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2026年2月20日金曜日

久しぶりのお座敷

お座敷とは・・・芸者さんたちが呼ばれて接客するようなときに使うけど。

私たちシニア五重奏団が呼ばれて遅めの新年会で演奏することになった。私はもはや 引退したと言っているから仕事とは言えないけれど、相変わらず出たがり屋だからお座敷に呼ばれれば尻尾振って出かけていく。とある市役所の中の新しい建物。市長さんもご出席だとか。

曲目はシューベルト「マス」の3,4楽章。長すぎてもいけないし、みじかすぎてもいけない。明るく聞きやすい楽章ということでその2つの楽章を選んだ。楽器の編成は、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの五人。コントラバスが室内楽で使われるのは割に珍しい。普通のピアノ五重奏曲はコントラバスがなくてヴァイオリンが2本になる。なぜ私たちの演奏にはコントラバスが入るかというと、それは頼りになるコントラバス奏者がいるからで、とにかくあらゆる場面で彼女が、ひつようなのだ。

今まであまり知らなかったけれど、コンバスが入る五重奏曲は割とある。新しく曲も生まれているのでそんな曲を入れると立派なプログラムが出来上がる。その中でも「マス」は超有名で私たちのグループでは好んで演奏する。というより、その副題の爽やかな印象や曲の素晴らしさで、ピアノ五重奏曲の最も有名なものの一つがこの曲なのだ。

ところが演奏の難しさでもずば抜けていて、シニアにはちと辛い。聞いているのもシニア、演奏もシニア、たぶん耳の聞こえない人も多いから音程の多少のズレはあまり気にかからないだろうなどと思うけれど、油断は禁物、中にはどんな偉い人がいるかわからない。かつての名演奏家なども混じっていることも考えられる。この市には芸術の匂いが充満しているのだから。

本番二日前、私は久しぶりにブラームスのソナタのピアノ合わせをしていた。ブラームスのソナタといえば、ある有名なヴァイオリニストはザルツブルク音楽祭で一回も演奏したことがなかった、そして40歳過ぎてやっと演奏したという有名なエピソードがあった。

非常な名人で世界中で知られている彼は大変なテクニックの持ち主なので、そのザルツブルクでの演奏をラジオで聞いて少し戸惑った。なるほど、あまりブラームスはお得意ではないらしい。この方の名前がどうしても思い出せない。ほらあの、アルゲリッチとよく一緒に演奏していたあの人よ。浴室で転んでバスタブのヘリに頭をぶつけて以来、私は一層痴呆に拍車がかかってきたようだ。さっきから思い出そうと努力しているんですがねえ。

そして何の話をしていたかというと、ブラームスのソナタが非常に難しくてピアニストとああでもないこうでもないといっているうちにとても疲れてその日の夜は22時就寝、次の朝目覚めたらなんと10時30分、12時間30分も眠ったことになる。いつもの睡眠時間の倍以上。でもスッキリと目ざめてこれで明日は十分な体力で演奏ができると思ったら、その日は何時になっても眠気が来ない。いつまでもスッキリ、目も疲れない体もよく動く。

最初のうちは喜んでいたのだった。これなら多少寝不足でも大丈夫、明日の活力は確保と思っていたのに突然心配に襲われた。このまま一睡もしなかったら演奏どころか車の運転にも支障がでるかもしれない。起き上がっては横になったりトイレに行ったり白湯をのんだり、何をしても眠くならない。やっと明け方2時間ほど眠った。目が覚めたらまだ7時、出発予定の9時までの二度寝は危険、仕方ないから起きてしまう。そして出発。やはりあまり眠くない。

眠くはないけれど、この覚醒はいつまで保てるのか。本番で急激な睡魔に襲われたらどうしよう。しかしその日一日、いつもと大勢に全く影響なし。帰りの運転にも全く支障はなく無事帰宅。そしてまた今日は12時間睡眠。今夜は寝ないで騒いでいられるようだ。2日分寝て2日分起きているとすると、大事なコンサートの日時に合わせて睡眠のサイクルの調整をしないと、本番当日、ステージで居眠りしかねない。

古今亭志ん生が高座で居眠りをしたとき、お客さんが「ねかしといてやれ」といったという話がある。私もそうなったときには皆さんお願いしますね。









2025年6月3日火曜日

会長は亀?

 体内年齢が若い人がいる。老化は細胞の衰えに始まるらしい。ある種の人では細胞の老化が遅い。私達のスキークラブの会長の山田さんはその老化が特に遅いらしい。

ただいま90歳は超えて悠々自適、ピアノ調律師で日生劇場のバックステージ賞をとるなど、調律会の重鎮としての活動は知る人ぞ知る。90歳になる直前まで一緒にスキーをしていた。ある年、志賀高原で滑っていたとき、リフトから下りる通路でころんだ。これは本当に珍しく私は会長が転ぶのを見たのは長い年月でも初めてだった。

その後、会長がゲレンデの傍らで腕を組んで考えごとをしているのを目にして、ドキッとした。会長は自分を律するに大変厳しい人だった。ハチャメチャな連中と一緒に麻雀を楽しんでいてもよる9時には就寝、どんなに面白くてもきっちりと寝てしまう。他の人達は夜を徹してと言いたいところだが、よる年波で皆早寝になっていても会長ほどきちんとしてはいない。面白ければ夜中まで起きている。

