2017年3月28日火曜日

謎の電子音

一昨日が塗装予定だった我が家の駐車場の壁。
足場を組んで塗装に取り掛かるだけになっていたのが、ここ数日の天候の悪さで中止。
外壁に這っている排水管の3階部分付近に亀裂が入っているというので、そこの管の取り換えも予定していた。
高い足場は下から見ても怖い。
そんな高いところで雨風に吹かれて作業は危険だからというので、晴天の今日工事に入ることになった。

一昨日、工事の中止が決まって、3階部分の居住者に工事の変更と工事中の注意を知らせに行くと、なんだか楽しそう。
過干渉になるといけないので普段は滅多に話し込んだりしないのに、両隣が出てきてにこにこ。
静かな日常に変わったことがあると愉快になるようだ。
というか、気を遣ってくれているのかも。

中止になった一昨日は冷たい雨が降って、夜になると気温もどんどん下がっていく。
外にでるとびっくりするほど寒く、真冬が戻ったかのよう。
野良猫ミッケは物置で丸くなっていた。
心細そうにしている。
飼い主を振って家出した猫だから独立心は旺盛だけれど、こんな時には人に甘えたいのではないかと思う。

夜になってすとんと眠りに落ちたのだけれど、不意にピッという音で目がさめた。
家の周りに足場が組まれているのと、そのために階段付近の窓が閉められないので、防犯については少し心配だった。
ほかの階の人たちにも、くれぐれも鍵をしっかりしてくださいとお願いした。
電子音がどこから聞こえたのかは、よくわからないけれど、外から足場を登ってくる泥棒がいて、窓ガラスになにかしたとかなんとか・・・妄想が膨らむ。

窓を開けて外を窺っても、変わったことはなにもない。
いつもの平和な光景が見えるだけ。
気のせいかな?と思ってまたしばらくすると、ピッ!
目が覚めてしまった。
それでもしぶとくベッドで眠りにつこうとすると又、ピッ!
電源の入っている器械類の電源を抜いてみる。

加湿器、空気清浄機、お掃除ロボット、電子レンジ、トースターや電気炊飯器、電気ポット等々。
器械類が故障とかチャージ切れする時に、こういう音がするのではと思ったので、全部抜いてこれでどうかと寝入ると、又しばらくしてから、ピッ!

その日はもう諦めて、そのまま寝てしまった。
鳴っている時間が短いのとしばらく間隔が空くので、音源が突き止められない。
たとえばスマホのお知らせ音かともおもったけれど、スマホに訊いたら「いいえ、あたしゃ、そんな声出しませんよ」と澄ましている。
だいたいの音源の場所はわかっているけれど、一瞬なので、その場にいないとわからない。

昨日の夜も怪音は続いた。
滅多に途中で目の覚めない私は、少し寝不足。
普段は睡眠時間は少なくても、よく眠った感があるのに、ぼーっとしている。
後頭部が重い。

今朝、やっと突き止めた。

火災報知機から聞こえる。
そういえばこの報知器は数年前に設置して、そのあと一回も電池を取り換えていない。
白い壁に白い報知器で、そこにあることすら忘れていた。
ちゃんと生きていたのだ。
お腹が空いたと、訴えていたのだった。
電池を取り換えて、やっと謎の電子音は止んだ。

この二日間寝入ってからも急に飛び起きて、あらぬ妄想をしていたのがうそのよう。
バカですねえ。
知識があればなんということもなかったのに。
世間の人たちはこんなこと当たり前に知っているのかな?
私は常識もへったくれもないから、わからない事には非常に臆病になる。
高校大学共に音楽学校だったので、一般教養のために放送大学に入学したら、普通の高校出た人ならだれでも知っていることを、全然しらなくてショックだった。
しかも我が家は両親兄弟とも浮世離れの人ばかり。
無知は罪ですなあ。






























2017年3月26日日曜日

佐藤愛子さん

「九十歳、なにがめでたい」 小学館

佐藤愛子さんは今90歳を超えて、なお矍鑠と往時の怪気炎をあげておられるようだ。
遠藤周作、北杜夫さんらとの交友関係も彼ら二人の死去で終わりをつげ、自宅でむっつりと暮らす日々。
その彼女に執筆依頼が舞い込んで、今更この年でと思いながらも引き受けて連載が何回か続いた頃に、うつ状態から抜け出していたそうだ。
人間いつまでも仕事はやめてはいけないというメッセージと受け止めて、私もこれからもお金にもならないことに邁進しようという思いを新たにした。

彼女のエッセイは以前、週刊誌で拝読していた。
うろ覚えだけれど、週刊新潮または週刊文春で。又はほかの雑誌かも。
以前はこの2冊をいつも読んでいたけれど、最近は暴露本みたいになって不愉快だからあまり見ない。
なにが好きって、彼女の歯に衣着せぬまっすぐな言葉、お腹を抱えて笑ってしまうユーモアの感覚。
最近友人から「これ、読んでみる?」と渡されたのが「九十歳。なにがめでたい」だった。

「卒寿、おめでとうございます。白寿を目指してがんばってください」と言われると「はあ・・・ありがとうございます」と言うけれど内心は「卒寿?なにがめでてえ」と思っている・・・とのっけから、勢いがいい。
それがこの本のタイトルになった。

サトウハチローというむさくるしい詩人がいた。
彼女とハチロー氏が兄妹とはずっと後になって知ったけれど、愛子さんは非常に美人、ハチローさんはひげもじゃのオッサン。
どうにも結びつかなかった。

「九十歳。なにがめでたい」
中でも「グチャグチャ飯」で、ハナという犬のことが書かれている章で、私は大泣きに泣いた。

ハナは北海道の彼女の別荘前に捨てられていた子犬。
いったん飼うことを決めた次の日、キタキツネに襲われた。
思わず窓から飛び出し、キタキツネの牙から子犬を助けた。
前に飼っていた犬をなくし、二度と犬は飼わないつもりだったけれど、北海道の狐の出没する荒野に子犬を残していくわけにもいかない。
当時の日本では、飼い犬のエサは人間の食事の残りに味噌汁をかけた、いわゆる猫飯。
この場合は犬だから犬飯?
東京に帰ってからも家には入れてもらえないハナは、テラスからガラス戸越しにずっと佐藤さんを見ている。
助けてもらったことを忘れないらしい。

残りご飯に昆布だしをとった後の昆布をまぜ、この汁飯で15歳まで生きたけれど、そのころから何も食べなくなり腎不全になって死んだ。
佐藤さんは、あの昆布がいけなかったのではないかと「私の胸には呵責と後悔のくらい穴があいたままである」と書いている。

