2021年3月29日月曜日

親友たち

中学時代からの友人のM子さんのお嬢さんがリサイタルをひらくというので、雨模様の中、牛込柳町へ。M子さんは私の中学時代からの友人。何年になるか数えたら、64年に亘る。おっと!歳がばれる。

加賀町ホールは牛込の閑静なお屋敷町の中にある。ちょうど庭園の桜が満開で休憩時間にベランダに出て、その桜に小鳥がたくさん押し寄せて来ているのを眺めた。文字通り押し寄せるという言葉がピッタリするほどこの都会の真中で小鳥たちが花に歡喜している様子が可愛い。

廿樂彰子ピアノ・リサイタル vol 1

ベートーヴェン:ソナタ17番「テンペスト」

シューマン:ウイーンの謝肉祭の道化

ショパン:ノクターン9番  スケルツォ2番

ドビュッシー:前奏曲集

せっかく1年前から準備していたのにコロナ禍で客席を減らしての開催となったのが気の毒。そのかわりオンライン配信をするそうなので、会場に来た人たちの何倍もの人に聞いてもらえたと思う。

堂々たるコンサートだった。M子さんも着々と準備をする方だったけれど、その気質を受け継いで、危なげなく豊かな音を響かせて人々を楽しませるところは、初のリサイタルとは思えないほどだった。彼女はデュオを組んで最近まで活躍、共演者が出産のためにお休みとなって今回のソロリサイタルとなった。アンサンブルもソロも上手い一人の立派な音楽家を育て上げたM子さんはえらい。

M子さんは中学校時代、クラスは違ったけれど同学年。ある日突然私のクラスにやってきて「あなたヴァイオリンをやっているんですって?」それからお付き合いが始まった。いわば運命的な出会いだった。

その頃の私は音楽の道に進むなどこれっぽっちも考えなかったけれど、M子さんはそうではなかったらしい。くにたち音大付属高校というものがあるから受けてみない?ある日彼女がそう言ったので好奇心旺盛な私はつい乗ってしまった。中学校はいわゆる良妻賢母を育てることを目的とした退屈な学校で、そこの高校に進むのは私も気が進まなかったせいでもある。彼女のせいでというかお陰で私はとんでもなく面白い人生を歩むことになる。感謝してもしきれない。

しかしまともな音楽教育を受けてこなかった私は、その後えらく苦労した。ヴァイオリンを始めたのが遅い上、性格がいい加減だからまともに練習したこともない。それでも幼少の頃から家にあるレコードを毎日、それこそ擦り切れるほど聴いていたのと家にピアノがあって毎日弾いていたこともあって、副科のピアノもクリア。しかし専科のヴァイオリンは残念なことに芳しくない。高校にはかろうじて合格した。

ここからが私のおもしろ人生の幕開けとなる。下手くそなヴァイオリンで皆についていくのは大変だったけれど、くにたちの自由な明るい校風は暗かった中学時代を忘れさせてくれた。M子さんとは大学、オーケストラも一緒。お互いの結婚で住む場所が違っていても交流が途絶えることはなかった。着実に事をやり遂げる性格の彼女は子育てもしっかりとして、今日がある。私は子供にも恵まれず、寂しい老後となった。あなたとは親友だわねと先日彼女から言われて、なるほど私にもこういう人がいたのだと少し慰められた。今回のコンサートは、50年間ずっと一緒に合わせてもらっているピアニストのSさんと聴きに行った。彼女もいわば相棒として親友のうちにはいる。同学年のなかでも優等生で母校の教授となったあちらには迷惑かもだけれど、勝手にそう思っている。

今回のコンサートのプログラムのうち、ショパンのスケルツォには思い出がある。

この曲を初めて聴いたのは小学校5年生のとき、音楽の先生が学校のイベントで演奏した。その先生はとても美しい人で黒い長い髪の毛を縦ロールに巻いて私のあこがれの人だった。いつもやかましい私がその先生の前に出ると急に無口になって、担任から笑われたことがあった。スケルツォという言葉もその音楽も私には初めてだったけれど、その時聴いただけでしっかりと覚えたのは美しい先生へのあこがれと曲の素晴らしさによるもの。今でもこの曲は私の特別なものとなった。















2021年3月27日土曜日

白馬の早すぎる春

 気分転換に白馬八方のラネージュホテルに数日滞在してきました。

ここ八方の中でも特に洗練されたホテルで、5つ星だけあってスタッフのサービスが素晴らしい。建物は特に重厚とか贅沢とかいうわけではないけれど、多分目に見えないところにお金がかかっているようで、どのコーナーも着心地の良い服のように気分にフィットしてくる。客室もごく普通の家庭内の寝室のようだけれど、広さも室内装飾もすべてちょうどよいという言葉がピッタリするようだ。

