2010年3月31日水曜日

桜の木の下には屍体が埋まっているそうだけど。

今朝は寒さも緩み、桜も5分咲き、鳥が蜜を吸いにきて、うららかな日。散歩に出かけると、例によってからすの夫婦が待っていて、しばらく立ち話。少し、頑張って歩きつかれたので、コーヒーを飲む。再び歩き始めると、駐輪場の係りの人がこちらを向いて、お相撲さんがしこを踏む前に、よくやるでしょう。蹲踞の姿勢と言うのか、そんな格好をして、ピースサインを送っている。はてだれに?と後ろを振り返ってもだれもいない。でも、その人は知らない人。なおも近ずくと、シオマネキのように、ピースサインを振ってくる。私のいでたちと言えば、マスク、幅広の帽子を目深にかぶる、花粉症モード。顔は判別できないので、どうやら知り合いと間違えているらしい。もっと近ずくと、帽子の下の顔を見ようと、しきりに視線を送ってくる。軽いノリですぐ反応する私だから、ピースサインを返して、ばあ、といってあげようかと思ったけれど、そのあとの気まずさを考えて、やめにした。不審そうにこちらを見ているから、余程似ている人が知り合いにいるのだろう。でも、あの人は今朝のことを思い出して、しばらくは恥ずかしいかも知れない。通りすぎてから、しばらく、クスクス笑いがとまらなかった。花は爛漫。本当に根元に人が埋まっているのかもしれない。

2010年3月29日月曜日

生徒はウィーン。先生は・・・・

今年K大を卒業して、新社会人になる生徒が、挨拶にきてくれた。彼は高校と大学のオーケストラで、7年間ヴァイオリンを弾いていた。子供の頃から弾いてはいたものの、ごく普通のお稽古事としていたし、高校受験で中断していたので、特にずば抜けているわけではなかった。しかし、高2の時、ソロを弾かないかと言われ、だいぶ迷っていた。自分のレヴェルでコンチェルトがひけるだろうか。相談されたので、即、引き受けるように説得。とにかく、やってみなければわからないでしょう。もし、どうしても出来そうも無いと思ったら、断れば?  さて、それから曲を何にするか。やってのけられるのか。K大オーケストラにはコンクールに入賞しているような、上手い子がゾロゾロいる。でも、学年単位でソリストを決めるので、同学年生がたまたま彼と同レヴェルだったりすると、チャンスが回ってくる。まず、前髪をつかませてから、さてどうしましょう。モーツアルトでは、オーケストラ編成が少なくて、他の子たちが不満だと思うし、かといってブルッフやメンデルスゾーンが弾けるレヴェルでは無い。派手でオーケストレーションが分厚くて、ソロが比較的楽で、考えてラロの「スペイン交響曲」これなら、なんとかなりそう。    それからは、明けても暮れてもラロ。本当に良く努力してくれた。実を言えば、途中、挫折も考えていたのだけれど、なんとか、本番にこぎつけて、弾いてのけました。緊張のあまり、一人で歩けず、親友の指揮の学生に支えられて登場。ドキドキして見守る中、始まった。力みすぎて音がつぶれたりした場面もあったけれど、無事弾きおおせて、先生としてはウルウル。その粘りと努力に脱帽。早くもそれから数年、卒業旅行はヨーロッパに演奏旅行だと。私だって演奏したことの無い、ウィーン楽友協会やアムステルダムコンセルトヘボーだの、うーっ、うらやましい。その前の学年の生徒の時もそうでした。私が鹿児島の空港でバスを待っていると、「これから、ウイーンに出発します」と、メールがきたので、「生徒のあなたはウイーンで先生の私は鹿児島に出稼ぎ。ずいぶんじゃない?」でも、生徒が悪いわけじゃなく、先生が甲斐性なしなのです。

2010年3月28日日曜日

お見舞い

先日、かつての生徒からメールが来て、足を手術することになったので、入院するとの連絡があった。以前から股関節が悪く、雨の日には外出できないなど、問題があったので、仕方が無くレッスンは休止していた。レッスンは休んでも、常に連絡はあって、天気がよければ必ずコンサートに来てくれる。「火曜日が主治医との面談です」というので、木曜日ならお見舞いに行っても差し支えないだろうと、お花を用意して出かけたが、あいにくの雨。しかも、土砂降り。その上、駅の駐車場に放り込んだ車の中に、傘を忘れた。花はステキにアレンジしてくれたものの、大きすぎて扱いにてこずるし、目的駅に着いたときは、花も人もクタクタ。コンビニでビニール傘を買って、ようやく、病院に到着。受付でお見舞いの申し込みをするが、「その方は入院していません」と言われる。でも、メールに入院すると書いてあるし、病院名もたしかめたし・・・そんなはずは・・・試しに自宅に電話をすると、居た。のんびりした口調で、「あのー、来月のことなんですけど」   病院にはステキなお花やさんがありました。

