2013年3月31日日曜日

間に合ったお花見

あまりにも早く咲きすぎたので今日のお花見までは花が保たないと思っていたが、かろうじて枝にしがみついて残ってくれた桜ちゃんたち。その代わり、ここ2,3日寒い。高齢者が多い「雪雀連」では、遠くから来る人たちが大丈夫だろうか。一人、インフルエンザから肺炎を起こして欠席と言ってきた。朝から支度に入る。昨日のうちに買い物は済ませ、後は切ったり煮たりするだけ。サンドイッチ、トマトサラダ、サケとタマネギの蒸し煮、チキンと根菜類のオーブン焼き、さくらご飯、海苔巻き、これが私の用意したメニュー。あとは皆さん何か一品持ち寄ってくれるので、いつも食べきれないほど。その後3日間くらいは残り物で済ませることになる。最近は残ったら持って帰ってもらうようにしている。そうでないと同じ物を食べ続けないといけなくなるので。常連さんは心得たもので、それぞれ持ってくる物が自然に決まってくるから、少しあてにしたりする。ワインは長年同じ所から取り寄せる。それも皆あまり飲めなくなってきているので、最近は時々断ることが多い。「皆歳で沢山飲めないし、うちは貧乏だし、もう3年はいらないわ」などと言って。しかし又最近皆さん盛り返してきて結構お酒も進むようになって、しかもお祝い事が多いので、このところせっせと取り寄せている。最高齢が84歳くらい。世界中スキーをして飛び回っている。その景色を絵にして展覧会に出す。すごいなあ。さすがにお酒は心臓のために少しひかえているが、それでもそこそこお付き合いしてくれる。よく食べ、よく話し、よく笑い、仕事もほとんどの人が現役。参りました。さて、今日は何人集まるかな。西武線が東急線とつながって来易くなった人も多いので、今日も沢山集まるでしょう。桜と言えば私が子供の頃教えていた桜子ちゃんが、蓼科音楽祭のコンクールで3位をとりました。初めてコンクールに参加してこの成績はビギナーズラックかもしれないけれど、まあまあ。来年はもう少し上位に・・・と師匠としては欲が出る。だから師匠の気持ちはよくわかるけど、私のパソコンのスキルはほとんど上がらない。不肖の弟子とは私のことで、パソコンの先生ごめんなさい。

2013年3月30日土曜日

壊れたシュレッダー

抽出しにずっと以前から使わなくなった銀行の通帳の束が入っていた。私の取引など微々たるものだけど、やはり個人情報が気になってそのままでは捨てられない。時々はさみで切って捨てていたけれど、それも面倒なので新しく電動の小型シュレッダーを買っておいたのが役に立つ。もちろん私のことだから取説などは読まない。読んでも理解出来ない。使ってみるとこれが中々パワーがあって、分厚い通帳の表紙なども苦もなく切り刻んでいくので、つい調子に乗ったのが悪かった。このくらいでも大丈夫かなと思って入れた通帳の表紙がグニャリと曲がって引っかかり、そのまま動かなくなってしまった。引いても押しても引っかかった紙はびくともしない。逆転装置も作動しない。あらま、初日に壊してしまったか。ふたを開けて見ると、ぎっしりと紙が固まっている。これではモーターが焼けるくらい動かしても絶対動かないに違いない。途方に暮れた。もう一個買おうか。これを買った時に手動のシュレッダーを捨ててしまったのが悔やまれる。詰まった紙の束を取り除けば動くかもしれないからやってみようと思って、まずモーター部分のねじを外して分解しようとしたが、出来ない。どう見てもねじさえ外せば二つに分かれるように見える。それができないならこのねじは何のために付いているのかなあ。私の力ではびくとも動かない。仕方がないから歯の部分に固まっている紙をキリの先でほじくり出す。初めは固まってしまって出てこなかった紙が徐々に出てきて、時々塊が取れる。よしよし、この調子。この作業をやっているときに気が付いたのは、こんなことが妙に面白いのだ。私はこういう作業に向いているのかもしれない。やっとほぼ塊が取れて試運転してみると、やったね!動いた。やれやれ、それではねじを元通りにしようと思ってねじ穴にはめ込んでいくと、どうしてもねじが一個余ってしまう。矯めつ眇めつどこをどう見てもねじ穴が一個足りない。もしかしたらこの最後のねじは私の頭から外れた物かもしれない。

2013年3月29日金曜日

初島へ

熱海から初島に渡る連絡船に乗った美女4人。多少生活に疲れあちらこちらガタが来ているものの、気分は女子大生。古典音楽協会の定期公演を終えてホッとしたところで、当日のソリストだったNさん、ピアニストのSさん、ヴィオラのFさんと私。一昨日は冷たい雨が降って旅行気分は多少萎えていたけれど、熱海駅で昼頃集合し、おじさんたちが集まる食堂へ直行。ここは本当に安いので、行ってみると行列が出来ている。そこで地物の刺身定食を食べて、バスで熱海港へ。そこから約30分ほどで初島に到着。私は乗り物のほとんどは好きで、どんなに揺れる飛行機でも酔ったこともないのに、唯一だめなのが船。スキューバダイビングをやっていたのに、ついに船には馴れなかった。子供が沢山いてうるさいから特別室に入って4人だけでゆったりくつろいでいたが、かなり揺れがあってほんの少し気分が悪くなった。それでもダメージが大きくなる前に初島に到着した。宿泊はエクシブというすてきなホテル。館内はリゾートホテルらしく開放的で、部屋は二つのツインベッドルームと広いリビング。海に向かって大きく開かれた窓、ベランダに出ると水平線とその手前には山桜が見渡せる。曇りがちで肌寒いので外に行くのはやめておしゃべりと館内でのショッピング。リバーシブルのロングドレスで昼間のサロンコンサートなどで使えそうな軽い素材の物が沢山おいてあった。このドレス、一枚で裏表二度楽しめる優れもの。4人でああでもないこうでもないと言いながら、それぞれ気に入った物を選んだ。この4人で一緒に弾く夏の松原湖でのコンサートに使うことにした。前々日のコンサートの疲れもあって、温泉に浸かったら爆睡。一夜明けて上天気となった。海は静かで帰りは快適な船旅。熱海でMOA美術館に行く予定だったのに、休館日だそうで断念。昼食は巨大な金目の煮付けと戦ったので、夕飯は食べられないほどだった。のんびりと楽しめたすてきな休日だった。これからお花見、沖縄旅行と続く。ああ、遊ぶのも大変!

