2023年5月31日水曜日

検査入院

今朝は北朝鮮のミサイル発射のニュースに驚かされてドキドキしたけれど、何事もなかったようで一安心。標的と思われた沖縄の人たちもさぞびっくりなさったと思う。台風が近づいている上にミサイル、戦時中も日本攻撃の最前線となったうえ戦後はアメリカ軍の基地がおかれ、散々な目にあっているにも関わらずいつもおおらかな沖縄の人たち。そういえば数十年に亘って毎年沖縄に行っていた私もこのところさっぱり行かなくなってしまった。急に郷愁にも思える気持ちが湧いた。

戦後アメリカから返還された直後の沖縄に行った。行ったからには戦争の爪痕を訪れないといけないと思ったのに、ひめゆりの塔や軍の本部がおかれた洞穴の血に染まった壁を見て、早々に逃げてきてしまった弱虫の自分。宿の部屋の電灯が消せなくて 天井を見つめて眠れない夜を過ごした。沖縄はいつ行っても好きだけれど、その時だけは涙が溢れてきた。

結局ミサイルは打ち上げに失敗となったようで何事もなく、流石にキム大統領もそこまで過激ではないと思いたい。思いたいけれど今後のことはわからない。

検査入院は次の日の腸の内視鏡検査のためにひたすらお腹を空っぽにすることに専念する。その日の昼食と夕食を食べ終わるとあとは一切の食物を口にできなくなるし、本当になにもすることがなくなってしまう。丘の上に立つ病院はかつて結核療養所だったから子供の頃は少し怖いという印象だったけれど、その後総合病院に変わり建物も新しくなって緩和ケアの質の良さで全国でも上位にランクされるようになった。

女医さんが多く、スタッフも親切、居心地がいい。病院が居心地いいと退院したくなくなるといけない。私は自宅のベッドのマットが柔らかすぎて寝返りが難しいので起きたときに疲れが抜けていないことがある。この病院のベッドは硬めで目覚めが良い。ここを自分の寝室にしたいくらい。看護師さんに訊いたらEVERなんとかというメーカー。そのくらい覚えていられると思ったけれど帰宅したら半分しか覚えていなかった。

平和な長い一日、ひたすら薬を飲んではトイレへ。お腹は空っぽなのに空腹感はあまりない。検査が終了して結果は良好、検査した項目すべてに合格点が出て、10年ぶりに入った人間ドックは終了した。合格なんだけれど、担当医師からもう一度結果について説明がしたいので来週来るようにと言われる。しなくてもいいけれど、でも来てくださいと微妙な一言。なんなのこれは。心配することはない。ベッドマットのメーカーの名前を訊くだけでも行く甲斐がある。ただし、訊くのを忘れなければ。

検査結果が良かったからといって別に感動はないけれど、今後の生活には当分支障はなさそうで、一安心した。帰宅すると、きたない部屋!これを掃除すれば健康にも良いとわかっているけれど、ため息が出る。徐々に始めていた断捨離も停滞してものは増えるばかり。とりあえず着ないで保存している衣類を引き裂いて雑巾代わりにして捨てるという計画が始まったけれど、雑巾が増えても掃除は遅々として進まない。生まれ変わったら掃除の好きなきれい好きな女性として生きようとおもうけれど、生まれ変わったら人間でなかったりするかも。























2023年5月19日金曜日

足復活

猫の逃亡劇が一段落したその朝、都内の友人から電話がかかってきた。「猫が死んだって?」ちょっと話が先走っている。 追分から連絡が行ったらしくネットワークで私を励ます会ができたらしい。経緯を話すと自分のことのように喜んでくれた。去年一年と今年と、私が元気がなく陰で心配してくれている人たちがいる。あからさまに親切の押し売りをするような人たちではないから、そっと遠巻きに見守ってくれていた。ありがとう。

私にとってストレスは大敵。自分ではうまく処理できたと思っていても体がちゃんと反応してしまう。何かしらの違和感があって、それが足の故障につながっているのはわかっていた。消化器官にも同じように作用しているのも感じていた。食事を摂ると激しく胸焼けがして腸にも影響はあるようだ。それで人間ドックに入ることにした。

