2014年1月31日金曜日

遊びには邪魔が入る。

メールが入ったのは2日のオーケストラの本番に欠員が出来たので急遽弾いてくれないかという依頼。
いやはや、私はスキーに出かけ、帰りがけにコンサートにと優雅な休日を楽しもうと思っていたのに。
しかしかなり困っている様子なので「義を見てせざるは・・」の心境になってしまうのが、私の最大の欠点。
「エグモント序曲」「ハフナー」「新世界」これも昔はさんざん弾いたけれど、もうすっかり錆び付いてしまった頭には、残滓も皆無にちがいない。
ほとんど頼りにはなれないかもしれないけれど、それでも良かったら弾きますと返事を出してしまった。
となると、帰って来た日は、夕方からこの3曲を必死に練習しないといけない。
どの曲も現役時代にはさほど難しいと思ったことはなく、その頃だったら初見で十分だったと思うが、半分引退しているのと、この先に結構難しい曲を弾かねばならない事情があるので、気力と視力が心配になる。
なによりも視力の衰えはいかんともしがたくて、眼鏡を何回作り直したことか。
視力の衰えと共に集中力が減退し、しみじみと、人はこうして歳とっていくのだと実感した。
歳をとるのは少しもいやではないけれど、視力の回復する治療法はないものかと思う。
レーシック手術も考えて資料をとりよせたら、あとで失敗がかなり多いということを聞いて諦めた。
それでもつい最近までとても目が良かったから、これだけでも幸せだと思う。
私の知人は35才くらいから老眼になったというので信じられないけれど、嘘をいうメリットもないから本当のことなのだろう。
私はそれよりはるかに遅かったので、本当に幸運だった。
今はなにをするのも眼鏡なしではいられない。
不自由でしかたがない。
口は相変わらず良く回る、悪知恵も衰えていない。
食欲も盛んだし、体重も人には負けない。(本当は負けたい)
歩くのも速い・・・残念なことに一番大事な脳みそと目が衰えてきた。
なんでこんな大事なものから衰えるのかしら。
遊びに徹しようと待ち構えていた年齢になっても、こうして遊ばせてもらえないのは誰かが邪魔をしているにちがいない。
老眼と鬆の入った脳みそで、どこまで出来るか。
「ええい、やけっぱちだい!新世界でもなんでも持ってこい」って言ってみたい。
もう緊張が始まっているのがいやだなあ。


















2014年1月30日木曜日

又々スキーに


         
         猫さんさすが。

去年の暮れからいつもの年にはないほどスキーが続いている。
仕事をセーブして遊んで暮らそうと思っていたから、理想に近づけるために遊びの予定を入れたのだが、ちとやりすぎた。
いつものことだけど、とどまるところを知らなくなるので、たいてい疲れてしまう。
教えている音楽教室の仕事も3月いっぱいで辞めると宣言したものの、生徒達がものすごく頑張って大曲に挑戦してくれるので、はっきり辞めるとも言い出せなくなっている。
しかも新しい生徒もやる気満々な子が入ってきた。
これは楽しみだから、もう少し、後1年、なんて言ってると、又辞めることができなくなる。
しかし、私は滅法元気で、幸い病気もしないし、まだ仕事もいただけるし、なによりも楽しい。
やめてなにをするのかというと、スキーを本格的に習いたい。
今までヴァイオリンを弾いている関係で、怪我をしてはいけないという思いが強くて、本気で滑ったことはなかった。
先生にもヴァイオリンをやめたら本気でやるからと宣言していたのだが、一向にやめられないのでこの約束は反故になりそうだ。
さて、今回は教室の生徒たちと一緒に石打に行く。
そこにマンションを持っている人がいて、泊めて頂いて夜はみんなで宴会をしようという魂胆。
誘われたときにはヒマだからいいわよと言ったものの、その後2つもミニコンサートの予定が入ってしまった。
3月には東京文化会館小ホールで協奏曲のソロがある。
呑気にスキーをしている場合か。
しかも、1月31日から2月2日の予定だったのが、カレンダーの2月を何気なく覗いたら、なんと!1日のベルリン8重奏のコンサートを聴きに行く予定が入っていた。
しかもマチネーだからその日の朝帰ってこないと間に合わない。
がーん!
このコンサートは絶対に聴きたいからスキーが出来るのは、金曜日の午後だけとなってしまった。それでも行く。
よくやる失敗なのだけれど、カレンダーの月替りに予定を入れる時に次の月の予定を見ないで引き受けて、後でしまったと思うことがある。
一度あったのは飛騨高山の仕事の次の日は月替り、朝から都内で練習というスケジュールにしてしまった。
飛騨高山で夜本番なら都内の朝練は間に合うはずがない。
気が付いたときには真っ青。
なんとかならないかと色々調べたら、21時に仕事が終ってタクシー飛ばせば高山発21時半の列車に乗れる。
美濃太田に夜中に着く。
始発で岐阜に出て、新幹線に乗れば間に合うことが判明した。
夜中に美濃太田の駅に着いて寂しい町をとぼとぼとホテルまで歩いた時には、私はいったいなにをしているのだろうかと、情けない思いだった。
飛騨に泊まれれば、仕事先が用意してくれたのは素晴らしい温泉ホテルで、他の人達はその夜飛騨牛を食べに行くと大喜び。
後ろ髪ひかれる思いで駅に向かった。
そんなことが今思い出すとすごく面白い。
結局ワサワサしているのが心底好きなのだ。

















2014年1月29日水曜日

こんな風にならないように



少し増えた体重を落とす計画。
にゃかにゃか捗りませんが。

ドジ

コーヒーを1人分淹れる時にはカリタの3つ穴を使用している。
カリタに濾紙とコーヒーの粉をセットしてカップを探したらみつからない。
別の部屋に持って行って置いてきたみたいだから、カリタを一時的に猫用の缶詰の上に置いた。
これでお湯を入れたらたいへん、でもまさかね、そんなこと見ればわかるから、するわけないじゃん。
その時たまさぶろう以下、3匹の猫たちが餌よこせ抗議の声を上げ始めた。
別に開けてあった缶詰を与えていると、お湯が沸いた。
ティファールの電気湯沸かし器はすごく早く沸く。
澁谷のビッグカメラで湯沸かし器を探していると店員さんが寄ってきた。
貴方ならどれを勧めますか?と訊いたら、これですねと言って
可愛らしいだるま型の湯沸かし器をすすめられた。
なぜこれを勧めるの?ときくと、圧倒的に沸く速度が速いので、という。
使ってみたら本当に早いのなんのって。
これを使ったら他の湯沸かし器は亀さんみたいに思える。
でも、考えてみたらほんの数分、あるいは数十秒、早く沸いたと言ってもたかが知れてる。
強烈に忙しかったかつてのワーカホリックだった私なら、数十秒でもありがたいと思ったに違いないが、今の半分隠遁生活をしている私には、これほど早い必要も無い。
かなり使用電力が大きいらしく、この湯沸かし器を使っているときに、暖房、加湿器、空気清浄機、テレビ、トースター、IHヒーターの複数使用、これだけでブレーカーが飛ぶ。
そのたびに踏み台持って、ブレーカーを元に戻しにいかなければならないのは、煩雑だ。
さて、猫が静かになったところで、お湯が沸いてやおらカリタにお湯を注ぎ始めた。
しばらく蒸して・・・待っていると怪しい水分が周りに広がり始めた。
なにこれ?ぼんやりしていると、あっしまった!
やっと思い出した、カップをまだ持ってきていないことを。
大慌てでその辺を拭いて、正気にもどった。
今この記事を書き始めてから湯沸かしポットの話になって、その後、一体何を言いたかったのかしらと思って前のほうを読み返した。
そうそう己がドジをひけらかすためだったわと。
うっかりするととんでもなく飛躍してしまう。
最近の(というより生まれつきかも)脳みその鬆の入り方は尋常ではない。
人間ドックで脳の検査をしてもらおうと思ったら、それはセットになっていないそうで、しかも、オプションでも付けられないそうなのだ。
となるとまったく別の時に検査を受けなければいけなくなる。
面倒だけど鶏の卵くらいに縮むまで気が付かないといけないから、検査するか。
でも縮んでしまえばこっちのもの。
周りが苦労するだけで、本人は、知ったこっちゃないものね。

















2014年1月28日火曜日

ピアノ調律その12調律人生

佐々木   60年くらい調律師をやってらして、この時期に自信を持ったというのは」ありましたか?

山田   だからこれがね、ずっと勉強なんです。
日本調律師協会の試験があってそれに合格するまで、まあ昭和25年から大体5年くらい下積からやりましてね。それまでは修理工場に行ったり、師匠の鞄持ったりあれやった時代ですよ。
それで技術的なものは非常にそのころ低かったんですよ。
ピアノがはいってきても、そういう保管状態の悪いということでね。
私の師匠は戦前からピアノを輸入した会社に勤めてたもんですから、非常にそういう意味で技術が優れてよかったんですね。
そういうトップクラスのところに弟子入りしたっていうのが非常に幸いしたわけですね。
それでそこで仕事をしまして。
それで調律師が少なかった、でもホールがどんどん出来てくる。
で、お前行ってこい、とかね、少し行って恥かいてこいとかね。
まだ未熟なのに随分いかされたんです。
だけどそれが勉強になった。
だから幸運ではあった。
今の人はなかなかそうはいかない。窓口が少ないですからね。
有名なピアニストがヨーロッパなりアメリカから来ますよね。そうすると地方にはなおさら調律師のいい人がいないんで、うちの師匠が全部ついて歩いたんです。
そうするとこっちは留守でしょう、東京。
そうすると普段やらしてもらえないようなとこでも、お前これやれってことになる。
で、そうすると恥かきますよ。いろいろ注文出されたりして。
だけどまあ、なんとかそれをこなして。で、勉強しながらっていうことで。

ただ、それから今度は私の弟弟子だった人を、自分が推薦してドイツへ派遣してもらったわけですよ。
そうでもってそれが帰ってきたときに、悪いけど向こうの最新技術をね、弟子ども何人か集めるから教えてくれ、ピアノはこっちで用意するから、って言って来てもらった。
1日、向こうではこういう調整をした、こういう風にしたってのを教えてもらったんです。
あ、そうか、今までこうやっていたのは間違いだった、とか。
それで勉強する。
そういうことはやりました。
もちろんそいつに、みんなから会費を集めてね。悪いけどって言って、やっと1日来てもらって、教えてもらいました。
それを仕事をやりながら採り入れて。
それからまた時代がどんどん変わってきて、ピアノも変わりましたってなったときに、スタインウエイの代理店に、もう2人3人後輩がいたんですけど「山田さん、今度本社からこういうあれで、技術のあれがきているからちょっと来ない」ってお声がかかって。
ああそう、ここが変わったんだ。それはもうそういう先輩後輩ですから。
こっちが教えてもらうときにはこっちの方が後輩ですから。
それは私も勉強しないとついていかれません。

