2014年3月31日月曜日

ほんとのお花見

昨日は総勢18人ほどのお花見だったけれど、午後から猛烈な風が吹いていたので、傘を壊した人が3人ほど。
ちょうど約束の時間が風雨のピークだったらしい。
少し遅れた人は「雨やんだよー」なんてニコニコして入ってきた。
山盛りのご馳走と、バースデイケーキ。
3月には続いて何人もの人が誕生日を迎えたので、一気に数人ぶんのお祝いとなった。
青山から来た人が美味しいケーキをホールごと買ってきてくれて、ハッピーバースデイを歌ってもらった。
というのは、私は今日が戸籍上の誕生日。
私の前に4人ほど3月生まれが続く。
そしてゲストのノンちゃんのご主人コンちゃんも私と同じ日。
この日コンちゃんは来られなかったけれど「雪雀連」にこんなに沢山3月生まれがいるとは思わなかった。
しかし実は私の戸籍はインチキで、本当は4月の初めに生まれたけれど、母は私を早く学校に入れてしまおうと画策した。
お陰で私は学年一の年下。
子供の頃の1年は能力にかなり開きがあって、私はなにもかも皆よりも出来なくて、メソメソした子供だった。
それが4年生になったらやっと対等になって、その後は追い越してガキ大将、そして今に至る。
夕方から薄陽が差して、夕日に照り映える美しい桜が見られたが、私はホステスだからお客様へのサービスで忙しい。
そして今日は昨日と打って変わった穏やかな春の1日。
所用で湘南方面へ出かけ、かなり長い空き時間があったので、友人と2人で近くの公園で桜を愛でた。
おしゃべりしながら、満開の桜咲く公園をそぞろ歩き。
花粉にもめげず、今日が私の本当のお花見になった。
歩き疲れるとサンドイッチを買って車の中で食べながら、スマフォでゲームを楽しんで、かなり待ち時間があったのに少しも退屈せずしあわせな1日だった。
パソコンにもスマフォにものめり込んでいるゲームがあって、ヴァイオリン弾いたりお花見したり、今日の誕生日で35才(?)は越えた割には趣味が若いでしょう?
というか、子供のまま年取ってしまったんだなあ。



















2014年3月30日日曜日

桜は咲いたかお客はまだかいな

桜、咲きましたね。
今年は桜が中々咲かないので、お花見予定の今日は花見でなく只の酒盛りになってしまうのではと心配したけれど。
毎年3月の最終日曜日か、4月の第一日曜日に恒例の我が家の花見大会が催される。
皆大酒飲みだから、花はあっても無くても良いような物だけど、駅から桜を見てそぞろ歩きながら来るのが楽しいらしい。
駅を出てすぐに桜並木が始まって、我が家まで途切れなく続く。
その間に花見をすませるから、その先夜中まで花はいらない。
帰り道に夜桜見物としゃれて帰れる。
ほとんどベロンベロンの泥酔状態で、楽しそうに帰る人達を見送るのも楽しい。
毎年2,30人集まっているけれど、最近は皆歳をとってきて、あの人はもう来ないねなどと話すことも多くなった。
そういうことを別に寂しいとは思わない。
自然なことなのだから。
我が家の2階は特等席で、桜並木を眼下に見ながらの酒盛りはなかなか贅沢なものだけど、以前ほど手をかけた料理は出せなくなった。
かつては死にそうなほど仕事していたのに、そう言うときにはエンジンがフル回転しているから、料理にも気合いが入った。
数日前からおでんを仕込んだり、ローストビーフや煮豚など、手の込んだ物がずらりと並んだ。
最近はすっかりくたびれて、デパ地下の総菜や手抜きの煮物が並ぶ。
その代わり食べる方もいい加減食が細くなっているので、不満はないようだ。
ものごと全て、上手く出来ているものだと思う。
飲む量も少なくなった。
10年以上前には、資源ゴミの日に花見で飲んだ酒瓶を山のように出すのは、ちょっと恥ずかしかった。
空瓶を入れるかごに入りきれず、外にまで並べて置いた。
今より人数が多かったこともあるけれど、10時間も飲み続け、終電が無くなって埼玉までタクシーで帰る人もいたり。
最早そんな気力が残っている人はいない。
若かったその頃の方が面白かった、ということもない。
なにか、今の方がすべての力が抜けて楽しい。
心楽しく豊かな気分でいられるかは歳とは関係無いかも知れないが、皆さん静かにお酒と会話を楽しめる大人のお付き合いが出来る人達なのだ。
長年の友人がこんなに沢山いるのは本当に贅沢なことで、結局花が咲こうと咲くまいと、毎年素敵な時間が過ごせている。

今日の天気予報は大荒れの1日だとか。
高齢者の多い「雪雀連」だから来られないのではと思うでしょう?
いえいえ、世界中のスキー場を吹雪の中でも楽しんで滑る人達が、なんのこれしきの風雨に負けるものですか。



















2014年3月29日土曜日

古狸は猛犬

海苔巻きを買って390円、1000円札でおつりをもらったら、601円、はてな。
レジの女性は半世紀プラス四半世紀くらいのお歳のようだ。
レジを打つ手もおぼつかない。
しばらく考えた。
1000-390=610 これで間違えていないよね。
何回も復唱。
うん、確かに間違えていない。
お店にとって返して「これ一円玉ですけど」と言った。
私はものすごいウッカリやだから、言ってから恥をかくことも多い。
私も何回もこれが一円だと言うことを確かめた。
というのは、最近100円や50円と1円を間違えることがしばしばある。
白くて光って居る物は全部同じように見える。
悪気は全くないけれど、若者にとってはそれはごまかそうと思ったようにとれるのかもしれない。
近所のデパートで500円の物を買った時、さっきおつりでもらった500円硬貨を受け皿に置いた。
すると売り場の女性が、人の顔を見てにやにやしている。
しかも何も言わずに。
そこで100円硬貨と間違えていることに気が付いた。
500円硬貨に取り替えながら「あら、失礼。貴女、こういうときにはちゃんと言ってね」と言ったらいきなりフグのようにふくれっ面をしたのには驚いた。
れっきとした有名なデパートなのに、一体どんな教育しているのかしら。
以前スーパーで買い物をした時、レジのお兄さんが値段を言うなり、指をレジ台にイライラと打ち付けたことがあった。
要するにおばさん達はモタモタして遅いから、早くしろという意味なのだ。
私はこういうときにも事前に小銭の有無を確かめて、すごく早いほうだと思うのに、出す前からこれでは。
歳をとって指先が上手く動かなくなるから、年寄りがもたつくのは当たり前。
貴方だって、すぐにそうなるのに。
私が小柄だからおとなしいと思ったのかも知れない。
そうはいかない。私がすごく獰猛なのを知らないのね。
その指を見た途端「貴方、その指は何?」喰って罹られておにいさん顔色が変わる。
「早くしろという意味?歳をとったら指先が不自由になって中々小銭もつかめないのよ。そういうことをするのはやめなさい」すっかりしょぼくれたお兄さんは「すみません」と小声で謝ったから許したけれど、本当なら店長を呼ぶくらい失礼なことだわ。
歳に便乗して威張るひともいるが、大半は申し訳なげに生きているおとなしいお年寄り達。
言いたいことも言わずに「すみませんねえ」と言いながら小さくなっている。
戦後の混乱期にどれだけ苦労して子育てをしてきたか、それを考えたらないがしろに出来るわけはない。
なんっちゃって、私が年寄りではないかのように書いているけれど、私も結構な古狸。
ただし気が強いから猛犬注意の札をぶら下げて歩かないと。
スーパーやデパートのおにいさん、おねえさん、下手すると噛みつかれますぞ。




























