2024年11月25日月曜日

暑い夏につかまって

 知人の納骨のために暑いさなか隅田川を渡っての墓参りの帰り道、悲しい思い出にふけって多少涙ぐんでいたからだと思う。信号無視で捕まった。

東京駅から右折して日比谷通りに至るまでの信号が3つか4つ、1つ目は直進と左折の矢印が同時に出る。しかし2つ目か3つ目の信号機だけ直進が青でも左折の矢印が出ない。日曜日の昼過ぎで他に車がいなかったこともあって気が付かなかった。もちろん一回ごとにちゃんと信号を見ないといけないのはわかっているけれど、心が塞いでいてなんとなく。これが事故の元だということもわかっている。普段の私なら絶対に見逃さない・・・と思う。

左折を始める前に対角線上にパトカーがいるのも目の角で見ていた。しかし左折を終わるとパトカーが動き出した。私の後ろについて走ってくる。自覚症状のない私は平行に並ばれても、なんでこんなに一緒に走っているのか不思議だった。他に車もいないのに馴れ馴れしく呼びかけてくる。「そこの車停まってください」

おそらく相手もわかっていたと思うけれど、故意ではなく不注意ということが。穏やかに丁寧に呼びかけてくるのでやっと気がついた。「え、私?」鼻先を指さして窓越しに見るとのんびりと頷くおまわりさん。「そこの信号は直進だけで左折はあとから出るんですよ」全く同じような交差点の一つだけ違う出方をするなんて。何ゆえじゃよ!

多分引っかかる人がたくさんいるのだろう。巣の中の蜘蛛のように待っていれば獲物がとれるのだ。パトカーが停まっている時点で気がつかなければド素人。運転歴59年の私がまんまと捕まった一番つまらない捕まり方だった。それで今日は運転免許センターで講習と実技試験を受ける羽目となった。来年免許証の更新ための罰ゲームみたいなもの。

時間が来て集まったのが10人ほど。これがみんな違反者なのかしら。4年ほど前の更新の普通の教習のときよりも多少元気がよろしい人が多い。普通のときにはトイレに行ったまま自分の部屋がわからなくなったとか、歩くのもやっとで大丈夫かしらと思う人がたくさんいた。たぶんそういう人はとっくに免許を返納しているものと思える。もはや違反すらできないとか。

本当にドキドキした。もしこの教習で落とされたら何回も試験を受けて、それでも無理となったらもう免許はもらえない。すると猫を連れて北軽井沢に行くこともできなくなる。せっかく猫の部屋を作ってもらったのに無駄になってしまう。

まずはいつもの認知機能のテスト。これはもう3回目だから手慣れたもの。そして実車テスト。前回のテストでは慎重に走ったら遅すぎると言われたから、今回は景気よく多少やりすぎかと思うほどシャカシャカ走ったら早すぎると言われた。それも認知機能の衰えからくるコントロール失調みたいな言われ方。口を尖らせて前回言われたことでそうなったと抗議しようと思ったけれど、やめておいた。

結果としては良い点数をもらえたけれど、その後の視力検査がいけません。視力、動体視力、暗さに対する順応性などは今までより衰えている。やはり年齢には抗えない。

メガネで矯正できる部分が少ないことも残念で、さてどこまで運転できるか未知数。運転大好きな私が運転しなくなる日はもうすぐそこに迫っている。多くのことを次々に諦めることしかできないなんて。

女性の受験者は二人。試験後にお昼食べて帰りましょうと、どちらかともなく誘って話をしていた。お仕事は?などといううちに私がヴァイオリン弾きだというと非常に喜んで「私のいとこがミュージシャンで富山の滑川のあるグループのヴォーカルなの」と話が弾む。

そのうちに私の元生徒だった女性が某ヴァイオリン奏者が好きで、彼女は彼の側にいたいために舞台関係のスタッフとして働いているというと、その人は喜んで、実は私もその人が大好きでよく聴きに行くと。本当に世の中せまい。おばさん同士はあっという間にコミュニケーションが取れるのにおじさんたちは皆ブスッとして、てんでんばらばらに散っていった。
