最初にホテルに到着したときには5つ星にしては簡素なと思ったけれど、見てくれよりも客の気持ちを重視しているのが手にとるようにわかった。「見てくれ」は明るく軽快な感じ。リゾートホテルは客を喜ばせるためにこれでもかとサービスが強調されるのが多いけれど、実に淡々と出すぎず、それでいて必要なときにはすぐに対応する。例えばフロントは客室から階段を降りていくと真正面にある。客がいなければ、そこにはスタッフがいない。階段を半ば降りきろうというときに静かに奥から人が現れてすぐに対応してくれる。このタイミングが見事なのだ。しかも現れ方が何気ないので、客に負担がかからない。

フロントに用があるときに声をかけたりベルを鳴らしたりしたことは一度もなかった。そのタイミングはよほど訓練されたものと見える。用がないときにはそしらぬふりをしていてくれるのがありがたい。ロビーにはお茶のコーナーがあって、素敵なカップで自分でお茶を淹れて飲むことができる。その時も知らん顔しているようで、助けがいるときには必ず誰かが直ぐ側にいる。今まで泊まった数々のホテルのなかでもサービスの面で最高点を差し上げたい。

食事はフランス料理、本当に美味しいけれど、軽度の逆流性胃炎の私には少し重い。初日の夜はあまりの美味しさと珍しさでしっかりと平らげたけれど、量が若者を満足させられるものだから老人はすべて平らげてはいけないと翌朝思い知らされた。その割には翌朝の朝食もぺろりと平らげたけれど。初日にはワインのソムリエとシェフが交互にやってきて話をしてくれた。表に貂がいますよというから窓から覗くと、まあ、それはきれいな襟巻きが・・・ではない襟巻きのもとが。夜目にも毛並みの素晴らしさがわかる。野良貂ならぬ家貂。

1シーズン1回はゲレンデに立つことを自分に課している私は、次の日板を持ってゲレンデに向かった。雪はすでにゲレンデにもまばら。上の方だけはなんとか滑れそうだけれど、この雪で自分の足のコンディションで滑るのは危険と判断したから、ゴンドラに乗って次のリフトに乗るまでの間だけ滑った。リフトから降りて高いところから景色を眺め、下りのリフトにのって帰ってきた。上の方は思ったより雪質は悪くなさそうだけれど、ほとんど雪解けのゲレンデはどんなところでハプニングがあるかわからない。スキーでは絶対に怪我をしてはならないというのも私の鉄則なのだ。プロスキーヤーならいざしらず、フリーミュージシャンのわたしは怪我即休業になるし、傍に迷惑がかかるということを若い頃自分の入院騒ぎで骨身にしみたので。

アガサ・クリスティーのミステリー「バートラム・ホテルにて」はミス・マープルがこのホテルの裏の闇を暴く。あまりにも行き届いたサービスに違和感をおぼえることから始まる。しかしラ・ネージュホテルはたぶんそんなことはない。美しいマダムが食事のときにテーブルまで話をしに来てくれる。ここのスタッフたちはみな相当なスキーヤーでもあるらしいことは話しているとわかる。私の新しい板を見てすぐに反応するフロント担当者。用具の扱いにもなれていることはひと目で分かる。ほっそりとした女性スタッフが私の重たいザックをひょいと持ち上げて階段をスタスタと降りていく。相当な筋肉の持ち主と見た。

チェックアウトのあとはレンタカーでドライブ。白馬のスキージャンプ台を目指した。ここは以前来たときに私が腰を抜かして上がれなかったところ。今回も無理だと思ったけれど登ってみた。ジャンプのスタート台まで行く階段はスケルトンで網目になっている。真下の地面が見えるのは気持ちの良いものではない。そこまで行くための吊橋状の通路で、すでにお尻がムズムズする。ジャンプみたいな恐ろしいことを始める切っ掛けはなんだろう。私ならどれほど進められても脅されても絶対にできない。

フランス料理もいいけれど私の胃袋は和製なので、途中で食べたわさびそばに胃袋が大喜びしてくれた。

最近話題が少なくnekotamaも休みがち。私を取り巻く世間では私は野良猫の仲間入りをして放浪していると思われそうなので、話題作りに白馬まで行ってきました。私は幸いにもまだコロナに縁がなく、うちのゴロにゃも高齢にしては元気。ご心配なく。







