2023年9月9日土曜日

どうしてこうなるの?

 先日飲んだコーヒーの味が忘れられなくて、ここ3日間ほど飲んでいないのでますます飲みたくなり最後には渇望感に襲われた。ちょうどコーヒー豆を切らしていたのでどこぞに紛れ込んでいないかと探したら、あった!少し古くなっているけれどまだ封を切っていないから大丈夫、ミルも使われなくなってから所在なさげにぽつんと台所の片隅に立っていた。カリタの濾紙もまだ存在している、これでコーヒーを淹れられる。コーヒーミルは古いコーヒーのカスがついていたのできれいにしてお湯を沸かし始めた。

すっかり準備ができた・・・。しかし、さっきまでちゃんと存在したコーヒーの袋が消えていた。なんで?今までその辺にあったのに。雑然としたテーブルの上を探す。テレビのリモコンや眼鏡のケース、エアコンのリモコン、手紙の山、領収書の類、文房具などが山になっているけれどその中にはない。

まさかと思うけれど寝室、トイレ、風呂場、パソコン周辺・・・ない。レッスン室にヴァイオリンと一緒に持っていくことは考えられないけれど、でも私のことだからもしやと行ってみる。しかし消えてしまった。

お湯が先に沸き始めてしまった。猫の餌をやりに出たときに一緒に持っていったかとおもい駐車場まで探しに行く。まさかねえ。

喉をかきむしりたくなるほどコーヒーが飲みたくなったので台風の影響で雨脚が強くなっていたけれど、傘をさしてドトールまで買いに行った。豆を買ったついでに店内でコーヒーを飲んだけれど、ドトールさんには申し訳ないけれど、あのコーヒーとは勝負できない。と言っても私が淹れたコーヒーがドトールより美味しいとは思えないけれど、少なくとももう少し濃い目にはできる。昨日飲んだコーヒーはすごく濃いのに苦味が少なくなんとも言えない風味があった。よほど良い豆かブレンドの妙かも。私が淹れたら単に苦いだけの代物になるに決まっているけれどでも試みてみたかった。

普段はドトールのコーヒーが好きで、あの濃くも薄くもなくスッキリした呑み口が無難に美味しく感じていたのだが、あまりにも美味しいものを飲んでしまったので当分は自分でしっかりと淹れてみようと思った。色々試してみようと。家に帰ってからも、どうしても納得行かない。さっきのコーヒー豆は本当にどこに消えてしまったのか。新しいコーヒー豆を眺めても封を切る気になれない。

洗濯機の中にもないから絶望的なことはわかっている。それでもしつこく探す。なんてこったパンナコッタ。信じられない。翌日早朝に目覚めたけれど買ってきた豆をミルでひくのは大きな音がするので集合住宅では差し控えておこう。じっと夜明けを待つ。

最近は北軽井沢に行くと逗留する日にちが長くなってきた。うちの野良たちはその間他に保険をかけている家に行って餌をもらって生き延びている。かなりのお宅にお世話になっているらしくうちの餌場に来る頃にはもうお腹いっぱい。ゲップでもしそうなほどなのに、それでも出されたものは残さず食べる。先日も少し長めの留守のあと帰宅したら、いつも白黒模様のメス猫とカップルで現れるオス猫が何日も来ないので心配になった。縞トラの立派なオス猫と白黒のメス猫は兄弟だと先日近所の人から聞いたばかり。なにかアクシデントがあったのではと心配して近所を探し歩いた。

名前はグレ、多分グレーだから?「グレ、グレ、グレちゃーん」猫なで声でそこかしこ探し回っても反応なし。でも私の声はちゃんと聞こえていたらしい。しばらくするとひょいと家の玄関に現れた。「さあ、撫でたまえ」と言わんばかりにごろりと地面にひっくり返ってニコニコしてこちらを見ている。

コーヒー豆も呼んで出てくるようなら世話はない。家の鍵もパスモカードも診察券もあれもこれも・・・






2023年9月6日水曜日

忘れていた珈琲の味

 今年は暑さが厳しい上に雨が多かった。楽器にも人にも厳しい日々、雨がふるところは土砂降り、雨がほしい新潟などの米どころには降らない。天空の神様、雷様のなんと意地の悪い年だったことか。夏の厳しさは人だけでなく猫にも楽器にも悪影響があった。

私のヴァイオリンは楽器の胴体をぐるりと巡っているパフリングというところが湿気で剥がれて、鼻詰まりの音。独特の音色が多くのファンを引き付けるミラノの制作者によって今から300年以上前に作られたものだが、今年はそれが嘘のように響かない。はみ出したパフリングは行きつけのヴァイオリン工房で元の溝に押し込んでもらったものの、少し時間が経てば本来の音が出るはずが絶望的に鳴り始めない。今月28日は古典音楽協会の定期演奏会。ほんの少しだがヴィヴァルディの「4つのヴァイオリンの協奏曲」のセカンドのソロがある。

