2020年4月30日木曜日

仁和寺の僧侶はヴァイオリンが上手い

毎日だれかしら電話やメールで私の生存を確かめに来る。
友人が手短に「声が元気そうね、安心した」
もう少し話をしようとしたら「生きてればいいのよ」プツン。
私の元の生徒から「先生、おげんきですか」とメールが入った。
大学の事務をしていて、勤務は今はひまなのだそうで。
「You Tubeでお坊さんがヴァイオリンを弾いている動画みました。URL貼り付けられないので仁和寺ヴァイオリンで検索すれば出ると思います」
さっそくYou Tubeで見つけましたよ。
御詠歌と風の音と一緒になって、今の大変な時期を忘れそうなくらい心が静まります。



衣が風に靡いて格好良い。
このお坊さんは仁和寺のかたではないらしい。
演奏旅行?うちの方にも来てくださらないかな。



2020年4月28日火曜日

過食の戒め

こんな時期に最悪!風邪をひいた。
咳喘息のために吸引していたステロイドの薬の効きが悪くなって、軽く咳が出始めた。
これはいかん。
大もとは不摂生のため。
風呂上がりに薄い寝間着のままパソコンでゲームに興じていたら、体が冷えて喉が痛くなった。
特に気温が下がった日だった。
バスタブにお湯をはるとき温度設定が低めだったらしく、入ってみたらぬるかった。
いつもより長く浸かったものの、短気が災いして十分体が温まらなかった。
その上深夜までのゲームざんまい。
これではね。

その前にも原因があった。
暇なので自分に注意が集中する。
まず食生活の充実を図った。
一番好きな朝食はそれこそ盛りだくさんで、まずキャベツとバナナのスムージーをどっさりと飲む。
そのあとでじゃがいもや玉ねぎがたっぷり入ったスペイン風オムレツ又はチーズたっぷりのオムレツなど、日によって違うけれど大量に食べる。
はちみつ入りのヨーグルト、それにウインナーソーセージなど添えることも。
高校生くらいの男の子が好きそうなあさごはん。
その後は徐々に軽い食事になって、夜は控えめにビールのつまみ程度。
こんなことをしていたらジワリと体重が増加した。

足首が痛むので歩くのは控え目だった。
そんな自分を鼓舞するために、朝からせっせと歩くことにした。
それにダイエットをせねば。
これが良くなかった。
朝歩くと、とても爽快でシャンシャン歩けるけれど後がいけない。
夕方歩くより疲労が溜まるようだ。
その上、朝歩いたのに夕方も歩くようになった。
いつでもなんでもやりすぎるのがいけないのは良くわかっているのに、又やってしまった。
疲れが溜まって少し喉が痛くなったところで「ああ、またやってしまった」
風邪をひくと一気に悪化する。
まず喉が腫れ上がり、すぐに気管支炎になってしまうのがいつものパターン。

その後朝の目覚めが悪く、二度寝をしたらいくらでも眠れる。
このまま永遠の眠りについてもおかしくない。
起き上がると耳の奥に疼痛がある。
耳鼻科の病院に行くべきかどうか迷った。
今の病院の待合室はこわい。
行くか行かないかどうしようかと迷っているうちに、夕方になってしまった。
珍しく食欲が無いから、朝はお粥に梅干し、鮭の西京漬けを一切れ。
これが美味しい!
昼もお粥に梅干し。
いやいや、日本の食べ物は本当に美味しいと感激しているうちに夜になり、胃の具合もすこぶるよろしい。

そんな日が2日ばかり続いたら、体重は減らないものの、足の故障が軽くなった。
カロリーが高い脂分多めの食事から和食に切り替えたら、即これほどの効果があった。
風邪は悪化せずに快方に向かった。
食べすぎると私は風邪を警戒する。
風邪の前兆が私の場合過食なのだ。
それと張り切って運動過多になったときも風邪をひきやすくなる。
わかっているのに、わかっているのに、同じ過ちを繰り返すところが馬鹿。

長い間足が痺れ、足首が痛かった。
和食に切り替えたからかどうかはわからないけれど、不快な足の痺れも消えた。
年をとってからも筋肉のために肉食が良いと言うけれど、私の場合は食べすぎ、メスライオンだから仕方ないけれど。
久しぶりにイワシの梅肉煮を作って食べたら、これも美味しい。
肉も魚も油分も野菜も全部美味しいでは、この小さい体に詰め込みすぎてこれが疲労のもとになる。
もう少し自制力がないといけないと、いたく反省したしだい。
風邪はすっかり良くなった。

ああ、それなのに、今流行りの料理のレシピ本を買ってしまった。
最近レシピを見ることなど殆どないのに、カフェごはんというタイトルで簡単で美味しく見栄えも良いレシピが載っている。
手間いらずのレシピは「なんだ、私がいつもやっているやつじゃん」というレベルだけれど、どうしてこんなに美味しそうに見えるのか。
盛り付けの良さと、ほんの一手間が違うのか。
これを作って食べると又太りそうで恐ろしい。
2キロ、いや後1キロでいいから、体重を減らす決意を新たに・・・したいnekotamaなのにゃ。


















2020年4月27日月曜日

想像力の欠如

長い休日が始まる初夏のこの気持ちの良い時期に、子供や若者にじっとしていなさいというのは無理があるとは思う。
けれどじっと我慢が大切なのだ。
スーパーや商店街、パチンコ屋など、大変な混雑だそうで、その客の大半が中高年のいい年した大人たち。
スーパーでインタビューを受けた中年女性がブチギレた。
「私はなま物なんかその日に買わないといやだから3日に1度なんて無理なのよ」
こういう時期に毎日なま物を食べなくても、どのようにもできるじゃない?と思う。
ライオンじゃあるまいし。

たぶん彼女は買い物にきたことを非難されたと思っているのかも。
買い物はしないと生きていけないけれど、なが~い人生のうちのたった数ヶ月。
3日に1度が我慢できないってどういうわけ?
一気に皆が我慢できれば早くコロナが終焉して日常生活に戻れると思うのに、一握りの忍耐不足の人たちが感染拡大に手を貸してしまう。
なま物は冷凍技術の発達した最近では、冷凍食品が役に立つ。
料理の宅配もあるし。
それでも嫌なら毎日海に釣りに行くことをお勧めする。

私は1週間に1度まとめ買い。
レジの人が「あらあら沢山」なんて言うほど買い込んで、あとはひたすらもぐもぐ食べる。
冷蔵庫が寂しくなるとスーパーへ狩りに出かける。
車の運転ができない人だとこれは無理だと思うけれど、それでも3日分くらいは徒歩でもなんとかなる。
キャスター付きの買い物バッグだってあることだし。
姉が車の免許を返納してしまい後悔している。
田舎暮らしやまとめての買い出しには車はどうしても必要になる。

最近楽器のメンテナンスに出かけた。
弦楽器工房に行くと調整に30分ほどかかると言うので、外に出かけた。
ちかくの中華料理屋さんの前で野菜を売っていた。
休業のため使わなくなった野菜がもったいないといって、店頭で販売していた。
ネギ、玉ねぎ、ピーマン、きゅうりや小松菜など、どっさり入って1500円。
安い上にすごく新鮮なので買い込んだ。
路上だし混んでいないし、野菜は美味しそうだし。

半分姉に届けると、食料のストックが少なくなったという。
姉には子供がいるから良いけれど、一人暮らしの足腰の弱ったお年寄りはどうしているのだろうか。
ボランティアで買い出しのお手伝いでもしようかと思うけれど、その私が買い物のためにウイルスの漂う店にいって感染しては元も子もない。
とにかくじっとしていよう。
それでも感染することがないとはいえない。
こればかりはめぐり合わせなのだから。
私だってか弱い年寄なのだ。
すぐに忘れて無茶するけれど。

休業要請に従わないパチンコ店の名前を公表するというのは、逆に宣伝効果になるのでは?と危惧していたら、案の定、すごい人数の人が押しかけている。
この人達をひとまとめに店に押し込めて、出られないように鍵をかけてしまおう。
こんなときにパチンコなんて一番拡大しやすい環境なのに、禁止に強制力がないからと言って店を閉めない不埒なものども。
まとめて成敗してくれるという、暴れん坊将軍はいないのかしら。
後手後手の政策しかできない政府。
東京都知事はよくやっていると思うけれど、毎日キレイなマスクをしておしゃれにしていられるから、羨ましい。
私は毎日、洗えるマスクの洗濯。
あべのマスクはまだ来ない。

思うに、想像力の欠如が諸悪の根源なのだ。
こうすればどうなる、自分の身になにも起こらなくても行動によっては感染拡大につながると思えば、我慢できることなのに。
パチンコやっているおっさんたち!あなた達をまとめて医療の現場に行かせて、雑用をしてもらうというのはいい考えではないかしら?
退屈だからパチンコするのでしょう?
だったら最も退屈できない場所に行ったら良いでしょう。
早速実行しましょうね、みなさん。
ほーら、早く行きなさーい!


