会長は食べる量も決まっているようで、美味しそうに楽しそうに食事をしても過食で気分が悪いなどということは聞いたことがない。類まれな記憶力はだれもかなわない。細部にわたるまで覚えているので私達は彼の頭脳がどうなっているのか知りたい。転んでしまった直後会長はスキーをやめた。

そんな会長も最近は調律用の重たい道具を下げて電車に乗るのはできなくなったらしい。御本人がというよりご家族の心配が大きいらしい。私のピアノは何十年も彼の手で調律されてきた。なんとも言えない風合いで、鍵盤に触れると優しい和音が響く。弦楽器にとってピアノとのアンサンブルは戦いに近い。ピアニストは楽器の規模がまるで違うヴァイオリンに斟酌しない。ヴァイオリンは響きで音を飛ばさないとしっかり会場の片隅まで音がとどかない。

ピアノは鍵盤上を猫が歩いても音は会場中に届く。この違いが理解していただけないと良いアンサンブルは不可能なのだ。そのアンサンブルのために山田さんはあえて融通無碍に調律する。というより、ピアノの音階はヴァイオリン弾きにとっては理解できない。あ、その音もう少し高めにとか言いそうになる。オクターブを無理に12音に分けるので仕方がない。おや?と思っても、山田さんの調律は和音で弾けば深々と鳴り響く。まさに名人芸!そんな調律が好きで長年お願いしていたけれど、最近は重たい調律の道具を持って1時間以上電車に乗ってくるのはできないとおっしゃるので、ついに調律師を新たに探すことになった。

山田さんによれば調律は数学と深い関係があるそうで「サインコサインの世界ですよ」と聞いたときにはびっくりした。計算ずくでもあるのだ。ピタゴラスがやったらさぞ名人だったに違いない。山田さんが来られなくなったのでしばらく調律はほったらかしに。しかしそろそろ耐えられなくなって会長ご推薦の人をお願いすることになった。約束の日、ニコニコとして玄関に現れた人は明るく気さくなスタインウェイピアノの調律師のIさん。名門のピアノと私の家のピアノは雲泥の差と言われそうでかすかに緊張したけれど、でも友人たちが作ってくれたピアノ。作成に二年かかった。本体と鍵盤はヤマハ、椅子はカワイ、中身はベヒシュタインなど。

調律途中で覗きに行くと、新しい調律師に訝しげに「このピアノはどういうものですか」と尋ねられた。経緯を言うと「ああ、おもしろい、そうですか。いい音がしますね」ホッとした。私は友人が作ってくれたという理由だけでなく、本当に柔らかな音が好きなのだ。

二時間以上かけて調律が終わって、少し休憩をしながらIさんとお話をした。山田さんとくればスキー、彼も山田さんのスキー仲間だったというので私は嬉しかった。つい自慢したくて私が一番最後に買った板を見せた。これは北海道で作った「もく」というスキーです。白木の軽い板で、力がなくてゲレンデを担いで行くときなどは、私の分も先生が担いでくださるから気の毒で、軽い板にしたのだった。ビンディングも一番軽いものに変えても素早く滑る事ができる。そこらでお目にかからないから珍しがってフランスのヴァルトランスに行ったときにはよく質問された。「どこのスキーなの」と。

一気に話が盛り上がって、調律師はかえっていった。小手調べに鍵盤に触ると、抜けるような明るい音がする。これほど調律によって変わるかと思うほどの違い。今までアンサンブルだけで使ってきたけれど、久しぶりにソロが弾きたくなった。大好きなモーツァルトとシューマン。数十年ぶりにピアノを弾くと心が弾む。それから数日間、ピアノを練習したけれど、少しもうまくならない。

素敵だなあ、こんなにも違う二人の名調律師が私のピアノに関わってくださるとは。山田さんの調律は、深い森の中で木の葉のさんざめきや郭公の鳴き声などとともに安らぎを覚えるような、Iさんの調律は明るい5月の草原の輝きのような。

古い話になるけれど山田さんは、あの、ルービンシュタインから「モーツァルトの調律はミスター山田にやってもらいたい」と言われたそうなのだ。山田さんが調律を終えて気持ちよさそうにピアノを弾き始めると、軽やかで楽しげ。ドアの外でしばし聞き惚れたものだった。

人間は徐々に細胞が老化していくけれど、亀やトカゲなどは死ぬまで細胞が老化しないそうで、今その老化しない細胞の研究がされているようだ。するというと山田さんはもしかしたら亀だったのか。











2025年1月2日木曜日

箱根駅伝

 超絶美しい富士山。心地よい日差し。そんな平和な朝、学生たちは何を思って苦しい山坂を走るのか。

強豪青山学院大学の最初のランナーが不調で、首位争いに加わるかと思っていたけれどまさかの10位。どこの学校を贔屓にということはないけれど、やはり優勝常連校は気になる。青学は4区までは後ろの方にいたのに終わってみれば首位にいた。往路優勝!ここがすごい。