2010年3月26日金曜日

父の7回忌

父が96歳の天寿を全うして、あの世に行ったのは6年前。日課のご近所回りを終えて、お昼を食べ、テレビで高校野球を観戦していました。あまりにも、じっと見ているので、不審に思った兄嫁が声をかけたが、返事がない。よく、寝ていると思っていたら、実は心臓がパタりと、とまっていたのです。大往生でした。母はその10年ほど前に亡くなっていたので、寂しかったとはおもうけれど、町内のボス猿(申年)で、ご近所の皆さんに良く面倒を見てもらいながら、町内を歩き回っていたので、普通のお年寄りよりは、どれだけ幸せな境遇だったか。晩年は電動車椅子で、車道の真ん中を、涼しい顔でノロノロ走り、大変な迷惑爺さん。でも、あんまり堂々としているので、誰も文句が言えない。見ているこちらがハラハラしました。猫魔さんは、兄弟中で一番父親似だと言われています。でも、車椅子で車道を走るなんて、恐くて出来ないなあ。子供の頃、ヴァイオリンがほしいと言ったら、すぐに渋谷の楽器屋さんに連れて行ってくれた。母は6人もの兄弟を育てるのだから、そんな無駄遣いは出来ないとおもっているが、父は喜んで買ってくれた。どうしてかなあと思っていたら、もう、父がすっかり年を取って、猫魔さんもいい年になった頃、押入れから、とんでもなく古いヴァイオリンの楽譜が出てきた。一体誰の?と思ったら、父の物だそうで、ほんとにびっくり。それで、娘がヴァイオリンを弾くのを、喜んだのですね。あまりにもアッサリとあの世に行ってしまったので、本人もまだ、自分が死んだことに、気が付いていないのではないかと、思っています。今日は兄弟が集まって、7回忌をしたけれど、にぎやかなことの好きな人だったから、参加していたかもしれない。

2010年3月25日木曜日

世界のミュージアムカレンダー


このブログにyahooから入れるかな?と思い検索したところ、田中 一村の記事が世界のミュージアムカレンダーというところに引っかかっていて、入ることが出来ました。こうやって網の目がどんどん広がっていくのですね。一村は死後あんなに立派な美術館をたててもらって、死して皮を残しましたが、本人はそれを知ったらどう思うのでしょうね。ゴッホだって、生前一枚も絵が売れなかったそうだし。     以前のブログで、伊藤若冲を見に,金刀比羅さんに行った話を書きましたけど、先日、金刀比羅宮で襖絵の公開をしているのを、テレビで放送していました。なあんだ、しょっちゅう公開しているのですね。あわてて行かなくても良かったかも。しかも、私たちが行った時は、照明も暗くてよく見えませんでした。テレビ用でしょうが、とても明るくて、あんなに照明あてていいの?と思います。それなら、人が見るために、もう少し明るくしてくれれば良かったのに。若冲はアメリカなどに大量に流出して、日本に残っているのは少ないのが残念。展覧会のために、わざわざ外国から借りなくてはいけないなんて。倉敷の大原美術館などは、その反対の例ですね。松方コレクションなども。私も目利きだったら良かったのにと、思います。少しは芸術家の生活に貢献できたかも。財力も見る目もないので、世間の絵描きさん達、すみません。お役にたたないで。

2010年3月24日水曜日

八幡平

毎年のように八幡平に山スキーに行っていた。その年によって違ったが、4月5月の連休あたり。雪国の春は梅と桜がいちどきにみられる。花々が一斉に咲き始める美しい季節だ。特に水芭蕉の群生は見事で、毎年楽しみだった。ある年から行かなくなったのは、岩木山が噴火の兆しを見せたことと、年々雪が少なくなったためで、そのうち、こちらも年を取って、面倒になったせいもある。ゲレンデを滑るわけではないので、一人は運転手として、みんなを山の上に運び、滑り降りた地点まで迎えに行かなければならない。ある年このグループ(雪雀連・・・・せつじゃんれん)に初参加のなかむら氏、せっかく初めて参加したのに、切り株と仲良しになって、わき腹を強く打ち、怪我をしてしまった。ところが、誰も同情してくれない。まず、最初にかけられた言葉は「足は大丈夫だね。運転できるね?それでは、運転して。」だった。血も涙もない冷酷な仲間にもめげず、彼はそれから、ずっとメンバーの一員です。盛岡八幡平から秋田八幡平に抜ける道路は、この頃開通する。その道を走って、秋田八万対のゲレンデまで行き、温泉を楽しむ。時には雪が無くて、スキーがふきのとう摘みに変わることもある。摘んだふきのとうを、ホテルでてんぷらにしてもらう。これも、一つの楽しみ。

2010年3月23日火曜日

春ですねえ。

今朝、今年初めて鶯の声を聞いた。まだ、少し歌が下手で、ホッホッケッキョみたいにたどたどしいが、紛れも無く鶯。すれ違った人に「鶯が鳴いていますね。」と声をかけると、「お花が咲きましたね。」どうでも良い事を会話するのも、のどかで良い。女性はなんでもなく出来る、こんなことも、男性は苦手らしい。女性の寿命が長いのも、殻にとじこもらないで、見知らぬ人とも会話できる、この辺も一つの要因らしい。猫魔さんには2人の兄と、3人の姉がいる。あわせて、6人兄弟。4人の姉妹は集まると、ずーっとしゃべっているが、兄たち、特に数学をやっている次兄は、無口きわまる。
兄弟が集まって、ペチャクチャしゃべっているのに、黙って酒を飲んでいる。それに気がつくと、女性群は兄を攻撃しはじめる。「ねえ、この人の声、今日聞いた?」「まだよ」「ほら、なんとか言いなさいよ。ウーとかアーとか」  フッフッフッ、などと、苦笑まじりにやっと声をだすが、言葉らしき物は、出さない。その分奥さんがよくしゃべるから、相殺されるのだが。      散歩の帰り道、一羽の白鷺が川の中に静かに立っていた。いつも、一羽しかいない。行きがけに会ったカラスはいつも夫婦で挨拶にくるのに。鳥にも無口とか、おしゃべりとか、あるのかしら。