2014年3月28日金曜日

御礼

昨日の古典音楽協会第149回の定期演奏会を聴いて下さいました皆様、ありがとうございました。
今年は文化会館の改修工事のため、春のコンサートのみということになりました。

私は今回はヴィヴァルディの「海の嵐」のソロを弾かせていただきましたが、中々手強い曲だった。
絶え間なく押し寄せる波の様に、休み無く16分音符が連続するので、楽譜を頂いた時には果して最後まで弾き通せるのかと思ったけれど、練習していくうちに次第に手が軽く楽になっていくので、そのうちにもっと早くもっと激しくと段々曲が様変わりしていく過程がとても面白かった。
1人で練習しているときにはもう少し早いテンポを想定したけれど、合奏になるとそれぞれの考えがあって、自分の勝手な要求をするばかりでは上手くいかない。
やはりソロが勝手にというのではなく、全員で音楽を作り上げていく物だから、練習を数回するとテンポも私の考えより遅くなってしまった。
その代わり豊かに暖かみのある音が背後から聞こえるので、ある意味ではすごく楽に、他の部分では自由にならないもどかしさや色々葛藤があったけれど、最終的には一番良い様に落ち着いたのではないかと思っている。
自分自身はど下手なくせに、私は世界のトップクラスとも共演出来るという僥倖に恵まれた。
イ・ムジチのメンバーやベルリンフィル、ミュンヘンフィル、フランス国立管弦楽団などのトップメンバーとの室内楽も経験してきた。あ、勿論ロンドンアンサンブルも含めて。
彼らの凄さを身近に聴いて、やはり私の音楽は起伏に乏しいと感じた。
スピード感が違うので。
彼らの突っ込みの激しさ、音の鳴らし方もずっと深くぐいぐいと楽器を組み敷くように鳴らしていく。
何度も言われたのは『もっと早く。停滞するな』だった。
わが古典のメンバーは穏やかでゆったりしているので、そういう激しさはみかけられないけれど、それはそれで心地よい安らぎと受け止めていただけることが多い。
音楽にこれという決まりはないから、どちらも正解であって、それぞれ好みの問題となる。
さていつまで「古典」が続けられるかはメンバーの気力による。
コンサートマスターの角道氏は今なお矍鑠として音程も音量も若いときさながらに保っている。
これがすごい!

今年の秋は定期演奏会はお休みです。
来年は角道さんとチェンバロの佐藤征子さんの喜寿をお祝いして、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第5番」その他を予定しております。
来年もぜひ東京文化会館へお越し頂けますように、お願い申し上げます。
長く聴いてくださっている皆様、初めて聴いたという方々も、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
皆様に深く感謝をお伝え出来たら嬉しいのですが。

さて、昨日のコンサートの余韻も醒めないうちに、今朝は10時からベートーヴェン「大公トリオ」の練習です。
レッスン室はグッチャグチャ、メンバーが揃うまでにお掃除ですよ。わあ、大変だあ!

























2014年3月27日木曜日

器械体操


      猫さんの妙技をご覧下さい!
    音楽とのコンビネーションがすごい!

2014年3月26日水曜日

春眠暁を覚えず


       コーギーはおねむです。
      可愛すぎてヨダレがでちゃう。

2014年3月25日火曜日

たまさぶろう君ご乱心

最近朝目が醒めるとあちらこちらに擦り傷、切り傷が出来て居る。
今朝も手の甲の皮が剥けていた。
たまさぶろうの仕業なのだ。
ここ数年たまさぶろうは足腰が弱ってきたので、ベッドに上るのも反動を付けないと上れないくらい、足腰が弱ってきた。
若い頃は冷蔵庫から電子レンジ、そこからテーブルへと、ムササビの様に飛んでいたのに。
鳴き声は大きくなり、夜中に絶叫されるとハラハラする。
近所にも鳴り響くからだ。
そして頑固にもなった。
私いのちだから、寝るときは常に私の左脇の指定席で、腕枕をさせられている。
そして顔をゴリゴリ押しつけてくる。
愛情いっぱいの表現ではあるけれど、ヨダレがひどいから気持ちが悪く顔を背けると、いきなり私の頭に爪を立ててグイと自分の方に顔を向けさせる。
DV男だわ、これは。
それでも私の腕の中で、いかにも満足げに安心してすやすやしているのを見ると、これはもう可愛くてたまらない。
18年前に近所の団地で薄汚れていた、たまさぶろうを拾ってから、どれほど安らぎをもらっていたかを思うと、どんなに惚けても優しくしてあげようと思う。
かつてあまりにも仕事が忙しかったので、エサを置いて出かけてばかり。
深夜、家に帰ると狂喜乱舞、4匹の猫が揃って出迎えてくれると1日のストレスが吹き飛んだ。
それぞれ個性があって、見ていると本当に面白い。
私が具合が悪い時などは、それと察して慰めてくれる子もいる。
私は人生の目標が低いので、他の事は概ね満足のいくものだけど、一つだけ心残りは、子育てができなかったということ。
これは最大の痛恨事。
私の友人に占いをする人が居て、私は仕事か子供かどちらかを選択する運命にあるそうで、たまたま仕事がメインになった。
子供を育てられなかった分を、猫たちが埋めてくれたらしい。
猫さん達に感謝。
可哀相な病気の猫ばかり拾う運命にあったので、うちには立派な猫は一匹もいない。
獣医さん曰く、あそこへ行けば病気を治してもらえるって猫の情報網があるんだよ。
片目が見えなかったり、猫エイズだったり、ひどい鼻炎だったり、皆病気で苦しむ猫ばかりだった中で、たまさぶろうは比較的健康で大きなきれいな猫だった。
それが今は毛並みもボサボサになって、老いていく。
夜中に急にエサを要求したり、トイレを掃除しろと言ったりするけれど、どんな時でも可愛い。
たまさぶろう、あと数年でお別れの時がくるけれど、来世も又会いましょう。
この次は私が猫で、たまが飼い主になるかも。



























