで200単位近くとっている、一種のマニアみたいな人もいた。しかも、在学数3年目くらいで。すごい人がいっぱい。楽しかったなあ。  学生時代、特に勉強家ではなかったのに、いつまでも勉強が面白くて、この後も出来たら大学院の夢は捨てていない。やっと、暇になっていくらでも出来そうなのに、脳みそが熟成?腐敗かな?してきたので、難しい。なにより、目が疲れて大変。だから、鉄は熱いうちに、は真実だと思う。ゆとり教育なんて・・・若いうちに詰め込まなかったら、いつやるのさ。        一人読者を怒らせてしまってやめられたので、寂しいから読んだ人コメントください。猫でもたまでもいいから。

2010年5月2日日曜日

放送大学その2

入学して驚いたのは、生徒の質の高さ。他の大学の院生や、会社員が自分の仕事のスキルアップのために、中には看護婦さんや、退職した教師など。基本的には通信教育なので、自宅や図書館でビデオとテープで勉強するが、何単位かは授業を受けなければならない。このとき、つくずく気の毒だったのは先生たち。どんな人が聞いているかわからない。ある時、文学の授業で、学生の意見があまりにも素晴らしかったので、先生が深々と頭を下げ、「勉強になりました」と言った。これは、只者ではない、そう思わせる発言に、教室中が静まり返ったことがあった。あるときには、東大の院生が教えに来て、つるし上げられたこともある。「こんな授業でずっとやっていくのですか」とつめよられ、立ち往生。私も卒業単位が足りないので、仕方なく音楽で単位を取ることにした。隠してはいたものの、先生はなにか不穏なものを感じていたようだ。ノートをとらないので生意気なと思ったらしいが、質問すれば即回答があるし、えっ、てなもので、不気味だったと思う。   何回登録しても、スケジュールの関係で、中々出られない実験の授業もあった。3、4回目くらいにやっと出られたら、先生が感激して、そばに来るたびに「本当に良くきてくださいましたね」とおっしゃる。すぐに、名前をおぼえられて、以後その先生とは和気藹々のお付き合い。楽しく実験をしました。

放送大学その1

音大を卒業したものの、音楽で食べていけるとは思っていなかったので、卒業する年に母にもうひとつ大学を受けたいといったら、えらく叱られた。親にしたら、6人目がやっと卒業、やれやれと思ったのに、又学校になど言語道断。仕方がないから2,3年したら自分で学費を作って行こうと思っていた。幸い卒業する前からオーケストラで仕事をさせてもらっていたので、そのままズルズルと入団。ところが、仕事が面白くてやめられない。あっと言う間に年が過ぎ、その間オーケストラはやめても、仕事は山のようにあるし、大学どころではなくなった。20年目に放送大学の発足を新聞で知ったとき、これを逃す手はないと次の年に入学。条件は、絶対に仕事優先、けれど、絶対卒業する。これだけ。しかし、思った以上に難航した。まず、仕事が日時、場所がイレギュラーであること。必ず現場に居なければ」仕事にならないから、スクーリングなども休まなければならない。試験の日が仕事なら、試験も受けられない。せっかく勉強したのに、涙を呑むしかない。一番縁の遠かった自然科学を専攻したために、本の第1ページから意味不明。初めて試験を受けたときは、解答用紙を前に何も書けず、涙がぽろり。でも、よくしたもので、1年も経つと教科書が読めるようになった。新聞も科学欄はちんぷんかんぷんだったのが、読めるようになった。なによりも良かったのは、謙虚になれたこと。自分がどんなに物事を知らなかったか、思い知らされた。

