2010年6月30日水曜日

楽しい事を思い出そう。

このところ腹のたつことが多くて、このブログもぼやきばかり。私のイラつきを読み取った心優しい某氏から、癒しの動画が送られてきた。ああ、本当に怒ってばかりでした。面白い動画だったので転載しようと思ったら、形式が違うとかでのせられませんでした。それと、病気の事を書いて掲載したら、現在の事と間違えてけっこう大騒ぎになっていたのよ、と仕事場で言われたので,それも訂正します。昔の話しでした。このつぎからは、ちゃんと年代がわかるようにいたします。心配してメールを下さった方々、ありがとうございました。今のところピンシャンしております。今年秋には念願の青蔵鉄道の旅に出るつもり。この何年も温めてきた計画なので、今年こそは・・・・健康状態に問題がなければ、行ってきます。天空を走る列車はペガサスを彷彿させませんか?すこしオーバーか。始めてテレビで見たときに、必ず乗りに行こうと思ったので、もうワクワクしています。ほら、こんなに楽しいことが満載なのに、どうして怒ってばかりいるのでしょうね。

2010年6月29日火曜日

人生いろいろ

琴光喜がついに相撲界を追放になる。2500万円もの借りをつくった親方もいるそうで、処分されるのは仕方がないとはいえ、追放されてその後どうするのか、気になるところ。毎日必死で稽古して上り詰めた大事な大関という地位を、こんなことで擲ってしまって、本当にもったいない。勝負の世界に生きる人達だから、体質的に勝ち負けが好きなのだと思う。それだけ強烈な勝負士の気質がないと、強くなれないかもしれないけれど、他人のやることで勝負して面白いものなのか。徹底的なマイペース人間の私には、よくわからない。マイペースといえば、東京新聞の夕刊に山野井泰史さんという登山家が連載記事を書いている。彼はほとんどの峻険な山々を単独で登るため、一切のお金儲けも度外視して、ひたすら登る。凍傷で手足の指のほとんどを失いながら、ポタラ北壁という傾斜80度、後半オーバーハングの壁に挑戦しようとしているところが、昨日までの文章で、これからどうなるのか楽しみに読み続けよう。脇目もふらず自分の道を行く人、脇道にそれて大事な道を失うひと。中には両立できる稀な幸運児もいれば、なにをやってもダメな人。マツダで事件を起こした人は、「秋葉原事件を超えた」と知人に報告したそうで、本当に腹がたつ。一人一人と対決して勝ったというならまだしも、車でひき殺してなにが、どこが偉い?信じられないほどの愚鈍さ。山野井さんとこの男の差はどこからくるのか。なにも努力せず、車の力を借りなければことを起こせない人と、だれの力も借りず大自然に立ち向かえる人と、欲望に打ち勝てず賭博に走る人、まさに人生はいろいろですね。

2010年6月28日月曜日

職業ということ

相撲界の野球賭博が騒がれている。お相撲さんは中学高校あたりの若い世代から入門して、世間の常識を身につける機会が少ないかもしれない。しかも、番付が上がれば一般の人より各段上の収入も得られるし,自分のカネで少し楽しんでも人からアレコレ言われたくないというのが、本音だと思う。大体、裸で力比べをして、職業になるというのも面白い。職業の中には人の生活に絶対なくてはならない、例えば農業、漁業、社会生活に必要な経済,政治など、流通の仕事など、それに反して私たちのような、音楽、スポーツなどはなくても基本的には困らない職種もある。だから、昭和天皇が亡くなった年は、私たちの氷河期、仕事がパタリとなくなったことがあった。いつ、御隠れあそばすかわからないから、その日にコンサートを予定して会場と人を抑えておいても、中止を余儀なくされたとなると大損害だから、その年は一斉に自粛ムードになってしまった。あまりにも仕事の電話がかかってこないので、自分のうちの電話が壊れたのではないかと、外から自宅にかけてみたらつながった・・・などというはなしを沢山聞いた。今、派遣社員の問題などで世間が騒がしいけれど、私たちフリーのミュージシャンはそんなことはいつものこと。ヘマすれば首を切られても当たり前、いつも薄氷を踏む思いでわたり歩いている。さらに、技術が衰えないように不断の勉強が必要だし、お相撲さんでいえば稽古しなければ番付はすぐ落ちる。けっこう辛いものがあるけれど、好きでこうなっているのだから、人を恨んだり世を拗ねたりしないでいられる。就職するだけが仕事じゃないから、じぶんの本当に好きなことがやっていられたら、低所得であろうとそれでよしとしなければいけない。でないと、マツダの事件みたいに、人のせいにして世をすねるおバカが出てくる。彼だってほんとうにやりたいことに向かって、本気で努力したのだろうか?そんなふうには見えないけど。