2014年3月24日月曜日

皮膚炎

花粉症のことで騒ぎ立てていたら、心配した友人が送ってくれたのが花粉症対策のアロマオイル。
デメルのチョコレートの箱にきれいなリボンがかけられて届き、開けたら怪しい茶色の小瓶が入っていた。
ここで♫タラッター、タラッター、タンタンタンタン、タラッタラッタッラッタ♫とメロディーが思い浮かんだ人は、お古いお古い方々。もちろん私も。
一滴手の平に取って匂いを嗅ぐけれど、鼻が詰まっていて匂わない。
元々嗅覚障害があって、都合の良いにおいしかわからない。
香水のたぐいは嗅ぎ分けられない。
自然のにおい、例えば若草のにおいや土の香りはわかるけれど、消臭剤などの科学合成の臭いは嫌いで、鼻が拒否する。
アロマオイルは臭いがわからないけれど、清々しい感じがして鼻詰まりが通るような気がした。
そのまま外出して帰宅してから、そう言えば花粉症の不快感が無かったことに気が付いた。
効くか効かないかはもう少ししないとわからないけれど、確かに鼻の具合は良いかも。
普段嗅覚は鈍感なのに、なにかの拍子に急に鼻が通ることがあると、匂いってそこら辺に充満しているものだなあと思う。
我が家はまず猫のにおい、猫トイレのかぐわしい?香り、食べ物を調理した時のにおいなど。
私は鼻が悪いから気にならないけれど、鼻の敏感な人はさぞ臭いことだろうと思うから、なるべく他人は猫部屋には入れない。
若い生徒がさんざん学校で汗をかいてからレッスンに来ると、強烈に汗臭かったりするけれど、それは少しも気にならない。
5分もすれば馴れてしまう。
人の体臭などは、個体差を嗅ぎ分ける動物の本能で嗅げばいい。
かえって制汗剤なんか使われると、そのにおいが堪らない。
臭いには文化の違いがあって、良いにおい悪いにおいというのは、初めからないのだそうだ。
それが成長するに従って、そこの文化圏でのにおいの良し悪しに感化されるようだ。      
ニンニクはぜんぜん気にならないけれど、酒臭い息と一緒になるといけません。
納豆も大丈夫だけれど、外国人や日本でも西の人は猛烈悪臭に感じるらしい。クサヤも平気で食べる。
よくテレビのコマーシャルで消臭剤、除菌剤の宣伝をして、家中にシューシューやっているけれど、あれを見るとなんだかなあ。
家中殺菌してどうする。
菌が死ぬと言うことは人間にも良くないことだと思うのに。
人はちゃんと常在菌によって守られている。
通常のお掃除さえやっていれば、悪い菌が繁殖するのはある程度防げるし、免疫力があるから自力で体は守れる。
通常のお掃除をしていない私でも、健康で生きているのに。
親切な友人のお陰で鼻はどうにか良くなりそうだけれど、顔の皮膚炎が痒い。
ちょうどマスクからはみ出すあたり、顎のエラの部分と目尻の外側付近。
顔の輪郭部が赤くなって痒い。
花粉の刺激でこうなったのか、あるいはお掃除をしない罰で、ダニなどのせいか。きゃー!
マスクに隠れる鼻や頬は痒くないから、紫外線の刺激かもしれない。
早く春と夏が終って秋にならないかと待ち遠しい。




















2014年3月22日土曜日

本日も晴天なり

月に一度、246号線を厚木方面に向けて走る。
今日も脇道から246号線に出た途端、真っ白な富士山が見えた。
風も弱く快晴で、こんな日にうちに籠もっているのは勿体ない。
富士山が大山の連山から頭一つ飛び出して、美しい姿を見せてくれるので、この道はすごく好き。
用事が済めば、その近所に住んでいる友人とお茶会。
これも楽しみの一つ、というか、これが目的になってしまったようなところもある。
ちょっと浮き世離れした暮らしをしている人なので、話す内容が独特で面白い。
それでいて知識が豊富だから、様々な事を教えられる。
なによりも私を笑わせてくれるから、腹筋の運動が出来る。
でも今日はお話よりも、新しく入れてもらったスマフォのゲームに夢中になっていたので、話半分になってしまったのが惜しい。
私はとても話し好きだけれど、よく病院の待合室などでよその人から話しかけられるのはとても苦手。
あ、こちらを見ているなと思うと、知らんぷりを決め込むことにしている。
それでもめげずに話しかける猛者がいる。
あまりにしつこく見られていて、他に人が居ないときには「勘弁してよ」と思いつつ、仕方なく返事をする。
話は自分の病状の事、子供や孫の話など、全く私の興味の範囲外に決まっているから、つれなく返事を最小限にしてもめげないひとが多い。
そう言うときに名前を呼ばれて診察室に入るのは、普段よりも嬉しい。
私の友人達に限っては、話の面白く無い人はいない。
それだけ皆中身が詰まっているということで、空っぽの私は巫山戯て笑いをとることが多いから、その辺がどんなときにもリーダーになれない残念な人である。
子供の時から常に二番手か三番手、確固たる自信がないくせに自己主張だけは強い。
それで人の上には立てないのは重々承知していて、人に従属しているほうがずっと安心していられる。
たいてい、他の人の言うことの方が正しいし、言われた様に行動すると上手くいく。
これは末っ子の特徴かもしれない。
子供の頃心理学かなにかの本で「末っ子というだけで病気である」と極論を読んでショックを受けたことがある。
しかし、それは真実だと思ったりして。
病気の私と付き合ってくださる方々、ありがとうございます。
病気であるのは中々便利なので、今しばらく・・・いや、この先もずっと病気でいると、きっと優しい人達が手を差し伸べてくれるに違いない。
こういう考え方は、腹が立つでしょう?
私だったら、そういう人にはグーパンチ一発だけど!!!






















2014年3月21日金曜日

犬と少年



今朝見つけた動画。涙涙涙。
ずっと犬が飼いたくても、ちゃんとした世話ができないと思い、我慢してきました。
飼うなら、今が最後のチャンス。
私の元気なうちに飼わなければ犬がかわいそうだし、先に死ぬことはできないから。
出来るなら大型犬を飼いたい。
しかし自分の歳を考えると、老犬になったときに世話が出来るのかどうか、良く考えてから決めないといけませんね。
あるいは老犬が私の世話をしてくれるかも。

2014年3月20日木曜日

子供を預ける

ここ数日物議を醸しているのは、ベビーシッターに預けて亡くなった子供さんのこと。
ネットで見つけた知らない人に大事な子供を預けるのは、よほどの事情だと思うけれど、それでもそうしなければならないお母さん達が沢山いると思う。
この母親を責める前に政治の不備を指摘するべきなのに、母親に対する攻撃が強いのが気の毒だと思う。
子供無くした上に叩かれるのでは、しかもセレブなタレントさんなんかに。
私ならと聞かれれば、勿論見ず知らずの人には預けられない。
それでも夫と離婚したり死別したりして一人で子育てをしている人は沢山いて、時間的にも経済的にも余裕が無ければやむを得ない場合だってあることを考えてあげたい。
私の周りには、子育てしながら仕事をしている人は沢山いる。
時間が不規則な上に、仕事場以外でも練習しなければならない職種だから、子育ては並大抵の事では無い。
友人などは自宅は練馬区、妹さんの家が戸塚で、仕事に行く前に練馬から戸塚に子供とおむつや何やらと、楽器を持って電車で行って預けていた。
信じられないくらい大変だったと思う。
それでも見ず知らずの人に預けないで、妹さんに預けたいという気持ちは良くわかる。
しかし、身内が傍にいなかったり、公共の施設は空きがなく、どうしても預けなければならないなら、どうしようもないでしょう。
どうして日本はこんなに働くお母さんに冷たいのか。
少子化で国力も低下する事を考えたら、子育てするお母さんを援助するのに、お金を惜しんではならないと思う。
税金の無駄遣いは目に余るのに、一番大事なところに予算を回さないとはなにごと?
結婚しなくても子供が産めて預かってもらえれば、シングルマザーでも安心できる。
フランスなどは、ずいぶん支援システムが発達していると聞く。
結婚するのは面倒だが子供は欲しいという人は、かなりの数に上ると思う。
女性が1人で、仕事も子育ても出来るような社会的支援をしてもらえれば、シングルマザーって理想的じゃあありませんか?
子供が欲しいというだけで、結婚する人だって多いのだから。