私も動物の死に遭うと、いつも後悔する。
もっと早く気が付いていればとか、なんであんなに叱ってしまったのかとか・・・
いつもそうなので、彼女の気持ちは痛いほどよくわかる。
そのへんで私もウルウルになってしまった。

そしてある日、霊能者から佐藤さんのお嬢さんに、こう告げられる。

「ハナちゃんは佐藤さんに命を助けられて、本当に感謝しています。そして、あのご飯をもう一度食べたいと言ってます。」
霊能者には見えたらしい。
「これは何ですか?なんだかグチャグチャしたご飯ですね?」
娘さんからそれを聞いた佐藤さんは、そこでどっと涙がこぼれた。

これを読んだ私も、そこでどっと涙がこぼれた。
霊能者を信じるかどうかはさておいて、グチャグチャ飯を食べさせて後悔していた佐藤さんにとって、こんな優しい言葉はない。





























2017年3月24日金曜日

今昔

女子会、4人組。
たらふく中華料理を食べてそのあとお茶会。

ひとしきり、話に花が咲き姦しい。
4人だから、もう一つ女を重ねたいくらい。
離婚話を聞いたり仕事の悩みを聞いてもらったり、一番興味深いのは他人の噂。
これはもう舌なめずりをして、あれこれこき下ろす。
悪口を言うと自分に戻ってくるというけれど、お互い様。
悪口を絶対言わない聖人君子がいるけれど、なんだか嘘くさい。
他人のことは、自分を棚に上げて非難するのは、古今東西普通のことなのだ。
育ちがよく躾の厳しい両親のもとで育った人は、めったに悪口は言わないけれど、お腹の中はなにを考えているのかわからない。
たいていは、内心舌打ちをしながら上辺は良い人を演じていると、私は意地悪く考える。
時々自分で気が付かず独り言で内心が露呈する人もいる。
「あの人が?え!」と驚くような独り言。
お気を付け召され、年を取ると独り言が自分の口から出ていることに気が付かないこともあるのですよ。

地獄耳の持ち主である私は、つぶやきであってもちゃんとキャッチする。
あらまあ、この人がねえと驚くこともある。

今日の話題は、かつて私たちが自分の先生に接していたころと、今どきの生徒が先生に接する態度との大きな違いについて。
「前に生徒から言われたのよ」とNさん。
「ふーん、なんて?」と私たち。
彼女のリサイタルを聴いた生徒が彼女に言ったそうだ。
「先生、悪くなかったですよ」

普通悪くないというのは、まあまあということだと思う。
自分よりずっと技量の高い人に向かって言う言葉ではない。
「悪くないというのは、良かったということじゃない?」とフォローするSさん。
ところがSさんも自分のことになると、こう嘆く。
門下生たちとのグループコンサートのチラシを見せてもらった。
美人揃いの若きピアニストたちと一緒に、Sさんの写真が。
指導者なので当然中心にいる。
それを見た若い人が「先生もこんな美人の中でたいへんですね」と言ったそうだ。
それはどういう意味?
確かに若い人たちは美しい。
でもSさんも「悪くない(笑)」 

外国ではそんなに気にするようなことではないらしいが、日本人は元々包む文化の人たちだから、謝礼などもきれいな封筒に入れていただく。
ずい分前のこと「先生!おつりありますか」と言われて腰を抜かしそうになった。
私たちは先生への謝礼は金額をきちんと用意して、封筒に入れてというのが普通のことだった。
銀行の封筒で出すなんてことは絶対しなかったけれど、今どきはそれほど珍しいことでもない。
外国なら、現金を裸のまま渡す方が多いようだ。
私の英語の先生はイギリス人。
はじめのうちは、謝礼を封筒に入れて渡すと訝しげだった。
しかも私が間違えて空っぽの封筒を渡したことがあって、彼女はパニックだったようだ。
とても申し訳なさそうに「お金が入っていなかったけど」と遠慮がちに言われて、とても恥ずかしかった。

ようやく彼女も慣れてきたようで、これが日本のやりかたと納得したようだけれど、あちらから見れば、わざわざ包んで中身が確認できないのは困ったことだと思ったらしい。
目の前で現金の受け渡しをするのが外国や最近の若者のやりかた、包んで現金が見えないようにするのが私たち世代。
面倒と言えば面倒。
それがきれいと思うのは古い感覚なのかもしれない。



















2017年3月23日木曜日

ナマケモノの勧め

私の家の最寄り駅は、各駅停車しか停まらない。
一つ先の駅は、広大な工場の跡地に高層マンションが何棟も立ち並ぶので、何本もの線が乗り入れる特急の停車駅となって新駅もできた。
それで、どこへ行くのも便利だけれど、それらの線を使うには最寄り駅から一駅乗らないといけない。
それで最近は健康のためにも、その一駅をなるべく歩いていくようにしている。

ほぼ三十分ほどなので往きか還りか、どちらか片方を徒歩にする。
その時の時間と天候によって決める。
夏の炎天下は辛いから夕方になる帰りに歩くとか、早朝なら歩くとか、還りはバスに乗るとか色々。

最近、往路を歩いて買い物に。
帰りはバスで帰ることにしていたけれど、その近所で少し買い足すものがあった。
それで駅から離れたので、そのまま家に向かえばいいかと思い復路も歩くことにした。
それがいけなかった。
いつもの倍歩いたので、途中足が耐えられないほど痛くなった。
それでも駅からは離れてしまったので、もう一度駅に向かう元気もない。
トボトボと足を引きずって途中のベンチで休み休み、やっと家に帰る頃に踝が腫れてきたのがわかった。
その日は湿布して、次の朝は少し痛みが引いたけれど、まだ少し腫れているようだ。

一時期、一日一万歩かないといけないなどと言われていた。
テレビや雑誌などで盛んにそういうことを言うので、そんなものかと思っていたけれど、明らかに一万歩では疲労が激しい。
それで自分は根性がないと思ったけれど、半分に減らしたことがあった。
一万歩も歩くと、その日一日なにもできない。
毎日続けると、疲労のために体調を崩してしまう。
元より意志薄弱を自認しているから、そういう時にはすぐにやめてしまう。
楽しくなければ続ける意味がない。

