2021年1月30日土曜日

医原病

 コロナ感染に怯える今、日本で医原病が減っているという指摘がなされているという。それはコロナ感染を恐れて人々が病院へ行かなくなったから。

「医原病」とは医療ミスと過剰医療によって引き起こされる病気だそうで、アメリカ人の死亡率の第3位にランクされている。アメリカ国内で年間約25万人以上、実際にはもっと多いと思われる。

「薬の不適切投与」多剤併用のリスク、「院内感染」病院内での感染、「不必要な手術」切除しなくてもいい小さな腫瘍を切除したことによって感染症を引き起こす、など。病院へ行けば行くほど死ぬと言われているそうだ。

なるほど、たまに整形外科に行くと待合室に溢れんばかりの患者、椅子が足りなくて階段にまで座っている。はじめてその病院を訪れたときには、ドアを開けた途端ぎょっとしたものだった。病院嫌いの私も寄る年波には勝てず、時々お世話になる。以前は医療をうけない年が続いて、保健所から記念品?が送られてきたりした。こんな無駄なことしないでくれないかなと思ったけれど。

私のお手本は猫。彼らは具合が悪くなると引きこもってしばらくじっとしている。餌も食べない。しばらくするとノソリと現れて、何事もなかったかのように日常に返る。私も人間にしては原始に近く、ほとんど薬は飲まない。最近足の痛みに耐えかねて病院へ行ったら、痛み止めの薬を処方されたけれど、全く飲まなかった。痛みを止めても根本的な治療にはならないと医師に言うと困ったふうだったけれど、それなら自分で治すと言って帰ってきた。整形外科は、怪我をしているのでなければ湿布薬と痛み止めを出すだけの存在なのだ。

なぜ痛むのかわからないけれど、怪我でなければ関節の筋肉が固まってしまったのだろうと思って、毎日ストレッチと軽いウオーキングを組み合わせていたら治ってきた。こんなにかんたんに治るなら、今寝たきりになっている老人の半分は自力で生活できるのではないかと思っている。自分で治す、これが基本。

健康の基本は歯だから、私は長年毎月1回ペースで歯科医に行った。歯石を取り歯茎のケアをしてもらっていたけれど、ある時歯科医がボソリと言った言葉で行かなくなった。「本当はね、こんなことしないほうがいいんだよね」と。あるいはそうかなと思っていたから納得できることがあった。1年に1回くらいなら歯石を取るのは構わないけれど、あの冷たい金属の器具でガリガリと口の中をこすられるストレスが良い理由がない。それ以来、未だに虫歯は1本もなくしっかりと硬いものも噛れる。要は毎日の歯磨きを丁寧にすればいいだけ。

自宅の近所に、世界最高峰のアメリカの大学に留学していた医師がいる。彼の父親は地域の名医として人々の尊敬を集めていた。その父親がなくなって急遽呼び戻されて個人病院を引き継いだけれど、優秀な研究者が優秀な町医者とはならず、例えば喉が腫れているけれど原因がわからなく間違った薬を投与するなどで、私はえらい目にあった。

彼のお父さんは見立ての天才、私の家族はどれほど彼に救われたことか。軽い風邪をひいて行っても、治療はしてもらえなかった。「うちに帰って温かくして寝ていなさい」と薬も出さず注射もしない。そのかわりいざというときには本当に頼りになった。そんな親子を見ていると、医者にも知識だけではなく才能がないとだめなのだと思う。一瞬でその病気が重大なものなのか、自然に治る種類のものなのか見立てる凄さをしばしば見せられた。大家族の我が家が全員無事に育ったのはこの先生のおかげだと思っている。

この先生も日本の最高峰の大学の出身だということを亡くなったあとで知った。そんな名門校を出たら大きな病院の院長先生にだってなれたと思うのに、商店街から路地を入った冴えない古い建物でほそぼそと医療をしていた。けれど、お葬式のときに集まった患者さんや関係者は2000人だったと聞いた。隠れた名医とは彼のこと。学歴をたてに役人となって悪いことをする人とは大違い、清々しい生き様だったと思う。

最近整形外科に行くことが多かったので、処方された薬を受け取りに行くたびにお薬手帳なるものを作れと言われる。これなんのため?沢山飲むならいざしらず、私のようにめったに飲み合わせることもなく、1回のみ終わればほとんどそれで終わりという人には無用のもの。断るとたいてい嫌な顔をされる。近所の耳鼻咽喉科の医院では薬を山のように出されて仰天したことがある。鼻の中が腫れてレーザーで治療したので、化膿止めがあればいいだけなのになぜか更年期障害の漢方薬とか、同じような抗生物質とか数種類出されて唖然とした。医師に詰問した。「先生、この薬全部いっぺんに飲んで大丈夫なんですか?」「たくさん出さないでほしい。ピンポイントにその症状に必要なものだけ出すようにしてください」

私は更年期なんてとっくに過ぎた年だし、だいたい更年期症状は起こらなかったし、こんなものいらん。効能書きを見ると「大柄で体力があり顔が赤らんだ人」のための薬と書いてある。非常に小柄で体力がなく顔色はどちらかというと冴えない私とは正反対の人が飲む薬をどうして出されなければいけないの?こういう医者が医原病を引き起こしているのだと思う。もうそこには二度と行かない。薬で儲けようとした病院はかえって患者をなくす。











2021年1月29日金曜日

感染拡大リスクはスーパーと電車

 コロナの新しい感染拡大リスク説は、スーパーと電車。そこで会話をすると危険なのだそうだ。困ったね。私はなるべく買い物に行く回数を減らすために、週に1回くらいの頻度でスーパーに行く。大量に買い込んであとは家にこもる。最近スーパーがなんだか混み合っている。用もないおじさんが奥さんの後をついてまわる。一緒に来るな!来たらじゃまにならないように通路に立ちはだかるな!商品にさわるな!たぶん運転手として来るのだろうけど、車で待機しておれ!