2010年6月25日金曜日

バッシング

サッカー日本代表の決勝トーナメント出場が決まった。」出発前のマスコミはどうだったかというと、岡田バッシングで大変だった。監督自身もだんだん精彩を欠いてきて、暗い顔しか見せなかった。ところが、今日のマスコミは?神様 仏様 岡田様の見出し。あきれて物が言えない。政治の世界でもこの頃は、内閣が変わるたびに支持率がどうの、うるさく報道する。一日で変わる支持率なんてどんな調査をしているのか。初めは持ち上げておいて、少しでも意にそぐわなくなるとアッと言う間にバッシングが始まる。今まで長い間自民党がメチャクチャにしてきた政治が,民主党になったからと言ってすぐに良くなるわけがない。しかし、まだ数ヶ月しかたっていない新政権の首相を引きずり下ろし、又据えた新首相が消費税を上げたいというので、もう支持率がさがったそうだ。これでは、何一つ改善されず、結局人気とりのための、子ども手当とか、高速道路の無料化とか目先の人気取りに汲々とする政治しかできない。いったい、日本人は自分たちのこの国をどのようにしたいのか。名前だけ知られているプロレスラーやタレントが、国会議員とは思えないような、なさけない姿でテレビに出演したりすると、この人達に投票した連中をどうしてくれようかという気持ちになる。せめて、足を引っ張らないでしばらく見守るほどの度量が、マスコミ屋さんたちにあればと思っている。こうやって操作され、昭和の大戦に突入していったのだと思うと、背筋が寒くなる。

2010年6月23日水曜日

お掃除はお好き?

明日水回り管の掃除が入ることになった。というのも、先日排水管が詰まって、水浸しになったせい。築14年にもなるのでアカも溜まっているだろうし,思いがけない故障が起きる前に、点検をしておこうと思ったので。それで、我が家の麗しい台所、絶対人には見られたくない。そこへ入ってもらうのだから、少しは綺麗にと考えたのが苦労の始まり。およそ、家事のうちでなにが嫌かというと、掃除。毎日こまめにやっていればどういうことないのでしょうが、わたしの性格はほとんどメキシコ人。今日しなくても良いなら明日に回す。明日でなくても良いなら、明後日に先送り・・・・母はとてもきれい好きだったから、モノが角をそろえて置いてあるのが当たり前。私は様々な角度で小さいものの上に大きいものが載っていても平気。時々その山が崩れて、大事なモノが中から見つかったりする楽しみがある。掃除には水や洗剤がつきもの。それで手の油が取れてしまうと、私たちヴァイオリン弾きにとっては致命的となる。まず、痛い。細い弦の上を指をすべらせるのだから、保護膜がないと、すべらない。したがって音程にも影響が出る。楽譜もめくり難くなる。なによりも、普段使わない筋肉を使うから、疲れる。でも、やってみたら、案外やさしい。今良い洗剤が沢山出ているから。シュッと吹きかけてしばらく置くと、泡が油を包んでひとふきすれば、もうキレイ。へー、私でもなんとか出来るんだ。完璧とは言えないが、久しぶりにキレイになった台所。うん、気分が良い。これが持続できればねえ。

漢字変換

パソコンは素人だから時々ワケの分からない事態が起きる。メール画面を見ていたら、隅っこになにやら警告が出て来た。しょっちゅう出るからいつも無視してキャンセルするのに、毎回のように出るから、時には話しを聞いてやろうじゃないのと思って許可をクリックしたら、それからが大変。エラーがでたのなんのと始まって、報告するかどうか、拒否するかどうか、次々に出るからキャンセルにすると、ガンとして消えてくれない。しかも、その画面のページの上が欠けていたり・・・  
詳しい人なら何ともないことが、ズブの素人の悲しさ、慌てふためき恐れおののいて最後にはエイッとばかり強制終了。これ、すごく悪い事かもしれない。よくぞ生き延びてくれた、私のパソコンちゃん。今朝漢字に関する本を見ていたら「きしゃのきしゃがきしゃできしゃした」と入力すると、前後の文脈から判断して変換されるので、漢字を覚えるなんてメンドクサイからワープロ使えば良い。でも機械だけでは判断出来ないこともある。例えば、箱を開ける、これは蓋をあける、もうひとつは、箱を空ける、これはカラにするほう。そこは人が判断しなくてはならない。だから、勉強せよと、ありがたいお言葉。もともと漢字には興味があるから、やりたくないことはないが、難しい。ととのえる、整える、調える、ついきゅう、追求、追及、追究・・・違いが分からない。ちなみに先程のきしゃの・・・は「貴社の記者が汽車で帰社した」ほんとうにちゃんと変換するんだ。えらいなあ。

2010年6月21日月曜日

世界万博?