最近ではほんの二十分歩けばいいということになったようだ。
コロコロと言うことが変わるので、こちらはどうしてよいのやら。
歯磨きにしても、以前は食後三分以内、三分間、一日三回と言われていたのが、最近は食後すぐに磨くのはいけないということになってきた。
私は原始的だから歯磨きもいい加減、磨きたくなったら磨く。
それでも虫歯もなければ入れ歯もない。
すべて自歯で、すこぶる健康。

学者さんたちは一生懸命研究しているかもしれないけれど、知識のない私たちは正しいか正しくないかの判断は自分でしなければ、そのように翻弄されてしまう。
結局自分が一番心地よいことが良いのではと最近思う。
毎日食事に気を遣い健康のために運動して、健康オタクになるとがんじがらめ。
結局神経が疲れるから、なんにもしないのがベスト。

歯を食いしばって走っている人をよく見かける。
早朝公園に行くと、たいてい2、3人はそんな人に出会う。
心筋梗塞を起こさないように祈る。

以前オリンピックの出場権をめぐって騒動があった。
結局、野口みずき選手が出場したものの、練習のし過ぎで故障。
彼女の気持ちは痛いほどわかる。
自分が選ばれたことへの責任感でがんじがらめになって、どんなに練習をしても不足しているとしか思えない。
疲労がピークに達しているのに練習をやめることができない。
体は悲鳴を上げているのに、心は満足できない。
そんな状態だったのだと思う。

怠け者の私も、長い演奏経験のうちにはそんなことも何回かあった。
いくら弾いても満足できない。
やめないと筋肉を壊すとわかっていても、やめられない。
演奏会当日、音が出なくなってしまうこともあった。
オーケストラ入団当初、山のような楽譜を抱えて毎日譜読み。
読んでも読んでも、新しい曲がせまってくる。
一晩寝ないで練習したら、本番で目が見えなくなって上手く弾けなくて、それはそれは落ち込んだことも。

頑張らなければいけないときも確かにある。
けれど、人生長い。
長すぎるほど生きた今だからこそ言えるけど、そんなに急がなくてもずっと続けていればいい。
時には頑張ることは必要だけれど、急がない方が良いということが最近やっとわかってきた。
ただし、そういう生き方をすると世間の評価は低くなることは否めない。
自己満足するか、世の中での評価を高くするかは自分次第。
私は世間的には過去の人になっているのに、演奏している今の自分が一番幸せ。




















2017年3月19日日曜日

海風

所用があって横浜みなとみらい付近へ。
花粉症だからマスクは必須。
その上、ツバの広めのキャップをかぶり、まるで銀行に押し入る風のいでたち。

ショッピングモールは家族連れで溢れかえり、観覧車やジェットコースターは見るだけでも怖そう。
この観覧車に一日二回乗ったことがある。
毎年年末近くになると、みなとみらいホールで関東学院のメサイアのコンサートがあった。
関東学院のオーケストラは初めのうちは人数も少なくて、とうていメサイアを弾けるような体を成していなかったから、私たち古典音楽協会が演奏させていただいた。

それが今や、チャイコフスキー、ブラームスなど名作シンフォニーの数々を立派に弾くようになった。
それは古典の仲間であるヴァイオリンのN先生、チェロのS先生の尽力のたまもの。
両先生は学生たちの絶大な信頼を得て、その年初めて楽器を始めたという新入生まで半年ほどで弾けるようにしてしまう。
個人差があるからいろいろ問題は山積とは思うけれど、やはりこれはすごい。

一昨年までは私も毎年お手伝いで演奏に参加していたけれど、去年全部の仕事をやめることにしたので初めての不参加となった。
学生さんたちはとても性格もいいし、特になじみになった人たちとは再会したい気持ちもあるけれど、それでも、ほかの仕事は断ってここの演奏だけ手伝うというわけにはいかない。
他から、それではうちの仕事はどうしてやってくれないの?と言われたら弁解のしようがないから、きっぱりとやめてしまったけれど、少し寂しい気持ちにはなっている。

仕事は好きだけど、いつかはやめなければいけない。
それが今日か明日かと一度は踏ん切りをつけないといけない。

それで観覧車の話に戻ると、関東学院のメサイアのコンサートは毎年年末。
みなとみらいホールの傍に大きなクリスマスツリーが飾られ、キラキラと輝くのを見るのは楽しみだった。
ある年のこと、メサイアの会場練習が始まる前に集まって、観覧車に乗ろうという話になった。
実を言えば、私は猫のくせに高いところが苦手。
見上げると非常に高い。
しかも球体のほとんどは素通し。
床だけが辛うじて下が見えないようになっている。
それでも、てっぺんから海を眺めたら良いだろうなと思って乗ることにした。
当日は晴れて風も弱く少しかすんではいたけれど、とても気持ちの良い眺望で、私たちははしゃいでいた。
てっぺんに行くとさすがに高いけれど、思ったほど怖くはない。
おしゃべりに夢中だったせいもあるかもしれない。
記念撮影をしたり楽しく過ごして、練習会場へ。

そして会場練習が終わって本番までの空き時間に、今度は夕暮れの海を見ようと、もう一度乗ることにした。
しかし、午後になると海からはかなりの強風が吹いてきて景色はあまりよく見えず、てっぺんに行くとけっこう揺れて怖い。
やはり、もう少し楽しみたいと思う手前でやめておくべきだったかも。

花粉は海風で飛散しているらしく、今日は半日ほど外出しても花粉症の症状は出なかった。
横浜は建物の高さの規制が厳しかったので、あまり高いビルは少ない。
その分空が広くて気持ちがいい。
人がわんさかいてもなにか都内の混雑とは違う。
赤い貸自転車があって、ちょっと気を引かれた。
これに乗ってその辺をぐるぐるするのもいいかも。
ただし、混雑した休日ではなくて平日がいい。
子供の時から横浜に行くのは好きだった。
今日も、なにかほのぼのした気分で過ごした。
















2017年3月16日木曜日

血液型

私の血液型はO型。
秘密にするほどのこともないから公開するけれど、なにか差しさわりがあるとしたら、1時期流行った性格占いにあてはめられること。
以前、仕事場でお隣に座った某氏に訊かれた。
「あなたの血液型はなんですか?」

私   「O型です」
某氏  「いやー、そりゃ怖いな」
私   「なぜですか」
某氏  「僕はA型だけど、A型はO型にとても気を遣うんですよ」
私   「あら、気を遣っていらっしゃたんですか」
某氏  「ほらね、O型の人はA型が気を遣っていることすら気が
     付かない」
時々私が音を間違えると
    「いいですよ、O型ですからね」と言われる。