大量に買うと必要でないものまで買い込んでしまう。もしかしたらこれもいるかもとか思ってかごに放り込む。冷蔵庫の奥深くしまい込んで、賞味期限が切れた頃やっと買ったことに気がつく。湯葉を買って気がついたら賞味期限が2日過ぎていた。試しに食べてみたけれど、まあまあ味は普通。それで4半分くらいまで食べて、やはり気持ちが悪いからやめた。

テレビで休園中の動物園の映像が流れた。動物たちは檻に入れられて退屈そうにもそもそ動いている。彼らは食住に恵まれてせっせと猟をしなくても食べていける。安全な住宅にも住めるから敵に襲われる心配もない。なんだかドヨンとして筋肉はぶよぶよ。それを見ていたら今の自分みたいだと思った。

動物園にいる動物はなんの苦労もないから野生の動物より長生きするものだと思っていたら、なんと、野生よりも短命なのだそうだ。生活習慣病にでもなってしまうのだろうか。大草原で生き生きと暮らす動物たちは敵との戦いで命を落とすことも多いかもしれない。けれど、生きている上で食べるだけの生活というのは動物から輝きを失わせる。駆け回れないストレスも大きいと思う。今の世界中の人達の状態が動物園。

池江璃花子さんが白血病から復活して最初に泳いだときは、ひたすら泳げたことへの喜びを語っていた。数回のレースのあと、オリンピックの選考会に残れる数字を叩き出したものの順位が思うようでなかったとき、いかにも悔しそうだった。けれど、最初に単純に復活を喜んでいた頃よりも、精悍で引き締まった表情は更に美しかった。もう病気は彼女の脳裏になく、勝負にかける意気込みが彼女を輝かせているのだと思った。生きるということは楽ではない。人生はジェットコースターのようなもの。昨日は絶頂だったのに、今日は最低なんてこともしょっちゅう。

それにいちいち反応していると命が縮まる。人生はトータルで考えればいい。去年、今年と人類は最低の運命だった。幸い私は物忘れの達人、この時期が抜けられればあとは喜びが待っている。外に出て思う様空気を吸って、友人たちとおしゃべりをして、方々旅行して、美味しいものを食べる。政治家のおすすめで、まだ感染拡大途上でそれをやったから結果がいけなかった。しっかりと感染を抑えてから、貪欲に稼ぐというようにメリハリをつければいい。もう少し我慢ができないものかしらね。もう少しといってもあと数年は後遺症に苦しめられるかもしれないけれど。

停滞状態の今、ヴァイオリンをやっていて本当によかったと思っている。この七面倒臭い楽器は飼い主の言うことをきかない犬みたいで、ややもすると持ち主を奴隷のように見下すこともある。それをああでもないこうでもないとなだめすかし、思うような音が出た瞬間の嬉しさ。たまにしかないけれど。コロナで生きる喜びを失なった人たちはぜひ楽器を始めるといいと思う。楽器がだめなら絵を描いてみる。鉛筆1本あればいい。楽器はお金がかかると思うかもしれない。それなら打楽器、スティック2本買って、鍋でもフライパンでも叩けばリズムが生まれる。打楽器を侮ることなかれ、やってみるとすごく難しいんだから。ラヴェルの「ボレロ」の冒頭でスネアがたった一人でリズムをきざむ。私だったらあんなことさせられたら失神ものだわね。







2021年1月28日木曜日

目につく

ゴミ喘息の件はお掃除で解決、部屋を見回してみるとなるほど汚れている。コンサートの企画や準備にかまけていると他のことに気が付かなくなってしまう。今朝お湯を沸かしながらつらつら見るに、ケトルが真っ黒。表面をなぞるとザラザラした感触で、空焼きして表面が焦げた跡も残っている。面倒だが仕方がない。金属タワシを見つけたのでこすってみると案外きれいになる。ゴシゴシし終わってレンジの上に置くとピカピカしてきれい。

湯沸かしポット型の加湿器の蓋を開けて覗くと、あらま、なんだか汚い。妙にお湯が濁っている。これはどうして?考えたら先日、コロナにはお茶の殺菌作用が有効とどこかで聞いたので、水の代わりにペットボトルのお茶をドボドボ入れてみた。お茶の殺菌力が部屋中に広がると思って。その後中を洗わずそのままお湯を沸かしていたら、茶葉の残滓が溜まっていたらしい。いくらお茶に殺菌力があるとはいえ、これはもう殺菌ではなく育菌でしかない。只今、クエン酸でポットを洗浄している。

コロナ対策のことで政治家をさんざん批判していたけれど、家事の得意な人から見たら、私のやることなすこと馬鹿だと思うでしょう。本当に常識がないというか・・・
ペットを洗って乾かすのに電子レンジに入れて死なせてしまった人のニュースなど聞くと、なんてまあ非常識なと思うけれど、それに等しいことを自分でやっている。自分の想像力の範囲は他人との付き合いによって培われていく。ところがネットで手軽にピンポイントで調べてわかったような気になっていると、一方の面からしか物事が見られない人間になってしまう。それが問題なのだ。

今、マスク着用を拒否する人がいて問題になっている。それはつける側の自分からしかものを考えないから。自分がそうしたい、けれど社会的に見ればもしくは地球的な面から見れば自分の考えはエゴにすぎないと、どうしてわからないのかしら。自分がそうしたいなら、他人の全くいない場所で暮らすべきなのに。逮捕されてわかったのは、日本の最高学府のご出身だそうで、あ~あ。こういう人が学歴だけで社会的にのし上がっていく。そしてエリートは何をしてもいいと、夜中に銀座にでかけていくのだ。営業の相談に乗っていたって?
相手はきれいな着物を着た人かな?仕事なら昼間やるべきでは?

