2019年5月27日月曜日

函館の人

ご存知北島三郎さんの大ヒット曲函館のひと。
名曲ですなあ。
私は本業はクラシック音楽演奏。
しかし演歌大好き。
おカネを稼ぎたい頃にはずいぶん稼がせていただいた。
テレビ放送、スタジオのレコーディングなどは収入の大半を占めた。

よほどの演奏家でないかぎり、クラシックはおよそ儲からない。
陰の努力に比べて表に出る部分は氷山の一角と呼ぶにふさわしいほどで、練習量と本番の時間がこれほどアンバランスなものはない。
何年も何十年もの研鑽を積んで、リサイタルをすれば会場費や衣装代でほとんどの入場料収入が消えてしまう。
それでもリサイタルをするのは、本番ほど勉強になるものはないから。
本番の緊張と集中力がその後の勉強につながるのだ。
リサイタルの準備に費やす時間といえば大変なもので、やってもやっても不安で当日まで七転八倒、終わればすぐに次のことを考える。
業としか思えない。

さてなんでサブちゃんの名前が出たかと言うと、エクセルシオールカフェに行ったときのこと。
メニューにティーとあったから「ティーをください」と注文した。
すると「紅茶ですか?」と訊かれた。
紅茶以外にティーはあるのかしら。
そこはスルーして「はい」と答える。
すると突然「♫は~るばるきたぜはーこだて~♫」みたいに聞こえる節でなにか訊かれた。
「は?」早口だしへんな発音で聞き取れない。
するともう少し大きめの声でふたたび「は~るばる・・・」
「は?」聞き取れない。
自慢じゃないがこの私、耳は地獄耳。
すると更に大きな声では~るばる・・・」

なにを言っているのかと思ったら「ダージリンとアッサムがございます」

はいはい、耳は良いほうですから大声出さないで、ただしイントネーションよろしくね。
とても紅茶の話とは思えない。
思わず「ああ、ージリンね」これ嫌味でなく思わずでてしまった。
「アッサムをください」
アッサムティーはミルクティーにすると本当に美味しい。

最近胃の具合がよろしくないので、朝一番は紅茶を飲むことが多くなった。
ダージリンは沢山の種類がお店に並んでいるけれど、アッサムティーはどこの店でも種類が少ない。
やっと美味しいのを見つけて安心していると、次に買いに行ったときに品切れだったりする。
函館のひとを歌ったカフェのお姉さん。
だから年寄りは困るのよ、何回言っても耳が遠くて聞こえないんだからと思ったかもしれない。
それとも、紅茶にダージリンやアッサムという種類があるのを知らないのかしら、なんて。

よくそういう目に遭う。
先入観があるからかもしれないけれど、やたらに大声出されると、かえって聞き取れない。
静かに言ってくれれば私は、その人が大体どの地方の出身者かまで聞き当てられる。
声に含まれるかすかな訛りで、ははあなんて。
アナウンサーや女優さんのようなプロでも、かすかに残る発声の違いも感じられる(こともある)
カフェのおねえさんは函館出身でないのは確か。

だれか言って上げればいいのに。
それともその店独特の言い方?
研修ではどうしているのかなあ。
私が言おうと思ったけれど、客に言われるのはショックが大きいと思うので、やめておいた。

しかし英語での発音を調べたら、ダーーリン(グ)となるようなのだ。
だから私の発音もおねえさんの発音も両方バツ。




























2019年5月26日日曜日

北軽井沢ミュージック・ホールフェスティヴァル





北軽井沢ミュージックホールフェスティヴァル
        雪雀連 夏のコンサート
            
プログラム
          
 モーツァルト:ディヴェルティメント第1番 K.136
 ヴァイオリン二重奏曲、コントラバスとヴィオラ二重奏曲 他
 コントラバス小品集 クーセヴィツキー:小さなワルツ他

 モーツァルト:ピアノ協奏曲イ長調 K.414
 ヴィヴァルディ:4つのヴァイオリンの協奏曲 等々
                     
ヴァイオリン 今村恭子 山元操(賛助出演)野村真澄 原ゆかり
   ヴィオラ 加護谷直美  コントラバス 本間園子
       ピアノ(賛助出演)諸隈まり

    2019年8月20日(火)14時開演
    北軽井沢ミュージックホール
             
今年も北軽井沢でのコンサート、スキーの仲間の雪雀連の範囲から少し拡大して、今回は昔の仲間たちが参加してくれることになった。
オーケストラで苦楽をともにして青春時代からこんにちに至るまでのお付き合い。
しかも皆、少しも腕前が衰えていないという驚異的な人たち。
衰えているのは私だけで、少し後輩の真澄ちゃん、ゆかりちゃんなどは現役バリバリ。
生きのいいヴィヴァルディが期待される。