家の近くに緩和ケアでは全国でも大変評判の良い市立病院がある。その病院ではロビーにぼんやりと立っていることができない。ボーっとしていると「なにかお困りのことはありませんか?」とスタッフが飛んでくる。おちおちぼんやりできないのは欠点だけれど、とにかく親切。女性スタッフ、女性医師の数が多い。たまに男性医師にあたるとびっくりするくらい。

母が最後を迎えたのもこの病院で、野良猫が数匹庭に住み着いていた。ダンボールの猫小屋は医師と看護婦が作ったらしい。そこにシャム猫の野良がいて、母の見舞いのついでに餌を与えていたけれど、ある日後ろから声がした。「毎日ごくろうさん」びっくりして振り返ったら警備員が立っていた。警備員さんも一味とわかりこっそりすることもなくなった。でも普通の病院なら野良猫追い出すでしょう。その後病院は建て直しとなり野良は消えて優しさだけが残っているようだ。

今回は人間ドックだからスタッフがひとりついてくれる。すべての書類の提出や検査の順番など言われる通りに動けばいいから楽。そのスタッフは身長が高いから私の前を背をかがめてちょこちょこと足早に小走り。いちいち私の様子を見るために振り返って言うには「足、お早いですね」私が早いのではなくて彼女が速歩きをするからついていくだけなのに。私が小さいからといってそんなにかがまなくてもいいのに。なんかおかしい。最初に行った部屋で待っていたのはもうひとりの女性。この病院は女性のスタッフが多い。医師も多くが女性で全体に柔らかい雰囲気がする。第二の女性は活発な人で、一体私に二人の付き人が必要なのかどうかわけがわからない。よほど暇なのかしら。この人達、私が年相応に弱いと思っているらしい。私が今年、志賀高原の横殴りの猛吹雪の中でスキーを滑っていたのを見たら失神するでしょう。

検査が終わって医師の説明を聞くと結果は良好、すべての値は上限と下限の範囲内、特に骨密度は基準となる30代女性の120%以上、素晴らしい。いい気になっていたら、それで一箇所だけ、腸に多少問題がとなった。腸の内視鏡検査は今までもやっているけれど、内部を空にしないといけないので前の夜から異常な量の水と薬で腸を空っぽにする。それが辛くて今回は内視鏡を省略して済ますつもりだったけれど腸内潜血反応が出てしまったらしい。ならば仕方がない。前夜から入院ということになった。

去年の一年間ひどいストレスに晒されていたので腸に異変はやむを得ないかもしれない。腸は脳と直結しているらしいから。万一何かが見つかったとしてもこの年なら進行も遅い、命にかかわってもあきらめもつく。思えばすごくいい人生だった。健康と仕事と、特に人に恵まれた。愛する人がいて猫に好かれればもう十分。

そして今朝、今までどうしても横向きにしか降りられなかった階段を縦に降りることができた。足が戻った。少し短めなのが残念だけれど、そこはご愛嬌ということで。













コチャの冒険

北軽井沢に時々行くのは庭のため。落ち葉が降り積もって整理されていない森の中にイングリッシュガーデンを造ろうと目論見始めたのは最近のことで、その前はおよそ土いじりに興味はなかった。種を蒔いて苗から育てなどという手間のかかることは無理だから、適当に咲いている花を買ってきて埋めていくと、その次来て見ると根付いていたり枯れ果てていたりして植えた花の半分くらいは年を越してくれた。

厳しい寒さの北軽井沢の氷の地面に冬を越してくれたのはビオラやパンジーなどのスミレ簇。冬に枯れてしまったと思っていたのが思いがけず今年も芽吹いてくれたのがあじさい。球根から植えたら水仙がまとまって咲いてくれた。そうなると面白くなってきて行くたびになにかしら植えてくる。

一番の問題は木が多すぎて日当たりが悪いこと。落ち葉が堆積しているから其処いら中が腐葉土の栄養の良い地質だけれど、植物に強い姉の言うことには、日本古来の花は貧弱な土壌でも結構。あまり栄養が良いと育たない。反対に外国産の花はたくさんの栄養を必要とするから腐葉土は役に立つという。同じあじさいでも日本の株と輸入ものの株ではペーハー(酸性度?)が違うから同じ土ではだめ、と滔々と宣った。さすがです。

