2013年8月7日水曜日

手秤、目秤

料理の場合私は計量カップも秤も使わない。それで長年やってきたけれど、先日の花火見物会場のオーナーの一言でちょっと考えさせられた。「材料量るのは苦にならないからレシピ通りに作れば失敗しない」なるほど。たとえ量っても私が作るとだめなような気がする。レシピも読めないし。
私の母はちらし寿司作りの名人だった。ちらしだけでなく天ぷらの衣なども見事に一滴も残さずきっちりと使い切るので、いつもびっくりするくらいだった。昔のことで計量カップもつかわない。ちらし寿司は高価な材料は使わないし少し甘めだけどいつも同じ味で、やさしくまろやかで本当に美味しかった。見ていると手秤、目秤と称してだいたいこんなものかなとやっていたのに、私とは大違いでいつも決められたように同じ味になる。専業主婦のすごさを見せつけられた。それを見ていたから私も手秤、目秤でやっているけれど、その日によって味噌汁の濃さもこれほどかと思えるほど違う。母に似ればきちんと同じようにやってのけたと思う。兄が母そっくりで、なにをやっても器用にこなす。私は残念なことに父親似。父はなにもかもひっちゃかめっちゃか、人生を思うがままに生きたからその娘の私も「ええい!味噌汁がなんでえ」くらいの気持ちだからいけないのだ。母と父は水と油で容易に溶け込めなかったと思うのに、仲は良いのか悪いのか、はたからはうかがい知れないような夫婦だった。父は魚に火を通しすぎるな、醤油を煮立てるなと言うのに対し、母はなんでもしっかりと中まで火が通っていないと気がすまない。当時の衛生状態からいって、食中毒を心配したらしい。母はたらこの芯まで火を通す。しょっぱいだけで少しも美味しくなかったから初めて生のたらこを食べた時は感激した。質素でも楽しかった大家族時代を思い出す。大勢の家族で食べればなんでも美味しかった。もしかしたら母の味は仲良しの兄弟達で食べるという、そんな調味料がかかっていたから特別においしかったのかもしれない。




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