2021年3月14日日曜日

毎年よ

毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは  正岡子規

母の詞(ことば)自ずから句になりて・・・

いつもいまごろはこの句を思い出す。

お母さんが何気なく言った言葉、優しい言葉で語りかけた母への想い。大好きな句です。

春の和歌で一番好きなのは志貴皇子。

石走る 垂水の上の早蕨の 萌出ずる春になりにけるかも

待ちかねた春がきた。岩の上を雪解け水が滔々と流れる、流れの淵に小さな蕨が芽を出す春になったのだ。これはもちろん万葉集。

たぶん萬葉集?もしかしたら古今和歌集?にあるこちらの和歌もお気に入り。

あいみずて 日(け)長くなりぬいまごろは いかにさきくや いぶかし吾妹

しばらくあわない日が続いています、おげんきでしょうか、心をかけていますよあなた。

こんな句を贈られたら一目散に会いにいきたくなりますね。

さて富山湾に注ぐ雪解け水は、今年も魚たちを育てているのかな。

最近無性に富山に行きたくなっている。富山に長年仕事に通っていた。桐朋学園のオーケストラアカデミーに毎年エキストラで行って、仕事が終わると行きつけのお寿司屋さんでとぐろを巻いてみんなで楽しく語り合ったものだった。こういう時には全く学生気分に戻ってしまう。その他にもオーケストラの演奏旅行、鱈汁のおいしかったこと。不思議な居酒屋さんなど思い出がいっぱいなのだ。

不思議な居酒屋は超絶記憶力の持ち主。ある時オーケストラの演奏旅行の合間に昼ごはんを食べるために駅近くを徘徊していた。せっかく富山だから魚の定食が狙い目、狭い路地に飲み屋がひしめいているところがあった。その一番おくに小さな居酒屋を見つけた。調理台の前に水槽があって、そこから魚を出して調理してくれる。

その時はヒラメを頼んであとはおまかせした。出てきたのはヒラメのお造り、ヒラメのアラ汁、ご飯、小鉢、漬物など。あまりに美味しかったから夜にもう一度飲みに行った。夜は大皿にお刺身の盛り合わせ、それだけのメニュー。富山で刺し身の他になにを食べろと?これだけで完成なのだ。

それから年を経て、今度はオーケストラとは別の仕事で違うメンバーと行った。古い記憶を頼りに見つけたお店はそうだとは思うけれど確かな記憶はない。半信半疑で入ると「お客さん!初めてじゃないよね。あれは7年前だったね。今座っているところじゃなくてカウンターに座ったよね。一緒に来たのは別の人だったよね」ギャフン!

行きつけのお寿司屋さんは元々都内で営業していたのがご主人が体を壊し、奥さんの実家の富山に移住、その後富山で開業していた。彼が言うには「富山に移って幸せです。朝目が覚めて障子を開けると、立山が目の前に見える。米よし水よし魚よし、寿司屋には最高です」

実際富山に行くと、11月ころから冷たいみぞれ混じりの雨、雲が低く垂れ込めていてこの状況が春になるまで変わらないとなると鬱陶しいかもしれない。けれど、その分春になったときの嬉しさは倍増するだろうと思う。オーケストラアカデミーの休憩時間、大勢で校舎の非常階段に登って立山連峰を見るのが楽しみだった。天気の良い日は真っ白な峰々が青空にそびえ立つのが見える。そんなときには皆歓声を上げる。音楽家はとかく感激しやすい。

富山の春は美しいでしょうね。蜃気楼が見られる。以前旅行中に蜃気楼を見に行ったけれど出てくれなかった。羽田に到着したら富山の友人からのメール。今蜃気楼出ました。さっきまで一緒に魚津の海にいたのに。

私がこれらのことをこのブログに書くのは、毎年よ!これを書くのは マンネリね。書いたことは覚えているからまだ認知症の初期段階でしょうか。













2021年3月12日金曜日

デジャブ(デブじゃ、ではない)

 国立映画アーカイブは宝町駅からが一番近いけれど、銀座付近は様々な路線が乗り入れているから多少の時間差があっても大差はない。東銀座、あるいは築地、京橋などからは徒歩圏内。新橋駅だってそれほどの距離ではなく、銀ブラでウインドショッピングをしながらなら、あっという間にたどり着ける。それに道路が真っ直ぐに交差しているから迷子にもなりにくい。今日は宝町からの最短距離を狙ったので銀座線を使うことにした。