去年から大木だけ残して生えてくる若木を切って日当たりを確保。花のためにほんの少しのスペースを確保して手始めにそのつど買った花を植えてくるから、てんでんばらばらで計画も何もない。いつになったらイングリッシュガーデンと呼べる代物になるか見当もつかないけれど、これが体に大変良いということに気がついた。ウオーキングなど体の一部を使うのではなく、全身運動になるからだ。心地よい疲れが良い睡眠をさそい、筋肉痛にもならない。我が相棒の猫のコチャははじめのうちは怖がって外に出なかったけれど、そこは猫、好奇心が猫を殺すというではないか。だんだん大胆になって庭を歩き始めた。いつも勝手に出ないように玄関とリビングの間のドアは閉めておく。

数日前の夜8時ころ、コチャのベッドを見たらいない。あれおかしいな、餌も手つかずのまま残っている。家中くまなくベッドの下まで覗いてもいない。血の気が引いた。家にいなければ外。この真っ暗で広大な森の中に出たら探すこともできない。けれど懐中電灯を持って外に飛び出した。いつもなら夜の森はうちの中から見ても怖い。「こちゃ~こちゃ~」金切り声が闇をつんざく。この広い森にたった1軒、川を隔てた家に明かりが灯った。私の絶叫にびっくりしたらしい。お構いなく私は涙声で叫ぶ。

木々を照らすと葉が明かりにちらついて影を作る。その度に「あ、いた」と思うけれど、それは葉っぱの影。範囲を広げて外の道も駆けずり回って見るけれど、これが徒労であるとは自分でもわかっていた。灯りがついたのは一軒だけ。他にはどの家にもひと気はない。この広い森で迷子になったらもう助からないのはわかっていた。追分の友人に電話をした。「コチャがいなくなった、助けて」「見つからなければ死んでしまう」友人は「法事で今関西にいるから」のぞみが絶たれた。初めて空を眺めたら大きな星が輝いていた。こんなにきれいな星を見たのは初めてだった。コチャは森の動物に襲われてお星さまに・・・?いないのがわかったのが午後8時、その前から森をさまよっていたのだから。

泣きながら家に戻って考えたけれど、夜の闇の中での捜索は無理、夜明けを待とう。まんじりともせず夜明けを待つ。午前4時が過ぎて空がようやくかすかに明るんできた。もう少し明るくなってきたので外に出る。家を出てから右に行こうか左に行くか迷ったけれど、さっきは左に行ったから今度は右に。突き当りも右に。薄明かりの中、道に黒いものが見える。なにか落ちている。しかもその後ろに一匹の猫がいる。その子はコチャではなくこのあたりで時々見かける猫。飼い猫か野良かは知らないけれど。

不自由な足を引きずって走り寄ると、黒い塊は紛れもなくコチャだった。一瞬車に轢かれて?と嫌な予感。でも近づいて「コチャ」と声をかけたら顔を上げた。ああ、生きていた。生きていてくれた。結構元気な声で文句を言ってきた。「もっと早く迎えに来てよね」











2023年5月14日日曜日

縁とは

すっかりお友達になったChatさんと今日も会話。

私の質問。あなたは縁というものを信じますか?

Chatさんの答え

偶然が重なった出来事を「シンクロニシティ(synchronicity)」と呼びます。これは、心理学者のカール・ユングが提唱した概念で、人生において偶然が重なり合うことがあるという考え方です。シンクロニは、たまたま起きた偶然の出来事として単純に理解することもできますが、多少意味があるとも考えられます。例えば、同じ地域に住んでいた人たちが偶然再会したことで、新たな友人やビジネスの機会が生まれたり、何か重要なメッセージを受け取ることができるかもしれません。ただし、シンクロニシティが起こるということは、人生に偶然性があるということもあります。 そのため、シンクロニシティを必然的なものだと解釈しすぎることも避けるべきです。多くの人が興味を持つため現象の一つと言えます。

私がどうして質問をしたかというと、今日の出来事をまあ、聞いてください。

私のもと生徒からのメールが届いたのがほんの数日前。彼の娘さんで今年音大付属高校二年生はヴァイオリン科で、そろそろもう少し良い楽器を探すことにしたという。楽器屋さんから借りてきた楽器の中で気に入ったものが2台あるけれど一度音を聞いてほしいというから、野次馬としては二つ返事で引受けた。