初島の潮騒


春の穏やかな海の音を聞きながら、船を待っていました。

2013年3月26日火曜日

楽友

昨夜、東京文化会館小ホールで古典音楽協会の60周年記念定期演奏会が行われた。私がこの合奏団に参加する様になったのは、故三瓶十郎先生が亡くなられた前後。前後というのは、亡くなられる前にヴィオラのエキストラで時々演奏していたからで、その頃先生はすでに自力で歩くことさえおぼつかなかった。音楽とこの楽団に対する愛情と執念で指揮をなさっているようで、その姿は鬼気迫るものがあった。そして先生は亡くなられ、私はその直後から正規のメンバーとして加わるようになった。初めの頃はヴィオラを弾いていたのが、ヴァイオリンに一人欠員が出来たのをきっかけにヴァイオリンに移り、コンサートマスターの角道氏の隣で弾くことになって今日に至っている。今までどのくらいの年月になるか考えたこともなかったが、昨日のプログラムを見ると三瓶先生が亡くなって約30年経つという。それなら私も参加して30年!私は猫の性格だから縛られるのが大嫌い。大抵の団体に属しても3年保てばいいほうだったのが、なんと、この合奏団には居着いてしまった。他のメンバーもやめる気配もない。日本の合奏団の多くが途中で分裂したり消滅したりしている中で、ここだけはメンバーの不動を誇っている。それに加え、お客様たちも不動で、私の友人知人たちも、ほとんど毎回聴きに来てくれる。演奏者も聴衆も同じように年を重ねているので、客席からは暖かい応援を受けているのをいつも感じている。そして昨日はなんと満席で、急遽補助椅子を出すほどの入りだったそうだ。終了後ロビーは人でごった返していた。なぜこんなに長く続いたかといえば、人間コンピュータの角道氏が全ての企画を全責任を背負って決定する。それに対して意見を言わないわけではない。ちゃんと考慮はしてもらえるが、最終決定はお任せしている。つまらない競争やひがみなどがないのが不思議なくらいで、誰もが決定されたことの遂行に全力投球する。全員がソロを弾くように言われれば、ソロが出来るだけの技量は持っている。こんなことが長続きの理由ではないかと思っている。メンバーの皆が年をとっていくのでいつまで続けられるかわからないが、得がたい楽友たちとの残りの時間を大事にしていきたい。

2013年3月25日月曜日

下北沢も大騒ぎ

小田急線下北沢駅の踏切がなくなった。下北沢には仕事や遊びでよく行った。あるとき渋谷で電車にのったら人身事故で電車が止まってしまって、このままでは仕事に間に合わない。電車を降りてタクシーに乗り換える。ところがその日はお祭りがあって、下北沢の周辺は車の通行止めになっていたのでタクシーを降りて走った。そして例の踏切。地団駄踏んで開くのを待った。結局他のメンバーもその事故で電車に閉じ込められて遅れたので、出番をずらしてもらった。小田急の踏切には沢山の苦い思い出があるから、なくなって良かったと思ったのに、あの騒乱はなに?今までさんざん文句を言っていたでしょうに、なくなるとわかったら「今までありがとう」って。昨夜の最終電車が通過すると大騒ぎ。こういう意味のない騒ぎにはついていけない。小田急そのものがなくなる訳でも、下北沢が移転したわけでもない。私が興味あるのは工事のこと。どんな風にしたのか、それは見たかった。一晩で線路を切り替えるのだから。以前東横線の高架によって踏切がなくなり、その交差点は立体交差だったのが一晩で立体でなくなるというので、どのような工事をするのか見に行ったことがある。立体交差の上に電車の高架線がすでに出来ている。その下が立体交差の道路。その立体交差を取り除く作業は、最終電車が通過した時から始まった。一斉に明るくなり、どんなに大騒ぎになるかと思ったら、本当に静かだったのにはびっくりした。各々持ち場が数メートル四方と決まっているらしく、それぞれの作業員が自分の持ち場だけで黙々と作業している。パッチワークの四角い部分をはがしていくようにして、ねじを外し鉄板をずらしクレーンでつり下げ、それを運ぶ大型トラックに積み上げ、あれよあれよという間に立体部分は消えていった。その後はアスファルトでならすだけだと思ったので、野次馬おばさんは寝に帰ったけれど、それは見事なもので感動した。ねじの係はねじだけ、はがす人ははがすだけ。なるほど、誰一人右往左往してたり大声を出す者もいない。女だてらに工事現場を見るのが好きで、そんな作業を惚れ惚れとして見ていることがある。ずっと以前、紅白歌合戦の本番の日、20秒で舞台の転換をしなければならない現場にいたことがある。大道具さんたちが転換をするのだが、リハーサルでは一度も成功しなかった。それがいざ本番となったとき、見事に20秒で転換した。そのときの大道具さんたちの動きは死にものぐるい。舞台の高いところから見ていた私たちも手に汗握っていた。成功したときには一斉に拍手がわいた。どんな現場でも働く人たちは美しい。

