2023年11月24日金曜日

今日もまた

同級生たちとの「鱒」はとても楽しかった。老後にこんな良い時間が持てるとは夢にも思わなかった。少し時代が前ならもう楽器は弾けないで 施設に入るという年回り。健康年齢が伸びたのか、もの好きが増えたからなのか、私の仲良したちは一向に演奏をやめない。昔むかし、私がオーケストラに入団したときには40歳以上の人は引退寸前だった。大抵の人は50代にも届かずやめていった。それで私はヴァイオリンはそれ以上の年齢を待たないでやめるものだと思っていた。

それが今やほとんどの友人たちも未だに現役!大したものだ。

数日前の「鱒」の次は我が家のホームコンサートでの演奏。メンバーはガラッと変わっていつも明るいおばんグループ。平均年齢は数日前とほとんど変わらず。大きなコントラバスがのっしのっしと家の階段を登ってくる気配がすると、これが登れるのはあと何年かと数えてしまう。コンバス用にエレベーターをつけたいのだが設置場所が2メートル四方必要というので、しかも値段が少々お高いからウーン、考えてしまう。

今回の集まりに私の兄に声をかけたら「僕は今ぎっくり腰で動けないんだよ」歩くだけならいいけど階段が登れないというのでいよいよ早急に考えないといけなくなった。階段につけるリフトがあるとか。調べてみようかと思うけれど、すぐには行動せずこの先数年はかかると思うので殆ど諦めの境地。早く調べれば?と思うでしょうが、私がそういう性格ならもう20年も前に設置しているさ。

開演前に怖いもの見たさの人たちが続々と集まってきた。お化け屋敷に来た心境では?今回はほとんど声をかけなかったのに、なんだかあっという間に我が家の狭いスタジオは満杯になってしまった。集まってくださったのはありがたいけれど、まだ予断を許さないコロナ、インフルエンザ、肺炎などなどが恐ろしい。

前日まですったもんだした練習、さて無事に最後までいけるかどうかお慰み。可哀想なのはこの人たちでござい!にならなければいいけれど。一曲めのボーン・ウイリアムスの5重奏曲は一応うまく行ったということにしておきましょう。だれもほとんど聴いたことのない曲だから。

昔当時の東響のコンサートマスターの鳩山寛さんがコンサートのメンバー紹介で私のことをこうおっしゃった。「この人はステージで何が起きても大丈夫な人です」と。火事場の馬鹿力がすごいと言いたいらしい。演奏に混乱が生じたとき慌てる人が多いけれど、私は逆に冷静になる。なんとか活路を見出そうと面白がってゲーム感覚になって出口を見つける。ひょいと元の位置に収まって何食わぬ態度で終わる。図々しいのもあるけれど、その混乱を楽しむ性格でもある。たいてい聞いている人には分からないで終わる。

今回も初めて弾く曲でまだ練習途上、混乱が数回あったけれど何もなく終われた。とまあ、こんな裏話をしてしまうと信用なくすけれど、これもテクニックのうち。どこで行き違いを修正できるかというので目まぐるしく脳みそが動く。律儀な人だとそうはいかない。自分の持ち場をしっかりと貫いてしまうので、なかなか修正できず破綻することも。

昔ドボルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」のセカンドヴァイオリンを弾いていたらファーストヴァイオリンが1小節早く出てしまったことがあった。気がついたチェロと私はすぐにファーストヴァイオリンに合わせて1小節飛ばして先へ、ヴィオラ奏者だけ何も気がつかずゆうゆうと元の譜面にかじりついて弾いていた。音が濁っているにもかかわらず。さあどうするかなと思っていたらおしまいの方でやっと気がついて慌てていた。こういうところがヴィオラ弾きの面白いところ。私にヴィオラ弾きの友人が多いのも私がヴィオラを弾くのが好きなのもおわかりでしょう?なに、わからない?あなた人生の面白みを知らず損していますよ。

というわけで第一回ホームコンサートは盛況のうちに和気あいあいと終わった。私達はなんとか練習の成果を聴いてもらえたし、聞いてくださった方の中には「かつてのサロンで聞くようでしあわせ、シューベルトの時代でも同じだったのでは」うれしいコメントがあったとか。演奏の良し悪しはともかくとしてと後書きはなかったのかな?