この会話、実は古典音楽協会のコンサートマスターの角道氏との会話。
長年に亘ってお隣で弾かせていただいているけれど、最近は定期演奏会の練習でお会いするだけなので、年間ほんの数回。
だから彼もまだ我慢できているのかもしれない。
以前はテレビなどの仕事でもよく並んで弾いていたので、長年彼は私におびえながら暮らしていたのかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
角道さんの性格は典型的なA型。
頭脳明晰、几帳面で何事もいい加減にしない。
私の対岸の存在。

一時期血液型性格分類が流行った。
しばらくは大騒ぎしていたけれど、真偽が疑われて最近とんと聞かないと思っていたら、それが又復活してきたようだ。

今朝読んだ記事。

「血液型が人の運命を左右することが科学的に判明!」

そもそも、人によって血液型が違う理由すら、まだ解明されていない。
非科学的と言われた血液型性格分類だったけれど、この度、血液の持つ影響力が科学的に解明された。
やはり血液型は人の運命を握っていた。

血液型は血液の種類ではなく、赤血球の表面抗原の種類で分類される。
赤血球の表面にA抗原があるとA型、B抗原があるとB型というように。
両方の抗原があるとAB型。両方ないとO型。

イギリスの「Daily Mail」によると、
O型が最も幸福な人生を送る可能性が高い。
他の血液型に比べ様々なメリットが明らかになった。

トルコのオルドゥ大学の研究によれば、
O型の男性は他の血液型の人の4倍もEDになるリスクが低い。

イギリス・シェフィールド大学の研究では、英国人189人の脳をスキャンしたところ、O型の人には情報を処理する「灰白質」が多く見つかった。
O型の人は「灰白質」が幼少時に多く生成されるので、年をとってそれが失われても痴呆になりにくい。

デンマーク・スウェーデンの研究では
O型の人は、他の血液型の人の30パーセントも血栓ができにくい。
マラリアや胃がん、肝臓がんへの耐性もある。
可哀想なのはB型。
再発性血栓塞栓症を患いやすく、若くして亡くなる可能性が高い。

ここまでO型はいいことばかりのようだけれど、女性の場合、妊娠しにくい傾向がある。
イエール大学の研究では、560人の不妊治療を受けている女性を調べたところ、O型の女性は卵子が少なく質が悪い。
これはA型が有利。

とまあ、こんなことが書いてあった。
ただし、この研究は外国での研究なので、日本人に当てはまるかどうか。

時々O型だと言って揶揄されることがある。
おおざっぱ、のんき等々。
でも一生をどう過ごすかというと、のんきな方が良い。
1時間に1センチしか進まないという大ナマケモノが私の生き方の理想で、O型でないとそうはできない。
いや、O型だからそういう考えになるのかもしれない。

そうなの、悪いのは血液型なんです!と弁解できる。















2017年3月14日火曜日

確定申告

毎年、今年こそは早く申告しようと思っているのに、またぎりぎりになった。
今年は簡単。
仕事がどっと減ったから、必要経費も少なく項目も少なく計算しやすい。
フリーの仕事を始めた頃から自分で申告書を作成している。
当時は昼間は忙しすぎて、税理士さんにお願いしに行く暇もない。
行く前に書類をそろえるのも面倒。

頭の良い友人がいて、これはこうして、ここはこう書いてと指導してくれた。
そのまま書いて出したけれど、計算ミスや項目の記入漏れや色々あったようで、毎年のように税務署から電話がくる。
見事におっちょこちょいなので、記入欄がずれていても気がつかない。
「この**円というのはなんですか?」税務署からの問い合わせ。
それに対して「えーと、なんでしたかねー」
そのうちにむこうが「ああ、そうか、この金額がこちらですね」とかなんとか言ってくれる。
ぼんやりしているとあちらが「ああ、そうかそうか」納得されて電話が切れる。

一度呼び出されたことがある。
書類は添付されているのに計算が漏れていて、訂正することになった。
書類は添付してあるからわざとした税金逃れとは思われず、とても丁重に最敬礼されて、おやおや、この人たちも大変だなあと思った。
こんな人ばかりとは思わないけれど、申告書の注意書きを見たら、私がするようなことがことごとく書かれていて、これは私個人に言っているのではないかと勘繰りたくなった。
本当は私のことなんでしょう?税務署さん。

今朝書類を郵送。
最後の確認をと思ったら、必要な領収書が見当たらない。
それを探すのにずいぶん手間取った。
やっと完成(本当に完成かどうかはわかりませんが)
でかけようとドアのところまで行ったら、急に地面がぐらり。
しまった、ゴミ箱のふたを踏んでしまった。
転んだけれど、ケガはなし。
これで転ぶ人達の仲間入りをした。

なぜそんなところにふたが置いてあったかというと、深い理由はなくて、どこにでも物を置く私の癖が出ただけ。
それにしてもドアまでの通路に置くとは、自分でも思わなかった。
木のゴミ箱だから、フローリングの床と同色で気が付かなかった。
そんなところにゴミ箱の蓋を置く人はおよそいないから、まさかと思ったけれど、そのまさかだったんだわ。
蓋が自分で歩いて行かない限り、私の仕業であることは疑う余地もない。
でも私のレッスン室では、楽譜もゴミ箱の蓋も歩くのかもしれない。
時々置いたはずのところに見当たらない。
誰も見ていないから、歩かないという証拠はない。
部屋に監視カメラでも置いておこうかしら。

最近やっと暇が増えたので、この際と思い立って抽斗の中を整理し始めた。
古い領収書や契約書がぞろぞろ出てくる。
なんと私がパソコンを始めたときのメールアドレスの書類まで見つかった。
契約したメールアドレスはcircus@ocnだって。
そうそう、最初はocnだった。
なつかしい。

書類で個人情報が含まれるものはすべてシュレッダーにかけた。
いつもシュレッダーを詰まらせるので、今日は慎重に。
それでもやはり、途中で詰まってしまった。
知人に「いつもシュレッダーを詰まらせるのよ」と言ったら、意外にもその人が「私もそうなのよ」と言う。
いつも慎重なので、そんなことしそうにない人が。
人は見かけによらない。
シュレッダーの目詰まりを直していたらもうお昼の時間。
一日一日、こうしたつまらない作業をして時間を無駄にしている。
詰まらないじゃなくて、詰まったから無駄なのだけれど。