いつものピアニスト大田さんが目の手術のために今回はピンチヒッターの登場。
諸隈まりさんが快く引き受けてくださった。
大田さんが出演不可能と言われたので最初は弦楽器だけのプログラムで編成するつもりだった。
それでもバロックにチェンバロは付きものだから、結局ピアニストにお願いすることに。
せっかくピアニストがいるから、弦楽四重奏で伴奏できるアレンジのモーツルトの協奏曲をプログラムに入れた。
私がコンサートの構成にあたっての考えは、単に上っ面が楽しいだけではない奥深いクラシックの魅力を知ってもらいたいということ。
有名な曲のイントロだけ集めたり、手軽な楽章だけ聴いてもらうのではなく、まるまる一曲聴いてもらいたい。

クラシック音楽は入り口が狭く入りにくいかも知らないけれど、ずっと奥まで無限に続く森のようなのだ。
何回も聴いていくうちにいつのまにか心に堆積していく。
それが日がたつに連れて熟成され心の養分になって一生涯の友人になる。
どんなに離れていても必ず友情は続くというような。
常に内側から湧いてくるようになる。

子供やクラシックに興味がない人たちだからと言って、それに合わせて軽い曲を聞いてもらうより、本気でかれらに向き合って真剣に演奏すると必ず手応えはある。
以前、様々な学校を回って演奏していたことがあった。
プログラムは知られた曲だけでなく、おそらく子供では聴いたことのないようなバロックの協奏曲の全楽章などを演奏した。
時間も長かったりするけれど、子どもたちはじっと演奏に聞き入ってくれた。
終わると熱狂的に拍手されて驚いた。
おそらく後にも先にも二度と聴くことのない曲かもしれないが、感動してくれたのだった。
それも一つや2つの学校だけでなく、行くところでは必ずと言っても良かった。
しかも幼稚園児でもそんな反応があった。
子供だからといって易しい曲を選ぶのではなくて、本当に長い時間生き延びてきた名曲は、年齢や生活の差を超えてひとを感動させる。

北軽井沢は生演奏が聴ける環境が都会に比べて少ない。
軽井沢には大賀ホールや小さくても趣のあるサロンがたくさんあるけれど、北軽井沢は残念ながらミュージックホールも野外同然。
しかし施設は少なくても、そこはかとなく文化的な雰囲気があるのはどうしてなのか。
そういう人たちに生の楽器の音を聴いてもらい、今後の音楽環境の発展につながると良いと思う。
私の使命はこんなところにあるのかもしれない。
























      









猫と帰宅

午前3時半、目が覚めると同時に帰宅の準備。
昨夜、あらかじめまとめた荷物を車に積み込んだ。
最後に猫をキャリーバッグに押し込めるとさあ、出発。
おうちに帰るよと言い聞かせながら走っているのに、にゃあにゃあとやかましい。
少しでもスピードが上がると、にゃあにゃあ声も増大。
でこぼこ道も反応する。

高速道路に入ってなおさらスピードが上がって、声もますます・・と思ったけれど、凸凹や山道のようなカーブが少ないのでだいぶ居心地が良くなったようだ。
そのうち急に静かになった。
鳴き疲れて眠ったらしい。
おい、生きてるか?・・・反応なし。

帰宅したら思いの外疲労が溜まっていて、朝食を食べたら猫も人もぐっすり寝てしまった。
昼ころ目を覚ましてまた昼寝。夕飯のあとは10時頃就寝、午前1時半起床、3時頃寝て6時に起きて、いったい何時間眠ったかしら。

北軽井沢のノンちゃん山荘の片づけと、猫と暮らせるかどうかのテストを兼ねての滞在だった。
到着して、生まれて初めて他の家に入った猫は呆然としていたけれど、思いの外すんなりと馴染んでくれた。
さっそく探索して作った巣は、ノンちゃんの服が残っていたクローゼットの奥。
服の積み重ねの奥にすっぽりと潜り込んで、覗くと奥から目が光って見える。

しばらくするとそこから出てきて、家を探索し始めた。
キッチンと居間は一通り歩き、危険はないと判断したようだ。
けれど、ソファの下の隙間を見つけるとそこに潜り込んでしまった。
覗くとやはり奥から目玉がギロリと見える。

餌を食べない、水も飲まない。
なによりも尿が出ない。
これは本当に心配なのだ。
朝6時に出発、夜の7時になってもトイレを使った形跡はない。
これでは腎臓に負担がかかって体を壊す。