2023年11月22日水曜日

60年後

 川越に近い埼玉県の某所ホールに集まった4人。

お互い仕事で様々な場所で遭遇する事はあっても各自違うオーケストラのメンバーだったから、すれ違いざまにやあやあと言って立ち話もせずに分かれるようなお付き合い。特に元都響のチェロ奏者のMさんとは久しぶりの対面だった。ヴィオラのKさんとはアンサンブルで割合に頻繁にあってはいるけれど、コントラバスのIさんに至ってはお顔は見たことがある程度。それでも初対面であろうと楽器を弾き始めたら古いも新しいもない仲間となってしまう。特に元都響のMさんと元N響のKさんとは高校時代から大学卒業まで一緒にカルテットと弦楽合奏団を組んでいた懐かしい思い出がある。

芸術祭には色々な仲間と組んであちらこちらに首を突っ込んでいた。ヴァイオリンとヴィオラが弾けるということで需要が多く、弦楽器だけでなく管楽器やハープなどを含む沢山のグループで上級生、下級生を問わず使ってもらえたのが今の私の基礎になっているのだ。

彼らと大学時代に組んでいた合奏団は「ゲホーベンハウス合奏団」なにやら聞いたことがありそうな名前。あの「ゲヴァントハウス」をもじってのネーミングは先ごろ亡くなったヴィオリストの藤原義章さん。4年間素晴らしい仲間との様々な活動は、実はチェロのMさんのマネージによるものだと言うことを今回初めて知った。岡山、島根、福島への演奏旅行、都内では教会でのコンサートなどなど。Mさんはチェロ奏者を引退したあとオケのマネージメントにも関わっており、そちらの才能も大したものだったそうで。

こうして今また集まれたのは本当に幸せなことで、当時の仲間の一人はすでに亡くなってしまった。最後に「ゲホーベンハウス合奏団」のコンサートをしたのは、もう10年くらい前になるかしら、大久保の東響の練習所でだった。その時コンサートマスターを務めた元都響の山田哲男さんがガンで余命幾ばくもない状態でもかつての美しい音を聞かせてくれたものだった。山田さんと私、ヴィオラのKさん、チェロは元大阪フィルのHさんか都響のMさん。夏には美ヶ原で合宿をしたり喧嘩をしたりと大の仲良し。大フィルのHさんはやはりほとんど会うことができず、最近皆やっと暇になったので高校の同窓会で会えるようになった。けれどやはり私達は楽器で会話がしたい。

今回の機会を作ってくれたのは名マネージャーのMさん。息子さんの奥さんが地元でお弟子さんの発表会を開くときに演奏をしてほしいとの依頼だった。曲はシューベルト「鱒」、明日の私の自宅でのミニコンサートの曲目でもある。

同じ曲で良かった。実は最近急激に視力が衰えて新しい曲は見えないと中々難しい。「鱒」は今まで幾度となく演奏しているから多少目が霞んでもなんとかなる。特にヴァイオリンは音が高いので音符の加線(五線から上下にはみ出した音域に加える線)がたくさんあると乱視の私には重なって見えて非常につらい。目が見えるならオーケストラでも弾いていたい。

練習後チェロのMさんとヴィオラのKさんと食事をしなが話していると、年月の隔たりは全く感じられない。楽隊はおとなになれない。いや、ならない。まるで学食でお弁当を食べながら話しているようなのだ。傍目から見ると介護人の目を盗んで施設から抜け出してきて油を売っているように見えそうだけれど。多少足元がふらつくこともあるけれど、声も若い、よく笑う。

またお会いしましょう、おじ(い)さんたち。数えてみたら約60年間のお付き合い。こうして会話よりも一緒に演奏ができるなんて夢にも思っていなかった。素敵な仲間たちに幸あれ。

















2023年11月20日月曜日

田作り

 魚なのになんで田作り?