2014年3月19日水曜日

薬をやめる

薬を飲まなかった翌日は、花粉症の症状に襲われた。
ちょっと飲まなかっただけで、こんなに違うの?
特に昨日は春一番が吹き荒れていたから、ものすごい花粉が空中に浮遊していたのだろう。
さっそく、くしゃみと鼻水、顔の痒さは止まるところを知らず。
ちょうどマスクの範囲外での皮膚の痒みが起きている。
マスクで隠れる頬の辺り、鼻などは痒くない。
マスクが終った辺り、顎の輪郭や耳の後ろが赤くなって痒い。
皮膚が敏感なのは幼少の頃からで、春先はいつも皮膚科通い。
子供の時からの医院に、未だに通っている。
今はさすがに代替わりしてしまったが、先代先生は随分高齢になるまで、診察をしていた。
あるとき「私、小学生の時から来ているんですよ。先生おいくつになられますか?」と訊いたら「うっふっふっふ」と笑ってごまかされた。
そこの若い先生や看護士さん達は、患者には無愛想でニコリともせず必要最低限のことしか言わないのに、そのおじいちゃん先生が大好きなようで、診察室の中では先生がなにか言うと先を争ってのように仕事をする。
もう先生大好き!の空気がそこに流れている。
見ているだけでほほえましくなるような光景だった。
皆が先生を眺めて優しくニコニコするから、患者の自分たちにもそうしてくれないかなあなんて、思ったりして。
先生はというと周りのことには無頓着なようでいて、急に雨が降ってきたりすると「傘貸してやんなさい」とボソリと言う。
すると受付の人が大量のビニール傘を玄関に置いてくれる。
次の日返しに行ったら「安い傘だから返さなくても良いですよ」と言われた。
優しいおじいちゃん先生はもう天国に行っていらっしゃると思うけれど、子供の頃の思い出がある。
私が春先、顔に湿疹を出して診察を受けていたときのこと、他の部分は治ったのに一カ所だけどうしても赤みがとれない場所があった。
先生は私が行く度に、そこに丁寧に薬を擦り込んでくれた。
「なかなか治らないねえ」といいながら。
それは左の顎の下。
そう、治るわけがない。ヴァイオリンのタコだから。
初めに言いそびれたので、その後言いにくく黙っていた。
皮膚炎は治ったので、それきり行かなくなってしまったけれど、先生は「あの子の顎の下はなんで治らないんだろう」と時々考えたかな?
昨日の夜も花粉症の薬を飲まなかった。
今朝も目覚めは良いけれど、外出時に銀行強盗のようないでたちで歩かなくてはいけないのが、憂鬱だなあ。











2014年3月18日火曜日

我慢の季節

毎朝花粉情報を見ていると、今がピークらしい。
地域毎に花粉量が色分けされている画像は、関東の殆どの地域が量の最大を表す赤色に塗られている。
それを見ただけで、鼻がむずむずする。
つい1週間程前、喉がヒリヒリするので耳鼻科に行った。
風邪のひき始めかと思ったら、先生は「これは花粉だね。薬のんでよ」と言う。
いやだと言っても聞き入れられず、薬を処方されてしまった。
もらってきたからには仕方が無く呑みはじめた。
次の朝、いつもは寝起きの良い私が起きられない。
ノラにエサをやらないといけないから、やっとの思いで起き上がるが、フラフラする。
体の具合が悪いのかと思ったけれど、眠い以外の症状は出ていない。
そこで気が付いた。
花粉症の薬!寝る前に呑んだっけ。
その日から毎日眠くてたまらない。
もうすぐ古典音楽協会の定期演奏会だから、練習が佳境に入っているはずなのに、楽器を手に取ってもぼんやりしている。
これが花粉シーズンの間中続くかと思ったら、うんざりした。
普段は短い睡眠でも寝起きが良くて、昼寝は殆どしたことが無いのに、今日は昼寝をしてしまった。
しかも明るい部屋でソファーにちょっと横になったら、すぐに眠れる。
最近、それほど疲れることはしていないから、これは薬のせいに違いない。
今から20年程前、ある朝布団の上に起き上がったら、鼻から透明な液体がつるーっと落ちたのはその始まり。
顔は痒い、鼻はむずむず、ひどいときには熱を出す。
それ以来鼻の奥をレーザーで焼く手術をしたり、マスク、帽子、ゴーグルを必ず装備して外出するなどしていたけれど、今年は皮膚炎まで起こしてしまった。
外出すると、肌にかゆみが出て赤くなり、しばらくしないと治まらない。
薬に頼ることとなったけれど、シーズン中ずっとこんなに眠いとなると、演奏に差し支える。
ついに薬と訣別する決心をした。
昨夜は薬を飲まなかった、というより、飲むのを忘れた。
上野の東京文化会館でリハーサルがあって、帰宅は深夜。
いつもは7時の夕飯後は一切物を食べないけれど、リハーサルのストレスからか、お腹が空いて食べずにはいられなかった。
ワインも飲んでそのまま眠ってしまった。
今朝目覚めが良いのは、薬を飲まなかったせいだと気が付いた。
しかし、くしゃみが・・・
さあ、どうする。
我慢するのは眠気かくしゃみか、さあさあさあ。



























2014年3月16日日曜日

アンサンブル・アディ

横浜市開港記念会館、国の重要文化財に指定されているこの古い建物は、日本大通り駅のすぐ傍にある。
私たちの音楽仲間のコントラバス奏者の大西雄二さんは、ここで奥様のチェンバロ奏者のますみさんと度々コンサートをひらいている。
どっしりとした建築と古楽器はとても良く似合う。
今日はオーボエ奏者の佐藤亮一さんを交えて「音故知新」と題したテーマでのプログラム。
バッハからバルトークまでの音楽の変遷をたどる、面白い試みだった。
ヨハン・セバスチャン・バッハを3曲。
アダージオBWV156
パルティータ第1番BWV825
ガンバソナタ第1番BWV1027
ヨハン・セバスチャンの息子のエマニュエル・バッハを1曲。
オーボエソナタト短調
ヨハン・セバスチャンとエマニュエルでは作風がとても違い、同時代と思えないほどエマニュエルは斬新な音楽で、私はエマニュエルが大好き。
エマニュエルは、当時とても人気があったというのも、頷ける。
ただし、演奏は難しい。
今日はオーボエソナタを聴かせてもらったけれど、いかにも手の込んだ華やかさがあって、とても魅力的だった。
休憩後は現代に移る。
まずベラ・バルトーク「3つの民謡」
バルトークは手の込んだ変拍子や和声で演奏が難しいこともあるけれど、ハンガリーの田園風景を思わせる素朴な曲で、オーボエの郷愁を帯びた音にとてもマッチして、美しかった。
次はポール・リード「ある風景の物語」
イギリスの作曲家らしい。この曲を聴くのは初めて。
オーボエの高い音で表す、夜明けの厳しいまでの静けさから始まり、鳥の声や日差しの中でおしゃべりする小鳥たちの様子などを、短い曲の連続で表現して居る。
ジェルジ・ラーンキ「ドン・キホーテとドルシネア姫」
ハンガリーの作曲家らしい。
初めて聞いたけれど、民族的な旋律と変拍子で面白かった。
開港記念会館のどっしりとした建物には、古風な音楽が良く似合う。
それでもバルトークのような新しい曲も決して不釣り合いではないのは、楽器の編成がチェンバロ、コントラバス、オーボエという木のぬくもりのある楽器達だから。
オーボエは東洋的で、表情が豊かに出る楽器なので、民族的な音楽は特に似合う。
そこにコントラバスとチェンバロの落ち着いた音が絡まって、この度のプログラムは楽器編成の勝利と言うべきか。
心が安らかになって、素敵な時間を過ごさせてもらった。
あたふたとした日常をすっかり忘れて、瞑想の世界に入り込んだような。
派手で興奮するコンサートもたまには悪くないが、私たちの年代はこうした静かで深い、心の襞に入り込むような音の方がありがたい。
会場で出会った旧友たちと、おしゃべりが出来るのもうれしい。