2010年3月22日月曜日

パラリンピック

夜明けに猫たちに起こされるので、出来れば2度寝するけれど、そのまま目が覚めてしまうことが多い。仕方ないから、英語の勉強したり、クロスワードをしたり、テレビをみたりする。たまたま、昨日はアイスホッケーの決勝戦をやっていた。下半身の不自由な人たちが、カートの様な独特の器具に乗って、激しい試合振り。
時には、カートから落ちる人もいて、その人を見ると両足が全く無い。どんな風にバランスをとっているのだろうか。ヘルメットの奥の目はランランと、肉食獣のように輝いている。日本とアメリカ。日本人は多分殆どの人が、交通事故だと思うが、アメリカ人は戦争での負傷者もいるに違いない。結果、日本は負けたけれど、男性の最優秀選手に選ばれたのは、日本のキーパーでした。アイスホッケーは特に好きな競技で、胸のすくような試合をみせてもらった。日本は11個もの金メダルをとったのに、パラリンピックは報道も地味で、残念。スキーの大回転もすごかった。よくぞ恐怖に打ち勝てるものだと思う。いろいろ、体の制約があって、健常者と一緒には、出来ないかもしれないが、もっと、報道されても良いのでは?

猫魔さん分析

このブログを読んで下さっている方から、鋭いご指摘。「すごく真面目なのか、ふざけているのか、よくわからない」 なるほど、それが、猫魔さんの本質、というか、ミュージシャンの振る舞い。大体、生まれたときに、音楽家の家柄でなければ、楽器を弾いて人生を送るなんて、キリギリス家の人々(虫虫)でないと、理解されないでしょう。実際猫魔家の総支配人である母親は、何回も音楽の道を断念させようとした。      良いとこのお嬢様が、お稽古事のつもりで始めて、ソリストになってしまうこともあるけれど、せっかく、京都大学を出たのに、オーケストラに入るとか、東大に行くつもりが、音大になったとか、世間一般の常識から見れば、少し道をはずした感が否めないでしょう。でも、私はその人たちは、ほんの一握りの幸福な人たちと思いたい。なぜなら、演奏をしていて、深く意識の底に降りていったときの、至福感.それは、右脳の最も素晴らしい機能、満ち足りた楽天的な気持ち、感謝、慈しみから来る。音楽は右脳が主役。演奏がうまくいっている時は、自分の体も呼吸も意識しなくなり、ただ、ここにいる、それだけ。「奇跡の脳」を読んだとき、思わず「そうよ、それなの」と、思った。      だんだん話がそれていってしまいそうだけれど、ようするに、生活苦も世間の差別も気にならないだけの、見返りは充分あるはず。なにに書いてあったか忘れたが、世間体を気にせず、好きなように振舞えるのは、最上流の人、たとえば王様、それと、最下層の人々、乞食だと。ミュージシャンは王様ではないから、乞食・・・よく、河原乞食という・・・    ある、ミュージシャンが言っていた。「演奏がうまくいった時は王様、でも、失敗した時は乞食以下」    喜びも多いが苦労も多いのですよ。緊張度が高いと、ゆるんだときの反動も大きく、つい、飲みすぎたりする。そして、世間的な枠が取り払われると、物事は(、面白い)、(面白くない)という2つの分類になり、少しでもおかしいと、そのおかしさがどんどん増幅して、冗談が冗談を呼び、更に、加速度を増し、いまや、何がおかしかったのかもわからないほどデフォルメされていきます。でも、根は真面目だから、時々はわれに帰るという説明にがってんしていただけましたでしょうか。  しーん。