広辞苑によれば「ごまめ」の異称。田植えの祝儀魚として用いたという。また鰯類が田の肥料として早くから認められたからともいう。私達が増税のたびに歯ぎしりをする、あの「ごまめ」力のないものがいたずらにいきりたつことを言う。

先日一緒に箱根で恥を晒してきた私とその友人M子さんのほうからおくられたごまめさんたち。湘南に住む彼女が美味しいからと言って送ってくださった。「活きのいいのを頼むよ」と言ったら、田作りに変身する前は活きが良かったハヅ、だそうでなんか怪しいけど信じよう。

それが届いた日は友人のアマチュアコーラスグループがコロナ以来久々のコンサートというので、浜離宮ホールにでかけた。このホールでコンサートができるのは経済的にも人数が多くないとできないから、われら貧乏アンサンブルには手が届かない羨ましさ。音が流石に良いし、客席もステージもきれいだし気持ちの良いひとときだった。数年のブランクの中で世代交替があったのか、それとも定年退職をして体力がついたのか、はたまた会場の音響の良さからか、なかなかの出来栄えで拍手。

帰って田作りをあたたかいご飯で頂こうと思っていたら、その前に空腹で倒れそうになって、山手線の百年ごしのメンテナンスで電車が混んで(山手線でない路線まで影響して)結局、好きなお寿司屋さんでちょっとつまんで帰ったので今朝まで田作りには待機してもらった。

早朝目が覚めてそういえばと冷蔵庫から取り出したお魚さんたち、コチコチに緊張して目があっても瞬きもしない。くすぐっても「きゃあ」とも言わない。岩内で獲れたのかな?と思ったら横須賀らしい。なんだ同県人ではないか。まだ早いけど一匹かじったらもう我慢できず、早速ホカホカご飯と味噌汁と一緒に頂いた。ああ、幸せ!甘み、苦味、香ばしさが調和して至福の時間。

今年に入ってから食事の嗜好が急激に和食に傾いている。今まではパンや肉が好きで、バター味が好きで、外食はほとんどイタリアン。今年の猛烈な暑さのせいか、和食に移ったのが自分でも信じられないほどの変化。和食を適度に食べていると大変体調が良いということに気がついた。今までは肉食系女子だった。数日肉を食べないと猛烈に食べたくなったのが嘘のように豆腐類に移行。いまや精進料理の体をなしている我が家の食事。しみじみと美味しいと思う。

そろそろ尼寺に行くほうがいいかも。しかし門前で断られるだろうな。不信心で素行の悪さをなじられて結果破門の憂き目にあいそう。尼寺に入れてもらえれば楽しい環境作りで愉快な尼寺として有名にできるのに。
















2023年11月15日水曜日

ホームコンサート

 愉快な仲間たちは今日も元気。

同病ならぬ老病の気はどんどん進行しておりながら、未だに皆食欲も音欲も衰えず。今日もまた大きな楽器のコントラバスやチェロやヴィオラを抱えて我が家の階段をのっしのっしと上がってくる。ピアニストも楽器は持っていないのに、大きな荷物を抱えて登ってくる。

練習が始まると大混乱、ボーン・ウイリアムズの「ピアノ五重奏曲」を楽しむ私達の平均年齢はというと、むにゃむにゃ、さあ、いくつでしたっけ?わすれるほど長く生きてまいりました。我らが中心人物のHさんは日本の女流コントラバス奏者の草分け的存在。私が所属していたオーケストラで数年間一緒に過ごしたあと私達のスキー愛好家の集団「雪雀連」のメンバーである調律師のご主人と結婚した。彼女は室内楽でコントラバスが編成に入っている曲が少ないことから、コンバスの入っている曲を探し出してきて私達と楽しんできた。練習したからには生き物に聞かせたい、猫でもいいけれどできれば人間に聞いてもらいたいというので、狭い我が家のレッスン室でご披露することになった。