渋谷に出るのは3ヶ月ぶり。渋谷駅の変貌は目を瞠る。いつもの通りの改札から銀座線に行くつもりだったのに、そのコースはもうなくなっていた。その代わり駅の案内版を見ると今までとは全く反対方向に行くように指示が出ている。おや?これでは全く以前とは方向が違う。ヒカリエの方に行ってしまうではないか。指示通りに行くと本当にヒカリエに出てしまった。そこに真新しい銀座線の改札口があった。

銀座線は地下鉄なのに以前は地上のかなり高いところに駅があった。わたしが幼かった頃はそれが不思議だった。最初は高いところを走っているのにいつの間にか暗くなって地下を走っている。どうやったらそんなことができるのだろうか?だってあんなに高いところから地下に潜るのだから急降下しそうなものなのに、それほど下降しているとは感じない。本当にいつの間にかなんだから。銀座線が開通した当時、父が上野動物園に連れて行ってくれた。初めて乗った地下鉄は線路に火花が散ってゴーゴーとすさまじい音を立てて、少し怖かった。動物園のことよりも地下鉄の印象のほうが強かった。

宝町駅は降りたことがないから様子がわからないけれど、国立映画アーカイブは駅に近いからすぐに分かるだろうと思っていた。行き方は地図で調べた。大きな通りに面していて、右側に高速道路が見えれば正解。そのとおり、往きは迷わず到着した。チケット売り場で料金を見るとシニアは無料。ラッキー!売り場の人がなにか年齢を証明できるものをお持ちですか?と言う。顔のシワで証明できませんか?と言うとニコリともせず「そうはいきません」ここで「どう見ても貴女は50歳以下にしか見えません」とでも言えば拍手喝采、入場料金3倍くらいは張り込んだのに。だがそうはいかなかった。しかし香典をもらったりしなくてよかった。

思いがけなく中で2時間以上も過ごしてしまった。狭い展示場だからものの15分もあれば見切れてしまうと思ったけれど、とんでもない、中身が濃くて魅力に富んでいたので丁寧に見ているうちにあっという間に時間が飛んでいった。11時開館だからちょうどランチタイム、見終わって銀座で久し振りに美味しいものでもたべようという目論見は外れた。気がつくと13時半、お腹が空いて足がフラフラする。会場を出てもオフィスビルばかり。横道にそれても適当なレストランがあるかどうか、このへんは来たことがないからわからない。しばらく歩いたけれどなかなか適当な店がない。せっかくだからハンバーガーなどではなく、洒落たランチでもと思ってもビルばかり。

で、ふと入り込んだ横道、なんだか懐かしいような見覚えのあるような・・・デジャブとでもいうか、そこは画廊がいくつかある一角。あーあ、そういえば絵を描く知り合いがたくさんいて、よく展覧会をやっていたものだった。そして雪雀連でも数回展覧会をやった画廊のすぐ近くにいたのだと言うことに気がついた。長い間のコロナ蟄居生活で勘が鈍った。最後に銀座に来たのは博品館のそばの和食の店だった。あれ以来ご無沙汰だったのだ。

そうこうしているうちにランチタイムを過ぎたので家に帰ることにした。いつの間にか東銀座が近くなってしまったので築地でお寿司でもと思ったけれど、それも気が向かないから日比谷線に乗るつもりで地下に潜った。そこは都営浅草線の改札口、ここからはホームを通って日比谷線には行かれないと書いてあったけれど、何言ってるの、同じ東銀座で地下通路でつながっていないわけがないじゃない。浅草線の東銀座駅に入るとすぐに出口の改札口、なるほど日比谷線に行くにはその改札を出てまた日比谷線の改札に入るというなんとも不思議な構造になっていた。しかも今入ったばかりだから出口で出られない。せめて脇道作ってくれればいいのに、それでは日比谷線に乗るのはどうしたらいいのか。

改札口で駅員さんに入ったばかりなのに出られない、私は日比谷線に乗りたいのにと言ったら、だから入るときに書いてあったでしょうと言う。ここからは出られませんよというから「だめよ、出して頂戴」「では今入らなかったことにしましたから、今度は気をつけてください」だと。誰に向かって言っているのか、私がそんなこといちいち覚えていられるとでも思っているのかしら?