2010年3月21日日曜日

横浜市開港記念会館

文化財指定の開港記念会館は、古風で落ち着いたステキなホールです。外壁はレンガ、中に入ると高い天井に白い壁、いかにも、室内楽を演奏するのにふさわしい。今日はコンサートを聴きに行きました。出演者は私たちの合奏団のメンバーに、古くからの知り合い。全部で6人。先日私たちの合奏団の、定期演奏会で演奏した同じ曲が、プログラムに入っていて、どのような演奏になるか、興味深々。人数がかなり違うし(こちらは、総勢15人ほど)演奏家も違うし、テンポも曲の解釈も違うので、いつも、他の人の演奏を聞くのは、楽しい。ベテラン6人の息の合ったアンサンブルは、深みがあり、6人がハモると、何倍にもなって、広がる。室内楽の醍醐味はここにありますね。ヴィヴァルディ「2本のヴァイオリンのためのコンチェルト」はしょっぱなということで、多少突っ走り、ヴィヴァルディ「コントラバスと弦楽四重奏のためのソナタ」はコントラバスの低音がえもいわれぬ、魅力。クープランの「チェロと弦楽四重奏のための五つの小品」は初めてきいたけれど、洒落た面白い曲で、チェリストも好演。ドヴォルザークの「2本のヴァイオリンとヴィオラのための3重奏曲」も初めて聴いたが、長年音楽やっていても、まだまだ知らない曲だらけ。3人のアンサンブルが絶妙で、本当に良い音がする。その後、女子高生が加わって、2曲。レヴェルが高いので、驚き。人数が増えると又迫力が増して、少人数の緻密なアンサンブルとは違った、楽しさがある。結論を言うなら、音楽はどんな形でも、面白い。

2010年3月20日土曜日

馬の耐久レース   エンデュランス

かなり前のことですが、テレビでアメリカの馬の耐久レース、エンデユランスの番組を見た。それは、長距離を馬で走り、速さだけでなく馬の体調も考慮される。かならず、区間ごとに獣医のチェックをうける。馬の体調が悪ければ、それ以上進めない。ゴールしても馬の検査があり、それにパスしなければ、失格となる。それに参加した、かなり年配のご婦人のドキュメントでもあった。感銘を受けた猫魔さんは、ずっとその番組を覚えていて、自分もやってみたいと、思っていた。でも、外国のことだから・・・と、あきらめていたら、小淵沢でやっていたではないか。しかも、仕事仲間のよーこさんのお姉さんの会社の、元社長さん。体を壊して会社をやめ、小淵沢で馬と暮らしている。八ヶ岳ロングライディングのオーナー 高鳥さん。全日本エンデュランス馬術大会の120キロ部門で、見事優勝。しかも、乗馬は58歳からはじめ、現在70歳を超えていながら、家族と離れ、一人で馬の世話をしている。小柄な柔和な表情の下の、どこにそんなパワーが隠されているのか。  時々お邪魔して、時には馬のお世話のお手伝い。テラスでお茶を飲んでいると、ずっと、ここにいたいような気分になる。去年乗馬を再開した猫魔さんだったが、悲しいことに、すでに馬を思い通りに動かせなくなっていた。バランスが悪いのか、筋力がないのか、なぜ、なぜ? と思っていたら、膝を痛め、足首まで痛め、毎年欠かさず行っていたスキーもできなくなり、馬は動かせない。でも、高鳥さんは今でも現役。どこでこの違いが出来るのか、考えてみると、猫魔さんは食べすぎ。体重の差かな?小淵沢では、毎年馬のお祭りがあって、町中馬で溢れる。馬好きにはたまらない。ヨガを始めようか。体をやわらかくすれば、又馬に乗れるかもしれない。

内田 百閒

たまさぶろうの年齢のことを書いたら、内田 百閒著の「ノラや」を思い出した。飼い猫のノラが行方知れずになり、百閒先生は泣いて暮らす。毎日あちらこちら、電話したり、電話をうけたり、その度に大泣きして、鼻の頭が真っ赤になってしまう。奥さんがノラを背中におんぶしながら「ノラはいい子だ」というくだり、私もよく「たまはいい子だ」といっておんぶするから、よくわかる。それにしても、大の男、しかも、明治の男が、猫が居ないと言って泣いて暮らす、無邪気でかわいい。百閒先生が大勢の生徒に愛され、いまだに読者が絶えないのも、うなずけるというもの。それで、おもいだしたのをきっかけに、阿房列車に久しぶりで乗りたくなった。読み返してみると、独特の世界が広がる。  第一阿房列車に面白いクイズが乗っている。        三人で宿屋に泊まった。払いが30円(明治ですから)帳場でサーヴィスとして、5円まけてくれた。それを女中が途中で2円ごまかして、3人には3円戻ってきた。1人10円払って1円ずつ戻ったのだから、1人9円払ったことになる。あわせて27円、それと女中がごまかした2円合わせると、29円、1円たりなくなりますね。さて、どこがおかしいのか。

2010年3月19日金曜日

たまさぶろうは、もう、おじいさん。

僕のこと最近書いてくれないね。猫魔さん。   この間なつめちゃんが具合が悪くて、獣医さんに行ったでしょう。薬の袋に人間と犬猫の年齢換算表があって、たまはもう、すごくおじいさんだってことがわかったので、ショックを受けているの。そうか、道理で、時々涎をたらしているんだ。    なに、ワシが?涎じゃと?    ど、ど、どうしたの。急に。国取りゲームのじいみたいな口きいて。そういえば、この頃国取りゲームもすっかりご無沙汰。旅に出てないものね。そろそろ旅の虫がうずいてきたぞ。     どうして、そんなに猫魔さんは旅行が好きなの?     そうだね。どんなことが起きるかわからないし、知らない所を緊張して歩くのは、アドレナリンが出て、生きてるって気分になれるからかな。      生きてるって、事実そのままでしょ。なにが、面白いか僕にはわからない。                たとえば、スキー場に行って、猛吹雪に吹かれたりすると、自分の体が温かいのが、すごく有難くなる。体全体が寒さに反応して、どうにかして、この難関を乗り越えようとするでしょう。それが、たまらない。      猫魔さん、そのエネルギーをもう少し、ヴァイオリンに回したらどう?弾けないところを猛然と稽古すれば、少しはましになるかも。        たまさぶろう、今夜は夕飯抜きっ。    アーン、それパワハラだよ。僕はこんなところに閉じ込められて、旅行にも行けないんだよ。食べるしか楽しみはないんだよ。        ほんとだね、たまはカワイそう。今度一緒に旅に行こう。二人ともジパングクラブに入れる年だものね。