今日は綺麗なところへ行く、とKさん。ほんとかなあ。バスで1時間半。なるほど、花が綺麗に植えられたテーマーパーク様のところで降りた。入場すると、世界博と称してフランスの庭園、韓国の庭園、タイの庭園などなど、でも、日本の庭園は案内の表示だけ。どこにもない。それぞれが、どうも首を傾げるようなチャチさ。例えば、池から岩が突き出ている。その岩は薄い岩を何枚か組み合わせ針金で縛ってある。普通針金は見えないように隠すでしょう。でも、ギリギリ巻いてあるのが丸見え。ほかにも岩山だと思うとハリボテ。ところどころに穴が空いている。うっかり信用して乗ったら、落ちるかも。睡蓮の咲いている池に出たから、本物?と聞いたら顰蹙を買った。それは本物だった。でも、木にリボンが意味もなくまいてあったり、そのまき方がものすごくいい加減だったり、流石に大雑把な私でも、ため息が出た。プラネタリウムのある建物の標識が出ていたので、喜んで行ってみたら、修理中の看板。とにかく広いから、そこまでどれほど歩くことか。なら、入り口にかいておけっつうの。気の小さい日本人はイライラ。中国の庭園は流石になかなか良くできていた。かつての中国・・・文明が栄え、見事な文化花開いていた優れた国民が、今カネカネと言って狂乱している。悠久の大地にどっしりと構えていた人々が、意味もなく走り回りホコリにまみれ・・・
でも、面白い。ものすごいバイタリティー。日本人は負ける。その夜は疲れ果てぐっすり眠った。次の朝、バスで空港へ、瀋陽に別れを告げた。成田で車を受け取って、一路自宅へ。日本のなんと静かで寂しいことか。日曜日のせいもあるけれど、ヒッソリとした街、人気も無くシルエットのように薄暗いビル群。安定した時代が続くと,品は良くなるけれど、エネルギーは減少するみたい。又行ってみたくなる、中国は不思議。

3日目は鍾乳洞。

どこへ行くのかわからないまま、列車で移動。日本語があまり得意ではないKさんは無口だし、私もご機嫌麗しいとは言い難いから、珍しく無口。1時間ほどで到着したのは本渓駅。瀋陽からどの位置にいるのかわからないけれど、そこから又タクシーで1時間。ついたのは,鍾乳洞。「これ、日本にないでしょ」といわれるけれど、あるんだなあ、それが。山口県の秋芳洞。でも、すっかり悟りを開いた私はあえて反論しないことにした。入ると洞窟内に広い川が流れていて、そこをモーターボートで行くらしい。入ったところで長めの綿入れのジャケットを貸してくれた。相当寒いらしい。洞窟の中は所々照明で照らされて美しい。が、なんでだか、恐竜がいたり・・・この辺がわからんのよ。帰りの足は?というと、バスはなかなかこない。普通案内する人は、往きと帰りの足は調べるものじゃない?でも、じっとこらえてタクシーが来たから、はい、乗りましょう。さっさと手を上げてとめてしまう。もう、どちらが案内人か、どちらが現地の人だかわからなくなってきた。思いのほか列車はすぐ都合の良いのが来て乗り込んだが、しかし、すごい混み方。混んでいるのに大きな(信じられないくらい大きな)荷物をもって車内を行ったり来たり。どこへ移動しようと混んでいるのは、わかりきっているのに。その上用もないのに太った車掌が行ったり来たり。検札するでもなく、混雑を整理するでもなく。なにやってるのよ、もう。半切れ状態でたちっぱなし。すると、私の前に座っている人が又、用もないのに立ち上がって車内を見渡す。それが鬱陶しくてついに、キレた。中国語はできないから、sit down,言ってしまってから、いけない、あまりにも失礼かと、慌ててplease

2日めは動物園のはずが・・・

動物好きなので、動物園をリクエスト。今日の案内はKさん。日本に7年いたそうだが、日本語は時々ウーン。タクシーで延々つれていかれた。入り口を入ると確かにパンダと虎の剥製が門のところでお出迎え。しかし、行けども行けども人人人の群れ。踊ったり歌ったり、楽しそうだけど、私は人間を見に来たわけじゃない。あげくのはて、ここは動物園じゃない。おいっ、知らないでつれてきたのかっ。きれそうになるけれど、ここは大国、小さいことにこだわっていたら、憤死してしまう。今回旅行社のツアーでなく頼んだので,案内もプロではない。まっ、しかたないか。それにしても・・・来た事を又後悔。ひどいホコリと日差しとうるさい人たち、危険な車、でも、一向に事故らしいものを見かけない。エジプトでも凄まじい運転なのに、ものすごい反射神経で間一髪で事故にならない。日本なら多重事故発生なのに。まだ、2日目かあ、もう帰りたいけど、飛行機は安いチケットだから変更きかないし。あーあ。

