2010年2月28日日曜日

和商市場

チリで巨大地震が起き、日本でも津波警報が出た。釧路の様子がテレビに映っていたので、急に思い出したことがある。3,4年前になるだろうか。釧路にテレビ番組の仕事で行ったときのこと。その仕事で地方に行くときは、必ず前日に行く事にしていた。当日の飛行機で朝早く出て、その日一日仕事はきついから。さて、前日夜、マンドリンのSANAEちゃんと、炉辺焼きを食べに行く約束をしていた。彼女は遅い飛行機で来るので、ひまつぶしに午後4時頃から、和商市場をブラブラしていると・・・あの市場は猫族には、たまりませんね・・・次々に美味しそうな魚が目に飛び込んでくる。なおかつ、ご飯を買うと、その辺にある魚を選んでのせてもらえる。夜の約束が頭の隅に追いやられ、ついに理性は吹っ飛んで(いつも、飛んでいる、というより無い)満腹。帰宅日に合わせてカニなど宅配の手配をして、気が付けば約束の時間。そして、炉辺焼きに。これが又おいしい。翌朝、仕事前に又市場で海鮮どんぶり、夜又目一杯飲んで食べて、次の朝。又、海鮮どんぶり狙いで市場に行くと、アナウンサーのMさんが海鮮汁を残していったのも全部平らげ、やっと、飛行機にのる。帰ってみれば、宅配便でカニが届いている。その夜、ハッキリと腸の動きが止まったのがわかった。もう、カニもなんの味もしない。その後3日間、生まれて初めて食べたくない現象が起きた。体に悪いけれど、あれだけ存分に食べたのは、やはり超快感でした。                 怒、 怒、 怒  たまさぶろう、どうしたの?     ずるいよ。ずるいよー。いつも僕には糖尿病になるから、と云って食事制限するのに、自分だけ食べまくって。     アハハ、ごめんね。この次は、たまも一緒に行こうね。

2010年2月26日金曜日

キムヨナ

キムヨナの演技が終わった瞬間、これはもう決まった、と思った。完璧と云う以上に、すべてが楽しめる、本当に素晴らしかった。金メダルおめでとう。彼女と真央ちゃんの違いは、まず、関節のやわらかさ。心もやわらかいのだと思う。ジャンプが曲の流れで自然に出来ること。他の人はジャンプに入るとき、やるぞっ というように身構えるが、それが最小限である事。音楽性に優れているのだろう。それにしても、真央ちゃんの曲は重苦しすぎる。心がひきつけられない。なぜ、あのような曲を選ぶのか、理解できない。それを受け止められるだけの成熟度が、彼女にはまだ備わっていないと思う。曲が違ったなら、もっと点数が伸びたと思う。でも、オリンピック女子スケートで初めて、トリプルアクセルを決めたと言う評価の点数は、低過ぎないだろうか。もう少し高い点が出てもよいと思うのは身びいき?だが、無難にまとめるキムヨナと、いつも難しいことに挑戦する真央ちゃんでは、四年後がどうなっているか。真央がんばれ。きっと、いつか勝てる。

真央ちゃん

今日バンクーバーオリンピックのアイススケートの決勝戦。宿命のとしか言いようの無い二人の対決。全世界から注目されながら、大舞台に挑む二人に、心から声援を送りたい。
真央ちゃんのキリリとした美しさと、チャーミングなキムヨナ。ふたりを比べなくても良いではないかと、甘っちょろい猫魔さんは考える。どちらもステキでは駄目なの?しかし、あの若さで努力を重ね、世界の頂点に立つなんて。  かつて、オーケストラの演奏旅行でバンクーバーに行ったとき、最初の曲の最初の音と最後の音をを弾くのが猫魔さんの役でした。ピアニッシモ、小さい音で長く伸ばす、それから他の人が入ってくる。日本で直前に定期演奏会で弾いたときは上手くいったのに、そのときは震えてしまって、音が伸ばせない。カナダテレビの放送で録画した時も、手がアップになり、震えているのが写ってしまう。毎日、時差で眠れないのに、緊張してますます眠れない。これでもうダメ、と思ったら、バンクーバーオーケストラのコンサートマスターが、お前、手が震えるな。と云ってからかってきた。そのとき、負ける物か。と思った途端立ち直ってそれから、震えなくなった、と言う経験をした。真央ちゃんもトリプルアクセルを飛ぶ前に足が震えたそうだけど、見事に飛んで本当にえらい。比類無いほどのプレッシャーの中で、19歳の若さで毅然としている二人を見ていると、尊敬の念に打たれる。       たまさぶろう、キムヨナは猫みたいにチャーミングだね。  えっ、僕は真央ちゃんが猫だと思っていたよ。だって、中国語で猫はマオでしょう?      どうしてたまは中国語知ってるの?    僕、前世は中国の王様だったのかもしれない。その前は長靴をはいた猫だったけど。その前は漱石の猫だった。      それ、歴史的におかしいよ。たまは飼い主に似てきたねえ。

2010年2月24日水曜日

花粉の季節

猫魔さんは春にうまれた。だから性格も、ちょっと春めいている。でも、自身は春があまり好きではない。なぜか自分の誕生日には、熱を出して寝込むことが多かった。のどが腫れたりゾクゾクしたり、具合が良かったことがない。花粉症が市民権を得た頃、やっと自分は花粉症ではないかと気がついた。耳鼻科に行くと果たして花粉症の宣告。病院でレーザー手術の案内を見つけ、受ける決意をした。  当日診察室に入ると、鼻に麻酔薬を塗ったガーゼを、細いピンセット状の物で詰めてゆく。沢山詰めるので、思わず、  先生、今、何枚目ですか? と聞いてしまった。鼻の奥は意外と広いのね。 ついでに顔のしみもとっていただけませんか、と聞くと、 残念でした。シミをとるのとは違う器械なのよ、と女医さん。  20分ほど待合室で待たされた。そこにはもう一人手術の患者さんが待っていて、緊張で険悪な顔をしている。   いよいよレーザーをあてる。バチッという音がするが、痛みは全くなく無事終了。会計を終わったら、さっきの患者さんに出会った。すっかり、顔つきが穏やかになって、あら、なかなかハンサム。      なあんだ、こんなものか。  と思ったが、大変なのはその後1ヶ月ほど。血膿のような鼻水が止め処も無く出てくる。ちょうど、スキーの季節、ゲレンデでグローブをはずしたり、ティッシュを沢山ヤッケに入れたり、使ったごみをずっと持っていなければならない。とても、わずらわしい。でも、お陰でその後何年も楽でした。