日比谷線に乗ってやれやれと思ったら車内放送が、次に乗り換える路線の沿線に火事が発生して途中電車が運休していますという。頭の中で様々な考えが渦巻く。日比谷線を途中下車してJRに乗り換えて火事現場を避ければ帰れる。それには、ああだこうだ、どこそこで何線に乗ってなど結構ノリノリでいたら、すぐに沿線火事は収まって運転再開しますと放送。終点まで行ったらホームは人が一杯で密は避けられない。次に乗り換えの電車が来るまで時間がかかるというから、駅を出ることにした。

なにか食べているうちに電車も空くだろうという考えで。知らない街で食べ物屋さんのいいところを探すのは、井之頭五郎さんのようにはいかない。どこにでもあるチェーン店ばかりで面倒になったから結局ハンバーガーの店に入ってしまった。こんなことなら面倒がらず築地まで足を伸ばしておけばよかった。

去年から今年のはじめにかけての足の故障はほとんど治ったようだ。今日はいくらでも歩けたし外に出ると頭の働きも忙しくなる。人はある程度刺激がないとだめになる。それにしても今年はじめよりもずっと人混みが増えている。これではコロナ感染拡大は当分収まらないだろうと実感、明日からはまた家でおとなしくしていよう。

なぜ築地でお寿司を食べなかったかというと、以前よく行った場外の凄まじい混雑が気になったから。でもよく考えたら今はコロナ鎖国で外国人が来ない。もしかしたら今がチャンス!だったかもしれない。







川本喜八郎、岡本忠成パペットアニメーショウ2020

 2020年12月から始まった展示会。場所は国立映画アーカイブ展示場。2021年3月28日まで開催。

岡本忠成さんはスキー愛好会の「雪雀連」のメンバーだったけれど、私はいつもすれ違いというか、私が一番忙しくて中々参加できない頃の常連さんだったので、たまにしかお目にかかれなかった。奥様のさと子さんには随分お世話になった。彼女はケーキ作りの名人でクリスマス用のフルーツケーキなどを焼いてくださったけれど岡本忠成さんとはほとんどお話をした記憶がない。

川本さんと岡本さんは日本のアニメーション映画のストップモーション撮影の分野で功績があった。人形作家の川本さんは東宝撮影所勤務からフリーになり飯沢匡らと人形芸術プロダクションを設立、その後チェコスロバキアに学んだ。NHKの人形劇「三国志」などを手掛けた。その後岡本忠成さんの遺作である「注文の多い料理店」を完成させた。

岡本さんは日本の人形アニメーションの礎を築いたMOMプロダクションに入社後、アメリカからの受注作品の制作に関わった。その後(株)エコーを設立、人形アニメーションの世界に新風を送った。木彫り・和紙・毛糸・皮・粘土などの素材を使い、フォークソング・童謡・義太夫・岩手弁などの語りを用いた多様な手法と表現で作品を作り続けた。文化庁芸術大賞を始めとして国内外での多数の受賞、没後は毎日映画コンクール特別賞が送られた。

この二人の歩んだ道は対照的で、川本さんは端正な人形に命を吹き込み、テレビの歴史的人形劇や外国との合作にも関わった。一方岡本さんは子どもたちに標準を合わせて、主に教育映画の分野で創造性を発揮した。1970年、お互いの作品上映と人形劇を併せた「パペットアニメーショウ」を6回企画、開催し、大きな話題を集めた。

国立映画アーカイブの展示室には、このお二人の制作過程をつぶさに見られる展示品がたくさんおいてあった。川本さんの制作した人形たちのなんと素晴らしいことか。気品のあるお顔、見事な衣装、制作メモの緻密なこと!ただただ感嘆した。

岡本さんのストップモーション撮影の制作過程は、見ているだけで気が遠くなるほど。先駆者となる人というのは只者ではない。岡本さんの制作過程の展示室には懐かしいノンちゃんの名前があった。ノンちゃんは世を忍ぶ仮の姿。

保坂純子(すみこ)さんが本名です。人形制作で日生バックステージ賞を受賞したノンちゃんは、私の大の仲良しだった。彼女と出会ったのは月山の夏スキーだった。初めて目があった瞬間、お陽さまのような笑顔で挨拶してくれた。

そのノンちゃんがディスプレイの画面に出てきたときは思わず泣き出しそうだった。いつもどおりの泰然自若ぶりだが、仕事中のキリッとした表情は今まで見たことがなかったノンちゃんの別の顔だった。北軽井沢でのんびり過ごす彼女の印象とは全く違う。やはりすごい人だったのだ。