2010年6月20日日曜日

瀋陽へ

一昨年瀋陽にちょっとしたきっかけであそびに行った。川崎に国際交流会館があります。そこへたまたま瀋陽の留学生のソプラノ歌手のコンサートがあるので、ききに行ったことがあった。終わってからロビーで一人ひとりに挨拶をしていたので、瀋陽はどんなところですか?と聞いてみた。すると彼女は夢見るように「瀋陽の9月は本当に綺麗です」と言った。ふうん、そうか、きれいかー。すぐ、行ってみようと考えるのが、オッチョコチョイ。9月の末に出発。たった3日間。町中至る所、ほじくり返され、駅前には用のない人々がウロウロ。ツアーで申込んだら、よほど人気がないらしくて、参加者は私一人。空港には運転手とガイドさん2人。なんだか悪いみたい。泊まったのはインターコンチネンタル。急にステータスが上がった。日本ではビジネスホテル。居酒屋でお酒を飲み、コンビニで朝ごはんの用意なのに・・・故宮以外には見るものもなし。でも、なんだか気にいって今度は長めの5日間となった。しかし、あれから2年、中国の変貌の激しさに目を見張った。地方都市の瀋陽でさえも、もう面影は無くて、高層ビルが林立し、車の数ときたら倍々増。人も車も信号無視はもとより、歩道も車道もどちらを走っても,歩いてもオーケーのようだ。凄まじいエネルギーに溢れている。おやおや、とんでもないことになってしまった。来たのを後悔し始めて、一日目は幕がおりた。

2010年6月15日火曜日

ちょっと旅に

去年まで毎月仕事の旅をしてきましたが、今年はそれもなくなりゆっくりとした毎日。そうなるとあれほど好きだった旅なのに、不思議と行きたくなくなってしまった。年をとったせいなのか、リズムがこわれたせいなのか。いつも、帰りの飛行機を降りた途端、ああ、どこかへ行きたい、と思うほど旅が好きだったのに。原因としては、玉三郎が年をとって元気がなくなったのもその一つ。いつ何時健康がすぐれなくなるかもしれないと思うと、オチオチ旅してもいられない。以前から、青蔵鉄道でラサまで行きたいと計画をしていた。今年の秋には絶対にと思ってはいるが、それもたま次第。10日以上の日程を予定していたけれど、なんだか心配で8日位に縮小するかもしれない。それにしてもラサの治安はその後どうなっているのだろうか。口コミでは今は安定しているそうだけど・・・旅心をなくさないためにも、明日から中国へ行って参ります。行先は瀋陽。渋いですねえ。一昨年瀋陽に行きました。ほんの3日間。あまりの駆け足に少しも満足できなくて、この度は5日間。あんまり違いはないけれど、もう少しはなんとかなるだろうと思っている。飛行機から見ると、気持ち悪いほど青い川、淀んだ池。公害でしょう。でも、清朝の基礎が築かれた古都の風格があり、故宮はたしか、文化遺産になっている。故宮に通じる道だけは、日本の銀座通りみたいに整然としているけれど、その他は掘り返され、ホコリが舞い上がり、駅前にはなんの用もない人達がウロウロしている。バス停はあっても平気で違う場所に止まる。待っていても乗り損なうこともある。大らかというか,大雑把というか、私は性にあっている。中国は面白い。

2010年6月14日月曜日

はやぶさ帰還  ささえた技術者たち

何度もの故障を乗り越えて帰還したはやぶさ。テレビの映像を見て、感激でウルウルした。はやぶさの姿勢制御装置が故障して回転してしまったとき、燃料をわざと漏らして回復させたという。なんとすごいことを考えつくのか。これは新聞で読んだ記事。昨年11月、四基のエンジンのうち三基がこわれた。一基では力不足で帰還不能。そこで、エンジン同士を結ぶ回路を使って壊れた一基の正常な部分を組み合わせ、一基としてつかうことで危機を脱した。回路を積むことを決めたのは、実物の機体を作る段階だったので、うまく動くかどうか試す機会がなかった。失敗すれば機体を壊してしまう。ぶっつけ本番など危なくて使えない、という意見も出た。だが、この機会を逃すと帰還は先送りになってしまう。悩んだ末、回路をつなぐ指令をはやぶさに送った。見事エンジンはガスを噴出し帰還できた。担当したのは、イオンエンジンの技術者、堀内康男氏。密かに四基のエンジンにそれぞれ家族の名前をつけていたが、最後に結ばれたのが、自分と奥さんの名前のエンジンだったそうで、よかったよかった。プラネタリウムではやぶさの軌道の記録が上映されているそうだけれど、見終わって出てきた人たちが目を潤ませているのが印象的だった。サッカーで華やかに活躍する人もいれば、陰で日本の科学技術をコツコツと支える人もいる。どちらをみても感激ですね。