2010年2月23日火曜日

ロマンチック街道 さようなら

オーストリアに入る。南に来るにつれて、変わってくるのは人の気質。ドイツでの見事な親切さや整然とした町並み(それはどの都市も同じ様な)清潔さなどは、微妙に崩れてゆく。ザルツブルグは親しみの持てる街だったが、到着したのは土曜日の午後。モーツアルトの家はもう閉まっていて、入れない。翌日は日曜日でお休み。この石畳を彼が歩いたであろう、というだけで満足するしかなかった。翌日、合唱隊の声を聞きに日曜日のミサに入り込む。いよいよ、ウイーンへ。今までの田舎っぽい様子とは打って変わって、大都会に来た実感がする。ウィーンは道路が環状になっていて、一方通行が多く苦労した。オペラのチケットを買いに出たら、すぐそこだと云うのがわかっているのに、一方通行で入れない。グルグル回ってやっと到着寸前、ごみの収集車が前をふさいでストップ。やれやれ。   季節は9月の中ごろ。寒いと思ったら暑くて着るものがない。厚手のワンピースというださい格好で、「フィガロ」を聞きに行く。旅行中だから仕方がないと思ったら、みゆきさんとみゆきママはちゃんと薄物でおめかし。さすが、学長秘書親子。お決まりのザッハトルテに買い物、夜はヴァイオリンの演奏を聴きながらワインを飲みすぎて、騒いで、みゆきさんからチクリと釘をさされる。良く出来た弟子を持って、私は幸せ。あれから30年たって、もう一度ウィーンを訪れたが、大して変わっていない。これがヨーロッパの良いところだと思う。人にとって何が一番大切かと言うことを、知っている。ただ、ウィーンの空港でライフルを提げた警官が沢山いたので、やはりここはヨーロッパ、日本のように暢気な国ではないことを実感した。帰国して皇居前を車で走っていると、松の木の青さが目にしみる。やはり、日本は美しい。

2010年2月22日月曜日

ロマンチック街道 その4

ノイシュバンシュタイン城のことを書くのを危うくわすれるところでした。アウトバーンを下りてのんびり走っていると、突然標識の行き先の道に×印が現れた。エッこの先道が無い?みゆきさんは後戻りして道を変えようと言うが、でも、方角はあちらの方でしょう。だったら、行ってみようよ。猫魔さんはあくまでも無精者。引き返すなんてもったいない。ほんとに道は無くなって、迂回路は畑の中、進んでいったがちょっと聞きましょうと、近くの家のドアをノックする。おばあさんが出てきて、たぶん物売り(しかも、外国人の)と勘違いして、拒絶の姿勢、だが、やっとわかって貰えて、あちらの山の方だと教えてくれる。ある村に入り一休みしようと、カフェに入った。母娘でやっている、小さな店。日本人に遭うのは初めてといって、とても歓迎された。娘は17歳くらい?美しき水車小屋の娘を連想する。  外は小川にアヒルが泳ぎ、両岸は草木が生い茂り、日本でもめったに見られない田園風景。心休まる、この旅の最も素敵な思い出になった。ノイシュバンシュタイン城は巨大なお仏壇みたいなお城。装飾過剰、気味が悪い。遠景はステキなのに。ここに住みたいとは絶対に思わない。たとえワグナーが演奏してくれたとしても。そういえば、ワグナーはものすごく変な人だったそうな。これ以上書くとドイツ人に暗殺されそう。   話が飛ぶが、ミュンヘンで遭った犬の話。公園でつながれていないシェパードが、ぴったりと飼い主の左側について歩いていた。私とすれ違うとき飼い主が何か言うと、犬が耳を伏せ、尾を後ろ足の間に居れて匍匐前進したのには驚いた。なにもそこまでしなくても。ドイツ人はなんでも完璧。ドイツの写真のアルバムが見当たらなくて、掲載できない。つまらないから、ネットで探して添付したら、プロの写真はあまりにも素晴らしく、全くマッチしないので、削除した。私は到底ドイツには住めそうもない。

ロマンチック街道 その3

借りた車はゴルフ。アウトバーンをすべるように走る。時速制限が無いので、180キロまでだしてみる。それ以上はちょっと勇気がなくて出せない。コンスタントに160キロで走る。後ろからベンツが猛烈なスピードで追い越してゆく。今はドイツでも時速制限をするようになったと聞く。そのため、逆に事故が増えたらしい。制限時速よりマナーを徹底すべし。驚いたのは制限の無いところでは猛スピード、だが、工事やなにかで制限50キロとなると、完璧に全員が制限を守ること。それは、見事だった。日本は制限ばかりで、誰も守らない。    時々、アウトバーンを降りて川に沿って進むと、葉の裏が白い木が沢山あった。風で葉の裏がチラチラと翻ってきれい。川岸のベンチで休む人、散歩する人、のびやかな田舎の風景。アウトバーンに戻ってサービスエリアに入ると、ヤーパン、ヤーパンのささやき声がする。今から30年以上前だけど、そんなに日本人が珍しかったのかなあ。時々コーリアと言うから、ナイン ヤーパンと訂正しながら進む。ホテルで朝食のパンとハムを失敬して昼食にしていたが、パンもハムも口に合わない。要するにまずい。日本はなんでも美味しいから幸せですね。ヴュルツブルグ、ローテンブルグ、アウグスブルグ南下してミュンヘンに。ミュンヘンではみゆきさんの伝手で、一般の家庭に招待された。ご主人は大学教授、奥さんは日本人で活け花の先生、それと、14歳の息子さん。この、14歳の息子さんが立派にホスト役を務めるのに、本当に驚いた。奥さんは私は料理を作ったからもういいの、と言って座ったまま、ご主人はせっせとワインを取りにいくのが役目で、息子さんはグラスとお皿が空にならないように気を配ってくれる。日本人の中学生がこんな気配りできないよね。

2010年2月21日日曜日

ロマンチック街道 その2

中世を最も色濃く残すといわれている街、ローテンブルグはまるで、おとぎの国。記憶が曖昧ですが、市庁舎には時間が来ると仕掛けが飛び出す時計があったような。(別の街だったかもしれない。)今でこそ日本でも見られるが、初めて見た時はびっくりした。ソーセージを食べなければいけないような気がして食べるが、特に美味しいとも思わない。猫魔さんは高校、大学と第一外国語はドイツ語をとったのに、全く話せない。ようやく数が数えられるくらい。1(アイン)2(ツバイ)・・・・・9(ノイン)10(ツェーン)そして、なぜか・・イレヴン、トゥエルヴ・・  あれっ? いつのまに。どこで道を間違えたかな。  だからホテルの夕食を注文するのに30分かかった。 鱒の料理。  それは、煮たの?焼いたの?蒸したの? 付け合せはなに?野菜、これはどんな野菜? 温かいの?生? どんなパン? ようやく注文が済んで周りを見ると、周り中が笑ってこちらを見ている。
食べ終わって外に出るとき、隣のテーブルの熟年カップルからエールを贈られる。   猫魔さんはヨーロッパのホテルが苦手で、それはサイズが合わないのもあるけれど、古いホテルはなんとなく不気味に思える。その夜食べ過ぎて(なんたって、鱒が丸々1匹出てきた)寝付けないでいると、闇を貫いてギャーッと言う声が聞こえた。朝、外に出ると、鳩が1羽、引き裂かれて道に転がっていた。カラスか犬か又は人間が?ほんとに不気味。おとぎの国が中世の暗黒をはらんで見えてくる。