他人と会話することがどれだけ大切かということをわからないといけない。確固たる証拠もないのにあおり運転の加害者として名前や会社名をさらされた人がいる。ネットで晒されたら、後で無実が証明されても永久にネット上に記録が残る。この理不尽さはどうにかできないのだろうか。自分が匿名だからいいたい放題、他人との会話なら否定されたり訂正されたりできるけれど、一方的に流された情報は手がつけられない。ロッシーニ「セビリアの理髪師」のなかに「噂はそよ風のように」というアリアがあるけれど、いまやそよ風ではなく、山火事のように広がってしまうのだ。

加湿器のポットからは今クエン酸の蒸氣がそよ風のようにあがっている。これで部屋も殺菌できるのだろうか。それなら炭みたいにニオイ消し作用のあるものなど入れたらどうかとか、危険な素人考えをしている。これはきっと取扱説明書に書いてあるに違いない。けれど、取説読まない私にとっては自分で使って見ないとわからない。使ってみってその挙げ句事故ったりして。自業自得だから誰も恨みませんよ。
どうして取説が読めないかというと、あれを書いた人は世の中がこれほどおバカさんに満ち溢れているということを知らないから。

以前空気清浄機のフィルターを換えようとして取説に従って作業していたけれど、フィルターのフタがどうしても開かない。それは蓋を水平に持ち上げればいいのに、取説の絵にはカーブした矢印が描かれていたから。だから私は蓋は一方が蝶番のようになっていて、片方だけを持ち上げてドアのように開くものだと勘違い。両方同時に持ち上げればいいのに、その蝶番の部分を探して苦労しました。普通に上下させれば開くのに、どうして片方だけカーブした矢印を書くのか理解に苦しんだ。一般の人がそれを理解できるということが理解できないのだ。

ノートパソコンの蓋が開けられないことがあった。蓋についている製品名のロゴを自分側から見て開けようとしたら開かない。すったもんだの挙げ句、ロゴを自分側から逆さまに見ないといけないことにやっと気がついた。どうしてかというと、蓋を開けたときに向こう側にいる人にロゴが正しく読み取れるようになっているのだと。最初に正しいと思っていた向きに蝶番がついているのが不思議で不思議でたまらなかった。なにも他人に自分の使っている器械の製品名なんて見せなくてもいいのにね。

ヴァイオリンの名器を持っている人などは、楽器の横板にストラディバリウスなんて書いてあると嬉しいかもね。裏板だと見えないから表板にお客さんから読めるように書いておくのもいいかも。自分から見て逆さまに書かないといけないから、たまには楽器を逆さまに構える演奏者が出てくるかも・・・んなわけないか。
いや、でも生まれてはじめてヴァイオリンを持つ人ならあるいは・・・グフフ











2021年1月26日火曜日

ゴミ喘息

 この数日喉の調子が良くなくて寒さも寒く風邪気味で、咳が朝晩出てとなるとちょっと恐怖。コロナ感染を疑ったりドキドキ。でもそれらしい行動はしていないし、これで感染していたら市中感染を疑わないと、などとウジウジしていた。昨日ひょいと部屋の床を見たら、なんだか汚い。そういえばお掃除はいつしたっけ。

掃除機を引っ張り出してウイ~ンと部屋をくまなく掃除したら、今朝はコホンとも出ない。あらまゴミが溜まっていたんだ。数日前からステロイドの吸引を始めていたので、喉がイガイガする。咳が出ると嫌だから、お正月早々病院へ行って咳喘息の薬をもらってきた。その他咳止めや胃腸薬、ビタミン剤なども確保。度々病院へ行くのは嫌だから、先生もわかっていて、今必要ではなくてもほしいときにいちいち病院へ取りに行かなくてもいいようにと、取り揃えて処方してくれた。この時期、人前で咳でもしようものなら白い目でみられてしまうから、これで安心。

私は病院嫌いだから滅多には行かないけれど、咳には神経質。特にここ最近は足の故障や喘息に悩まされてきた。オーケストラでバレーやオペラなどのオケピットにはいる仕事をしていたときに、特にひどい咳がでたからゴミのアレルギーなのかもしれない。それなのに、部屋が汚れているのに気が付かないとは迂闊だった。

普通の主婦なら毎日の掃除は当たり前。だけど私は興味のないことは本当に気が付かない。掃除は私の興味のランクの最下位にあるから、気がつくとえらいことになっている。時々思い出したように掃除機をかける。口に直接入るもの、食器とか食材とかには気を使うけれど、ゴミごときに生活を振り回されたくない・・・と偉そうに言っても、本当はゴミは体に良くないことは猫が証明してくれる。

以前飼っていたモヤという猫はゴミに敏感で、部屋が汚れると必ずゼイゼイと言い始めたので、汚れのセンサーとなっていた。モヤは賢くて、優しく私を守ってくれた。度々ここに書いているけれど、私が乳がんの宣告を受けてウジウジしていたときに、そばに付き添って爪を出さないようにして私の頬にそっと触れてきた。大丈夫よ、しっかりして、と言わんばかりに。なのに私はゴミを溜めて彼女を苦しめていたなんて。掃除をするたびに思い出す。

レッスン室の方は客人が来るから掃除の頻度が高い。それでレッスン室で咳き込むことはめったに無い。そういうことだったのだ。そろそろレッスン室の方の断捨離を始めないといけない。溜まりに溜まった楽譜。カセットテープやCD。めったに書かないのにたくさんのレターセットが引き出しにぎっしり詰まったライティングデスク。ステレオセットなどなど。すべて処分したら部屋がスッキリする。

コロナ感染が今日は700人を切ったと喜んでいる。そしてGo Toをいつ再開するかなんて騒いでいる。馬鹿じゃないの(ほら、また腹が立ってきた)と私はテレビに向かって吠える。感染の拡大するグラフを見れば一目瞭然、誰が感染を拡大させたのかは明らかなのに。