最初からきちんと整理整頓しておけば、作業はもっとスムーズに。
わかっていますとも、ええ、私だって。
「バカは死ななきゃ治らない」は本当。
































2017年3月11日土曜日

立ち食いそば

美容院で隣の椅子に座った男性。
どこのレストランが美味しい?なんて女性美容師さんに訊いている。
青山ならどこそこ、高輪近辺ならあそこなど、よく知っているうえに、その美容師さんにそれとなく誘いをかける風にも見える。
こんど案内してくれないかなあなどと不埒なことを。
美容師さんはいくぶん素っ気なく、脈はないわよと言いたげな口調。
なんか面白い。

ワインにはこの料理が合うからどうの・・・男性の言葉はよどみない。

私の担当美容師が「今日はこれからどこか行きますか?」と言うから「まっすぐ帰るけど、お腹がすいたから立ち食いソバ食べていくわ、駅のホームにあるでしょう」
ちょっと隣の蘊蓄男性に対抗(?)して、品川駅の立ち食いソバの味の解説。
担当美容師さんは「立ち食いなら改札入ってまっすぐ行くと、駅構内にありますよ、かき揚げがこ~んなに厚くて」指で厚さを示す。
すごい、そんなに!
「あ、そこ行ってみる」話は決まった。

隣の椅子に急に沈黙が訪れた。
こんな下賤な食べ物の話をする連中と一緒の美容室は、彼にとって許せないのではないかと思った。
高級ワインの話と立ち食いソバの話を同時にするなんて。

仕事柄、都内と言わず全国を飛び回っていたころ、時間がない時には立ち食いソバは便利だった。
たいて駅のそばに一軒はあるし、乗り換え時間が少ない時や、ちゃんと食べるほどお腹はすいていないけれど、小腹がすいたときとかよく利用した。
かつては女性の客は少なかった。
たぶん恥ずかしくて行けないジャンルに立ち食いが入っていたのだろう。
どんぶり飯やさんも同じ。

初めてどんぶり物を食べに入った時、一斉に店内の客がこちらを見るので驚いた。
なんでかと思って周りを見回すと、女性が一人もいなかった。
はあ、そういうものなのかと感心した。
それから数十年、いまは普通に若い女性客がいる。
地方都市に仕事にたびたび行っていたころには、飲み屋にも一人ではいれるようになった。
たいてい、そこのおかみさんがそばに来て話しかけてくる。
女一人、なにかよほど家にいられない事情があっての旅。
自殺でもするといけない・・・だけど、それにしては陽気すぎる。
いぶかしく思ったに違いない。

駅ソバは構内の方へ行った。
間違えてかき揚げのない方の食券を買ってしまったので、果たして美容師さんの言うほど厚みがあったかどうかはわからない。
隣の人の食べているのを覗くわけにもいかないし。

これ前にも書いたけれど。
埼玉県の駅構内の立ち食いそば。
カウンターが異常に高い。
チビの私はあごの下にカウンターがきてしまう。
困ったな、食べられるかしら。
しかしこれは便利、どんぶりを手で支える必要がなくて、カウンターに置くとちょうど口の傍にどんぶりが来る。
向かい側の人は、私の頭しか見えないから、生首がそばをすすっているように見えるかも、そう思ったら無性におかしい。
私が笑いながらおそばを食べているのを見た人は、不気味に思ったに違いない。
しかも後ろから背の高い男性が、ネギや七味を私の頭越しに取る。
それもおかしい。
箸が転がっても可笑しい年ごろなので。

新幹線の長野駅で発車時間に余裕がある時は、ホームでおそばを食べる。
最近外国人が増えて、金髪の少年がどうやって注文するのかわからないらしく、もじもじしているのが可愛かった。
あとで父親らしき人が来て、ようやく食べられた。
私は親切ではないので、そういう時は観察するだけ。
英語も話せないし。

たぶん、大手町の地下鉄の連絡通路にあるおそばやさん。
初めて入ったときにはびっくりした。
とても美味しいのだ。
特につゆが美味しい。
こんなことを言っては悪いけれど、駅ソバごときでこんなにおいしいとは思わなかった。
乗り換えをどこでするかを考えるとき、このお蕎麦も考慮に入れないと。
ただし、その後ずいぶん行ってないので、どうなったかは保障の限りではないけれど。
大手町というのもかなり怪しい。
私の記憶なので。

良家の子女は立ち食いはしないなんて風潮は、もはや消えたらしい。
元より良家で育ったわけではないので、私は平気で利用する。
それよりも電車の中で食事するのはどうかと思うけれど、かわいらしいお嬢さんが平気でやっている。
あれの方がよほど、良くないと思うけれど・・・

























2017年3月10日金曜日

生意気な口

世間では私をおっちょこちょいと言う人もいるけれど、最近のまわりの友人たちの言動を見たり聞いたりしていると、言われるほどでもないと自分を見直している。

なんだなんだ、うわ手がいるじゃない。

来週合わせる約束をしていた。
相手は優秀なヴァイオリン奏者だけど、最近ヴィオラを弾き始めたのでぜひヴァイオリンを一緒に弾いてもらいたい、曲はハルボルセンのパッサカリア、と言ってきた。
ヴァイオリンとヴィオラの二重奏。
昔オーケストラで、いつも組んでカルテットなどを一緒に弾いていた人だった。
彼女の生徒が発表会でハルボルセンを弾きたいというので、急きょヴィオラの練習をして弾いたという。
でも生徒さんは途中でこけて、欲求不満のわが友は誰か一緒に弾いてくれる人は・・・そうだ、あいつならホイホイとのってくるだろうという思惑で、電話してきた。
言っとくけど、私はゴキブリではないぞ。

でもやはり音を合わせるのが何よりも好きな私は、まんまと彼女の術中に。
久しぶりだから楽譜が行方不明。
やっと探し出して弾いてみると、見事に忘れている。
この曲は難しいのだ。
それでも来週だなあと、友人との久々の再会を楽しみにしていた。

今朝電話があって「骨が折れてたのよ」
いきなり何のこと?
「は!骨が折れたってどこの?」
「顔じゃないわよ失礼ね、いくら変な顔だからって!」
勝手に想像して勝手にむくれている。
だれもそんなこと言ってないじゃない。
思ってはいてもそんなこと口には出せません。
こんなこと言ったら、自分に丸ごと返ってくるくらいの自覚はある。
「ほら、東京駅で転んだでしょう、言わなかった?」