ロマンチック街道 その1

「ドイツに行きませんか」誘われてことわるような人ではありません。猫魔さんは二つ返事で快諾します。みゆきさんとそのママの3人旅が始まりました。みゆきさんは某大学の学長秘書。よほど有能でなければ務まらないポジションだと思う。彼女がすべてのアレンジをしてくれるので、猫魔さんは運転を頑張れば良いだけ。フランクフルト空港からレンタカーで外に出た頃にはすっかり日も暮れて、今みたいにカーナビなんて無かったから、どちらが西やら東やら。とりあえず、走り出す。その内標識が出るだろう。あれっ、今信号赤だった?信号機が日本より低めなので、信号機の存在に危うく気がつかないところだった。向こうから自転車が来る。とりあえず、道を聞こう。自転車の男性はクルッとUターンをすると、付いて来いと言う。全力で先導してくれて、この辺だと言って去っていってしまった。ホテルの場所を地図で確認していると、窓をノックする人がいて、  ちょっと、待っていなさい。この辺は一方通行だから、確かめてきてあげる。 と言って連れの女性をその場に残し、歩いて探してきてくれた。なんという親切さ。翌朝ホテルの窓から見下ろすと、背の高い素敵な男性ばかり。これだけでも、ドイツに来た甲斐があったというものだ。女性はロングのタイトスカートに、お尻まで届きそうな深いスリットが入っていて、後ろから見ると長い足がもろ見える。その頃の流行だったのですかね。駐車場が無いので、路上駐車をしていたが、朝、車に行くと駐車違反の切符が切られていた。ホテルマンは捨ててしまえといって、ヒュッと破くまねをする。ここは逃走することにする。ドイツ人の親切さは尋常でない。レンタカーの受付でもたもたしていると、ずらっと長い列が出来てしまったので、私たちは後ろに回ろうとすると、構わないと言ってキチンと行列をしている。誰一人イライラした様子を見せない。背筋を伸ばし、静かに並んでいる。おそれいりました。

2010年2月19日金曜日

大輔君銅メダルおめでとう。猫魔さん感激。

よかったね。たまさぶろう。日本人男子スケート初のメダルだよ。    ふーん、でも、人間はなんで着地で転ぶの。猫は転ばないのに。   あのね、人間は二本足で、しかも足元は氷なの、ツルツルしているの、普通の人なら歩くのもやっとなのよ。怪我で一年棒に振って大変だったんだよ。    ふーん、僕は尻尾ふるけど、棒にふるって?    努力してきたのに、ちょっとしたミスで努力が水の泡になるってこと。   水の泡はおいしいの?猫魔さんビールの泡好きでしょ。   なんか、会話がかみ合わないなあ。感激が水の泡。でも、お祝いにビールの泡飲むか。    ああ、ずるい。僕飲めないもん。    たまは水でいいの。    ところで、猫魔さんはオリンピックだブログだと言って、ちっともヴァイオリンの練習してないね。そんな事では今までの努力が水の泡だよ。下手すると、一生を棒に振るよ。    あらっ、意味わかってるんじゃない。ほら、たまさぶろう、少しはシャッキとしなさい。     アー、だって、僕夜遊びするから、昼間は眠いの。

2010年2月18日木曜日

猫魔さんのイタリア旅行記 最後の晩餐編

ミラノはさすがにファッションの街。男性の素敵なこと。本当にスーツはこの人たちが着るためにあるんだわ。イタリアを離れる最後の夜、レストランをさがす。この旅行を通じて、1回もハズれがなかったのは、えみさんの異常にハナが利くお陰でした。あるレストランなどは、気に入ったので翌日も行くと、なんと、シャンパンのサービスまでしてくれた。あまり楽しそうに食べるので、周囲の人たちも楽しんでくれたみたい。その日は、気に入るお店が見つからず、では、ホテルで食べようかと帰りかけたとき、かすかに明かりが見えたので行ってみると、こじんまりとしたレストラン。ウエイターは小柄な老人。わけのわからない東洋人が入ってきたので、いやな顔をする。いつもどおり料理は1種類ずつ、お皿とナイフ、フォークは4つ注文して楽しんでいると、隣のテーブルに8人ほどの紳士たちが、大きなお肉や美味しそうなワインを次々に平らげてゆく。よほど羨ましげに見ていたのだろうか、ワインが回ってきて、その内、旅の会話帳なるものを持っていたのを見せろと言う。見せると大笑いして、さすがイタリア男たち、すぐに、恋人になってください、とか、今夜付き合え、とか、そんなところばかり探し出して盛り上がる。最後の晩餐は思いがけず華やかなものとなった。ウェイターはその頃にはすっかり愛想良くなり、別れ際には一人ずつ手を握って、悲しげにアリベデルチ、と言ってくれた。この4人今でもずーっと一緒に、合奏団で演奏しています。あれから、20年以上経つのに。

猫魔さんのイタリア旅行記 ベニスは奇怪な街

ベニスはいままで行ったどの都市よりも、不思議な魅力をたたえていた。まるで、夢の中にいるような、しかも、ほんの少し悪夢が混じっているような、気持ち。マーラーの5番のアダージオ、(ベニスに死す)の主人公の、醜く化粧の溶け出すシーンが浮かんでくる。横になると、かすかに揺れている。カーニバルで被るお面、きらびやかなのに、少し不気味、そんなイメージ。モーターボートでガラス細工の島、ムラノ島へ渡る。恐がり屋のじゅんこさん、この時も 「私たち、さらわれるんじゃない?」と、えらくご心配。しかし、私たちをさらって役にたつかどうか、その辺はすこぶる疑問だから、「大丈夫よ」と答える。ベネチアングラスの工房につれて行かれ、おそろしく熱心に売り込まれる。しかし、壊れやすく高価な品物を、貧乏音楽家が買えるわけがなく、すっかり気落ちした工房の主は帰りは勝手に帰れ、だと。面白かったのは、八百屋さん。トマトでもきゅうりでも、一緒に紙袋に入れて計って値段がきまる。何でも同じ値段で、必要なだけの量が買える。これは良い。夜、ホテルの窓の下で騒いでいる人たちに、「アンターラ ウルサイーナ」と、日本なまりの偽イタリア語で叫ぶ。
駐車場のおじさんは全く英語が出来ず、イタリア語を第2外国語で勉強した猫魔さんも、全くイタリア語が出来ないから、「(駐車料金は)ナンボヤーネ。」と大阪弁イタリア語で聞いたら、困った風に笑っていた。なんだ、外人だってわけも無く笑うじゃないか。

猫魔さんのイタリア旅行記 アルファロメオはブツブツ編

フィレンツェの朝、一人で散歩に出る。大聖堂に近い場所で穴蔵のような入り口発見。覗いてみると沢山の蝋燭がともされている。教会かな?入ってみてびっくり。見事なステンドグラス。小さいが、朝の光を受けて荘厳に輝いている。すごい宝物を見つけた気分でホテルに帰る。レンタカーはオートマ、エアコン付きを予約してあったのに無い。アルファロメオのうさんくさい中型車。ろくに掃除もしてないじゃない。決して自分の車を掃除しない猫魔さん。勝手なものいい。とにかくシエナに向かって走り始める。ヨーロッパで運転するのは2回目。だいぶ前にドイツを旅行したとき以来だが、ヨーロッパ人は我慢強い。道のど真ん中でUターンしても、だまって待っていてくれる。シエナに着いて、そこで沈没。500年かけて建造されるという、大聖堂に圧倒される。広場でゆったり時間を過ごしていると、もう、動きたくなくなる。ピサの斜塔や地中海や、予定にいれていたのに、だれも動かない。静かにゆったりと時間が流れる。・・・帰路はトスカーナのブドウ畑の山道を越えた。その頃、アルファロメオは怪しげな行動。他の3人はご機嫌で、キャンテイワインの産地の景色を楽しんでいたが、運転の猫魔さんは、冷や汗が出る。エンジンに今ひとつパワーがなく、ゴトゴトと不規則な喘息状態。この山、果たして越えられるのだろうか?  あなたたち車が故障したら、この山道で後ろから押すのよ。 と言うと、 はーい。  ご機嫌なお返事。事態がわかってないな。 なだめすかしてフィレンツェに。あー良かった。ドイツで借りたゴルフは素晴らしく良く走ったのに。イタリアはいい加減。でも、イタリア大好き。