700人という数は、とてつもない数なのに上から下がってくると少なく思えるらしい。去年は200人くらいでも大騒ぎだったのに、馴れとは恐ろしい。上昇途上の200人はこわい、下行型の700人はうれしい、でも数としてどちらが多いのか。小学生でもわかる数字なのに。これはいかん。また腹が立ってしまう。ひたすら猫のことでも考えて暮らそう。

最近ノラが友達をベランダに連れてくる。ノラの後ろから遠慮がちについてくるトラ猫。ノラがこれ見よがしにベランダから部屋に入ってくるのを遠目に見ながらおずおずとベランダの端っこでえさを食べている。時々駐車場で見かける子で、性格は温和でいつもにこにこしているけれど、ベランダまで来るとちょっと怖いらしい。ノラはお人好しで今までも他の猫を誘って来たけれど、逆にあとから来た猫に追い払われたりしてきた。今度は大丈夫かな?







2021年1月20日水曜日

忘れられるといけないので

 毎日コロナの情報ばかり聞いていると、世の中がどんよりとしてきた。最近このブログにも書く材料がなくなってきて、誰とも話さない、野良猫とうちの猫との仲を取り持つにはどうしたらいいかとか、どこで買い物すれば安全かとか建設的でないことばかり考えている。

まだ先の話でコンサートの準備があるのだけれど、私が人選から曲目やプログラムのことを一切任された。それでいつも忙しくて中々捕まらない人に声をかけたら皆暇で、あっさりと出演の承諾をしてもらえた。だがしかし・・譜読みのために集まったら皆さんぼんやりして、反応がいまいちなのだ。この私がまずおかしい。いつもなら練習大好きで生き生きとしているのに1時間もするともうダウン。少しでも休憩すると皆せっせと窓を開けて外の空気を吸っている。そのために使うので音楽まで神経が行き亘らない。

初日だからのんびりとやっていたけれど、こんな状態だと本番怖いだろうなと思う。最近緊張するのがどんなことだったか忘れている。いざステージに立っていきなり緊張したら、もう取り返しがつかないほどあがってしまって収拾がつかないかもしれない。最初の計画では2000席の大ホールが満席になる予定だった。それを聞いてすごく嬉しかったのだが、今の状況がこの先続けば無観客の演奏会になってしまう。コロナの闇はいつまで続くのか。

今頃になってオリンピックが中止になるとかならないとか騒いでいる。とっくにそんなことは考えられることだったのに。遅れれば遅れるほど経費がかかるのに。GO TOが感染を拡大させるであろうことだって、最初からわかっていたのに。と、グチグチ文句がでるばかり。

毎日ヴァイオリンの練習は欠かさないけれど身が入らない。気がつくとテレビのリモコンが手に握られている。テレビは超絶つまらないしコロナのニュースはもううんざりだから、PrimeVideoを毎日見ている。イギリスのものが好きでG.K.チェスタートン原作の「ブラウン神父シリーズ」数日かけて全部見終わったので今は「シェークスピア・ハサウエイ」の探偵ものをぼんやりと見ている。シェークスピアの生誕地と言われるストラスフォード・アポン・エイボンとブラウン神父の舞台のコツオルズの景色を懐かしく思い出す。

先年イギリスに行って、フォルクスワーゲンのゴルフを借りてロンドンとその郊外を走り回った。特にコツオルズは3日間滞在して広大な丘陵地帯をドライブし、靴底のようなビーフステーキを噛り、寒々とした墓地のそばのパブでホットブランデーを飲んだり、地味ではあったけれど、心に染み入るような旅行だった。考えてみると子供の頃からイギリスの映画が好きだった。アメリカの映画は楽しくてきれいだけれど、ヨーロッパ映画のフランス・イタリア・イギリスなどのもののほうが私の琴線に触れるのだ。イギリスの思い出は日を経て私の中で膨らんでくる。亡きピアニスト、美智子さんの面影とともに忘れることができない。彼女の夫のリチャードとはスイスで一緒にスキーをしようと話していたのに、儚く夢になってしまった。ロンドンに行けばそこから彼がスイスまで連れて行ってくれると言っていたけれど、残念だなあ。彼は今頃どうしているだろうか。ハンガリー人のタマーシュ・アンドラーシュ、彼の奥さんのジェニファ、彼らは子供が生まれたそうだ。チェリストのトーマス・キャロルのあの素晴らしい音は忘れられない。会いたいなあみんなに。

早くコロナが終わって自由に海外に行ける日を待ち焦がれている。以前はパソコンに向かうと楽しいことがどんどん浮かんできて、このブログに書ききれないほどの話題があって、笑いながらキーボードを叩いていた。今は少ない画面を埋めるのが精一杯で、特に物忘れは日に日に増大している。このままだと私は先祖返りしてしまう。以前なら、そうなればコロナに罹らないで済むと言えたかもしれないけれど、海外ではゴリラも感染したそうなので、もはやすべてののぞみはなくなった。それでもなにか書かないと忘れられてしまいそうなので少ない話題を絞り出して書いている。世間では言っているかも。「ねえ、nekotamaさんってこの頃ブログもご無沙汰だけど、生きているのかしら」「いえいえ、とっくに亡くなってるんじゃないかしら」「とんでもないあの人が死ぬものですか、ほら、よく言うじゃない、憎まれっ子なんとかって」そんなふうに言われないように歯を食いしばって書いておりますぞ。残り少ない歯磨き剤をチューブから絞り出すようにね。