2014年3月15日土曜日

The Victory of Human Voice

もう一度宣伝ですが、今回私はヴィヴァルディ「海の嵐」のソロを受け持ちます。
テンポの速い爽快な曲です。
誰ですか「そうかい」なんて言った人は。
こういう軽口は育ちの悪い証拠で、私の両親兄弟みんな巫山戯すぎる人達だった。
家庭内では真面目なことを言うとからかわれたものでした。
それで社会に出たとき大分苦労しました。そりゃそうだ、初対面の人にまで冗談言って笑いを取ろうとしていたので、相手を怒らせることも多々あって。
落語が好きで、幼少の頃から聞きまくっていて、そのせいでダジャレはヴァイオリンよりも得意。
だれがそんなヤツの演奏聴くかなんておっしゃらずに、怖い物聞きたさに寄席に・・・ではない、文化会館にお越し頂ければ幸いに存じます。

かつて「The Victory of Human Voice」(題名はうろ覚えですが)というレコードがあった。
それはミセス.ジェンキンスという大富豪の奥さんが歌ったもので、彼女はひどい音痴なのに無類の歌好き。
その音痴の度合いはもう人間離れしているにも関わらず、お金にものを言わせてカーネギーホールでリサイタルを決行。
お客さんはその音痴っぷりに度肝をぬかれて、笑い出したいところだが、何と言っても大富豪夫人なのでそうもいかない。
かくして休憩時間のトイレは爆笑のうずが巻き起こったという。
しかし、夫人のあまりの一生懸命さに心うたれて次第に人気が出てきて、それがレコードになると爆発的に売れたそうなのだ。
私もテープが回ってきたので聴いたことがあるけれど、初めは笑い転げていたが、そのうちなにかジーンときてしまった。
夫人の歌のせいで社会的なダメージを受けたといって夫から離婚されたが、その莫大な慰謝料でなおも歌い続けた。
そのテープを聴いたときは、伴奏者のあまりの上手さに感心した。
どんなに転んでも外れてもピタっとつけていく。
特に鳥の声のまねをするところで、フルートの伴奏者がどんなにジェンキンス夫人がめちゃくちゃでも、ものの見事に付けてしかも吹き出さずに吹く(パラドックスみたいだけど)これは賞賛に値する。
私もトイレに爆笑を巻き起こさないように頑張ります。























2014年3月13日木曜日

ドラマー キャット

前にギターを演奏するワンちゃんを見ましたが、これはドラムを叩く猫。気が済むとプイッと行ってしまうあたりが猫らしい。




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こちらはドラムでなく、単にトイレの掃除早くしろって飼い主にアピールしているものと思います。

2014年3月12日水曜日

猫侍

ネットを見ていたら「猫侍」という映画の宣伝が出てきた。
練習も煮詰まってきて、なにか集中力を欠くので、気晴らしに行ってみるか、ふと思った。
水曜日はレディースデイで1000円で見られる。
そうでなくても1000円で・・・ま、その辺はいいか。
寒くもなく暑くもなく、風も弱い。
マスク、ゴーグル、帽子の花粉対応3種の神器を身にまとい、颯爽とママチャリで出かけた。往復1時間、良い運動になる。
私はいつも通路を上がって行った正面の、一番後ろの席を選ぶ。
いざという時に逃げやすい。
前に席がないから座高の高い人に邪魔されずに見える。
今回もネットで座席指定をしようと思ったら、前日なのに全く座席の予約が入っていない。
もしやこれは、お一人様独占かもしれない。
期待して行ったら、なーんだ、いっぱいじゃないですか。
水曜日はほとんど女性客かと思っていたら、男性も随分多い。
というか、時々フラッと映画を見に行くと、平日の昼間は閑散としていることが多い。
特に男性の姿は少ない。
ところがどうしたことか、今日はかなり男性の姿が見える。

筋書きは他愛もない。
100人切りと言われた浪人者がニヒルに登場。
それに猫好きの親分と犬好きの親分の争い、敵討ちなどがからまってドタバタ、ドタバタ。
でもここに見に来ている誰もが、そんな筋書きを期待してきているワケでは無いことはすぐにわかった。
最初に猫が登場した途端、隣の席の男性が「うふふ」と笑った。
いささか不気味。
でも私も同時に笑ったから、おあいこ。
別にどうという面白みはないのに、猫が登場する度に、客席がどよめく。
結局映画が面白いわけではなく、皆猫を見に来ているのだ。
それでもテレビで見るよりも劇場で見ると数倍面白い。
映画で見ると見慣れた俳優達もとても素敵に見える。
気になったのは玉之丞という名の白猫が、終わりの方になるといつも半睡状態で不機嫌そうな顔をしていること。
もしや、安定剤なんか飲まされていないかと心配した。
チャンバラの最中でもトロンと抱っこされたままは不自然でしょう。
動物を使って映画を撮る時は、随分動物は辛い目に遭うのではないかと思う。
特に犬と違って猫は言うことをきかないから、どうやって撮っているのかな。
玉之丞が出て来る度に、うちのタマサブロウと比べてしまう。
うーん、やっぱりうちのタマはハンサムだ。
うちのタマは日本猫。玉之丞は洋猫ミックス又は純粋洋猫。
江戸時代なのに。
浪人が玉之丞の顔を見ると、猫がウインクをする場面があって、隣のお兄さん大受け。
こんな平日昼間から、猫(の映画)見て喜んでいる若者が居るのが驚きだった。それも大勢。




































2014年3月11日火曜日

incredible!



バセットハウンドが出て来るは、出て来るは!さて全部で何匹?