いつも思うのは監督の余裕の心の広さ。最初のランナーをちょっと睨んで「お前がちゃんと走れば」的な苦言を言っていたけれど、何故か愛情を感じる言い方で心の広さが素晴らしい。言われた生徒も監督の方を向いて叱責を受け止める。監督は失敗はそのまま受け入れてよくできた他の生徒を褒める。これは天性の懐の大きさだと思った。失敗は誰にでも起こる。まして駅伝の厳しさは監督自身が一番良く知っているし。

団体の順位が個人的な記録のトータルで決まるというのは少し残酷なような気がする。個人競技なら自分の調子が悪くても仕方がない、また頑張るさと考えればいいけれど、団体だと、あいつのせいで自分たちがせっかく頑張ったのに負けた・・・なんて思わないかしら。誰でも常に絶好調とは限らない。中央大学の最終ランナーはずっと首位にいたのに、最後の山登りで青学に抜かれた。

終わってから中大監督が思いがけなく晴れやかな顔で、明日も頑張ればと言うようなサバサバしたコメント、昔の監督ならげんこつが飛んだのではと思う。中大の最終ランナーが悪かったのではなく、それほど青学の記録が素晴らしかったのだ。

人はリラックスしたときに最も力が発揮できる。でもリラックスしすぎてもだめで適度な緊張を持続したあとでのリラックスが最強だと思う。

パリオリンピックで兄妹の柔道選手が揃って金メダル獲得の呼び声が高かった。しかし前日テレビで見た競技場を下見に来た妹さんのほうがあまりにものんびりした顔をしていたのでおや?と思った。周囲に悠々とした態度で手を振っていたのでこれはやばい!余裕で勝てると思っているらしい。

ああいうときは事前にギリギリに緊張しておかないといけない。それで少し疲れてよく眠れる。眠らなくても緊張の持続は時間が経つと一度緩むから、そこでリラックス。直前にもう一度緊張が来ても一度経験しているから二回目の緊張は少し緩め。そしていざ勝負というときにはすべて真っ白の中で集中できると、こういうのが一番理想的なんだけど。

例えばコンサートの前に全然緊張しないから、余裕で舞台袖で話したり笑ったりしていると最悪な事態になることが多い。舞台に出ていざ音を出そうとするといきなり体がこわばってしまう。そうなったらもう失敗街道まっしぐら。立ち直れなくなる。柔道の妹さんもそんなことだったのではないかと思うけれど、それでも失敗したことは良い経験と諦めてその後の競技を頑張ってほしい。

なんだかんだ言われても、学生たちは一人でひた走るだけでなく友人たちとの絆を深められるこの競技に魅力を見出していると思う。たった4年の特別な期間、輝かしい時間を共有し燃え尽きても、それは生きる者にとって最高の宝になる。失敗しても苦しくても、できるならやったほうがいい。横からとやかくいうことではない。

と思っていたら、カラコルム・シスバレーに新ルートを見つけるために4度目の挑戦をした登山家のドキュメントをやっていた。これはもう命がけの話で燃え尽きるどころか死を賭してのはなし。

前人未到のシスバレーの空白地帯に新ルートを見つけるために二人の登山家はほぼ垂直の雪の壁を登る。荒い息遣いが聞こえる。その人を上から撮っているカメラマンは同行者なのか、プロのカメラマンなのか。こういうときに登山家よりもカメラマンに驚嘆する。

今でこそ小さいカメラなどが開発されているけれど、そして今回の登頂にもそんなカメラが活躍していると思うけれど、昔は大きなカメラを担いで登山家やスキーヤーと共に上り、あるときは先に登って上から撮る姿が写っていたりすると、カメラマンの方が技術的に上でないとできないのではと思ったりした。

激しい風や雪崩に悩まされながら4回目の挑戦、北東壁のルートを見つけて2日目に下山した二人の山男は大きな肉にかぶりつく。どす黒い顔がところどころ赤黒く焼けて、どちらが誰かわからないほどそっくり。それでも嬉しそうに笑っている顔は可愛い。命がけで登るのはどんな気持ちなのか知りたい。登ったけれど降りるのはもっと難しいと思うのですが。

こうして1日中テレビを見て終わるのが毎年のこと。











2024年12月18日水曜日

臨時収入

 せっかく引退して終活に勤しもうと思っているのに、作業は遅々として進まない。時々えいやっと片付けをしても数日で元の木阿弥。悪くすると前より散らかってしまう。不要なものを買う悪い習慣は少しだけ矯正されたけれど、相変わらずの散らかりよう。これはもう才能の無さというより仕方がない。

それでも今までどこに行ったかわからない領収書などがまとまってきたし、出さねばならない書類が滞ることもなくなってきた。引き出しから古い預金通帳を見つけたから中を見たら残高1200円ほど。それが繰り越された最初の残高が900円弱、利息が長い間に蓄積されたのでの結果、これをどうするか考えた。

以前私が遺産を相続したときに、あまりにも古い通帳が残っていてそれの始末にえらく手こずったから、こんなものを残したらあとの人が困ると思って金融機関に相談に行った。多分すごい迷惑だと思うのに窓口の女性は親切に引き受けてくれた。

まずこの通帳は以後使う気はないから廃棄してもらいたい、残高は本当に僅かだからどのようにでもして構わないとも伝えたら、小一時間かかるので後ほどもう一度来てもらいたいと言われた。