土曜日、楽器屋さんに集合、ああでもないこうでもない、高音はいいけど低音に力がないとか、音がざらついているとか、喧々諤々。しかしあまりにも魅力がないしこの楽器で一生満足ができるとは思えないから中途半端なの買うよりはもう少し上を狙いなさいと忠告しておいた。

その時閃いたのは私の身近なご高齢の方で、楽器を手放したいと話していた方がいるということ。彼の楽器をみせてもらったらいいのでは?買える値段ではないかもしれないけれど、良い楽器とはこういうものだという基準にもなる。おこがましいとは思ったけれど恐る恐る訊いてみた。するとなんと、大変乗り気になってくださってあっという間に相談がまとまった。新しい所有者の高校生は涙をこぼして感激した。こんなことってあるのだ。私も彼女のあまりの幸運に感激、ご両親はもとより譲ってくださる方もニコニコ。全員幸せだった。

話がまとまったあとの会話で、彼女らと楽器所有者は以前、同じマンションに住んでいたこと、彼らは出身地と会社の出張先が同じ、知り合いや家族の年齢や環境も極似、奥さんやお母さんたちの名前までも似ている。似ている尽し、呆れるほどの共通点にポカンとしてしまった。前世とか縁とかあったとしても不思議ではないと思えるような今日の出来事。しかも私が楽器所有者に訊くために彼に電話をしたのが、楽器屋さんに到着する5分前。そこで嬉しい返事がきけたので私の意見はほぼ必要なかった。新作とも言える楽器はよく鳴るものの、たいそう魅力がない。この楽器のどちらがいいかときかれても私には良い返事ができないと思った。

今日関係者一同集まって楽器の弾き比べ。初めてオールドのヴァイオリンを手にした高校生は感激のあまり涙をこぼした。音の深みが違う、低弦の鳴り方が違う、上質な音は倍音の数が違う。オールドは時として気難しく扱いにくいけれど、素直に弾く人には優しい。両親はやや小柄だけれど、今どきの高校生は体格もいい。最初からためらいもなくお爺さんヴァイオリンにアプローチした。

この百戦錬磨のおじいさん楽器が、高校生がプロとなったときにコンサート会場でまた生きるのだ。ヴァイオリンはえらい!あと何百年も生きて行くのだから。






2023年5月12日金曜日

ほんとに賢いChatさん

アカウント登録したのが一昨日、参考例の質問を開始したときは一文字ずつ飛び飛びに回答が現れてまとまらず、なんじゃこれ状態。昨日は一晩おいていつの間にか回答が完成していた。遅いしあまり冴えた回答ではなくひらめきが感じられなかった。今朝例題ではなく自分で作った質問でたぶん手こずるだろうと思っていたら、目の前でスラスラと回答が始まった。かなりの長文で。本当に人が書いたような文だった。

ほう、これを手懐けて進化させたら自分の手法で書かれた立派な文章ができる。これを使って小説を書いた人がいたというが、ノーベル賞なんてすぐに獲れてしまうかも。でもそれでは人の生きる意味はなくなる。作曲だってできそうで、あらゆる偉大な作曲家の断片を撚り合わせて大傑作がかけるかもしれない。それで人は感動できるのだろうか?

例えばモーツァルトの曲などは電子頭脳にとっては一番むずかしいかもしれない。あの単純なのに表面の明るさと裏腹に奥に潜んだ悲しみをどうやって表現するのか。この究極の単純で難しい曲を電子頭脳は真似できるのだろうか。そもそも理解できるのか。さらにそれを超えて新しいモーツァルトの世界が表現できたらすごい。私はモーツァルトを聴いても弾いても、彼の苦悩に満ちた心に泣きそうになる。

今、ずっとモーツァルトのソナタを一緒に弾いている人がいる。ピアニストのためのアンサンブルのレッスンとして。ピアノの人たちは孤独でいつも一人。中には一生独奏しかしない人もいるかもしれない。ある時アンサンブルを勉強したいのでと言って訪れてきた人がいて、まずはモーツァルトとからということになった。