そんなこと知らないよ。
転んでからも我慢しながら仕事をしていたけれど、あまりの痛みに病院に行ったら「骨折していますね」軽く言われたそうだ。
その時点でもまだ、どこの骨とは言わないから「一体折れたのは手の指?それとも足?」と訊くと「手足は大丈夫、すごいでしょう」
なんだか威張っている。
結局肋骨だった。
それを聞き出すのに何分もかかった。

本当に年寄りを相手にするのは難しい。
彼女の方が年下だったような気もするけれど。
来週はキャンセル、状態が良くなったら連絡すると言って、電話が切れた。

先日鼻の下をケガした人も肋骨の彼女もほぼ同年代。
この年齢になると、転ぶ人が増えるようだ。
私は駐車場の車止めに引っかかってころんだけれど、幸いなことにキャベツや野菜が詰まった段ボールを捧げ持っていたために、そのうえで胸を打っただけで大事に至らなかった。
それでもたいそう長いこと痛みがあった。
感心するのは、転んでもみな手をケガしない。
私も駅の階段を頭を下に真っ逆さまに落ちたとき、手足は無傷だった。
自転車で転んだ時も、ケガしない。
不思議に手をケガする人は周りにはいない。
手をケガする第一号にならないように気をつけよう。

駅の階段を落ちたときは、スカートの裾上げの部分にヒールがひっかった。
あまりの惨状に周りが驚いてわらわらと駆け寄って「大丈夫ですか」
口々に言うから「う~、落ちたばかりで返事なんかできないでしょう」と悪たれ口をきいたら、親切な人たちがさあ~っと引いていった。
馬の首を飛び越えて派手に落ちたときも、インストラクターに同様の口をきいた。
いえ、私が悪いのじゃございません。
この口がね、生意気なんです。

















古典音楽協会第154回定期演奏会

         
ロンドンで活躍した作曲家

     パーセル:        組曲「妖精の女王」
     バストン:        リコーダー協奏曲ハ長調
     ヘンデル:        合奏協奏曲ト短調Op.6-6
      クリスティアン・バッハ: チェンバロ協奏曲イ長調
     ジェミニアーニ:     合奏協奏曲ニ短調
                      「ラ・フォリア」

            3月28日(火)午後7時開演 
             東京文化会館小ホール 

今年もすでに3か月が過ぎ去ろうとしています。
毎年時の過ぎる速さが加速していくようです。
最近はメンバーも、日ごろの仕事場で出会うことも少なくなり、平均年齢もぐっと上がってきました。
いつまでできるかは私たちの健康状態によります。

この演奏団体は、戦後の日本の室内楽の旗手たちというタイトルのシリーズで、音楽の友に真っ先に取り上げられました。
当時の雑誌に載った写真を見ると、皆、若い若い!
♪こんな~時代もあ~ったのね~♪と歌いたくなります。
メンバーがほとんど変わらない団体も珍しい。

たいていの団体が今や名を残すのみの存在ですが「古典」はまだ健在。
毎年2回定期演奏会はコンサートマスター角道さんの企画によるプログラムで、様々に工夫があって飽きることがありません。

お客様も一緒に年を取って、いつも会場は満員。
これは本当に有り難くて、次回も頑張ろうという気になります。
お客様あっての演奏者たちですから、これからもよろしくお願いします。
「古典」のコンサートは謂わば聴衆とのコラボレーション、客席とステージは同じと考えています。
初めに出ていくときはうれしさと緊張で、手足が右左同時に出ていきそうになります。
いわゆる側体歩は日本人の本来の歩き方なので、そこで生まれが出るということです。
木曽駒の歩き方と一緒です。
そこは西洋音楽なので、ぐっとこらえて普通に歩きますが。
(実はラクダやモンゴル馬、犬の中にも側体歩はありますが、日本の侍は刀を腰に差していたので側体歩で歩いたそうで、ここでは日本固有のということにしておきます。)

真面目に話しているうちに冗談になってしまうこの悪癖を、早く直したいと長年思っていましたが、この年になるともう無理!
お許しを。

当日ほかに御用のない方は、ぜひお出かけください。
聴いていただければ嬉しいです。
















2017年3月6日月曜日

カマ争奪戦

最近連戦連敗。

鮭の切り身が並んでいる容器に、カマが並ぶことがある。
日によって時間が違うので、運よく出くわした時には全部いただいてきて冷凍。
しかし、私がいつも狙っていたのに、最近はそれを気付いた人がいるらしく、このところめったにゲットできない。
少し前まではいつも残っていたのに。

野菜と卵は近所の自然食品の店で、肉とお米は生活クラブでと購入場所はほぼ決まっている。
そのほかは適当にそこら辺のスーパーで買うけれど、食いしん坊だからおいしい物が食べたいと思ったら、こういう図が出来上がった。
それぞれ得意分野が違うらしく、このデパートで野菜を買うと不味くていつも後悔するし、魚はデパートが美味しい。
というわけで、日によって売り場を渡り歩いている。
デパートのおすすめは鮭のアラ。

午前の遅めの時間に行って、ちょうど鮭がカットされて容器に並べてられている時には、ラッキー!と小躍りしながら店員さんの後ろに背後霊のように張り付いて、トングをもってじっと待ち受ける。
並べ終わったところで、さっとカマだけさらって、ニンマリ。

どうやら誰かに見られていたらしい。
最近、私が出遅れるとカマはもうない。
以前は少しくらい遅くなってもカマを買う人は少なかった。

私は魚はアラやカマの部分が大好きで、とくに鮭のカマの部分はおいしい。
脂がのっていて適当に塩がきいていて、焼いても鍋にも・・・うう、書いているだけで口の中においしさが広がってくる。

ある時、急にカマの部分が小さくなったことがあったので、大きなデパートなのになんてケチなと思ったから買わなかったら、しばらくしてまた大きくなっていた。
買う人がいなくなったらしい。
ちまちましたアラなんて。

アラとかブツとかは魚の中でも一番おいしいところだけれど、見てくれを気にする人は買わないし、骨が多くて食べるのが面倒。
私は猫だから、少々面倒でも美味しいほうがいい。
脂を嫌う人はやめた方がいい。
身の部分よりもずっと脂っこいので。

カマは歪な形なので、普通の切り身よりもかさばる。
ある時、レジで枚数を訊かれたから答えると、相手は妙にニヤニヤしている。
私が枚数をごまかそうとしたと思ったらしい。
それで「ここに中身を出して数えて」というと、何回も見てやっと信用してもらえたけれど、非常に不愉快だった。
ビニールの袋は口を開けておいたから、疑う前に数えればいいのに。
しかも「またまた~、そんなこと言って~」みたいなニヤニヤ笑い。