2013年3月23日土曜日

お花見

家の前に桜並木があって、今日は人が沢山出ています。

2013年3月22日金曜日

東横線の延長

東急東横線が西武線とつながるという話は聞いていたけれど、最近花粉が怖くて出不精になっていたから、電車にも乗らなかった。今朝野暮用があって、最寄り駅から元町中華街まで出た。帰りは渋谷方面に乗るので駅ホームに行ったら、あるある、和光や川越市ゆきの電車が。本当に埼玉県まで直通になってしまったのか、初めて実感した。まだちゃんと調べてはいないが、清瀬なんていう駅とも直通になるのだろうか。清瀬には私のボウイングの先生がお住まいで、時々教えを乞いに行くのだが乗り換えが面倒で大変だった。そこにもちょくちょく行けるようになると、私はいまよりもう少し上手くなれるだろうか。それは無理かもしれないが、少なくとも先生のお宅に行ってから後の1週間は音がガラッと変わる。解放されたピュアな音が出せる。それが1週間も経つと元のもくあみ、あー残念。先生もそれをわかっていらっしゃるので、よくからかわれる。「この部屋から一歩出ると今言われたことを忘れるだろう。あっはっは」と。それでも私でもこんな音が出せるのだと嬉しくなるレッスンなのだ。急行の待ち合わせで乗ったのは石神井行き。石神井には友人が何人もいる。前に遊びに行ったときには、乗り換えが面倒ですごく遠い所だと思ったのに、直通なんだ。しめしめ。一度家に戻ってから、今度は渋谷の教室に出かけた。新しい渋谷駅も初めてだからわくわくしていたら、何のことはない。副都心線と同じ場所だった。ここは何回も使っているから、新鮮味はない。教室に行くには以前より少し遠くなってしまった。副都心線の開通の日にダイヤが乱れて大混乱だったのを思い出す。その日、私は仲良しだったN響のヴィオリストの永野さんのお通夜に出かけるつもりだった。なにかの都合でやめて次の日のお葬式に行った。そのとき会った人が、前日のお通夜に来ようと思い副都心線に乗ったら、電車が止まってお通夜に間に合わなかったと言っていたのでよく覚えている。永野さんの奥様が私の会葬をすごく感謝して下さって、それがとても心にしみて悲しかった。特に電車に関心があるわけでもないのに、こんなことを覚えているのも永野さんのことがあったから。今回の東横線と西武線の合体は混乱はなかったらしい。それでも東横線の最後の渋谷駅に人が溢れたそうだけど、私はそういう感情はよくわからない。最後だとか最初だとかにどんな意味があるのかしら。全てが時間の経過の一点にすぎないのに。

2013年3月19日火曜日

早すぎる開花

我が家の恒例の大お花見大会は、毎年3月の最終日曜日か4月の第一日曜日と決まっている。今年は3月31日、すこし早すぎるかと思っていたら、とんでもない、もうちらほら咲き始めている。これで31日まで保ってくれるだろうか毎年開花の時期を読むのに苦労する。もっとも我が「雪雀連」の人たちは別に桜が見たいわけでもないらしい。お花見と称する飲み会が目当てだから。花は咲いていようといまいと関係なく、私という花(ドライフラワー?)を見に来てくれるのだ。本当のところはそうではなくて、お酒のにおいにつられてくる。数十年続くこのお花見はなぜ私が主宰かというと、うちの前は見事な桜並木で、二階の窓は特等席。夜に入っても、センスの悪い提灯に火が点って、ぼんやりと浮かぶ花影は恐ろしいほど美しい。提灯はなんとかならないものかと思うが、商店街の人たちが自分たちの店の名前を年一回思い出してもらおうと、せっかく掛けてくれるので我慢しよう。今まで開花時期を読み違えたことはあまりなくて、ここ数年はヒットばかり。今年は3月では早すぎるかと思ったが、もしかすると遅すぎたかもしれない。今後の気温の変化によっては、当日は葉桜なんていやな予感もする。もうワインは届いているし、早くもビールを送ってくる人もいる。毎年スキーの先生からお酒が届くけれど、ご本人は一度もみえたことがない。この時期は立山の山開きの準備があって忙しいらしい。お酒を送ってくれる上に酒の肴になって話題を提供してくれる先生は、いい人だなあ。もっともこの席に先生がいたら、話題はスキーのことだけになってしまうので、皆辟易するに違いない。先生には、来年もお酒を送ってもらえるように、くれぐれも遭難などしないように祈っている。