その時間を待つか動くか少し考えて、先日高齢者自動車免許更新のときに視力検査で少し引っかかることがあったので、近所の眼科で細かく検査してもらおうと思った。ついでに白内障、緑内障など細かく検査をしよう。

最近ちょっと曇天の日などに霞むような気がしていたから、もしやと思っていた。実は早く白内障になってくれれば世の中が変わると友人たちが騒いでいる喜びの輪に加われるかもしれない。それに今日は少ないけれど通帳の残高がもらえるかもしれない。それで検査代が出せる。さもしい考えもあって時間つぶしも兼ねて検査してもらった。

5年に一度くらいしか訪れることのない眼科医院。あまりに間遠なので新しい住所を書いてくださいなどと言われる。私は病院が好きではなく(誰でもだけど)本当によほど悪くないと出かけないし、近所の内科医は私を見ると怒るようになった。なぜ来ないのかと。先生、そんな無理言わないでください。どこも悪くないのに病院に行く人はいないのだから。定期的に飲む薬もないし、お薬手帳すら持っていないのだから。

というわけで本当に久しぶりの眼科の先生は怒るどころか嬉しそうに説明をしてくれた。それによれば全くどこも悪くない。白内障も緑内障も眼底検査も真っ白。強いて言えば視力は両眼で1.0だからギリギリセーフ。おかしいな、最近少し視力に問題ありと思っていたのだが。日によって見えにくい日がある。

たぶんそれは睡眠障害によると思われる。いつ寝てもいつ起きても誰にも文句言われないから夜中も起きているし、昼寝もたっぷりする。あまりに自由だと時々修正しておかないと人間社会で暮らすのが辛くなる。猫は自由気ままに寝ている。だから寝子。猫と一緒に夜中じゅう起きていたりするのは大変心地いいけれど、昼間がつらい。

メガネを作ってもらうまでもなさそうなので一安心。メガネはお金がかかる。しかし大きな誤算は検査代金は1200円より高かった。まあ、ケチなことは言わないで安心料を払ったことにしよう。こうして臨時収入は全部消えたけれど、丈夫な身体をくれた両親に感謝。

メガネを作らないですんだのがありがたい。それは費用の点だけではないのですが、いつもの眼鏡屋さんには少々行き辛い。去年だったか、結構高額代金をただにしてくれたことがあって。

新しいレンズが入ってさてお支払いということになったら、店員さんが福引きを引いてというから断った。私は全くくじ運が悪く絶対に当たらないし、あたっても嬉しくないからといって何回も断った。いやいやどうぞどうぞと言って勸められて、どうせ当たらないと思ったら大当たり。全額ただになってしまったのでなんともはや。昔からなにか当たると良いことと悪いことが両方来るのが私の運命なのです。

不機嫌になっても店員さんたちが喜んでいるので、あまりにも意固地になるのはどうかと思い受け取ったけれど、その後やはりその代金を上回る出費事故があってやはりね。私は自分で汗を流して働いたお金でないと使ってはいけない運命なのですよ。僥幸は受けてはいけないという鉄則を破って受け取ったバツです。ケチケチするなと神様に戒められた一件でした。





























2024年5月7日火曜日

ヴァイオリンはもうやめるけど

体調が戻ってきた。

これは足の状態が良くなったということで、まずは復調の兆しと喜ばしい。けれど私はもう引退を決めている。ステージで死ねたら本望なんていうことも聞くけれど、それはひどくはた迷惑なことなのだ。ステージにたどり着くまでにどれほどの人たちの陰の力が必要か考えてみてください。

誰かがコンサートを企てるとする。まずは会場を決めてホールの使用状況を調べる。プログラムを決める。そのプログラムに必要な演奏者を決める。もし自分が主催者ならば曲目に必要な共演者・・例えばピアノ伴奏がほしいとか、カルテットならば自分の他にあと3人、もっと大編成のこともあって腕の良い共演者を集めるのは至難の業、売れっ子はたいていひどく忙しく希望日が空いていなかったり練習日が合わないとか、様々な障害が立ちはだかる。

やっとメンバーが決まって、大抵はそこからはマネージャーにお願いしてプログラムとチラシのデザインを決めて写真を撮ったり演奏者のプロフィールを集めて印刷が始まる。チラシが出来上がるともうあとには引けなくなる。ここまでに相当のお金がかかる。

一番楽なのは仲良しの共演者を作っておくこと。そうすると同じようなスケジュールができるからグループとして同じ動きもできるし、日頃から練習を重ねておけば多くの言葉はいらなくなる。以心伝心、楽器で会話ができるようになったらしめたもの。それでも揉めるのはいつものこと。以前私がしつこくチェリストに注文をつけてカルテットを潰してしまったことがあった。10年間も一緒にやっていたのに。これからもっと良くなっていくはずだったのに、その度合に対する熱意の分量が違っていたから。

揉めようが未完成であろうがコンサートの日は迫ってくる。眠れない、逃げ出したい。その繰り返し。しかしそうやって苦労しなければ永遠に上手くはならない。生涯の最後の日までうまくなったとは言えず死んでいくのが普通で、私ごときの演奏家は自分の限界を知っているからむしろ楽かもしれない。これが天才的な演奏家になるとプレッシャーは限界がない。

