2010年5月31日月曜日

存在感について

この夏シューベルトのソナタを弾こうと決めて、ピアノの友人と合わせている。2人とも間に旅行を計画していて、一ヶ月は間があくので、今のうちに固めておきたい。私はいつも自分が弾く曲は参考にCDを聴かないことにしているが、今回ピアニストが貸してくれたので、ちょっと聴いてみようかという気になった。一枚はバリバリの若手と思われる2人、もう一枚はチェコのスーク、ピアノはパネンカ。はじめに聴いた若手のものは、非常にテクニックも優れているし、いきが良くて中々良い。しかし続けてスークを聴いたとき、そのあまりの違いに驚かされた。CDにもかかわらず、最初の音から全く違う存在感、風格。スークという人はどちらかといえば、地味な感じと勝手にイメージしていた。何回も生で聴いていたのに、会場が悪かったか、トリオが多かったからか、あまりパッとしない印象が強かった。しかし、彼の最後のコンサート、引退直前に日本で開いたリサイタルを聴きに言った時のことは、今でも鮮明に憶えている。教養の深さ、人格の高潔さ、情の豊かさなどを、感じさせられる素晴らしい演奏だった。音楽は人なり。学問も芸術もすべて人柄を表すものとしたら、彼は人として非常に高みにいると思われる。アイザック スターンを最後に聴いたときも同じだった。若い頃の彼の演奏はあまり好きではなかった。しかし、その時は一切の飾りを捨て去った潔さ、共演者、名チェリストのヨーヨーマがにわかにくすんでしまう気品、存在するだけでひきつけられた。奇を衒い大声を張り上げれば人は注目する。でも、存在そのものが尊敬されるとは・・・・ それは私たちが素晴らしい芸術家に持つ愛。愛するなら、なにも語らなくてもそこに居てくれれば良い。そういうこと?かな?飾って飾って、頂点に達したとき、次は飾りを落としていくしかない。そうやって、飾りを落とし終わったとき、ものの本質があらわれる。そこまで突き詰められる人に対する、尊敬の念を受けられる、数少ない天才が彼らなのでしょう。

2 件のコメント:

  1. 人生の一時、特に登っていくときは極端へ走るのが良いのかも知れませんね
    昔、初めから渋狙いだと伸びないよと誰かが言っておりました。果たしてそう…だったわけです

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  2. おー、おそれいりいました。本当にそうですね。
    すてきなコメントありがとうございました。

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