2013年3月18日月曜日

春眠なんとやらというけれど

眠りたくない病は年取っても変わらず。夜遅くまでなんとしても起きていたい。パソコンの前でコックリ船を漕いでも、頑固にベッドに行かないこともある。必死で起きていてもうだめだとなるとやっと横になるから、そのままストンと寝てしまう。なんで動物は寝なければいけないのか。私は眠りたくないから当然いつも睡眠は短い。そのせいだろうか、脳が休まっていないので、いつもとんちんかんなことをしている。睡眠の足りた日にはお肌もつるんとしている。だから眠るのがどんなに体に良いかはわかっている。でも、せっかく生まれてきて、限られた時間しか生きられないのだから、起きていたい。起きてなにか有意義に過ごしているわけではないけれど、生きているのがうれしくてたまらない。先日スキーに行ったとき同室だったU子さんが言うには、私がベッドで仰向けで週刊誌を読んでいて、読んでいる格好のままで寝ていたそうだ。それから突然バサッと音がして週刊誌が落ちたという。そのまま私は気ずかずに朝までぐっすり。朝になって週刊誌がないと思ったら、壁とベッドの間にはさまっていた。一種の睡眠障害かもしれない。さっきテレビで、何かやっている最中でも突然眠ってしまう人の映像を流していた。それではないけれど、それに近いかもしれない。目がさめると、ああ、今日も生きていると思う。なにをしたいとか言うのでもなくて、生きているだけで感謝したくなる。こうして安らかに呼吸をして、お日様を見て、貧乏でもいい。モーツアルトが聴ければ。あは、ちょっと気障だった?私の心の奥底には常にいいようもない寂しさが存在している。これは、誰かと一緒にいても死ぬときは1人。それと同じで眠るときも、傍らに恋人がいようといまいと、眠りの中までは一緒にいられない。それがいやで眠りたくないのかもしれない。私の場合は両腕に猫を抱えて眠りにつくときは最高の気分ではあるけれど、それでも起きて食べたり、笑ったりしていたい。

2013年3月16日土曜日

成長

かつて教えていた生徒から連絡が来た。今彼女は音大の3年生になるところ。学期末試験、校内の弦楽アンサンブルのオーデイション共に上手くいったと、うれしいメールだった。これからコンクールの本選があるので聴いて欲しいという。S子さんが私の所に来たのは小学生になったばかりの頃。名古屋で育ち、お父さんの転勤でこちらに来た。初めて見た時にはびっくりした。ヴァイオリンの構え方、弓もどうしたらこんな変な格好が出来るかと思えるようなへんてこりんな持ち方で、それでも達者に曲は弾いてしまう。一つずつ丁寧に直しながら私が彼女に課したのは音階を徹底的に練習することだった。今のうちにたたき込んでしまおうと、カール・フレッシュの教本をいきなりやらせた。子供のうちに身についてしまえば、大人になって苦労しない。それでもペースはゆっくり。丁寧にやったので一つの調子だけで1年もかかった。それで彼女は3度や6度やオクターブの難しい進行も苦もなく弾いてしまう。そしていつかプロを目指すようになったので、次は受験のための先生捜し。さいわい演奏家としてもお人柄も尊敬できるYさんが私の次に教えて下さることを快諾して下さった。今音大生となってS子さんは青春まっただ中、次々と難しい曲に挑戦している。子供の頃、音階以外は厳しいことを言わずに好きな曲を次々に弾かせた。アンサンブルもどんどん弾かせて、音楽の楽しさを心ゆくまで味あわせた。名古屋で最初に付いた先生は恐ろしい人で、怒鳴り散らしてばかりいたそうで、そのために彼女は失語症になりかけたらしい。音楽の勉強でそんなことはあり得ない。思い出すのは柔道のコーチの体罰問題。言葉や実技で教えられないから体罰に走るのではないか。精神主義だけでは教えられないことを、本人も重々知っていたとは思う。時々何年も他の先生に習ったという人が私の所へやってくる。ひどい姿勢や弓の変な持ち方などを直していくと、楽器のランクが二つくらい上がったかと思えるくらい、見違えるようにいい音を出すようになる。自慢しているわけではない。それほど教えることの出来ない先生が多いということ。音大を出て演奏活動もせずに教えて、先生と呼ばれている人も多い。バッサリ言わせてもらえば勉強不足。私も日々新しい発見があるから、先生の名の上にあぐらをかいていては自身が成長しないばかりか、可哀想な生徒を作ってしまう。私自身の反省をこめてのことだけど。

2013年3月15日金曜日

断食を断念

このところとういうよりズーッと前から慢性食べ過ぎ症候群。去年、4キロほどの減量に成功。それ以来体重は何とか維持出来ているが、少しでもストレスを感じると食に走る性格は、いつでもリバウンドの可能性がある。特にコンサートの練習が夜遅くまであると、帰宅してから悩むところ。練習するとお腹が空く。家に帰って、今日こそは寝る前に食べるのはよそうと思っても、お風呂に入るとしっかりお腹が空いてしまう。我慢してベッドに入るのだが、寝付けない。しばらくモゾモゾしているうちに、はて、私は夢遊病者か。自然に足が台所へ向かい、カップラーメンなんぞを作ってしまう。なるべくこの様な物は食べないようにしているが、震災後、非常食用に買いおきすることが多くなった。前に買った物が賞味期限が切れるので、それを始末しないと~要するに食べてしまわないといけない。ついに、真夜中、自分を責めながら、カップ麺を食べる。しかし、これがおいしいのだ。人が寝静まった丑三つ時。舌鼓の音がピチャリ、ゴックーン、きゃあ~、これで明日は体重が500グラムは増えていると思いきや、そうそうすぐには増えない。そこが落とし穴で、少し油断した頃ドカッとくる。昨日アンサンブルの練習が終わったのが夜の9時半。一時間後に家に帰って、我慢するつもりだった。でも、夕方5時半頃におにぎりを一個食べたきりの胃袋が抗議の声を上げる。よしよし、ではほんの少し野菜をたべましょう。なだめても、騒ぎは収まらない。ついに、カップラーメンに手を出してしまった。今朝、罪悪感に襲われて、朝食はバナナとキャベツのジュースのみ。本日から断食に入ろうと思ったので、午前中レッスンを受けに来た生徒の前で、お腹がグーと鳴る。それでも午後3時頃まで我慢。そういえば冷蔵庫に、ホッケの脂の乗ったのがあったっけ。いつの間にか手が自然に動いて、味噌汁を作りホッケを焼く。焼いてしまったから食べないとホッケさんのご供養にはならない。あ~あ、これでもう断食の決心は吹き飛んで、ホッケは胃袋におさまってしまった。それでは、今夜から!本当かなあ。