あのハイフェッツが自分に課したのは、演奏はそれ以前のものよりも進化していなければならないということだったと聞いたことがある。なんという厳しい生活なのか。長い目で見れば人は必ず上達していくとおもうけれど、時には体調や心のあり方で不調の事もあろうというもの。ヨアヒムが日本に最後の来たのは彼の引退の寸前で、一体どこが不満で引退するのかと思うほどの名演奏だった。もったいない。会場中の人が涙した。拍手が鳴り止まずハンカチで目を拭う人たち。でもそれが彼らの矜持と思うと、名演奏家はつらいと思う。レベルを下げることはできないのだ。

さて私の場合は引退するといえば皆さん喜ぶ。やれやれ、あのヴァイオリンをもう聴かなくてすむ。あれなら猫の声を聞いたほうがましだ。それは自分で一番良くわかっている。「そこはあたしの寝床なんです」と言って泣く丁稚ではないけれど、今までお付き合いしてくださって皆様、本当にありがとうございます。上等なお茶と羊羹をお出しして、お帰りにはお土産を差し上げたいと常日頃思っておりました。

で、ちゃんと今年で引退します。しますとも。だからヴァイオリンは古典の定期以来もう弾いていないのですよ。まだあと一回本番ありますからそろそろ準備しなければならないのに楽器を持つ気がしない。それなのに私の楽器は良く鳴る。下手くそな持ち主から開放される喜びでしょうか。時々指ではじくと素敵な音がする。この楽器にあえて良かった、としみじみ思う。楽器だけでなく今まで私に関わってくださった皆様、あなた達に会えて本当に幸せでした。

強情で頑固で意地悪で怒りん坊の私をよくぞ支えてくださった。御礼の言葉はどれほど言っても足りません。でもまだ死にはしないから(たぶん)今後ともよろしくお願いします。






































2024年5月3日金曜日

休眠期

 私はどうやら休眠期に入ったらしい。

今までの自分の活動パターンを見るに10年とか15年に一度大病をする。最初の病気の記憶は急性腎炎。ある朝起きると姉たちが大騒ぎを始めた。「nekotamaちゃん、顔どうしたの」どうしたと言われても元々不細工で美人と言われるような顔ではないけれど、大騒ぎされるような、そこまでおばけチックでもないだろうにひどいわ。と思ったらまぶたがあかないくらいのむくみが出ていたらしい。母が驚いて牛乳瓶に私の尿を入れて病院に走った。

結果急性腎炎、かかりつけの岸田先生というおじいちゃん先生が飛んできて私は絶対安静で寝かされた。優しい先生はいつも大きなカバンにいっぱい注射器や薬を詰め込んで往診してくださった。「入れ物が牛乳瓶だったから蛋白が出たと思ったけど、瓶のせいでなく本当に病気だった」と。おかゆと梅干しを食べ、タンパク質の多いものは食べてはだめ、当時はそう言われていたらしい。今なら体外に出てしまうのだから補うらしいけれど、初めての大病に大騒ぎ。

私としては痛みもなく好きなだけ寝ていられて、しかも嫌いな学校に行かなくていいからラッキー!だった。子供のくせに体を動かすのが嫌いで空想にふける毎日。天井の板の模様をじっと見ながらお話を作って楽しんでいた。

終戦後の当時の我が家の経済状態はどん底だったから母は大変だったと思う。1,2ヶ月はじっと寝ていたと思うけれど少しも退屈ではなかった。治って学校に行き始めると、私の授業の遅れを取り戻そうと女の先生が張り切って大いに迷惑した。その先生が大嫌いだったからで。

補講が始まっても私は断固拒否。大泣きに泣いて先生を困らせた。教檀で生徒の前で口紅を塗ったり、胸がやたらに大きく明いた服でなんか不潔!大嫌い、というわけで、先生も親もお手上げだった。その後もその先生が私にやたらと親切だったのは、親が地元の旧家ということだからと子供心にも嫌だった。未だにその手の不潔感が大きいのは、その頃からの感情の芽生えからかもしれない。

兄弟が沢山いて学校の先生よりも兄弟から教わることが多かった。結構な高学歴家族だったから家庭教師が何人もいるようで、授業で教わることはとっくに知っている。それでもなおその先生は私を目立たせようと、学芸会の始まりの言葉を言わせたり、運動会の入場行進の先頭に立たせたり、全く無駄に努力をしていた。

学芸会の挨拶は講堂の壇上で黙って突っ立っていいるだけ、入場行進は道を間違えて他のコーナーに突き進んで混乱を招いた。そのへんでどうやらこの子はだめだと諦めてくれたらしい。というより、3年生が終わって4年生となるときに担任が替わった。やれやれ、4年生からの先生は大好きで私はやっと学校が好きになった。

というように人生の節々の私の体調の変化で人生そのものが変わっていった。小学校の腎臓病のあとからは、それまで他の学友たちともなじまず学校嫌いだった私も楽しい小学校の高学年生活を送った。

中学校は間違えて良妻賢母育成のための女子校に入学、これもまた実につまらない中学生活。あまりにつまらないので同学年でヴァイオリンを習っているという人と共謀して、音大附属高校を受験、とうてい受かる見込みのないレベルのヴァイオリンの腕ながら、見事(?)合格。これからの人生がお花畑だった。