楽しみといえば毎日ノラが我が家に1時間ほど昼寝にくること。温かい床と日差しが嬉しいらしく、うちの猫の爪とぎに横になって居眠りをしている。その間うちの猫は押入れにおこもり、その時間はその部屋のドアを締めてしまうので家の猫はでてこない。早く仲良くなってほしいけれど、多分それは無理なのだ。なぜかといえば、ノラは非常に賢くて臆病。その御蔭で長年ノラとして無事に過ごして来たので、性格が変わらない限りうちの猫との共存は無理だと思う。私との関係だって数年もかかってようやく友人扱いしてくれるようになった。今でもうっかり手を出せば爪を立てられる。自分の愛情が伝わらないのが少し悲しい。彼女もわかっているのだけれど、人を無条件で受け入れるには今まで苦労しすぎたのだ。愛されて育った子は勇気があるけれど、愛されずに育った子は臆病で人を信用しないのが哀れ。










2021年1月11日月曜日

高齢者を甘やかすな

ここ2,3年悩まされてきた足の問題。 コロナ感染が問題になり始めた去年のちょうど今頃、私は痛い膝と足首とヒビの入った左右の肋骨を抱えてヨーロッパ最高峰のスキー場にでかけた。壮大なスケールと硬い雪に満足して帰ってきたときに日本での感染の様子が心配だったけれど、羽田空港は穏やかで足止めされることもなく無事に帰国した。本当に間一髪、その後入国審査が厳しくなってあわやというところだった。それでも、まさか今のこんな事態になるとは思いもよらないことだった。

一日の感染者が2000人を超えるということは、その数倍の隠れた感染者がいるということ。本当に恐ろしい。自分では気をつけていても周りの人がどうかわからない。自分だっていつの間にか感染しているかもしれない。PCR検査が手軽に受けられないと言うことは本当に国の怠慢なのだ。最初からきちんと検査をしていればこんなに感染拡大しなかったのではと、ずっと思っている。保健所が邪魔をして一般人の検査が難しい、発熱してからでないと検査できないとか、これはすごく変。

お役所というところは自分たちのテリトリーの範囲でないと動かないらしい。口汚く言えば間抜けばかり!毎日罵詈雑言が私の頭の中に渦巻いている。例えば戦場で怪我をした人に、では、カルテを作ってから治療に入りますなんて言うようなもの。大怪我をした人に身分を証明するものはありますか?なんて訊くようなもの。熱が出てからでは遅いのよ。変だなと思ったらすぐに検査をすれば重症化が免れるかもしれない。それを重症にならないと検査する機会がないとは・・・

そんなことで毎日ほとんど外出もしないし会話は猫とだけ。猫はいよいよ甘えん坊になって、私の姿が見えないと夜中でも泣きわめく。これは困った。でも可愛い。猫がいて本当に良かった。猫をもふもふしているとすぐに血圧が下がる、動悸が治まる。

そんな中で私にとっての幸運は、足の具合がメキメキと良くなってきたこと。もうそろそろ3年以上、ひどく転ぶようになってから足をかばって、歩くことも動くことも控えめになってしまった。心の状態も良くなくて鬱々として日々を過ごしてきたら、右足がしびれてきた。寝ていてもだるくて仕方がない。今まで体験したことのないような足の攣り、夜明けに特にひどく、その痛さに呻くほどだった。私はかなり痛みには強いほうだと思っていたけれど、その私でも悲鳴を上げるほどの痛さ。

そのうち階段が縦に降りられなくなりどんどん症状は悪化の一途。かかりつけの病院と大学病院の整形外科では毎回年齢相応の劣化だから仕方がないと痛み止めをくれるだけ。内科で足の血流を検査しても、同年齢よりもずっと良い数値が出る。血流には問題なし。ビタミン剤を処方される。最後の頼みとして足専門の血管クリニックというところに行ったけれど、そこでも他の病院と同じ処方が出されただけ。本当にこのまま病院に通ってもなにも変わらないのなら、自分でなんとかしなくてはいけない。思うに、それぞれの関節部分に痛みがあるということは、そこに老廃物がたまって一種のリュウマチの症状かとも思える。リュウマチの専門病院へ行ってみようと思っていたけれど、試しに足のふくらはぎの筋トレとマッサージをしてみるとかすかに症状が良くなる。毎日続けていたら、O脚が治ってきた。そのうち色々な筋トレで筋肉をつける方からやってみた。

なんと、数ヶ月経過すると足攣りもだるさも軽減、それで今度は足首と膝の関節の周りの筋肉をストレッチ、すると、痛みがだんだんなくなってきて階段が縦に降りられるようになったのが、ここ数日前から。そして今までまともに歩けなくなってきた散歩、5分も歩くと立っていられなかったのが、今はシャキシャキと歩けるようになった。コロナ感染拡大の今、うっかり人混みで咳をしたらいけないから呼吸器内科に行って咳喘息のステロイド吸引薬をもらってきた。

その病院の医師が足はどうかと訊くのでなんとか治したい、このままだと生活が楽しくないからと言ったら先生はウンウンとうなずいているけれど、どのようにしなさいと言うこともなかったので、それならもう自分しか頼る者はないと覚悟を決めた。それから毎日ストレッチと筋トレを自己流で始めた。その結果が良かった。いままで痛めたところはあまり無理して動かすといけないと思ったけれど、覚悟が決まればもう情け容赦なくギュウギュウと筋肉を伸ばす。それから2週間もしないうちに歩行が楽になり、痛みやしびれも消えた。入浴のときに体が温まった頃合いでお湯の中で正座をする。痛くて正座は途中で止まってしまうけれど、浮力があるから楽に座っていられる。始めて数日なのに、時々ちゃんと世座ができるようになった。ヒアルロン酸の注射よりよほどよく効く。

私の欠点は何事もやりすぎる、せっかちだから結果を早く求めすぎること。ゆるゆるとやらないといけないのに、我慢できずやりすぎて何もかも水の泡にする。わかっているけれど、死ななきゃ治らない口。でも今回はどうやらうまくいきそうなので期待している。今月に入ってから今まで途中で何回も休まないと歩けなかった距離があるき通せる。しかも以前のような早足が戻ってきた。有頂天になってまた転んで足首を捻ったら元の木阿弥だけれど、少しばかりつまずいても転ばなくなってきた。足がよくなるにつれ気持ちがどんどん明るくなる。