2013年3月13日水曜日

小布施

今朝も上天気。昨日滑るのは堪能したので今日は滑らないでゆっくり遊ぶことにした。ホテルのチェックアウトまでグズグズしてからバスに乗る。特急の長野行きに乗ってしまえば簡単なのだが、湯田中に出て長野電鉄で小布施に行こうと相談がまとまった。最近は長野駅から直行バスで志賀高原まで行けてしまうので、湯田中を通るコースは使わなくなってしまった。久しぶりの湯田中は、お土産物を売るお店も店じまい。以前よりさらに寂れたような感じがする。ちょうど来ていた特急に乗って小布施で初めて下車。降りてみると、そこはこじんまりとしたきれいな街で、古い民家調の家並みが映画のセットのようだ。私の目的はそこで昼食に栗おこわを食べること。U子さんは軽井沢に別荘を持っているような人だから、この辺には詳しい。有名な店もいいけれど奥の方のお店もおいしいというので、そちらに向かう。豆乳鍋と栗おこわのセット。豆乳鍋がおいしくて夢中で食べる。豚肉、エビ、サケ、野菜、キノコなどの味が良く出ていて、スープがおいしい。小食だと長寿になるという説があるけど、くそくらえ(失礼)。おいしい物をお腹いっぱい食べて何が悪い。健康診断で血管年齢、骨密度共に非常に若いと言われるのはよく食べ、よく笑うからだと思う。胃腸が弱ってきているのが残念で、それさえなければ、おかわりしたいくらい。腹ごしらえの後は葛飾北斎と中島千波の美術館巡り。北斎の迫力に圧倒され、中島千波の絵に心が明るくなって骨董屋を覗いたりしているうちに、おやつが食べたくなって先ほどのお店に逆戻りした。オーブンで表面を少し焼いたどら焼きにアイスクリームを添えたメニューが気になっていたのだ。結局2人ともそれをぺろりと平らげて、満足して帰宅の途についた。長野には毎年何回も行くのに、小布施に行かなかったのは惜しいことをしたと思った。

奥志賀夜景

2013年3月12日火曜日

上天気の奥志賀

前回、奥志賀高原から写真を送ったつもりだったのに、またもや失敗。いつもスキー場から送ると失敗するのはなぜ?うちに帰ってから改めて写真送信。あまり良い写真でないけど。さて、今回の同行者はU子さん。先日「雪雀連」のスキーレッスンにお誘いしたところ、彼女のスキー心に火が点いたらしい。この次は奥志賀へと誘っていただいて奥志賀高原ホテルに泊まることになった。午後東京を出発して夕食はホテルグランフェニックスでイタリアン。レストランが混んでいて、待たされている間にチーズをつまみにチンザノを飲む。大きなガラス窓から見えるライトアップされた白樺と雪景色を眺めると、もう浮き世のことは頭からすっぽりと抜け落ちて、ひたすら幸せ気分。食事はパスタとリゾット、サラダ、生ハム、そして2種類のデザート。どれも大満足。ほろ酔い気分で雪の中、隣の我が宿まで歩く。次の日の奥志賀は今まで私がスキーに行った中でも最高のお天気。雲一つない晴天の上風もなく、穏やかな一日となった。気温もちょうどいい。寒くもなく汗ばみもせず、すべて完璧。U子さんが知り合いのガイドさんを頼んであったので、奥志賀出発、そして前回の投稿にも書いたが、リフトとゴンドラを乗り継いで、それぞれのゲレンデを滑りながらの移動。広い志賀高原スキー場は、ゲレンデごとに雪質も様々に変わる。サラサラだった雪が次ぎのゲレンデではガリガリに凍っていたりする。斜面が北か南か、木が多い少ない、気象条件とかで変化するのが面白い。U子さんは達者に滑るし私もスキーは経験豊富だから、ガイドさんも遠慮なく滑って行く。東館山山頂からの眺めはアルプスを一望のもとに、槍ヶ岳の尖った頂上までもが黒く見えるほど。志賀高原の各スキー場がはっきりと見渡せるなんて、こんないいお天気でもない限り出来るものではない。しかもそよ風ときている。良い気分で帰路につく。所々歩かないといけないところがあって、私はこれが大の苦手。脚力、肺活量ともに弱いので、あっという間に息が上がってしまう。そのかわり滑る方は、脱力が出来ているのでほとんど疲れない。長距離は一向に苦にならない。ガイドさんと別れてご機嫌でホテルに到着。夕飯は和食御膳、前日の濃厚なイタリアンとは正反対の優しげな和食も良いものだ。最近私は体力に自信がなくなっていたので、スキーもゆっくりしたペースで、半日も滑れば良しとしていた。今回こんなに一日中滑っても、ほとんど若い頃と同じように滑れるのが不思議でならない。力まないで滑れるようになったからか。上天気のお陰もあるけれど、まだ体力も十分にあるのがわかって嬉しかった。これなら来年も大丈夫かな?