2010年3月16日火曜日

へんな日

友人と小淵沢に行く予定でした。ところが、前夜メールがあって「明日は小淵沢、雨みたい。どうする?」 コンサートのリハーサルで、くたくたに疲れていたので、雨の中運転するのはしんどいなと思い、中止。以前はこんなこと無かったのに。雨が降ってもがんばったのに。     その日は爆睡して、次の朝もうろうとして、さて、どうする。姉を誘って、自由が丘に絵を見に行くことに。ひさしぶりに行くと新しく可愛いお店が出来ている。パンやさんを見つける。帰りに買ってゆこう。小さな画廊で、時間もかからなかったので、すぐ、パン屋さんへ。食パンのカットをたのむと、一斤買ったはずなのに、半斤を渡される。最近自信がないので、自分が間違えたのかと、棚に確認に行くと、やはり、一斤単位で売っている。確かめるために声をかけると、あちらが先に気がついて、ああ、一斤でしたね、と笑っている。それで我が姉上、怒り出した。私も喧嘩っ早いほうだけど、あの方はもっと、瞬間湯沸かし器。「冗談じゃないわ」とわめくのを引っ張って、まあお茶でも飲もうじゃないの。これも、別の画廊兼喫茶店で、コーヒーを飲む。ちょうど、染物展をやっていて、ステキだけど、とても高くて手がだせない。まあ、目の保養ね。可愛い猫絵葉書を6枚買った。レジで7枚ですね。と言われて、今度は私が少しムッとする。さっき、6枚と念をおしたでしょう。 なんだか、みんなぼんやりしていて、こんな日に遠出しなくて、良かった。

2010年3月12日金曜日

奇跡の脳           竹内薫訳 (新潮社)

著者はジル・ボルト・テイラー 脳解剖学者。37歳で脳卒中になり、自分の脳が機能を失って行くさまを見つめ、そこからの生還を記録したものです。インディアナ大学で博士号をとり、ハーバード大学の研究員となり、その後ボストンのマックリーン病院で研究員として・・・こんな経歴を見たら、超エリート、とんでもなく近寄りがたい存在。     彼女の兄は統合失調症で、脳科学者になろうと思ったのも、そのためでした。脳卒中の発症のさなかに、彼女はかんがえます。「脳科学者が内側からその機能の失われていくさまを、研究できるなんて、なんてすごいことなの。」一人暮らしの彼女が、大半の機能が失われている脳をフル活動させて、助けを求める場面もすごい。その後の母親とのリハビリ、そして平安を得るまでの努力。こんなことを言っています。「挑戦して、挑戦して、又挑戦しなくてはなりませんが、1000回やってもなんの結果も得られないかもしれない。それでも、挑戦しなかったら、なにも始まりません。」ずば抜けた頭脳と驚くべき行動力。言葉や色の一つ一つjから学びなおさなくてはならなかった彼女が、現在インディアナ大学で教鞭をとり研究をしているのです。心に沁みる言葉を引用します。           「左脳マインドを失った経験から、深い安らぎは、右脳にある神経上の回路から生じるものだと信じます。この回路はいつでも機能しており、いつでもつなげることができます。・・・・・・・内なる安らぎを体験するための第一歩は、まさに「いま、ここに」いる、と言う気になることです。」          最近のおすすめナンバーワンの本です。

2010年3月11日木曜日

安野 光雅その2       童話屋社

安野さんの絵を初めて実際に見たのはだいぶ前になるけれど、中国の風景画展でした。感心したのは薄く色付けされているのに、それがなんの素材で出来ているものか、と言うことがわかるのです。土の壁だったり、レンガだったり、それはプロだから当たり前というかもしれないけれど、肌理の荒さやデコボコした感じが淡色で塗ってあるのに、どうしてここまで表現できるのか不思議でした。そして、えも言われぬ懐かしさ、自分が子供の頃に目にしていたような、田園風景。すっかり魅了されて、それ以来大ファンになりました。私が好きなのは数学者の森 毅さんの著書「数学博物誌」の挿絵です。森さんの安野さん評。「日本の数楽者。その絵筆をもって、数学を切り裂き、数学趣味に火をつけた。風呂に入ったときは、ただ陶然として、裸で走りだすような、はしたないことはしない。」  森さんの軽妙な文章と相まって、楽しい本です。一読お勧めです。ただ、時々というより、しばしば、理解できないのが残念ですが。数学もちゃんとわかれば、面白いのでしょうね。中学生レベルからやりなおしてみたいと、時々思います。

