私のだいぶ年下の後輩から来た一通のメール。「生きて行くのって大変ですね」
彼女はK子ちゃん。ひまわりの花のようにいつも輝いていた。リサイタルを聴きにいったらスタッフもお客さんも皆彼女のファンのようで、中でもご主人とは曲の変わり目ごとにじっと見つめ合ってニッコリと微笑み合う・・・幸せにあふれていた。演奏も安定して音が輝いていた。私は彼女とは1年に一回だけ会うのだけれど、その笑顔が見られるのが毎年楽しみだった。
一昨年の暮届いたのは喪中のはがき。彼女の大好きなお兄さんの訃報だった。若い人の死は理不尽。彼女の悲しみが文面から溢れ出ていて私は涙した。今年で丸1年経っても悲しみが少しも癒やされていないことをメールから感じられて自分のことのように悲しく思った。メールに返信するとnekotamaさん優しいと。優しいというより共鳴なんだわ。
歳を重ねると若い頃の輝かしい未来はどんどん消費されてしまって、残滓には苦しみと悲しみが積もっている。でもそれが自分の人生に新たな光と影となって深く心のひだに降りていける。これはすごいことなのだと思う。体は上手く動かなくなるし頭は物忘れ、足が痛い、疲労困憊、散歩もままならない。ところがなんだか面白い。自分ってこんなに変な人だったかと再認識する。
元々すごくお転婆だった友人も最近足が弱り、生きて行くのは大変ねという。杖なんかついちゃって。私は息をするのも大変に思うことがある。別の友人と電話で話していたら「背筋を伸ばすでしょう?そうすると歩幅を広くしてさっさと歩かないと前のめりになって転びそうになるのよ。転ばないように大急ぎで歩くから、外見はすごく元気そうに見えるのね。本当は元気じゃないのに大変なの」「そうよね。本当はゆっくり歩きたいけど、ゆっくり歩くと地面の凸凹に影響されてふらついてしまうのよね」言い合って大笑い。老人がさっそうと歩いていると思うなかれ。実は止まれないだけのことなのだ。
本当はゆっくり歩きたい。でもゆっくり歩けるのは筋力があるうち。そのうち前のめりになってスッテン!去年~今年はずいぶん私も頑張った。毎日の筋トレ、高周波エネルギーの治療を受け、毎日の散歩は欠かさない。体重の管理もばっちり。だけど少しでもストレスがあると急に甘いものを食べあさり、夜中でも空腹に耐えかねて菓子パンを食べたりする。それで今は1キロ増量中。
私の人生設計にはこれはもう済んだことのはずだった。ヴァイオリンは売り払って森の中で優雅に過ごすはずだった。大好きな馬を飼って念願だったジャックラッセルテリアと一緒に散歩する・・・はずだった。ストレスとはもうサヨナラのはずだった。ハンモックがゆらゆら揺れて木漏れ日がチラチラ降り注ぐウッドデッキで昼寝。夕日が落ちると星が輝き夜の静寂からかすかな虫の声。
でも北軽井沢の春はまだ寒すぎて虫も鳴かない。木々が邪魔して星も見えない。右も左も真っ暗闇で怖くて外に出られない。
ところが森の中の生活は大忙し。毎日問題が起きるので山に来たときは働きすぎて疲労困憊。自宅に帰るとしばらく起き上がれない。その第一は森の木の管理。毎日様相が変わる。強風が吹けば枯れ枝がわんさか折れる。折れた木の始末をしようと思ってのこぎりを買ってきたら、1日使っただけでとんでもなく疲れた。リタイアした人たちがゆっくり田舎暮らしをしようとして移住しても、こんなに忙しい毎日になるとは思っても見ないだろう。これなら別荘(別名刑務所)で三食カロリー計算付き、適度な運動、家賃なしにいたほうが楽に暮らせそう。犬が飼えないとかの多少の不自由は我慢するっきゃない。
歩くことさえ不自由しなければ年を取るのは中々良い。歩くことにこんな努力が必要とは夢にも思わなかった。明日から筋トレとダイエット頑張ります、と、言っておけば頑張れるかもしれない。
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