学長の有馬大五郎先生は体も心も巨大な人で、高校に現れると長い腕を広げて生徒たちを愛おしそうに抱え込んで廊下を歩いておられた。学校には校歌も規則もなくて、生徒たちはのびのびと明るく育っていった。この世の中に怖いものはなかった。少なくとも校内では。そして私は音大に進んでもヴァイオリンを練習するより本を読む時間のほうが長かった。

せっかく音大に入っているのにあなたはなんで本ばかり読んでいるの?と言ったのは高校受験をともにしたまり子さん。私は音楽家になるつもりで生きてきたわけではなく、その時々の気まぐれで音大に入ってしまったので、ここは遊びの気分。ここを出たらもう一つ普通大学を受験して真っ当な職業につくのが私の目論見だった。

そして卒業間際に母に「この次はどこの大学受けようかなあ?」その時の母の怒りは凄まじかった。子供の望むことなら何でも叶えてくれる母だったのに、そのときは怒髪天を衝く勢いで叱られた。「そんなにあちらもこちらもできないでしょ。一つ事をちゃんとやりなさい!」本当に音大ではただただ楽しく暮らしていたのでもうびっくり。しかもその頃には周りの大人達が私の進路を狭めていた。学生時代からエキストラでお世話になっていたオーケストラがそのまま私の職場となった。

音楽でお金をもらうということは生半可なことではない。お金をもらうからには絶対に手抜きはできない。生まれて初めて私は必死でヴァイオリンを弾くことになった。そして周りの人々が私を導いてくれて素晴らしい演奏家たちと引き合わせてもらい多大な影響を受けた。半べそをかきながら来る日も来る日も練習に明け暮れ、それまでの遅れを取り戻すために練習を重ねた。

当時は良い時代だった。オーケストラをやめてからも仕事は途切れることなく、そして私は大好きなアンサンブルを勉強するために多くの仲間達と夜中まで、時には早朝から練習を重ねていった。フリーになったのも自由に時間が使えるからという理由だったけれど、忙しすぎてフリーどころか寝る間も惜しいくらい。そして急性肝炎、狭心症などなどの病気にブランクを強いられては入院、通院を繰り返した。その周期がだいたい10年から15年くらい。最近は足の故障でここ2年ほど辛い。それもだいぶ良くなってきた。

今年は80才、何回目かの休眠期になりそう。毎日異常なほど眠る。つい数か月前までは4時間から5時間睡眠だったのに今や9時間ほども眠れる。人生の休息年。こうなるとまた新しい目論見が誕生する。時々こうした休息のあとで、なにかしら変わったことを知りたくなって挑戦してきた。若ければきっと長くてきつい旅に出たと思うけれど、今は体の無理が効かないので頭の体操、もう少し勉強しようかなんて思っている。なにを?さあ、なんだろう?そのうち目標が見つかるでしょう。


































2024年1月2日火曜日

能登を悼む

 暑い夏が始まる前、私はしきりに能登へ行きたいと思った。

しかしその頃石川県は大きな地震に見舞われたので断念、そして秋になり10月1日から高岡市新湊の曳山祭りを見に行くことになった。私は非常に周囲に感化されやすいものと思われる。自分で気がついていないうちに何かでちらっと目にしたことを自然に自分に取り込んでいることが多い。

今年北陸新幹線が福井まで伸びるので、旅行社が目の色を変えて客の呼び込みをしている、それに引っかかったらしい。北陸は今まで日が当たらない場所だった。交通手段が少ない、地味であるので都心からはおいそれと行きにくい。しかし新幹線が福井まで伸びるならかなり行きやすくなる。

それらをいつの間にか目にしていたらしく、今年は春先から蜃気楼や射水市の曳山祭りや能登半島に目の色を変えていた。その前にまだ春先、高岡市の新しく国宝に指定されたお寺も見に行っている。万葉集の記念館にも行っている。なぜか北陸が私を呼んでいるように思えてならなかった。

私の北陸好きは仕事と大いに関係があった。富山へは毎年のようにいった。美味しい行きつけのお寿司屋さんがあって、仕事が終われば仲間たちと毎日のように通った。仕事が終われば朝市でカニを自宅に送って帰宅するとすぐに食べる。魚も米も立山も何もかも好きだった。

去年から今年、私は大変つらい毎日を送っていたことはもうくだくだと言うまい。そのストレスが溜まりに溜まっていた。nekotamaの投稿も滞るほど突き詰めていた。そして時々「ああ、立山が見たい」あの真っ白にそびえ立つ立山連峰。波立つ富山湾の風景が懐かしい。

やや問題に先が見えてきた頃、蜃気楼が見たいと思って富山県人のKさんに尋ねた。蜃気楼はいつ頃出るの?そこから夏の曳山祭りの見物に繋がり、最後に能登半島巡行の話になり、私の能登半島一周の実現となった。それは前から予定されていたかのようにあっという間に実現して、その後の福井県勝山市の平泉寺に繋がった。そして長い間悩まされていた合奏団の新生の問題が見事に解決したのだった。

なにもかも予め決まっていたかのような解決になったのだ。ジグゾーパズルのピースが正しいところに収まるように。宗教的には無神論の私がやはり神様はいるという気持ちになるほどの見事な解決だった。この一連の流れを見ると私は畏敬の念に打たれる。能登の旅は私の人生の締めくくりをつけてくれたというべき出来事だった。

その能登が揺れている。家が壊れている。人が亡くなっている。あんなに明るい日差しの中で見た美しい海が荒れている。悲しみで言葉にならない。私が訪れたとき、10月のそろそろ肌寒くなろうという頃だったのに、暖かく明るかった。コスモスが咲く頃で、この次はコスモスを見に行きたいと思った。その一週間後、平泉寺を見たあとコスモスの群生に出会った。完璧!