2010年3月10日水曜日

安野 光雅その1

浜田市に仕事があって、前の日に出かけた。萩石見空港。今、必要が無い空港の中にランクされているけれど、やはり、山陰に行く時は便利。便数が少ないので、朝の便を使うしかない。丸一日前日がつぶれるので、いっそのこと、観光しようと言うことになった。朝9時頃着く便しかないので、がんばって早起き。空港で車を借りて出かけた。まず、津和野に行こうと言うことになって、ナビに入力。女性コーラスの、ゆみこさん、しょうこさん。運転は勿論猫魔さん。しばらく走っていると、標識に反して左へ曲がれとナビさんが言う。  でも、津和野はあっちって書いてあるよね。  ブツブツ言いながら、ナビさんの仰せに従って、左へ。すると、どんどん寂しい田舎道に入ってしまう。これはおかしいから戻ろう、ということで本道にもどる。しかし、ナビは許してくれず、又誘導されてさっきの道にでる。そのうち、なんだか気味が悪いね、ここは、神話の国だし、何かの力で導かれているのかしら。などと言っていたら、  なあんだ、津和野と入力したはずが、前の入力された物を消していなかったことが判明。このナビは前を消さないと、次の分が入力できないのだ。やっと、津和野到着、駅前の安野 光雅美術館を訪れた。無断で絵を掲載してよいかどうかわかりませんが、ステキですよね。

2010年3月8日月曜日

田中 一村

伊藤 若冲を書いたら、思い出した人がいる。奄美大島にスキューバダイビングに行ったときのこと。4月とはいえ、その年は冬の間の日照時間が少なかったので、水温が上がらなかった。現地のダイバーがドライスーツを着ているのに、私たちはウェットスーツしか持っていない。他の人たちが歯を食いしばって冷たい海に潜っているのを尻目に、こんな冷たいのは嫌だと言って、すぐやめてしまう猫魔さん。だいたい、こんなに冷えて体に良いわけないじゃない。幸いひとり遊びが好きなので、いくらでも遊んでいられる。田中 一村の美術館があるというので、早速行ってみた。奄美は沖縄とも全く雰囲気がちがって、賑わいもなく、静かなたたずまい。細々と畑を耕し、染物をし、漁にでる。どちらかといえば、過疎地の感じがする。 その中で飛びぬけて立派なのが、一村美術館だった。ピカピカのガラス、広いホール、ゆったりとしてる。だが、本人の経歴を読むと、赤貧洗うがごとき生活で、姉と二人で一椀の粥をすすった等と書いてあり、その生家も移転して展示されていた。南国のこの辺では、雨露さえしのげれば問題はないとしても、そうとうなあばら家には違いない。  帰り道タクシーに乗った。一村の話になって運転手さんが「あの生家を移転するのに一億円かけたんですと」と言うから、思わず「そのお金、生きているうちにあげれば良かったのに」と言ってしまった。運転手さんはその後ずっと黙りこんでしまった。   事業仕分けで芸術も助成金が減らされて、アーティストたちの生活は逼迫している。建物にお金をかけるのは惜しまないのに、肝心の芸術にお金を出さない。矛盾していませんか。

2010年3月7日日曜日

伊藤 若冲 その2  金毘羅神社で呆然とする二人

いくらなんでも、あの有名なこんぴらさんが、こんなに人気がないのはおかしい。でも、長い階段はある。とにかく行ってみよう。オバサン二人はトボトボ歩き始めました。神社にたどり着くと、無人。となりのもう少し小さい神社に行ってみる。神主さんが現れ、ここも確かに金毘羅神社だが、金毘羅神社というのは、全国に沢山あります。あなたたちが行きたいのは高松の琴平さんでしょう。ここから、今乗って来た電車で高松に行って乗り換えなさい。時刻表を見てあげましょう。おっ、あと5分で電車が来る、でも、間に合うかな?とにかく、急いでっ。  走って走ってやっと間に合った。時間をだいぶロスしたけれど、朝早く出たお陰で、琴平さんに着いた時はまだお昼頃。ご開帳の襖絵を見るためには、長い階段を登らなければならない。駕籠があるけれど、人に担がれて登るのは恐そう。   襖絵はたしかにご開帳されていた。でも、照明が暗くてよく見えない。せっかく来たのだから、目をこらして長い間座って見ていたけれど、すっかり消耗した上に、不手際を友人にグチグチ言われて不機嫌になっていたので、感激はしなかった。しかし、メモに金毘羅と書いてきたのは貴女でしょう。それを今更、琴平と入力しなかったと言って責められても、私のせいじゃないよーだ。あとで、金毘羅を調べたら、四国だけでなく大阪や東京にもあるんですね。