2020年4月24日金曜日

瀋陽の春

北軽井沢の家に出かけたいと思っていたけれど、やはりこういう時期にはじっとしているのが義務だと思って取りやめ。
安倍首相の奥さんの昭恵さんが40人ほどのグループでどこかへ行ったというニュースは、もみ消されてしまったのか、その後テレビでも取り上げない。
首相の意味不明な言い訳もこんな時期だから、どさくさに紛れてしまった。
国民がじっと我慢しているのになんてことを。
あの方は制御不能のようだ。
私は昨年から除湿機の設置を電気屋さんにお願いしてあった。

去年の12月に山の家を閉めるときに除湿機をつける場所を決めてもらった。
それでは来春早めに取り付けましょうと頼んでおいた。
今年の冬は暖かかったから、お正月が過ぎたらすぐに付けられると思っていたのに、私がスキーで忙しい。
3月はコンサートが2つ入っていたから行かれないと言っていたら、コンサートはバタバタと中止。
映画などチケットを買ってあったものも中止。
それでもなにかと野暮用が入る。
4月になっても猫の病気とか、必ず横槍が入る。
そうしたら昨日の長野県の地震。
なにか北軽井沢に行くのを阻止されているような気がしてきた。
今度こそと思っているうちにコロナはますます蔓延。
私が居なくても合鍵で入って工事してくれても良いからと言うと、そうはいかないと電気屋さん。

私が居たところでなんの役にも立たないから、むしろ居ないほうが邪魔されずに済むのに。
すでに水や電気は通してもらっているから、いつでも工事はできる。

私は車で高速道路を走り、途中で5分ほどトイレ休憩を入れるだけで一気に北軽井沢まで走ってしまう。
家は人気のない森の中だから、コロナの影響は殆ど無いに等しい。
夏のシーズン中ですら、散歩していても人に会うことすら稀なので。
食料は持参するから、買い物は野菜だけ、近所の農園で買う。

それでも万一、高速道路で事故に巻き込まれたりしたら、昨今の医療事情では周囲にえらい迷惑をかけることになる。
移動することがすなわち感染責任があるということ?
そう考えると出かけられない。
平気で混み合った商店街に行く人達もいるけれど、普段不真面目なくせにそんなとき私は突然気が小さくなってしまう。
とにかく今すぐに行く必要もないのだから、猫と自宅に籠もっていよう。
時々友人たちとメールや電話で消息を尋ね合うだけ。

いつも考える前に行動するのに、最近は思っても行動できない。
近くの国際交流会館というところでコロナ感染が出たという。

5年以上前のことだけれど、ここで中国人のソプラノ歌手のコンサートがあった。
とても良い声で衣装も素敵で、彼女のトークもよかった。
中国の瀋陽の出身だと言う。
彼女は夢見るような目で「瀋陽の春は本当にきれいです」と語った。
ああ、見てみたい!その顔を見てすぐに私は瀋陽に旅立った。

しかし、飛行機から見下ろすと、川は毒々しい緑や赤。
街は排気ガスと火力発電の煙突からモクモクと立ち上る煙で、視界が効かない。
しかも道路の立体交差の継ぎ目にひび割れが見える。
建設中のビルの外側は安っぽいベニヤを貼り付けてある。
バスの停留所は不思議なことに移動する。
離れたところに止まっているバスにどんどん人が乗ってしまい、停留所で待っていると乗れないことがある。
街は道路工事で埃だらけ。
人は道路にツバを吐く。
しかし、感じるエネルギーは半端でなく、活気に満ちていた。

武漢からどれほどの距離にあるのかわからないけれど、瀋陽ではコロナウイルスはどうだったのだろうか。
春は本当にきれいですと言えるようであってほしい。























北軽井沢ミュージックホールフェスティヴァルも中止

毎年参加していた夏の北軽井沢でのコンサート。
北軽井沢ミュージックホールはトタンの錆びついた外見、手入れのされていない草茫々の駐車場などで、初めて見た時はここは一体なんの施設なんだろうと訝った。
ミュージックホールというと、浅草などの踊り子さんのいるような場所を連想して、こんなキャベツ畑のそばでも見に来るお客さんいるのかしら?と思った。
けれど、ネオンの看板もなく派手な人の出入りもなく、それで人に訊ねて初めてそこが桐朋学園大学の合宿所だったということを知った。

斎藤秀雄さんゆかりの地であるという北軽井沢。
ここに集う若者の中から、世界に羽ばたいた音楽家もたくさんいたのだ。
見かけでものを言ってはいけない。
ちょうど私の年代は戦後の経済成長期にあたり、今の中国のように世界中から眉を顰められるほどの勢いで伸びていった。
そして弦楽器奏者も次々と世界に名を残す人たちを輩出していった。
そういう人たちもここで、斎藤秀雄さんの厳しい指導に震えながら勉強したことを想像すると、この空間が急に親しいものに思われてくる。

ただし、建物はボロボロ、ホールの前面には壁がなく、シャッターを開ければ外とつながっている。
言うなれば屋外コンサート会場みたいなもの。
中庭を囲んで生徒たちの宿泊所、練習所、トイレなどがある。
北軽井沢は標高が1000メートルくらい、水質を保護するための原生林がある。
本当に良い水ときれいな空気と森など、自然が残っている。

このミュージックホールの演奏環境は劣悪。
雨が降れば吹き込むし、トタン屋根に雨粒があたって曲とは関係ないリズムを刻む。
セミが大合唱する年には楽器の音がかき消され、雨の降ったあとでは猛烈な湿気が発生、ヴァイオリンのような木の楽器は、あっという間に音が鳴らなくなる。
弦は羊の腸だから、湿度が高ければ伸びて音程が低くなる。
弓の毛は馬の尻尾だから、延びて竿につくと弾みにくくなる。
ここでは乾燥という言葉は死語。
森とキャベツ畑と山の上の雨の多い環境だから、いつも湿度はマックス。
標高が高くて気温が低いので、救われるけれど。

演奏している間中調弦をしているという具合で、去年は湿気で楽器の膠が剥がれ、楽器屋さんに修理してもらったほど。
それではどうしてそんなところで演奏するかと言うと・・・・

私はこの北軽井沢に初めてきたときに木々の美しさに心を奪われた。
旧友の人形作家のノンちゃんが森の中に住んでいて、よく泊めていただいた。
窓から見る森は、何時間見ていても飽きない。
刻々と空模様が変わる山の天気。
急に日がさすかと思えばさあーっと雨が降る。
その美しさったら!

吹き抜けの木の家でヴァイオリンを弾くと、良く響いて家ごと楽器のよう。
殊の外喜んでくれたのがノンちゃんで、この家を引き継いでほしい、そしてヴァイオリンを弾き続けてほしいと言われた。
1年半前ノンちゃんは私にこの家を残して亡くなった。

ミュージックホールフェスティヴァルはホールをなんとかして残し、コンサートを運営したいという地元のサポーターズがボランティアで主催している。
最初、北軽井沢に来たときには、キャンプ場の中にある100年ほど以前に建てられた洋館でコンサートを開いた。
その後、このフェスティヴァルに参加するようになった。

北軽井沢はフィンランドに似ていると言う人がいる。
それではここでフィンランドの大作曲家・シベリウスの曲を演奏したらどうかとプログラムに入れてみたら、これが雰囲気ぴったり。
それで今年はシベリウス特集を組むことにした。
フィンランドに留学していたチェロ奏者のTさんも参加してくださることになった。
ピアノ独奏曲、ピアノとヴァイオリン、ピアノとチェロ、ヴァイオリンとヴィオラなど数曲の楽譜を注文して届いた日に中止の知らせが届いた。

今年はコロナウイルスのお陰ですべてのコンサートが中止になった。
秋の古典音楽協会の定期演奏会は果たして実現できるのかしら。
リタイア目前の私達にとって、一つ一つが大切なのに。
来年まで演奏していられるかわからないのだから。

そのかわり、今は練習の時間はたっぷりあるから、来年まで弾いていられるかもしれない。
ベートーヴェン、ブラームスの作品、シューベルトも見直しているから、次回に演奏の機会があれば、より深く理解したものを届けられると思う。
今まで弾いていなかったモーツァルトのソナタも、順次弾いている。
いつも有名な作品ばかり弾いていたけれど、あまり演奏されない曲も素晴らしい。
モーツァルトの場合、1曲ずつ激しく違う。
大抵の作曲家は一つの流れがあるのに、モーツァルトは殆ど他の人が作ったかと思えるくらい、その時々の彼の心境が反映されていて、そのどれもが魅力に溢れている。
本当の天才なのだ。
リヒャルト・シュトラウスのソナタも生煮えだったから、もう一度練習し直すことにした。
まだ弾いたことのない曲もこれから譜読みしよう。
思えば今が一番幸せかもしれない。
いままで追われるように演奏のスケジュールをこなしていたのが、やっと曲にまともに向かい合えるのだから。
ただ、残りの時間は少ない。

コロナウイルスのせいで命を落とす人がいる。
私には影響がどう出るか、来年ここに笑いながら来られるかどうか。
厳しい試練の日々を乗り越えられるのだろうか。
昨日の夢に母がでてきた。
ああ、まだ見守ってくれているのだと思った。
この母ならコロナなんか食べてしまう。
子供のためならどんな事でもする人だから。

































2020年4月22日水曜日

会話

野良猫に餌をやって部屋に戻ろうと階段を登りかけたところで、ドア越しに電話の呼出音が鳴っているが聞こえた。
急いで階段をできる限りの速さで駆け上がった。
電話の着信音は4回鳴るとFAXに切り替わってしまうから、1,2,3,4と数えながら受話器を上げた。
ハアハア息切れがする。

最近かかってくる電話の殆どは、お墓、保険、不用品引取と言いながら色々持っていってしまう詐欺まがいのものなど。
友人たちはたいてい携帯にかけてくるけれど、長年電話で仕事を受けていた習性で、どうしても間に合うように出てしまう。
ぐっすり眠っているときですら、最初の呼び出し音で目を覚まし、ベッドから起き上がり、室内履きを履いてヨロヨロと自分の部屋を出て4回目でもしもし。
家が狭いから可能だけれど、もう少し広かったらできない技。