2013年3月11日月曜日

奥志賀高原

昨夜から奥志賀高原に来ている。昨日は全国的な悪天候で、到着したときは日もすっかり落ちて、雪が舞っていた。グランフェニックスのラウンジの大きなガラス窓から撮影したのがこの写真です。今日は昨日とうってかわって素晴らしいお天気になった。奥志賀を10時ころ出発、焼額山から一ノ瀬ファミリーを経て寺子屋、東館山山頂から林間コースを通って発哺からゴンドラで東館山山頂に戻り昼食、一ノ瀬から焼額山を経て奥志賀高原に戻った。こんなに沢山滑ったのは何年ぶりだろうか。ヘトヘトになってホテルに戻った。東館山山頂から見えた絶景を明日お見せ出来ればと思います。

2013年3月10日日曜日

ドレスの着こなし。

日本アカデミー賞の授賞式に出席した女優さんたちのドレス姿の写真を見て思ったこと。日本人の中でもトップクラスの美しい人たちなのに、なんとも垢抜けない。たぶん有名デザイナーの作品だと思うけれど、髪型や歩く姿がいけない。今やスタイルや姿勢も海外の人に負けず劣らず良くなっているのに、なんだか表情が暗くてドレスが身に付かないのはどうしたわけ?特に首が前に出て顔がうつむき加減なのがいただけない。スタイルがいいので露出過剰な人もいるけれど、欧米人に比べて淫靡な感じがするのは、本人がそれを恥ずかしがっているからではないか。欧米の人たちは元々肉体に対しての羞恥心が薄いのかもしれない。露出してもスポーティーで嫌みがない。若い人は女優さんといえども毎日イブニングドレスを着ているわけではないので、いかにも着馴れていないという感じがする。それにしても一般人よりは美しいし着るチャンスがあるのだから、もう少しすてきに着こなしていただきたい。借り物の衣装の様な印象を受けてしまう。体にまといつくように見えないで、衣装だけが浮き足立って見えるのはどうして。たぶんすごくお高いブランドものだろうに。高いブランド物に中身が追いつかないともいえる。髪型もなんだかやぼったい。しかも黒いドレスが多い。まるでカラスの集団のようだ。周りにプロのスタイリストが沢山いるのだから、なんとかならないものかしら。さすがに吉永小百合さんは凜として美しい。心の持ちようが人よりも強いからか。そうなると着こなしよりも生き方の問題になってくる。樹木希林さんのちょっと着崩したような着物姿もすてき。結局本人の魅力と外側の衣装がマッチしなければ、どんなに着飾っても魅力的ではないといえる。

2013年3月9日土曜日

大家は親も同然

私の家は2階が住居とレッスン室、3階が貸し部屋になっている。店子が2世帯の小さな集合住宅だけど、いつも良い店子さんに恵まれる。今日はそのうちの一軒が引っ越す。お子さんが小学校に上がるので学童保育の問題があって、より便利な所に移るという。残念だなあ。新婚でうちに見えた2人に子供が生まれ、その子の成長を楽しみに見守っていたのに。産まれたばかりの男の子は夜泣きがひどくて、近所中に響くような大声で毎晩泣いた。親としては身の縮む思いだったと思う。ある日ご主人に「毎日泣いてすみません」と言われたから「泣くのは子供のお仕事よ、気にしないで」と言ったら「お仕事しすぎるんですよ」と言ったのには笑った。上でバタバタ走り回るのも気にはならなかった。男の子がいるのに部屋はいつもきれいになっていて、玄関に脱ぎ捨てた靴など置いていない。すっきりと整っている。テレビがデジタル放送に移行するとき、アンテナ工事に来たパソコン名人がその部屋に入って「あのお宅は、こんな家の子に生まれたかったと思うような理想的なうちですよ。それに比べてこの部屋は・・・」じろじろ我がゴミ屋敷を見回してのたまわった。奥さんがとても潔癖症で、うっかり子供に物をあげたりするとその子が叱られている声が聞こえて、首をすくめたことも何回かある。泣き声がふとある日話し声に近くなり、ああ、もうすぐしゃべるようになるなと思ったら、あっという間におしゃべりが始まった。我が家の前の踊り場に沢山ミニチュアカーを置いてあげたら、毎日それでしばらく遊んでいく。それでも決して持ち去ったりせずに返す時は私がいなくても「ありがとうございました」と声が聞こえる。目のくりくりした可愛い子が今日から見られなくなるかと思うと寂しい。同じ頃同じような年代の家族が向かい合わせに住んでいたことがある。その家族は数年前、家を建てて引っ越していったけれど、時々この家が懐かしくてと言って近くまで散歩にきてくれる。店子は子も同然というけど、やはり情が移る。今、息子の家族が独立しておいて行かれる母親の気持ちがほんの少しわかる。

2013年3月8日金曜日

沖縄ツアーに申し込む

Sさんとの巡り会いは、鳩山寛さんのことを探していた彼女からの連絡で始まった。私が偶々nekotamaに鳩山さんのお名前を出したのがヒットしたそうだ。今年初め、Sさんは鳩山さんに会いに沖縄へ。私はそれにあわせてほんの少しでも顔を出したかったのだが、何かと忙しいうえに体調不良。あきらめて後日ということになった。そして2月頃には行くつもりでいたのが、友人たちが一緒に行きたいというので総勢5人、4月初めに実現の運びとなった。旅行の手配はこんなことになれている私の役目、ネットでさんざん探し回って、初めの設定が2泊3日29500円と言うのを見付けた。これは安い!早速電話すると、なんだかんだ言っているうちに、差額が生じるという理由でどんどん値段が上がってくる。29500円というのは、往復の飛行機の飛ぶ時間がえらく中途半端な時間設定になっている。羽田を14時過ぎに出て那覇到着17時に近い。それからレンタカー借りたり、ホテルにチェックインやなにやらで、その日は夕食を食べるだけになってしまう。男の人なら夜の巷も面白いかもしれないが、おばはん5人ではねえ。それで朝の便に替えてもらうと5000円くらいの差額料金が発生する。帰りも同じ。せっかく沖縄まで行って、朝帰るなんて・・・というので又延長すると差額を取られる。ホテルの部屋もセミダブルに2人で寝るなんておっそろしい設定になっているのを、ツインに替えてもらうと差額が生じる。なんやかやで結局4万円ほどになってしまった。それでも安い。ホテルも中々ゴージャス。レンタカー、美ら海水族館の入場券、7カ所の観光施設の入場券、夕食1回、朝食2回つく。全部ひっくるめての4万円だから、飛行機の往復料金よりも安いことになる。やっと手配が済んだところで鳩山さんに電話すると、お元気そうな張りのある声が聞こえた。大勢で押しかけたら、賑やかなことの好きな鳩山さんは喜んでくださると思う。しかし、5人の小うるさいおばさんたち、果して世の顰蹙を買わずに道中無事なものか、私の心配の種はつきない。