聞かされる人はまだ募集中、最大人数は8人くらいまで、部屋が狭く演奏者が多い上に大きな楽器も多いので、ぎゅうぎゅう詰めればなんとか入れるが窒息しかねない。ピアノが邪魔なんだけど。ピアノが中心の曲なのに。

この曲の編成はシューベルトの「ます」と同じでヴァイオリン,ヴィオラ、チェロ、コントラバス、あれ、4人しかいないじゃない?おやおやピアノをお忘れですよ。だからピアノ五重奏曲って言ってるでしょう。なんてガヤガヤしながら楽しんでいますよ。「マス」は古今東西のピアノ五重奏曲中の五重奏曲。しかしどこから見つけてくるのかHさんは次々と他の曲も探してきては立派なスコアとパート譜のコピーをきれいに製本して持ってくる。それでのそのそと譜読みを始めると、これが大変で音が取れない、リズムがわからない、他の人が今何をしているのかも知らない、我関せずと言いたいところだが、途中でずれると最後に一緒に終われないからもう一度元に戻ってやり直し。

一番若いチェリストがハキハキと皆をまとめてくれても次の練習にはもう忘れてしまうから曲がまとまらない。半分は自分たちの楽しみのためだけに練習しているけれど、人に聴いてもらうには一体どんな曲か分かる程度にはしておきたい。

始まって1時間もするともうお茶が飲みたくなる。甘いものが欲しくなる。一旦休憩するとおしゃべりが止まらなくなって練習のことは忘れてしまう。てな具合に遅々として曲がまとまらないけれど、開催に向けて頑張っておりますので、休日の貴重な時間を無駄に潰しても良いとお考えの方はどうぞnekotama宅にお越しくださいませ。家はどこ?ってあなたあそこですよ、桜並木の川沿いのほらあそこ。ちょっと人目につかないネズミの通り道に近い。

11月23日(休)14時開演 入場無料

曲はボーン・ウイリアムズのピアノ五重奏曲とシューベルト「ます」の二曲。

場所が狭いので入りきれない人は近所の居酒家で昼酒でも楽しんでお帰りください。途中で止まったり弾き直したり喧嘩を始めたりするかもしれない。それもご愛嬌と思ってくださればお楽しみになれるでしょう。

楽器が大きいのはわかるけどピアニストの抱えてきた大きな荷物ってなんだとのご質問、いや、あなたの記憶力はすごい、よく覚えておられましたね。実は彼女はお料理が好きで毎回他のメンバーに食べさせるために色々作って持ってきてくれるのですよ。ピアノは持って来ないので2トントラック一台分くらいのごちそうを・・・ほら、またおばあちゃん嘘をつくのはおやめなさい。あら、介護士さんに叱られちゃったわ。本当は3トントラックなんだけどね。怖い世界を覗いてみる勇気がお有りの方はどうぞ、お集まりください。

ただし人数に限りがあるので要予約、電話?って。紙コップの糸電話で十分でしょう。


















松村高夫さんとシューベルト「冬の旅」

松村氏はテノール歌手という隠れ蓑を持っておられるけれど、本職は慶応大学名誉教授。専門はイギリス社会史、労働史、日本労働史、音楽の才能は妹の松村美智子さんと共通する。

美智子さんはこのブログに度々登場したロンドンアンサンブルのみちこさんこと、ミチコ・スタッグさん。 才能あるピアニストで残念ながら先年日本で亡くなった。その後ミチコのいない家は廃墟だという夫のリチャード・スタッグ氏の言葉が表すように、明るく勝ち気でユーモアたっぷりの彼女の不在がいかに虚しいかというように、太陽のような存在だった。

美智子さんと一緒に過ごした時間は私にとっても太陽の輝きのような思い出になった。なくなる数時間前に枕辺に座ると彼女はそれがわかっていたようだった。かすかな反応で私達になにかメッセージを送っていたようだった。その2日ほど前、彼女が電話をしてきて「うちの玉ねぎに芽が出たから、あなたそれを絵にかいてみない?上げるから取りに来て」と。忙しかったので曖昧に口を濁して取りに行かなかったことが生涯の悔やみになるとは私は知る由もなかった。今でも思い出すと号泣しそうになる。