セコムの安全確認装置を留守設定にしないで寝てしまうと、12時間で孤独死の可能性ということで、確認の電話がかかってくる。
レッスン室のほうを留守設定に切り替えるのをしょっちゅう忘れて寝てしまうので、夜明けに電話がかかってくる。
最近連日やってしまった。
そのたびに平謝りしている。
これでは本当に突然死したときにも、又あの人がと思われてしまう可能性があるけれど、毎回かならずかけてくるのでまだ見放されてはいないらしい。

今日もなんの電話かはわからないけれど、階段を登ってドアを開けてやっと間に合ったら友人からの電話だった。
私の友人たちは必ず、今話しができるかどうかと訊いてくれる。
大丈夫と言ってもテキパキと用件を言って、無駄話はしない。
それは普段なら助かるのだけれど、コロナ孤独の毎日、人と話すのはめったになくなっている。
自宅の近所に姉が住んでいるけれど、このところ一緒に買物に行ったり話をしたりも自粛中。
久しぶりに人間と会話ができる!と喜んだけれど、いつもの通り簡潔な内容で終わった。
少し話を引き伸ばしても乗ってこないで電話は切れてしまった。
ああ、たまには無駄口叩きたい。
ダジャレを言いたい。

だからと言ってこちらから電話するのは遠慮してしまう。
やはり長年の友人たちとの関係で、電話は簡潔にが染み付いているから。
今練習中だったら悪いからなどと気を使う。
電話はかけるタイミングがわからないから、最近は殆どメールになってしまう。
私はぼんやりだから、メールのチェックを怠って返信が遅れることが多い。

レッスンは中止、新しく入門予定の生徒もこの騒ぎが終わったら来るということで様子見。
顎の筋肉が衰えないように、テレビを見ているときと運転しているときには、たいていガムを噛んでいる。
近所の子供達が一斉に消えた。
二世帯住宅の家族は、奥さんと若奥さんが消えて、1階も2階も旦那様だけ。
反対側の家のお孫さんたちも居ない。
コロナ休日の最初の頃には家の外に出て大騒ぎで遊んでいたのに、今はひっそりとしている。
大きな車で出かけるのを見たので、奥さんの実家に避難してしまったらしい。
所在無げに植木に水をやっているご主人とお婿さん。

ご主人はいつも社交的で近所の人に愛想よく話しかけていたのに、最近はつまらなそうに
家の中に入ってしまう。
道端で捕まると延々と話を聞かされたのに、今はそれができない。
電気設備点検に来た人も、手袋越しに点検済の紙を渡してそそくさと帰っていった。
猫が居てくれてよかった。

明日、夏のコンサート用に注文してあった楽譜が届く。
それはもう楽しみで小躍りしたくなる。
私は新しい曲の譜読みが大好き。
こんなときにやることがあってよかった。
待ち遠しい。

北軽井沢はフィンランドに似ているという人が多いので、シベリウス作品のプログラムにしようと思った。
曲数があまりないと言うけれど、調べたら何曲か興味を引かれたので楽譜を取り寄せてみた。
主にピアノ曲、他にはヴァイオリン用、ヴァイオリン・ヴィオラ用、ヴァイオリンとチェロ用、弦楽四重奏用など、早く弾いてみたい。
せめてこのくらい楽しみが無いと、コロナ鬱になりそう。












2020年4月21日火曜日

猫、豚になる

毎朝必ず体重測定をしている。
体脂肪率や骨量なども測定できるので、毎日の食事の管理ができる。
今朝体重計に乗るまでは平和だった。

1週間ほど前、スーパーの入り口付近に山積みされてあったチョコパイ。
懐かしい。
若い頃スキーに行くときには必ず持参した。
最後のリフトが4時ころ終わって滑り疲れて宿に帰ると、食事まで少し時間がある。
もう空腹で倒れそう。
お風呂に入って、今ならその間にビールを飲んでつなぐけれど、若い頃はお菓子をつまんでしのいだ。
そこに登場するのがキットカットなどのチョコレート菓子。
中でもチョコパイは甘くてフカフカの食感が疲れた体に効きそうな気がした。

うっかり手に取ってしまった。
手に取ったからにはかごに入れて、家に持ち帰った。
入れた瞬間”しまった”という気持ちはあったけれど、たまにはこういうお菓子も食べてみたい。
今は運動不足に気をつけなければいけないし、それに加えて甘いものにも甘い顔してはいけない時。
でもこれっきりにしよう。

目が覚めて朝食をとる前に1つ。
なに、1時間位ヴァイオリンを弾けばこのくらい消費できるさ。
夕食前の練習時に、もうひとつ。
カロリーの表示見ると、1つ150キロカロリー、う~ん、やはり小さいわりには高い。
見た目の小ささでつい、ぺろりと食べてしまう。

あれから1週間、今朝体重計に乗った。
自宅に籠もっているばかりで運動不足になっているから、多少食事の量をセーブしていた。
少し減っていることを期待したのに、結果は・・ガーン・・増えていた。
だからあんな物買ってはいけなかったのだよ、いい年して!
今まであれほど失敗を繰り返したダイエット。
わかっていたのよ、こうなることは。

体が重いので、昨日ヴァイオリンの練習のとき普通に立っていないで体をオーバーに揺らすことにした。
踊りながらヴァイオリンを弾く若い人たちはたくさんいるけれど、彼らはとても上手い。
仕事場で時々一緒だった若者のステージを見せてもらったことがある。
ほ~お!なんて素敵に踊るの!
ヴァイオリンも上手いけど、ダンスのセンスも飛び抜けている。
普段は物静かな彼が、突然輝やいて、世代の差を感じた。
私達世代は垢抜けないこと甚だしい。

今練習しているのはシューベルトのファンタジー。
とてもドラマティックで優雅でリズミカルでと、踊れる要素満載。
ようし、ちょうど30分くらいかかるからこれでいこう。
弾きながら足の屈伸、体を左右に揺らし、息を深く吸ったり吐いたり。
すると本当に体が温まってきた。
効果あるじゃん。
弾いている本人はダンスだと思っているけれど、傍目にはアシカがくねくねしているように見えたかもしれない。
アシカ?いや、豚でしょう。
最近は体を揺らして弾く事がなくなったから、カロリー消費のために少しやってみようかしら。

こんなことくらいでは全く運動した気がしないから、冷たい雨が降る夕暮れ時、公園まで散歩にでかけた。
公園は人気がまったくない。
以前この公園で気持ち悪い体験をしたので、公園内を歩かず周囲をぐるっと回ることにした。

やはり同じような雨降りの夕暮れ時、気がついたら真後ろに人が立っていてびっくりしたことがあった。
ふと気配を感じて振り向いたら、背後に居た人とまともに対面。
つけられていたらしい。
私はあまり物事に驚かない性格だから、正面から相手に向き合って黙って見ていた。
救急車のサイレンとスピーカーからの大声が聞こえて、それでたじろいだように男は去っていった。
寒い頃なので私は厚手のコートにマフラー、帽子で顔がみえず、多分小学生くらいの女の子と間違えられたのではと思う。

その時男の足元を見たら、白い運動靴を履いていた。
この靴、ここまで来る前にジョギングをしながら私を追い抜いていった人が履いていた。
走るにしてはランニング用でなく薄いズック素材、しかも冬場に白というのはと、印象に残っていた。
男は私を追い抜いてから、どこかに身を潜めて待ち伏せしていたらしい。
なにか違和感があったので私にも警戒心があったかもしれない。
しかしねえ、身長が低いからと言って若い女の子だと思っていたらとんだ勘違いですよ、あなた。
顔が見えなくったって、あるき方や体型でだいたい判りそうなものなのに。
修行が足らん!

北軽井沢に行く用事があるのに、コロナ騒ぎで断念した。
あちらに行けば森の中を自由に散歩できる。
それでも感染拡大を阻止することは義務だと思うから、家から出ないことにした。
このままじっとしていると豚どころかトドにまで成長する。
トドまらないってことになったら、たいへんだあ!




























2020年4月19日日曜日

さわるな!

先日スーパーの野菜売り場で買い物をしていたら、見た!
きゅうりを一本一本丁寧に矯めつ眇めつ手にとって調べている奥さん。
見終わると元の場所に戻し、次のきゅうりを手に取る。
いったい何をしているのだろうか。
延々と繰り返している。
うわー、ここのきゅうりは絶対い買いたくない。
あの手がアルコールで消毒されていようと、他人がいじくり回したきゅうりなんて食べたいと思います?
大体家庭で使うなら、多少曲がっていようと不揃いだろうと構わない。
調べたいなら、ビニール手袋でもして触ってほしい。
新鮮さなら、きゅうりの棘を見ればだいたい分かること。
こういう人は見た目がきれいなら衛生上問題があっても構わない。
要するに想像力がなくて、目に見えないものには鈍感。

野菜売り場では山と積まれたキャベツなどは、殆ど重さも新鮮さも一緒だと思う。
それほど差があるなら買い物客から苦情が出るはずだから、店の方もちゃんとしているはず。
商品にいちいち触る人がいる。
子供がいじくっても注意しない親がいる。
商品はお金を払う前は店のもの。
だから触ってはいけないと躾けないと、どうせレジでお金を払うからと言って子供がベタベタさわるのを容認するのはいかがなものか。
果物は裏を見ないと時々腐っていることもあるけれど、ちょっとひっくり返して目で確かめればいいだけのこと。
特に今のウイルス騒ぎのときには気をつけてほしい。

中国の武漢でウイルス汚染が拡大したのは、医師や看護婦の靴底からの拡散が原因の一つだったそうだ。
私はいつも外から帰ると靴底をアルコール消毒していた。
これは正しかったようだ。
なぜか、想像するに靴底は怪しいと思った。
公園などの屋外では換気はできても、地面に落ちたウイルスはしばらく溜まっているだろうと。