2013年3月7日木曜日

艱難辛苦

私の家事計画がGoogleのカレンダーから送られてくるようになっている。超のつく家事下手の私は、何がいやかといって家事は際限なく続くことで、いつ、どうやって切り上げればいいのかわからなくなる。家事名人に言わせれば計画的に部分的に掃除していけばいいのだそうで、毎週決まった曜日に何をするか決めてカレンダーに入れてもらった。指示に従ってすると、なるほど、これはいい。今日は加湿器のフィルターの掃除。明日はカーテンを洗う・・・など。ところが今朝空気清浄機のフィルターを何気なく開けると、驚いたことに昨日掃除したばかりなのに、もう猫の毛だらけ。これも1週間おきに掃除する設定になっていた。でも、それは普通のうちでのこと。猫が3匹もいる私の家では常識は通用しない。こればかりは読みが甘かったといえる。家事はやり始めたらキリがない。知り合いにとてもやせている人がいて、彼女は目が覚めるとすぐに雑巾を手に持つそうなのだ。綿棒で窓の桟などの汚れもほじくり出すらしい。せっせとお掃除をしているお陰で少しも太らない。私はお掃除をすると達成感よりも挫折感の方が大きい。あまりにも汚れ放題なので、どこか一カ所やってもきれいになった気がしない。かえってストレスになってしまう。今日も少しだけお掃除をしたら、ストレスで余計な物を食べてしまった。いつも夕飯は主食抜きなのに、どうしてもスパゲッティが食べたくなった。その気になると結構料理はやる方で、今日はことの外上手く出来たのでつい完食。お掃除でやせる人太る人、性格の問題なのだ。シンク磨きなどは私にとっては艱難辛苦。なーんて、これが言いたくて書き始めたのさ。

2013年3月6日水曜日

夜更かしは3文の損。

前回の記事で寝るより遊んだ方がいいなんて書いたけれど、反省!今朝肌のケアに北里の美容外科に行ったら、先生から「あら、荒れていますね。どうしたんでしょう。肌理がなくなっています」と言われてしまった。なるほど、何とかスコープの写す画面にはいつもと大違いの荒れ果てた肌が写っている。肌理がない。年齢を重ねて、若い頃のように何をやっても一晩寝れば治るというような、輝かしい時代は終わったのだ。先生曰く、「夜10時から夜中の2時までは眠らないといけない」そうだ。先月行った時にはしっかりと肌理はあった。この一ヶ月なにか悪いことをしたかというと、食べ過ぎ、飲酒、夜更かし、運動不足、麻雀ゲームのやり過ぎ。胃腸も荒れている。しかし、夜10時に寝たら2時に目が覚めて、そのあとどうしていればいいのかしら。楽器を弾くわけにもいかない。読書は目が疲れていけない。結局又焼酎のお湯割りなど作って、チーズをつまみに一杯・・・となる。そして又寝る。むくみが出て朝起きられない。たまさぶろうがやかましく餌の催促をするので、いやいや起きる・・・不機嫌、となる。一番の原因は胃腸の不調にあると思う。定期検診を受けようと思ってから、早くも1年が過ぎてしまった。私の場合は乳がんの手術をしているので、1年に一回は再発のチェックをしないといけないのが、無精なのと少し避けて通りたいのとで、さあ、今日行くぞと決心するまでが中々大変。胃腸は今年の初めに体調を崩して以来、あまり良くない。何よりも良くないのは食欲がなくなったこと。そのくせ食べ始めると、以前と同じ量を食べないと気が済まない。食べたくもないのに、時間が来ると食べる。元々健啖家で、男性に負けないくらいよく食べた。朝からステーキOKだったくらい。考えてみれば(考えなくても)もうそれほど食べられる年ではなくなっている。先日死んだなっちゃんだって、あれほど大食いだったのに、徐々に食欲がなくなったのだから、私もそういう年齢なのだ。これからはなるべく早寝をするように心がけよう。寿命はどうでもいいけれど、肌荒れは困る。そして生涯すっぴんが目標。塗っても代わり映えしないということもあるけれど。