カラスの愛情

不順な気候が続いていたし、ちょっと山に行っていたから、気が付けば緑濃い皐月。朝の散歩で、この頃、奥さんカラスしかお目にかからない。夫はどうしているのだろう。今朝も一人でぽつんと待っていた。しばらく、お話しをする。そこへ、カラスフリークその2が来て、今、一羽は卵を抱いているのでこないのだと言う。納得。その内子連れで会いにきてほしい。       私の母は酉年だったから、6人の子供を羽の下に抱え込むようにして、育ててくれた。やさしいというよりキツイ人だったけれど、いつも子供たちのことばかり考えていて、自分は後回し。よく、私たちはそれで母を叱った。「自分の事を一番にしたら」と言って。でも、食べ物も着るものも自分は最後。亡くなってから形見わけの時、着物も装身具も質素なものばかりで、皆涙した。その母は、どちらかと言うと不細工な私がコンプレックスを持たないように、いつも私を可愛いと言ってくれた。たとえばこんな事。「そんな風に低い鼻は家庭に入ると、うまくいくんだよ」とか、「足が短くても、両方そろっているから幸せじゃない。長さが違っていなくて良かったね」こうしてみると、ずいぶんひどいこと言われていたのに、私はそれで妙に納得。いつも、可愛い顔をしていると言われたお陰で、幸せに育った。時々人の顔を見て、ぶしつけにも、変わった顔だとか、変だとか言う人がいる。本当ではあるけれど、ひどい。自分の顔を棚に上げて。それを聞いたら、母はそんな人のことを殺すかも。いいの、私は母が可愛いと言ってくれたのだから。    散歩の帰り道久しぶりに夫カラスに出会う。相変わらずつやつやで美しい。私を見ると鳴いて妻を呼ぶ。妻カラスも飛んできて、二羽でお見送り。母とカラスの社会では、私はクレオパトラか楊貴妃かだわよ。

2010年5月1日土曜日

雨中スキー

28日(水)朝目が覚めると、土砂降り。近くの駅まで自転車で行くつもりが、バスに変更。予定が15分も過ぎて、やっと、バスが到着。その頃にはじっとりと衣服は湿り気を帯び、髪も湿気と風のため、ザンバラ。なんとも情けない有様で、駅に着けば、電車も遅延。やっと、予定の山形新幹線のやまびこ号に間に合った。そのまま雨とともに、米沢に到着。そこからタクシーで、天元台ロープウエイ乗り場に行くと、強風のためスキー場のリフトが動かないと告げられた。スキー場到着。風も雨も強いが、リフトを止めるほどでもなさそう。でも、客がいないので、経費節約のためとめていたのだろう。頼み込んで、第一リフトだけ、動かしてもらうことになった。スキーヤーは殆ど私たちだけ。雨の中滑り始めると、水のお陰で思ったより滑りやすい。1時間ほど、今シーズン最初のスキーをびしょ濡れで終えた。というのも、この冬は膝の具合が悪く、歩くのもやっとだった。スキーは半ばあきらめていたのが、なんとか膝も治り、18歳からうん十年、一年も欠かさなかったスキーをすることが出来た。うれしい。夕飯は山形名物の芋煮。  
29日(木)雨風、その上霧。時々晴れると思うと、ぱらぱらと雨が降り、とうとう、最悪の霧になる。
一面真っ白で、3メートルほどの視界。これは、恐ろしいので、しばらく小屋に避難したが、一向に晴れる気配もなく、ソロソロと下り始める。リフトの鉄柱沿いに行けば、何とかなりそうだが、人の姿もいきなり現れるので、恐い。大きなホテルが見えない。明かりも見えない。すぐそばまで行って漸く見つけられて、ほっとした。方向感覚も無くなるし、心細いこと。夕飯は米沢牛のすき焼き。たらふく食べてから麻雀が始まり、最初の半チャンでトップ、でも、正座のお陰で膝が痛くなり、他の人にチェンジする。いすだったら続けられるのに残念。
30日(金)晴天。昨日までの悪天候がうそのように晴れ上がり、山頂に行けば、圧雪したばかりの、カリカリの雪。キャタピラの縞目もうれしい。滑る滑る。人はまばらだし、スピードは出せるし、もう、最高。思いっきりすべりまくる。硬い雪ははじめ氷のよう。2度目は少し緩んで、ベストコンディション。3回目は少しゆるめ。4回目はもう少し・・と滑るたびに変わってゆく。6回目あたりで、この次はもう、緩みすぎると判断して、怪我をしないうちに中止。正解だったようで、次に行った人たちは、へとへとで帰ってきた。気温が高くなるにつれ、空も曇ってきた。かえり支度を始める。
メンバーはいつもの雪雀連。帰りの道中も遊びほうけるのが、毎度のこと。ロープウェイを下りたところで、温泉に入り、米沢駅近くの「蔵すし」で飲みふける。まいどながら、本当にあきれた人たちです。