美智子さんがお兄様の高夫さんの伴奏をしたとき、私は譜めくりに駆り出されたことがあった。私はチビで目っかちで乾燥指でと差別用語満載で言うけれど、譜めくりに必要な条件を満たしていなかったけれど、冬の旅は私にとって特別な曲だったからお引き受けしたのだった。その時高夫さんがおっしゃった。「それはなんと三重苦ですな」本番直前なのに余裕のあるジョーク、いつもゆったりと穏やかでそれでいて美智子さんと同じように鋭い観察眼をお持ちのようで、美智子さんと私はお腹を抱えて笑った。

本番は大成功、美智子さんには「完璧!」と褒めていただいた。私の才能はヴァイオリンよりこういうところにあるらしい。プロの譜めくりニストといものがあったら、三重苦にもかかわらずやってみたいとおもうほど。

さて本題に戻る。シューベルトの「冬の旅」は歌い手にとってバイブルのようなものだと思う。シューベルトのすべての要素がここにあると言っても過言ではないと思う。全部で24曲あってそれぞれの曲は短い。最初から最後まで悲しみに打ちひしがれた心、ほんの一瞬の希望、怒りなどがこれほどの短い曲に込められているのだ。

私はフィッシャー・ディスカウのレコードを毎日のように聞いていた。ディスカウの日本公演、ペーター・シュライヤーの日本公演も、ジェラール・スゼーの日本公演も聞いて回った。スゼーのフランス風の歌い方はこの曲にそぐわなかったけれど、その美声には感激した。ディスカウの歌い方に慣れてしまって標準になってしまったのが問題ではあるけれど、好きでたまらない曲はいつでも聞いてみたいので今回も見逃すてはなかった。しかしご招待のお手紙を頂いて返信しなかったので、終演後ご挨拶すると「ああ、返事がこなかったから来ないかと思っていたよ」と言われてしまった。「来ますとも、とても良かった」と申し上げるとニヤリとして嬉しそうな表情に。

これは驚きだけれど、高音のほうがよく伸びていて音程もしっかりしている。低音はややピアノにかき消されて聞こえないし出しにくそうにしていらしたけれど。ピアニストは優れた演奏者ではあるが、リートの伴奏は非常に難しい。ピアニスト然とした演奏では歌を殺してしまう。ジェラルド・ムーアの伴奏をレコードでさんざん聞き慣れていたからその辺が残念なところだった。

ジェラルド・ームーアの伴奏法の講座が母校で開催されたとき私はまだ二十歳そこそこだった。今、彼の言うことが聞けたなら非常に良く理解できるだろうと思った。残念ながら若すぎたようだったので漫然と聞いていたけれど、生の演奏には数回触れている。もし私がピアノ専攻だったなら、リートの伴奏者を目指したかもしれない。

いつの頃か小林道夫先生の伴奏法の講座を聞いたとき、「自分の腕を相手に預ける」とおっしゃったことがあった。そのとおりだと思う。誰かと共演するとき、自分の腕からすっかり力を抜いて相手に委ねると面白いように共鳴するのだ。ピアニストは大抵の時間は一人で練習して一人で舞台に立つけれど、弦楽器奏者は完全なソリスト以外はたいていアンサンブルも練習するからその辺はよくわかって使い分けることができる。






2023年11月6日月曜日

箱根に遊ぶ

 このところ友人たちとの遊びが多い。M子さんが少し体調を崩して治療を終えて「娑婆」に戻ってきたので遊ぼうというわけで待ち合わせた。本当は退院したら築地のお寿司屋さんでお寿司を食べようという約束だったのだが、寿司店が閉店してしまったので、急遽何処かで紅葉を愛でようということになった。

彼女の家は私の家と箱根の間にあるから箱根に足を運ぶことにした。M子さんの家の近くのコンビニで朝9時に待ち合わせの約束をした。彼女の家にはだいたい1時間ほどで到着するようだから30分の余裕をみて7時30分に出ればいい。しかし早起きの私は4時ころにはお目々パッチリ、お腹も空いている。時間を持て余しながら早めに出てしまおうかと考えては、いやいや、コンビニに早く着いてしまうと店で長く待つことになるからそれは嫌だと考えた。それが間違いのもとだった。