佐々木  ではみんなで勉強しつつ、今はある程度確立されているけれども、その確立のプロセスに関わり、日本の調律のレベル自体をあげていったということでしょうか。

山田   そうですね。だから確立されてもいないんです。

佐々木  えっ。

山田   変わるわけですから。変わった度に、今度はこういうところ設計がかわりました、こういう装置が付いたよっていう風に知らせてくるんです。
じゃ行こうかって言って、そうかって教わるわけです。
だから最近、あの将棋の米長名人ってのが亡くなりましたっていうのは新聞にでましたよね。
あの人の話なんかもすごい参考になる。
自分が名人取った後、若い人達に研究したのを教えて下さいって言って、教えてもらったっていうことがね。
これは大分前の話ですよ。
いやー名人になっちゃってね、最高のところにたっても若い人に教えてもらうっていうのはあるんだなと。

佐々木   なるほど。

山田    勉強ですよ。だからまあ変な話ですけど、このスキーの話じゃないですけど、いまだに年2回、そのピアノと同じでスキーの形も靴の形もどんどんオリンピックの基準に合わせて日々進歩しているんですよね。
それでその新しい靴、新しい板でどういうふうに滑るかっていうのを年2回コーチに付いて習ってますから、私。

佐々木   すごいですね。

山田   はははは、だからやっぱり習わなくちゃだめなんですね。だから生涯ね、勉強って言いますけれどね。
だけどそっちのほうがはるかに楽しい。
スキーのほうが。はははは。           (完)

2012年12月22日
千駄ヶ谷津田ホール近のカフェ・ユーハイムにて
インタビュアー・インタビュー編集 佐々木直子

nekotama記
山田さんは世界の名手の調律を手がけましたが、『あの』ルビンシュタインが「モーツアルトはMr.Yamadaの調律したピアノで弾きたい」と言ったそうです。
震えがきますね。そのほかの話は又いつか。




























2014年1月27日月曜日

ピアノ調律その11裏話続き

山田  一番困るのはね、これお名前言えないけど、女性のね、閨秀のピアニストといわれた人。いわゆる有名なピアニストね。
舞台袖で5分間腰掛けてて。
イブニングで肩から上全部出てるでしょう。
「山田さん、ちょっと肩揉んで」って言うんですよ。
ちょっとどうするのって。
肉がいっぱあるのに生の肩を揉まなきゃいけない。
でもたいがいね、舞台袖にはタオルが置いてあるもんですから。タオルを肩にのせて、こんなもんですかね、「う~ん」って。
そういうのはお客さんわかりませんから、わかっているのは裏方さんとマネージャーとね、だけだから。
そういう面白い話はたくさんあります。

まあね、あんまり汚い話はしたくないけど演奏途中でね、男性のウイーンのピアニストなんだけど、ベートーベンのソナタを弾くわけですよ。
第一楽章終ったあとすーっと引き上げて来ちゃった。
で、お客さんがね、いわゆる宗教関係のお客さんだったもんだから、ほんとに音楽のわかる人っていうのはあんまりいないわけです。上の偉い人が来いって言えば、わっと来ちゃうような信者さん。
だから一楽章終った後、ばーっと拍手になって引き上げてきちゃった。
あれ、ピアノの具合が悪いのかなって思って。
そしたらトイレに駆け込んでいっちゃった。
もう演奏してるうちにトイレのね、それが汚い話だけど、大きい方がしたくなってね。そんな話だとか。

プロ野球のどこのチームか忘れましたけど、大ファンがいましてね。ピアニストで。
それでちょうどプロ野球の始まるっていうのが6時か7時ころでしょう、ナイターが。
そうすると、ナイターが同じ時期で大変重要な対戦だったらしいんですね。
「山田さん、袖にいなくていいから、あの、楽屋にテレビがあるから、それ見てね、ここのチームのね、今どうなってるかっていうのを教えて」って。
休憩で入ってくるとね「どうなりました」って。
そんなあれじゃいい演奏できないだろうっていうんですけどね。
ははは、まあそういうね、いろいろありました。

佐々木  演奏家の方と、マネージャーとは違った距離で一緒の時間を過ごせるんですね。

山田   そうですね。まあだからマネージャーっていうのはね、終始ね、袖に付いているって人は少ないですね。忙しいですからね。
受付行ったり、舞台行ったり、行ったり来たり。
もう終るころになって袖に来る、そういう人は多いですけど、終始いるってことはあんまりない。

佐々木   山田さんはいらっしゃいますもんね。

山田   だいたいそう。ただ例えば、さっきお話したマネージャーに断って録音室にいるとかね。
そこから見えますからね。
でも実際にはこういうこと(ゲーム?)をやってるんですよ。
録音室にはおもしろいものがあるから。ははははは。

佐々木  本当に演奏と近い存在なんですね。

山田   
これもね、我々調律師にもいろいろ個性がありますから。
1回でペケになったこともありましたよ。
合わない、だめだ、調律師と合わないって。
だけどもう30年も40年も愛用してごひいきにして下さる方もいらっしゃいます。
やっぱり相性があります。































、演奏途中d

2014年1月26日日曜日

ピアノ調律その10裏話

山田  そう、うらばなしをよくやるんですけどね。
あの、チェコトリオって、その頃都市センターって、今はもう始まる前から全部舞台は明るくして、幕もしめないでやりますよね。
その当時っていうのは幕をしめるか暗転にするかですね。
暗くして客席は明るくしますけど、暗転にするのは1ベル入れ込みっていいまして、だいたい30分前の開場するときです。
お客さんを入れる。
それで5分前に1ベル。それまでにこっちは調律しとかなくちゃいけない。
ところがリハーサルが長引いて、なかなか終らないんです。
ぎりぎりになっちゃった。
それでしょうがないから、じゃ暗転のなかでお客さんを入れちゃって公開でもいいからやるってことになっちゃった。
「山田さん1ベルいくよ」って後ろで舞台係が言って。
「やー、もうちょいもうちょい」ってやっと終って「1ベルどうぞ」って言って引き上げてきた。
で、2階のところに録音係の部屋があるんですけどね、そこが良く聞こえるところなんですけど、私はそこにいて録音係が一緒に録音するんですけど、カメラマンが遅れてきたもんだからリハーサルに間に合わなくて「すいません。ここで撮らせていただきます」って。
音楽の友とかそういうのに載る写真を撮る人がね。
それでこうファインダーを覗いていたんです。
で、私も、はー、よかったよかったって。
じゃあ2ベルいきますって、2ベルが鳴って、すーっと明るくなった。
覗いている人が「山田さん、あそこのピアノの椅子の下に犬がいるよ」ってこう言うのね。
「えっ、犬?」そしたらほんと、はっ、とこう見たらね、毛ばたきだった。
あの舞台ってのはほこりがすごいですから、毛ばたきを使うわけです。で、明るきゃ見えるんだけど、暗転にしてあったもんですから置いてそのままにしてあって。
「あ、いけね。ちょっとこれ、取りに行くから」って行ったんだけどディーって鳴っちゃって。
3人出てきちゃって。トリオだからピアニストとバイオリニストとチェリストとで。
で、ピアニストがすーときてお辞儀をして、はっと見てわかりますよね。
拾ってね、これはなんだって。
高々と上げてね。客席でどっときたんですよ。
やおらこう置いてね。で、まままってこういう風にね。
すごい和やかに始まっちゃったんですよね。
私はこんなになっちゃって、やっと休憩になったから「すみません。取ってきますから」って、そしたらピアニストが「そのままにしておけ」って。
ははは落ちがあるんです。

佐々木  でもクラシックコンサートはちょっと緊張するので、その場が和んだっていうのはすごく伝わってきます。

山田  そうですよね。そう。
それが演奏に差し支えるならこれはもう最大の失敗ですけどね。
そういうあれじゃないんで。まあ和やかにね。
始まる前に舞台の袖のところでね、5分前になると演奏者来ますよね。
で、5分待ってるわけですよ、本ベルが鳴るまで。
で僕らもひかえて待っていると、外人さんだけど、日本の芸大の先生だから日本語得意。
「山田さん箒ない、箒」って言うんです。
「箒はありますけど」「箒ちょっと持ってきてよ」「そうですか?」って言って。
箒持ってくるとそこでこうやって(箒を掃く操作)。
5分間緊張を解くためにね。ははは、そういう人とかね。





















2014年1月25日土曜日

ピアノ調律その9コンサートでの仕事

佐々木  基本的にはピアノを調律された後、演奏も聴かれるん     ですよね。

山田   もちろんそうです。

佐々木  全部聴いてその日は終わりということでしょうか。

山田   そうです。途中でね、ピアノコンチェルトとかだと弦がきれちゃう場合がありますから。そういうときにいないと大変なことになります。だから独唱とか歌の伴奏とかそういうのだとまあ、だいたい休憩くらいまでいると、マネージャーが、どうもこんなもんで大丈夫ですからごくろうさま、っていうんで私もかえっちゃう。
ケチったマネージャーだと、調律終れば、もう大丈夫だからいいよっていう人もいます。じゃなかったら、必ずお終いまでいてください、アンコール終わりまでいてくれ、ってなります。
ずいぶんだからそういうことで失敗しましたよ。
途中で切れちゃうとかね、なにしたとかね、ありますから。
うるさい人はうるさい人で、とにかくリハーサルの間も必ずついててくれとかね。

佐々木  やっぱり1人1人違いますね。

山田   違います。うん、おもしろかった。人生おもしろかった。あと何年やるかわからないけど、もう少し遊ぶって言うとへんだけど。
だからいっぱい抽出しをもってないと。
こういうクレームがきたときにはこのひきだしかな、っとやるわけですから。

佐々木   調律師として戦後の日本の音楽界見ていて変わった点はどこでしょうか。

山田   まず、世界のピアニストの好みっていうのが変わってしまったんですね、徐々にではありますけれども。というのはメーカーそのものが有名なピアニストの要求に合せようとするわけですよ。
それから時代も変わりました。テンポも変わったんですね。
今はテンポが速くなったんです。
それと音がね、非常に華やかな音が好まれるようになった。
ところが修行時代っていうのは、しっとりとした、味わいのある深みのある音というのがよかった。
ところが段々、鍵盤に重りを載せて測るわけなんですが、何グラムって。それが60グラムくらいだったものが、今は55グラムですからね。すんごい軽いんです。
その演奏者のビデオなんかをご覧になると、みんなこうやって(指を立てないで)弾きますよ。
お母さんはピアノ弾かれる?