2014年3月10日月曜日

北川暁子・靖子デュオ

暁子さんと靖子さん姉妹の息の合ったコンサート。
オペラシティー、リサイタルホールにて。

プーランク   ヴァイオリンソナタ
プロコフィエフ ヴァイオリンソナタ第2番
バルトーク   ヴァイオリンソナタ第1番

わくわくする組み合わせの曲目。
何年も一緒に弾いている、しかも姉妹とあって、息が合わなかろうはずがない。
聞いていて少しの破綻もなく、心地よい。
選曲もとても良かった。
靖子さんはここしばらく健康を害したり、お母上のご逝去もあって、少し痩せたけれど、音は以前よりもより明るく響いてボリュームも出ているように思う。
私より少しだけ年下ながら、彼女が頑張っているうちは私も頑張らねばと、思ってしまう。
本当はもう引退して悠然と余生を過ごしたいのに、皆頑張っているので1人だけやめるのは癪。
暁子さんは私と同い年。
学生時代から有名なピアニストで活躍していたから、出発点が違う。
靖子さんはそんなお姉さんをとても尊敬していて、こんな素晴らしいピアニストと常に弾ける幸せを享受している。
お二人とは古くからのお付き合いだが、もっと前には彼女たちのお父様との出会いがあった。
N響のヴァイオリニストであったお父様が、定年を迎えられて東響のエキストラとして来られたのは、私がちょうど東響入団した頃だった。
右も左も分からない私に、オーケストラの先輩として常に温かく助言をくださった。
私もそれを素直に受け止めて一生懸命学ぼうとしたので、すごく教え甲斐があったのだと思う。
大変気に入られて、それが靖子さんとの出会いにもつながったのかと思う。
今でもお父様の優しい笑顔を思い出す。
彼女ともとても親しくなって、仕事もランチも飲み会もよくお付き合いした。
最近もランチの割引券があるけど・・・なんてお誘いされた。

今日の曲目は私はすごく好きな曲ばかりで、しかもとびぬけて難曲揃いなのに、彼女達の手にかかるとそういう印象はない。
二人ともテクニックは素晴らしいし、前にも言ったように息がぴったり合っている。
難しさを感じさせずに弾けるところがすごい!
あんまり良かったのでバルトーク、私も挑戦したくなってきた。
これじゃあ、いつまでもやめられないじゃない。
みなさん、いい加減に休もうとは思わないの?




























拝啓オヤジ殿

電車に座って何気なく正面のご夫婦らしきカップルを見ていた。
隣の奥さんらしき女性との間が少し空いていて、反対側の空席におじさんの腕がはみ出しているので、次に乗ってきた人達はその席を避ける。
満員ではないから何も非難されることはないと思うけれど、それほど太った人でもないからそんなに腕を横にはみ出さなくても良いのになんて、ぼんやり考えていた。
次の駅でスレンダーな若い女性が乗ってきた。
おじさんの隣の席に座ったけれど、おじさんは腕を引っ込めようともしない。
別に痴漢をしようと思っているのでは無いのは十分わかるが、少し奥さんの方に寄ればその女性が気持ち良く座れるのにと、だんだん私の方がむっとしてきた。
要するに鈍なのだ。
間もなくスレンダーさんは立ち上がり出口の方へ向かった。
その時オヤジは急に目を見開いて、上から下まで彼女の後ろ姿をジロジロ見始めた。
あ~あ、これだからいやなんだわ。
男性がきれいな女性を見て喜ぶのは当然のこと。
イタリアなんかに行ったら、この私でさえも礼儀として(?)声をかけられる。
それがちっとも嫌味じゃない。
もっとも、その時は私自身が褒められたわけではなくて、ドレスが素敵だと言われたのだけれど。
オヤジさんが嫌なのは、見ていないふりをして蔭でこそこそ見るからなのだ。
腕を引っ込めないのだって単に気が付かないだけなのか、あわよくば揺れた時に肘が触れたりしないかと期待しているのかどうか、分かった物ではない。
私がジッとおじさんを見ていたら、視線に気が付いた彼はハッとしてこちらを見た。
私と目が会った途端に、ほんとは女性を見ていたのではなく、周りの景色や駅の名前を確認していたふりをして、キョロキョロと視線をさまよわせる。
「んー、今どこの駅なんだ?」みたいな。
後ろ暗い!
オヤジさん、見るならちゃんと見なさい。
きれいな人だと思ったら、まっすぐに見て「あなたはきれい」という表情をしなさい。
お隣の奥さんらしい人も気が付いたように、おじさんの視線を追っていた。
イタリア男のようになれとは言わないけれど、なめ回すように見るのはやめて!
モロ、いやらしさが顔に出る。
元々は静かそうな感じの良いご夫婦だと思っていたのが、このオヤジ殿のお陰で台無し。
視線で思い出したけれど、女子高校の講師に行った人の話。
初めて行った時に校長先生から言われたのは、生徒の目を見ないようにして欲しいということだったそうな。
誰かと目が遇うと問題になるらしい。
で、その人は教えている間中、目を宙に泳がせていた。
次に他の大学に行った時もそうしたら、学生から自分たちの顔を見て話してくれないと不満が出たという。
女子校だって下心ありの目つきと、熱心に教えている目つきは生徒だって分かると思うのに、難しいものですね。
女性、男性の立場と考え方の違いが面白い。
オヤジ殿は女性をまともに見てはいけないと思っていたかも知れないし、非難するのは可哀相なのかな。



























2014年3月9日日曜日

帰って来た加湿器

Y家でのサロンコンサートがあったのは先月の中旬。
乾燥がひどい最中だったので、楽器も乾燥しすぎて調子がわるかった。
キンキンと金属的な音がして弦を変わるとひっくり返る。
まあ、その頃は体調も悪くて熱を出して膀胱炎になったり、脇腹が痛くて胆石をうたがったりしていたから、私自身にも問題はあったと思うけれど、やはり乾燥の影響が大きかった。
加湿器は居住域とレッスン室に一つずつあるのだが、これは去年死んだなっちゃんという猫が鼻炎に苦しんでいたので、なっちゃんのためにおいておいたようなもの。
なっちゃんが死んだので、今は人間用になっている。
サロンコンサートの会場であるYさんのお宅には加湿器がないというので、私の家から運んで持って行った。
コンサートが終ってその日は荷物が多いので、いずれ又といってそのまま預けておいた物が戻ってきた。
今はそれほど乾燥もひどくなくなったので、湿度計を見ながら時々稼働させているが、あれ、なんだか以前家にあったのと違うような・・・ふと思った。
なんだろう、どうしたのかしら。
ジッと見ていたら、そうだ、家にあった時よりもきれいになっている。
私は何も気がつかずにホイホイ運んでしまったが、多分猫の毛や埃がたまっていたと思う。
すぐに持って帰るつもりだったから、ま、良いかって思ったけれど、中の部分が多少汚れていたのは気が付いていた。
今日じっくり見るとどこからどこまで、ピッカピカ。
Y家の有能な家政婦さんがしっかりきれいにしてくれたらしい。
ありがたい。
これからは汚れた物はY家に運んで無理矢理貸し付けて、ピカピカになって返ってくるのを狙おうかしら。
一番最初に自分。
これもピカピカにしてくれるだけの腕がありそうな家政婦さんだから、皆さん、その内私がきれいになることを期待していて下さいな。
私を貸すと言ったら、断られるのは目にみえているけど。
なんの役にも立たない。
うるさい音を出す。(口も出す)
大食い。
これではね。





