ノンちゃんがアラスカで私の前を滑っていた。カーブを曲がったら直前を滑っていたはずのノンちゃんの姿はなく、ストックが地面に突き刺さり、持ち手には手袋が・・・ノンちゃーん!呼びかける私の声は震えていた。ゲレンデの片側は急な崖。滑落したのだった。幸い怪我もなく助けられて事なきを得たけれど、崖を上ってきたノンちゃんはいつもと同じ表情だった。落ちている間何を考えていたの?と聞いたら「ああ、私は今アラスカの大地を落ちているんだわと思ったの」

それは素敵な言葉だけれど、皆の心配をよそにのんびりと答えるところが本当にノンちゃんらしい。

展示の写真には若き頃の岡本夫人の姿もあった。写真の彼女からは当時のひたむきさが伝わってくるようで、一時代を駆け抜けた人たちの情熱を感じる。なにが幸せかといえば人生で自分のやりたいことが見つかることが最高、そういう意味でこの人達の人生は本当に豊かだったのだと思う。












けさい

 姑のふるさとは浪江町だった。仙台に嫁入りしたときに家を見て「あららーあららー、実家の風呂場くらいしかないこんな小さな家でくらすのか」と思ったそうだ。海辺の裕福な家で育った姑はおおらかで優しい人だったけれど、海辺の漁師たちの影響もあって気風が良かった。その実家の近所に住む親戚の家に遊びに行ったら「お前たちは貧乏だなあ、米もってけ」とお米をどっさりもらった。家は広々としていた。

私は姑が好きで、松島に一緒に行ったり、遠苅田(とうがった)温泉の湯治場に姑を追いかけていってお仲間のおばあちゃんたちと一緒にお風呂に入ったりした。入り口は男女別々なのに風呂場は混浴でびっくりしたけれど、いざとなると女は強い。おじいちゃんが恥ずかしそうに後ろ向きで入っていたのはほとんど気にならなかった。お風呂から上がって火鉢に載せてあった鍋の味噌汁をごちそうになった。こんなに美味しい味噌汁は後にも先にも味わったことがない。

同じ部屋に数人の湯治客が同居している。地元民ばかりだからにぎやかにおしゃべりするのだが殆ど言葉が聞き取れない。言葉を理解しようとして喋っている人の口元を必死で見ている私を姑が見て笑っていた。「わかりますか?」「ううん、ちっとも」時々通訳をしてもらってやっと会話の仲間入り。

姑は7人もの子供を育て、そのうち6人は男、ひとりだけ女の子だった。それで私も実の娘のように可愛がってもらった。姑は一人暮らし、オンボロの家に住んでいた。息子夫婦は庭続きの立派な鉄筋コンクリートの家にいて、再三同居を勧めるのに頑として動かない。それで私も仙台に行けばそのオンボロ家に転がり込む。気ままにご飯を食べたりお茶を飲んだり。初めて食事をしたときに姑が「けさい」と言う。「けさい」でなく「け」とだけ言うことも。なんのことかと思ったら「食べなさい」と言っていたのだ。「け」は「食え」「けさい」は「食いなさい」東北人は口を開かない。言葉が少ない。

東日本大地震のニュースを聞くたびに姑を思い出す。

私の実の母は整理整頓の鬼、押し入れを開けるときっちりと縁が揃った布団類、細々したものは箱に入れてある。中に入っているものは外箱に書いてあって、なんでもすぐに取り出せるようにしてあった。その母が私に「押し入れに布団をしまうとき、布団のヘリがちゃんと揃っているようにしなさいよ。お嫁に行ってお姑さんに見られて散らかっていたら恥ずかしいでしょう?」でもそれは杞憂に過ぎなかった。姑の家の押し入れを開けようとしたら慌てて止められた。構わずに開けたら上からどっと布団やタオルが落ちてきた。苦笑いしている姑、そして二人で大笑いした。私が来るので慌ててそこら中にあったものをぎゅうぎゅう詰め込んだらしい。

義母の親戚筋に相馬の人がいる。その家は相馬野馬追いの大名行列の通る道に面していた。馬大好きの私は毎年そこの家に泊めてもらった。面白かったのは相馬のご当主様が茶髪の若者で、大名行列の馬上からあちらこちらに挨拶をしていたこと。「あ、どうも」なんて言いながら頭を下げている。おいおい、殿様が家臣に頭下げてどうするの。その家の近くに原子力発電所があった。

姑は震災のずっと前に亡くなった。親戚はどうなったのかなかなか話が伝わってこないけれど、皆無事でいるらしい。私は馬好きが昂じてそのあたりの山林で馬を飼いたいと思って土地を探していた。相馬の親戚も付き合ってくれて何回も土地を見に行ったけれど、なかなか思うようにはいかない。その頃に土地と馬を手に入れていたら、震災でひどいことになっていたかもしれない。馬を見捨てなければいけなくなるとか・・・ぞっとする。

