2014年1月20日月曜日

ピアノ調律その4インタヴュー続き

佐々木  ピアノが2台用意されている会場に来られるピアニストは本当にうれしかったですよね、きっと。

山田   例えば都市センターホールっていうのはスタインウエイのピアノとヤマハの同じ大きさのピアノ、2台あります。それで借りる日本人のピアニストは問い合わせをして「お宅のホールのピアノは」と訊くわけです。
その結果「スタインウエイとヤマハがあります」って言われると。すると「ああ、そうですか。じゃあ、スタインウエイにしてください」とこれはもう見もしないで決めるわけです。
それで、私はもうそれじゃあ面白く無いっていうんで、ヤマハの方を相当ね力を入れて調律しまして。
でも、日本人は、いくら「ヤマハがあります。弾いてみてください」って言っても「いやいや、もうスタインウエイにします」って言って見もしないで決断する。
ところが外人のピアニストっていうのは違う。まあ、スタインウエイを出しておけば間違いないから出しときますけど、弾いてみて「このホールはスタインウエイだけなのか」って訊きますから「ヤマハのピアノもありますからみてください」っていうと「あっ、こっちでやります、今日は」そういうこともあるんですよ。外人さんっていうのは素直ですから、自分にあったもので弾きますよね。そこはおもしろいところ。
日本人の場合はネームバリューでいきますよね。まあ、このくらいの面白い話はいっぱいありますけどね。

佐々木  簡単にスタインウエイとヤマハの違いっていうのはどこなんでしょうね。

山田   ヤマハはやっぱりね、スタインウエイの真似なんですよ。スタインウエイの設計をそっくり真似ているわけです。
そうすると、いいところを真似しても、良いところが出ないでスタインウエイの悪いところばっかりでちゃうんですよ。伝統の力とかいろいろありますからね。
それとヤマハの場合そろばんをはじいちゃうんですね。このところはこの部品でいいだろう、っていうふうに、ありますよね、そういうの。
今は試行錯誤して、大分よくなったんですよ。今とてもいいですよ。今とてもいいんですけど、でも日本では2番目に見られちゃう。性格が全くちがいますから。なかなかそこらへんがね。
でもヤマハが好きだっていう人もいるんですよ。どう違うとかっていうと、あとは好みになっちゃう。

佐々木  
幼い頃からピアノを習われていたということなのでしょうか。

山田  そうですね。でもピアノを習っていたといっても、要するに、普通のピアノのレッスンっていうのは3歳半では、いかほどのことでないですから、音感教育が大きかったわけです。
先生って方が日本人で初めてベルリンの音楽学校、国立音楽大学のピアノ科と作曲科を出た笈田先生というかたで、その人が日本に凱旋してきて、たいへんな騒ぎだった。
昭和元年あたりだから今から80年くらい前の話ですよね。日本人でドイツに留学するっていっても3週間くらいかかって船で行くような時代ですよ。
そういうときだからピアノそのものもえらい高いもので、郊外の家が1軒買えるくらいのお金がかかったんですよ。贅沢品だったんですよね。それでうちの親父さんが稼いだんでしょうね。
それで、私の先生が向こうで音大の試験を受けるときに、今の音大の試験では当たり前なんですけど、聴音といいまして、なにかメロディーを弾いたりするのを訊いて、それがどういうあれかっていうのを写すテストがあったそうです。
で、これは無理だっていうんで、カンニングをしてね、やっと受かったってことでした。耳の訓練を日本ではまったくそのころしてなかった。
ドイツ人っていうのは、お父さんはバイオリン、お母さんはピアノっていうような雰囲気で子供は育ってきているから、自然に音感っていうものがついてしまう。
それで、そういうのが日本人にも必要だ、と。
日本の場合はそういう雰囲気はないわけですよ。お父さんは浪花節かなんかで、お母さんはよくて三味線ですよね。
そうすると音感なんてつかないわけです。
それでピアノを教えるに関して音感教育も必要だってことで先生は初めて試行錯誤したわけですよね。
それでそのピアニストとうちの親父さんがたまたま知り合いだったんです。
おまえの所に子供がいるだったらよこせ、ってなもんで、僕自身は全然そういう意思はないですよね。
ただね、僕は母親に連れてかれて、親父さんは高いピアノ買わされたわけだ。















2 件のコメント:

  1. nekotama様
    この山田さんって方、面白い方ですね。このインタビューをアップするの大変だったんじゃないですか。
    でもこれ、記録として大切ですよね。
    ところで、鳩山さんが幼少の頃のお話ですが、昭和の始めの台北にピアノのある家が一軒しかなくて、それが杜聡明(台湾で有名な医学博士)の家で、鳩山さんのお父さんの遠山寛賢さんは息子にピアノを弾かせたくて、杜聡明さんに会いにいったそうです。そのとき、遠山さんが自分のことを「自分はお金はないが、唐手では一番強い」と話したら、杜聡明さんは「脅しにきたのか」と勘違いしてしまったそうです。それでも鳩山さんにピアノを触らせてくれたそうです。鳩山さんが3歳くらいのときの話です。 山田さんのお父様もそうですが、あの時代息子にピアノを触らせたいって思っても大変だったのですね。

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  2. なにもかも手探りだった私たちの先輩がたの貴重なお話です。
    この次は是非山田さんにお目にかかってお話しなさることを
    お薦めしますよ。いつでもご紹介しますから。
    鳩山さんのお父様はずいぶん子煩悩だったのですね。
    日本の音楽界の先駆者たちのご苦労が忍ばれます。

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