2013年3月5日火曜日

啓蟄

今日は啓蟄だそうで、私も昨日までの死んだふりを脱却して、今日はもぞもぞと動いている。昨日までは寒くて暗くてなにもやる気が起きなくて、一日パソコンで麻雀ゲーム。こんなことではいけないと思っていても、画面に釘付けで夜更かしをしてしまった。今朝は寝不足でさぞ頭が痛いだろうと思っていたら、意外と元気なので驚いている。元々ショートスリーパーで、体力がないせいか沢山は寝られない。寝過ぎると次の日一日調子が悪い。せいぜい5時間寝ればいい。眠らない自慢をしているわけではない。それ以上寝ても何の効果もないから。健康のために7時間から8時間ねむらないと、免疫力が低下するという脅し文句をよく聞く。しかし、私の父は96歳で死ぬまで医者いらず。矍鑠としていた。しかも沢山寝ない、沢山食べないで。父親そっくりの私も少ししか寝ないことは全く心配していない。たとえ毎日7時間睡眠をとっても、寿命が延びるのはせいぜい1年くらい?だったら元気なうちに寝ないで遊んだ方がいいでしょう。よれよれして長生きするより、私の父のように最後まで元気でいる方が、たとえ眠らなかったことで1年くらい早死にしたところでずっと幸せ。父はテレビで高校野球を観戦しながら、ストンと亡くなってしまった。人々がうらやむような死に方だった。たぶん、本人は自分が死んだことに気が付いていなと思う。その瞬間まで気分が悪くなったりしていないと思う。財産は全て食いつぶして、やりたい放題。寝るのはせいぜい4,5時間。たばこはヘビースモーカー。それでも健康で楽しい人生が送れるというサンプルのような人。父親のように私も生きたいものだと思っている。やっと春が本格的に感じられるような今日から活動開始。虫のようにノロノロであっても、まだもう少しヴァイオリンが楽に弾けるように勉強するしかないなあ。先日のお元気な先輩たちの演奏を聴いてしまったから。

2013年3月3日日曜日

館野 泉フェステイバル

左手の音楽祭  東京文化会館小ホール
館野泉さんは病気のために大事な右手の自由を奪われて、それ以来左手だけで演奏している。ピアニストにとって手は命。その半分の命が失われ、想像を絶する辛い思いをなさったと思う。今彼は見事に左手だけの演奏でよみがえった。まず音のすばらしさ。力強くて繊細で、ピアノをオーケストラの様に鳴らすかと思うと、純粋で混じりけのない美しいピアニシモが耳を洗ってくれるようだ。目をつぶって聴いていたら片方の手だけで弾いているとはとうてい思えない。曲が限られているので、新しく左手のために書いた曲をレパートリーにしなければならない。もう高年齢の上に、以前弾いていた曲は捨てて全く新しい曲をものにしていくのは並大抵の努力では出来ないことなのに、一曲弾き終わるといかにも嬉しそうに観客席を向いてニッコリなさる。きれいな銀髪に柔和なお顔がマッチして、演奏だけではないお人柄の魅力も人気の秘密かもしれない。共演者は館野氏の弟さんのチェリスト英司さん、息子さんのヴァイオリニストのヤンネさん他。嬉しかったのは私が音大生の頃、すでにN響のスタープレーヤーだったクラリネットの浜中浩一さん、トランペットの北村源三さんなど、懐かしい方たちがお元気で演奏なさっていたことだった。北村さんはスキーがお好きで、私も舞子高原スキー場でご一緒したことがあって、今日も終演後の楽屋でそのときの話しで盛り上がった。それから館野英司さんは古ーい知り合いでうん十年お目にかかっていなかったので、今日は顔をわかってもらえるかと心配だったが、目が合ったとたんに、あっという顔をされて、一気にタイムスリップして旧交を温めた。打ち上げにお邪魔して一緒にお酒を飲んでいると、もう歳月はすっかり若い頃へ逆戻り。いつも思うのは、年を重ねた人たちがなんと魅力的かということ。心の琴線にふれる音楽は、長年の熟成を重ねた演奏者たちからでないと伝わってこない。若さは輝きではあるが、イコール未熟でもある。今日のコンサートはそういう意味で、本当に楽しめたすてきな演奏会だった。

2013年3月1日金曜日

最近思うこと

先日からなにかと思い出す人がいる。チェリストのMさん。私がオーケストラに入ったばかりの頃、鳩山寛さんともよくアンサンブルをしていた人で、私はその頃から合奏仲間としてずっとお付き合いをしていた。彼は音大を出ていないけれど、すばらしいチェリストだった。音大を出ていないのでいわゆる楽壇には属さず、一匹オオカミ的な存在だったが、その技術は高く評価されていたし、横浜を拠点として数々のコンサートに出演し、自身の主宰するコンサートも数多かった。私は忙しいオーケストラの仕事の合間を縫って室内楽をするために、練習は早朝か深夜になることが多かった。Mさんは朝5時頃私の自宅に迎えに来てくれて、6時頃から江古田のギタリストの家で練習し、9時に終わると大久保のオーケストラの練習場まで送ってくれた。夜は9時頃演奏会が終わると、営業の終わった不動産会社の部屋を借りて夜中の12時頃まで練習、そんなことが何年も続いた。それだけでなく次々に演奏の機会を与えてくれて、ほとんどの室内楽のレパートリーはMさんとの演奏で得たものだった。地方に演奏しに行くときにはやはり自宅まで迎えに来てくれて出発するときに「靴は持った?楽譜は?忘れ物はない?」などとお父さんみたいに面倒をみてくれた。約25年以上のお付き合いだったのに、私はだんだん生意気になっていき、彼はだんだん年を取っていった。私はまだ上昇したいのに、彼は楽に演奏したがった。そんなことを斟酌しないで、もっともっといい音が出したいと思う私は練習の時に彼を責めた。ちょうど結成した弦楽四重奏団が10年を迎えた頃だった。4人の音が練れてきて、もう一息がんばればもう一段階音が良くなるのに。追い詰められた彼は「自分の居場所がなくなった」と言って去っていった。ある大雪の降った日に「死と乙女」を演奏したのが最後になって、弦楽四重奏は解散。その後は会うこともなかったが、この数日しきりに思い出す。どうしているかな。鳩山さんと同じく私の恩人である。会えたらお礼を言いたい。それとお詫びもしたい。