庭続きのお隣さんで夕食を食べいささかきこしめして、私は突然「猫が心配だから明日帰る!」と叫んだ。
「明日朝、私の車がなかったら帰ったと思って」と言うと、大変良い獣医さんがいるから連れていけば?と一緒に飲んでいたあけみさんから言われた。
とにかく心配だから帰る!もう駄々っ子になって叫ぶ。

プロ顔負けの腕前のお隣さんの食事を捨てて帰るのはいささか心残りだけれど、うちの子の一大事、今日来て明日帰るのは体力的にもきつい。
覚悟してノンちゃんの家に戻ると、トイレには立派なフンとおしっこ。
手始めにちゃおちゅーるを出すと、ペロペロと美味しそうに舐める。
マグロに鰹節をまぶして出すと、すっかり平らげた。
ようし!これで大丈夫。
いいなあ、猫って。
ふつうに食べて飲んで排泄するだけで、人が喜ぶ。
私だって毎日同じことをしているのに、誰からも褒めてもらえない。

次の朝、気温が低いから暖炉に火を入れた。
それがいけなかった。
猫は火の燃える匂いや薪の爆ぜる音に驚いて、居間は危険地帯と判断したらしく、巣穴に閉じこもってしまった。
その上、私がヴァイオリンを弾いたので、驚天動地!
生まれて初めて聞く奇っ怪な音に、この家はお化け屋敷と思ったらしい。

自宅では居住室とレッスン室が階段を挟んで別れているので、ヴァイオリンの音は聞こえない。
それを初めて聞いたので震え上がった。
夜もふけてあたりがシーンとした頃になって、ようやく巣から出てきた。

自宅の部屋には階段がないけれど、ノンちゃんの家は階段がある。
屋根裏部屋へと続く階段を登り始めた。
ためらいも見せないから、危険でないと判断したらしい。
一通り回って、ここは居心地の良い所だと思ってくつろぎ始めた。

夜中になると元気になって、2つ並んだベッドの空間を跳躍したのには驚いた。
この猫はもう20才くらいだと思われる。
自宅を建ててからまもなく拾われてきた。
まさか飛べるとは思わなかった。
そういえば自宅にはこんなアスレチック的な場所はない。
どこもフラットで、ここよりずっと狭い。

面白いのはフランス窓を全開にして網戸越しに外を見せると、つまらなそうな顔をする。
自宅では外を見ても他の家の屋根ばかり見える。
北軽井沢の美しい雑木林の景色になんの反応も無いのには、いささかがっかりした。

今回の目的は猫の他に家の片付け。
ノンちゃんの手芸の材料やご主人の本や画材、衣類その他の生活用品がぎっしりと残っていた。
特大のゴミ袋に一切合切詰め込んで捨てて捨てまくる。
鍋やまな板などの調理器具の多さは、ここは料理店か?と訝るほど。

ノンちゃんは本当に細やかで丁寧な人だった。
その細やかさが、様々な物をとっておくことに現れていた。
可愛い抽斗を開けると、何種類もの色の糸と針がきちんと整理されて詰まっていた。
いつでもなんでも、どこにあるかわかるようになっていた。
惜しいけれど、私には必要ではない。

とにかく中を見ないで捨てないと、いつまでもきりがないから心を鬼にする。
物置をからにしてクローゼットにはノンちゃんの形見分けができるように衣類だけ残し、調理器具は今度誰かが来たら持って帰ってもらおう。
ここで力尽きた。

二日目はお隣さんが帰宅してしまったから、広い雑木林には私と猫だけ。
寂しい!
この家のお風呂のボイラーが壊れているのに気がついたのは最近のことで、さっそく工務店の人に来てもらった。
オール電化の家だから配線が複雑。
夜間電力で沸かすタイプのボイラーは、ばかでかいズンドウの体で役に立たないのに場所ふさぎ。
それをガスの給湯に替えてもらうように頼んだ。
床暖房はあたたまるのに時間がかかりすぎるので、石油のファンヒーターの工事をすることに。

4日間はアッという間に過ぎて、身体中痛くなって疲れ果てて帰ってきた。
このあともう一度寝具などの点検と取替をすれば、ようやく仕事が終わる。
お隣さんはとんぼ返りにこの雑木林に帰って来たけれど、入れ違いに私は猫と帰宅、ああ、疲れた!





