私の家はすごく散らかっているから偉そうには言えないけれど、一番肝心なところだけはきれいにしてある。
まな板、包丁、鍋、寝具、バスタブ、はきれい・・・かな?
シャツ類は一度脱いだら二度と着ない。
タオルも一度使えば即洗濯機。
洗濯は毎日山のようにする。
これで一人暮らし?と思えるほど。
冬中セータを洗わないと言う人が居たのにはびっくり。
私はほぼ毎回洗ってしまうから、毛玉ですぐみすぼらしくなる。

ほかはぐちゃぐちゃだけど、死にはしない。
それも目に見えないものに恐怖心があるから。
一番イヤなのは昨今大騒ぎのウイルス。
目に見えないから防ぎようがない。
手を洗いすぎるのはいかがなものかと思っていた。
自分の持っている常在菌まで退治しては免疫力が落ちないかと。
今はそんなこと言ってられないから、薬用の泡石鹸でせっせと洗っていたら手が痒くなってきた。
これで全身洗ったらバイキンは残り、そのうち自分が消滅するというシュールな想像をした。

落語を思い出した。
蛇が獲物を飲み込んで消化のために薬草を食べるのを見たハッつぁん。
そばを食べすぎて蛇の薬草を試してみると・・・
ハッつぁんが消化されてしまい、そばが羽織を着て座っていたという気持ち悪いオチの噺はなんでしたっけ?
そんなことが起きたら、たいへんだ~。
志村けんさんが亡くなった。
本来は物静かな人だったのだと思う。
顔が好きだった。











ひたひたと

姉から電話。
近所のデパートからコロナウイルス感染者が出たという。
川崎駅付近の大型ショッピングセンターからも。
私は英語のレッスンを受けにミューザ川崎に行くことが多い。
ミューザとは道一つ隔てた建物だし、駐車場のサービスが共通だと思う。

近所のデパートにはつい2日ばかり前に行ったばかり。
それで明日、友人と会う約束をキャンセルした。
ほんの短時間の約束だったけれど、それでも出会った途端にウイルスが飛びつかないともかぎらない。
もちろん私が感染したということではないけれど、万一という事がある。
約束は2週間延期した。
それだけの時間が経てばどうなったかわかるというもの。

あとはひたすら家で猫とゴロニャン。
猫はやっと生気を取り戻した。
もうだめかと思った時の悲しさったらなかった。
人はだれでもパートナーが必要なのだ。
私の相棒はすごく毛深くてひげが生えているけれど、これで女性というのだからびっくりでしょう?アハハ
最近はジェンダーフリーの時代だから。

おとなしくて邪魔にならない。
相手が人間なら、うるさいし文句はいうしお腹を空かせば機嫌悪くなる。
猫なら可愛らしく鳴いて餌をおねだり。
そうされると一生懸命キャッツフードを選んでご機嫌取りながら食べていただく。
これが人間のオスだと、面倒くさくて文句でも言われようものなら、金槌で頭をたたきたくなる。
それほど猫は人から甘やかされる動物なのだ。
その猫の回復を待って北軽井沢の家に行くつもりだった。

軽井沢在住の人に電話すると、今他県ナンバーの車がいっぱい来てると言う。
コロナ疎開というのだそうだ。
軽井沢の人たちはみな嫌がっているらしい。
大型スーパーには東京ナンバーの車が沢山止まっているという。
すごい混み合ってるのよ、とも。

それを聞いて考えてしまった。
そう言われれば、それは嫌だろうなと。
ウイルスを持っているかも知れない人が沢山、ウイルスが付着しているかもしれない車で押し寄せてくる。
考えるだけで恐怖!

私はコロナ疎開を考えていたわけではなく、北軽井沢の森のひどい湿気から楽器を守るために除湿機をつけてもらおうと思っていたのだ。
電気やさんには一度見に来てもらっているから、あとは私が行って工事に立ち会えばいい。
それが1月2月3月とどんどん延びてしまって、その間にコロナもどんどん蔓延してしまった。
本当は寒い時期にも暮らしてみたいと思っている。
でも手始めに早春の森で木々の芽吹きを見たい。
今年こそと思っていた。
ところがスキーにうつつを抜かしている間に猫の具合が悪くなり、コロナで身動きできなくなってきた。
今この時期に移動するのは非国民かしら。

家にどっぷりと居て、毎日テレビを見るとコロナウイルスのことばかり。
非常事態ということは理解して自分は協力態勢がとれるけれど、どうしても外へ出なければならない人たちは毎日命の危険にさらされてさぞ辛いことだと思う。
特に医療関係者のご苦労は、戦場にいるのと同じ。
いつウイルスに狙い撃ちされるかもしれない。
配偶者や子供のいる人達は、自分ひとりの問題ではない。
こんな時期、ウロウロ商店街を散歩している人たちは自覚してほしい。
買い物は迅速に、単独行動で、マスクは必ず装着、立ち止まっておしゃべりしないで、用もないのに手ぶらで奥さんのあとに付いてくる男性諸君、せめて荷物くらい持ってあげてよ。
ほんっとに気が利かないんだから。
























2020年4月16日木曜日

ぞろぞろ

卵を切らしたので、最寄りの商店街へ買いにでかけた。
いつもは大きなスーパーの開店時間に合わせて車で出かける。
でも卵だけだし、公園に散歩に行くついでに足を伸ばしてみよう。
朝10時、おどろいたことに商店街は人の波だった。
しかも年寄ばかり。

この商店街はいつもとても人が多い。
狭い通りに個人商店が軒を連ね、高級なものはなくても安くてなんでも揃う。
たいそう便利なのだけれど混み合っているのと、一度に同じ店でなんでも揃えることができないから、面倒くさがりの私はついスーパーに行ってしまう。
夕方の買い物客の多い時間ならともかく、開店早々のこの時間になぜこんなに?と思うくらいの人。

お嫁さんに言われて来たのだろうか。
「お義母様、いつまでも家にいらっしゃると運動不足になりますよ。
いえいえ、邪魔だなんてそんなことはありませんけど。
ご自分のお昼ごはんくらいご自分で買っていただきたいわ。
ついでに私達の分もお願いしますね。」なんて。

そんなわけで、目を見張ったのは、本当に足腰の弱った後期「後期高齢者」の多いこと。
私なんか、この中ではまだひよっこでした。
卵を買うと、そう言えばあれを買ってなどとつまらないことを思い出して、人混みの中足を伸ばす。
買い物が済んで帰宅の途中、人の波は更に増え続ける。
その頃には年寄ばかりでなく子連れの家族。
まあ、おどろいた。
これでは外出禁止なんてどこ吹く風。
クラスター発生に協力してきたようなものだった。
もうあの商店街には当分行くまい。

買い物は単身でさっと済ませる。
子供は留守番させる。
足の弱いお年寄りには公園などの人気の少ないところを歩いてもらうなど、商店街の人達がアピールすればいい。
にぎやかに人が多いのは普段なら楽しい。
でも今は、そんなこと言ってられない。
子供にもよく言い聞かせて家に居させるなど、簡単にできるでしょうが。
ここにいる人達全員で、感染するために行進しているような不気味な想像をしてしまった。

家にいるとつまらないと言う人が多い。
でもそんなことはない。
今や孤独な独居老人の私は、面白く暮らしている。
最初のうちは寂しさや退屈さが先にたった。
それは人恋しいとおもうからであって、覚悟が決まれば矢でも鉄砲でも持ってこいっ!と
カラ元気が湧く。
面白いことはいくらでもある。
今までの人生でやってきたこと以外の新しいことに取り掛かるには、自分は年を取りすぎているなんてことは絶対ない。

数年かけてハリー・ポッターの原書を読み続け、間もなく最後の巻に入ろうとしている。
英語は中学校以来、殆どやってこなかったし興味もなかった。
高校、大学では第一外国語がドイツ語だった。
そんなわけで、他の人よりも英語の学習は少なかったと言える。
ひょんなことからハリー・ポッターを原書で読んでみたいと思いたった。
英語ができないので読み飛ばすことができない。
一つ一つ辞書をひいて、うんうん言って前後の意味を考えるという、気の遠くなるような作業をしている。
先生のルースさんにとんでもない質問をして困らせる。
日本語訳では味わえない面白さがあって、ついに今年前半で最後の巻に突入と思っていたら、コロナ騒ぎでレッスンが中断。
早く再開したいので、急ピッチで予習をしている。

日本語訳では味わえないというのは、翻訳者をけなしているわけではない。
むしろ翻訳の正確さには頭が下がる。
けれど、言語の音楽性というか韻を踏む面白さ、語呂合わせとかその言語特有のリズム感は、やはり原書でないと味わえない。
作者のローリングさんの類まれな才能は、そういうところにも遺憾なく発揮される。
同じ響きの言葉で前後を揃えたりされると、これは翻訳ではどうしようもない。
意味は違うから、まさか同じ韻で2つの言葉が結ばれているとは日本語ではわからない。

最後まで読み終わったら、大学か大学院に行きたい。
これから勉強したいのは心理学。
若い頃から興味はあったけれど、ヴァイオリンが下手くそでどうにもならず、技術の習得に他の人よりも時間が必要だった。
41歳のときに放送大学に入学して宇宙のことを学び、自然の面白さに目覚めたものの難しすぎて、入り口を覗いて撤退。
それでも一応卒業できて、もう一度他のことを覗きたいとおもったけれど、仕事が忙しすぎてアップアップしているうちに、年をとってしまった。