伊藤 若冲 その1


恥ずかしながら、最近まで伊藤 若冲を知らなかった。初めて知ったのは数年前、週刊新潮のグラビアでした。こんな面白い日本画見たこと無い。早速絵に詳しい友人に電話すると、さすがですね、とっくにご存知。しかも、あの人もこの人も、みんなが知っているので恥入って、それから若冲詣でが始まった。上野の美術館や京都まで行ったり、挙句の果ては、琴平神社が100年に1度公開すると言う、襖絵を見にいったり。その時のこと。     猫魔さんはものすごくドジで知られています。なにか事が起きても、「ああ、あの人ならやりかねない」と言われる種族ですが、この時のはすごかった。友人から、メモが人伝てに回ってきた。若冲の襖絵が金毘羅さんでみられるという。すぐに行こうということになった。交通の手配をするためにパソコンを開く。羽田から金毘羅神社と入力。すると、松山空港からの行き方が現れたので、そうか、松山なのか、なにも考えずに、そのまま飛行機の予約をして、当日、松山からローカルな電車で、金毘羅神社前で下車。しかし・・・・・・・金毘羅さんと言えば、大した賑わいだと思っていたのに、たしかに神社らしい物もあり長い階段もある。でも、この人気のなさはなんなの。

2010年3月5日金曜日

犬そりを一番楽しんでいるのは?

それは、犬たちです。犬に橇を引かせて見物するなんて、動物愛護の精神に反すると思いませんか?現地で見るまでは、猫魔さんも多少後ろめたく思っていました。でも、犬たちを見た途端、全くそれは杞憂であることに気がついたのです。(杞憂の使い方、これで良いのですか?これも取り越し苦労の一種?あるいは杞憂にすぎないと、書くべき?わざわざ、大げさな言葉使うこともないのだが、)犬たちが目をランランと輝かせ、早く走らせて・・・・と、大騒ぎする顔は、まさに本来の犬の姿、ゴーサインが出ると狂喜して、走り出します。見るからに早そうな血統書つきの同じ犬をそろえたグループも居れば、ハスキー、ピレニアンマウンテンドッグ、セントバーナード、など、体は大きいけれど、あまり走るのが速いとは思えないもの、ゴールデンレトリバーと小型犬のダックスフントを組み合わせた、なにこれ?というもの、あるグループはリーダー格のセントバーナードがゆったりとUターンして、堂々スタートに戻ってきて、爆笑に包まれました。「はなっから走る気なんざあねえや。」と言わんばかり。家族中で自慢の愛犬と楽しんでいるのを見ると・・・・ねえ、たまさぶろう、私も犬を飼いたいんだけど。どう?・・・・あら、知らん顔で、耳の後ろ掻いてる。   雑魚屋という居酒屋さん、美味しかったです。

稚内へ犬ぞり見物

朝、北海道が大雪で、稚内空港が閉鎖されている、と言う情報が入った。その日稚内に行こうと思っていた猫魔さんは、じゃあ、行かれないんだ。すぐ、あきらめた。同行の予定のSANAEさんに電話して、あきらめようと言ったら、とんでもない、空港に来てみて、なんとかなるから、と言われる。
空港でSANAEさんは、まず、空港勤務の某有力者のご子息を呼び出し、なんとかして頂戴、と頼み込む。すぐ、諦めてしまう猫魔さんとは大違い。そして、本当になんとかなってしまった。まず、札幌に飛び、そこで稚内空港が開港するのを待つ、最悪、札幌泊まりになるかも知れないけれど、そこから、翌日に飛んでも良い。なんと、札幌で私たちを待っていたのは、可愛い花柄の小型機。稚内空港が開かれたらしい。バスのステップみたいに、地面から2,3段乗ると、もう、機内。 はじめ空港内を歩かされ、いったいどんな飛行機なのかと思っている私たちの目の前に、その花柄が現れたので、まさか、あれじゃあないわよね、と言っていたその飛行機だった。思わず、まあ、可愛いときゃあきゃあ喜ぶ私たち。ほかのビジネスマンらしい人たちはムッツリしている。もう少し喜んでもいいのに。 まあ、むりというものかしら。  稚内は海風が強い。着陸はいつも、よく揺れる。小さい飛行機は健気に海風と戦って、無事着陸。空港のそばに犬ぞりレースの会場があったので、ホテルに行く前にまず会場へ。会場のハウスの中では、暖かいカニ汁、焼きほたて、お餅などを、フウフウしながら、腹ごしらえをして、さあ、いよいよ、レースを見物に。
もう、眠いので、この続きは又あした。では、皆さんおやすみなさい。

2010年3月3日水曜日

もやは不思議猫

猫魔さんは4年前に乳がんの手術を受けた。ことの始まりは、体中を駆け巡る不快な違和感。その頃は激しく忙しくて、睡眠時間は平均4時間。このままだと突然死に至ると、自分でも危ぶんでいた。ある時、胸に痛みを覚えて手をあててみると、しこりにさわった。まさかとおもうけれど、もしや・・・不思議なことに、その頃毎週友人たちの夢をみるようになった。それも、亡くなったひとばかり。目が覚めると、ああ、又亡くなった人が・・と思って、これはなにかの知らせか。病院へ行って診てもらうと、たしかにしこりはあるが、たぶん良性のものでしょう。ガンなら痛みはないはずです。でも、一度検査のために採ってみますか?と言われる。良性ならとる必要も無いな、と思ったが、セカンドオピニオンを受けることにした。銀座の乳腺専門の女医さんは,とてもサバサバした人で、どうせいつかは切らなければいけないのだから、早くやってしまえば? と、言うし、それに後押しされて、手術を受けることがきまった。主治医の態度で、すぐにわかった。検査の結果は悪性。初めて自分の死を考えて、さすがの楽天主義者も何日か眠れない日々が続いた。そのとき、いつもはヒソヒソと部屋の隅でいたずらをしている 悪戯猫 もやが枕元に毎晩来て、そして、爪を出さないようにして、手でそっと猫魔さんの頬を撫でるのです。今思い出してもジンとくるけれど、本当にやさしく 心配しないで と言っているかのように見つめてくるのです。そこで、猫魔さんは考えた。 思い残す事ってあるだろうか?  無いですね。 好きなことだけやってきた人生。 急に元気が湧いてきて、2回の手術も無事終わり、初期の小さいうちだったので、リンパにも転移していない。再発のおそれはあるものの、今は傷口も、ちょっと引っかいたかなと思う程度。知らせに出てきてくれた、5人の亡き友人たち。慰めてくれた もや。ありがとう。手術後、2日めには、仕事を始めていました。