佐々木  弾きます。

山田   おかあさんが習った頃はたぶんここ〈手のひた)に卵が入るようにって。

佐々木   言ってました。

山田   でしょう。ね。ところがいまご覧になりますと、手が寝てますよみんな。
ここ(指先)だけで変化があるように軽ーい感じになっちゃった。
だからピアノの音そのものも少しキンキンにね。固い音になっちゃた。
それがここ、要するに50年の間に変わってきたところ。で、またスタインウエイが全部リードしますから。世界を。
有名なピアニストっていうのはみんなスタインウエイを弾きますから。

佐々木   なるほど。

山田    だからそれに全部合せてやらなくちゃいけない。

佐々木   調律以前にピアノがそういう風になっているということでしょうか。

山田   それはもうだいたいそういう傾向になってきたなっていうのは感じますから。そうするとメーカーのほうもそれに合せて、ああ、やってるなっていう風に。

佐々木  そうなんですね。

山田  まあ、面白い世界ですよ。でも失敗の連続ですよ、ほんとに。ははは、ほんとに。
もうその講演を頼まれるんですよ。これなんかもそうだけど。
そうするとね、成功した話っていうのはあるんですよ。
このルプーっていうピアニストの場合はね。
属啓成(さっかけいせい)さんっていう評論家がFMで話しているのを偶然聞いたんですけどね。
今度イギリスからおもしろいピアニストが来ると。
まあ、録音聴いてもらえばわかるけれども、そこでターナーの絵のようなね、墨絵のような感じだって言ったんですよ。

佐々木   墨絵ですか?

山田   墨絵。「おもしろいのが来日する、もうじき来るから聴いてみてください」っていう解説を偶然聞いたんです。
聴いたらね「ああー、なるほど」
右のペダルと左のペダル。真ん中はまた別ですよ。
右のペダルは音を解放する。左のペダルは音が少し柔らかくなる。左のペダルを非常に多様する風に聞こえるんです。
要するに墨絵というのはもやーっと、ぼやけた感じですよね。
これは左のペダルに集中して極端に調整をしようとしたわけですね。
やったらもうえんらい喜ばれましてね。
試験の山があたったようなものですから、それが好みにぴたっとあったわけですね。
初来日だから知らないですよね。演奏を聴いただけでね。
こうやった方がいいかなと思ったけどだめだったり。
成功したことっていうのはあんまり話すと自慢になっちゃう、いやだから。
失敗したことばっかり話す。講演してくれって言われて、そうするとうけるんです。はははは。




























2014年1月24日金曜日

ピアノ調律その8 調律師になったきっかけ

佐々木   話は戻るのですが、高校卒業してこの世界に入られたということですが、どうして調律師になろうと思ったのですか。

山田  
これはね笈田先生っていうのが出てきましたよね。
さっき話した音感のときに。
その笈田先生のお父さんという方が印刷やだったんです。
うちの親父がそこに勤めていた。

佐々木   あっ、そういうご関係だったんですか。

山田   そうです。それで笈田先生とうちの親父っていうのは年齢が近かったもんですから、片っぽは大きな印刷やの若旦那ですよね。
で、片っぽは番頭さん。
だからどうもこう、いろいろ2人でつるんで悪い遊びをしたんじゃないかっていう。
そのころカフェっていうんですけど、今のバーとかキャバレーとか、そういうのは昔はカフェっていったんですね。
そういうところに2人で行って酒飲んで遊んだり、やったんじゃないですか。
それで戦争が終ったくらいのときに、戦争の前かな、お前のところにいたのをよこせって。
で、こっちは戦争になっちゃって、ピアノは10年くらい全く触っていなかった。
で、もう間に合わないですよね。ピアニストになるのは。
だから印刷やを継ぐんだと思ってたら、笈田先生の方から「僕のかかりつけの調律師を紹介するからやってみないか、手に職をつけておいた方がいいから。せっかくね、訓練したんだし」
こういうことですね。

佐々木   山田さんのお父様も考えが広いですよね。絶対息子に印刷やっていうのがその時代にはあったのではないかと。

山田   だからまあ、こっちも学校卒業したときには印刷やを継ぐつもりでいたんですよ。
印刷屋のせがれに大学なんて行く必要はないってこういう風に親父が言うもんで、ああ、そうかなって。
寄席いったりね、高校3年の時はもう遊び暮らしたんですよ。
それで、いざ卒業して印刷やのちょっと手伝いをし始めたときに、その話。
親父がね、じゃあ下に妹が小さいのが2人いるからね、それで養子でもとりゃいいよって。
こっちは印刷のこと知りませんからね。
かえって印刷の職人と一緒にして継がせりゃいいよ、なんとでも思ったんじゃないですかね。

佐々木   ご縁ですね。

山田   だからおもしろい人生でしたよ。まあ、話すと長くなるんだけれども。
いろいろおもしろいことがありますからね。

















2014年1月23日木曜日

ピアノ調律その7 平均律

nekotama記
この先が面白いです。
ただ知識がない猫には難しい所があるので、私は半分くらいしか理解出来ませんが、同じ音に携わる者としてはすごくわくわくするにゃあという思いです。特に5:3というところが意味不明。
どなたか教えて下さればありがたいです。


山田  音感はかえってない方がいいんです。

佐々木  そうなんですか。

山田   そう、ということはね、調律っていうのは、例えば音とね、ピアノの1つの音っていうのが測るとサインカーブになるわけでね。
で、1つの音をドレミのドとしたらもう1つはファの音。
これはシラソファだから5度です。
(nekotama注・・・ドの音から下がるとドシラソファ、5つめの音で5度という意味だと思います。)
5度と5度、両方同時にやった場合にはサインカーブは交わるところが全部一緒ですから、そこにビートは出ないんです。
で、それを今度は5度なら5度っていうのも、5度は5:3で、やっぱり5つの交わるところと、3つの交わるところがいっしょになりますから、ビートがでないんですね。
そういうふうな調律、現在の平均律じゃなくて、その純正調っていう調律のやりかたがあるわけですが、それはうなりを出さないように調律する。
それは昔のやりかたで、そうするとオクターヴを12等分したときに、最後にあまりがでちゃう。
あまりがでちゃうとので、その音は使えないっていうのが昔のバッハ以前の調律法なんです。
じゃあ他に転調したときの複雑なのが弾けないからっていうんで、そこに余った12のうち全部に割り当てちゃえ、こういうことをやったのが平均律っていう調律法。
そうするとドとファとやったときにうねりを少し出すようにするんですね。
全部にあまりを等分する。
だからリズムを聞くわけです。うなりを。
1秒間に0.5くらいのうなり。猫ちゃんがニャーオって鳴くくらいのうなりから、15くらいのブブブブっていうのくらいまで全部聞き分けなきゃいけない。
これが調律なんです。
だから音感はあればあったでいいんですが、基本的にはそういう風にリズムを聴いて感じるんですよね。

佐々木  昔のやり方では使えない鍵盤は出るけれども楽だったということですよね。あのやり方は。
合うところを合せればそれでよかった?

山田  そうですそうです。

佐々木  でも今は微妙なあまりを出して、全てを使えるように     する?

山田   全部にこうやるから、その余りを一つにどのくらい割り当てるか、それは皆規則で決まってるんですけどね。
それがオクターブを12等分する平均律の調律法。
それでで後は、今度はオクターブは1:2ですからうなりはでませんよね。
オクターブをズーッとひとつずつこういうふうにやっていけばいいわけです。
これがいわゆる試験に受かる時の一番平均的な、規則的なもので、これじゃ、ピアニストに弾いてくれって言うと、おもしろくないね。
だからその、楽器そのものもやっぱりあいまいさを出さなくちゃ面白くないわけです。

佐々木  つまりそれが基礎であり、スタートなんですね。

山田   そうです、基礎です。
それは測定器ではかるときれいなこう、線になるわけですよ。
そうするとエレクトーンとかね、そういうのと全く同じような感じになっちゃって、エレクトーンの場合はわざとヴィブラートをかけたりしますから、それでごまかせるんですけど、ピアノはごまかせませんから、つまらなーくなっちゃう。
それをどの程度どれくらい自分の感覚を採り入れるか、っていうことが、調律師のフィーリングですね。
ファジーっていうか、フィーリング。
それはピアニストによるし、そのピアノによるし、会場にもよるし、その日の演奏者、女性なのか男性なのか、大きい人なのか小さい人なのか、それも全部あれして、じゃあ今日はこれでいこう、ホールに来る電車の乗っているときに考えてね。
今日はどこの音大の出身の方とかありますね。
どういう先生についたとか、それを全部みてやって。
それでも当日ね、やって、いざリハーサルになると、いろいろ出ることがありますから、それはそこでまたそのピアノの癖もありますし。
それは面白いですよ。


サインカーブについてはこちらも参照して下さい。nekotama
私にはさっぱりわかりません。












2014年1月22日水曜日

ピアノ調律その6標準ピッチ

nekotama記
コメントを頂いて、このように他人のものを勝手に転載すると、著作権の侵害にあたるというご指摘でした。
これからもっといろいろなエピソードをと思ったのでこまりましたが、この原稿はそもそも山田さんが大学などで講演なさるときに使ったものですので、そのへんも著作権の侵害になるのかどうか。
山田さんにはご了解いただいておりますが、そんな難しいこととはつゆしらず。
困りましたが私も途中まででやめられないので、一部抜粋ということで、いかせていただきます。

佐々木  何歳から何歳までそのような訓練をされていたのでしょうか。

山田   今はもう常識なんですけど、その頃は何歳くらいから教えた方がいいかってのがまだ全然試行錯誤だったんです。
それで私は最年少だったんですね。
あとはみんな小学校の3年生とか4年生っていうひと達が何人もいたんです。
初歩的なところってのはみんな同じように覚えるんですけど、小学校3年生4年生になるとね、少し経つと忘れちゃうんです。
ところが3歳半から4歳くらいからはじめたひとっていうのは忘れない。
ちょうど言葉を覚えるのと音を覚えるのっていうのは同じ器官なんだそうです。
これはなんかの新聞に出ていましたけど、音感を獲得するっていうのは1回獲得すると、脳神経のある部分の接続ができちゃう。
それが出来ないと、その時は覚えるけど、すぐ忘れてしまう。
それが早いうちに言葉を覚える時期に同じように音感を勉強すると、それがつながったままだから、何歳になっても全く問題ない。