やはり筋書きは決まっていたようだ。いつも思う。あとから考えてみるとなにもかも最初から決まっていた道を歩いてきたのだということを。ジタバタせずに静かに心の声に従えばいい。

能登だけではなく、案内をしてくださったKさんも被災者。驚いて連絡したら無事だというのでほっとした。本当に良かった。あのときの美しく穏やかな能登半島は嵐の前の静けさだったのだろうか。あのとき通った道も崩れ落ち、今はどうなっているのか。塩田の作業をしていた男性や稲刈りの人々、みなさん無事でおられるのだろうか。

私の頭の中の能登は幻の白昼夢の記憶のようにしか感じられない。しかし現実はあまりにも無惨で耐えられない。


























2023年12月4日月曜日

早くもクリスマス

 埼玉県のとある会館で昔の学友たちとの共演。練習を先日やったので時空の隔たりはあっという間に埋められたことは前に書いた通り、地元の数人のピアノの先生の門下生の発表会で「鱒」を演奏した。チェリストの息子さんの奥様が主催者で、彼女はもちろんシューベルトのピアノパート、チェリストは義理のお父様、ステージ上のマネージメントは彼の息子さんと一家総出の心あたたまる風景。いいなあ、こういうのって。

都心を少し離れると東京近郊でも空が広い。温かい日差しの穏やかな一日、自宅最寄り駅から直行なのに距離的には遠いので少し緊張していた。特急から何処かで鈍行に乗り換えなければいけない。ネットの乗換案内で調べたにも関わらず、電車に乗ったらさて?一体どこだったかしら。乗り換えはうまくできた。

けれど目的地の駅からタクシーに乗ろうとすると乗り場に車は一台も停まっていない。待っていても来ない。そこであたふたしなければ大丈夫なのにせっかちな私はいつも無駄に動いてしまう。広場の向かい側にバス停があってバスが停まっているから、バスに乗ろうと思ったけれど、目的地の停留所がわからない。とりあえずバスに乗った。先日来たときに車で送ってもらったから方角はわかっている。

するとバスは違う方向に曲がっていく。えっ!どうしよう。ドライバーの車内放送で本日は終点付近の交通の混雑によりバスは遅れているので迂回するコースをとるとのこと。だんだん狭い道に入っていくので私は冷や汗タラタラ。知らない町の知らないバスで何処かに降ろされてしまったらその後はどうすればいいの?タクシーは駅にもいなかったのだから流しの車が捕まる訳はない。

そのうちバスは再びにぎやかな道に出て、あら、そこは先日の練習に来たホールの近く。助かった!冷や汗をかいたので喉が乾いた。しかも今更気がついたことは私は目的のホールの名前すら覚えていなかったのだった。道を訊こうにもなんと言って聞けばいいか分からなかったのだった。

会場練習はなんとか終わってあとは本番を待つのみ。たくさんの出演者の最後に私達の出番だから、随分待たないといけない。待つのも仕事のうち。よくそう言われた。特に映画のしごとはほとんど待ってばかり。昔「砂の器」という映画があったのをご存知でしょうか?中居くんの主演ではなくてもっと前の加藤剛さんが主役だった。それに私も出ているのです。その撮影のときはただひたすら待って待って次の日も待って待って・・・

数日間、埼玉会館の楽屋で過ごしたときには電気コンロを持ち込んで鍋を囲んでいたっけ。皆で具材を持ち寄って流石にお酒は飲まないけれど、ご飯を食べていた。会館から出るわけにもいかず、時々お呼びがかかると楽器を持ってステージへ。細切れに撮るから気が散っていけない。加藤剛さんはオーケストラの楽器の後ろにいる音楽監督の芥川也寸志さんの指揮に合わせて棒を振っていた。少しくらいズレても編集の妙で出来上がった画面を見るとうまくあわせてあるので感心した。

主題曲作曲は菅野光亮さん。主人公の加藤さんがピアノを弾くシーンは手だけ写すときには作曲者自身の演奏している手を撮す。加藤さんは骨ばった体脂肪率少なめの体格なのに手が写ったときには菅野さんのぽっちゃりした手が写っているのがおかしかった。作曲者は芥川さんではなかったが、芥川さんなら同じように骨ばった痩せ型の手だからそのほうが良かったかもしれない。

話が逸れたけれど、音楽会の主催者側からの希望でクリスマス色のものをなにか身につけてほしいとのことだった。どんなものを着ても良いと言われるとなおさら難しい。私の持っている服の中に緑や赤はないので困った。