一人だけ変な音で弾くわけにいかないから楽器の調整に行った。世田谷のTさんの工房は世田谷駅すぐそば、電車で行くと面倒なので必ず車で行く。駅近くの駐車場に空きがあったので停めて、少し時間が早いからどこかでお茶でも・・・と見回すと道の反対側にカフェらしき店。しかし外観はごちゃごちゃ、看板にやっと読めるのはカフェの文字。どこが入り口かも判然としない。何年も通っているのにそんなところにカフェがあるとは知らなかった。道路を横切ってしばらく店を眺めて入るかどうか逡巡っていた。中を覗けば客はおろか店員すらいない。しかしこうなると面白がってしまい、たいてい酷い目に合う私の性癖が頭をもたげてくる。

店に入ってすぐのところにケーキのショーケース、なんだ普通のお店じゃん。奥まで入っても人がいない。店内はごちゃごちゃと乱雑に本や酒瓶やキャラクターものの人形などなどが所狭しと置いてある。かかっているBGMは、1900年代初期から半ば頃の懐かしいアメリカの曲。何回か声をかけるが返事がない。まるで漱石の「道草」だね。鶏はいなかったけど。数回目にやっと奥の方から人が出てきた。ぶっきらぼうに「コーヒーをください」というとあちらも簡単に「はい」と言う。

ほんの少し待たされて冷えたグラスになみなみと注がれた水、そしてすぐにコーヒーがきれいな白地に緑のカップで出てきたときには、店の乱雑さとは裏腹の光景に驚きと嬉しさを感じた。そのコーヒーたるや!最近とんとお目にかかれないほど濃厚な香り。香りといっても私は嗅覚障害だから想像するだにといったところ。一口飲んで唸りそうになった。ワーオ!これは本物だ。たっぷりとカップに満たされたものを飲んでも飲んでも飽きない旨さ。最後の一滴まで飲み干してため息が出た。最近私が飲んでいるコーヒーと称するものは何だったの?あの薄い液体は。

ヴァイオリン工房ではサクサクと調整が終わり、元の響きが戻ってきた。これでしばらく弾き込めばおじいさんヴァイオリンも艶のある音に戻る手応え。そしてそのコーヒー の店の話をすると、すでにここのお客さんたちに好評を博しているらしい。Tさんによれば、楽器の調整待ちのお客さんがわざわざその時間にその店にコーヒーを飲みにいくそうなのだ。楽器の調整は私は少ししか時間をかけないけれど、うるさい人は長時間かかけるときもある。なんだ知らぬは私ばかりなりかあ。そう言っている間にもコーヒーの後味は舌の上に 豊かな痕跡を残している。帰りの車の中でも。家について夕飯を食べるのが惜しいほど。

昔は私もちゃんとミルで轢いたばかりのコーヒーを飲んでいた。いつからか自販機やコンビニなどの味に慣れてしまった。気分転換になるからコーヒーは私達の生活に定着、簡単にすぐ飲めるのはありがたいと思うようになっていった。しかし今日からその態度は改めよう。

去年、今年とあまりにも事件が多すぎて自分を失っていた。残り少ない人生を適当に過ごすのは時間の無駄。実は最近美味しいコーヒーに飢えていた。確かにあったと思うコーヒーミルを探したらあることはあったけれど、もう使う気にはなれない。毎日コーヒー店に飲みに行っていた。おそらく気分転換と足の運動にしかならない行為だった。最近日本の茶道にも気持ちを惹かれる。嗅覚障害は茶類には致命的だったけれど、ある時東銀座の紅茶専門店に入ったとき、あまりの香りの違いにびっくりしたのは驚きだった。私に香りの違いがわかる!

それなら何がいけなかったのか。はじめから自分で拒絶していたのかもしれない。カフェを出るときに思わず「コーヒー美味しかったです」言わずにはいられなかった。ちゃんとした音を出すにはそれなりの時間と努力がいる。美味しいコーヒーを淹れるにも同じことが必要だと思う。

人に対するときも同じだけれど、このところそれには失敗している。あるいは大きな転換期に差し掛かっているのかもしれない。非常に寂しいので受け入れる覚悟はまだできない。しかし間もなくそうしなければならないことはわかっている。それでも今まで自分の歩んだ道を否定するようなことは避けたい。晩節を汚して平気でいるような人は、元々りんごの芯が腐っているように人の芯が腐っているのだろう。身近な人がそういう人だったことを発見したときに、私の幸福感は消え去った。見抜けなかった自分が悔しい。






2023年9月5日火曜日

北軽井沢は合宿のメッカ

後期高齢者アンサンブルの合宿のあとの北軽井沢に今度は若手が集まってきた。音楽教室の弦楽アンサンブルの合宿。もうすぐ発表会なので練習にも熱が入る。このアンサンブルも結成されて何年になるのか記憶にないけれど、着々と実力をつけ始めてきた。はじめの頃は最初の音が出るたびに「この世のものとも思えない」という私の酷評を浴びせられていた彼らがハモり始めているではないか! 