佐々木  私たちが歩いていたり話したりするのを無意識にできる、というのと同じですよね。

山田  そうです。だから結局こういう風に(グラスをスプーンでたたく音)これだとドレミ、鍵盤の音のミと半音下の中間ぐらい、っていう風に聞こえて。
それからこれ(コーヒーカップをたたく音)はラの音とかね。
それが、じゃあそういうふうに聞こえたら非常に煩わしいでしょうって言うけど、そうじゃないんですね。
あの雑踏でみんながしゃべっているのは全く意識しないで聞こえているけど、何しゃべっているかは全然気にならない。
それと同じで、聞けばわかるけど、普通は何の音っていうのは別に意識しない。それは言葉と音感で同じです。
だから便利なようで不便な面もあるわけですよ。
私がそういう訓練を受けたのが1934年か35年ですよね。
31年生れですから。
その戦争以前我々が習った頃は、世界の標準のドレミファソラシドのラの音っていうのは、435ヘルツだったんです。戦争が終りまして、その時に世界的な標準ピッチといいまして、ラの音が440ヘルツに決められたんです。時報でボーンっていいますよね。それが440ヘルツ。35と40っていうのは半音の16分の1くらいの差なんだけれども、それが435で入ってますから、40になると高く聞こえちゃうわけです。
その違和感を、チャンネルを切り替えるのに練習しかないわけです。
だから、それはずいぶん苦労しました。
16分の1くらいですからね。

佐々木  本当に細かいですよね。その細かさはどの程度のものなのでしょうか。

山田   今日は持ってこなかったですけどね、440の音叉がありますよね。
それと435の音叉。それを比べて聞いて頂くわけなんですが、ブーっと共鳴しますから、で、それをこうやって聞かせて、こっちが35で40って聞いて頂くと「ああ、やっぱりこっちの方が低いように感じますね」っていうくらいの差ですね。
それが分からない人も3分の1くらいいますね。「同じじゃないの」って。ははは。
そういうくらいのもんですが、それがわかんなきゃこの仕事はできませんから。

佐々木  もちろん小学校3年生4年生でも訓練すれば音感がつくのだとは思いますが、今調律師になるために訓練することはないですよね。

山田  あっそれはね、調律師とは関係ないんです。
音感はね、かえってないほうがいいんです。

nekotamaの最も興味ある部分にこの後から入っていきます。
それは次回






































2014年1月21日火曜日

ピアノ調律その5



佐々木  ご両親が音楽に理解があったということでしょうか。

山田  親父は見栄ですよ。それと義理ね。まあそんな興味はなかった。おふくろさんは小学校の教師だったから、多少の理解はありました。昔ですからオルガンくらいは弾けたというぐらいなものです。それからうちでの自習復習っていうのはおふくろさんにやってもらった。
住んでいたのは、それで印刷やのせがれでしたから、下町のほんとに、あの、なんていったらいいのかな、日本橋の近辺ご存じですか。あそこにデパートがありますよね、これぞ日本橋っていう。その裏にたいめいけんがあるんですが、そういうお座敷洋食とかいうお店があるところです。
昭和10年くらいで、ちょうど私は3才とかです。そういう時代の下町です。三味線が聞こえたり酒問屋があったり、印刷やが多かったりね。
町内にピアノが3台しかない、っていうような所ですから。まあ、周りからは一目置かれたっていうか、敬遠されたっていうふうかね。ふふふ。
それで音感教育を3才半からやってましたから、小学校は6才でしょう、学校に入るのは。
で、小学校に入って、学校の音楽の授業があって。そしたら、学校のピアノはね、白と黒が反対だっていうことを言ったんだそうです。
つまり全体が半音下がっていた。うちのおふくろさんがそれをちらっと学校に言ったら、もうなにしろ3年間くらい調律していないって話だったんで、聞いてみたら半音下がってた。
それで今度は大変な神童が入ったということでね。それでそれからは小学校の音楽の時間に、音感のやりました?ドミソとかドファラとかやらなかった?

佐々木  やらなかったですね。もうただ歌うだけで。

山田  えーっとね、戦争が、太平洋戦争が始まる前でしたからね。音楽的なピアノとかそういうものは戦争に関係ないんだ、で、贅沢品ですからね。高いので。
ところがその、この笈田先生って方が、ピアニストも教えていたわけですから。自分はもう最高のピアニストを、みんな芸大を出たような人を教えていたわけです。
で、それがだんだん戦争になって、ピアノは贅沢品で、そういうものはやったらいけないっていう風になってきて。
そしたら、大阪の方に弟子をね、毎月1回教えに行ってたらしいんです。
そのころ東京駅で、教えに行くのに、そういう時代考証っていうのはまあ、あれしてもしょうがないですけど、背広を着るなどまかりならぬと。
軍服みたいな服を着て、帽子は戦闘帽っていうのをかぶって。それから足はゲートル巻いて、女の人はモンペはいて。
そういう時代で、背広なんて着て歩いていると非国民だなんて弾劾されるわけですよ。
だけどもそういうダンディーなピアニストでしたから、東京駅の二等車乗るのにね、ソフトかぶって背広着て来たから、たまたまその2等車に乗り合わせた海軍の将校さんが2,3人「こういう時代に非常識じゃないか、おまえそんな格好して。
ゲートルでやらなくちゃいけないのに背広着てソフトかぶって、「おまえはなにをしているんだ」ってこう言ったわけですよ。
変な答えしたらひっぱたかれるような時代でしたから、「実はピアニスト」なんて言ったらたいへんなことになります。
それで「子供の耳の訓練をしてるんです」こういうことを言った。ま、事実ですから。
「何だ」っていったら、敵軍戦闘機が飛んできて、それのエンジン音を聞いてね、それがなんだか当てられる、というような訓練をね、してるんだってことになった。
「おお、そうか。それじゃ軍に協力してるんだな」っていうことで、それじゃ横須賀の基地へ実験的に子供さんを連れて来い、こういうことになった。
それでその、僕らはちょうど5才くらい、何人か、横須賀の基地、潜水艦の基地ですよね。で、潜水艦の上を駆逐艦とかがずっと通るわけですよ。
するとスクリューの音が、ブブブブっていうのが録音してあって。それを聞いて、この音はこの音は今この駆逐艦が通ったとかね。
見えないですからそれを聴音係の水兵さんが聞くと。
今はソナーですよね、ピッピピー。あのソナーっていう音波をね。そんなものないから、当時はただ聞いていたわけです。

佐々木  上に何が通るかっていうのを。

山田  そうそう何が通るかっていうのを。
聴音係の水兵さんの係のところで、アトランダムに初め4つくらいなにって言わないで、1番2番3番って録音したものを何回か聞かせてくれた。
そしたらその、ブブブブってところにピアノの音が1つか2つ混ざってる、そういう風に聞こえるんです。
それでああそうか、1番は何が入ってるっていうのが1回聞きゃあわかっちゃうんですよ。
子供達はそれをやっていくと、あっ、これは3番だって。言わないで書く。3番とか4番だとか。だいたいみんな当たるんですよ。
後ろの水兵さんが見てて、腕を組んで首をかしげるんです。
わかるわけないんですよ、だって、ただブブブブっていってるだけなんだから。
それで非常に面目を施して、笈田先生って方は佐官待遇の軍属になって。
戦時中は本当に収入がないでしょう。ピアノ弾いたらおこられちゃう。
それでずっと終戦まで軍属でいられたっていう、そういう面白い話。

佐々木  すごく機転の利く、頭のいい方だったんですね。

山田  そりゃだってね、楽譜のすごいのを全部暗記するんだから。まあでも戦後は酒で、肝硬変で亡くなりましたけどね。
ま、たいへんだったと思います。
















2014年1月20日月曜日

ピアノ調律その4インタヴュー続き

佐々木  ピアノが2台用意されている会場に来られるピアニストは本当にうれしかったですよね、きっと。

山田   例えば都市センターホールっていうのはスタインウエイのピアノとヤマハの同じ大きさのピアノ、2台あります。それで借りる日本人のピアニストは問い合わせをして「お宅のホールのピアノは」と訊くわけです。
その結果「スタインウエイとヤマハがあります」って言われると。すると「ああ、そうですか。じゃあ、スタインウエイにしてください」とこれはもう見もしないで決めるわけです。
それで、私はもうそれじゃあ面白く無いっていうんで、ヤマハの方を相当ね力を入れて調律しまして。
でも、日本人は、いくら「ヤマハがあります。弾いてみてください」って言っても「いやいや、もうスタインウエイにします」って言って見もしないで決断する。
ところが外人のピアニストっていうのは違う。まあ、スタインウエイを出しておけば間違いないから出しときますけど、弾いてみて「このホールはスタインウエイだけなのか」って訊きますから「ヤマハのピアノもありますからみてください」っていうと「あっ、こっちでやります、今日は」そういうこともあるんですよ。外人さんっていうのは素直ですから、自分にあったもので弾きますよね。そこはおもしろいところ。
日本人の場合はネームバリューでいきますよね。まあ、このくらいの面白い話はいっぱいありますけどね。

佐々木  簡単にスタインウエイとヤマハの違いっていうのはどこなんでしょうね。

山田   ヤマハはやっぱりね、スタインウエイの真似なんですよ。スタインウエイの設計をそっくり真似ているわけです。
そうすると、いいところを真似しても、良いところが出ないでスタインウエイの悪いところばっかりでちゃうんですよ。伝統の力とかいろいろありますからね。
それとヤマハの場合そろばんをはじいちゃうんですね。このところはこの部品でいいだろう、っていうふうに、ありますよね、そういうの。
今は試行錯誤して、大分よくなったんですよ。今とてもいいですよ。今とてもいいんですけど、でも日本では2番目に見られちゃう。性格が全くちがいますから。なかなかそこらへんがね。
でもヤマハが好きだっていう人もいるんですよ。どう違うとかっていうと、あとは好みになっちゃう。