2019年5月21日火曜日

猫、はじめての旅行に行く

築20年を過ぎた我が家はだいぶ見すぼらしくなっていたのが、この一ヵ月ほどのメンテナナンスでさっぱりと小奇麗になった。
今日はものすごい突風と雨の中で、足場が取り払われて全貌が見えてくると、なんとなく薄汚れた顔が洗いたての顔のようになった。
工務店の社長にそう言うと、そりゃここまで手を入れればきれいになりますよと、偉そうに自慢された。

それにしても若い職人たちがよく働く。
大風大雨をものともせず、午前中で終了。
御殿場の方から来るというから、今朝は心配していた。
東名高速が50キロ制限とかニュースで見たので。
でも時間どおりピカピカの臙脂色の大きなトラックがやってきて、私の心配を他所に、さっさと働き始める。
何週間か足場があったので、窓も開けられなかった。
うっかりすると、突然「おい、窓が開いてるぞ」と人の声がして、人の足が見えたりするので。
この雨の中で足を滑らせたりしないかとハラハラした。

今朝雨の中、私は最寄り駅近くまで行くうちにビニール傘を風で壊した。
帰りはどうしようかと思っていたら、お店の人が自分の傘を貸してくれた。

他人の傘だから壊すとまずい。
最初から広げないでつぼめたままでさして来た。
傘お化けに見えるかもしれないけれど、太っているから凄みがない。
周りの人をよく見ると、皆平然と傘を壊すことなく歩いている。
どうやったら、壊さないでいられるのか不思議。

歩くことも傘を差すことも並外れて不器用なのに、よくぞこの年まで生きて来られたものと思うけれど、それは周りの人たちが苦労していることの証明とも言える。
一昨日、ノンちゃん山荘に行くから水道電気の元栓よろしくとルオムの森の明美さんに電話した。
彼女から管理事務所に伝えてもらったら、もっと早く言うように叱られたらしい。
水抜きとやらが難しい作業らしい。
それも今まで何回も周りの人から言われていたのに、つい忘れる。

北軽井沢のノンちゃんの山荘は、彼女亡き後私が受けつぐことになった。
けれど、その後の手続きは遅々として進まず、まだ私のものではない。
ご遺族から使っていていいよと許可をもらっているので、我が物顔に出入りしている。
家は人が住まないと荒廃するから、少しはお役にたっているのかも。

今回、初めて猫を連れて行く。
うちの猫のコチャは超絶人見知りのうえ、警戒心、猜疑心のかたまり。
長いドライブに耐えられるかどうか。
トイレはどうする、あちらで物を食べなくなったらどうしよう・・・様々な心配事がよぎる。
だから今まで旅行には連れていけなかった。
しかし、今後は慣れてもらわないといけないので、今回はテストケースとなる。

獣医さんを見つけておかねば。
案外ケロッとして馴染むかもしれないし、そのへんはやってみないとわからない。
今まで私が長い旅行に出るときは大騒ぎ。
キャットシッターとして任命された周りの人達は迷惑この上ない。

今回、外の猫たちは、近所のお嬢さんがみてくれることになった。
すぐ近くに住んでいる彼女は、うちに来る白黒のメス猫の姿が最近見えないと心配していたらしい。
その猫は、そもそもうちの外猫第一号。
朝飯にありつけると猫社会に情報が流れると、次にやってきたのは痩せたオス猫。
遠くから羨ましそうに眺めて、他の猫が食べ終えた頃食べ残しに口をつける。
しかし体力が回復し始めるや、だんだん態度がでかくなって、先輩の白黒をいじめるようになった。
白黒が私にすっかりなついて、歩くときに足にまとわりつくのも気に食わないらしい。
食べているときに私が白黒を撫でるのも癪の種らしい。

そして可哀想な白黒は、近くの植え込みの陰で私をじっと待つ毎日。
私がいればいじめられないのがわかっているのだ。

今朝は屋根のある駐車場に意地悪猫がいるので、外の植え込みで待つには風雨が強すぎて、白黒は餌にありつけなかった。
野良がいなくなっても工事の人がたくさんいるので、出てこられないらしい。
猫も生きていくのは大変なのだ。

うちの箱入り娘が明日から北軽井沢に馴染んでくれるかどうか。
雑木林の中の家は気分が良いから、猫だって良いに決まっていると思うけれど。
以前ペット用のキャリーバッグを戴いたので、それに入れて行こうかと。
本人はそれが明日、どんな使われ方をするのかわからないでノンシャランと頬ずりしている。
明日は恐怖で震え上がるのも知らずに。






