2010年2月17日水曜日

猫魔さんのイタリア旅行記 ダフネ編

猫魔さんには沢山のサポーターがいて、その内の一人チェリストのTさん。娘のように可愛がってくださった。イタリアに行ってきます、と言ったらぜひダフネ像を見てきて、といわれた。太陽の神アポロに見初められ、追われて逃げ切れなくなり、月桂樹に変身してしまう。猫魔さんは私なら逃げないのに、と思うけれど、追いかけてくる人もいないから、逃げる必要も無い。残念 ロダンのダフネは思った以上に(ロダンさん、失礼)素晴らしい。イタリアに来てみると、街そのものが美術館。その中で、ロダンは格別。 でも、イタリア男は危険。ローマから列車でフィレンツェへ。女性4人なので、目をつけられていたらしい。他の車両があいているのに、私たちの座席にきて、腰掛けたいという男性2人。ここは一杯と言っても後にひかない。スーツケースを積み上げて入れないようにして、撃退する。ここで、月桂樹に変身するところだが、猫魔さんなら鬼アザミ、良くても、鬼百合か。車窓には一面のひまわり畑が過ぎてゆく。フィレンツェで、レンタカーを借りてトスカーナを走る予定。地図を手に入れようと広場の売店に行きあれこれ見ていると、突然早足で近ずいてくるオッサン。身構えてハンドバッグをひしと腕に抱えると、悲しそうな顔をされた。売店のおじさんだったのです。

猫魔さんのイタリア旅行記 法王庁の抜け穴編

ドゴール空港近くのホテルは、さすがフランス。朝食の多彩で美しいこと。バスの中で会計明細を見ると、前夜部屋で飲んだビール代金が入っていない。どうやら、自己申告制だったらしい。でも、もう空港に着いてしまったし、踏み倒して逃げることに。一路ローマへ。 ローマに入ってからも数々の珍事があったけれど、一大事はバチカンで起こった。天井にまで華麗に描かれている絵の数々に上ばかり見とれて、さあ、次に行きましょうか、というときに一人足りない。でも、コースは決まっているから出口で待てば合流できる、と簡単に考えて待つことしばし。しかし、出てこない。1時間待っても出てこない。これは、なにか異変が。公衆電話をさがしても、すべて故障中。今みたいに携帯など無い時代。連絡の取りようもない。じゅんこさんは「きっと人攫いにあったのよ」と泣き出す。まさかと思っても、こんな大きな宮殿には抜け穴や隠し部屋があるにちがいない。もしや、どこかで助けを求めているのでは、と、心配は頂点に。でも、こうしていてもしょうがないので、いったんホテルに戻りましょう。・・・ホテルに着くと居たっ。穏やかな顔をして、実はアメリカ人観光客について行ったら、向こうは団体だから別のコースで別の出口から出て、塔に登ってバチカンの景観を見てきたの。もう、20年も前の話なのに、いまだに集まるとバチカン、ローマと言っては彼女をいじめる。

2010年2月16日火曜日

猫魔さんのイタリア旅行記 宇宙的恥編

アンサンブルのレッスンの中で、夜のしじまのように、と言ったら、しじまってなんですか?と質問された。静けさとか沈黙という意味と言ってから、又冗談体質が出て、しじみの単数形よ、しじみも一人じゃ寂しいでしょう?で、爆笑。受けて良かった。イタリー語で、複数形は語尾がIになる。celloがcelliになる。sijimaは複数でsijimi、くだらないことなら、すぐ思いつくものですね。で・・・20年ほど前に行ったイタリア。ほら、又駄洒落。
成田空港に集合した疲れ果てた4人。10日あまりの旅行となると、その前後が大変。用事や仕事のやりくり、言い訳、懇願、スーツケースに果たして何がはいっているか。いないか。もう、なんでもいいから行ってしまえ。・・・・・・・乗り継ぎのドゴール空港で騒ぎは始まった。まず、「ホテルに電話してシャトルバスがどこから出るのか聞いて」 と云って皆が猫魔さんを見た。「エッ私が?どうして?」 すると、「あなた、学校で第2外国語はイタリア語だったと言ったでしょう。」  「だって、いくらなんでも、10何年も前に第2外国語の授業受けただけで、しゃべれるわけないでしょう。それに、ここはまだフランスだし。」  じゃあ、どうするの。  「それじゃ、きょうこさん、あなた毎週英会話に行ってるはずだけど。」  「 だめ、無理無理、」   「では、えみさん、あなたドイツ語の一級持ってるでしょう。」  「だって、ドイツ語よ。それに、ずいぶん前のことだわ。」    「どうするの、じゅんこさん、あなた社交的だから、あなたがかけてみて。」  「 だめよ。出来ないわ。」 そこで皆その場にひっくり返って笑った笑った。皆お互いに責任をなすりつけあいながら。 この4人がイタリアに行くと聞いた仲間のご主人が、それは日本の恥さらし、いや、宇宙の恥さらしと言った予言が早くも的中。だが、ローマに視察に行った日本の政治家が遺跡を観て、「ローマの復興は遅れている」と言った、それに比べればなんてことないわ。

2010年2月15日月曜日

イスタンブール

イスタンブールでは町の中心に近い、こじんまりとした家族的なホテルに泊まる。フロントマンがインターネットで、ずーっとピンクサイトを見ている外は、なかなか良い感じでした。モスクもすぐそばにあり、朝やってきたのは美人のガイドさん。とっても愛想が良い。ひとしきり観光した後は、彼女の友人がやっているトルコ石のお店に連れて行かれ、買い物。買い物がすむと、そこでガイド終了。昼食のレストラン選びに手間取ったので、まだ、その辺に居たガイドさんを呼ぶと、すでに態度は一変して、いかにも面倒だと言わんばかり。本当にこの辺がはっきりしている。思わず、笑ってしまった。 ホテルのバルコニーで海を見ていると、何時間でも飽きない。皆を観光に送り出し、一人で海を見る。コーヒーを持ってきてもらい、午前中ずっと、刻々と色の変わる海を眺めていた。    モーツアルトが好きだったトルコの軍楽隊を聴きに行く。広い宮殿の奥、中庭に面した小さなホールで、短い曲を次々と演奏。リズムも面白いし、ハーモニーも独特。天才児モーツアルトはとても喜んで聴いたに違いない。
     船に乗る計画もあったが、結局乗らずにサバサンドを食べる。焼いたサバをパンにはさんだだけのシンプルなサンドイッチ。でも、美味しい。港町には猫が沢山居て、みな可愛がられている。大きなひげ男たちが、通りすがりに頭をなでていく。トルコの猫はしあわせ。   たまさぶろう、
トルコに行くと幸せだよ。と、言ったら、トルコの男たちのひげは立派で、僕、負けるからいやだ、とさ。