佐々木  
幼い頃からピアノを習われていたということなのでしょうか。

山田  そうですね。でもピアノを習っていたといっても、要するに、普通のピアノのレッスンっていうのは3歳半では、いかほどのことでないですから、音感教育が大きかったわけです。
先生って方が日本人で初めてベルリンの音楽学校、国立音楽大学のピアノ科と作曲科を出た笈田先生というかたで、その人が日本に凱旋してきて、たいへんな騒ぎだった。
昭和元年あたりだから今から80年くらい前の話ですよね。日本人でドイツに留学するっていっても3週間くらいかかって船で行くような時代ですよ。
そういうときだからピアノそのものもえらい高いもので、郊外の家が1軒買えるくらいのお金がかかったんですよ。贅沢品だったんですよね。それでうちの親父さんが稼いだんでしょうね。
それで、私の先生が向こうで音大の試験を受けるときに、今の音大の試験では当たり前なんですけど、聴音といいまして、なにかメロディーを弾いたりするのを訊いて、それがどういうあれかっていうのを写すテストがあったそうです。
で、これは無理だっていうんで、カンニングをしてね、やっと受かったってことでした。耳の訓練を日本ではまったくそのころしてなかった。
ドイツ人っていうのは、お父さんはバイオリン、お母さんはピアノっていうような雰囲気で子供は育ってきているから、自然に音感っていうものがついてしまう。
それで、そういうのが日本人にも必要だ、と。
日本の場合はそういう雰囲気はないわけですよ。お父さんは浪花節かなんかで、お母さんはよくて三味線ですよね。
そうすると音感なんてつかないわけです。
それでピアノを教えるに関して音感教育も必要だってことで先生は初めて試行錯誤したわけですよね。
それでそのピアニストとうちの親父さんがたまたま知り合いだったんです。
おまえの所に子供がいるだったらよこせ、ってなもんで、僕自身は全然そういう意思はないですよね。
ただね、僕は母親に連れてかれて、親父さんは高いピアノ買わされたわけだ。















2014年1月19日日曜日

ピアノ調律その3「山田さんインタヴュー」

ここから佐々木直子さんの問いに山田さんが答える形となります。
佐々木   現在はどのくらいお仕事されているのでしょうか。

山田   一番最盛期はね、6つのホールの専任だったんです。そうすると調律の時間がほとんどいっしょなので、調律する時間というものが限られちゃうんですね。どこのホールもだいたい演奏会でもなんでも6時半から7時。その前にやっていかないといけない。
もっとだと、午前中にやってもらって、午後のリハーサルやって、またっていうのはありますよね。だいたい時間は同じです。僕の家は練馬なので遠いですが、埼玉会館を除いて6つのホールは隣接してたんです。
ですから掛け持ちできるんです。あっち行ったりこっち行ったり。だから全盛期はもう大変です。
今はくたびれちゃいますから半分ですね。もう娘たちは片づいたし、かみさんと2人ですから。食っていかれりゃいいわけです。

佐々木  山田さんはお弟子さんを取っていらっしゃるんです      か?

山田   やってません。というのはね、歌舞伎だとかそういうお能の世界とか代々きますよね。そういうものじゃないんですよ。一代限りです。
大体みんな息子の継がせると、一代目よりどうしても劣るとか言われ、お父さん以上になって同等ぐらいにしかみられない。
それで同等ぐらいの技術になると、落ちたね、先代はすごかったね、って言われるわけですよ。
それと弟子はいませんが後輩はいますので、勤めていた会社の後輩ですね。その面倒はみます。そうすると手伝ってくれるわけですよ。この日手伝ってくれよと言えば手伝ってくれる。
自分の子供に男の子がいなかったのであれですけど、いたとしてもね、自由な道をやらせて、どうしてもお父さんの仕事がしたいと言えばこれまた別ですけれどね。

佐々木   主にホールを担当されていると言うことですが、今はどれくらい担当されているのでしょうか。

山田   20年くらい前までは、コンサートチューナーっていうもののシステムが、ホールごとに調律師が専任で受け持つっていうようなシステムだったんです。
どうしてかっていうとですね、だいたいいろいろなホール、放送局の各ホールにドイツのスタインウエイがほとんどはいっているわけです。
そうすると、そのスタインウエイの総代理店っていうのがありまして、そこがみんな販売するわけですね。NHKだとかまあいろいろありますけど。
そうするとじゃあ調律はどうするんだっていうことになって、スタインウエイの総代理店は松尾商会っていうんですけど、松尾商会ができたときに社員の中で調律師は1人もいなかったんです。だからピアノを売りっぱなしなわけですね。じゃあ後の管理はどうするかとってことになって、受け持ったのが2社の会社だったんです。
片っぽはNHK、かたっぽは桐朋学園という音楽学校ですね。そういうところがホール関係をいろいろ手がけている調律師、私の師匠なんかもそうですが、そこに委託して、全部を任せていた。するとね、結局どんどんホールができたでしょう。で、みんなピアノが入る。
そうするとやっぱり会社の社員で調律師が必要だなっていうのがわかってきたわけですよ。だけど一朝一夕にできるわけはない。相当高度な勉強をしなくちゃいけない。
それにもう勉強している人ってのは移りっこないですよね。でしょう。よっぽどこうね、移るメリットがないと。
それと稼ぎ頭ですから、移った場合でも受け持っていた会社からいろいろ、うちの優秀な技術者を引っ張っちゃって、っていうふうに言われたり。
そういうことで、じゃあとにかくこのホールはこの人専任っていうふうに、2つの大きな会社に全てを任せた。
そうすると、輸入元の社長っていうのは素人ですから、わかんないでしょう。こんなひどいのが来ちゃったとか言って請求されてもわからないですから。
それでもうこれはいけないと。それで僕が17年斉藤ピアノってところにいまして、そろそろ独立して自由にやりたいって言って、一応卒業させてもらったわけです。
で、斉藤ピアノそのものも、もう手が回らなくてですね、ホールが増えてきちゃって。頼む頼むって。それで、そういうことじゃやっぱり僕のほうも販売した会社で技術者がいないっていうのはおかしいよ、ってことで、後輩なんかを紹介したんですね。
で何人かドイツの本社で1,2年くらい勉強させて、それで帰ってきて、その人達がやると。
こういうふうにして。そうすると、恨まれたりするわけですよ、今まで勤めていた会社から。
でも発展のためにはね、若い人が必要なんだからっていうことで。そうして何人も研修に行って、松尾楽器に技術者として雇われることになった。
そして、今度はシステムが変わりまして。ちょうど専任の子会社が続々と閉鎖になった。
そうするとお客さんはみんな新しいほうに行きますから、今度は一括してピアノ販売の代理店の方が技術者を抱えて、ハイヤーの配車係みたいに調律師に依頼するようになった。
例えば今日津田ホールで誰とかさんがあるからお前行きなさい。全部そういうシステムに変わったんですね。だから専任の調律師っていうのがほとんどいなくなった。
それで、まあ、後はピアノの質も変わったんですけども、昔はちゃんとホールとしてのピアノ管理、ピアノ倉庫っていうのがあって、湿度と温度をいつもきちっとして。
ドイツのピアノっていうのは湿度に弱いですから、そういう倉庫に入れて管理すると。それで、その調整方法とかいうのも、全て本社からマニュアルがきます。
今はここ(津田ホール)にしろピアノがあるところは非常に調子がいいですね。
そうすると、調律師はだれが行ってもほとんどもうそんなに苦労しない。
我々がやっているころは、そんなのないですから。雨の日なんかはもうほんとうに大変、湿気っちゃって。暖房冷房なんてないですから。
そういう苦労は今の調律師はしなくていい。その代わり、第一生命ホールとか閉鎖になった一部のホールは私以外の人ってのはやりません。専属ですから。そうすると、いわゆる自分の好きな音に仕上げていけるわけですね。
だから山田トーンっていうものをつくった、あそこのホールに行けば山田がいて、山田トーンが弾けるなっていう風に思わせるようにやったんですね。だからピアノが2台あれば、片っぽは少し派手気味にしてね、厚化粧したようなきらきらっとしたような、1つはしっとりと落ち着いたね。
それからシューベルト、シューマンには柔らかい感じで、仕上げる。で、その2台を出してもらって、好きなほうを選んでもらう。そういうふうなことでこっちも楽しんで工夫する。

nekotamaの後書き
山田さんの語り口そのままで写してあります。
落語の素養があるひとなら、落語調で読んでみてください。
この次からは長くなるので、私が適当に割愛してみようかと思います、重複する言葉とかを。
でも、多少冗長になってもこの語りのスタイルがみえた方が面白いかもですね。なるべく原稿に沿ってご紹介していくつもりです。














2014年1月18日土曜日

ピアノ調律その2「山田会長のプロフィールその1」

調律についての面白い話に至るまでは、山田さんの人となりを呼んで頂くとより興味が膨らむと思いますので、その辺から始めます。
2012年津田ホールのカフェにてのインタヴューから纏めさせて頂きます。インタヴュアーは佐々木直子さんです。
プロローグはそのまま抜粋します。

『ピアノ調律師山田宏さん』

山田宏さんは1931年生まれの81才で、現役のピアノ調律師である。待ち合わせの場所に現れた山田さんは品の良い黒いスーツに身を包んでいた。服装にある種のこだわりをもたれていることは一目でわかるが、その気遣いに主張がない。脚光を浴びることを望むのではなく、裏方としての仕事を極められてきたことを感じさせらるお姿だ。そしてなによりお元気である。その証拠に山田さんがカフェで注文したのはコーヒーだ。(この部分ねこたまには理解不能。なぜコーヒーだと元気?)