高齢者は楽をしてはいけない。怪我や疾患があるならともかく、普通の水準の老化ならどんどん動かさないといけない。自分の体を大事にしすぎて寝たきりになったら、夢も希望もない。7才年上の姉は、以前はいつも車で時々大量に買いだめしていた。その頃は足が動かなくて私の家の階段が登れないからと言って、猫の世話を断られてしまった。それが免許証を返納して車に乗れないので毎日少量ずつの買い物をするようになったら、いまや隣の街まで歩いて往復できるようになった。最近は私が車で買い物に連れて行くけれど、それは大きなお世話なのかもしれない。あちらから頼んでくるまでなるべく知らん顔をしている。

姉は北軽井沢に行ったときに車でないと自由に行動できなかったのが悔しいらしく、もう一度運転免許の試験を受けに行こうかなんて言っている。免許取得に制限年齢を作らないと、この姉ならやりかねない。81歳で大学卒業したくらいなのだから。でもほんとうにこの歳で免許が取れるのかなあ。受験資格はあるのかしら。

最近よく行くスーパーマケットはレジのお姉さんたちがとても親切。会計が終わると詰め合わせ場所までかごを運んでくれる。自分でやりたいけれど、意固地に断るのも波風が立つからお礼を言ってやってもらう。本当は自分の腕にまだ筋肉があるうちは自分で運んだほうがいいのだ。ほんとうにだめになったときはお願いしたい。私が今朝、重たいベッドのマットレスをエイヤ!とばかりひっくり返していたのをこの人達は知らないのだ。






2021年1月8日金曜日

ファミレス閉店

去年の今頃からコロナ感染が始まって(本当はもっと前からかもしれない) 以来英語のレッスンを受けられる場所が少なくなった。主に公共施設の小部屋を使っていたのが、貸し出し制限が始まって使えなくなった。それで様々なところを転々としながらレッスンを受けていた。その一番の砦が川崎駅近くのジョナサン。車が置けて駐車料金が無料、あまり混んでいない、長時間いても白い目で見られないなど、好条件だった。ところが今日行ったら1月15日で閉店の知らせが。あわわ、どうしよう。

川崎駅近辺はたくさんのファミリーレストランがあるから一つくらいなくなってもこちらに差し障りはないけれど、ここで働いている人たちはどこに行くのだろうか。考えると胸が詰まる。シングルマザーや学生でアルバイトをしている人たちは、ますます仕事場が少なくなって生活は逼迫するだろう。最近は若い女性の自殺が多いと聞く。男性に比べて仕事が極端に制限されるのは日本の悪しき習慣。まず女性から切っていく。子供を抱えて時間に余裕がないからと言って、その助けもしないで雇用者側の都合で捨てられる。日本のように男社会は、本来男性は女性を守らなければならないという前提で社会が動き、制度はそれに合わせて決まったはず。なのに、女性が安心して子育てができる制度も保証もない社会。

男女が一つの仕事を取り合うなら、大抵は男性が優位に立つ。なぜなら女性は能力が劣っていて子育てが仕事に影響するという考えが普通だから。しかし、世の中見てご覧なさい、あの無能な例の「おじさん」たちを。自分たちは無能でも女性を使おうともしない。今女性の能力を蔑視する人は中年の男性たちだけで、若い世代はそんなことはない・・・と、思いたいけれど、親が古い世代だから彼らに育てられた男性は自分が女性たちより優れていると思っている。

若い女性の生徒と食事に行ったとき、彼女が私にせっせとお酌をするから、やめてもらった。いつもそんなふうにお酌をするの?と訊いたら「そうなんです。会社の宴会で御酌しないと周りから気が利かないっていわれるんです」びっくり仰天。これ、現代のはなし?女性は男性にはべってまるでクラブのママみたいに振る舞わないといけないの?がっかりした。それが仕事なら仕方がないけれど、宴会のたびにコンパニオンとして使われる女性社員。そんなのあり?どこの会社もそうなの?と訊くと「どこもほとんど同じだと思います」ふんぎゃあ!

以前とても親しくしていた若い女性がいた。末っ子の私は、若い人が年下の兄弟のように思える。ところが彼女は食事時男性がいると必ずお酒をついでまわる。びっくりした。彼女はお父さんに子供の頃からクラブなどに連れて行かれたという。そこで女性たちが男性にはべっているのを見ていたから、そうするのが当然と思っていた。けれど、普通の家庭で育ったお嬢さんたちは決してそんなことはしない。それがすごく嫌で彼女に対する好意が急激にしぼんでしまった。彼女には悪いとは思ったけれど、やはり気になって仕方がない。それが1,2杯とか隣のグラスが空っぽのときに気がついてなら許容範囲だけれど、絶え間なく気を配ってついで回るのが普通だとなると、すごく不快に思える。

話がそれてしまったけれど、今月の15日以後、また失業する人がいるかと思うと気持ちが重くなる。私のようにずっとフリーで仕事をしてきた者にとって、仕事のないことがどれだけ辛いことかよくわかる。私は去年一年間細々とやってきたけれど、今はもう殆ど引退の身だから影響は少ない。けれど、これから生活の基盤を築いていく若者にとって大問題。世界中がこんな状態だからどうにも仕様はないけれど、とにかく悪いことがいつまでも続くわけじゃないと思って、頑張ってほしい。

コロナが終焉しなければ経済が良くなるわけないじゃない。経済のために中途半端にコロナ対策を放り出した「おじさん」たちの罪は重い。どうして当たり前のことがわからないのか、私にはわからん!