2019年5月6日月曜日

カラスの挨拶

今朝近所の小さな動物公園に散歩に言ったら、いつもより早い時間だったせいか、猫やカラスが伸々と羽を伸ばしていた。
猫に羽はないけれど、ま、いいか。
早い時間のほうが、この小高い丘に登ってくる人が多いこともわかった。
自分がばあさんなのを棚に上げて言わせてもらえば、やたら爺さんがいるので鬱陶しい。
体が固いのにゴキゴキと体操をしているのが見苦しい。

富士山が望めるポイントがあって、スッキリした青空のときには真正面に富士の姿が見える。
私が幼い頃には自宅の庭から、富士山が見えた。
夕日が落ちる頃、兄弟揃って富士山に向かって並び、長い影が自分たちの後ろに延びているのを眺め、それぞれがポーズを作って影絵を楽しんだ。

私が小学校4年生のときに家の前に団地が出来て、その景色を覆ってしまったのでがっかりした。
それで時々その丘に登って富士山に会いに行く。

今朝は霞がかった空で、わずかに山影が見えるだけだった。
ぐるりと開けた眺望の一部からは都心のビル群まで見えることもある。
富士山のポイントはいつものように爺さんがいたから避けて、ビル群の方に向かった。
そこできれいな猫発見。
これはどう見ても野良ではなく、黒と白のフサフサした長い毛並み、声をかけるとニャアと良いお返事が返ってきた。
自宅でもらう餌がいつも同じで、飽きがくると少し足を伸ばしてこの丘の野良たちの朝食のご相伴をするつもりなのだ、たぶん。

手を出すとなんのためらいもなく顔を擦り付けてくる。
きみ、危ないよ、知らない人にそんな態度では誘拐されてもしらないよ。
しばらく話していたら後ろでカアと声がした。
おや、カラスくんおはよう。
このカラスも人懐こい。
ほんの50センチくらいまで平気で近寄ってくる。
そういえばこの動物公園の園長さんは鳥の専門家と聞いた。
以前私が保護して動物病院で治療後、行き場のないカラスを引き取ってくれた。

カラスは条例かなにかで、保護してはいけない動物に入るとか。
真っ黒だと言うだけでひどいじゃないですか。
ゴミを荒らすのは人間が悪い。
カラスはお掃除屋さん。
木についた虫や道路で死んでいる小動物の始末をしてくれる。
賢くて家族思い。
ここに保護されたあのカラスはどうしたかしら。
寿命がどのくらいかは知らないけれど、まだ生きている可能性もある。
でも随分前の話だから、もうおじいさんになっていると思う。
じいさんでもカラスなら可愛い。

そのカラスは私の左側のフェンスに止っていた。
可愛いから眺めていたら急に右側から「ガア!」
びっくりしたなあ、もう。
それこそ、鳥肌が立った。
もう1羽、いつの間にかとまったのに気が付かなかった。
ごめんね、あなた達にやる餌は持ち合わせてないのよ。

ツヤツヤした真っ黒な羽が光って、至近距離で見ると大きくて迫力がある。
世の中に猫嫌い、カラスはもっと嫌いという人はたぶん怖いからだと思う。
けれど、彼らはこちらが嫌いのオーラを出していなければとても友好的なのだ。
最近大型犬の飼い主が事故を警戒して、私が近寄るとさけられるようになった。
犬と私はアイコンタクトですぐに気持ちが通じ合うのに、飼い主が怖がって犬を引きずっていってしまう。
ほんとに大丈夫なのに。

ここに何回も書いたけれど、もう一度。
保護したカラスを一晩入院させて病院に引き取りにいったら、受付で呼ばれた。
「nekotamaカラスさ~ん」
私、下の名前も書いたはずなのに、ことさら「カラスさ~ん」とは。
もっともマリア・カラスという絶世の美女にして名ソプラノ歌手もいたから、そちらのカラスと間違えたかな?
え、そう、似てる?私が?うふふ。


















2019年5月5日日曜日

鳥肌が立つ

池上なんとかさんが物知り顔に知識をひけらかす番組があって、鳥肌が立つというのは悪い意味でしか使わないと宣った。
感動で鳥肌が立つとは言わない。
最近の若者はすごく感動したことを鳥肌モノと言って、あれは間違っていると。
恐怖や嫌悪感で使うものだそうで。

しかし、私は本当に感動で鳥肌が立つ方だから、それには納得いかない。
中学生だった頃、横浜県立音楽堂でレオニード・コーガンの演奏を聴いた。
小柄な彼は無愛想な顔で出てきて、見たところは世界的ヴァイオリニストのオーラはなかった。
プログラムの初めはプロコフィエフのソナタ2番。
会場に最初の音が鳴り響いた。
あまりの美しい音に鳥肌が立った。
今でもあの音を思い出す。

