2020年4月16日木曜日

ぞろぞろ

卵を切らしたので、最寄りの商店街へ買いにでかけた。
いつもは大きなスーパーの開店時間に合わせて車で出かける。
でも卵だけだし、公園に散歩に行くついでに足を伸ばしてみよう。
朝10時、おどろいたことに商店街は人の波だった。
しかも年寄ばかり。

この商店街はいつもとても人が多い。
狭い通りに個人商店が軒を連ね、高級なものはなくても安くてなんでも揃う。
たいそう便利なのだけれど混み合っているのと、一度に同じ店でなんでも揃えることができないから、面倒くさがりの私はついスーパーに行ってしまう。
夕方の買い物客の多い時間ならともかく、開店早々のこの時間になぜこんなに?と思うくらいの人。

お嫁さんに言われて来たのだろうか。
「お義母様、いつまでも家にいらっしゃると運動不足になりますよ。
いえいえ、邪魔だなんてそんなことはありませんけど。
ご自分のお昼ごはんくらいご自分で買っていただきたいわ。
ついでに私達の分もお願いしますね。」なんて。

そんなわけで、目を見張ったのは、本当に足腰の弱った後期「後期高齢者」の多いこと。
私なんか、この中ではまだひよっこでした。
卵を買うと、そう言えばあれを買ってなどとつまらないことを思い出して、人混みの中足を伸ばす。
買い物が済んで帰宅の途中、人の波は更に増え続ける。
その頃には年寄ばかりでなく子連れの家族。
まあ、おどろいた。
これでは外出禁止なんてどこ吹く風。
クラスター発生に協力してきたようなものだった。
もうあの商店街には当分行くまい。

買い物は単身でさっと済ませる。
子供は留守番させる。
足の弱いお年寄りには公園などの人気の少ないところを歩いてもらうなど、商店街の人達がアピールすればいい。
にぎやかに人が多いのは普段なら楽しい。
でも今は、そんなこと言ってられない。
子供にもよく言い聞かせて家に居させるなど、簡単にできるでしょうが。
ここにいる人達全員で、感染するために行進しているような不気味な想像をしてしまった。

家にいるとつまらないと言う人が多い。
でもそんなことはない。
今や孤独な独居老人の私は、面白く暮らしている。
最初のうちは寂しさや退屈さが先にたった。
それは人恋しいとおもうからであって、覚悟が決まれば矢でも鉄砲でも持ってこいっ!と
カラ元気が湧く。
面白いことはいくらでもある。
今までの人生でやってきたこと以外の新しいことに取り掛かるには、自分は年を取りすぎているなんてことは絶対ない。

数年かけてハリー・ポッターの原書を読み続け、間もなく最後の巻に入ろうとしている。
英語は中学校以来、殆どやってこなかったし興味もなかった。
高校、大学では第一外国語がドイツ語だった。
そんなわけで、他の人よりも英語の学習は少なかったと言える。
ひょんなことからハリー・ポッターを原書で読んでみたいと思いたった。
英語ができないので読み飛ばすことができない。
一つ一つ辞書をひいて、うんうん言って前後の意味を考えるという、気の遠くなるような作業をしている。
先生のルースさんにとんでもない質問をして困らせる。
日本語訳では味わえない面白さがあって、ついに今年前半で最後の巻に突入と思っていたら、コロナ騒ぎでレッスンが中断。
早く再開したいので、急ピッチで予習をしている。

日本語訳では味わえないというのは、翻訳者をけなしているわけではない。
むしろ翻訳の正確さには頭が下がる。
けれど、言語の音楽性というか韻を踏む面白さ、語呂合わせとかその言語特有のリズム感は、やはり原書でないと味わえない。
作者のローリングさんの類まれな才能は、そういうところにも遺憾なく発揮される。
同じ響きの言葉で前後を揃えたりされると、これは翻訳ではどうしようもない。
意味は違うから、まさか同じ韻で2つの言葉が結ばれているとは日本語ではわからない。

最後まで読み終わったら、大学か大学院に行きたい。
これから勉強したいのは心理学。
若い頃から興味はあったけれど、ヴァイオリンが下手くそでどうにもならず、技術の習得に他の人よりも時間が必要だった。
41歳のときに放送大学に入学して宇宙のことを学び、自然の面白さに目覚めたものの難しすぎて、入り口を覗いて撤退。
それでも一応卒業できて、もう一度他のことを覗きたいとおもったけれど、仕事が忙しすぎてアップアップしているうちに、年をとってしまった。

人の心の奥底にある闇の部分、それは誰でも持っているけれど人によりバランスが異なる。
バランスが崩れる原因を探ってみたい。
私はすでに脳細胞が半減しているらしく、我慢ということをあまりしなくなった。
そのことで他人との軋轢が生じることが多くなった。
残り少ない人生だと思うと、ワガママになるらしい。
そこで浮かび上がってきた自分の負の部分を分析したらさぞ面白かろうと。
これがなにかの役にたつとは思わないけれど、人にも自然にも興味は尽きない。

放送大学で心理学のゼミを受けたときに、担当教授が余りにも簡単に人の心を類型にあてはめるので驚いた。
反発した私は何回か意見を述べたけれど、穏やかな教授はニコニコするばかり。
特に芸術の分野での心の影の部分は不可欠。
あまりにも常識的な私が名演奏ができないのは、そのセンスがないから。
認知症発生の危機に直面しているため、私には残された時間はほとんど無い。
このブログを書いていても、言葉が出てこない。
簡単な動作を表現するのに時間がかかる。
やる気はあるのに脳みそがシミだらけで困った。
脳のシミ取りは美容外科ではやってもらえないもの。

エステに行きたいのに、コロナが怖くて行かれない。
美容院もお休み。
睫毛のエクステもだめ。
せっかくの美女が雨に濡れた野良猫の様になっている。

シューベルトのファンタジア、譜読みはできた。
けれど、こんな難しいとは思ってもなかった。
かつて、本当にこの曲を私は弾いたのかしら?
その頃は若かったからなんなく弾いたのかもしれない。
シューベルトは楽譜はそれほど難しくはないけれど、それを普通に弾いてはおもろない。
ピアノとの絡みや歌のようなフレーズ、決して神経質にならず、かと言って酔っ払った風でもいけない。
酔いすぎれば下品になる。
典雅であるのに思いがけず骨太で、本当に私が持ち合わせていない物ばかり。
来世は貴婦人に転身したいけれど、多分イグアナかなにかになってしまうのは目に見えている。
人はそれぞれ分というものがあるもの。



























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