彼ももういい年だと思うから多少の衰えを感じるのは覚悟でコンサートにいったけれど、嬉しい誤算、声もオーラも変わりなく、東京文化会館大ホールの満席の聴衆からブラボーの嵐が巻き起こった。
私が彼の生の声をきいたのはずっと以前、彼の容姿はスラリとしていかにも若々しかったから数十年は経っているかも。私の音楽人生は聞くことから始まった。学齢前の頃からクラシック音楽は私の最高の遊び相手。親兄弟が学校や仕事に出かけたあとの空っぽの家にたった一人、ぽつんと残された無聊をかこちながらレコードを聞くのが日常。そのお供にはいつも猫がそばにいた。逃げないように私にぎゅっと抱きしめられて猫もさぞや迷惑なことだっただろう。
その頃レコードで聞いたのは古くはシャリアピン、カルーソーなどの昔の歌手たち、その後はブライトコッフなど、そしてディートリッヒ・フィッシャーディスカウ、ペーター・シュライヤーなどから後は肉声を聞いている。歌は人そのものが出す音だから、楽器に比べてより面白い。しかも声楽家はだいたい女たらし、美食家、わがままときている。男としての魅力満載でいながらジェントルマンでもある。こういう人は素敵だけれど、そばにいたら鬱陶しいかもなどと妄想を馳せる。私ごときにそんな男は寄っても来ないのに。
さて、今回のコンサートの顔ぶれは
プラシド・ドミンゴ モニカ・コネサ(ソプラノ) マルコ・ポエーミ(指揮)新日本フィルハーモニー交響楽団
ヴェルディ:序曲「シチリアの晩鐘」が終わってドミンゴ登場。少しお腹周りが太ってはいたけれど、無理をしていたかもしれないけれど、歩き方も颯爽としている。第一声を聞いたときに驚きの若々しさに感嘆。最初から手加減せずに聴衆を魅了した。いったいおいくつになりますか?
聞き手は魅了されどんどんヒートアップ、おとなしい日本人も彼に翻弄されてスタンディングオベーション、後半は一階席は殆どの人が立っていた。私は二階席で良かった。そうでないと前の人が立ってしまって彼が見えなくなってしまうところだった。なんかオペラ歌手のコンサートというよりもロックバンドの乘りではないか。しかも客はほとんど中高年層。おしゃれをして母と娘で参加しているようなセレブ層など。珍しいね。
おかかをたっぷりかけた餌をもらった猫のように満足して家に帰ると、やはり疲れたらしく食事後すぐに眠ってしまった。あのパワーに対抗するには私はどうも齢を取りすぎたようだ。
新日本フィルの演奏が新鮮でチェロやビオラのソロがとても良かったことが嬉しかった。多分私のかつての友人たちの忘れ形見が演奏者の中にいると思う。もはやどこのオーケストラにも私の同僚だった人たちの姿はなく、次世代の活躍する時代になった。その血脈が音楽の中に流れてまた次世代につながり、西洋音楽が自然なものになる。今後は日本の文化に自然に溶け込んで世界は一つになる。そんな日がもうすぐそこに来ているのに他国では未だ戦争をしているバカどもがいる。これが悲しい。
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