先日仲間の集まりがあって様々な問題点の話し合いがあり、食事をしながらビールを飲みながらの雑談も始まり、オーケストラ時代の思い出などで盛り上がった。オケに入ったら弓が震えてと手真似で言う人がいた。彼は先日リサイタルで素晴らしい名演を聴かせてくれた人だった。
オーケストラというところは巨大な演奏家の集団で、われこそはと思う人たちが集まっているのに抑制され集団で演奏するため周りとの協調性が必要とされる。それで生じるストレスは相当なもので、緊張のあまり弦楽器なら弓を持つ手が震えて止まらなくなったり、管楽器なら唇に力が入って音がひっくり返るなどの恐ろしい現象が起こるともう大変。当分の間夢にまで出て悩まされることに。
それは難しいパッセージなどでなく単に音を伸ばしているときに現れるから、その癖があった頃の私は二分音符以上の長さの音符を見ると青ざめたものだった。長く弾く音符は二分音符、全音符などオタマジャクシの頭の部分が白抜きで、大抵はそれにスラーという記号がついていてピアニシモで数十秒間とか続く。それはそれは数十分にも感じられるほどの恐怖だった。
それを克服するために様々な練習と人からの助言と自分のコントロールによって今はもう現れないけれど、それまでにどれほど悩まされたことか。あるベテランチェリストが演奏が終わってステージ袖に引っ込むときに「震えちゃったなあ。これでまたひと月はだめだなあ」とつぶやいていたのを聞いたこともあった。ああ、この方も?こんな有名なチェリストなのに。クラリネットの大先生も「またキャアって言っちゃったよ、あーあ」とつぶやきながら帰る。
それは技術よりもメンタル面のことだから、どんな上手い人にも一度現れたら当分の間取り付いて離れない。先日の話し合いの中でオーケストラ時代に弓が震えた話が出た。一度震え始めたらこの世の中に自分だけたった一人、恐ろしい孤独感に苛まれる。それは聴衆よりも身内のプレーヤーに対する恥ずかしさであり、ある有名なコンサートマスターはオーケストラの中でのソロが一番怖いと言っていた。
私といえばカナダとアメリカ西海岸、メキシコの演奏旅行の際、黛敏郎さんの「舞楽」という曲のはじめにたった一人で長い音を弾き始めるというポジションを与えられて難儀したことを思い出す。そのポジションはセカンドバイオリンのトップサイドであり、普通ソロはコンサートマスターが受け持つのだけれど黛さんはなぜかセカンドのトップサイドから始めるように意図して書いたのだった。
その時私はずっとファーストヴァイオリンを弾いていたのに、わざわざその場所に行くようにと言われたのだった。よほど私が図々しく上がることなどないと思ったのか、指揮者やコンマスからの指示となった。私は本当のところひどい上がり性だったけれど、アメリカの演奏旅行に行く直前の定期演奏会で同じプログラムで弾いたときには震えることなく弾けた。
そして生まれて初めての海外への演奏旅行、なにもかも緊張の連続だった。悪いことに当日バンクーバーのテレビ局がやってきて録画があるという。そして始まると私の弓を持つ手元のアップから始めるのだった。もう震える条件満載、弓を弦に乗せるとカタカタと到底長い音とは思えないスタッカートが出てきてしまう。カナダには数日いたけれど、毎日カタカタと震えっぱなし。時差もあるし夜も眠れない。
それがあるときからピタリと止んだ。全く普通に弾けるようになったのだ。なにが私を蘇らせたかというとバンクーバー交響楽団のコンサートマスターの行動だった。かれは私が震えているのを見て嘲笑したのだった。私を指さして笑いながら弓が震える仕草をしたのだった。そうやられた私の負けじ魂に火がついた。なにお!と思ったら私の弓はピタリと弦に張り付いてスーッと滑らかに長い音が出るようになったのだ。
オケのメンバーたちは皆心配して私を見守っていたので、私がすっかり冷静になると次々に良かったと喜んでくれた。当時のコンサートマスターはハンガリー人で、私が震えている間は「おお、かわいそう」と言って出会うたびにハグしてくれた。その彼も私が普通になると大喜びで笑いかけてくれた。
私は留学経験がない割には海外の人と共演するチャンスが度々有った。私も彼らと一緒に弾くのが好きだった。なぜかというと彼らは日本人のような忖度や遠慮がない。陰で悪口をいう代わりに正面から悪ければ悪い、変なら変とはっきりいう。ときには意地悪いと感じる人がいると思うけれど、私はそのようにはっきりした態度が好きなのだ。カナダで開き直ったからその後の演奏はすっかり立ち直ったけれど、他の場面では相変わらず震えることが多かった。
よく大勢で弾くからオーケストラは目立たなくて楽でしょう?という質問を受けることがあるけれどとんでもない。一度オーケストラで震えたらその怖さは世界共通、海外の一流オーケストラでも震えに悩む人が多いと聞く。私が震えから脱出できたのは様々な練習とメンタル面の訓練、オーケストラが大勢で弾くから楽だなんて滅相もない。ある時電車で他のオーケストラのメンバーとばったり出会ったことがあった。彼が「昨日新世界をやったんです」「どうだった?」「ええ、みんな震えました」これはドボルザークの「新世界交響曲」のラルゴのヴァイオリンのソリ(ソロの複数)のこと。
もちろん、そんなことには無縁な人もたくさんいるし大胆で怖いもの知らずの若者は不思議そうに手の震える人を見ている。けれどひょんなことで一度震えると恐怖で眠れなくなる。
絶対震えそうもない人たちがいる。ある時言うことを聞かないホルン吹きに向かってこう言った指揮者がいた。「俺はカラヤンだ」
するとそのホルン奏者が立ち上がって「俺はザイフェルトだ」と言ったそうな。
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