2014年1月21日火曜日

ピアノ調律その5



佐々木  ご両親が音楽に理解があったということでしょうか。

山田  親父は見栄ですよ。それと義理ね。まあそんな興味はなかった。おふくろさんは小学校の教師だったから、多少の理解はありました。昔ですからオルガンくらいは弾けたというぐらいなものです。それからうちでの自習復習っていうのはおふくろさんにやってもらった。
住んでいたのは、それで印刷やのせがれでしたから、下町のほんとに、あの、なんていったらいいのかな、日本橋の近辺ご存じですか。あそこにデパートがありますよね、これぞ日本橋っていう。その裏にたいめいけんがあるんですが、そういうお座敷洋食とかいうお店があるところです。
昭和10年くらいで、ちょうど私は3才とかです。そういう時代の下町です。三味線が聞こえたり酒問屋があったり、印刷やが多かったりね。
町内にピアノが3台しかない、っていうような所ですから。まあ、周りからは一目置かれたっていうか、敬遠されたっていうふうかね。ふふふ。
それで音感教育を3才半からやってましたから、小学校は6才でしょう、学校に入るのは。
で、小学校に入って、学校の音楽の授業があって。そしたら、学校のピアノはね、白と黒が反対だっていうことを言ったんだそうです。
つまり全体が半音下がっていた。うちのおふくろさんがそれをちらっと学校に言ったら、もうなにしろ3年間くらい調律していないって話だったんで、聞いてみたら半音下がってた。
それで今度は大変な神童が入ったということでね。それでそれからは小学校の音楽の時間に、音感のやりました?ドミソとかドファラとかやらなかった?

佐々木  やらなかったですね。もうただ歌うだけで。

山田  えーっとね、戦争が、太平洋戦争が始まる前でしたからね。音楽的なピアノとかそういうものは戦争に関係ないんだ、で、贅沢品ですからね。高いので。
ところがその、この笈田先生って方が、ピアニストも教えていたわけですから。自分はもう最高のピアニストを、みんな芸大を出たような人を教えていたわけです。
で、それがだんだん戦争になって、ピアノは贅沢品で、そういうものはやったらいけないっていう風になってきて。
そしたら、大阪の方に弟子をね、毎月1回教えに行ってたらしいんです。
そのころ東京駅で、教えに行くのに、そういう時代考証っていうのはまあ、あれしてもしょうがないですけど、背広を着るなどまかりならぬと。
軍服みたいな服を着て、帽子は戦闘帽っていうのをかぶって。それから足はゲートル巻いて、女の人はモンペはいて。
そういう時代で、背広なんて着て歩いていると非国民だなんて弾劾されるわけですよ。
だけどもそういうダンディーなピアニストでしたから、東京駅の二等車乗るのにね、ソフトかぶって背広着て来たから、たまたまその2等車に乗り合わせた海軍の将校さんが2,3人「こういう時代に非常識じゃないか、おまえそんな格好して。
ゲートルでやらなくちゃいけないのに背広着てソフトかぶって、「おまえはなにをしているんだ」ってこう言ったわけですよ。
変な答えしたらひっぱたかれるような時代でしたから、「実はピアニスト」なんて言ったらたいへんなことになります。
それで「子供の耳の訓練をしてるんです」こういうことを言った。ま、事実ですから。
「何だ」っていったら、敵軍戦闘機が飛んできて、それのエンジン音を聞いてね、それがなんだか当てられる、というような訓練をね、してるんだってことになった。
「おお、そうか。それじゃ軍に協力してるんだな」っていうことで、それじゃ横須賀の基地へ実験的に子供さんを連れて来い、こういうことになった。
それでその、僕らはちょうど5才くらい、何人か、横須賀の基地、潜水艦の基地ですよね。で、潜水艦の上を駆逐艦とかがずっと通るわけですよ。
するとスクリューの音が、ブブブブっていうのが録音してあって。それを聞いて、この音はこの音は今この駆逐艦が通ったとかね。
見えないですからそれを聴音係の水兵さんが聞くと。
今はソナーですよね、ピッピピー。あのソナーっていう音波をね。そんなものないから、当時はただ聞いていたわけです。

佐々木  上に何が通るかっていうのを。

山田  そうそう何が通るかっていうのを。
聴音係の水兵さんの係のところで、アトランダムに初め4つくらいなにって言わないで、1番2番3番って録音したものを何回か聞かせてくれた。
そしたらその、ブブブブってところにピアノの音が1つか2つ混ざってる、そういう風に聞こえるんです。
それでああそうか、1番は何が入ってるっていうのが1回聞きゃあわかっちゃうんですよ。
子供達はそれをやっていくと、あっ、これは3番だって。言わないで書く。3番とか4番だとか。だいたいみんな当たるんですよ。
後ろの水兵さんが見てて、腕を組んで首をかしげるんです。
わかるわけないんですよ、だって、ただブブブブっていってるだけなんだから。
それで非常に面目を施して、笈田先生って方は佐官待遇の軍属になって。
戦時中は本当に収入がないでしょう。ピアノ弾いたらおこられちゃう。
それでずっと終戦まで軍属でいられたっていう、そういう面白い話。

佐々木  すごく機転の利く、頭のいい方だったんですね。

山田  そりゃだってね、楽譜のすごいのを全部暗記するんだから。まあでも戦後は酒で、肝硬変で亡くなりましたけどね。
ま、たいへんだったと思います。
















4 件のコメント:

  1. 先生、これはいけません。楽譜に著作権があるように、雑誌に発表された文章にも制作者を守るための著作権があります。インタビューを抜粋要約し、その一部を先生の言葉に替えてブログに載せるには問題ありません。しかし今回の場合は、「転載」に当たり、引用の量を大きく超え、著作権侵害になっていると思われます。インタビューを受けた当事者、インタビューをした人間に著作権があるわけではなく、その方の了解をとったからよい、というわけではありません。また引用する場合は、その文章が載っている本・雑誌、その号数等を明記するのがルールとなっております。僭越ながら気になりましたのでコメントさせていただきました。最後に、先生のブログの大ファンです(笑)。

    返信削除
  2. あら、そうなんですか。困りましたね。途中なのに。
    これからもっといろいろな話になるのですが・・・
    ただし、これは講演会の模様を原稿にしたものです。
    それも本になる前の草稿ですから、もし本に載れば
    手が加えられて違ったものになるかもしれません。
    本、雑誌にはまだ載っていませんが、それでもダメ?
    山田さんの了解も頂いておりますが、それでもだめ?
    どこかからクレームが来たら考えるので、それまで掲載しても
    いいかしら?
    nekotamaごときのクソ面白くも無いブログを読んで下さって
    ありがとうございます。
    でも、山田さんの語り口は粋でおもしろいでしょう?

    返信削除
  3. 講演会の様子を起こしたものだったのですね。雑誌掲載のものと誤解いたしました。それでは職業柄の心配はやめて(出版社勤務です)続きを楽しみに読ませていただきます。横槍入れてゴメンナサイ

    返信削除
    返信
    1. いえいえ、ご指摘ありがとうございます。
      なにせ、世間知らずの音楽バカなので知らないうちに
      犯罪者になっているなんてことも・・・・は、ないか。
      たぶんだいじょうぶだと思いますが見つからないうちに
      ピッチを上げてとっとと書いてしまいます。

      削除