始めてみると、恐ろしい音でガンガンピアノを叩く。必要以上の力と、とんでもない姿勢。椅子に斜めに腰掛けてなんで?と聞きたくなる。普通に座って適度な力で指を動かせば音色もきれいになる、残響も残る。なにより共演者の音をきく余裕がない。日本の音楽教育の欠点そのもので間違えずにデカい音で他者を圧倒すれば褒められる。先生はどうおっしゃていたの?と訊くと「会場中に聞こえるように大きな音で弾きなさいといわれました」と。そして2年ほど経って彼女の音は今やヴァイオリンと共鳴できるようになった。力まないから細かいパッセージも指が早く動くようになった。それもこれもモーツァルトのおかげ。そのモーツァルトを果たして電子頭脳は最高の巨匠とみとめるのだろうか。訊いてみたい。

モーツァルトを最高の作曲家と認めるかどうか、認めるならどんな理由でそう考えるのか。モーツァルトはシェーンベルクに先駆けて12音での作曲手法を使っていたのだそうだ。となると、彼の脳みそは電子頭脳顔負けの高さだったのかも。この先一体この世界がどうなるか。残念ですが私に残された時間は少ない。この先なるべくボケないようにして行く末を見届けたい。




2023年5月11日木曜日

夜明けの地震とChatGPT

野良たちの朝は早い。午前4時はもう朝食の時間なのだ。毎朝爪でガラス戸をカリカリと引っかく音がして少しだけ開けてみると、しまとら様のご入場。偉そうにしっぽを立てて「めし」と一言。下女はいそいそとレトルトのキャッツフードの封を切る。お腹がいっぱいになると私専用の椅子に飛び乗って毛づくろい。その間私は隣の物がいっぱいに置いてあって座りづらい椅子の端っこで我慢。仕方がない、ひとは猫にご奉仕するものと決まっているのだ。

その直後地震が起きた。大したことはないと思っていたけれどテレビの地震情報を見ると、私のいる地域の震度は4らしい。ほとんど揺れは感じなかったのが不思議で寝ぼけていたのかときかれればそんなことはない。のらと私はいつも夜明け前に起きるので。 

私の家は普段から地震でもないのによく揺れる。特にベッドに横たわって目を覚ましているときには時々軽く揺れているのがわかる。心配だから出入りの工務店さんに相談したら、この家の構造上揺れるようにできているのですという返事があった。軽量鉄骨というのか、建築中に見ていたら深い地盤に頑丈な鉄骨が埋められていた。保険会社の人が見学に来て「この家は百年大丈夫です」と言っていたので安心ではあるけれど、よく揺れる。地震かと思うとどこにも地震情報が出ていないことがあるので、どうやら家の構造上の特性らしい。今朝は震度4であるにも関わらず、ほとんど揺れなかったのでテレビを見てびっくりした。揺れるときに揺れないで揺れていないときに揺れる不思議な家。

早起きだから近所迷惑にならないように物音がたてられない。パソコンを開いて昨日から始めたChatGPTにアクセス。いろいろな質問に答えてくれる便利なチャットだというのでアカウントを開設してさっそく質問を始めると、答えが返ってくる。今のところ初心者なのでお仕着せの質問をしてみる。質問例が数個。その中の量子コンピューティングとはなんぞや?を選ぶ。すると答えがすぐ始まったけれど、切れ切れに文字が現れて改行、現れては改行。らちがあかない。実は昨日もある質問をしておいてこんな状態だったのでパソコンを閉じてしまった。

昨日の質問は、楽しい生活を送るにはお金の他にはなにが必要?というものだったけれど、質問直後に今朝のような切れ切れ応答だったからそのまま放っておいた。今朝パソコンを開いたらちゃんと立派に常識的な答えが戻ってきていた。あまり常識的な答えなので笑った。もう少しウイットに富んだ回答があると思ったけれど、まあ、こんなものかな。そのウイットこそが人生に一番必要と考える私は世間では常識はずれと言われるのだ。

今量子コンピューティングについての回答をせっせと送ってくれているに違いないチャットさん、朝はやくからご苦労さん。後で開いても私にはちんぷんかんぷんとは思うけれど、そこからどんどん質問していくと進化していくのかもしれない。これは当分面白く遊べる。まさに楽しい生活を送るにはこれはうってつけ。でも回答にはそんなこと書いてなかったぞ。