カッパドキアの夜明けその2

書き込みありがとうございました。バルーンの着地についての疑問。私も一番面白かったのがそれで、まず、風船なので、気流に逆らっては飛べない。なので、出発点と着地点が違います。無線のやりとりで、着地点に向かってトラックが走ってきます。今回は刈り取られた後の麦畑に着地。トラックが来ると又バーナーで加熱。なにをするのかと思ったら2、3メートル上昇して、その下にトラックの後ろにつながれていた荷台を差し込むと、加熱をやめてするすると荷台にバスケットが乗りました。そして、風船をたたんでOK。麦畑にテーブルが現れ、シャンパンの栓が抜かれてお祝い。心憎い演出付きでした。

2010年2月14日日曜日

カッパドキアの夜明け

エジプトからトルコへ。カッパドキアの洞窟ホテルに泊まる。夜中に到着。歓迎にワインをいただく。
月明かりの中ににょきにょきと奇岩が見渡せる。不思議な光景。今まで見たどんな景色よりも不思議。サルの惑星?ここまで来ると、さすがに遠くに来たと、感慨ひとしお。2日目、夜明けのカッパドキアをバルーンに乗って眺める予定。まだ、暗いうちから外に出て、迎えのバスをまつ。遅い。時間が過ぎても来ない。日本人で楽隊だから、時間には超うるさい猫魔さんは、いらいら。もう、乗らないっ、なんてわめいていたけれど、やっと乗り場に到着してみると、空気を暖めてバルーンを膨らますガスバーナーの音につられ、期待が高まってゆく。ギュウギュウ詰めにバスケット状の座席に詰め込まれた頃には、機嫌が直って満面の笑顔・・・と言うより、顔中口だらけになって、ニンマリ。そして、しずしずと(時々バーナーがゴオーッというので、うるさいが)上昇してゆく。全く揺れない。猫魔さんたちの乗ったバルーンは他のバルーンを追い抜いて、どんどん上昇する。目の前に奇岩が迫ると、ひょいと向きを変える。どの様にしているのだろうか。空気そのものみたいな物を、操縦するのは。夜がだんだん明けて、上空の濃い青紫色が、だんだん、透明の青にかわる。そして、ばら色。夜明けの空を漂っていると、カッパドキアの夜があけた。

弦楽アンサンブル

所属している音楽教室の弦楽アンサンブルの指導に、あざみ野アートフォーラムへ。駅からきつい上り坂が続くので、足が痛いのを口実に車で。途中でお昼ご飯を食べようと、レストランを探す。パスタとピザの看板があったので入ってみると、ちょっとレトロな感じで、流している音楽は私が学生時代に流行った曲ばかり。思わず一緒に歌いたくなる。会計の時、懐かしい曲を聞かせていただきました、と言うと、皆さん喜ばれるとの返事。うれしくなって、会場に。このアンサンブルを始めた頃に比べ、人数も増えて、どんどん進歩しているのに感心する。だって、私たちプロと違ってアマチュアは、ウィークデイは楽器を弾いてばかりいられないはず。それなのに着実にうまくなってゆく。
たまさぶろうがつぶやく。(猫魔さんは最近下手になったよね。勉強不足?)  (おだまり、まだ、口はすごく良く動くからいいでしょ。)  
もう一つ指導しているアマチュアオーケストラもすごく意欲的で、音楽はアマチュアの方が楽しめるのかなあ、とも思う。音楽で食べていけるのは無上の喜びだと思ってはいるけれど、時として、疑問が生まれることも。

2010年2月13日土曜日

エジプト、トルコ旅行記その2

ピラミッドから少し離れた砂漠でらくだに乗る。以前モンゴルで乗った事があったので、乗り心地の悪さは知っていた。砂漠の中をユラリユラリとゆれていると、小さいことなどどうでも良くなりますね。 
でも、ここでは大変な現実が。らくだ遣いの少年・・10歳にもならない位の・・が、親か親方かに殴られて、仕事をさせられていた。エジプトに来てから、よくそんな出来事を目撃しました。すでにそんな年でも、すっかりこすっからくなっていて、砂漠の真ん中で写真を撮るからお金を出せ。でないと、自分はもうらくだをひかない、と言って寝転んでしまう。だれも応じないとみると、いやいや歩き始め、コースを半分くらいでショートカット。腹も立たない。日本の子供たちにも、このくらいのバイタリティーがないと、今に世界中から食われてしまう、と思う。あまりにも過保護で主体性がなくて、心配です。夜はディナークルーズ。ベリーダンス付き。不思議に思うのは、宗教の戒律厳しいこの国で、女性は肌を隠すのに、ほとんど裸のダンスを見せると言うこと。もっとも、少しも卑猥な感じではないけれど。人によっては、特に男性はどう感じるのか。謎。知識が無いのでわからないが、もしかしたら宗教的な意味があるのかな?とも思う。 次からトルコです。

2010年2月12日金曜日

エジプト、トルコ旅行記その1


9月末のエジプトは日差しは強いけれど、とても快適。でも、朝4時半、ものすごい大音響に飛び起きた。朝のお祈りの時間を告げる、割れんばかりのスピーカーの声。初めての異郷の地で、多少の興奮もあり、やっと、寝付いたばかりだというのに。始めはなにか騒ぎが持ち上がっているのかと、思った。それが、毎日続くのには、まいりました。食事は豆類や野菜が多く、とても美味しい。商店街では、荷棚から溢れんばかりの果物の山。困ったことに英語があまり通じない。カイロでいつものように大好きな一人歩きをしていたら、危うくホテルにたどり着けなくなるところでした。みんな親切で、道を聞くと一生懸命教えてくれるのが、みんないい加減で、そのお陰で素晴らしいモスクが見られてしまった。ラッキー。まるで子供のように若いタクシードライバーが必死でさがしてくれて、無事ホテルに到着。彼も私をホテルに届けられて、とてもうれしそうだった。ピラミッドもスフィンクスも素晴らしいけれど、いつも旅に出るとその土地であった人々との交流が一番楽しい。私は前世が野良猫だったらしい。

たまさぶろうは嘆く

僕はお元オス猫だから、冒険心に富んでいる。なのに、狭い部屋に閉じ込められて、外の空気はベランダでしか吸う事ができない。それに、婚約者のラーラちゃんとだって、一回もあわせてもらったことがない。どうやら、すごいお姫様らしい。イタリアの名門の出身で、日本には何十匹といないらしい。きのうの夜も退屈で退屈で、猫魔さんにまとわりついて叱られっぱなし。でも、トイレが汚れていたからなんだ。猫魔さんは気が付かず、僕がうるさいって叱るのさ。勝手なんだから、人間は。猫魔さんは半分は猫だけど、おおざっぱと言うか、気がきかないと言うか、僕の言葉が時々わからないらしい。それで、ついに、僕は我慢できずトイレじゃ無い所でおもらし。猫魔さんはやっと気がついて、ブツブツ言いながらお掃除さ。でも、自分の気がつかなさを反省したらしく、叱られなかったよ。
夜中に僕のおもらしを拭いている猫間さん見ていたら、ちょっと悪くなって、大きな声であやまったら、うるさいってしかられた。まったく、女心は謎だね。