山田さんは2012年に日経新聞の文化欄に特集されたのだが、そのきっかけとなったのが、山田さんが受賞したニッセイバックステージ賞だ。まず賞の選考のために用意したというファイルを見せてくださった。そのファイルには山田さんの推薦状、今までに特集された記事など、山田さんの実績を語る者がたくさん詰まっていた。
そのなかでとりわけ目を引いたのが雪山を滑るスキーヤーの写真。もちろんそのスキーヤーは山田さんだが、20年前ではない。なんと3年前のお姿だ。高校のとき始められたスキーが趣味で、夏にスキーをするために南半球の国に行ってしまうほどスキーが好きなのだという。スキーが元気の素だと笑顔で話してくれる山田さん。80歳を過ぎてなお一流のお仕事をし続けるその秘訣は何なのか。まずは現在のお仕事からお聞きすることにした。

nekotamaのつぶやき
2012年は2年前、その時スキーを滑ることに驚いているようだが、それで驚いているようではまだわかっていない。
去年暮れ、今年正月と志賀高原でご一緒したけれど、1月の3日、私が遅れて午後志賀に到着したらもう姿形もなく、夕方ニコニコして帰ってみえた。
「いやあ、あんまり天気がいいので焼額まで行ってきたよ。滑った滑った」と大満足の体。
ホテルは石ノ湯。あの広い志賀高原を横断してしまったらしい。

これがまず前置き。これから調律という表には出ないけれど、演奏家を陰で支える重要な仕事に迫ってみたいと思う。
これから長くなりますが、お付き合いの程をよろしくお願いします。










2014年1月16日木曜日

ピアノ調律1

私が太ったの痩せたのというつまらないつぶやきを聞いて下さってもしょうも無いことなので、ここで最近聞いた興味深いことを書いていこうと思います。

私たちのスキー愛好クラブ『雪雀連』の会長は山田宏さん。
日本の調律界の草分けかつ現役の名調律師。
しかも現在80才を越えても日本と海外を股にかけて滑りまくる、スキーの名手でもある。
その上手さは、かつて大学のスキークラブでならした人がどうしてもついて行けないほどのスピードで飄々と滑る。
力みもこれ見よがしの所も全くないから、早いと見えないのに、実際従いて行こうと思うと追いつけない。
剣の達人が強そうに見えないのに、いざ闘うと付け込む隙がないというような感じですか。

私は長い年月「雪雀連」にお世話になってきたのに、ここの習慣としてお互いの仕事に首を突っ込まないから、調律のことは訊く事も無かった。
あるとき私は他人から一時スピネットを預かっていた。
スピネットの調律は自分で出来るので、ハンマー(もちろん調律用の)で自分で調律しようと思った。
ところが全く歯が立たない。
ヴァイオリンは自然音感、平均律ではないので自分の音感で調律していくと合わなくなる。
それでオクターブを決めてからその中で12分割しようとすると、私には出来ない。
どうしてもあまりが出る。
それを山田さんに言ったとき、彼は穏やかに「あはは、難しいでしょう」と、それ以上のことは言わなかった。
最近、ある会場のロビーで立ち話をしていたときに、日生の「バックステージ賞」をもらって以来講演会に呼ばれることが多くなって、そういう話を良くするのでお見せしますよ、と言って資料を送って下さったので、ここに纏めて見たいと思う。
少し長くなるので、時々他の話題も入れながら書いて行きたいと思います。(次回へ続く)

























2014年1月14日火曜日

ぎょぎょ!

今朝体重計に乗ったら、衝撃の数値が。
なんだか体が重たいと思ったら、2,5㎏増えていた。
12月にはやはりお付き合いが多くて、私の友人達はよく食べる人達だから、彼らに比べて自分の食べる量がさほど多いとは感じていなかったのだが。
それでも彼らはそんなに太っている人は少ないし、エネルギーをちゃんと使っているようだ。
私は今面白いゲームにのめり込んでいて、朝起きるなりまず一戦。後を曳いてしまい午前中いっぱいやっていることもある。
これでは運動不足は必至。
なので筋トレに通っているが、それが反対に徒となって運動したつもりになってしまう。
運動は毎週200分歩くくらいでないといけないらしい。
今日ノラに餌をやりに行ったら、いつもは物置の寝床から現れるのに、呼んでも出てこない。
部屋に戻ろうとしたら、やけに丸々したトラ猫が目の前を横切った。
体も顔も目もまん丸。
よく見たらうちの(?)ノラだった。
飼い主(?)もノラも丸々で、よく似るものだと思った。
私の場合はとにかく運動不足。
人に面倒みられてばかりで、自分が動かないからカロリーは全部お腹の周りに自転車のタイヤ分くらいついてしまう。
今日もひと様にお世話になっているのに、私が手を出すと何故かわからないが物事全てダメになるので、傍観者に徹していた。
その分その人が良く働いて、レッスン室のゴミはかたづけられ、パソコン周りはすっきり。
私が出ると大事なネジはなくすしコーヒーメーカーは詰まってあふれ出し、それを根気よくかたづけてもらう。
どうしたらこんなヘマが出来るのかとお小言を頂戴しても、自分で分かるわけがない。
子供の頃は自分がもう少しマシだと思っていた。
私の分担は雨戸の開け閉て、玄関の掃除、ご飯を炊く(炊飯器の無かった頃ですぞ)しかも薪で。
けっこう働いたでしょう?
いつからこんなに出来が悪くなったのか、とんと記憶に無い。
冬を越したら、ノラと私のダイエットに取り組む・・つもり・・乞うご期待!と言いたいところですが。


















2014年1月13日月曜日

ワン ダフル



   トイプードルのモカちゃんは天才ギタリスト
        リズム感いいなあ!

今年も出遅れ

ロンドンアンサンブルのタマーシュ・アンドラーシュが去年の12月にプログラムに載せたのがクライスラー・プニャー二「プレリュードとアレグロ」大変な名演だった。
目にもとまらぬ早さで「これを弾くのは5才の時以来かな」とうそぶいていたそうだ。
そして、なにごとが起きたのか、私の2人の生徒達が揃ってこの曲を弾きたいといいだした。
2人ともタマーシュがこれを弾いたのは知らないはずだから、彼に刺激されたのではなさそうだ。
巷で流行っているのだろうか。
どうであれ、この曲は私も大好きだから、弾いてもらう事に異存はない。
それで私も5才のタマーシュに遅れること10年目に弾いただけなので、古い楽譜を探したが例によって見つからない。
コピーをさせてもらって自分でも弾いてみると大層面白い。
しかし、タマーシュは易々と弾いていた後半の早いパッセージがもつれる。
途中で集中力が途切れてわけがわからなくなる。
私は十代の頃弾いたので、それほど難しいと思った記憶はない。
今弾いてみるとけっこう難しい。
こんな曲どうやって暗譜したのかも思い出せない。
それでもすぐ譜読みは出来たが、途中で音符がゴチャゴチャに固まって見えて指が止まる。
いつも生徒に言うのは、途中でつかえるところが一緒なら、そこだけ取り出して磨き上げてから、もう一度戻して弾きなさい。
いつも同じところでつかえるようなら、練習方法がわるいのよ、なんて偉そうに言っていたのが我が身に戻って来る。
同じ場所でハタと止まってしまう。
指の運びをそこだけじっくりと練習して又元に戻って弾いてみる。
又そこで止まる。ああ、やんなっちゃった、これでは生徒達と同じではないか。
そして気がついたのは動体視力の低下だった。
目が弾く速度に付いていけないのだ。
16分音符が続くと、目が追っている音符よりも先に指が動く。
指の方はそれこそ毎日もの凄く動かしているから衰えていないが、目の方がかすんできていて途中でギブアップする。
指が先に行ってしまうため、音符を読むのが遅れてしまう。
目も毎日使っていると訓練されて良くなるのなら、どんな訓練でも受けたいと思う。
自宅付近を新幹線が走っているから、毎日眺めてみようかしら。
猫の走りを観察しようか。
老化現象だから、これは治らないものなのか。
車の運転や、スキーをしているときはさほど感じないのに、音符を読むのはそれ以上に目が早く動いていることがよくわかる。
それも先を読みながら問題を考えながら弾いているので、瞬時に判断して決定しなければならないことが多い。
迷ったらそこで音楽はストップしてしまう。
反射神経が試練に晒される。
思えば長年使ってきた目や脳みそは、もうだいぶ古びている。
さっき数えてみたら猫のたまさぶろうも早くも18才。
人間なら長寿でお祝いしている歳だわ。
私も一緒に歳をとっているのだから色々仕方がないか。
たまは高齢にも拘わらず、夜中に大きな声で『ニャー』と鳴くと張りのあるテノールで、近所迷惑この上ない。
私の音もあんなふうだといいのにと、いつもうらやんでいる。
早く取りかからなければいけない譜面がどんどん送られてきて積み上げられていくのに、まだお正月気分。
ほら、始動開始!早く早く。

























2014年1月12日日曜日

仕事って大変!

音楽教室に来ている私の生徒の仕事場が、今よりも更に遠くに配置換えとなったのでしばらく休会すると言ってきた。
今まで、毎週仕事の帰りにレッスンにきていたものの、あまりの激務に度々休むことを余儀なくさせられていた。
ヘトヘトになって本来の時間の1時間遅れで現れることもあった。
保険関係の職場らしいが、徹夜したり、決算時期が近いと殆ど寝る間もないくらいの忙しさらしい。
その上今度は片道2時間もかかる仕事場に配属されてしまったので、会社の帰りにレッスンに来るなどはとうてい不可能となってしまった。
彼は教室きっての優秀な生徒で、猛烈に忙しい仕事の合間にチャイコフスキーやサンサーンスなどの難曲に挑戦してきた。
今は、発表会に向けてブラームスの協奏曲の譜読みを始めたばかりのところで、すごく張り切っていたのに。
仕事が終ってから夜中に練習していると、疲れて失神しそうになると言う。
それでもどんなときにも立派にやってのけるのがすごい。
ヴァイオリンに対する情熱は並々ならぬものがあって、本当はヴァイオリニストになりたかったとか。
中学校進学の時に、子供の時から習っていた先生に相談したらしい。
音楽の道に進みたいと言ったら、先生に反対されたという。
先生にしてみれば男の子だし、音楽業界に進んでも果して食べていけるか心配だったのだと思う。
私だったら、一番好きなことをおやんなさいと言ったと思う。
ただ、その時期にその先生に師事していて、反対されたからと言ってそこで諦めるようなら、やはり音楽への「道」が出来て居なかったのかなとも。
もしその時の先生が私で、そこで「やりたいことやれば」なんて煽ったら、彼は今頃苦難の道にあえいでいたかもしれないから、どちら幸いだったかはわからない。
よく言われることだけど、人はあらかじめ決められた「道」を行くだけであると、それを運命というのかもしれない。
どうしてもと望んだワケではないのに、いつの間にか音楽家でございと居座っている私の場合は、目の前に道が出来て居て、のんびり歩いていたら目的地に着いてしまったみたいなところがある。
彼は音大に進めば、魅力的な音色と努力を厭わない性格で、プロになれたかもしれない。
それでもオーケストラに入ればそこそこ安定するけれど、フリーでは浮き沈みが多き過ぎて危険だと考える様なら無理かもしれない。
結局安定をとってしまったのだから、上手なアマチュアとして人から褒められながらやっていくのが運命だったようだ。
多分、安定をとったのは彼の性格がそれを求めているからで、音楽家としてはそこのところが多少気になる。
ガクタイ、特にヴァイオリン弾きは、安定した性格が一種の枷になることもあるのでは・・・良い意味で、多少キチ*イでないといけないかも。
私の元生徒が現在音大生で沢山の先生にレッスンを受けるのだが、どの先生からも、内面からの欲求が少なくて音楽に表情が出ないと言われるそうだ。
その子は子供の時からプロを目指していたので、私から猛烈に基礎をたたき込まれて、技術的には全く問題ないと他の先生達からも言われるのだが、問題は内面のマグマが少ないこと。
彼女が安定した穏やかな性格のせいなので、そのことが指摘されるなんて、芸術家は理不尽な世界に生きているものだ。
大学の心理学のゼミで見せられた絵は、統合失調症の患者の描いた病中と治療後の作品。
治療するとこんなに穏やかな美しい絵になりますと教授はおっしゃるけれど、私は病中の絵の方が断然素晴らしいと思った。
感想を述べると教授は「そこが難しいところですね。芸術家の場合は治療していいかどうか考えます」とおっしゃった。




