はやぶさ帰還 糸川博士

宇宙探査機のはやぶさの帰還は、今日の新聞やテレビでトップニュース。だが、サッカーのワールドカップのニュースの方が華やかに報じられて、日本の長年の宇宙開発の技術者は複雑な思いかもしれない。着陸したのが太陽系の小惑星イトカワと聞いて、糸川博士に何回かお目にかかったことを思い出した。糸川先生はもちろん日本のロケット研究の第一人者であったけれど、芸術に深く関心を持たれ、チェロを演奏し、ヴァイオリンを作成し、ついにはバレエまで踊られた。私は長い間テレビでの仕事が多かったから、よく糸川先生が登場なさるときに現場に居合わせた。ヴァイオリンを手にとらせていただいたこともあった。いつもニコニコされて、楽しそうに登場なさる。あくなき好奇心が若々しさの秘訣ではなかったか。先生はかつて「逆転の発想」を書かれ、当時一大ブームとなった。ひとつの力ではなく、周囲をまとめ、相手の立場にたって物事を進めることが大切。それにはまず相手の状態を聞くこと。自分が人にどのように役にたてるのかを、考えて行動する。そのような主旨であったとおもう。ロケットの研究だけでも普通の人にはできる事ではないのに、いつぞやはかの名チェリスト、フルニエと共演された。もちろん腕のほうは???だったけれど、嬉しそうに無邪気に弾く姿は、ロケット博士とは思えないくらい、普通の人。チェロがロケットの研究になにかヒントになったこともあるかもしれない。ないかな?バレエも重力の研究の役にたったかもしれない。ないかな?フルニエとの共演の時、音程がいいなとおもったら、なんと指板の端にに白いエナメルで指位置が」記されていた。それを時々チラチラと見ながら指をおいてゆく。科学者らしいやり方だけど、先生それは無いよ。  はやぶさが帰還して糸川先生、喜びのバレエを天国でおどっていらっしゃるかしら。

2010年6月13日日曜日

ヴィオラ

教室の生徒さんたちの発表会。もう、16年目に入って以前はドキドキだった人たちもすっかり貫禄がついて、技術も度胸もついてきて、なかなか、良いコンサートになった。今回は前回と期日が近くて、仕上がりが間に合わなかった人たちや、仕事の都合で出られなかったり、いつもよりは少ない人数で、その代わり、落ち着いた雰囲気で仕上がったと思う。いつもはヴァイオリンで伴奏するのが、諸般の事情でヴィオラを弾くことになった。いつもは、部屋の片隅でケースに入れられて半睡状態のヴィオラがたたき起こされて、寝ぼけ眼で会場に向かう。ずっと寝ていたので、目覚めるのに時間がかかる。しばらくするとゴウゴウ鳴り出す。そこが楽器を鳴らす醍醐味と言える。もともと、ヴィオラが大好きで若い頃は(今でも24歳だけど・・うそだい・・と言ったのはだれ?)ヴィオラでの活躍も多かった。ただ、体が小さいので体、特に腰に負担がかかる。それで、ヴィオラを弾くのは断念していた。今回拠ん所無い事情で弾くことになって、やはり、ヴィオラはいいなあと思う。ヴァイオリンとチェロにはさまれて、中間の冴えないポジションで、あっちに付け、こっちに引っ張られ、自己主張する場もほとんど与えられず、さまようようでいながら、意外としぶとく存在感を示す。中低音のなんとも言えない艶っぽい音。ヴィオラはキャアキャア騒ぐ若い子ではなく、熟女の色気がある。いつもは体が小さいことを気にしないけれど、馬に乗る時とヴィオラを弾く時は、もう少し大きく育てばよかったのにと思う。性格的にもヴィオラ弾きの性格に近い。どんな性格かというと、インターネットでVIOLA  JOKEを検索してみてください。ヒドイ話ですが、たまらなくおかしいから。ただし、じっさいに弾く人でないと、意味不明のところがあるかもしれない。

2010年6月9日水曜日

病気その3

肝炎は完治したのに退院許可がなかなかおりない。理由はすぐ退院させると、すぐに走りまわるから、という理由で。おかげでその後の半月はのんびりできたけれど、退院するや否や「仕事しないと病気は治らないわよ」と言うアマゾネスたちが待ち構えていて、即仕事の坩堝のまきこまれていった。それからは走りずめ。狭心症、乳がんと聞くだにおぞましい病気の数々。乗り越え踏みにじり、「こんなことしていると突然死だぞ」と思いながら今日まで。病気するわりには元気。元気過ぎて暴走の日々。考えたら、これだけの病気をしているのに、やりたい事はすべてやっている。検診を受けると、すべて正常値。血管年齢は平均の14%若い。骨量は若いひとの平均を上回る。それで時々大病をするのは、自分がなりたいからではないかと、この頃気がついた。ちょっと休みたくなると口実作りに、病気の助けをかりるのではないかと。どの病気もたいして苦痛は伴わない。たいてい自分がこのへんで治ろうと思った時期に完治する。病気とは長い付き合いだから、ハイハイ又ですか、なんて感じでいられる。健康過ぎると病気になった時慌てるでしょう。ビックリしないように日頃から小出しにしておくのも、悪くはないかもしれない。