2010年2月11日木曜日

猫魔さんはバカボンの娘なのだ。

昨日新しいウオーキングシューズを買った。今年の初めに今まで長年愛用のシューズがへたりはじめた。探しに靴屋さんに行くと、なかなか良い靴があったにもかかわらず、見てくれが可愛い赤い靴を買ってしまった。履いてすぐ、しまったと思った。 たまさぶろうが馬鹿にして鼻を鳴らす。  
その靴に替えてからどうも調子が悪い。 昔赤い靴という映画があったのを、憶えている人はあまりいないでしょう。バレリーナの悲恋の美しい物語。紅涙をしぼりました。それで、赤い靴はやめて、ちゃんとしたウォーキングシューズを買ったところ、とても具合が良くて、今日は、いけると思いました。メールで忠告してくれる人がいて、あまり使わないほうが良いと言ってくれたのに、雨の中歩きに出かけました。途中まではすごく調子が良くて、カラスの夫婦も会いに来てくました。   ・・・・でも・・・・濡れた階段で足を滑らせて転びそうになったのを踏みとどまった時・・・・グギギギ・・・・その場にうずくまりたいくらい痛かった。歩けないでいると、パトカーが通りかかったので、家まで送ってもらおうかと思ったくらい。でも、なんとかだましだまし歩いて、帰ってから又馬鹿なことをやってしまった。お風呂に入って存分に暖まってしまったのです。くじいた直後は冷やさなければいけないのに。今すごく痛い。痛いよー。せっかく、忠告してくれた方、ごめんなさーい。私はバカボンの娘、なのだ。    と、言うよりバカなのだ。

2010年2月10日水曜日

猫魔さんモンゴルへ行く 最終回

草原の旅から戻って、久しぶりのシャワーを浴びて、そのときやっと鏡を見たら・・・・ハロウインのかぼちゃのような顔が写っていた。この顔で名古屋に日本に帰るのか・・・腫れたところが紫色と黄色のまだらになって、お岩さんのようだ。あまり外見を気にするほうではないが、これはひどい。しかし、ウランバートルに戻って、市内見物を始めるとすぐに、そんな事は忘れてしまう。国立劇場の民族楽器のコンサート、民族舞踊、とても素晴らしい。やはり、騎馬民族のリズム感はずばぬけている。 岐路につく空港でトイレに入った一人がつぶやいていた。 「せまい。」 草原トイレは本当に広かった。   たまさぶろう 「僕本当に寂しかったよ。お留守番長かったから。」  「ウソおっしゃい。たまはまだ産まれていなかったでしょう。」  懐かしいモンゴル。これはもう15年以上前のお話でした。 


帰国後湯布院での騎乗風景です。

猫魔さんモンゴルへ行く その5

すっかり馴れてきたころ、事件はおきた。まず、ご夫婦で参加の奥さんの馬の腹帯が切れて、落馬。普通腹帯の点検などは自分でする。しかし、このときはモンゴル人が、馬の管理は自分たちがするから馬に触らないようと言ったので、全く触ることができなかった。どうやら、腹帯が擦り切れていたらしい。その次は、かくいう私。すっかり馬に馴れて、ずうずうしくも余所見をしていて、タラバカンという大型ねずみの穴に馬が足をとられ、落馬。草原には無数の穴があいていて、ちゃんと乗っていれば、馬が足を取られたときさっと手綱をくと、立ち直れる。しかし、いい気になっていたので、対応できず頭から落ちる。ヘルメットの淵がじめんにあたり、サングラスのつるが鼻にあたっる。落ちたとたん、モンゴルの少年がさっと走ってきて、後ろから羽交い絞めにされトントンと体をゆすられた。どうやら、気付けの術らしい。その夕方、大きなビーフステーキで顔を冷やし、それを焼いて食べる。久しぶりの牛肉が役に立つ。次の日から、私の顔はカボチャのように腫れ上がり、二目とみられない様に。でも、鏡がないから自分は平気さ。

猫魔さんモンゴルへ行く その4

その年、モンゴルは珍しく雨が多くて、一日テントで天候が回復するのをまっていた。午後、雨は小降りになり、時々晴れ間も。そこで、急遽近くにいた遊牧民が馬のテクニックを披露してくれることになった。あらわれた男性に女性陣から感嘆の声が。すごいハンサム。 さて、そのテクニックとは。
まず、馬を疾走させながら帽子をなげ、もう1周してきてうまの上から拾い上げる。わざと、馬を暴れさせておいて、ロデオのように乗りこなす。鞍から半身離して乗るなど。馬を下りるとはにかみやのやさしい青年。なんにちもそうやって草原また草原の旅。なんにもないということが、これほど素晴らしいとは。四方八方草原だけ。電柱1本みあたらない。草むらにしゃがむと、目の前に白い小さな花をつけた草。風の音と馬のいななき。モンゴルの馬はおとなしくて、めったに鳴かないけれど。
天国ってこんなところなんでしょうか。

猫魔さんモンゴルへ行く その3

夜中に目がさめた。頭のすぐ上で馬のいななきと人の声がする。外にだれかいるようだ。こんな近くに馬が居るのかと驚いて外に出てみると、近くには誰もいない。ずっと遠くに馬の群れと馬方さんたちが居る。そうか、あまりにも空気が澄んでいてあたりが静なので、あんな遠くの音もすぐ近くに聞こえるんだ。空を見れば、満天の星。 私の護衛をしているモンゴルの少年たちと、すぐに仲良くなった。数の数え方を教えてくれて、私が言い間違えると、大喜び。休憩時間にはオセロゲームを教えると、すぐにうまくなる。特に頭が良い子がいて、年齢を聞くと17歳。素朴でやさしく、そして、勇敢。さすが、チンギス ハーンの国の人々ですね。食事は相変わらず羊。でも、コックさんが色々アレンジしてくれる。馬より先にトラックが野営地まで行って、食事の用意をするのだが、のんびりしているので私たちが到着しても、火がおきてなかったりすることが多い。せっかちな日本人たちはせっせと手伝う。火をおこすのに草原の風まかせなので、団扇を取り出した人がいた。こうやって仰ぐのだと見本にぱたぱた。でも、モンゴル人は笑いながら、ゆっくりと左右に。それから、火おこしは日本人の役割になった。

2010年2月9日火曜日

猫魔さんモンゴルへ行く その2

次の朝、バスでゲルむらまで移動。羊やらくだにいちいち感激する。ゲルの内部は広く、美しい。真ん中に大きなストーブと煙突。刺繍で飾られたベッドなど。ここを出ると、お風呂もシャワーも使えないし、トイレも無い。しかし、心配してきたことは、すべて無用でした。大草原の真ん中で(どこも真ん中なのだ)のトイレはすごく気持ちが良くて、シャワーなんか必要じゃないし、ついに、歯も磨かなくなってしまった。ゲルの次の日から、いよいよ、馬での移動が始まった。モンゴルの馬はあまり人になれていないので、一人で触らないようにと注意される。鞍は立ち鞍。木でできた鞍の上に立ったまま乗る。これが、意外と快適でした。初めての日、あまりのうれしさに、初心者のくせにさっさと先頭きって走っていたら、早速要注意人物になってしまい、モンゴル人の少年2人に挟まれて走るはめに。伴走のトラックが先回りして、食事用意がしてある。これが、本格的なフルコースで、草原にじゅうたんと白いテーブルクロスが敷かれ、ナイフとフォークがセットされて、レストランそのままの料理が出る。羊がメインだけど、大草原では、羊臭さも風に乗って、飛んでしまう。 夜は自分たちでセットした2人用のテントでやすむ。体が温まってくると、さっきは気にならなかった羊のにおいが、体から立ち上ってくるのがおかしかった。その夜、大流星群の予想された日だったのに、モンゴルの夜はいつまでも明るく、つかれた私たちは、ついに待ちきれず眠ってしまった。