いまでも住めない場所があって苦労している人たちのことは、心底お気の毒に思う。きれいな海と東北の優しい山々が汚されてしまった。義母との楽しい思い出も最後は苦い記憶で締めくくられる。復興は10年目でもまだまだ。私の第二のふるさとの東北人の底力でがんばってほしい。








2021年3月9日火曜日

久しぶりで

 ピアノと合わせてきました。

曲はグリーグのソナタ3番。この歳になるまで弾いたことがなかったので、弾いておかねばと半ば義務感から始めた。1人で譜読みを始めても面白くはない。相棒のSさんは私と違い真面目人間だから、以前私がグリーグの名前を出したのを覚えていて、いつ合わせる?と言ってきた。譜読みはやさしい。特に技巧的なテクニックを使う必要はないから、先日初見に近い状態で合わせてもらった。そしてピアノが入ると、ガラッと曲の様相が変わった。やはりピアノあってのもの、譜読みの段階では全くおもしろくないと思っていたけれど、2回めの今日はすごく楽しかった。

この曲をKさんのリサイタルで聞いたのは2年前。ほんとに良かった。休憩時間に文化会館のロビーに集まった友人たちとほとほと感心したものだった。私達は彼女を中心としたグループで、隔月くらいで女子会を開いていた。Kさんは7年前ほどに癌を患って、寛解したあとに再発。こんな長い時間が経ってからの再発は珍しいと医師から言われたそうなのだ。その後抗がん剤治療を受けていたけれど残念なことに2020年4月に天国へ行ってしまった。私より数年も若いのに。亡くなる前日までメールのやり取りをしていたけれど、意識ははっきりしていた。コロナのこともあってお見舞いにも行けず、グリーグが彼女の演奏を聞いた最後になった。

どんなに辛いことがあっても黙ってぐち一つこぼさない心の強さ。繊細でいながら悠然とした態度で周りの人に微塵も辛さを見せない。私達グループのリーダー的存在だった。彼女は自分が病気だということを人に話したがらず、7年前には仲間の誰もが彼女の居場所を知らないという事態になった。誰に訊いても彼女の居場所もいなくなった原因もわからない。2年ほど経ったとき彼女から学生オーケストラのトレーナーを替ってほしいという依頼があって、ようやく何が彼女の身に起きたかを知った。壮絶な治療だったようだ。それを淡々と他人事のように話していた。

去年再入院したときも次の女子会には必ず参加すると言っていたのに。

一昨年、奈良の古民家の持ち主に誘われたのでKさんに声をかけたら、二つ返事で一緒に来てくれた。吉野の桜、京都御所、奈良の古刹を訪れ仏像を拝見した。穏やかな芯の強い性格で微塵も体の弱りを見せなかったけれど、相当辛かったのだと思う。私なら大騒ぎで「ねえねえ、私入院するから病室に遊びに来てね」なんて言い出しかねない。

今朝は私も体調が悪かった。起床時から体がゾクゾクするし胃に痛みが走る。軽い風邪の症状。先週は温かい日が続いたので分厚い羽毛布団を薄い布団に替えた。その後また冬並みの寒さが来たのにそのまま寒さを我慢して寝ていたら、朝起きたとき頭痛がした。お腹も壊れた。なぜ厚い布団に戻さなかったのかといえば、布団を圧縮袋にしまうのにえらい苦労をしたのでまた出すのは面倒、だから我慢。寒さをこらえるのと面倒臭いのと比べれば、面倒なほうが嫌い。それなら寝間着を重ね着すればと思うでしょう?でも重ね着はもっと嫌い。猫にしがみついて湯たんぽ代わりにしようと思っても嫌がってよってこない。

ノラに朝ごはんを届けたら鼻水が垂れる、喉がイガイガする。典型的な花粉症。そして朝食にヨーグルトに蜂蜜をかけようと思ったらない!まさか蜂蜜泥棒?ずんぐり太った容器に入っている蜂蜜は嫌でも目につくはずなのにない、ない、ない!