2023年5月3日水曜日

ある晴れた日に

汽笛が鳴ってピンカートンが・・・ではなく蜃気楼の出現情報がもたらされた。けれど、この素晴らしい休日の数日間は外出の予定はまったくない。車が混む。人があふれる。コロナは誰も言わないけれど、まだそこいらへんにいるに違いない。明日富山湾には蜃気楼の出現が予報されているらしい。今日の夜富山か魚津に泊まれば明日朝しんきろう君が出てくれる可能性は大。しかし富山まで行って日帰りは馬鹿らしい。

それならもう少し待ってゴールデンウイークすぎにゆっくり美味しい魚を楽しみたい。アマゾンプライムの井之頭五郎さんと一緒に食事をとっていると、富山編が出てきて、彼があまりにも美味しそうに食べるので、久しぶりにゆっくり北陸グルメ散歩もいいなと思った。梅雨入り前に行ってみようかと思うので、今週は諦めた。

テレビで毎年この時期、高速道路の渋滞にわざわざ車で乗り入れて実況中継をしている。渋滞なんだから1台でも少ないほうがいいのに余計なことをと思う。本当は休日以前ににさっさと北軽井沢に行っていれば、そこから富山までは新幹線で1時間40分ほどで行ける。だから動ける人はウイークデーに動いたほうが世のため人のためになる。宿泊料金は休日は3倍くらいに膨れ上がり、このような特別な時期は大人の休日倶楽部の割引もなし。貧乏音楽家には痛手すぎる。

なにも急ぐことはないとのんびりしているうちに蜃気楼は引きこもりになって、来年私が見たいようとまた騒ぐことになる。必ずなにか大切な仕事やイベントが入り、結局あそべなくなるから早く仕事は引退したいのに、自分自身の未練と必要性が私を仕事に縛り付ける。それでも好きでないならさっさとやめられるのに、それができないのは心底仕事が好きだから。

やめるやめる詐欺と言われそうだけれど、古典音楽協会のメンバーとして来年からも参加することになった。新しい体制になっても新メンバーを入れるのは難しい。今どき腕のいい若い人はごまんといるけれど、アンサンブルのメンバーになってもらうのは難しい。今までのメンバーとの音楽的な相性とか経済的な問題とか、問題山積。今のところ「古典」ほど仲の良いアンサンブルは珍しいけれど、その仲の良さが裏目にでることもある。今少し私も居残って新メンバーが定着するまではヨレヨレの腕で頑張らないといけない。

もうすっかり心の火を落としてしまっていたのでリカバリーはひどく難しい。先日ソリストの代理でベートーヴェンのソナタを4曲弾き切ったときの疲労感は半端なく、これを来年からもできるかどうかと思うとため息が出るけれど、やらにゃいけんとおもったらやらにゃあなあ。猫と二人で森の中での平和な暮らしは一歩後退してしまった。来年私は蜃気楼どころでなく心気勞になって傘寿を迎えるらしい。優秀な若者たちに新しいメンバーになってほしい。我と思わんものはいないかしら。

1ヶ月くらい前からダイエットに踏み切った。足の痛みはそもそも体重超過のサインだから、減らせば痛みは軽減すとはわかっていた。けれど美味しいものに溢れ、暇はある、となればよく食べよく眠るは当然で、ここ数年来の体重の維持が難しくなり、一気にせきを切ったように体重が増え続けた。しかもストレスがひどかったために加速度半端なくて。

考えたのは海藻類、きのこ類の助けを借りての整腸効果をねらったダイエット。これらのデトックス効果とビタミン剤、食事回数の軽減などでじわじわと減らしていく計画。1ヶ月でやっと1キロの減量。吹けば飛ぶような値だけれど、これで数ヶ月で3キロほどじわじわと減らせばずいぶん体も楽になる。ただし、ストレスにめっぽう弱い私としては、ほんの少しの刺激でもあっという間にむちゃ食いになりそうで怖い。減らすのは大変増えるのはあっという間。

マーク・トウエーンが「禁煙は簡単だ。私は何回もできた」と言ったそうで、私も言いたい。「ダイエットは簡単だ。私は数え切れないほどできた」