そんな目に遭っても、まだカマを買い続ける気満々だけど、肝心のカマは最近とんとお目にかかれない。
人生すべて負け犬(猫)だから仕方ないけど。





















2017年3月3日金曜日

美女転ぶ

友人Nさんが、両手いっぱいに荷物を持ったまま転んだというのを人伝に聞いた。
両手がふさがっていたから顔から地面に激突。
鼻の下に裂傷を負って、血だらけ。
聞くだけで恐ろしい。
彼女は私と同い年でありながら、少しも年齢を感じさせない美貌を誇っている。
その顔に傷ができたとなれば、これは一大事。

電話しても出ないから、口がきけない状態なのかもしれないと、ずい分心配した。
夕方になってから電話がかかってきて、いきさつを聞いた。

もう5日くらい前の話だそうで、路面の段差に足をとられたらしい。
そのあとのことはよく覚えていないけれど、気が付くと顔を打って血がたくさん出て、呆然としていたという。
周りの人は助けてくれなかったの?と訊いたら、すぐに起き上ったから大したことないと思われたのよと言う。
でも顔から血を流しているのだから、周りの人たちもすぐに救急車を呼ぶとかしてくれなかったのは不親切。

かかりつけの医者に電話したら救急病院に行くようにと言われ、タクシーで向かって治療を受けられた。
担当医がとても誠実で、徹底的に傷口のコンクリート片などを取り除いてくれて破傷風の注射までして、今は快方に向かっていると聞いて、ほっと一安心。
傷口のかさぶたもやっとはがれ始めたと言うので、美貌が戻るのもそう遠くはないでしょう。
歯も数本ガタついたけれどそれも治ったのよ、すごいものねと、平然と言う。

手足には骨折などもなかったのは不幸中の幸い。
両手がふさがっていたので手足が無事だったと、医師から言われたという。
変にかばわなかったのが良かったのか。
骨折していたら、寝たきりになってしまう。
若い時とは違って、再起には時間がかかる。

何事もなかったようにケラケラ笑っていきさつを話す声には張りがあって、聞いて一安心。
自分の事故を面白がっていない?あなたと、言いたくなるような口調。
修羅場も過ぎてしまうと客観的にみられる。
自分の置かれた状況を考えるとおかしく感じることも多いけれど、それは無事だったから言えること。
ほんと、ドキドキするわ。

彼女は、よく会う仲間の一人。
この中の一人でもなにかあったら全員ショックで立ちいかなくなるとは、いつも皆で話し合っている。
お互いに励まし合い支え合っている、かけがえのない人たち。

転んで数日で、指がマッチ棒のように感じられて力が入らない。
このままダメになったらいけないから頑張るけど、と健気に言うNさん。
みんながいなかったら、おそらくもう元気にはなれないわとも。
仲間内でも好不調の波があって、去年はあの人元気なかったわねとか、今年私どうも良くないのよとか愚痴を言いながら集まり続けている。
若い頃は、中年すぎた人たちがすぐに健康の話をすると言ってきらっていたのに、最近は自分たちも体調の話中心になる。

これはどうしようもないことで、体がガタついてきているので、毎日がそれとの闘い。
指が曲がり頭がぼんやり、記憶は鈍る。
ボケは、神様が私たちを幸福にするために拵えた仕組みだと思っている。
若い頃のように感受性が鋭かったら、今の状態はとても我慢できるものではない。
ちょっと頭が鈍ってきたことで、恐怖や悲しみが少し和らぐのではないかと思う。

先日我が家の最寄り駅近くで道路工事があった。
交差点の歩道を新しく塗り直し道路の表面を平らに、と、そこまではいいけれど、車道と歩道の境目に微妙な段差がつけられた。
それは3~5センチくらいのコンクリートで、ちょっとこれはないだろうと思う。
高ければ気をつける。
フラットなら問題はない。
けれど、ほんの3,4センチくらいの盛り上がりが一番危険。
なぜ必要もないところにあんなものを作るのかな?と不思議に思った。
今回の友人の転倒事故を聞いて尚更気にかかる。

目が悪くなっている高齢者が、夕暮れ時などの薄暗がりであの段差に気がつくだろうか。
それとも何か目的のある設計なのか、不思議に思う。










2017年3月2日木曜日

近衛さんの壁塗り

私の家は今年で築20年目。
持ち主と同じくあちこちがたが来ている。

先日姉の家でコーヒーを飲んでいてふと目に留まったのが、庭に面した縁側に新しいサンルーム風の長い庇のようなものが出来ていた。
今までは狭い屋根が張り出していて、スレートのような素材だったから少し暗くなっていたけれど、今度はプラスチックの透明な庇なので明るい。
幅も広いから風雨よけに役立つ。
その工事をした人は、昔姉が仕事をしていたころの知り合いで、最近こちらの方に新しくリフォーム工事を請け負う店を出したという。
なかなかセンスが良いから、紹介してもらうことにした。

私の家は1階部分が駐車場。
なんせ安普請だものだから、柱は鉄骨をベニヤで囲って周りに塗料が吹き付けてあるだけ。
そのベニヤ板が薄い。
ほんの少し車のミラーが触っただけでもヒビが入る。
建てた当初はきれいだったけれど、あれからいろいろありまして、今は車をぶつけたり近所の悪ガキが蹴とばしたりで薄っぺらい柱はべこべこに穴があいて、それを修理したところはつぎはぎだらけ。
初めは同じように薄い板で修理したけれど、何回もぶつける運転の猛者がいて、ついに切れた私は板を3枚重ねにしてもらった。
さすがに丈夫になって、ぶつければ今度は車の方が傷つく。
猛者さんに「この次は車がこわれますよ」と脅したら、やっと気を付けるようになった。

その柱のつぎはぎや長年のほこりが蓄積して、いかにもみすぼらしくなってきたので、壁を塗り替えることにした。
それを姉の知り合いに頼むことにした。

さて見積もりができてみると、高い!
予想はしていたけれど、う~んとうなるレベル。
でも思い切って今しないと、この先みすぼらしい見てくれが災いして、余計いたずらされかねない。
天井まで塗る予定だったけれど、ケチって天井は塗らないことにした。
何回も見積書を書き換えてもらった。
納得したところで手を打って、出来上がるのが楽しみになってきた。

経費節約のために塗料を安いランクにできないか尋ねると、代金が高い理由は職人の手間が高いからだそうで、塗料を安いものに替えてもいくらも違わないらしいのであきらめた。
壁を塗るのは本当に大変だと思う。
排水管の部分は高い足場に登らないといけないから、すごく怖そうだし。