最初の頃はハモるということが音程だけでなく音色やバランスも必要ということを理解していなかったらしい。ギャアギャア、またはキャアキャアなどと大きな音さえ出て最初と最後が一緒であれば出来上がりだと思っていたらしい彼らが、最近はドキッとするほどハモることがある。偶然か必然かは定かでないけれど。

今回の曲は弦楽合奏のための曲ではなくモーツァルトのシンフォニー29番、音楽教室の管楽器の講師が充実してきたからかもしれない。このアンサンブルはメンバーの独立王国だから、講師も教室スタッフもメンバーの決めたことに口は出さない。最近は弦楽器だけでもチャイコフスキーやドヴォルザークの弦楽セレナードも弾いてのけるようになったのは目覚ましい進歩と言える。しかも「この世のものとも思われない」音もめっきり減ってきて時々私が目をうるませるほどの音が出るようになって、それは彼らが意識したからか無意識でたまたまそうなったのかはわからないけれど、とにかく偶にでも嬉しい。

珍しく褒めたら「先生優しくなった」と言われた。歳をとって優しくなったと言いたいのだろうけれど、時には彼らの努力も認めておかないと暗殺されかねない。私はそんなに怖い教師ではないとは思うけれどしつこいことは確か。ある人に他の先生は注意はなさるけどそこまでしつこくはない。けれど先生(私)はできるまでやらせると言われたことがある。楽器の演奏は一朝一夕にできることは考えられないから毎回のレッスンで口を酸っぱくして教えているうちに2、30年くらいは通ってきてくれる。それでもまだしつこく同じことを言われてよく倦きもしないで来てくれるものだと感心している。

先週土曜日、北軽井沢ミュージック・ホールに集まったメンバー。それぞれ働き盛りの社会人たちだから忙しいと思うのにこんな僻地までようこそ!車やバス、新幹線などそれぞれの手段で集まってくる。ここ数年コロナ感染のおかげで散々な目にあった。町役場の公共の施設を借りようとすると地元民でないと貸せないとか言われて私が激怒したり、せっかく結婚したカップルが参加するのでケーキや軽いイヴェントを用意したのがおじゃんになったり、不快なことが続いたのに、今年もニコニコと参加してくれるのが嬉しい。しかも数年前に転勤で名古屋に行ってしまった人もメンバーに戻ってきた。合宿には参加しなかったけれど、来年はしっかり発表会のステージに立つと思う。

練習後メンバーたちは一旦ホテルに帰ってから近所の食堂で夕食を一緒にとった。食後は我が家の狭いリビングでひしめき合って軽く飲んだり楽器を弾いたり・・・森の中の家は夜中まで弾いても聞こえない。最近私は夜中にヴァイオリンの練習をする習慣になってしまった。夜の静寂に響く奇っ怪な音、そのうち探検隊が来るかも。女性のメンバーたちは早めに宿へ引き上げ、残ったのは長年私が個人レッスンをしていた人たち。優秀な彼らの一人はこの音楽教室で目覚ましい進歩を遂げて、私がやめたあともどんどん難しい曲に挑戦、いまやシベリウスのヴァイオリン協奏曲を発表会で弾くというから驚いた。しかも発表会の直前に中国や韓国に出張が続いているというから仕事の面でも大活躍なのだ。すごいなあ。飲み終えると楽しげに真っ暗な森の中をホテルまで歩いて帰っていった。

二日目はメンバーが多少入れ替わったのでヴィオラがいなくなってしまった。それで私がコンサートマスターが持ってきたヴィオラを弾く羽目になった。コンマスは身長はたぶん180センチを超えるかと思える。私はたったの140センチ。彼の巨大なヴィオラを借りたら指が届かないところが続出。それより顎にも挟めない。呼吸困難になりながら数回やっと弾いたけれどすぐにギブアップした。しかし楽譜はまだ読めるんだ。そのことで少し安心した。

二日目の練習所は長野原町役場の多目的室。北軽井沢から車で30分ほどの距離があるので設備は良いけれどあつまるのは大変のはずだったけれど、気持ちの良い空気、明るい日差しで皆嬉しそうだった。2日の合宿が終わって、来年はこの合宿ができるか私は自信がないけれど、メンバーがすっかり定着して和気あいあいとしている様子が彼らの音に対する進歩と相まって、今後もずっと進化していけると信じている。

モーツァルトは他のどの作曲家よりも難しい。なぜなら音は単純でハッタリやごまかしが効かないから。純粋に必要な音しか使っていないから、どの音が外れてもバランスが崩れてもすぐに和声に影響してしまう。今までの練習の成果が問われる節目の時期かもしれない。モーツァルトで成功したら彼らの水準がぐんと上がるきっかけになるから、今回は特に真剣なステージとなるかもしれない。私を嬉し泣きさせるか憤死させるかは彼らの覚悟にかかっている。