コントラバスの友人からもう一度シューベルトの「マス」を弾きたいから遊んでもらえる?と言ってきた 。望むところと請け負った。別にどこかで弾くあてはないけれど、コンバス奏者Hさんの仲良し2人は優秀なピアニストとヴィオリスト、あとはヴァイオリンとチェロを調達すればいいというので、私に声をかけてくれた。チェロは古い仕事仲間だけどだいぶ私より若いKさんに声をかけてみた。喜んで弾いてれるというからばんざい!美人でおっとりしていて素敵な人なのだ。
コロナが少しずつ感染者を減らしてきたときで、やっと日常が戻ってきた。楽器がひけるのはなにより嬉しい。それも大好きな仲間たちとの共演はなおさら。最近流行り始めたオミクロン株の脅威はどの程度かわかっていないけれど、私の周りでコロナの感染者はゼロ。みんなとても用心深い人たちなので。それとやはり健康なのだと思う。楽器をひく作業はとても体力を使うと同時に良い運動になる。人間はやはり運動が大事。コロナで演奏会が軒並み中止となったとき、不貞腐れて練習を怠った時期があった。そういうときは体調が悪い。それで一気に老けたようで、周りからさんざん指摘された。
ところがステージやスキー場のゲレンデに立ったりしたとき、急に若く見えると言われた。緊張が年齢を牽引しているのかもしれない。それで今日は自撮りした写真を見ると・・・やっぱりすごい婆さんが写っていた。おやあなたどなた?ま、仕方がない、今後はこれでいくっきゃない。
体を動かそうと散歩は欠かさない。けれど何事も私はやりすぎる。足が痛いときにはそうは歩けないけれど、今朝はどこも痛くないので少し長めの散歩。近所の古墳のある丘に登って富士山を眺めてきた。この山が噴火して形が変わってしまったら、どれほど悲しいか。そうならないことを祈っている。帰ってきたらどっと疲れて、練習をサボる口実を探している。
「マス」を弾き「ます」の会は今年の暮に練習が始まる。その前におよそ50年にも亘る共演者のSさんとやはりシューベルトの「ソナチネ」を合せ始めた。短くて可愛らしい3曲のソナチネ。天才というのは常に前進し続けるものだといつも思う。モーツァルトもそうだしシューベルトも例外なく、作曲年の遅いほうが深くなっていく。ほんの少しの年月で、次の作品は間違いなく彼らの高みに登っていく。
シューベルトといえば転調を繰り返し長い曲が多い。このソナチネたちはそれほど長くない。多分初期の作品かと思ったらそうでもないらしい。技術的にはそれほど難しくなく、音符を弾くだけだったら今どきの子供なら楽に弾けそうなレベル。しかしシューベルトの難しさは、私にとっては転調なのだ。ふっと次の調に変わるときに音痴にならないように非常に気を使う。ヴァイオリンのような自然な音階を弾ける楽器の音程は、5線の同じ場所にあっても和音の第何音かによって微妙に変わる。ピアノと一緒ならピアノの和音につければいいけれど、弦楽四重奏などの弦楽器だけの曲であれば、喧々諤々、低いの高いのバランスがどうのと一生涯が過ぎてしまう。しかも最近曲がってきた指が音程の悪さを助長する。しかしこのソナチネたちは弾いていてとても楽しい。練習が終わってもニコニコしていられる。楽しみがあるのはすごく幸せ。コロナの闇は早く忘れて、今年後半から来年までシューベルトにどっぷりと浸かることになった。
シューベルトといえばやはり歌曲。「冬の旅」は中学生時代からずっと私の愛聴曲だった。レコードではもちろんのこと、生演奏はディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウと伴奏者はジェラルド・ムーア、次にペーター・シュライヤー、そしてフランスのジェラール・スゼイの来日公演を聴いている。ディスカウは勿論20世紀最高のバリトン、素晴らしかった。けれど一番印象深かったのは、ペーター・シュライヤーがギターの伴奏で歌ったときのこと。コンラッド・ラゴズニックというギターの名手、始まったときには音の小ささが心配だった。しばらくするとギターがどんどん主導権を取り始めた。負けじとシュライヤーも応える。至福のコンサートだった。あんなふうにシューベルトが弾けたらなあ。
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