2024年11月1日金曜日

何もしない日々

きちんと眠れるのは通常3時間ほど。あとは昼寝やうたた寝で体力維持の穴埋めをする。時々泥のように眠っても5時間ほど。ショートスリーパーだった私はそんな生活を何十年か続けてきた。仕事にも友人にも恵まれて幸せだったけれど、常に緊張した毎日。たいてい1年半以上先まで仕事の予定が詰まっていた。なんとありがたいことだったかとは思うけれど、気の休まることがなく、常にイライラしていた。

なんにも予定のない生活に憧れてやっと手に入れた。このところ全く目的なく行動している。時々コンサートを聴きにいくだけ。ヴァイオリンはレッスンのときに生徒さんと一緒に弾くだけ。こんな気楽なことはない。9月の古典音楽協会の定期演奏会が終り、私は引退宣言をしてプロとしての演奏をやめた。

さてなにかおもしろいことはないかと思ったけれど、みつからない。いままで送ってきた生活のなんと面白かったことか!結局一番自分の好きなことを仕事にできていたのだと感謝している。それならなぜやめるのかというと、やはり年令による体の機能と気力の低下。ここ数年の合奏団の存続に向けての一連の事件があってそのストレスが私を半病人にしたのだった。

今の私はもう何ものにも煩わされることなく、一日7.8時間眠眠る平和な日々を送っている。元気な私を見て「まだまだできるんじゃない?」「もう少しやったらどう?」などとご親切に言ってくださる人も。でも自分のことは自分がよくわかっております。

それで、ぼんやりとテレビを見ているとここ最近は大谷翔平選手のことばかり。いくら彼が稀代の名選手と言ってもあまりにも偏った報道は困ったもの。政治家の裏金問題、選挙、犯罪の多発があろうと一向に野球から離れられない。日本人全員野球ファンではないし、翔平君が一人で野球をしているわけでもないし、彼が一人でドジャースを優勝に導いたわけでもない。本当にすごいと思っても、世界の数多の優秀な人の一人であるというだけ。

今まさに戦争が起こるかどうかかたずをのんでいる国々の人達がいるのに、日本だけはまるで自分たちがゲームの優勝を導いた如く大騒ぎをしている。ニューヨークヤンキースの選手たちは日本人の熱気に負けたのではないかと思うほどなのだ。ちょっとひどすぎませんかね。などと考えている。決して大谷さんに憤っているのではない、彼は本当にすごい。マスコミのバカバカしさに・・・あるいは非常な大金が儲かるこういうゲームにも疑問符が浮かぶ。地球の温暖化にも関係があるでしょう。莫大なエネルギーを使い、大金が儲かるにしてもバカバカしいほどのムダ遣い。

地上で飢えと差別と戦いに苦しむ人達のことを考えると、自分が平和でいることすら罪悪感が湧いてくる。私は生まれて初めて、残された人生をだれかを助けるために使いたいと思う気持ちになっている。今のところ猫社会にわずかに貢献しているだけなのだが・・・

今や私にはいくらでも眠れる自由と、眠らなくてもいい自由がある。今夜はドジャースの凱旋パレードが日本時間の午前3時からあるらしい。中継があるならずっと起きていてテレビを見たい。やはり私もすっかり毒されているのです。






はとかんさんんのこと

 今後のより良い人生のために模索中。

ブログつながりの知人のWさんの宅に押しかけてお話を聽くことになった。彼女となぜ知り合いになったかというと、私の恩人であるヴァイオリニストの故鳩山寛さん繋がりによる。nekotamaに彼の話題を投稿したのはこのブログを始めた頃。オーケストラ時代の思い出などを書き込んでいたら、ある時鳩山さんのことでというメールだったか書き込みだったかいただいたのだと思う。

