2015年9月3日木曜日

弱音を吐かせて

去年は年齢の変わり目というのか、体調が急に悪くなった年で、一番顕著なのが足の老化。
膝から始まって腰に来て、次は足首と故障する場所がグルグル回る。
これは面白い発見だった。
要は、どこかが悪くなるとそこを庇うために他の場所に無理が来て、悪いところは治っても、次に無理したところに影響があるという具合。
故障場所が身体を駆け巡る。
足首が痛くてしばらく運動を控えていたら、身体全体の調子が悪くなった。
足首は歩く限りはどうしても使わなければいけないから、痛くても我慢して使っていたら、自然に痛みが消えてきた。
なんだ、こんなものかと思って今せっせと歩いている。
ところがなんでもやり過ぎるのが私の性格で、歩きすぎて疲れが溜っている。
それでも次の日は懲りもせず歩く。
休まないといけないのに、むきになって歩く。
これで体調を崩したら元も子もないのに。

足の方はどうでも良いけれど、肝心のヴァイオリンを弾く手の方も、大分怪しくなってきた。
朝起きると手指がこわばっているので、伸ばしたりそらしたり、手のストレッチ。
今年前半はやけに調子よくて、弓が軽く持てるようになって、これで後10年位は保つかと思ったけれど、そうは問屋が卸さなかった。
気温が低くなってきたとたんに、調子が悪くなってきた。
今年前半の調子の良さに調子に乗って(なんだか語呂合わせ)11月にモーツァルトのディヴェルティメントK.334を弾くなんて言ってしまったけれど、こんな具合で弾けるかどうか怪しくなってきた。
モーツァルトの中でも特に難しいので、これで最後と頑張ってみようと思ったけれど、どうかな?

モーツァルトは特に好きな作曲家だから、今まで好んで弾いていたけれど、彼の曲はキラキラした軽やかさが命。
それは技術的にも究極の難しさで、楽譜自体はそれほどの事は無くて小学生でも音を並べることは出来る。
しかし、音楽的には軽さというのは、中々出せるものではない。
技術的な基礎がしっかりしていなければ、ただの音符の羅列。
彼の軽さの陰に潜んだ凄味とか悲しみが、表せない。
モーツァルトの心の闇のぞっとするような部分があってこそ、外側のあのきらめきがより一層輝くので、単に明るく弾けばいいと言うものではない。
そこが他の作曲家よりも難しい所以かなと思う。
私には到達できる境地ではないけれど、いつも共鳴して涙する。
モーツァルトを聴くと、胸が一杯になる。
表現するには高い技術が必要になるので、子供の頃ろくに練習しなかったのが今頃悔やまれる。

友人のSさんのコンサートで、モーツァルトのピアノ協奏曲の伴奏をすることになった。
弦楽四重奏で伴奏出来る楽譜が出版されていて、今回SさんはK.466のD mollを弾く。
そして他の人がK.414とシューマンのピアノ四重奏曲。
弦楽四重奏でオーケストラパートを弾くということは、管楽器の分も弾かなくてはいけないので、通常の伴奏よりも難しい。
今まで何回も伴奏したけれど、こんなフレーズ見た事無いという所が何カ所もある。
しかも、管楽器と弦楽器はメカニックが違うから、例えばフルートのパートは弾けないことはないけれど、弦楽器で弾くと、とても弾きにくかったりする。
しょっちゅう弾いている曲なので油断して練習していなかったら、そんなことで慌てふためいてしまった。
かつては初見の鬼だったのに、衰えたことだわいと苦笑。
そこは化け猫に近いから、弾いているように誤魔化すけれど、冷や汗たらたら。
いつになっても本気で練習しないといけない。
赤い靴を履いてずっと踊っていなければならないように。

今年の九月は殊の外忙しくて、30日までコンサートが続く。
それなのに明後日から、生徒たちの弦楽アンサンブルの合宿に付き合うことになった。
去年、石打丸山のスキー場の中にある大きなマンションのゲストルームを借りて愉快に練習したので、うっかり今年も引き受けてしまったが、考えると生徒達にかまって遊んでいるヒマは無かった。
自分の事で目一杯なので。

楽譜がコンサート毎に区分けされて、ピアノの上に積み重なっている。
それを横目で見ながら、一番近い仕事の練習をしていても、他の曲が気になって落ち着かない。

ストレスを感じると靴を買う習性があって、明日又3足届く事になっている。
しかも同じメーカーの同じデザインの色違いの靴が。
前世はムカデだったとして、来世も又ムカデかなあ。
いやだなあ。
早く赤い靴は脱いでしまいたいという、潜在意識のせいかもしれない。

















0 件のコメント:

コメントを投稿