私はいつもこの季節は最悪なのだ。子供の頃から春には熱を出して寝込むことになっていた。おとなになってやや症状は改善されたものの、やはり体調は悪くなる。春の恒例行事だった。その上今年はコロナの心配で、微熱でもパニックになりかねない。今日楽器を弾くため体を動かした結果、血流が良くなって気分が良くなった。やはり楽器は人を健康にしてくれる。

蜂蜜はどこにあったかって?パソコンの横にありましたよ。どうしてこんなところまで歩いたのでしょうねえ。しーんじられなーい。







定期演奏会再開できるかも

 今や夢の中で「起きろー」と言われても目が覚めない状態。すっかり世間と隔絶されて世の中には私たった一人ぼっち、と時々思う。私には猫しかいないと嘆いているときに、なにやら時々まだ生きているんだと思える出来事がポツリポツリと起こってくる。

私はここnekotamaにもだいぶご無沙汰で、これではいけないと啓蟄の虫よろしくモゾモゾ動き出した。友人のお嬢さんがスキーに誘ってくれたので3月の連休あたりで連れて行ってもらおうかと思っていたけれど、やはりまだワクチンも打ってないことだしと消極的。白馬で滑っているからいつでもどうぞと誘ってくれた人もいたけれど、いまいち気がのらない。そこで一人で行くなら誰にも迷惑かからないからと、軽井沢のスキー場で滑ることにした。そろそろ緊急事態宣言も解除される予定と甘く見ていた。

軽井沢なら新幹線で行けばスキー場は目の前、さっと滑ってホテルに一泊してさっと帰れる。人工降雪機だから雪の心配はないと思う。実は一回も行ったことがないので様子はわからない。60年近くの間一年に一回は必ず滑ることにしていたので、今年滑らないとこの先ずっと休みになってしまいそうでこわい。感覚を忘れないためにも雪の上に一度は立ちたい。去年買った新しいスキーの板が泣いている。

軽井沢のホテルはどこもツインが主流、シングルは割高になるので必死で探すとシングルルームのある駅近くのホテルが見つかった。予約した途端に緊急事態宣言延長が出されてウーンと唸ってしまった。こういう時期に無理に滑りに行くなということらしい。ここで我慢するかどうかで感染拡大の流れが変わるかも。たった一人で頑張ってもどうにもならないと言われそうだけれど、一人ひとりの我慢の積み重ねが大事だからと予約を解除して家でじっと我慢を決め込むことにした。ああ、つまらない。

だが家の内外にいる猫たちは私がずっと家にいることで精神が安定している。うちの猫はどんどん甘えん坊になり、外猫は毎日来て部屋に上がり込んで1時間ほど遊んでいく。それでもまだ警戒心は解けず、寒いから窓を閉めるとパニックになる。いつでも逃げ道を確保しておかないと心配という野良猫の悲しい習性なのだ。この用心深さが彼女を生き延びさせているらしい。本当に悲しいほど賢い。

2月の仕事が終わってしまったのでもうやることがない。友人のお嬢さんが4月にリサイタルをするので聴きに行くことにした。かわいそうに、もう1年前から計画してしっかりと練習してきたのに、コロナ禍で計画が狂ってしまったらしい。中止も考えたようだけれど、観客を減らして実行することになった。小さなホールなので観客は満席でもいくらも入らない。それでもここで中止してしまうと今までの努力が水の泡になる。

リサイタルの日に標準を合わせて準備する。当日演奏も体調も最高になるようにじわじわと練習を重ねるから、その日にできないとすべてのタイミングがずれてしまう。だから今更中止とか延期とか言ってもおいそれとは動けないのは仕方がない。観客を減らすということは今まで応援してくれた人たちを呼べないことになるかもしれない。あちらにもこちらにも不義理を重ねることになる。

古典音楽協会の定期演奏会は、去年の3月からすでに休止状態。去年9月と今年の3月も中止となったけれど、今年9月には再開できるかもしれない。まだ先行き不透明だからなんとも言えない。ぬか喜びになるかもしれない。それでも暗い道の向こうにかすかに明かりが見えたような、頼りなく覚束ない心地だけれどコロナの収束を期待している。今年9月?まだ油断はできない。

それにしてもオリンピックはどうなるのかしら。本当にできるのか・・・もう一年待ったらどうかと思うけれど、動き出してしまった歯車は途中でとめられないものなのか。本当ならもっと前にきっぱりと延期宣言をすればよかったのに。相変わらず優柔不断なおじさんたちは女性の人権問題で右往左往するばかり。ワクチンが世界中に行き届いた時点で華やかに開催できれば良かった。無理して今年開催してまた感染拡大となったら目も当てられない。

なんでもグズグズしないできっぱりとやめるものはやめる。もう少しというところでGo Toなんてやらなければ今頃はもう少しマシだったのでは?と今更言っても仕方がないけれど。