2014年1月10日金曜日

ナマケモノ天国



      こういうのって良いなあ。
       私の理想の生活です。

2014年1月9日木曜日

人間ドックの申し込み

右手が一時的だけど(約10分ほど)動かなかった話をしたら、スキーの仲間がえらく心配してすぐ病院に行くようにと言ったので、今日は人間ドックの申し込みに行ってきます。
ほんの一瞬でも異変があったら見過してはいけないと言う。
私も循環器系には少し問題があるのと、去年から喉に違和感があるので、健診を受けようとは思っていた。
この2年間健診をさぼっていたのは、乳がんの手術後再発なしで9年経ったから。
それでも15年位経っても再発することもあるそうだから、完全に安心とは言い切れないらしい。
生活習慣に問題も多い。
暴飲暴食、夜更かし、睡眠不足、ストレスに弱い等々。
暴飲暴食はストレスのせいで、その証拠にうちで静かにしていれば、なんなくダイエットが出来る。
仕事が忙しかったり、なにか気にかかることがあると、あっという間に太ってしまう。
睡眠不足は眠れないわけではなくて、いつかは永遠に眠ってしまうのだから生きているうちは起きていたいという単純な理由。
眠らないと太るというのはほんとで、私はず~っとデブ。
夜中でもパソコンの前で船を漕ぎながら、なんとしてでも起きていようと頑張っている。
睡眠はよくとらないといけないという脅し文句があるけれど、たぶん人それぞれのパターンで良いのではないかと思っている。
以前近所のおじさんが、うちの駐車場の車の出入りがうるさいと文句を言ったことがあった。
「眠れない」と言うので思わず「大丈夫ですよ。そのうちズーッと眠れるようになりますから」と言いそうになって慌てて口を塞いだ。
駐車場は夜の出入りは殆どなくて、そのおじさんは一日中なにもしないでぶらぶらしているから眠れないのはあたりまえ。
眠りたければ働けばいい。
私の父もあまり眠らない人だったけれど、最後まで惚けもせず健康で活動的で、96才で天寿を全うした。
それも世の人達がうらやむようなアッという間の死に方で、眠るように逝ってしまった。
だからといって誰にでも眠らないようにお薦めはしないけれど、私はその遺伝子を濃く受け継いでいるから、たぶん父親と同じ睡眠パターンではないかと思っている。
今朝病院に行って人間ドックの申し込みをしてきた。
混んでいて2月のお終いの方まで予約がいっぱいだった。
それまでに私が病気になってアッという間に死んだら、それも運命、検査の結果何も見つからなくても運命、それなら検査なんてしなくても良さそうなものだけど、人生をよりよく過ごすために出来るだけのことはしておこうと思っている。
それと、私は結構病院が好きで、検査なんてものも決して嫌ではなくて、手術の最中に執刀医に、今なにをどうしているのか訊きたがったくらいだから。































2014年1月8日水曜日

ノラの暖房

ノラのために物置に段ボールハウスを作って、そこに猫アンカを入れてやった。
初めは猫倉のような屋根付きのベッドにしたら、誰かが上に乗るらしく屋根がぺしゃんこになってしまって、意味がない。
それで段ボールの側面に出入り用の穴をあけて、中にフカフカのベッドを置いてみた。
でも、警戒心の強いノラは狭い出入り口の段ボールハウスはお気に召さなかったようだ。
いつ襲われてもすぐに逃げられないといけないらしいので、次は間口を大きくしてみた。
これでは冷気が入ってきて自分の体温まで逃げてしまう。
それでもやっとこの2,3日、寝ている姿が監視カメラに写っている。
猫に監視カメラはずいぶん大袈裟なことだとは思うけれど、これでパソコンから状態を見ることが出来る。
しかも、このカメラを付けてから、悪戯がなくなった。
今まで猫を脅したり物置の物を盗む輩がいたのが、きっとカメラを見つけてギョッとしたのだと思う。
自転車のタイヤの虫ピンを盗まれたり、ゴミを置かれたりしたのがピタリとやんだ。
思わぬ効果があってにんまりしている。
ノラは専らこの物置を餌の時間の待機用に使っているようだ。
本宅(?)は別にあるらしい。
去年までは我が家の物置が住み処だった。
今まで三毛猫のミッケとはあまり仲が良くなかったのに、どうやら最近はミッケとつるんでどこかの暖かい場所を獲得したらしい。
それでも餌はうちに食べに来る。
しかもドッサリ食べる。
うちのたまさぶろう達はほんの少しずつ缶詰を3匹で分け合って食べているのに、ノラは丸々一缶とカリカリを1日2回ぺろりと平らげてしまう。
この位生命力が強くないとノラはやっていけない。
警戒心も相変わらずで、私に対しても絶対に背中を向けない。
こんなに長い間養ってあげているのに、絶対に手を触れさせない。
だから生き延びているのだから仕方がないけれど、ナデナデさせてくれないのは寂しい。
前にも毎日餌を食べに来ていたノラがいて、しばらく姿を消していたけれどある日不意に現れたことがあった。
すっかり老いさらばえて骨と皮になり、もう長くは生きられないのがわかった。
その子も絶対に手を触れられなかったのに、その時は触らせてくれて、なでるとゴロゴロ言った。
そしてじっと目を見つめてきた。
それまでは目を合わすとフーッと言って威嚇してきたのに。
そして1週間くらいでたぶん死んでしまったのだろう、消えてしまった。
最後にお礼を言いに来てくれたのだ。
今のノラも手を触れられないうちは元気だということだから、せっせと餌運びだけさせられるのだろう。
はいはい、ご主人様、お食事でございます。
遅いな、早くしろ、なんだ又缶詰か、なんて言ってるかも。














2014年1月7日火曜日

手が動かない

暮れからお正月は仕事もコンサートも無いのをいいことにスキー三昧。
サボっていたら、右手が変!
弓がどんどんずれていく。親指に力が入ってしまうのだ。
力を抜こうとすると弓を落としそうになって音が出ない。
いつもなら弓は軽く持っているだけで、下に楽器があるのだから弦の上に弓が載っていればいい。
ところが右手の指の柔軟性が失われて、弓を硬く持たないと音を出すことも出来ない。
それで親指がずれてしまって、対面する指にくっついてしまう。
やっとわかった。生徒達がぎゅうぎゅう弓を持つ訳が。
親指は他の指に向かい合わせになっているので、他のどの指が触れても全部の指の柔軟性は失われる。
手首が硬くなる。
弓の重さがしっかりと弦に載らなくなる。
豊かな音が欲しければ脱力・・・というパラドックス。
へんなところで生徒たちの悩みが見つかった。
どうしてそんなにガチガチに持つの?訊くと、でも持たないと落ちてしまいます、と返事がかえってくる。
でも下に指板があるでしょう?力を抜いてごらん。
すると、ああ、指が自由になって響きが出ますと答えが。
ところで私はどうしたのだろうか・・・・
今までなんともなく弓を動かしていたのに、こんなに右手の動きが悪いのは初めてのことだから、脳梗塞かなにかで右手がマヒしてしまったのかと思った。
そう言えば最近筋トレなどには行くけれど、ちゃんと定期的に体を動かすことがない。
それで筋肉が固まって来ているのかも知れない。
それとひどい乾燥で指の脂がすっかり無くなってしまっているのも原因かも知れない。
せっせとワセリンを指にすり込んで、ゆっくりと弓を動かし始めた。
少しずつ少しずつ、機関車がゴットンゴットンと動き出すように手が柔軟になってきた。音も出はじめた。
子供の頃、私たちの受けた教育では奏法に無理があった。
先生達も手探りで教えていらしたと思う。
現在の若い人達がしている無理の無い奏法なら、もっと活躍出来たであろう人も少なくなかったに違いない。
私も才能も無いのに長期間弾いているので、それなりに音楽がわかってきて、ますます面白くなったところで指にマヒが来たら泣くに泣けない。
スキーで遊んでいないでもう一度初歩からやり直し。
10年前にヴァイオリンはやめて雪と遊ぶ計画だったのに、やはり音楽の面白さはそれを上回る。
やめられないならトコトン付き合う覚悟しないと。
今年もサボれない日々が続く。やれやれ!