猫魔さんモンゴルへ行く その1

このバランスの素晴らしさ。それにこのハンサムなお顔。よん様は目じゃない。私の友人に殺されそうだけど。
私の夢はモンゴルの大草原を馬で駆け抜けることだった。それを実現するために、乗馬を始めました。勿論馬が大好きだったからでもあるけれど。木曽馬がモンゴルの馬に似ているというので、木曽馬牧場に行って訓練したり。
そして、まだ、40鞍しか乗っていなくて、駆け足がやっと出せるレヴェルでモンゴルツアーに参加。15人ほどの参加者に馬が30頭、数人の馬方さんにツアーガイド、トラックが一台に数人の料理人、けっこうな大所帯になりました。名古屋空港に集合、話を聞くと私だけえらい初心者で、ほかの人は200鞍以上のベテランばかり。早くも暗雲たちこめる事態に。北京空港で乗り継いだあと、真夜中のウランバートル空港へ。上空から見ると、真っ暗な中、ポツンと赤いランプが見える。まさか、空港とは思えないのに、実はそうだったのです。続きは又この次に。

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春は名のみの・・・

光が満ちてきました。

石激る(いわばしる) 垂水の上のさ蕨の 萌えいずる春になりにけるかも   志貴皇子

この時期、かならず口ずさむ万葉集の中でも一番好きな句です。 朝の散歩に出たら、毎回お目にかかるカラスの夫婦のほかに、名前がわからないけれど、雀より少し大ぶりのつがいの小鳥、それに鴨のつがい、全部寄ってきてなんだか幸せ。すぐ近くの高校の入試だか説明会だか、父兄と子供とゾロゾロ歩いているので、避難してきたみたいです。六羽と一人しばらく日差しの中で小川の水音を聞きながら、ゆったりと過ごしました。河津桜が咲いています。
以前ヴァイオリンを教えていた大学生が、卒業と就職の報告に来ました。バレンタインデイが近いので、逆チョコレートをもらって、うれしい。今どきの男性は気がきくのね。中高年のおとうさんたち、ぼんやりしないでね。

2010年2月8日月曜日

ノーノー、テノール

オペラだけはS席で観ることにしています。ミラノのスカラ座の日本公演でフィガロを観に行った時、チケットをけちって、(語呂があいますね。)一番安いのを買ったら遠すぎて、なんかテレヴィで見てるみたいだったので、それからは無理して高い席を買うようになりました。あるときドレスデン歌劇場の魔笛を観に横浜の県民ホールへ。存分に楽しんで表へ出ましたが、乗り物に乗ると余韻が消えてしまいそうで、桜木町までブラブラ歩くことにしました。表には歌劇場の団員を乗せるためのバスが止まっています。すでに、出番の終わった歌手たちが乗り込んでいました。しばらく行ってから信号待ちをしていると、むこうから血相を変えた外人が一人。いきなり、シルクセンター、シルクセンター、オペラ、オペラとわめくので、これは、県民ホールを目指しているのだなと解りました。会場の県民ホールはシルクセンターの隣ですから。声から察するに歌手に違いない。それで、彼が出番が終わったあとちょっと外出して、バスに乗り遅れそうになっているのだと思ったので、「ああバスに乗るのね」といったら「ノーノー、テノール、テノール」と言ったのです。そのときはぽかんとして、とにかく、行き方を教え、彼は走り去っていきました。そうか、自分はバス歌手ではなく、テノール歌手だと言ったのだとわかるまで、数秒かかりました。それから大笑い。ドイツ語で乗り物のバスはブスですね。ちょっと、言いにくい。

2010年2月7日日曜日

猫魔さんの不思議体験その3

カナダから数年後、猫魔さんはアラスカへ。アラスカの入国審査でパスポートを見せると、 KANKOU?と云われた。えっ、KANKOUってどんな意味でしたっけ?すると又、KANNKOU? やっとわかって大笑い。観光ね。こちらは英語が来ると思っているから、まちかまえていたのに。なんだか、猫魔さんの列はえらい盛り上がりようでした。しばらくスキーをたのしんでから仲間と別れ、国内線でフェアバンクスへ。オーロラを見るために。夜中に迎えの車が来て、今は使われていないスキー場のてっぺんへ。明かりを消した山小屋が一軒。マイナス40度に耐えるダウンジャケットを着て、山小屋のそとで待ち構える。昨日までオーロラさんはご機嫌悪く1週間待った人ががっかりして帰ったそうな。白い雲のようなものがうっすらと天の端っこにあるだけ。1時間くらい状況は変わらず。あきらめかけたそのとき、突然雲みたいなものの淵が色付いたかと思うと、それが大饗宴の始まりだった。巨大なカーテンがひるがえり、消えては現れさまざまな色に変化する。最後に巨大なとりかごのように全方向から網のようなものが降りてきて、それはまるで天空にさらわれていくのではないかと思われる、大スペクタクルでした。思わず天に向かって遠吠えをした猫魔さんでした。これは超常現象ではないけれど、もし、これを全く予備知識無しで見たとしたら、おそろしいでしょうね。

猫魔さんのカナダ記

冬季オリンピックが始まる。バンクーバーは私が初めて海外に降り立った懐かしい場所。当時、猫魔さんは飛行機が怖くて、行く前からさわいでいた。しかし、オーケストラに所属していたので、行かないわけにはいかない。飛び立つ時、隣の打楽器奏者にずっとしがみついて、その人は大変照れながらうれしそうだった。今なら、いやがられたに違いないが、その当時の私は・・ほら、バンビちゃんのようだと言った人がいるくらいだから・・(お世辞にきまっているさ)と、たまさぶろう。  バンクーバーは初めての海外旅行者としては、それはそれは、すてきでした。あちらについた途端、もう恐怖心はすっ飛んでどこかへ。英語もろくに話せないのに、一人で食事に出かけたり。 私、前世は野良猫でした。スタンレー公園でリスが人を恐れないので驚き。日本だったらいじめる人がいるのに、と感心してカメラを向けると、なんと、カメラ目線でポーズをするではないか。
なにもかも新鮮だった第1回目、演奏旅行はメキシコまで延々1ヶ月半に及び、信じられないほど楽しくて、日本にはしばらく帰りたくない気分でした。 
その何十年後、カナダへはスキーに。凍ったレイクルイーズでスケートを楽しみ、ロッキーを思うままに滑り、至福の体験。カナダと私はものすごく相性が良いようです。(カナダはみんな好きさ)とたまさぶろう。  行った事もないくせに。