その後プロコフィエフのこの曲は私の5指に入るお気に入りとなった。
数年前にデュオ・リサイタルのプログラムに入れた。
かなり以前になるけれど、上野東京文化会館での新春コンサートでも弾いた。
けれど鳥肌が立つような音で弾けたことはない。
むしろ反対の意味だったら多々ありそうな気がするけれど。

音で鳥肌が立つのは、金属同士が擦れたとき。
だから私は食器が金物なのが大の苦手。
ナイフやフォークが擦れあうと、もういけません。パスタにフォークとスプーンがついてきても決してスプーンは使わない。
思い出しただけで、口の中が酸っぱくなりそう。
ピンクパンサーの映画で、黒板を金属の爪で引っ掻いて音を聞かせる拷問の場面。
面白くて笑ったけれど、自分があんな目にあったらすぐに白状してしまうと思った。

コーガンのコンサートのそのあとは夢中で、その後のプログラムが何だったかも憶えていない。
県立音楽堂は音響が良いので有名だった。
今でこそ音響の良いコンサートホールは各地にあるけれど、当時は都内では日比谷公会堂がメインだったから、横浜のここは日本でもトップクラスの音響の良さを誇っていた。

後に自分がこの会場で演奏して、客席で聴く演奏もだけれど、ステージで聴く客席からの拍手の音まで素晴らしいので驚いた。
建て直す計画が出たときに、音楽家がこぞって反対の署名をしたのも頷ける。
この会場では、アイザック・スターン、フランス・ブリュッヘン、イ・ムジチ、ローマ合奏団等の名手たちに出会うことが出来た。

コーガンはその後、東京文化会館でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いた。
長い前奏が始まると、彼は客席に背を向けてじっとオーケストラの演奏を聞いていた。
オーケストラの人たちは、生きた心地がしなかったのではないかと思った。
特にヴァイオリンは針のむしろ。
嫌でしょうねー。
ホテルのレストランでBGMの仕事をしていたら、なんとコーガンが泊まっていて聴かれてしまったとこぼしていたひともいた。

彼のあの素晴らしい音は血の滲むような研鑽の賜物なのか天性のものなのか。
楽器のせいかも?
一度で良い、出してみたい。
出せたら死んでも・・・良くない。
世界中を自慢して歩くさ。
ただし最初のAの音だけね。
そのあと弾いたら全部おじゃんになる。

と、ここでまた志ん生師匠が登場する。
お前さん半鐘はいけないよ、おじゃんになるから。






ドヴォルザーク チェロ協奏曲

楽譜探しをしていたら、ドヴォルザークのチェロ協奏曲の楽譜を見つけた。
ヴィオラ用に書き直したもので、いつかこれを弾きたいと思って買い置きしていたもの。
仕事に追われて新しい曲の譜読みは必要なものが優先。
遊んでいる暇はなかった。
早急に必要でない、ましてヴィオラの曲だから暇になったらという僅かな希望だけでしかなかった。
今、やっと希望がかなったわけで。

数年前、ロンドンアンサンブルのチェリストのトーマス・キャロル氏がこの曲を弾いた。
彼らは来日すると毎回私の家で練習したのだけれど、狭いレッスン室が怒涛のような音量に満ちてゴウゴウと壁が共鳴した。
象の群れが一斉に咆哮するみたいに。
小さい編成で伴奏するので、少人数で様々な楽器のパートを弾くはめになったから忙しい。
ファゴットやクラリネットの分まで。
私はヴィオラを受け持っていたから、中間音の主に管楽器が分け前として与えられた。
ときにはセカンドヴァイオリンの分まで。
それはそれで、大変勉強になった。
けれど、普段オーケストラで弾いているものとは違うので、とまどいも多かった。
「nekotamaそこ間違っているよ」とトーマスは情け容赦ない。
君が悪い・・・決して気味が悪いではありませんよ。
彼はソロだけでなく伴奏のことまで全部頭に入っているから、少しのミスも許さない。
練習は厳しいけれど本番が終わると「nekotama~素敵な音だったよ」いつも褒めてハグしてくれた。

楽譜が見つかったので、早速ヴィオラを取り出して弾きはじめた。
押し入れで無聊を託っていたヴィオラは、驚きのあまり弦が切れてしまった。
おやおや、また聖徳太子が羽をはやして飛んでいく。
仕事が減った身にとって、弦の値段は高すぎる。

世の中で名曲と呼ばれているものは、テクニックが難しくても決して弾きにくいことがない。
世界中で愛される名曲は実に理にかなったもので、有名になるのにはそれなりの理由がある。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、名曲の要素満載なのだ。
短い時間に次々と心を揺らすような旋律が沸き起る。

若い頃、私はこの曲をロストロポーヴィッチの演奏で何回か聴いた。
痺れるようなピアニシモ、会場を揺るがすフォルティシモ、感動で椅子を立つことが出来ないくらいだった。
残念ながらカザルスやピアティゴルスキーの演奏には出会えなかったけれど。
もう少し前の時代に生まれていればよかったと思うが、そうすると今こんなブログは書いていなかった。
ないものねだりばっかり!