人の心の奥底にある闇の部分、それは誰でも持っているけれど人によりバランスが異なる。
バランスが崩れる原因を探ってみたい。
私はすでに脳細胞が半減しているらしく、我慢ということをあまりしなくなった。
そのことで他人との軋轢が生じることが多くなった。
残り少ない人生だと思うと、ワガママになるらしい。
そこで浮かび上がってきた自分の負の部分を分析したらさぞ面白かろうと。
これがなにかの役にたつとは思わないけれど、人にも自然にも興味は尽きない。

放送大学で心理学のゼミを受けたときに、担当教授が余りにも簡単に人の心を類型にあてはめるので驚いた。
反発した私は何回か意見を述べたけれど、穏やかな教授はニコニコするばかり。
特に芸術の分野での心の影の部分は不可欠。
あまりにも常識的な私が名演奏ができないのは、そのセンスがないから。
認知症発生の危機に直面しているため、私には残された時間はほとんど無い。
このブログを書いていても、言葉が出てこない。
簡単な動作を表現するのに時間がかかる。
やる気はあるのに脳みそがシミだらけで困った。
脳のシミ取りは美容外科ではやってもらえないもの。

エステに行きたいのに、コロナが怖くて行かれない。
美容院もお休み。
睫毛のエクステもだめ。
せっかくの美女が雨に濡れた野良猫の様になっている。

シューベルトのファンタジア、譜読みはできた。
けれど、こんな難しいとは思ってもなかった。
かつて、本当にこの曲を私は弾いたのかしら?
その頃は若かったからなんなく弾いたのかもしれない。
シューベルトは楽譜はそれほど難しくはないけれど、それを普通に弾いてはおもろない。
ピアノとの絡みや歌のようなフレーズ、決して神経質にならず、かと言って酔っ払った風でもいけない。
酔いすぎれば下品になる。
典雅であるのに思いがけず骨太で、本当に私が持ち合わせていない物ばかり。
来世は貴婦人に転身したいけれど、多分イグアナかなにかになってしまうのは目に見えている。
人はそれぞれ分というものがあるもの。



























2020年4月14日火曜日

中止ばかり

東急文化村からのメールが来た。
予想はしていたものの、来ないでほしいと思っていたのでちょっとショック。
マリア・カラスの3D映像とオーケストラのコラボで、来月半ばにコンサートが予定されていた。
ガーン!中止だとさ。
残り少ないチケットをゲットして楽しみにしていたのに。
自らカラスの再来と称して・・・は、いないけれど・・・熱狂的カラスファンの友人と一緒に行くつもりだった。
私はカラスと言えば鳥の烏大好き。
賢くて美しい鳥だというのは、最近動画などでも人に知られるようになってきたのは、喜ばしい。

マリア・カラスといえば、ギリシャの大富豪、オナシスの恋人だったことでも知られている。
美貌と類まれな声、天は人に二物を与えないとか言うけれど、ふざけるな!彼女は何物も持っているではないか。
私はなんにも持っていないというのに。
しかし、天性の美貌も声も、彼女を幸せにしなかったのかもしれない。
オナシスをジャクリーン・ケネディに奪われてしまったのだから。
どう見たって、カラスのほうが美貌も才能も愛情深さも上だと思うのに、オナシスは男の見栄?からか、ジャクリーンと結婚した。
そして彼は不幸な結婚生活をカラスに愚痴っていたらしい。
なんかバカバカしくて話にならん。
オナシスほどの人物でもアホ。

連日のコロナ報道で耳にタコができた。
とにかくじっとしている。
うちの猫が押し入れでひっそりと暮らすように、私も一人でにぎやかにひっそりと暮らす。
毎日朝食が終わると、その日必要なものを買いに出かける。
昨日は隣町の食品店に紅茶を買いに行った。
ちょうどショッピングセンターの開店時間に合わせるように、冷たい雨の中家を出た。
お天気のせいもあるけれど、人影は殆どない。
店の入り口に到着すると、嫌な予感がした。
大きな食品店なのに、開いている気配がない。
センター自体が閉鎖されてしまったらしい。
中では商品の入れ替えや清掃などで働いている人が見えるけれど、どこに行っても入り口は開いていない。
ああ、困った、紅茶はちょうど翌日の分しか残っていない。
この近辺では、ここでしか手に入らない紅茶があるのだけれど。

私が住んでいる街では、大きなパッケージの紅茶が安く買える。
けれど、紅茶は良いものでないと本当に不味い。
その建物の別のコーナーで紅茶専門店ができたから早速行ってみた。
「濃いめに淹れてミルクティーで」と銘柄を指定して注文したけれど、恐ろしく薄くてまずかったので二度と行かない。
自分で淹れたほうがよほどまし。

浜離宮朝日ホールにコンサートを聞きに行った帰り道、東銀座近くを歩いていたら紅茶専門店を見つけた。
高級そうなのでためらった末、思い切って入ってみた。
ドアを開けると、紅茶の芳しい香りが店中に漂っている。
私は何度も言うように嗅覚障害があって、香りには弱い。
香りを嗅ぎ分けたりできない。
化粧品売り場で、これは柑橘類ですなどと言われてもわからない。
ところが妙なことに、突然嗅覚全開になることがある。
これがよくわからないのだけれど、猫の匂いの個体差とかわかったり、自分の体臭が変わったこともわかったりする。
実際ストレスを感じると、ストレス臭が発生するそうなのだ。
体調が悪かったりなにか問題が生じるとわかる。
私の鼻はどうなっているのだろうか。

その紅茶店に入ったときには嗅覚障害は吹っ飛んだ。
自分の好みの銘柄を言うと何種類か見せてくれた。
まさか嗅ぎ分けられないだろうと思ったら、いつの間にか違いのわかる女になっていた。
あまりにも高級なので最小単位の50グラムだけ買ってきた。
自宅のキッチンがいい匂いがしたのはその時だけで、随分長いこと香っていた。
今は又鈍感な嗅覚しかない。
これは防衛本能かもしれない。
風邪をひく前などに急に空気の匂いが変わったりして、あ、体調を崩すかもと気をつけたりする。

雨の中トボトボと電車にも乗らずびしょ濡れになってたどり着いたのに、お気に入りの紅茶をゲットできなかった。
このあと数週間がまんするしかないのだろうか。
欲しがりません勝つまではなんて、戦時中の標語があったそうで。
嗜好品はともかく他の食品は手に入るのがありがたい。
キャベツばかり食べている。
私の前世は青虫。
キャベツ畑で生まれ育ったに違いない。
青虫がきれいな蝶になれたかどうかはわからない。
たぶんなれなかった方に100円。

冷たい雨と風にめげて、帰りは電車に乗った。
一駅約2分間。
自宅最寄り駅で降りて珈琲店でコーヒーを買った。
最近紅茶を飲むことが多かったけれど、そう言えばコーヒーも切れかけている。
カードのポイントが溜まっていたのでコーヒーは無料で手に入った。
得した気分だけれど、客入りの少ない珈琲店にはちょっと気の毒なように思える。
コロナ騒ぎでお客さんがこないのに、ポイントで買い物されたらたまらないでしょう。
ごめん、私も猫の治療費ですっからかんだから、許して!































2020年4月13日月曜日

猫は元気になりました

ほとんど末期的な症状だったうちの猫は、獣医師の治療と私の必死の看護で快方にむかっている。
今は子猫用の栄養価が高いピュレ状の餌を食べ始めた。
全く餌を受け付けなくなったのでこれはもう諦めるしかないと思ったものの、私にとってはいまや唯一の家族。
この子が死んでしまったら本当に一人ぼっち。
生まれてこの方、大勢の家族に囲まれていた私は、一人でいるのはそれほど苦痛ではないと思っていた。
むしろ好き好んで人から離れていた。
子供の頃も家族から離れて、自宅裏庭のびわの木に登って昼寝をしたり納戸のようなところで本を読んだり、常に一人でいることを好んでいたけれど、今回初めてその寂しさに耐えられるかどうか自信がなくなった。

たかが猫、されど・・私には今ではたった一人の家族。
連日栄養剤と抗生物質の点滴に通った。
良くなったかと気を緩めて点滴をやめるとぶり返す。
鼻水が鼻孔を塞いで、餌の匂いがわからなくなるらしい。
それで又点滴の繰り返し。
ヒョロヒョロとよろめきながら歩く姿に涙した。
死なないで頂戴、お願いだからと言うと、じっと私の目を見つめ返す猫。
苦しさを訴えているのか、最後のあいさつをしようと思っているのか。

でも彼女は頑張った。
病院に行くためにケージにいれるときも、かすかに鳴いて抵抗する元気もない。
おとなしく診察台に乗り、暴れることもない。
ここに来れば体調が良くなるとわかっているらしい。
それともそれほど体力がなくなっていたのかもしれない。

病院に残されたカルテを見ると、今から17年前に不妊手術をしている。
だから年齢は18歳くらい。

ある日自宅付近を散歩していたら、猫が目の前にヨロヨロと出てきてばったりと倒れた。
慌てて抱き上げて自宅に連れ帰り、そのままうちの家族になった。
野良猫に必要な注射その他と不妊手術を受けたのが17年前。
その時家にはすでに4匹の猫がいて、彼女のテリトリーは我が家の狭い押し入れしかなく、長年押入れ猫として暮らしてきた。
他の猫にいじめられることはなかったし特に仲が良いと言うふうもなかったけれど、私に甘えられずに生きてきた。
甘えん坊の筆頭は唯一の雄猫のたまさぶろうだったから、私をほぼ独り占め。

その中で器量良しではなく特に活発でもない彼女は、ひっそりと押し入れで寝ていた。
そこが彼女の安らぎの場所だった。
いまでも押し入れで寝ている。
体調が悪いと何日も姿が見えないけれど、他の猫に紛れて放っておかれた。
顔の表情も乏しく甘えてくることもない。
鼻の真ん中から左右に、黒とキジ猫模様に別れているというなんとも奇妙な毛色。
あごが妙に長くて、猫らしい丸顔ではない。