ハリー・ポッターはいよいよ最終巻の山場に差し掛かった。ハリーとヴォルデモートの壮絶な戦いの幕が切って落とされた。しかし、コロナのせいで私達の楽しい講読は一時中止にすることになった。来月の末までお休み、果たしてその後再開できるのかしら。







2021年1月2日土曜日

ウイーンフィル新春コンサート

 毎年楽しみに聴いているけれど、今年の会場は異様で聴衆がいない。ああいうホールはお客さんが入っての残響が何秒という設計がしてあるから、がらんどうの客席が哀れで涙が出そうになる。演奏する側はよく響くからいいかもしれないけれど、何よりも生の温かい拍手がないのはとても残念。

日本でも音響の良いことで知られる横浜の県立音楽堂、建て替えるという話が出たときに音楽家が反対の署名運動をしたことがあった。見かけはボロでも音響は最高。あのホールは私が子供の頃から通って、レオニード・コーガンの音にしびれ、フランス・ブリュッヘンのリコーダーに魅せられ、ヴィルティオージ・ディ・ローマに衝撃を受けたホールだった。結局その後どうなったのだろうか。とにかくホールは演奏者と客席が一体にならないと成り立たない。仕方がないとはいえ、本当に寂しい気がした。県立音楽堂はステージの音がいいだけでなく、客席の拍手の音も天下一品なのだ。

ウインナワルツといえば、私がオーケストラに入ってすぐに長い演奏旅行があった。ワルツ王の孫のエドゥアルド・シュトラウスがその頃毎年日本に来て日本各地を回った。アサヒビールコンサートという名称で、たしか20日間くらい、甲府を皮切りに新潟から福井、富山など北陸から下って彦根、京都、大阪、神戸など、岡山から四国に渡り、九州を回って本州に戻り東海道を戻ってという、長い旅だった。

その時初めて同じ3拍子でもウイーンのワルツは独特のものだということを知った。3拍子の1拍目と2拍目がわずかに近寄り、3拍目はわずかに遅れる。だから、ブンチャ ッチャとなる。なぜかというとその3拍目で女性がくるりと回るからだそうで、長いスカートが回るから時間がかかるというわけで。なんかこじつけみたいだけれど、孫シュトラウスに尋ねた人から聞いたから本当らしい。

随分あとになって、若い新人と並んだときにそのやり方で弾いたら怪訝な顔をされた。バカバカしくなってやめたけれど、ちゃんと教えてあげればよかったかなと思っている。きっと新人さんは、このおばさんまともに3拍子も刻めないなんてと思ったかもしれない。ウイーンは私が行った海外の国の中で唯一住んでみたいと思った場所。

私の部屋の上の階に住むOさんは、ドイツで仕事をしていた。日本の同じ系列の会社に転勤となり当分日本に住むけれど、仕事はあちらでやりたいと言っている。彼女はドイツが好きで規律正しい何事もやりすぎる国民性が好きらしい。そこへいくとウイーンはちょっとだらしなく見えるのだろうか。私はウイーンの華やかで意地悪でちょっと自堕落なところがなんとも言えず魅力的に見える。だからヨハン・シュトラウス、リヒャルト・シュトラウスやマーラーなどが好みなのだ。

聴手のいないコンサートがこれほど寒々としているとは思わなかった。半分でもいいいから入っていればなあと思う。人のぬくもりがない、死んだ世界みたいな。演奏がいくら素晴らしくても跳ね返ってくるものがなければ虚しい。それでもO澤S爾氏が指揮したときよりはずっと良い。あのときは彼を嫌ったウイーンフィルの正規のメンバーがたくさんおりてしまって、エキストラだらけだったそうなのだ。大金が動いて彼が指揮者の座を獲得したけれど結局うまく行かなかった。こんなことを言うと明日からは日本中敵だらけになりそうね。

その時のテレビを見ていた私は半分くらいで嫌になって、電源を切った。次の日、仕事場に行ったら皆が口を揃えて「ひどかったね」それでも日本国内では評判が良くてCDがたくさん売れたそうだけれど。あんなに人の首根っこ押さえつけてワルツを彈かせようとする指揮は初めて見た。学生じゃあるまいに立派な伝統を持ったオーケストラのメンバーに対してあの振る舞いは今でも腹が立つ。ドン・ジョヴァンニでブーイング続発の意味がよく分かるというもの。

調べてみたら次の年はニコラス・アーノンクールでした。ホッとしたのをよく覚えている。ロリーン・マゼールなどは自分が楽しみすぎて「ちょっとやりすぎじゃない?」と言いたくなるけれど、楽しかった。その前のカラヤンのときは流石に素晴らしかった。彼はベルリンでは帝王でもウイーンではウイーンっ子の魂を尊重する。本当に名指揮者なんだなあと。

ズービン・メータが数回指揮をしている。彼の名前を聞くと胸がズキンとする。ある年、世界オーケストラが日本でマーラーの5番を演奏するので参加しないかというオファーがきた。その時あまりにも忙しく、それを受けるとスケジュールがエライことになるという時期。迷った挙げ句断ってしまった。その時の指揮者がメータだったのだ。やっておけばよかった、未だに後悔している。







2021年1月1日金曜日

静寂

 目が覚めたら元日の朝8時。こんなに眠ったのは久しぶり。

改めてあけましておめでとうございます

いつもなら夜中に必ず一回は目が覚めるのに、一度も目がさめなかった。起きても頭がふらつく。夜中に目覚めるときは本当にスッキリとしているので寝起きは良いほうだと思っていたけれど、こんなにぼんやりしているのは若い頃の目覚めのようだ。若い頃は半日くらいぼんやりして午前中不機嫌で、周りがハラハラ。ねえ、もうそろそろ話しかけてもいい?なんて言われたものだけれど。