ロストロポーヴィッチのような演奏はできるわけないけれど、気分は最高!
頭の中でロストロポーヴィッチさんと一緒に弾いているつもりで、散歩していてもいつのまにかハミングしている。
今はブラームスのソナタ、北軽井沢の夏のコンサート、秋の古典音楽協会定期演奏会でのコンチェルトのソロパート等々、練習しなければいけない曲が山のように待ち受けているのに困ったなあ。
でも嬉しい苦労はいくらでもできる。

ドヴォルザーク、ピアノ伴奏でどこかで弾いてみようではないか。
密かに企んでいる。
友人たちが来たら、鍵をかけて家から出られなくして椅子に縛り付けて聴かせようか。
すると長年の友情がおじゃんになる可能性が・・・

おじゃんといえば志ん生の「火焔太鼓」
お前さん半鐘はいけないよ、おじゃんになるから・・・えー、おあとがよろしいようで。






2019年5月3日金曜日

渋滞予測

ゴールデンウイークの高速道路の渋滞予測が当たらなかったらしい。

私も、館林にツツジを見に行くはずが、前日の予測が見事に外れたので尻尾を巻いてすごすご帰ってきた。
まだ休日ではないし天気も悪いし、前日の予測では渋滞もなさそうだから出かけようと思ったら、家を出た途端の渋滞。
私の家から橋をわたるまで、普段なら10分もかからない。
その時は40分待っても3分の2くらいまでしか進まなかった。
そのまま待っていれば1時間くらいで渋滞を拔けられたのかと、家に戻ってからもう一度渋滞情報を見たら、橋の上は真っ白、橋を拔けた途端真っ赤になっていた。
結局橋を超えてからも恐ろしい渋滞だったわけ。
連休前の平日だから、渋滞無しで出かけられると思ったひとが沢山いたのだ。

渋滞予測は今まではよくあたったから、結構頼りにしていた。
現在の情報は役に立つけれど、予測はあたらなくなった。
何故かと言うと、皆が情報を見て空いているところに殺到するからだという。
情報がネットで誰にでも見られるようになったからで、以前はセンターに電話して渋滞情報を訊いたものだった。
親切に教えてくれるからよく利用していたけれど、電話というのは空きがないと話せないから不便。
今は便利になったから、逆に当たらなくなってしまった。

それに比べて天気予報はよく当たるようになった。
おおいに助かっている。
猫が顔を洗っても、気まぐれに洗ったり洗わなかったりで、あてにはならない。
猫が人間の事情を斟酌するわけもなく。

私の母は魔女だったから、テレビの天気予報よりずっと正確に当てた。
出かけるときに母にお伺いをたてる。
卑弥呼様、今日のお天気は?
曇天で今にも泣き出しそうな空模様であっても、母が晴れるといったら晴れる。
どんなに快晴であっても降ると言ったら降るのだ。
もしかしたら、本当は降るはずなのに、母が言ったから晴れないとまずいという雷さまの事情があったのかもしれない。
母は我が家で絶大な支配力を持っていたので、それが宇宙的に広がっていたのかも。

渋滞情報が当たらなかったと、渋滞研究の東大の先生がテレビでからかわれていた。
予測はあくまでも予測。
その予測を見て裏をかこうというひとが多かったので、今年の渋滞は上り車線も下り車線も同じように渋滞したそうだ。
空いているというところに殺到したそうだ。
連休中、東名高速道路が渋滞しているときに、新東名はガラガラだったらしい。
海老名から伊勢原まで東名は50分を要し、その間3キロほど距離が長いけれど新東名は10分で拔けられた。
この番組を見た人たちが次は新東名に殺到し、東名がガラガラなんて・・・ことにはならないでしょうね。

コメンテーターとかいうひとが、どちらを使っても料金は同じなの?って。
3キロ長いから高くなるんじゃないの?って・・・
ゲート作ったり計測器置いたりすることを考えたら、そこにひとを置かないといけないこと考えたら、料金が同じのほうがよほど経済的だと思わない?
たった3キロで。
もっともいらぬ施設を作って天下りを救済するのは、天上りの人たちの常套手段。