2014年1月6日月曜日

オーナーは山岳ガイド

2日目の午前中はかなりの降雪と風が吹いて、条件が良くないと決してやる気の出ない私は部屋でノラリクラリ。
気温が高めらしくガスっている。
こんな日には気分が悪くなるからゲレンデには出ないと決めたものの、午後になるとやはり少しだけ滑ってこようと出かけた。
熊ノ湯ゲレンデまで車で送ってもらい、1人で滑り始めた。
他の人達は勤勉だから朝からでかけているし、どこにいるかもわからない。
熊ノ湯ゲレンデのリフトの途中駅でさえガスっていて、初めのうちは視界2,3メートル。
少し下ればガスは消えるけれど、見えないというのは怖い。
なだらかな初心者用のゲレンデなので危険ではないけれど、慎重にしないと他人とぶつかりかねない。
1人だから自分のペースでいくと、たぶん1時間半で10本。
それだけ滑ったら帰ることにして、7本目まで滑り終えたところでトイレ休憩。
ひょっとしてと思って上のレストランを覗くと、いたいた、仲間達が私を見つけるとと嬉しそうに『新雪』と叫んでいる。
なにかと思ったら全く人が踏んでいない新雪を見つけて滑っていたらしい。
それで後の3本は新雪を一緒に滑ってもらう事にした。
リフトの脇の木立の中に入ると、人のいない静かな空間が広がっていた。
雪は滑らかでホイップクリームの上を滑るように板が走る。
これは素晴らしい!
4人の美女(ゴーグル、マスクをはずさなければ)は音も無く滑った。
夕飯が終ってまったりとロビーでコーヒーを飲んでいると、お正月の間ホテルを手伝っているという男性が私たちのところへやってきた。
今日BS放送にここのオーナーが出ますので、ご覧下さいと言う。
何だろうと思ったらスキーヤーの三浦豪太さんと、欽ちゃん野球チームで只1人の女性選手だった片岡安祐美さんと、このホテルの新オーナーで山岳ガイドの大雲芳樹さんが3人で志賀高原の雪山を登り、ご来光を見るという企画らしい。
9時になるとホテルマン全員と私たちが集まってテレビの前に座った。
志賀高原の山々を美しく映し出すシーンから始まった。
神々しい雪山も、登る人にとっては危険で大変に体力の消耗するもので、標高も高いから呼吸も乱れやすい。
それなのに女性ながら野球の監督として話題になった片岡さんは音をあげることも無く嬉しそうに上っていく。
ガイドの大雲さんも終始にこやかに適切なアドバイスをしながら、力強く歩く。
三浦豪太さんは世界の峰々を踏破しているから、易々と歩いているように見える。
片岡さんは雪山は全く初めてと言うので、たぶん非常に辛かった思うのに、絶対に弱音を吐かないのには感心した。
勿論野球で鍛えた足腰は男性並みだと思うけれど、キリッとした表情は最後まで変わらなかった。
目的のご来光も、大雲さんは「本当に100%ダメだと思っていました」と言う。
ところが奇跡が起きて、素晴らしいご来光を見られる結末には本当に感動した。
片岡さんの強い意志が太陽を呼び寄せたようだ。
それにしても、いつもこの様な映像を見て感心するのはカメラマンのことで、重い機材を持って一緒に登って居るのだと思うと、登山家以上の苦労もあると思う。
聞けば大雲さんは元は志賀高原の人ではなく、銀座でサラリーマンをやっていたそうだ。
以前も家族的で良い雰囲気だったけれど、新しい石ノ湯ホテルの雰囲気はすっかりキビキビしたものに変わって、これからも行くのが楽しみになってきた。
ホテル全体が喜んでいるように見える。私もうれしい。












2014年1月5日日曜日

年寄りの冷や雪

お正月早々、朝まだ暗いうちからガラゴロとキャリーバッグを引っ張って静かな町中を歩くのはなかなか気がひける。
長野新幹線に乗るために早起きして出かけた。
同行するのは「雪雀連」のおかもっちゃん。
先発組5人は前日から行っている。彼らはこんな上天気な日には遠出しそうなので、たぶん午後からおかもっちゃんと2人だけで滑ることになりそうだ。
彼女は慎重な性格で、かっ飛びの私とは対照的だから、一緒にいてもらうと私も慎重になるので怪我をしないで済む(と思う)
昼前に定宿の「石ノ湯ホテル」に到着。
廃業のうわさもあったけれど継続するいうので喜んでいたが、出迎えた人が見ず知らずの人だったのに驚いた。
背の高い男性がにこやかに迎えてくれた。
ホテルに入ると全員知らない人ばかり。
少しショックを受けたけれど、見慣れたロビーや食堂、部屋の調度品も殆ど変わらずにそのまま保存されている。
全部引き継いでくれたことがうれしかった。
受付の女性は飾り気の無い感じの良い、笑顔の素敵な人。
今までのまったりとした雰囲気からかなり若返って、若い男性達がてきぱきと仕事をこなしている。
今回も素晴らしい晴天に恵まれて、午後からも熊ノ湯のゲレンデは雪も申し分ない。
こんな良いコンディションの時には、私でさえも上手くなった様な気がする。
はじめは足慣らしのつもりだから、易しいゲレンデをゆったりと数回滑っていたけれど、ふと上を見ると一番上の急斜面から人が降りてくる。
この斜面も何回か滑った経験があったから、あんなにきれいに滑ってこられるなら、きちんと整備されて雪の状態も良いのだろう。
ちょっと行ってみようかな?
魔が差した。
もう日も暮れるから行くなら今だ、よし!
途中駅を通過して一気に頂上までリフトで行ってしまった。
斜面に立ってみると、なんと、ひどい雪の塊がボコボコになっていて、急斜面が目の下に長々と見える。
それでも能天気な私はエイッとばかり下り始めた。
整備されていない雪はスキーにからまり、脚力の無い私の手に(足に)負えないことがすぐにわかった。
しかし、ここまで来たら下りるより仕方が無い。
数回ターンをして転ぶ。もう一度転ぶ。
そして3回目に転んだときに左のスキー板の上に右の板がクロスして載ってしまった。
引くにも出すにもびくともしない。
左足の靴が妙にねじれているから、迂闊に無理して動かすと足首をねんざしそうで怖い。
下にはまだまだ急斜面が続いている。
もう日が翳ってきた。
これを降りなければ、今日の夕飯にありつけないぞ。
その時3人のスキーヤーが上から下りてきた。
かなり上手い人達ではあったけれど、こんな雪の状態だから他人の災難に目を向ける余裕はないらしい。
それでもこのチャンスを逃すと助けてもらえないと思ったから、大声で「助けて下さい」と2,3回呼びかけると一番後ろにいた人が、少し下から板を外して上ってきてくれた。
板を真っ直ぐにしてもらって、やっと立ち上がることが出来た。
そこからは転ばないように慎重にヒタヒタと降りてきて、あと5分の1くらいを残す所まで来たら、その人が「もう大丈夫ですね」と言って降りていった。
私は自分が降りるので夢中だったので気が付かなかったけれど、ずっと側にいてくれたらしい。
迷惑な下手くそを見過すわけには行かなかったらしい。
どこのどなた様か知りませんが、ご迷惑おかけしました。
ホテルに帰ると先発隊と合流、彼らはあまりの上天気に誘われて、熊ノ湯から奥志賀まで遠征して焼額ゲレンデで滑ってきたと意気揚々、ニコニコしている。
わが「雪雀連」の不良シニアたちの元気なことったら、まったくもうあきれたものだわ。
私には年寄りの冷や水ならぬ冷や汗、いや、冷や雪だったけど。

























2014年1月3日金曜日

あったかそう

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      私は寒い所へ行ってきます。
 皆さんはこんな風に暖かくして風邪ひかないように
                    お気をつけてください。

2014年1月2日木曜日

又スキーにいくのにゃ。

明日から又、スキーに行きます。
同じく志賀高原の石ノ湯。行きつけのホテルに泊まる。
理想のホテルを作ろうと集まったスタッフが一つの家族のようになって経営しているこの小さなホテルは、入っていくと「ただいま」と言いたくなるような雰囲気を持っている。
初めてここに泊まったときには、家族経営だと思っていた。
フロントを預かるお嫁さん、送迎と厨房を預かる息子さん夫婦、絵心で室内装飾を手がけるお姑さんはお客さんの人気の的、厨房でひっそりと働くお舅さん・・・だとばかり思っていたら、全員赤の他人だそうで驚いた。
それほど一つの目的に向かって一心同体で働いているのだ。
先日お姑さんだと思っていた女性が亡くなって、他の人達はすっかり経営意欲を失い、ホテルは閉鎖することになったと連絡が入った。長年毎年泊まっていたのでショックを受けた私たちは、他のホテルに泊まってみたが今ひとつ。
しばらくすると再開の連絡が。
心の拠り所が無くならないで本当に良かった。

学生時代、初めて行ったスキー場は蔵王だった。
行けば体育の単位が取れるというのと、友人から誘われたので道具一式を買った時は、竹のストック、皮のスキー靴。
当時は宅配便なんて無かったから夜行列車に長いスキーを持って乗ると、網棚にフックを引っかけてぶら下げた。
網棚にはずらりと沢山のスキーが揺れていたものだった。
硬い座席でほとんど眠れずに早朝到着すると、早速ゲレンデへ。
まだリフトが動いていなくてもせっせと歩いて上っては滑り、疲れることを知らなかった。
生れて初めて滑った次の日には、もう、大平コースから降りてきたのだから驚く。若かったなあ。
自慢じゃ無いが運動音痴の私は小学校のクラスでただ1人、跳び箱飛べない、逆上がり出来ない子供だった。
それがたった一つ、スキーだけは未だにやっているというのが不思議なことで、よほど性に合っているとみえる。
華麗というにはほど遠い滑りだけれど、柔軟性のある体なので向いているらしい。
スピード感が好きというのもある。
スキーの先生が1人ずつ滑らせた時、私は決まって「スピード狂」と言われる。
滑りはそこそこだけど、転ぶときは華麗にころぶ。
板は雪に突き刺さり、手袋、帽子は上の方にストックと共に取り残され、本人はケロッとして怪我も無い。
こんな時には「私は前世、猫だった」と実感する。















2014年1月1日水曜日

喪中につき

新年のご挨拶はご遠慮させていただきます。
姉が11月に亡くなって、今年初めて兄姉が1人減ったお正月になってしまった。
だんだんに寂しくなるけれど、それは仕方が無いので、今年もよろしくお願いします。
去年もとりたててパッとしないけれど災難もなかったのは平穏無事と言うことで、幸せなことだと思っている。
体力気力共に衰えてきているけれど、周りの人達からはえらく元気だと言われる。
たしかに健康診断の数値は同年齢の平均値よりもかなりよろしいなどと出るから、無理しても大丈夫だとは思うが、やはり疲れ方が以前とはだいぶ違うようだ。
3月の「古典音楽協会定期演奏会」でソロを弾かせてもらうなど演奏予定がけっこうある。
今年は私の節目の年でもあり、なにかコンサートをしようと思っていたけれど、エネルギーが足りない。
ちょうど10年前、オペラシティーのリサイタルホールで記念の室内楽コンサートを開いた。
私の大好きなモーツアルトの「ディベルティメント17番」
ショーソン「ピアノとヴァイオリンのための協奏曲」
2つ並べて嬉しくて舌なめずりをしながら弾いたっけ。
どちらも50分以上かかる長大かつ難曲だったけれど、なんとか持ちこたえることが出来た。
今でもそのくらいは弾けると思うけれど、会場選びから選曲や練習のことを考えると、すでにめげているのが情けない。
どなたかエネルギーをください。
秋にでも・・・うにゃ~ん、会場が取れたら考えよう。