2021年6月4日金曜日

木との対話

なるべく人のいない所に いたいので、夜明けの光を感じるとすぐ車を走らせる。まっしぐらに北軽井沢の森に向かう。高速をおりると街中を通らずゴルフ場の間の道を抜けて山を登って我が家に到着する。必要なものはすべて車に積み込んであるから、あとは猫と二人ひっそりと暮らす。時々職人さんが来て庭の工事をする以外は人にお目にかかることはない。

新しいベランダができて見違えるように広く感じる。たった数十センチ広くしただけで、部屋から外を見るとゆったりした気分になる。いままでドデンとキッチンに居座っていた邪魔な食器棚を撤去して低めの食器棚を置くと、それだけで日差しと風通しが良くなる。こんなにも違うものかとびっくりした。

そして待ちに待った庭の下に流れる川まで降りられる階段が出来上がった。丸太を並べて手すりを附けただけの素朴な階段は雑木林にぴったり。作業する工務店さんは出入りの電気屋さんが紹介してくれたので、一生懸命に仕事をしてくれる。庭の奥は急な傾斜なので今までは川まで降りることができなかった。夏はいつも水の音だけ聞いていた。冬になって落葉樹が葉を落とすと、やっと姿が見える。階段ができたのでその川辺まで降りてみると、天然のクレソンが群生している。それでこの清流で山葵やクレソン、水芭蕉などが栽培できないかと訊いてみると、工務店さんは「天然のクレソンは毒があるのでおすすめしない」と。又「わさびや水芭蕉は水の流れが早すぎて育たないでしょう。もし栽培したいなら淀みを作ってあげることです」と言う。そのあたりにゴロゴロしている溶岩を一つドボンと川に投げ込めばかんたんによどみができそうだと思ったけれど、溶岩の塊は重くて容易には動かせない。さて、どうしたものか。

家だけでなく庭に手をつけるとなると際限なく夢が広がっていく。殺風景な保護林は水源を守るために規制があってやたら木を切ってはいけない。反対にやたらな木を植えてもいけないのだと思う。自然保護の最低限な線を超えてはいけない。植物の知識のない私には予想もつかない自然のルールというものがあるに違いない。手始めに雑木だけの庭に少しだけ花をさかせる木がほしい。紫陽花、躑躅などは?と訊くと「紫陽花は腐葉土が多いこの地面には根がつかないかもしれない。躑躅ならいいでしょうと。

私が子供の頃育った家は、四季それぞれの花が咲く庭があった。祖父が風流人だった。庭の真ん中に大きな牡丹の株、それを取り巻くように松の木や池があってその周りには千両、万両という丈の低い花木が植えられていた。ユスラウメや梅の古木、イチイの垣根、ゆずの木など。離れに続く廊下脇には3本の棕櫚の木。広い裏庭はぶどう棚、花が綺麗だったリンゴの木の実は食べる前に大きくならず落ちてしまった。びわの木が数本、竹やぶでは竹の子がとれた。薄暗い厠のそばにはお決まりの南天の木、欅の巨木は今、姉の家の庭に切り株を残している。

子供の頃に育った環境は年をとっても染み付いている。しかし北軽井沢の気象条件とはあまりにも違う。はじめてこの家を訪れたとき、子供時代の家の裏庭を思い出したけれど、色とりどりだったその庭とはあまりにも色彩が違う。春から秋の初めまでは緑一色、それはそれは美しい。けれど自分で手がいれられるとなると、少しは花が欲しい。花のことはおいおい考えるとして、気になったのはノンちゃんがこの上なく愛した巨木が2本。年齢はわからないけれど、大きく広げた枝の中に葉がついていない枝が数本ある。この枝たちはもう枯れてしまっているのだろう。万一枯れ枝が折れて下の道に落ちたら大事故になる危険性がある。それも工務店さんに依頼して切ってもらうことにした。

その作業は私がいない間に終わっていたので見ていないけれど、かなり危ない作業だったようだ。特に庭の主である大木の枝の一本は、いつも私が車を止めている真上にあった。その枝にほんの少し刃を入れた途端、ドサリと落ちたらしい。当たれば命にかかわる程の太い枝。本当に危険だったのだ。台風が来る前には切ってね、なんてのんきに言っていたけれど、今切っていなかったら大事になっていたかもしれない。私の真っ黄色なパパゲーノが潰れていたかもしれない。それよりも真下を人が通って大怪我!なんてことにならないで本当に良かった。

森の中に住む以上、木との付き合いは大切。今まで動物のことばかり考えていたけれど、これからは木の言葉に耳を傾けようと思っている。花はほどほどに、木のお邪魔をしないように控えめに数本もあればいい。







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