姑のふるさとは浪江町だった。仙台に嫁入りしたときに家を見て「あららーあららー、実家の風呂場くらいしかないこんな小さな家でくらすのか」と思ったそうだ。海辺の裕福な家で育った姑はおおらかで優しい人だったけれど、海辺の漁師たちの影響もあって気風が良かった。その実家の近所に住む親戚の家に遊びに行ったら「お前たちは貧乏だなあ、米もってけ」とお米をどっさりもらった。家は広々としていた。
私は姑が好きで、松島に一緒に行ったり、遠苅田(とうがった)温泉の湯治場に姑を追いかけていってお仲間のおばあちゃんたちと一緒にお風呂に入ったりした。入り口は男女別々なのに風呂場は混浴でびっくりしたけれど、いざとなると女は強い。おじいちゃんが恥ずかしそうに後ろ向きで入っていたのはほとんど気にならなかった。お風呂から上がって火鉢に載せてあった鍋の味噌汁をごちそうになった。こんなに美味しい味噌汁は後にも先にも味わったことがない。
同じ部屋に数人の湯治客が同居している。地元民ばかりだからにぎやかにおしゃべりするのだが殆ど言葉が聞き取れない。言葉を理解しようとして喋っている人の口元を必死で見ている私を姑が見て笑っていた。「わかりますか?」「ううん、ちっとも」時々通訳をしてもらってやっと会話の仲間入り。
姑は7人もの子供を育て、そのうち6人は男、ひとりだけ女の子だった。それで私も実の娘のように可愛がってもらった。姑は一人暮らし、オンボロの家に住んでいた。息子夫婦は庭続きの立派な鉄筋コンクリートの家にいて、再三同居を勧めるのに頑として動かない。それで私も仙台に行けばそのオンボロ家に転がり込む。気ままにご飯を食べたりお茶を飲んだり。初めて食事をしたときに姑が「けさい」と言う。「けさい」でなく「け」とだけ言うことも。なんのことかと思ったら「食べなさい」と言っていたのだ。「け」は「食え」「けさい」は「食いなさい」東北人は口を開かない。言葉が少ない。
東日本大地震のニュースを聞くたびに姑を思い出す。
私の実の母は整理整頓の鬼、押し入れを開けるときっちりと縁が揃った布団類、細々したものは箱に入れてある。中に入っているものは外箱に書いてあって、なんでもすぐに取り出せるようにしてあった。その母が私に「押し入れに布団をしまうとき、布団のヘリがちゃんと揃っているようにしなさいよ。お嫁に行ってお姑さんに見られて散らかっていたら恥ずかしいでしょう?」でもそれは杞憂に過ぎなかった。姑の家の押し入れを開けようとしたら慌てて止められた。構わずに開けたら上からどっと布団やタオルが落ちてきた。苦笑いしている姑、そして二人で大笑いした。私が来るので慌ててそこら中にあったものをぎゅうぎゅう詰め込んだらしい。
義母の親戚筋に相馬の人がいる。その家は相馬野馬追いの大名行列の通る道に面していた。馬大好きの私は毎年そこの家に泊めてもらった。面白かったのは相馬のご当主様が茶髪の若者で、大名行列の馬上からあちらこちらに挨拶をしていたこと。「あ、どうも」なんて言いながら頭を下げている。おいおい、殿様が家臣に頭下げてどうするの。その家の近くに原子力発電所があった。
姑は震災のずっと前に亡くなった。親戚はどうなったのかなかなか話が伝わってこないけれど、皆無事でいるらしい。私は馬好きが昂じてそのあたりの山林で馬を飼いたいと思って土地を探していた。相馬の親戚も付き合ってくれて何回も土地を見に行ったけれど、なかなか思うようにはいかない。その頃に土地と馬を手に入れていたら、震災でひどいことになっていたかもしれない。馬を見捨てなければいけなくなるとか・・・ぞっとする。
いまでも住めない場所があって苦労している人たちのことは、心底お気の毒に思う。きれいな海と東北の優しい山々が汚されてしまった。義母との楽しい思い出も最後は苦い記憶で締めくくられる。復興は10年目でもまだまだ。私の第二のふるさとの東北人の底力でがんばってほしい。
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