車離れ

我が愛車、ヴォルフガング アマデウス シルフィーの1年目の整備。お世話になった日産のHさんと、整備がすむまでの間四方山話がはずんだ。今、若者の車離れが深刻になっているそうで、一つには、車自体がにあまりにも至れり尽くせりになって、人の手が入り込む余地がないということが言える、と、彼は言う。整備に素人が手を出せる余地はなくて、整備士でさえも自分の腕の見せ所なぞ、全く無い状態だそうだ。猫魔さんが初代カローラで日本中を走り回っていた頃は、整備士の腕しだい、出す前と出した後では、目を見張るほど状態が変わったものでした。カローラはいつも四谷のZ整備工場で、もとレーサーのご主人とその辺を走り回りながら、色々相談して回転数なども決めていた。腕の良いご主人にかかると、山道でスカイラインと競り合っても、遜色ないほど良く走った。この車は左側のドアが腐って落ちそうになるまで、10数万キロも乗った。自分でプラグを換えたり出来たし、ファーストギアがシンクロでなかったから、ダブルクラッチを使ったり、オートマではなかったから、坂道発進も腕の見せ所だった。特に山道はギアを選ぶのが楽しくて、今でもマニュアル車に乗っている人も居るくらいだから、車の醍醐味が今、少なくなってきたと思う。自動車会社に言いたい。もう少し、手のかかる車を作ってほしい。年ををとるとなるべく簡単な操作で走れるのは有難いけれど、もう少し人が楽しめる、そんな車がほしい。簡単な構造にして、そして、値段を安く。お願い。

2010年3月1日月曜日

喧嘩の仲裁

この季節にたまに雪が降ることがありますね。それで、思い出すこと。 ある時、猫魔家の外壁の塗装にきてもらったことがあった。しばらくすると、外が騒がしい。大声が聞こえて、どうやら喧嘩らしい。そこは野次馬の猫魔さん、表へでてみると、なんと・・塗装屋と斜め向かいの家のご主人が鼻をつき合わせている。エスキモーのご挨拶かと思ったが、どうやら、二人とも怒っているらしい。考える事をしない猫魔さんは、いきなり二人の間に割って入った。どうにか引き分けて、塗装やさんを家に引きずって行き、今日はもう仕事しないで帰って頂戴。と、お願いして帰ってもらった。そのときお向かいさんは、「待ってろよ。今組の若い者つれて来るからな」と、のたまった。組?なんだろう。 30分くらい後、外に出てみると、いやに沢山車が止まっているのに、気が付いた。そして、お向かいさんが四つ角の真ん中に立ちはだかっている。猫魔さんが近くに行くと、一斉に車のドアが開いて、中から男たちが出てきた。なんなの、この人たちは。  猫魔さんはお向かいさんに「ここで喧嘩しないで。子供たちも大勢いるから、危ないじゃないの。するなら、多摩川の河原かどこかに行ってやってください。」と云うと、「あちらが先にしかけてきた、」とかなんとかブツブツ言いながら、戻って行く。そして、男たちも車に乗って行ってしまった。そのあと、警察官が来てお向かいさんのことを聞くから、「ご近所のことだし、口喧嘩だから、事を大きくしないで。」と、言ったら警官は、塗装やさんから仲裁をたのまれて来たのだと言う。   その夜、寝床でハッと気が付いた。あの人たちはその「筋」の人たちなのだ、と言うことを。突然、なんて向こう見ずなことをしたのかと思うと急に恐くなった。組って、その組なのね。あの車の男たちもそうなんだ。気が付かない人も馬鹿でしたね。         そして、次の日、何食わぬ顔で塗装やさんは、仕事に戻った。    その数日後、春先に雪が降った朝、お向かいさんがうれしそうに雪を見ていた。あとで聞いたら、新潟の人らしい。ふるさとを思い出していたのかな。     母に塗装やさんがそういう人だと言うと、「あら、あの子おとなしい、いい子だったのよ」  母にかかると、みんな子供になってしまう。 いい子がどんな風にその筋の人になったのか。    それにしても、素人のおばさんが仲裁にしゃしゃり出てくるとは、二人とも思わなかったのだろう。 二人に道ですれ違うと挨拶をされるようになった。猫魔さんには色々な知り合いがいるのだ。