2年前、他の猫が次々といなくなり、ついに彼女の天下になった。
抱っこすると前足を突っ張って、緊張していた。
今まで抱っこもされたことがなかったのだと、その時初めて気がついた。
慣れていないので初めの頃は緊張して強張っていたのが、時間が経つと体の力が抜けてきて体を預けてくるようになった。

ごめんね、ずっと我慢していたのね。
いつも甘えん坊の玉三郎に私を独占されて、出る幕がなかったので。
その頃から見る見る顔の表情が変わってきた。
優しく穏やかな顔となり、妙に突き出ていた顎が引っ込んだようなのは私の気のせいだろうか。
私の傍らで寝ていると思うと、じっとこちらを見つめているのに気がつく。
大きな目をそらすことも瞬きもなく。
何年ものあいだの寂しさを埋めるように見つめてくる。
こんなに情の深い子だとは知らなかった。

今彼女はニャン生最高の幸せを手に入れた。
はじめて飼い主からの愛情を独占できたのだ。
人間もそうだけれど、一つの集団のなかでの立ち位置がその人の性格を決める。
私は5人の姉と兄がいて末っ子として可愛がられた。
すぐ上の姉は私が生まれてからは、あまり両親からも相手にされなかったのかもしれない。
姉はとてもよく泣く子だったと皆が言う。
それに比べて私は何があっても殆ど泣かなかったらしい。

姉たちが言うには、おねしょをしても私だけは叱られなかったと。
美味しいものはまず私が好きなものを選べた。
そんな育ち方は、年の離れた兄や姉にとっては当然だったようだけれど、すぐ上の姉にとっては理不尽なことだったと思う。
今まで末っ子だったのに、下の子供が産まれて谷間に追いやられて、なんで?と思っただろう。
病弱で繊細で傷つきやすかったから、多少頑なな性格になってしまったようだ。
今思えば私の幸せは姉の犠牲の上に成り立っていたのかもしれない。
それでも母が誰にも精一杯の愛情を注いでくれたので、姉も愛情深く家族に接していた。
少し過干渉なくらいに子どもたちを育てた。
義兄とも、とても仲が良かった。

家族の中で一番甘え放題だった私が年を重ねてからいまや一人ぼっちというのは、人生の辻褄が合っているということかもしれない。
兄と姉たちはそれぞれ家族がいてにぎやかにしている。
今の私が一人でいるということは、愛情のキャパシティーを使い果たしたのかもしれない。
お金もそうだけど、あるあると思っていたものが浪費によっていつの間にか減っていたのに気がついた、その状態が今。
それで猫にしがみついているのです。
猫も迷惑な話だけれど、それでも私を独占できる幸せそうな顔を見ると、私も嬉しくなる。
お猫様が元気になってくれないと困るのは私のほうなのだ。
当人のためでなく自分のため。
末っ子は末っ子にうまれただけで病気というけれど、それは本当です。














2020年4月10日金曜日

うふふ

時々お目にかかるピアニストから、シューベルトのファンタジアを合わせないかとのメール。
二つ返事で承諾したものの、ファンタジアは難しかったような。
「ような」というのも、この曲は今を去る半世紀ほど前に弾いたっきり、それっきり楽譜は日の目を見ていない。
たった1回しか弾いてあげなかったからとっくに楽譜は家出をしていると思っていたら、ちゃんと家の楽譜棚のシューベルトのところにありました。
偉い偉い、ずっと待っていたのね。

シューベルト作品159番。
パラパラとめくって見ると、ろくに練習したあとがない。
これはコンサートで弾いたのではなく、師事していた先生のおさらい会で弾いたきりのようだ。
この際コロナで外に出られないし、練習する時間はたっぷりある。
こういうときに久しぶりに曲を見直す良いチャンス。
ああ、こんなに素敵な曲だったかと、改めてシューベルト節に酔った。
ただし、いつ合わせられるかは決められないのが歯がゆい。

昨日まで愚痴っていたのに今日はもうニコニコ。
自分が本当にアンサンブルが好きなのだと改めて感じた次第。

しかしながら、人間同士だと私は少しもアンサンブルができない。
すぐに怒る、愚痴る、へそを曲げる。
楽器でならいくらでも他人の弾きたいことがわかるのに、言葉だと誤解をすることが多い。
言葉というのは本当に難しい。

私のこのブログを読んだ人が他の人に内容を説明しているのを聞いていたら、とんでもなく誤解しているようだった。
ほう、そんなふうに捉えていたのかと不思議に思ったけれど、訂正もしなかった。
だれでも自分の考えで相手の言葉を受け入れるのだから、曲解しても無理はないけれど、だからこそ、噂なんてものはどんどんそれが拡大していくのだなと思った。

ネット上で、噂が曲がり曲がってとんでもない事態を引き起こすこともある。
それを鵜呑みにして更に曲げて人に伝える。
恐ろしいことになる。
東名高速であおり運転した犯人がいて、連日テレビで放送していた。
それを撮影していた連れの女性が誤特定され、犯人は顔はぼかされていたものの名前が出た。
すると名字だけ同じで名前の違う人が風評被害にあって、連日脅迫電話が続いたという。
経営していた会社まで危機に陥ったそうなのだ。
これなどは本当にひどい。
ネット民は責任を持って真実をなんて言ったところで面白がってやるのだから、それが真実かどうかは当人たちにはどうでもいいのかもしれない。

そこへいくと、音楽は一人ひとり違っていい。
貴女はそう弾きたいのね、では私はこう行きましょうと楽器で遊ぶ。
何が真実かではなく、自分にとっての真実が許される。
お互いに自己を主張しつつ相手に寄り添い、丁々発止とせめぎあい、融合したときに新たな世界がひらけていく。

誰でも簡単な楽器でアンサンブルはできる。
ピアノを1本の指で弾いたって。
もう映画の題名も忘れたけれど、戦場の焼け跡に取り残されたピアノを弾く場面。
音が狂ってボロボロに傷ついて、そこに浮浪児のような子供が一人。
兵士が通りかかって子供をピアノの前に連れて行く。
兵士が単調なリズムを刻むと、子供は握りこぶしを鍵盤の上をくるくると回す。
これは逆だったかもしれない。
そして素敵なアンサンブルが生まれた。

この映画は何という題名でしたっけ?
そこの場面しか覚えていないけれど、タイロン・パワーがピアニストに扮していた事から、検索すれば出てくるかもしれない。
でもタイロン・パワーなんて名前、誰ももうわからないかもね。
私も今数十年ぶりに思い出した。
その事自体が奇跡だわ。

本当に音楽は人を繋げる。
言葉が通じなくても大丈夫。
数年前まで日本に毎年やってきたロンドンアンサンブル。
私も一緒に弾かせてもらったけれど、私は英話ができない。
けれど、弾いていれば全然違和感なく会話ができるのでとても楽しかった。
毎年の楽しみはアンサンブルの中心的な存在のピアニスト・松村美智子さんの逝去で終わってしまったけれど、英語が飛び交う中での練習でも全く問題なかった。
いつもチェリストのトーマスが演奏でフォローしてくれた。
リチャードが美智子さんと激論するけれど、いつも強いのは美智子さん。
皆でニヤニヤして喧嘩が収まるのを待っていた。
懐かしい顔が目に浮かぶ。
美智子さんは4月に逝った。
玉ねぎを取りに来てと言われたのに、私が取りに行かなかったのが悔やまれる。
「玉ねぎの芽が出たのがあるからそれを絵に描いたら?」というので「私は絵なんかかけないわよ」と返した。
それがちゃんと話ができた最後だった。
嘘でもいいから「ありがとう絵ができあがったら見せるわね」となんで言えなかったのか。

おやおや、又暗くなってしまった。
これからシューベルトの練習に取り掛かる。
そうすると嬉しくなる。
泣いたり笑ったり、私の心は忙しい。

































もうヤダ!

毎日テレビをつけると目に飛び込んでくるのは、新型コロナウイルスの顕微鏡写真。
毒々しい色に目を背けたくなる。
心が鬱々として楽しめない。
ニュース番組ではコメンテーターなる人々が議論を交わす。
感染症の専門家が出てきて、御託を並べる。
けれど、誰一人として本当のところはわからないのだから、経済なんて言っていないで、まず感染を防ぐためにもっと早くもっと強力な対策を取らなければいけないのではと思う。
コロナが収まれば日常の活動ができるのだから、早く強烈な対策を取ればいいと思う人が多いとおもうけど。
お金をばらまけばいいと思っている阿部さん。
税金だから気前よくばらまいても懐は傷まない。
下品な言い方だけど、ついこう考えてしまう。
どうせ上手くやる連中がお金は持っていく。
正直に地味にやっている人たちはもらえないのでは?
阿部さんお得意の忖度で、彼のお友達が潤うに決まっている。

その上、東京都知事の言葉がどうのと云う人まで出てきて、なんじゃこれ。
ロックダウン?クラスター?横文字を使うのが多すぎるとか。
言い方が丁寧すぎて嫌味だとか。
そんなこと言っている場合か!
バカバカしくてへそが茶を沸かす。
世の男ども!そんなに女性の知事が目障りか。
自分がもし知事ならと言った元国会議員。
不祥事でやめさせられたのに、人のこと言える?
元都知事のMどの。
相変わらず厭味ったらしい顔でニヤニヤチクチク、もう二度と見たいくない顔なのに。
ますます蛇のようになってきましたね。