壁塗りで思い出したけれど・・・

私がオーケストラに入団したころのコンサートマスターは鳩山寛さんで、その鳩山さんが親炙に浴していた人は指揮者の近衛秀麿さん。
近衛さんの指揮は難解で有名だった。
鳩山さんは、普段はやる気があるのかないのかわからないような態度で、のんびり弾いている。
どんな曲が出てきても、大ベテランにとっては別に驚くことはないらしい。
しかし指揮者が近衛さんの時には態度が一変する。
心から敬愛している様子が見て取れる。

近衛さんは通称「親方」
戦前だったら、我々庶民がこんなことを言ったら不敬罪で牢屋入り。
親方の指揮は「壁塗り」と言われていた。
まるで目の前に壁があるように、両手の平を壁を塗るように上下させる独特なスタイルだった。
どこが最初の一拍かわからない。
初めてお目にかかった時、私は口を開けて唖然として指揮を眺めた。
どこで出たらいいのかわからないので、楽器をあごの下に挟んだまま呆然としていたら、お隣で鳩山さんが何食わぬ顔で弾いている。
それに合わせてようやく出られた。
忘れもしないベートーヴェン「運命」
それが親方との初めての仕事だったけれど、そのうちに難解と思われた指揮も、私にはとてもよくわかるようになった。
見るのではなく感じればいいので、そうなると親方は素晴らしい音楽家であることがわかってきた。
その後は、彼の指揮で弾くのは楽しみになってきた。

やんごとなきお育ちの方だから、お人柄も悠然としていらっしゃる。
今ではもう無理だけど、当時私は多少ピアノが弾けた。
オーケストラの練習が終わって食事をしたいと思っていたら、ベートーヴェン「第九」の合唱練習の伴奏をやってほしいと言われたことがあった。
練習が終わってやれやれというときだったので、居残りがいやだった。
ふてくされれてピアノを弾いた。
練習が終わると「ありがとう」と近衛さんがおっしゃった。
ちょっと説明が難しいけれど、その態度がまさしく気品の高さというものだと感銘を受けて、私はそれまでの態度が恥ずかしかった思い出がある。
学校出たての子供みたいにダダこねている女性に、心から礼が言えるなんて。
人間の格の違いを思い知らされた。

壁塗りにはその後何回もお付き合いして、いまだに私は近衛さんの音楽に出会えてよかったと思っている。
多くの人たちがわからないと言う壁塗りは、私はとてもよく理解できた。






















2017年3月1日水曜日

恐怖の中指

左手の中指が薬指側に徐々に曲がり始めてから数年。
最近はその弊害が顕著になってきた。
重音を弾くときの微妙な指の配置が難しい。

ヴァイオリンの重音をハモらせるのは非常にデリケートな作業で、ただ指をその場に置けばいいというわけではなくて、それぞれの調子のハーモニーによって、微妙に音程を変えないといけない。
たとえば同じ音にしても、和音によってほんの僅か高くあるいは低くとらないと、その和音の響きがしない。
それはもう頭の痛くなる思い。
それでもぴったりとはまった時には、快哉を叫びたくなる。
その心地よさったら・・・!
しかも弓のタッチが単音の時よりもバランスが難しい。
ほとんどみな無意識にやってはいるけれど、和音の中でメロディーを浮き出させるのもけっこう難しい。

そんな中で、ほんの僅かだけれど指が曲がるのはたいへん困ったことで、今その調整に四苦八苦。
しかも曲がったことによって、弦を抑える指の場所が少しずれる。
もちろん音程にも影響するけれど、それはなんとか調整できるようになった。
一番の問題は指の肉の厚い部分でなく爪の際の皮膚の薄い部分が当たるようになってしまったこと。
その部分は神経がむき出しになっていて、押さえるとピリピリと痛い。
特に大きなビブラートをかけると痛みが増す。

以前私の知人がオーケストラの最前線にいて、長年指先の痛みに耐えていた。
私も最近痛むので、治療法を訊いてみようと思っている。
今は薄い絆創膏を貼ってなんとかしのいでいるけれど、本番になったら外さないといけないと思う。
想像するだけで痛い!ひい~~!

年を重ねると思いもよらないことが次々と起こる。
指の水分の問題。
ハンドクリーム、ワセリンなど擦り込む。
これはもう仕方がないので、その都度、対処して最善の方法を考える。
それでもヴァイオリンをやめる気はないので、当分痛くて泣きながら弾くしかない。

人の同情をかうような泣き方を練習しておこう。
シクシクがいいか、メソメソがいいか。
みんなで「いいよいいよ、音程くらい悪くったって」と甘やかしてくれないかなあ。
いやあ、私の友人たちはそんなに甘くはない。
「なによ、そのくらいで泣きごと言って!」と言われるのがおちだと思う。
「あなたは我慢ということを学ばないといけないわ」と言われたことがあるくらいだから。

ところで曲がったのは手の指だけではない。
先日スキーの先生から指摘されたのは「もしかしてnekotamaさんは、足の指が内側に曲がってない?」だった。
歩き方、滑り方を見るとわかるそうなのだ。
じぶんでは気が付いていなかった。
よく観察すると、歩くときに足の指先を靴の中で内側に巻いていた。

足裏はペタッと地面につけるようにしないといけないらしい。
それをすると、体の重心がちょうど母指球がわにかかって、後傾にならないで済む。
なるほど、後傾すぎると言われてきたから頭を前に出す悪い癖がついてしまった。
頭を前に出すと逆に腰が引けて、ますます後傾になる。
それで指が中に巻き込まれてしまうらしい。
それを直すために、散歩の時も意識して足指を伸ばすようにして歩いている。
脳の位置を重心の真上に持ってくる。
脳が体の中心から外れると、脳を守る力が働いて体がギュッと固まるそうなのだ。

正しい姿勢が取れれば、ヴァイオリンでもスキーでもバランスを取りやすくなって肩の力が抜ける。
今頃になって気が付くことがこれでもかと多くて、生涯これで完全ということにはならない。
死ぬ間際に「ああ、やはりあれはこうだった」とか気が付くのかもしれない。

















ピアニストの伊藤恵さんのファンなのでよく聴きに行くけれど、彼女の和音のとりかたは絶妙で、いつも惚れ惚れと聞き入っている。
多彩な音と和音の中でのメロディーの浮き上がらせ方が、本当に上手い!