病気その2

ステージに乗ってしまうと不思議に吐き気もおさまってしまう。だが、終わると首筋から大量の汗が滴り落ちる。一人で心細く帰路についたものの釜石から一気に帰ることができない。仙台に一泊して次の日帰宅。すぐ、ホームドクターの診察を受けると「これは大変。すぐ入院しなさい」近くの総合病院へ回された。でも、私は1週間後に、カルテットの結成後初のコンサートを控えている。「入院するわけにはいきません。コンサートが終わってからにしてください。」「だめ、命がなくなるよ。」 やむなく手を尽くして探した結果、大ベテランが代わりをつとめてくださることになった。これで安心となったとたん、急に本当の病気になってしまった。激しい黄疸が出て、手も目もまっ黄色。点滴を引きずってトイレに行くと、おお、なんと。外に待機している看護婦に「わあ、カナリア色の・・がでた。きれいよ」というと、看護婦が泣きそうになって、「そんなこと・・・・」と絶句している。まだ、事の重大さに気付いていないから、のんきに本をよんだり、オペラを聞いたり、気楽に過ごしていた。そのうちにまわりの患者の様子から、大変な病気と知るけれど、やはり子供の頃からの(病気はお友達)感が役に立つ。肝炎の治療法は寝ているだけ。主治医はとにかく安静と言うだけ。退屈だから看護婦を脅して卓球をしに行ったり,ヴァイオリンを弾いたり。しばらくすると,ホームドクターがお見舞いに来て下さった。なぜ、寝ていなくてはいけないのか。それは、横になったときと立っている時の血流が違うから。より多くの血液を肝臓に届けることが大切なのだ、と説明される。主治医はそんなこと一度もいわなかった。それからの私は模範生。理由さえわかればちゃんとしたのに。空いている6人部屋を独占させてもらい沢山の花で飾っておくと、看護婦さんのたまり場となり、見舞いの友人や他の患者さんも来て、賑やかな闘病生活を楽しんで1ヶ月後、完璧に病気は消えた。ウィルス性だったけれど、キャリアでもなくなった。本当に嘘のように完治。主治医はなぜ、治ったのだろうと首をかしげていた。GOTが2000もあったのに。この数字、とんでもない数字らしい。

2010年6月8日火曜日

病気その1

自慢じゃないが、子供の頃から病気とはお友達。小学生の頃は一ヶ月のうち一週間は寝ていたような気がする。いずみ熱なんて聞いたことのない熱病から始まって,急性腎炎の時は医者がびっくりするほどの蛋白がでた。ペニシリンをうたれた病気は、なんだったのでしょうか。いつも天井を見ながら、学校が休めて良かった・・なんてけしからんことを考えて、ぬくぬくと寝ていた。病気なんだから学校は行かなくても良いし、好きなだけ本もよめるし、時々おいしいものも食べられる。こんな楽しいことはない。体を動かすのはさほど好きではなかったから、寝ているのは苦にならない。第一学校に行くと子供と付きあわなければならない。いつも大人から、からかわれながらもチヤホヤされていたので、情け容赦ない子供は苦手。やれ扁桃腺だ、やれ風邪だと言っては休む。大人になってからも、けっこうな大病をしている。10年から15年周期で入院したり、手術をしたり。でも、子供の時の「病気はお友達」感があって、ちょっと珍しい体験をしている位にしか考えない。そしてまた素晴らしい回復力の持ち主らしく、いつも完璧かつ迅速に治ってしまう。急性肝炎を発症したのはコンサートツアーの数日前。高熱が出たので、リハーサルの会場付近の病院で診察を受けた。水道橋という立地条件なのに、患者がだれもいない。すぐに理由はわかったが、これがとんでもないヤブで、エッチな医者。結局病名はわからないが、尋常でない高熱に仕事のキャンセルを申し出た。しかし、もう明日出発というのでおろしてもらえず、釜石市に行くことになってしまった。いってしまったものの、ひどい吐き気におそわれ、白湯以外のものは喉を通らなくなってしまった。幸い地元の診療所の医師がすぐに血液検査をして、命に関わるからすぐ帰るようにと言ってくれて、やっと仕事をおりることになった。しかし、あまりの辛さに駅まで辿り着けない。途中の喫茶店に入ってミルクを注文した。ヴァイオリンをもっていたので、気を効かせて音楽を流し始めたその曲が「死と乙女」ああ、私死ぬんだわ・・・、