2014年3月8日土曜日

着たきりスズメ

おしゃれは好きでクローゼットいっぱい着る物がぶら下がっているのに、毎回同じような服しか着ない。
今ならコーデュロイのパンツにセーター。
ダウンジャケット。
何故かと言うと、組み合わせる物がないくらい変な服ばかりだから。
お店やカタログで変わったデザインの服を見つけると、どうしても欲しくなって買ってしまう。
特にカラフルな物や、素材が混紡でその凸凹具合が面白いとか、
セーターの片方の裾が短かったりすると、なんだか面白い!となってしまう。
特に好きなのはスペインの女流デザイナーの物で、うっかり店に足を踏み入れると数点買ってしまうので困っている。
彼女の服は本当に面白い。
一昨年、バーゲンを覗いたら、くるぶしまである丈のマントを見つけた。
私が着るからくるぶしまで来てしまうのだが、標準的な身長の人ならは脹ら脛くらいの丈になる。
試着したら細部にまで工夫が行き届いたデザインなのですっかり気に入ってしまった。
後先考えずに買う。でも、こんなマントどこへ来ていくのさ。
コンサートに行く時に着よう、素敵な雰囲気だしなどと考えていたけれど、いざコンサートに行く段になるとマントだから手元が寒い。
そうだ長手袋を買おう。
トンチンカンにも真っ赤な長手袋を買った。
いざ着ようと思ったら、まず丈が長いので(私には)電車で行くには駅の階段の上り下りが大変。
すそが絡まってころびそう。
楽器を持っていたら絶対無理だし。
車で行くなら駐車場から会場に入るわずか5分ほどの距離を、わざわざこんな裾引きずり着なくても、軽くて短いコートで十分。
というわけで、このマントは相変わらずブスッとしてクローゼットで出番をまっているけれど、当分と言うより、これから先ずっと日の目を見ないのではないかと思っている。
可哀相だなあ、こんなドジに買われてさ。
そのほか、海外旅行でえらくヒラヒラしたブラウスを買ってきて、現実に戻ったら、私はフリル類が嫌いだったことを思い出した。
唯一着るのは格子柄にフリルがついたシャツ。
これは女性っぽくなくキリッとしているので気に入っている。
花模様とかフリルは好まないので、唯一持っているフリフリ。
海外のヒラヒラしたお土産はしばらくクローゼットにぶら下がっていたけれど、古着屋さんに出して震災の被災地に持って行ってもらった(と思う)。
とても生地が良くて艶があるので、スーツのしたに着たら映えると思う。誰かが着てくれていれば嬉しい。
そんなこんなで、クローゼットには不思議な組み合わせのきかない服がいっぱい。
絹とアルパカの長いコートは数回着ただけで、お人形作りのノンちゃんの手で、被災地の子供達に上げるぬいぐるみに変身した。
ピンクのレザーのコートは1回着ただけで、猫の爪で引き裂かれてしまった。
勿体ない!どれだけ無駄遣いをしてきたことか。
そして毎日私はカジュアルなチノパンとシャツかセーター、毎日着たきりスズメ。これが一番気楽。
大体、体型が不細工だからあまり突飛なデザインは似合うわけがない。
楽しいデザインに対して敬意を表すために買っていると思えば、惜しくはないかな。
そんなにお金持ちでもないのにねえ。




































2014年3月6日木曜日

この写真

毎朝パソコンを開いてまず見るのがねこがいかん!
そしてこの写真を見てドッとうけるのがお決まり。
何回見てもおかしくて、きもかわ。

こんな変わった猫が暗闇からヌッと出てきたら、思わずキャーッと言ってしまいそうな気がする。
これは先日投稿したLykoi(狼猫)です。
こんな種類の猫と知らなければ、病気かなにかと思ってしまいそうですね。

2014年3月5日水曜日

ユダヤ人のヴィブラート

高梨沙羅さん。
オリンピックで惜しくも4位。
まさかの4位。
周りも自分もそう思ったに違いないが、私はすごい。世界で4番目!なんて思った。
キリッとした態度だったけれど、顔は半べそ。
目がうるうる。
リベンジにワールドカップで優勝した。
堂々たる大ジャンプだった。
ちらし寿司リベンジなんて言っているどこかの食いしんぼとは大違いだなあ。
こういう人を見ていると、一体どこの出来が違うのか、考えてしまう。
生まれつきの才能と、努力を厭わない性格、勿論周りの環境も揃ってこそ、ここまでの栄誉を勝ち取れたのだが。
平凡な我々と非凡な天才の間の線引きは、どの辺にあるのかしら。
私がたとえ努力したところで、天才にはなれない。
最近you tubeで発見したのは、アインシュタインのヴァイオリン演奏。
これは本当に彼が弾いているの?と一瞬疑ってしまうほど上手い。(動画はない。彼の写真のみ)
モーッァルトは音符は簡単、音楽は難しい。
そのモーッァルトのソナタをアインシュタインが演奏している。
大家の風格、正確な音程、妙なる音楽、これではプロは真っ青。
本当にアインシュタインが弾いているのだろうか。
ああ、だったら、いやになっちゃうなあ。
こんなすごい弓の使い方されたら、私はもう演奏家でございなんて偉そうにしていられない。
世界中の優れたヴァイオリニストを見ると、たいていユダヤ人。
どうしてかは知らないが、飛び抜けた才能が遺伝子に組み込まれているらしい。
以前ハイフェッツのすごい映像を見たことがある。
ヴィニアフスキーの「スケルツオ・タランテラ」という曲をスローモーションで見せている。
この曲は初めから終わりまで速いパッセージが続く。
なぜなら毒蜘蛛に刺されて、狂ったように踊る様子を描いてあるのだから。
その速い指遣いの最中でも、細かいヴィブラートが全部の音にかかっているのだ。
始めて見た時は自分の目を疑った。
こんな速く指を動かして、それにヴィブラートがかけられるのが信じられなかった。
それはユダヤ人のヴィブラートなのだそうで、それがユダヤ人独特の音色を作っていくらしい。
ガラミアンという有名な先生がいて、その方に習った人のお兄さんからの又聞きだけど、手首から先の力を完全に抜いて腕の上の方に注意を集中して動かす。
その時、手首から先がまったく脱力していれば、指を動かしていてもヴィブラートはかけられる・・・という理屈。
時々思い出した様に練習してみる。
しかし、指を速く動かすとヴィブラートは止まってしまう。
時々出来ることもある。でも、持続しない。
脱力がまだまだなんですね。



























2014年3月4日火曜日

ドヴォルザーク・チェロ協奏曲

you tubeのチャンネル登録をしてあるので、今朝はどっと動画が送られてきて、その中にロストロポーヴィッチの弾いているドヴォルザークのチェロ協奏曲が沢山入っていた。
彼の演奏を聴いたのはN響の定期演奏会で、今は化け猫になってしまった私も当時は若かった。
映像を見ると、いるはいるは、知り合いだらけ。
チェロの徳永さんが弾いているので、かなり前のものと思われる。指揮は小澤征爾。
たぶん、このときの演奏は私も客席で聴いたような。
ロストロポーヴィッチの最弱音の美しさには、失神しそうだった。
ドヴォルザークの曲は数あれど、この曲ほど美しいものはないと、私的には思っている。
チェロという楽器は人間の肉声に近い。
どうしてあんな風に出来るのかと思うほど、チェロ弾きは上手く歌う。
そして数多いチェリストの中でも、ロストロポーヴィッチを越えるほどのチェリストは、聴いたことがない。
今時の若いチェリストは目を見張るほど上手い。
どんな曲でも軽々と弾きこなす。
それでもたぶん、ロストロポーヴィッチの前にでたら、大人と赤ちゃんくらいの差はある。
動画を見ていたら勃然とこの曲が弾きたくなった。
楽譜はヴィオラ用に編曲した物がある。
一度弾いてみたいと思って、買っておいたものが。
今月の27日に協奏曲のソロを弾くので、その練習に没頭していたけれど、時々急に脇に逸れたくなるのが悪い癖で、たぶん重圧から逃れたいという心理なのか。
この際ヴィオラなぞ弾いたら、やはりヴァイオリンとは技術的に少し違うので、ヴァイオリンに影響が出るかもしれないのを重々承知の上で。
今日はもうドヴォルザークに気分が行ってしまったので、これからヴィオラを弾こうと思う。
今日だけちょっとだけ、ヴァイオリンちゃん許して。