小池さんは強い!
好き嫌いはともかく、国を相手に一歩も退かないその強さに恐れ入りました。

私達フリーターは絶対に保証金なんてもらえないから、コンサートの準備にかかった費用は泡と消える。
楽しみにしていたオペラも中止。
「ホフマン物語」は私も実際の舞台は見たことがないので、なおさら残念なのだ。
マリア・カラスの3D映像でオーケストラとコラボするコンサートはまだ中止の知らせはないけれど、たぶんギリギリで見られないのではと思っている。
本当に憂鬱な時間が過ぎていく。
いつも私は辛いことがあると、なんでも始まれば終わるのだから我慢、と念じている。
しかし、今回は多分数年単位での継続になるのではと思っている。

コンサートの中止はいつまで続くのかしら。
古典音楽協会の春の定期演奏会は中止。
その分を秋に回したけれど、秋にも演奏できるという保証はない。
「古典」のメンバーは高齢だから、この先もう演奏する回数が少ない。
自分たちの締めくくりができずに終わったら、寂しい限り。
来年創立70周年という節目の年には、華やかに終わりたいもの。

2月に予定されていたコンサートでは、モーツァルトのピアノ四重奏曲を弾くはずだった。
それを8月に弾こうという話もあったけれど、8月だってどうなりますか。
北軽井沢の8月のフェスティヴァルはどうなるのかしら。
今年は8月10日と29日の2回コンサートの予定があるけれど。
長い時間をかけて準備したものが、日の目を見ないと悲しくなる。
自分の演奏家人生の最後が暗いのは嫌だから、頑張って練習はしているけれど。
もう若くはないから、体力に限界がある。

その上猫の具合が悪い。
食欲がなくて毎日点滴してもらいに病院へ行く。
病院へ行くときも元気なら大暴れなのに、その気力もないみたい。
あ~あ、どんな時も陽気だった私も最近は暗くなった。
この数年、激動の生活が続いている。
北軽井沢に猫と二人で行くつもりだった。
森の中の一軒家で静かに暮らそうと。
でも、その相棒がいなくなったら私はもうだめ。

最近やっと体力が戻ってきて、さあ、活動再開と思っていたのに憂鬱でやりきれない。
グチグチグチグチ・・・・・グチグチ・・・グチグチグチグチ・・・
ところが食欲だけは衰えないのが私の七不思議。
なにを食べても美味しい。
これが老婆の一人暮らしかと思える量の食品を買い込んで冷蔵庫はぎっしりで安心していると、あら、いつの間になくなっている。
誰が食べたの?
もちろん貴女と冷蔵庫が云う。
おだまり!私がこんな食べるわけないじゃない。
きっと冷蔵庫が夜中にこっそり食べているに違いない。

時々友人からかかってくる電話以外話をしない。
一人遊びが好きな私でさえ退屈で仕方ないのに、若者たちはなにをしているのかな?
生徒が転勤で遠くにいってしまう。
2ヶ月に1度は戻ってきますから、その時レッスンに来ますというけれど、新しい土地での生活が楽しくてヴァイオリンなんか弾いていられないかもしれないし。
もうひとりは長距離で通ってきていたので、しばらく電車に乗りたくないと言っておやすみ。
もうひとりも外出はちょっとと言っておやすみ。
そうやって、家に誰も来ない日が続く。
年がら年中誰かしら訪れてきて、にぎやかだった我が家がシーンとしている。
レッスン室は格好の洗濯物干し場になっている。
エアコンの送風口前に洗濯物を干すと、カランカランに気持ちよく乾く。

ここ2年、ヴァイオリンの音が出なくなっていた。
筋肉、練習不足などでスカスカだった音が、体力の回復とともにだんだん楽器が鳴るようになって、もう一度ちゃんと演奏会をしようと思っていた矢先、この騒ぎ。
それで何回も思い出すのは、故鳩山寛氏の言葉。
「君ねえ、こんなときには練習をするものだよ」
最近やっと練習時間が長くなってきた。
もう少しがんばってみようか。やれやれ。

マスク2枚くださるありがたいお話。
郵送費や準備にかかる費用がもったいない。
みみっちい上に無駄すぎる。
その分医療機器にお金を回せばいい。
ほんとに阿部さん大丈夫?
マスクは意外と作るのが難しいそうだけど、器用な人なら自分でできるのでは?
可愛い生地で子供が喜びそうなマスクを作ったらよく売れるとおもう。

高齢の私が皆さんをなだめる側にいなければいけないのだけれど、還暦を境にどんどん子供に還っているので悪しからず。
好き放題言わせて頂戴!
ああ、もうヤダ!























2020年4月4日土曜日

漱石

目が覚めたら穏やかな朝。
晴天の青空、日差しに満開の桜が照り映えていた。
毎日コロナのニュースで一日が始まる憂鬱なこのごろ。
午前中の花粉が飛び散らないうちに散歩に行くことにした。
ニュースさえ見なければ、世はすべてこともなし。
近所の小高い丘の上にある小さな動物公園まで足を伸ばした。

桜はもう満開を過ぎて、散り始めている。
川の流れに浮かぶ花筏。
なんてきれいなんだろう。
世の中の若い人たちは将来に不安を抱え、憂鬱な春になってしまった。
これからが人生の勝負というときに、なんとも気の毒でならない。
小学新入生と思える男の子が、桜の木の下で真新しい制服を着て写真撮影。
入学式ができないので、せめて新入生らしい写真を残そうと思ってのことらしく、父親が撮影している。
この写真が後々、あのときは大変だったねえと家族の話題になるのだろうか。
悲しい思い出にならないことを心から祈る。

こんな凄まじい春は初めて。
世界中が怯え、小さなウイルスに翻弄されるなんて。

小高い丘は古墳があって、頂上では富士山が見える。
登っていくと、ちらほら人が集まっている。
みなそれぞれに体操したり花を愛でたり。

私の家からこの頂上に登り、同じコースを帰るとちょうどよい散歩コースになる。
今朝は丘の登り口の喫茶店でコーヒーを飲もうと決めてきた。
そこで少し休んで自宅まで帰ると、疲れすぎない。

「コーヒーをください」「本日のコーヒーでよろしいですか?」
カウンター上のメニューを見てもそれだけしか書いてない。
「コーヒの種類は他にあるのですか?」「いえ、ありません」???
えーと!一つしか無いのに、それでよろしいですかと訊かれて困惑する。
いや、それじゃないのをと言ったら、どうするのかしら。
これなんなんだろう、マニュアルの一つ?
しかもマスクでくぐもった声で、朝から縁起が悪そうで。

次に立ち寄ったのは古い小さな和菓子屋。
ここのお菓子がなかなかいけると知ったのは、つい最近のこと。
売れそうもない場所にあるけれど、品が良くてとても美味しい。
こんなお店がずっと長い間潰れないのを不思議に思っていたけれど、納得した。
帰りがけに柏餅と道明寺を買った。
おやつに食べよう。

柏餅と言えば・・・
小説で、誰かが柏餅を葉っぱごと食べる夢を見た、そんなシーンがあったっけ。
一体誰の小説だったかしら。
考えてもわからない。
物忘れの激しい私が珍しくずっと覚えているからには、とても印象的な場面だったのだろう。
私の好きな作家といえば、まず漱石。
たぶん「三四郎」ではなかったかしら。
もしかしたら「吾輩は猫である」?
いや「草枕」かも。

考えながら歩く。
まず「草枕」はこういうシーンは合わないから除外。
「三四郎」も同じく。
「吾輩は猫」にならあるかもしれない。

帰宅して早速調べ始めたけれど、ヒットしない。
だんだんと記憶の片隅に何かが形になって出てきた。
そうだ「坊っちゃん」だわ。
「坊っちゃん、柏餅」で検索すると坊っちゃんは当たり、柏餅でなくて笹飴だった。

抜粋
うとうとしていたら清(きよ)が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。
笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと云って旨そうに食っている。おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。

乱暴できかん気の強い主人公のおれに、唯一愛情かけてくれた清という女中。
初めて赴任した松山の宿で見た夢が清。
母よりも大きな存在だった清の夢は、不安なおれの心を沈めてくれたのだと思う。
漱石・・・長い間忘れていた。
それなのに、柏餅で思い出すとは。
幼少期に読んで感銘を受けたことは、生涯心の片隅に隠されて生きているのだと、驚きと懐かしさがこみ上げる。
今の子供達は読書よりも面白いことがたくさんあって、文字を目で追っていくなど生ぬるいと思えるかもしれないけれど、そうやって読んだものは生涯自己形成の役割を担うものだと思う。

余談ですが
私が拾ってきた猫を見た友人。
「名前は?」と訊くから「まだない」と答えたら、じゃあナツメにしたら?
おわかりですよね?


































