2023年9月6日水曜日

忘れていた珈琲の味

 今年は暑さが厳しい上に雨が多かった。楽器にも人にも厳しい日々、雨がふるところは土砂降り、雨がほしい新潟などの米どころには降らない。天空の神様、雷様のなんと意地の悪い年だったことか。夏の厳しさは人だけでなく猫にも楽器にも悪影響があった。

私のヴァイオリンは楽器の胴体をぐるりと巡っているパフリングというところが湿気で剥がれて、鼻詰まりの音。独特の音色が多くのファンを引き付けるミラノの制作者によって今から300年以上前に作られたものだが、今年はそれが嘘のように響かない。はみ出したパフリングは行きつけのヴァイオリン工房で元の溝に押し込んでもらったものの、少し時間が経てば本来の音が出るはずが絶望的に鳴り始めない。今月28日は古典音楽協会の定期演奏会。ほんの少しだがヴィヴァルディの「4つのヴァイオリンの協奏曲」のセカンドのソロがある。

一人だけ変な音で弾くわけにいかないから楽器の調整に行った。世田谷のTさんの工房は世田谷駅すぐそば、電車で行くと面倒なので必ず車で行く。駅近くの駐車場に空きがあったので停めて、少し時間が早いからどこかでお茶でも・・・と見回すと道の反対側にカフェらしき店。しかし外観はごちゃごちゃ、看板にやっと読めるのはカフェの文字。どこが入り口かも判然としない。何年も通っているのにそんなところにカフェがあるとは知らなかった。道路を横切ってしばらく店を眺めて入るかどうか逡巡っていた。中を覗けば客はおろか店員すらいない。しかしこうなると面白がってしまい、たいてい酷い目に合う私の性癖が頭をもたげてくる。

店に入ってすぐのところにケーキのショーケース、なんだ普通のお店じゃん。奥まで入っても人がいない。店内はごちゃごちゃと乱雑に本や酒瓶やキャラクターものの人形などなどが所狭しと置いてある。かかっているBGMは、1900年代初期から半ば頃の懐かしいアメリカの曲。何回か声をかけるが返事がない。まるで漱石の「道草」だね。鶏はいなかったけど。数回目にやっと奥の方から人が出てきた。ぶっきらぼうに「コーヒーをください」というとあちらも簡単に「はい」と言う。

ほんの少し待たされて冷えたグラスになみなみと注がれた水、そしてすぐにコーヒーがきれいな白地に緑のカップで出てきたときには、店の乱雑さとは裏腹の光景に驚きと嬉しさを感じた。そのコーヒーたるや!最近とんとお目にかかれないほど濃厚な香り。香りといっても私は嗅覚障害だから想像するだにといったところ。一口飲んで唸りそうになった。ワーオ!これは本物だ。たっぷりとカップに満たされたものを飲んでも飲んでも飽きない旨さ。最後の一滴まで飲み干してため息が出た。最近私が飲んでいるコーヒーと称するものは何だったの?あの薄い液体は。

ヴァイオリン工房ではサクサクと調整が終わり、元の響きが戻ってきた。これでしばらく弾き込めばおじいさんヴァイオリンも艶のある音に戻る手応え。そしてそのコーヒー の店の話をすると、すでにここのお客さんたちに好評を博しているらしい。Tさんによれば、楽器の調整待ちのお客さんがわざわざその時間にその店にコーヒーを飲みにいくそうなのだ。楽器の調整は私は少ししか時間をかけないけれど、うるさい人は長時間かかけるときもある。なんだ知らぬは私ばかりなりかあ。そう言っている間にもコーヒーの後味は舌の上に 豊かな痕跡を残している。帰りの車の中でも。家について夕飯を食べるのが惜しいほど。

昔は私もちゃんとミルで轢いたばかりのコーヒーを飲んでいた。いつからか自販機やコンビニなどの味に慣れてしまった。気分転換になるからコーヒーは私達の生活に定着、簡単にすぐ飲めるのはありがたいと思うようになっていった。しかし今日からその態度は改めよう。

去年、今年とあまりにも事件が多すぎて自分を失っていた。残り少ない人生を適当に過ごすのは時間の無駄。実は最近美味しいコーヒーに飢えていた。確かにあったと思うコーヒーミルを探したらあることはあったけれど、もう使う気にはなれない。毎日コーヒー店に飲みに行っていた。おそらく気分転換と足の運動にしかならない行為だった。最近日本の茶道にも気持ちを惹かれる。嗅覚障害は茶類には致命的だったけれど、ある時東銀座の紅茶専門店に入ったとき、あまりの香りの違いにびっくりしたのは驚きだった。私に香りの違いがわかる!

それなら何がいけなかったのか。はじめから自分で拒絶していたのかもしれない。カフェを出るときに思わず「コーヒー美味しかったです」言わずにはいられなかった。ちゃんとした音を出すにはそれなりの時間と努力がいる。美味しいコーヒーを淹れるにも同じことが必要だと思う。

人に対するときも同じだけれど、このところそれには失敗している。あるいは大きな転換期に差し掛かっているのかもしれない。非常に寂しいので受け入れる覚悟はまだできない。しかし間もなくそうしなければならないことはわかっている。それでも今まで自分の歩んだ道を否定するようなことは避けたい。晩節を汚して平気でいるような人は、元々りんごの芯が腐っているように人の芯が腐っているのだろう。身近な人がそういう人だったことを発見したときに、私の幸福感は消え去った。見抜けなかった自分が悔しい。






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