本番数日前に古典音楽協会の会議が開かれていたのは東急線の白楽駅近くで六角橋商店街がある。会議が終わってからブラブラと商店街を歩いていたら手作りの衣類や小物などを売る面白い店があった。入ってみると個性的な小物や服がズラリと並んでいた。店のオーナーに事情を話して探してもらったのは紺地に赤や黄色などの細かい模様がステンドグラスのように見える面白い服だった。

面白いものに目がない私はスカートとブラウスを買ってそれに赤いベルトをしてみたら、すごくクリスマスっぽくなった。そして本番当日、会場に来てみたら、主催者はじめ他の出演者はごく普通のドレス。私はすっかりクリスマス気分で浮いてしまった。ちょっと変わったことをするのが好きな私はいつもへんな格好で浮足立って見える。そのうえ日本では「いい歳をして」という言葉があるように、あまりはしゃぐと叩かれる。

性格に問題があるからへんな人として見られるのは慣れているけれど、でも買ってしまった服はこのあとどんな場面で使えるかわからない。ちょっと普通の場面では使えないから来年のクリスマスにも仕事があるといいなあ。








2019年11月24日日曜日

困ったひとたち

私の仲間たちはアンサンブルの名手たち。
今日青葉台教会で一緒に弾いた人の殆どがその仲間たち。
ヴィオラのFUMIKOさん、チェロの舘野さん、ピアノの太田さんは数十年来の古い付き合いで、いつも真剣ながら楽しく演奏ができる。
だれがどんなことをしてもいつの間にか寄り添ってうまく進行している。
いくらベテラン揃いでも中にひとり困った人が居ると、アンサンブルができない。

最近のあるコンサートでの話。
ひとりだけ不慣れな人がいて、3回の練習のうち2回までは我慢してなんとかうまくいくように熱心に練習したけれど、3回目でついに私が切れた。

音はきれいなんだけど・・・数が数えられない。
経歴は立派、でもほんとかどうかわからない。
経歴に騙されて一緒に弾いたらとんでもない人だった。
3回も練習があるのだから、1回めは我慢した。
次回はちゃんと練習してくるだろう。
2回め、注意されると全くあさっての返事が返ってくる。
このへんでおかしいぞと思い始める。
それでも彼が主催者だからと思って我慢。
主催者を引きずり下ろすわけにはいかない。

3回目、ちゃんと練習してください!
私が鬼になった。
メトロノームを譜面台に置いて、このテンポで弾いてください。
相手をプロだと思っていたから信用した私が馬鹿だった。
出来の悪い生徒だと思って、もっと早くに鬼になればよかった。

できの良い私の元生徒も練習に加わっていたけれど、震え上がっていた。
生徒はちゃんと弾いているのに、プロがこのざまとはなんなの。
いやしくもお金を取るコンサートを開くと決めたらミスは許されないのは当たり前。
それをヘラヘラと世渡りしてきたらしいその人は、言い訳ばかり。
言い訳する時間があったら、徹夜で練習しろっての。

と、カリカリしていたら、携帯をどこかに置き忘れ、帰宅して背負っていた楽器を肩からおろしたら、ケースの取っ手が壊れていた。
背負っていてよかった。
取っ手を握っているときに壊れたら、楽器は地面に落ちたかもしれない。
それでも楽天的な私は次があるさと気を取り直す。

明日は小田原に出かける。
卒寿を迎えるオーケストラの元団員のお祝い。
卒寿の色は紫色だそうで、きれいな赤紫のセーターをお祝いに差し上げるために用意した。
喜んでくれるといいいけど。

ただ一つ心配なのは、幹事さんのこと。
最近しばしば電話があって「俺言ったよね、24日のこと」
「ききましたよ、JR駅改札口集合ね」
「誰に連絡したか忘れちゃってね」
数日たって又電話。
「小田原のこと言ったよね」
「はい、聞いています。JR駅改札口集合、24日ね」

もう3回目。
この人のほうが卒寿の人よりもずっと心配だわ。
今携帯が手元にないので、この幹事さんは私に連絡がつかないといって、パニックにならないだろうか。

先日は12月のコンサートのリハーサル。
練習場に行くのに渋谷で待ち合わせをした。
渋谷警察署前集合。
さて、出かけようとしたその時、鍵が見当たらない。
楽器と持ちものもすべて準備して、隣のレッスン室においてある。
そのレッスン室に入る鍵がない。

いつも鍵のことであたふたするから、こういうときには必ず身につけてある・・はず。
両サイドのポケットを探してもない。
冷や汗が出てきた。
急激に気温が下がってきたから、皆を寒空の下で待たせてはいけない。
冷蔵庫の中までで探した。
そんなところにあるわけはない。
いや、私に限ってこれがあるのよ、いつだったか洗濯機の中にあったことも。

連絡しようにも携帯も隣の部屋に。
キャインキャイン!
腰に手を当てて思案したら、なにかお尻のポケットに硬いものがある。
あった~!
というわけで、いつも少し余裕をもって行動するおかげで約束に間に合った。
騒動は日常茶飯事だけど、なんでうしろのポケットに入れたのかは意味不明。
普通に前ポケットに入れればいいものを。

本当に年をとった。
私だけでなく皆もね。
私の場合は年のせいというより、生まれつきでもあるけれど。