3キロも長く走って料金同じだから、ありがたいと思え! 
ははー、おありがとうごぜえますだ、お代官様。




















2019年5月1日水曜日

冷凍卵

令和の初日は冷凍卵初体験。
テレビは食べ歩きの番組が多い。
たぶん制作費が安くご当地グルメの宣伝になるから、現地でも歓迎される等の諸事情で手軽に作られるのかもしれない。
一生懸命制作している放送局側は、とんでもない!失礼なとおもうかも。

それはどうでもいいけれど、試食するタレントさんが食べ物をいただく画面はいただけない。
可愛子ちゃんが口に入れるなりうっとりとした表情で「う~ん」至福の表情。
しかし食べ物の味なんて、噛んでから飲み込むまでの一連の過程を踏まないとわからない。
最初「なにこれ」と思っても噛むと味わいが出てくる。
ホヤみたいな変な食品は、飲み込んでからが勝負。
生まれて初めてホヤを食べたひとが、口に入れるなり「うえ!なんだこれは」と吐き出したのを見たことがある。
もったいない、そこを我慢すると、飲み込んだ後口の良さが味わえたのにと思う。
口に入った途端に「う~ん、おいしい」と言うあの嘘っぽさ。

ギャル曽根という大食いタレントさんは、たべ方がきれい。
決して口の周りを汚さない。
食べっぷりも豪快で、よ!ハンサムと声をかけたくなる。
それに比べて食品のコマーシャルで、わざと口の周りに残った食べ物を舌でペロリと舐めるあの下品さが大嫌い。
汚い。
可愛い女子が舌で自分の口の周りをペロリと舐めるのは、幼児期の子供を連想する。
男性はある種のセクシーさを感じるのかもしれないけれど、私にとってはただただ汚いと思うだけ。
日本の男子どもが、女性に幼児性を求めるロリコン趣味の名残ではないかと思う。
本当に日本の男は女性に品格とか教養とかよりも、幼さを求める。
それは日本の男性が成熟していないから。

と、令和改元第一声は、男性攻撃したかったわけではない。
なにを言いたかったかと言うと、テレビで冷凍卵の紹介をしていたので試してみたことから、話は始まる。

私は卵は近所の卵専門店で買っている。
スーパーなどの殻の薄い、白身がベチャッと広がる卵が美味しいとは思えないから。
近所の卵屋さんの卵は手に持った時、ずしりと重い。
殻がしっかりしているし何よりも美味しい。

以前自然食品の店で買っていたときは、10個に2つくらい、割ったときに黄身が流れてしまうものが混じっていた。
大手の自然食品の店なので、いつも不思議だった。
たぶん古いとか?
他よりも高いから売れ残ったのを混ぜるのかと、疑っていた。
味は美味しいのに残念だった。

テレビを見ていたら、こだわりの卵の紹介をしていた。
飼育するときの餌に非常に拘っているという飼い主。
値段はスーパーなどの安い卵の約10倍ほど。
それは美味しいかもしれない。

その後、普通の安い卵をそれに匹敵するほど美味しい卵にするための裏技として紹介していたのが冷凍卵。
一晩冷凍した卵を室温で約1時間半かけて解凍する。
殻を剥くと黄身は解凍しても固形のままで、それをご飯に載せたりおにぎりの中に入れたりする。
お弁当に入れる事もできる。
ここでうっとりとした表情で、食べる顔が大写し。
これは・・・美味しいかも。

昨夜一晩冷凍庫に入れた卵。
早めに冷凍庫から出して朝食用に解凍した。
冷凍すると白身が膨張して殻にヒビが入るから、くるんと簡単に剥ける。
しかし、白身が気味悪い。
黄身悪いではなく、白身は何かを連想させるドロリとした様子。
黄身を取り出すと固くてそのまま箸でつまめる。

トーストにオリーブオイルをたらし黄身を乗せた。
しかし、味がない。
至福の表情を浮かべるはずが、なんじゃこれ。
今朝は涼しいから、解凍時間が少なかったのかな?
後でもう一度やってみよう。
一個食べ残したから昼ごはんにでも。
想像するに、これはいつまでもこのままの味ではないかと思う。
せっかくの美味しい卵を無駄にした感じがある。

令和元年5月1日の実験は失敗。
去年は不幸の連続だったから今年こそはと期待しているけれど、まず手始めは幸先良いとは言えない。
幸運に見舞われることはこの先、期待薄、トホホ。