2014年3月3日月曜日

バラチラシ寿司リベンジ

ロンドンアンサンブルのピアニストの美智子さんが間もなく帰国するので、最後にお気に入りの寿司やに集まった。
私がロンドンに行った時に一緒だった美里さん、コツウオルズで遊んだときに通訳兼案内役で来てくれた、まりさん。美智子さんと美里さんは学校の先輩後輩、まりさんは子供のころ美智子さんにピアノを習っていて、ロンドンに留学経験あり。
私はいつものように、いつの間にかそこに居る人。
今日行った寿司やはそんなに高級なお店でないけれど、とても美味しい。
ロンドンアンサンブルのリチャードもタマーシュもトーマスも、お寿司大好きだから、このお店の常連。
それに、これが一番大事なところなのは、貧乏音楽家にとってはありがたいことに値段が安い。
お寿司は大好物だけど、ちょっと敷居の高そうなお店に入るのは勇気がいる。
しかもそんな寿司やに限って食べ方に小うるさい。
以前友人に連れて行かれたお薦めのお店、職人がダルで「おれはこんなことしたくないのに」みたいなことばかり言う。
とても美味しかったのに、憂鬱になって食欲が失せて、沢山食べられなくて残念だった。
富山に年に数回仕事に行っていた頃、東京から移住したという寿司職人、「富山に来たら水がいい、米がいい、魚がいい、しかも家の障子を開けると目の前に立山が見えるんですよ。寿司や冥利に尽きます」と本当に幸せそうに言った。
彼の握るお寿司はシャリの大きさも堅さも、名人級だった。
残念なことに亡くなってしまったけれど、仕事場の呉羽からせっせと通ったものだった。
もうこれ以上入らないというくらい食べて、べろんべろんに酔っ払っても5000円を超えることはなかった。
相手もこんな貧しそうな連中から、お金を取るのは可哀相と思ったのかもしれない。
八幡平で夏スキーをした帰り道、盛岡でよく入ったお店は、ウニ、イクラ、アワビなど食べて呑んでも、3000円!
初めはだれかと間違えたのかと思ったけれど、いつ行っても同じ値段だったので、うれしい。
最近数年行ってないので、値上がりしたかもしれない。
盛岡と言えば仕事が終って繰り出したメンバーたち。
とある居酒屋で、ドンコのからあげという料理を見つけた私が食べたいというと、メニューには時価と書いてある。
全員がそれを見て、シーンとしたのがおかしかった。
貧乏ガクタイは時価なんてものには手が出せない。
考え込んだあげく、清水の舞台から飛び降りる覚悟で頼んだ。
私はドンコは椎茸かと思っていたら、大きな魚が一匹、唐揚げで出てきたのにびっくり。
ドンコはこちらではごくポピュラーな魚らしい。
美味しかったし、嬉しいことに思ったほど高価ではなく、獲れた魚の大きさ次第で値段が決まるらしい。
時々、あのシーンとした状況を思い出して笑っている。
話を寿司に戻すと、先日某家でごちそうになった時、私は具合が悪くて最後に出たバラチラシ寿司がどうしても食べられない。
皆が美味しいからと勧めてくれたのに、とうとう手つかずで帰って来てしまった。
悔しいので来週、そこの寿司やへ友人と一緒に行くことにした。
ぜったいバラチラシ寿司食べるぞ~。
友人の家も近いし、私のその日の仕事場にも近い。
一挙両得、猫に寿司。


















2014年3月1日土曜日

甘やかさないで

歳をとってみてよく分かったことは、自分で元気になっていかないと、どんどんダメになっていくということ。
歳をとって、まわりに思い遣りのある人や家族がいて甘やかされると、それに乗じてつい楽する方に走ってしまう。
そうすると、どんどん機能が衰えていく。
私は自分で自分を甘やかし放題だから、他人から刺激されることがなければ、どんどんナマケモノになっていく。
幸いなことに私の周りには年上の人達がまだ頑張っているから、その姿を見てなんとか頑張る。
それと若い人達が周りにいるのが幸いしている。
彼らの前では背筋を伸ばして、お手本になるような生き方をしなければいけない。
先生と呼ばれるのは好きではない。
ただ先に生まれて、先に技術を習得して、それを伝えるだけの仕事だけれど、やはり言うことを聞いて学んでもらうためには、それなりの尊敬を勝ち取らねばならない。
きちんとした物がなければ伝えることは出来ない。
どんどん技術が良くなっているのに、旧態依然とした技術しか伝えられなければ、先生とは呼ばれない。
年上というだけで、尊敬しろと言うのは無理がある。
体が弱ければ話は別だが、今時の年配者は皆すごく元気で、むしろ働き盛りの中年族が仕事のしすぎで疲れている。
時々電車で席を譲られるとせっかくだから座るけど、なんだか気の毒で落ち着かない。
歳をとれば体は劣化するのは当たり前。
それでも心がけ次第である程度の水準は保てるように努力している。
筋トレもその一つ。
歩くときにもダラダラ歩かず、できる限りの早足で歩く。
なるべく人と話す。
猫との対話もいいけれど、ちょっと猫語が不自由なのでなかなか会話が成り立たない。
少し難しいことに挑戦する。
時々リズムの難しい新しい曲を練習する。
この年で今更なんて言わない。
重い荷物も手に負担がかかりすぎなければ、自分で持つ。
先日若者達とスキーに行ったときに、親切な人達ばかりだから荷物を持ってくれようとする。
それはお断りした。
自分で荷物が持てなかったら、もうスキーは出来ないと思わないといけない。
旅行もツアーでなく、なるべくなら自分で計画して行く。
チベットに行った時は一人でガイドを雇って旅をした。
ツアーで行った旅行は殆ど覚えていないが、個人で行くと緊張しているから、記憶も鮮明。
パソコンの師匠もビシバシと新しいことを仕込んでくれる。
私1人だったらこんなブログ一つ出来なかっただろう。
どんどん課題を与えられて、ここまでパソコンを楽しむ事が出来るようになった。
新しいことに挑戦するのが大好きなので、いつもわくわくしていられる。
未だに人前で演奏しているのもアンチエイジングの最たるもの。
この刺激はどんな薬も運動も及ばない。
ステージで自分が演奏しているのを、数百人の人達が見て聞いているのは、激しく緊張するけれど、この上ない幸せでもある。
早く仕事を放り出して楽して遊びたいと夢見ているのに、いざそうなったらぼんやりして一気に老け込んでしまうか、その反対に蘇るか、どちらかしら。
緊張が解けて胃や腸がすっかり楽になって、お肌スベスベなんてことを夢見ているのだが・・・