鳩山さんは沖縄出身で、お父様の遠山寛賢さんとその夫人靜枝さんの教育により天才ヴァイオリン奏者として日本の楽壇に登場した。幼少時代は台湾の台北で幼稚園の経営者であったご両親のもと何不自由なく育ち、ご両親の音楽的環境もあって才能を育んできた。ご両親も実に教育熱心で特にお母様の考えが進歩的だった。お父様はひろし少年のためならどんな苦労も厭わなかった。

「はとかんさん」後にオーケストラでお世話になった頃は業界ではそう呼ばれていたから以後、この名称で呼ばせていただく。

お父様は様々な場面ではとかんさんを世に出すための行動を起こされている。10歳のときには上野音楽学校に連れて行き教授たちの前で演奏させて彼らの称賛を浴びる。体に合わない大人用の汚い楽器を見た外国人教師が嘲笑したというが、演奏が終わると彼らは静まり返ったという。12歳で第5回毎日音楽コンクール一位、もちろん歴代最年少であった。天才少年と言われ、ボストンの音楽大学へ留学、近衛秀麿氏のオーケストラのコンサートマスターを務めた。近衛家と総理大臣を生んだ鳩山家の援助を受けて華々しい活躍をした。様々な経緯から遠山姓を鳩山姓に変わり、以後「はとかんさん」と呼ばれることになる。

わたしがオーケストラのオーディションを受けたのは音大を卒業してまもなく。ベートーヴェンの協奏曲を弾き、初見に出された曲はバッハの組曲のヴァイオリンパートだった。実は高校時代からすでに京浜フィルハーモニーというバロック音楽の研究会のようなところで弾いていたので初見の楽譜もなんなく演奏できてめでたく合格。

初めて団員として上野の東京文化会館の控室のロビーでウロウロしていた私に、にこやかに近寄ってきたおじさん、それがはとかんさんだった。「あんた楽器はなに?いい音してたね」それが最初の出会い。その後はかれがハイドンの弦楽四重奏の連続演奏を試みていた頃、何回か出演察させていただいた。「あんた、私の右腕になりなさい」あるときそう言われて様々な演奏会にほとんど出していただいた。

その頃オーケストラでは世代交代が始まっていて、戦後の日本のヴァイオリン界は戦前のそれとは大違い。たくさんの優秀な人材が輩出しており、はとかんさんが天才的なヴァイオリン奏者ということも話題から埋もれてしまいそうな頃だった。しかも沖縄、台北などで育ち、性格がおおらかで何事にも我関せず、アメリカ生活が身についてしまってハッキリ物を言う。日本的な忖度や遠慮などない性格が反感を買うことも多かった。彼をひどく嫌う人もいた。しかしそれはとんでもないことで、彼が当時すでに日本の業界から少しずつ外れ始めていたというだけで、主流におもねる人たちの偏見以外のなにものでもない。

ある時渋谷公会堂の前にサングラス、アロハ、麦わら帽子の出で立ちで座っているおじさんがいた。私が通ると大声で「ホウー」と奇声を上げてニコニコと手を振っている。やだ変な人と思ったら、はとかんさんだった。臆面もなくいい年してそういうことを無邪気にやるから困るのだ。

ある時電話があった。いつにもなく悲痛な声で「僕はもうだめだよ、さようなら、さようなら」それが最後だった。

彼のお嬢さんのご自宅に一緒にお悔やみに行ったのは、前述ブログ仲間のWさん。彼女は台湾の大学で教えておられた父上と大学生だった兄上と幼少期を台湾で過ごされた。台湾育ちの音楽家として、はとかんさんに興味を持たれ、nekotamaに鳩山さんのお名前を見つけた。そのつながりで後に古典音楽協会のコンサートに毎回来てくださるようになった。Wさんのブログに垣間見られる知識の豊富さに今回最後の演奏を終えた私の、今後の知識の泉になってくださる期待を持っているのです。