2010年6月7日月曜日

ドライヴその3 巡査女難

自分では事故らしい事故は起こしたことがない。電信柱がちょっと膨らんできたり、ポールがよってきたり、その程度。ただ、赤いカローラは他の車に好かれるらしく、よく追突された。全部、こちらは停車中。後ろからドンッ。全部、夕暮れ時の信号待ちでのこと。なぜかというと、赤い車を洗車せずにいると、くすんで夕暮れ時に見えにくくなるらしい。だからといって洗車する趣味はないから、いつもくすみっぱなし。もらい事故といえば渋谷で猛烈な混雑の中、信号待ちをしていた時のこと。次の信号を左折するために、一番左の車線に停車していた。ところが右側の車が何を思ったのか、いきなり左折を始めて、私の車の右前をゴリゴリこすっていったではないか。よほど、あせっていたらしい。とにかく、空前の混雑だったから、時間に遅れたのだろう。そうだからと言って無茶するなよー。近くの交番で事故処理。ちょっと緩めの中年のおまわりさんが私に向かって・・・この私にむかってですよ・・・事もあろうに「なんでアンタ左側にいたの」とのたまった。「エッ、なんのこと?私は次の信号を左折するので、左側にいたのよ。それがいけないの?あそこは左折専用レーンなの?そうじゃないでしょう」頭に血が登って咆哮する私にてこずって、おまわりさんはスゴスゴ敗退。私は動いていないのに、右からいきなり人の車こすっていったのよ。ガーガー。  そこへバレリーナ登場。中年女性が拾い物を届けにきた。職業によって体に色々特徴が出る。バレリーナは足に顕著に出る。歩き方ですぐにバレリーナとわかった。くだんのおまわりさん、そちらの対応にも関わって、「お名前は?住所は?」と始めた。そして「年齢は?」と言った途端、「女性に年齢聞くとはなにごと。失礼でしょう」大声で怒り始めたかの女性。悪いけど、お腹を抱えて笑った。今日はこのおまわりさん,女難の日だわ。

ドライヴその2

真っ青になった車族、協議の結果仲間に入れてもらうことになった。でもなんたって初心者。だれかが必ず助手席に乗ってくれることになった。その頃毎年20日間ほど、初夏にワルツ王ヨハンシュトラウスの孫、エドアルト シュトラウス指揮のコンサートツアーがあって、全国を回っていた。その初日、甲府を皮切りに北は新潟、南は九州まで行く長いツアーが始まった。連れて行ってもらえるというので、まず甲府まで運転して会場に乗り込むと、同僚が真っ青になった。まさか、まさか。ほんとにきちゃったの?次の日からスッタモンダがはじまった。長野、新潟、金沢、京都、高松、広島、小倉、久留米、岩国、岡山、福山、大阪、名古屋、浜松、最終が東京。全行程3500キロ。母から箱根だけは運転しないよう懇願されたが、箱根の山越えをしてしまった。えっ、何故山越え?思われる方はお若い。実はその頃はまだ、東名も中央道も無かったのですよ。しかも、女性ドライバーときたら殆ど見かけなかったから、とても珍しがられた。お目付け役のカーキチたちからは、ビシバシしごかれ涙をこぼす場面も何回もあった。徹底的にマナーからテクニックから教え込まれ、帰ってきたときはいっぱしのドライバーになっていた。その後真っ赤なカローラは10数万キロ乗り回し、左側のドアは殆どもげ落ちそうになって、使命を終えた。環境基準規制もなかったから、回転数を目一杯あげ、本当に良く走った。今でもあの走りを思い出す。初代カローラはあのクラスの名車でした。
その後は仲間と認められ、演奏旅行は必ず車。1回に3000、4000キロくらいは走り、年に数回出かけたので、職業ドライバーを除いては結構な距離を走ったと思う。通勤にも使っていたし。よく、コンサートが終わって、こんなに疲れているのによく運転するね、と言われるけれど、私にとってはまたとない息抜き。特に終わってからの安らかな気分の運転は最高。少しも苦にならない。