予定通り7時30分に出発。連休前のウイークデー、混んでも大したことはない。すると東名高速道路に入る前にカーナビからいやなお知らせが。5キロ渋滞、ぬけるのに約30分。ま、仕方ないか。入ると次にまたお知らせ。7キロ渋滞、抜けるのに50分。やれやれ、しかし渋滞の手前でやたら騒がしい。赤い大きな緊急自動車は消防車。分岐点でお腹を見せてひっくり返っている軽乗用車。お願いだからこんなところで昼寝しないで。その頃には頭に血が昇ってもうやだ!そうだ、一旦出て高速の下の道を走ろう。

そういうときはじっと我慢して成り行きに任せるのが一番とわかっているのに時々そういうことをする。結局1時間半くらいの遅刻。

約束のコンビニにたどり着くと現れたのはなぜか緑色の髪の乙女(元)、この人と私が組むと最悪の事態となるのはよくわかっていたけれども約束したのだからあとには戻れない。仕方がない、箱根の地獄までお供しよう。病み上がりにしてはえらく元気なM子さんは私の車にカーナビがついているにもかかわらず人間ナビゲーターに電話をしては道を訊く。平日の昼間、相手は仕事中だからさぞや迷惑なことと思うけれど、なぜか親切に対応しているようだ。邪険にするとあとが怖いからか。天衣無縫の彼女にはこの世に障害物はない。

私はこの日すでに3時間以上運転しているからお腹も空くし目も霞む。そんなことお構いなしに助手席でM子さんは一向にものを食べたがる気配もなくはしゃいでいる。お腹すいたからなにか食べない?と言ってもどこ吹く風、返事もしない。病み上がりだというから今日のところは許す。

箱根のどこという目的地はないのでカーナビにはロープウエイと入力。乗り場でサンドイッチにありつけたら上出来なんだけど。今年はどこの観光地の紅葉も遅いらしいけれどあまりといえばあんまり、ほとんど色づいていない。チケットを握りしめてのりばで待つことしばし、乗り物が来た。早めにきていたから椅子に座れてM子さんがお隣さんとおしゃべりを始めた。そのうちに「え、これケーブルカー?ロープウエイじゃないの」と素っ頓狂な声を上げた。

向かい側のカップルまで違う違うと言う。それじゃどうしよう、チケットはロープウエイのものだから途中でおりろと言われてもおりられない。発車のベルが鳴ってドアが閉まる寸前人をかき分けてやっと降りられた。普通なら乗り物を見ればわかるじゃないと言われそうだけど、わたしたちは世の中から超然と生きているから常識は通用しないのよ。

ロープウエイとケーブルカーが違う乗り物だったとは・・・乗り場にたどり着いた二人はホッと一息。高い!はるか下を見下ろして絶景を楽しんだが、今年はそれプラス紅葉が楽しめる季節のはずがまだ黄色い山々に少しがっかりした。

ロープウエイは大涌谷の地獄谷に到着、乗り物を降りた瞬間その辺に立ち込めるガスで、さすがの匂い音痴の私でさえも臭い!箱根は10年くらい前までロンドンアンサンブルのメンバーと1年に1回訪れた場所だった。イギリス人の彼らはとりわけここが好きなようだった。いつもお腹をすかているチェロのトーマスはここに来ると黒玉子をむしゃむしゃと食べ、フルートのリチャードは健脚を見せびらかすようにスタスタと歩く。特に箱根神社あたりに行くとはしゃいで子供のようになった。懐かしいなあ。彼らは今どうしているかしら。