2020年4月3日金曜日

コロナ怖くて花粉症治る

私の実際の誕生月は4月。
戸籍上では3月生まれになっている。
これは私の孟母の陰謀だった。
4月初めの生まれなら3月末の生まれということにしてしまえば、数日の差で小学校に1年早く入れる。
私が生まれた時点で思いつけばよかったのだけれど、学齢近くなってから実行されたので、相当揉めたみたい。
1日2日の違いで、入学が早まれば助かる。
うちにゴロゴロ6人も子供がいて、早く全員学校に入れたい。
親の自由な時間が増える。

いくら戦後のどさくさとは言え全く乱暴な話で、私が晴れて小学一年生となるには紆余曲折があったようだけれど、母は卑弥呼様だから逆らう人はいなかったようだ。
それでも私が1年生のつもりで入学式に行ったら、私の椅子がなかったらしい。
私はまんまと入学したけれど、次の年にも入学案内が届いたらしい。
なんとなく揉めているのは子供ながらに覚えている。
それでも私は我関せずで、兄姉全員が通った学校は自宅のようなものだった。
今なら戸籍を変えるには裁判しなければならないと思う。
当時だって簡単に戸籍を変えられるわけがない。
一体どうやったのか訊いてみたいけれど、母はとっくにお釈迦様のところへ行ってしまった。

それで私の本当の誕生月は4月で、誕生日の頃は桜の花盛り。
素敵な誕生日を迎えられると思いきや、毎年熱を出して寝込んでいた。
まだ花粉症が世の中に知られていなかった頃には、春になるとなぜこんなに具合が悪くなるのか訝しく思った。
今年はとんでもない疫病が流行って、憂鬱なニュースが連日報道されている。
ところが、そのお陰と言ってはなんだけど、今年は風邪をひかない、気管支炎が治るという副産物があった。

去年の暮、風邪の後遺症で咳だけが残った。
毎年のことだけれど、1月にスキーに行くつもりだから、何時までも咳が続いては困る。
珍しく病院へ行く気になった。
健康診断も何年も飛ばすくらいだから、めったに病院へはいかない。
それで私にはホームドクターがいない。
ネットで調べると、隣の街に良さそうな呼吸器内科医院を発見。
私は幼少時は虚弱児だったけれど、長じてからはかなり無理がきくようになった。
少しくらい熱があっても「気合だあ!」と動いているうちに治ってしまう。
けれど、咳だけはどうしようもなかった。
その病院に行くと咳喘息の診断が出て、ステロイドの吸引で治すことになった。
お陰で咳はもう殆ど出ない。

初めて咳に悩まされない冬を送ることができた。
そこへコロナウイルスが猖獗を極めはじめた。
本当に良いタイミングで治療ができたのだ。
しかも手洗い、うがいを今までになく丁寧にしたお陰で、風邪もひかない、花粉症も軽減、春にこんなに体調が良いことは珍しい。

世の中のイベントが中止されると暇になる。
コンサートにも映画にも行けない。
家でちゃんと料理をする。
バランスのとれた献立になる。
毎日公園への散歩をするので、足の筋肉が増えた。
お陰で足首の痛みも軽減。

「人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」
昔の人はうまいことを言ったものだ。

歌舞伎座近くの老舗のお弁当屋さんが廃業に追い込まれたと、今朝のニュース。
一方では生産が間に合わないほどの業界もあると思う。
どんな時でも、運、不運は隣り合わせ。
私達の業界は一番割を食う業種で、今、フリーのミュージシャンはどうしているのだろうか。
それでも好きで入ったこの世界で働けるのは、幸せだと考える人が多いのではないか。

私は暇な今、ベートーヴェンの5番・9番・10番のソナタを練習している。
公演の当てがないから、じっくりゆっくり。
今まで殆ど弾いたことがない10番のソナタに魅了されている。
このプログラムで公演予定だった人たちがいて、コンサート目前で中止になった。
そこに付け入るnekotama。
せっかく練習したのだから私に遊びで弾かせて頂戴。
ピアニストにお願いして合わせだけしてもらうことになった。

その前に本人たちの練習を聴かせてもらった。
若手の男性ヴァイオリニストは並々ならぬ実力で、バリバリと3曲、全く休憩無しで弾いていく。
途中で息切れすることもなく、最後まで完璧な音。
この大曲を弾いてケロッとしていられる並外れた体力、集中力には恐れ入った。

彼と話をしていくうちに、意外な人脈の連鎖を発見。
有名なヴァイオリニストのお弟子さんだった。
私はその方の先生とは10年間一緒に弾いていた。
こんなひどい時期に、それでもなお新たな楽しみが発見できるなんて。

普通の人なら、そんな上手いヴァイオリニストの相棒に合わせをお願いするほど図々しくできない。
でもこのチャンスを逃す手はない。
相手はコンサート目前だったから十分弾き込んでいる。
それに便乗すればなにか新しい発見があるかもしれない。
この図々しさが私の経験の源なのだ。
物おじしないと言うか命知らずと言うか恥知らずと言うか・・・
遊びはもう少しあとになりそうだけど。

命は惜しいから、コロナには臆病、お陰で花粉症も無事、喘息も治った。




































2020年4月1日水曜日

エイプリルフール

前回のnekotamaでマスクが木に実る空想を書いた。
そう言えば、以前エイプリルフールでスパゲッティの木が発見されたというニュースが流れた。
本気にした人もいたらしいけれど、いくらなんでもまさかね。
火星人襲来で大パニックになった年もあったらしい。
そのニュースは当日ではなく別の日だったというのだけれど。

さて、わが家のにゃんこは御年18歳。
具合が悪くて食物が喉を通らない。
少量でパックされているキャッツフードを買ってきて、毎日手を変え品を変えしても食べられないらしい。
成猫用、子猫用、柔らかいもの、スープ状など、取り揃えてあるのに。
特に外見に目立った兆候はないけれど、お別れの日が近づいているのは覚悟していた。
けれど、私はこの猫がいなくなると、本当に一人ぼっちになる。
北軽井沢の森の中で猫と一緒に過ごすのは、この上なく楽しかった。
大好きな森の木々の中で人っ子一人いなくても、寂しくなかったのはこの子のお陰。

数日前から一切物を食べないので動物病院へ連れて行った。
ここの病院との付き合いは50年近くに亘る。
今の先生のお祖父様の頃からのお付き合い。
骨格の大きいおじいさん先生は、真っ白なひげを伸ばしていた。
最初の猫を連れて行ったときには、大柄な体格に似合わず優しい声を出して、猫が気が付かないうちに注射が済んでいるような手早さ。

おじいさん先生が引退すると、息子さんの代になった。
聞くところに依ると、その先生はドイツのアウトバーンで車が横転して足を傷めてしまったそうなのだ。
車椅子の生活をしながら、診察を続けていた。
車椅子では往診ができないから、弟さんが獣医師になった。
弟さんはひげを生やし、ちょっと宇崎竜童似の人で、最初は普通の会社員だった。
お兄さんが怪我をしたため、もう一度大学に入り直して獣医さんになったという。
普通でも獣医師になるのは大変だと思うけれど、会社勤めの合間に勉強するのはさぞ大変だったと思う。

その動物病院は、私が最初の猫を連れて行ったときから全く変わらない。
建物も設備もずーっとボロボロ。
全く儲け主義でなく、一時期治療費を1000円だけ値上げしたことがあった。
私は多数の猫の治療費でアップアップしていたから、つい愚痴をこぼした。
「私、猫の治療費のために働いてばかり」と言ったら、次の治療から元の値段に戻してくれた。
ひげの先生は本当に良い人だった。
預けられて飼い主が取りに来られない猫や犬がいつもいた。

車椅子の先生も、ひげの先生も亡くなった。
その息子さんの先生の代になって、私の最後の猫もここでお世話になっている。
病院と一緒に古びた飼い主と猫は、最新設備の小綺麗な病院は似合わない。
毎日胃の治療薬と栄養剤を点滴してもらっている。
昨日、病院から帰って柔らかい餌を口の端から入れてみたら飲み込んだ。
夕方お腹が空いた風の顔をするから少し食べさせた。
でもそれっきり。

食べたくないのに無理に食べさせようとすると、猫にはストレスになる。
こういう状態になったら治療はしないはずだったけれど、やはりこのまま逝かれては気持ちの整理がつかない。
私のエゴだけれど、もう少し生きて、一緒に北軽井沢で過ごしたい。
実際北軽井沢に行くと、猫も元気になるのだ。
北軽井沢の家の近くに、遠くからも治療を受けに来る評判の良い動物病院がある。
あそこに行けばもしかして回復するかもしれない。
でも私にはわかっている。
彼女はもうすぐ私を置いてけぼりにすることを。
ここが一番辛いところなのだ。
どこで治療をやめるかが決められない。
実際食べなくなって治療をしないと、間もなく眠るように逝ってしまう。

先月の末に北軽井沢に行くつもりだった。
管理人に電話して水道と電気を通してもらうように頼んでおいた。
けれど数日前、雪になったという連絡が来た。
それもかなりの大雪だそうで、それではもう少し暖かくなるまで延期しようと言うことになった。
せっかくのチャンス、もしかしたら最初の予定通り北軽井沢に行っていたら、猫も元気になっていたかもしれないし、具合が悪くても地元の名医に治療してもらえたかもしれない。
今はこの調子では、3~4時間の車の移動は可哀想かもしれない。

明日になれば猫がむしゃむしゃと餌をたべて、うそだよ、エイプリルフールだよ~と言ってくれないかしら。

オーケストラにいたころ、4月1日は指揮者を騙すのが恒例だった。
練習が始まる前、当日の練習には使わない楽譜が配られる。
指揮者が入ってきて指揮棒が振り下ろされると、全く違う曲が始まる。
慌てる指揮者。
指揮台の上のスコアをひっくり返して、あれ!なになに?
そこで皆で大笑いする。
本当に楽隊はいたずら好きだった。

ところがうわてを行く指揮者は、そのまま棒を振り続ける。
練習していない曲だから、そのうちにメンバーの演奏に破綻がくるのをニヤニヤしながら楽しむ人もいた。

練習場のドアに、手書きで自動ドアと書いた紙を貼ったこともあった。
まさかと思ったけれど、ほとんどの人が引っかかったのは愉快だった。
その日はコーラスの入った曲の練習。
コーラスの人たちは、いつもここに来るわけではないから知らないのは当たり前だけれど、毎日のように通ってきているメンバーでも騙される人がいた。
ドアの前で一旦停止、おや?ドアが開かない・・・他愛ないいたずら。

コロナはなかな収束しない。
本当にマスクの木があればいいのに。
無事にこの状況を抜けられますように。