昨日を境に急に若返ったかな?うんにゃ、そんなことはない。また一年、年を重ねて行くのだから。それより、これはいかん!ノラが空腹で足踏みしながら待ち構えているだろう。あわてて階段を降りて駐車場へ飛んで行くと、いつもならじっと待っているのにいない。あたりはシーンとして、いつもなら犬を連れた人や道を掃いている人たちでにぎやかな桜並木には人っ子一人いない。ああ、これが熟睡の原因だったのだ。

上の階の住人もそのお隣もいないので、この建物には私と猫だけ。他の物音もなく静まり返っているから、目が覚めなかったのだ。これほど世の中には音が充満しているとは、静かになって気がついた。いつも6時ころにはおしゃべりをしながら連れ立って散歩をする人たち、飼い犬を大声で怒鳴りつける人、道を掃きながら大声で通りかかる人たちと会話するおばさん。夜中といえど、車やスマホで話しながら歩く人達が通る。それほど大きな音とは思っていなかったけれど、今朝の静かさをみると、相当な音量だったのだ。

以前私がよく訪れた谷中にあるお宅。谷中は寺町で墓地があったりするので、通りから一本裏道に入るとほとんど騒音が聞こえない。その家には高齢のピアニストが住んでいて、私を随分可愛がってくださった。彼女は芸大を出てからご主人の仕事の関係で長くアメリカに住んでピアノの勉強をしてきた。私は彼女のピアノが大好きで、音も音楽性も本当に素晴らしかった。練習を終えると庭に面したリビングに通されて、お茶やときにはお食事を頂いた。高い塀に囲まれた手入れの良い庭、空の様子を眺めながら座っているとなんの音も聞こえない。「ここへ来るといつもお正月みたい」私はよく彼女にそう言ったものだった。

ご主人は陽気な方で、物静かな奥さんとは対象的だった。素敵なご夫婦もご主人が亡くなってその後、年賀状のやり取りだけになり、それもある年からぱったりと途絶えてしまった。今あの家は誰が住んでいるのかしら。お子さんがいなかったから、時々お目にかかった姪御さんが住んでいるのかな。私の大切な友人の思い出は、いつも正月のように静まり返ったあの家の静寂とともにある。








年が越せなくて困ったなあ

 夕方から必死になって探しているのは、年越しそば。毎年新潟から電話がかかってきて頼んでいたそばやからの電話が今年はなぜか来ない。私は長い旅行もしていないし、ずっと家にいるから電話を受けそこなったということもなさそうなのに。なにか蕎麦屋に支障ができたのかしら。場合によっては店じまいしたのかどうか。こんなご時世で、つい悪い方へ想像力が働いてしまう。

しかし、昨日姉がそばを渡してくれたので、これで年が越せると思ったら・・・どこを探してもそばがない。一番はじめに冷蔵庫、次に洗濯機、シンク下の食料品ストック、食器棚の引き出し、冷凍しちゃったかな?と思って冷凍室ものぞく。ない!ない!ない!あら日付が変わっちゃった。

あけましておめでとうございます。😸

去年からのコロナ問題で世界中が騒がしい一年だったけれど、私的にはそれほど悪くない年だった。一昨年はとにかくよく転んで足を痛め、心身ともに年齢を感じさせられたけれど、また回復の兆しが見えてきた。今日もかなりの早足で散歩したし、昨日は最近の記録を大幅に更新する歩数だった。遠くまで散歩して、こんなところまで来て果たして帰れるのかと思っていたら、なんのことなく帰宅できた。今年の足は明るい。

けれど何にも増して世界中がコロナに打ち勝つまでは気を緩めてはならない。それなのに昨今の感染者数は増加の一途。こんな状態で経済を発展させようというのは無理だから、じっとしているのが最良なのに、人はみな貧乏を恐れるあまり感染を拡大させてしまう。今の私達の生活を見れば、私が子供の時代と比べて雲泥の差、その頃だって幸せに過ごせたのだから、今のほうが豊かで幸せと思わなければいけない。

グルメだのなんのと言っているけれど、高価な食事をしなくてもお腹が空けば美味しくいただける。空腹を忘れて美食に走るから食材を無駄にして辛いダイエットをしないといけなくなる。コロナの警告と受け止めて、質素な生活に戻ってはどうかな?

お蕎麦がないのでなにか食べて寝ようと思っていたら、冷蔵庫に昨日のジルベスター・パーティーの残り物発見。温め直して食べようとグリルを引き出したら、なんと中に焦げたカレーパン発見。もうめちゃくちゃな大晦日となりました。

しみじみと一人で思うに、なんと楽しい人生だったかということ。これからもまだいけるかな?足が良くなって気持ちが明るくなったらしい。3階の住人の友人と階段で遭遇した、その人が3階の住人さんに「2階の人は随分元気になったみたいね」と話したそうで、傍目にも回復がわかるほどになったようだ。

来年もコロナとの戦いは続く。ワクチンができても果たして大丈夫かどうか。私はチベットへ旅行したとき、狂犬病のワクチンを接種した。世界的には狂犬病は根絶しておらず、非常に致死率が高いのを知っているので受けたのだけれど、受けた直後から高熱を出してしまったことがあったので、怖いという気持ちが強い。けれど、これでもうコロナには安全と言えるなら、すべての行動が自由になるのだったら多少の副作用は我慢できる。

先日兄が私の顔を見たときに「少しやせた?」と言ってくれて、ダイエット効果を確信したのに、もうこの2日間で太り始めて丸顔に戻りつつある。こうして又、次の一年もすったもんだの大騒ぎ、これは性格だから仕方がないけれど、今後ともどうぞよろしくおねがいします。皆様の健康とお幸せをお祈りします。

さてお蕎麦はどこに?本当に思いがけないところから出てくると思うから、明日は一日宝探しになりそう。賞味期限内に見つかるといいなあ。

宝探しとは!こいつは春から縁起がいいわい!