2010年6月4日金曜日

ドライヴその1

今日久しぶりに環七を走って思い出した。運転免許をとってすぐ、この道を走った時の事を。
四方をトラックに囲まれ、大きなタイアがちょうど窓の高さにあって、ものすごく心細い思いをしたことを。    オーケストラに入ってまずしたことは、運転免許をとること。とてもスムーズにとれて、すぐに友人から赤いパブリカ(トヨタ)を譲ってもらった。小さくて可愛らしい車だったけれど、困ったことに、空冷で音がうるさい。買ってすぐに走ったのが環七。よくもまあ、ノコノコと出かけたものだ。当時オーケストラの練習場が大久保にあって、そこまで行こうという魂胆。しかし、当時の車はオートマなんてほとんどなかったし、ファーストギアがシンクロされていなかったので、しょっちゅうエンストした。あちらこちらでエンストしている車を、見かけたものだった。私も思いっきりエンストしながら,のそのそ・・・いや、最初からスピード狂で、教習場でもよくしかられた。ようやく、練習場についた。帰り道、心配した同僚がこっそりあとをつけてきたそうだ。青信号なのに発進しない車がいるから、だれかと思ったら私の車だったそうだ。当時は今よりずっと道が混んでいた。バブル景気の前で、日本が急上昇している頃だったから。ちょうど今の中国みたいに。   車を買ったからには、演奏旅行に車で行きたい。車族に頼んだ。旅行に車で行きたい。すると、その車じゃダメ。新しい車を買ったら連れていってやるよ。言ったほうはまさか、私が新しい車を買うとは思っていなかった。でも、そう言われた私はすぐにトヨタに行って、新車を買ってしまった。それは、初代カローラ。出たばかりのカローラに乗って、颯爽とエンストしながら乗りつけた私を見て、真っ青になった車族。約束でしょう。連れていってね。

Harry Potter

ハリーポッターを原書で読み始めて、何年たつのだろうか。遅々として進まない。今、4巻の4分の1過ぎたところ。全部で7巻だからやっと半分読み終えた。物語は佳境に入り、ますます面白くなってきたけれど、ますます難しくなってきた。作者のローリングさんは素晴らしく頭のいい人で,あらゆる伏線がはってあって、たぶん、最後にピシャリと辻褄があうのだろう。日本語版を持っていて、時々ズルしてアンチョコ替わりにつかわないと、とても歯がたたない。英語は全然できないほうだったから、この物語がなかったら一生英語の本など読むことはなかっただろう。初めて日本語版を読んだ時、果たして英語でよめるものだろうか、と思ったのがきっかけで手に取ってみた。本屋でパラパラとめくってみると、さほど難しそうにも思えない。よく会うハーピストが辞書なしでスラスラ読んでいる。買って帰り読み始めると、もともと苦手だった英語のこと、少しも読めない。だいたい学生時代、外国語は高校からドイツ語が必修で、英語は選択だった。それで、今ドイツ語ができるかというと、まったくわからない。語学の才能はひどく貧弱で、単語はすっかり頭から抜け落ちている。しかし乗りかかった船、やめるのはくやしい。一字一句、とつとつとよみ進んでゆくと、速読では見落としてしまうような細かい描写に引っ掛かる。それが後に重要になってきたりして、なるほど、ローリングさん頭良い、となる。今はイギリス人ヴァイオリニストのRuthさんが私の先生。彼女は英語で,私は日本語で、お互い勝手にしゃべる。あと何年かかるのだろうか。気が遠くなりそう。読み終えたとき、私は何歳になっているのか。それまでボケないでいられるのだろうか。ため息が出てしまう。

2010年6月2日水曜日

中嶋 徹君その2

http://www.youtube.com/watch?v=uO0qt8PHDBg 

徹君は指揮者として羽ばたき始めています。

中嶋 徹君

http://www.youtube.com/watch?v=x8J6iG9BmQ4 

中嶋 徹くんは友人の息子さんです。最近ウィーンコンセルヴァトリウムの卒業試験をうけました。うまくいったようです。小さい頃は優しい繊細な子でした。今や立派な大人。紆余曲折はあったものの、自分の行く道をみつけられて頑張っています。

2010年6月1日火曜日

新しいパソコン

皆さーん、新しいパソコンでこれを作成しています。パソコンを始めた当初は、メールとインターネット以外に使うことはないと思っていた。最近暇になって、ブログを始めると、写真を入れたい、動画も欲しい、だんだんと欲が出てきた。仕事が少なくなると暇で退屈かと思ったら、とんでも無い。時間が足りない。ヴァイオリンを弾く以外、歩くかパソコンにしがみつくかするようになった。あまり欲張ったので、小さいパソコンは悲鳴を上げ始め、限りなくノロノロと動きが鈍くなってしまった。そこで登場するのは、私のパソコン人生を最初からサポートして下さっているお助けマン。大きめのパソコンに変えていただいて、これが初仕事です。画面が大きい、速度が早い。うれしいなあ。パソコンを変えるのはこちらは楽しいけれど、設定するのはひどく面倒らしい。しかも、相手が私と来るから、面倒の上にいくばくかの恐怖心も抱くらしく、気の毒ではあるけれど、一旦関わった以上やめるわけにはいかない。次々に興味を持つと、片っ端からやってみないと気が済まないし、納得いかないと機嫌が悪くなるクライアントに、よくぞ長年お付き合いくださいました。帰りには心なしか、かなりお疲れの様子。たまさぶろうにマッサージをしてさしあげるよう言っておきます。爪をたてるから多少痛いですが、我慢してください。ほんの少しミミズ腫れになるくらいですから。