2022年4月10日日曜日

蜃気楼

暖かさが暑さに変わってきたら、蜃気楼がみたくなった。

今から15年以上前のこと、富山県の呉羽 で仕事があって数年通った。呉羽には桐朋学園のオーケストラアカデミーが富山県の後援で開校していた。優れたオーケストラプレーヤーを育てるために海外の指揮者やプレーヤーが招かれて、学生たちと一緒にプレーをする。言葉でいうより名プレーヤーと一緒に演奏することがどれだけ素晴らしいことか、私はたくさんの名人たちと演奏する機会を得たために、どれだけ彼らから学んだことか。一人で練習していたのでは到底他の人に追いつくことはできなかったと思う。そんな私が学生たちのためにお手伝いに行くという仕事を得て私自身大変に勉強になった。

おばけが出ると評判の学生寮は、そう言われてみれば曇天のみぞれ混じりの富山の初冬では本当のように思えた。くれは製糸につれてこられた女工たちの悲惨な環境がどの程度であるかはわからないけれど、明治の初期には農村の貧しい女性は口減らしのために工場や廓に売られていったのは事実と思う。過労や栄養不足で体を壊し若くして亡くなる人もいたに違いない。

そんな校内も朝日が登るとガラッと様子が変わる。午前の練習が終わるとメンバーたちは大急ぎで他の建物の非常階段を駆け上った。するとそこには正面に真っ白な立山連峰がすっくと立っている。それが見たくて殆どの人が休み時間をそこで過ごし、指揮者も生徒も私達のようないわゆるトラ(エキストラ)たちも、ほれぼれと山を眺めていた。心に染み入る思い出。いつまでも忘れられない。

ある時、シェーンベルク「浄夜」を演奏するのでお声がかかった。行ってみるとミュンヘン・フィルのコンマス、ベルリン・フィルのチェロとコントラバス、ハンガリー国立のヴィオラなどのメンバーの中に放り込まれた。私はどちらかというとヨーロッパ人の中で弾くのは自分のためにも嬉しいことなので物怖じしない。そのときはヴィオラのトップの席に座ることになった。ミュンヘンのコンマスはジェントルマンで私に向かって言うには「音はとても素晴らしい!しかし遅れる」

ヴィオラはヴァイオリンより少し大きいので多少音の立ち上がりが遅れるかもしれない。それはわかっていたのだけれど、顎が外れそうな大きな楽器は早めに弓を動かしても一瞬発声が鈍い。もちろん名手が名器を持てばそんなことはない。タイミングの問題だから遅れるのを見越して早めに弓を動かせばいいのだから。しかし「浄夜」はシェーンベルクが12音階を使っての初期の作品で私も初めてだったので、気後れがしていたことは間違いない。ベルリンの有名なチェリストが私に「そこは僕と一緒だから合わせよう」といってくれる。有名なひげのコンバス奏者も私に合図をおくってくれる。多分私はジュニアオーケストラ所属の小学生に見えたに違いない。てなことはないけれど、優しい大人?たちは、まず私の音を褒めてくれる、でもその後に「遅れる」が必ずついてくる。

発音が遅れるのだからタイミングが遅いのはよく分かる。けれどヴァイオリンのタイミングがどうしても顔をだす。同じ動きでもヴァイオリンのほうが発音が早い。毎回注意されて同情してくれたセカンドヴァイオリンのトップ奏者はジュリアード音楽院の留学生。夜になると彼女の部屋でご飯をごちそうしてくれた。結局私は練習すればするほど手が硬直して遅れてしまうことになった。

一日休日があった。私は地元富山の知人に電話をした。すると彼はちょうど今頃ならもしかすると蜃気楼が出るかもしれない。車で魚津の海に連れて行ってくれた。数時間海を眺めて過ごし、気分がすっかり良くなったところで次の日は本番。私はリラックスして早かろうが遅かろうがままよ!本番になるとくそ度胸。その分ヨーロッパの名手たちがこころなしか緊張して見えた。終わって私はミュンヘンのボスに向かって下手クソな英語で「私がうまく弾けなくてごめんなさい」と言ったつもり。でも後で考えると「うまく弾けなくてお気の毒ね」といったような気がして頭を抱えた。本当のところどういったのか記憶にございません。

そして最近無性に富山のことを思い出す。美味しいお寿司、真っ白な立山、氷見で演奏した小学校、木造の素晴らしい音響の講堂をコンクリート作りにするというから、私たちは口々に校長に訴えた。こんないい音のする講堂は壊さないでほしいと。その後どうしたかしら。

今日送られてきた画像。海を見に連れて行ってくれた人からのメールに添付されていた。


これは魚津ではないらしい。左隅に釣り人が写っているのが見えますか?

上の方の建物が蜃気楼、釣り人は実際の人。

こんなにはっきり見えるのならぜひ見に行きたいので魚津市の蜃気楼予報サイトにメール希望登録をしておいた。

これなら、もしかしたら今年は蜃気楼が見られるかも。素晴らしいことに北軽井沢から車で3時間弱。

最近老いてきたらつくづく思う。人生って蜃気楼のようなものだなあと。儚く美しく懐かしく、のぞみはいつも手が届かないところにあると。



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