臭いガスに辟易して早めに退散。M子さんはまだなにか食べるとは言わないから私はこの平和な日本では殆ど見られない餓死犠牲者になりそうになった。たまりかねてなにか食べましょうと提案。ほとんど無計画なドライブだからどこにむかっているのかもわからないけれど、そばやを見つける。けれど箱根で昼下がりに食べ物にありつける可能性は極めて低いということを知っている私は絶望的。やはりたいそう良さげな店があったものの休業中、それは昼と夜の営業時間の合間の休憩なのか本日休業なのかはわからないけれど、たとえ営業日でも午後はほとんど店を閉めるのだ。

仕方がない、すごすごと帰路につく。空腹でずっと休まず山道を運転していたのでクラクラするかと思いきや、体調は悪くない。むしろ日頃食べ過ぎなのがいけないらしい。ついに日がくれてM子さんの地元に帰ってきたらすっかり暗くなっていた。やっとつれていかれたのはアメリカンな気持ちの良いお店だった。都心の店のように狭くない。ゆとりのある空間に感じの良いフレンドリーなスタッフ、メニューも初めて見るようなハンバーガーやサンドイッチ。食べたらすごく美味しくてまた来たいと思った。やはり湘南はおしゃれなのだ。

これが正真正銘のケーブルカーらしい。

違う切符で改札を通れたけれど、降りるときはどうなるのかしら。降りられなかったりして。







2023年11月5日日曜日

平泉寺(福井県勝山市)




 高岡市の祭りを見たあと能登半島一周に連れて行っていただいた。私の旧友Kさんの道案内で能登の突端までを満喫した。更にその後、別の友人の勸めもあって福井県勝山市の平泉寺にも日を変えて案内していただいた。本当に贅沢な数日々だった。

Kさんの拠点である高岡に滞在してそこからそれぞれの目的地に通ってというゆっくりとした旅程で、この2年ほどの酷いストレスからやっと開放された。素晴らしく楽しい日々はもう年齢的にもこの先味わえないと思うので、尚更ありがたかった。すっかり心の洗濯をしてきました。

Kさんは放送大学で一緒に学んだ謂わば学友であるけれどかなりの年下。言ってみれば私とは母親程は年齢が離れていないけれど介護のつもりで付き合ってくれたのだと思う。でもこの母親もどきの元気な婆さんがここ数年来の足の痛みはどこへやら、しっかりと歩けたのには我ながら驚いた。本当にあなたは親切ねと言ったら「田舎の人は皆そうですよ。ほらテレビのぽつんと一軒家でよく道案内する人がいるでしょう。あれと一緒です」と、なるほどそうなんだ。それなら田舎はとてもいいところ、実際高岡の空は広く、大気は澄み渡っていた。

平泉寺は勝山市の一角にあり、というよりあったというべきで、一向一揆の騒動で寺社は焼かれ多くの人が亡くなったという。古文書の地図を見ると多数の寺や僧坊、参拝客の宿舎などの一大宗教遺跡で、今盛んに発掘が行われている。白山信仰の本拠地であるというので、恐れ多い気持ちが先立っていたけれど、明るい穏やかな日差しに石段の苔が輝き、深い杉木立は悠久の時を物語るようにひっそりと立っている。敬虔な気持ちが湧いてくる。

ずっと続く石畳はどこまでも上へ続く。ほとんど全山が遺跡の様相で静かな木立に時々参拝客とすれ違うのみ。鳥の声もしない、風音もしない、ひたすら静けさがあたりを支配している。今思い出しても心になにかの力がみなぎってくるように感じられた。強力なパワースポットであるとはここを勧めてくれた友人の言葉。ずっと心と身体に染み付いていた悪い気が拭い去ったように消えていた。帰路、コスモスの群生する原でしばらく見事な花を愛でた。

平泉寺の石畳

暑くも寒くもなく明るい一日。
どこが寺の入り口下もわからずになんとなくたどり着いた。
そこに小学生高学年か中学生くらいの大勢の子供達が先生に引率されてやってきた。
各々の手には熊よけの鈴。
暗いイメージだった伝説の宗教都市遺跡は急に日常の様相にかわる。