2010年2月6日土曜日

たまさぶろうは悲しんだ

僕は溺愛されて育ったから、とても甘えん坊になってしまった。それは僕のせいではなく、あくまでも飼い主の責任でしょう?ところが、最近僕は叱られてばかり。普通僕たちは日の出と共に起き、日が暮れれば寝るのさ。でも、あくまでも夜行性だから、夜は少しふざけることもあるし、夜中にお腹がすくこともあるし、トイレだってした後、砂をかりかり、ばさばさ音を立てて掻いたりする。それがうるさいと言って最近猫魔さんは、新聞紙を丸めて僕を威嚇するんだ。痛くはないけれど、バサッと音がするからとても怖い。そりゃあ、次の日に仕事が立て込んでいたりすると、寝不足は困るかもしれない。でも、そんな事猫は知ったことか。仕事しながら寝ればいいじゃん、と思うのさ。

猫魔の独り言。
まったく、たまさぶろうは困ったものね。とにかく、私が起きてかれの要求をすべてかなえないと寝てくれない上に、自分が寝る段になると、大音量で私の耳元で鳴いて布団に入りたがる。人間だったら、さぞ良いテノール歌手にねれたと思う。ワグナー歌いになれたわね。でも、人間だったら、とっくに私に離婚されてたね。

ああ、ほら、あんなこと云ってる。僕は悲しい。

2010年2月5日金曜日

猫魔さんの不思議体験その2

芸備線のとある駅前旅館でのこと。なぜそんな所にいたかというと、かつて、文化庁の移動芸術劇場というのがありました。辺鄙な場所の小学校に行って、演奏をするのが仕事でした。メンバーは五人、女性は猫魔さん一人だったので、二階に一人で寝ることになりました。ほかのメンバーは一階にやすみました。夜もふけて(やはり夜が更けないと事はおきないようです)さて、眠ろうと横になり、電灯を消すと、なにやら、さざめきが・・・・おや、おかしいな、今日この旅館に泊まっているのは私たちだけのはず・・・・どこかで宴会が始まったような・・・でも、もう11時は過ぎていて、おかしいな。それに本当に鄙びた地域で、周りに繁華街もない。よく耳を澄ますと、どうしてもこの旅館、しかも隣の部屋から聞こえる。だが、小さい旅館で、二階には私の部屋の隣に一部屋しかなくて、その部屋に行くには私の部屋の前を通らないと行かれない。しかし、人が前の廊下を通ったことは一度もない。恐怖のあまり猫魔さんは起き上がり、電灯を点けると音はパッタリとやむ。思い直して横になると又・・・・ えいっ、構わないから見てしまおう。 起き上がって隣の部屋のふすまをいきなり開けると・・・・・何があったと思いますか?何十あるいは百体を超える人形が。あらゆる種類の人形が。 本当に怖かった。この話がやっと出来るようになったのは最近です。 

猫魔さんの不思議体験その1

車で東北に行ったので、思い出したこと。
猫魔さんが若かりし頃、(ほとんど想像を絶するとは思うが)会津若松から新潟に抜けようと、車を走らせていました。しかし、奥只見にさしかかった頃日は暮れてしまい、では、この辺で泊まろうかと宿探し。一軒の民宿に。夏の夜もふけて、網戸越しに夜空を眺めていると、異様に明るい物体が目につきました。星でもない。飛行機のライトでもない。ヘリコプターでもない。オレンジ色の輝き。航空機なら音がするはず。音もしない。しかも・・・・・・・・突然横に・・・・・突然上に・・・・・・突然下に・・・
不思議な動きをくり返して・・・突然山の稜線に消えました。 呆気にとられて考えて、どうしてもUFOとしか考えられない。後で聞いたところによれば、奥只見はそれで有名だそうですね。

いわき市へ

一昨日愛車シルフィで仕事先のいわき市へ。午後2時出発、万一雪になっても明るい内に到着できる時間。山道でほんの少し雪がちらついたけれど、いわき市内は晴れていて寒い。雪が降らない土地独特の寒さ。クレストンホテルに入り町の様子を見にいわき駅に向かう。この間から気になっていたひざがひどく痛む。構わず歩いていたが、たまらず薬屋さんへ。驚くほど親切。この土地の人は皆やさしい。その前に入ったコーヒーショップで食事の出来る場所をきいたところ、 この近くには無くて、駅近くまで言ってください。   本当に申し訳なさそうに言うので、こちらが恐縮してしまうくらい。痛む膝を引きずりながら、駅近くのイタリアンレストランに入る。これも又親切な女性スタッフが対応してくれて、またまた目いっぱい食べてしまう。道理で一向に痩せないわけですね。 

次の日は一日仕事。膝の痛みはピークに達して、階段の上り下りなどもっての外。でも、口だけはいつもどうりによく動く。ヴァイオリンもなんとか弾けるし、楽しくも大変な一日が終わった。
夜は仲間の女性とデザートの充実した飲み屋へ。変だけどパフェ、ブラウニィなどがどっさりメニュウに写真入でのっている。たぶん、飲む人飲めない人、両方ねらっているのだろう。私たちは両方いけるのでうれしい。ワシントンホテル宿泊。昨日のクレストンは小さいけれど、非常に良かった。仕事会場に駐車場が無いかも知れないというと、無料で一日駐車しても良いと、快く云ってくれた。ワシントンはいまいち。部屋が寒い、枕が悪い。朝食のパンが貧相。 

そして今朝、雲ひとつ無い晴天。都内の入り口は三郷付近から渋滞。でも、以前は今よりもっと渋滞がひどかったので、多少のことではめげない。家に着いて散歩に出たら、あら不思議、膝が軽い。そうか、あの寒さか・・・。顔見知りのからすの夫婦が今日は一羽しかいない。夫らしい体の大きい方がお出かけらしい。お父さん頑張って働いているんだ。 往復の走行距離460キロでした。

2010年2月3日水曜日

雪の翌朝

まだ少し道端に昨日の雪が残っている寒い朝、友人のお母様のご逝去をお悔やみに、美人が二人半、 二人はまぎれもない美人だが、猫魔さんはうーん。 猫の社会、特にたまさぶろうにとっては美人、でも、人間社会では残念ながら、日光の手前の今市。この厳粛なときに不謹慎な冗談は慎もう。お母様にご対面して、安らかな美しいお顔を拝見していると、死というものが身近になってきた。自分はどう死ぬのか。美人の一人が曰く、あっ、これなんだわ、と思うわよ。侃々諤々、やかましいこと。きっとお母様は笑っていらっしゃるでしょう。それで思い出すのは、一匹の野良猫のこと。
猫魔家はかつて、1階に住んでいた。毎日通ってくる猫がいて、窓辺でえさを食べてゆく。どんなときでも警戒心が強く、隙を見ては触ろうとするが、決して触らせない。ところが、猫魔家が建て直すこととなった。ノラはえさにありつけず、尾は打ち枯らして歩いていたという情報。かわいそうだが、建築期間はよそに住んでいるので、仕方がない。新居になってから数年後、又ノラが現れて、駐車場になったかつての窓辺付近で時々お食事。そして、又いなくなった。それから、数年後ある日私の車のボンネットにかのノラがやつれ果てて座っていた。一目で長くは生きられないと思えて、思わず手を出して撫でようとすると、なんと、あれほど警戒心の強かった子が、手を受け入れてくれた。
それからは毎日静に撫でられながら、ご飯を食べて駐車場のダンボールで眠り、ある朝ぱったり姿を見せなくなった。最後の挨拶に来てくれたのですね。