しかしその一群が去り、杉木立の石段を踏みしめるともう俗世界から一歩踏み出した様な静寂が漂う。
鳥の声もしない。


打ち砕かれたような岩や仏像のような石が固まって倒れていた。

足元は丸みを帯びた石段が続く。

表面が苔むしているものもあり滑りそう。


これはかりんの実、地元の人に訊けばお酒につけたりするそうで一見柿かと思った。


帰り道に待っていたのはコスモスの群生。



この旅から帰り合奏団の会合に出席すると、今まで紛糾していたすべてのことがサクサクとあるべき場所に戻り決まっていった。
心のつかえが取れて、どす黒く濁った色を見せていた肌の色がもとに戻ったようだ。
体に黒い血が流れていたらしい。それは怒りだったり悲しみだったり、毒のように精神と体を蝕んでいたものが去っていったらしい。
次の日会った友人たちは久しぶりの私の笑顔にさぞやホッとしたことだろうと思う。
 
最近は周りの人たちがはれものに触るように私を遠巻きにしていたから。
ここのコスモスは花が大きくとても立派で見栄えがします。
















能登半島一周

 祭りの次の日はかねてより念願だった能登半島の突端まで行きたいという思いがかなった。

能登半島は数十年も前に一度一周を試みたことがあった。オーケストラの演奏旅行で富山に行ったとき、一人で車を走らせた。その日は日曜日、オイルショックのあった頃のお話、ガソリンが手に入らないというので日曜日は全国のガソリンスタンドが休みになった。これだけの残量で回りきれるかどうかおぼつかないと思って出発したけれど、案の定当時の車の燃費の悪さではゲージがどんどん残量を下げていく。行けば行くほど人影もスタンドもなくなり、帰路のことを考えると諦めるしかなかった。

次の日もお天気は最高だった。少し汗ばむくらいの気温だが海風が吹いてくるので爽やかで歩くのも楽々と。前日歩き過ぎて真っ黒になった足の親指は痛むけれどそれも何のその。文字で見るより写真が良いので見ていただこう。

この写真はよく見られるけれど見附島というらしい。
今回の能登一周では一番最後の方で見たけれど、とても印象的だったのでまずは最初にご覧頂きます。


ここは能登半島の先端にある灯台。
私の長年の夢がかなって初めてお目にかかりました。
実は棚田のあとに行ったのですが、ここに写真がいて動かないから灯台を先に見てください。


下の写真は棚田が最初に来る予定だったのになぜかその下の方にある海の画像が居座って動かないために泣く泣くこうなってしまったもので、まず棚田に登るとこの海が見えるというシチュエーションなのですよ。グスン💧

せっかく素敵な写真なのに編集ができない悲しさ。
下の棚田からご覧になって、如かる後視線を上に上げてください。

千枚田より輪島方面を望む。
白い波が打ち寄せる岩場。
昔の旅人たちはその波打ち際を通行したらしい。
親知らず子知らずというけれど、昔の旅はさぞ難儀なことだったのだろう。
棚田というから狭い谿間にある急斜面を連想していたけれど、ここでは広い海に向かって伸びやかに手足を伸ばしている。

少し汗ばむほどの陽気だったが海風が吹いて来る。悠久の時が静かに流れる。
この景色を見たとき、本当に幸せだった。


下の写真はランプの宿。というから多分ランプが灯されて長い夜を楽しむという趣向なのだと思う。泊まってみたいけれどランプの明かりに長い影ができて神秘的というか少し怖いという感じもあるけれど、やはり泊まってみたい。
波の音を直ぐ側に聞きながらまんじりともせず夜明けを迎えそうな気がする。


せっかく写真が素晴らしいのに私のスキルがとんでもなく未熟で下にあった写真がいつの間にか上に来てしまったりどうにもこうにも埒があかない。
こういう才能は天性のもので、私の家がぐちゃぐちゃに散らかっているのを見るとさもありなんと思うでしょう。
悲しいかな脳の中身がひっ散らかっているのです。
                                    

2023年11月3日金曜日

毛利巨塵作曲「木曽路」


旧友の毛利巨塵さんの演奏です。
ピアノ演奏は奥様です。