2025年12月5日金曜日

動物と人

 朝の散歩に出るのに、どのジャケットを着るか、ニット帽をかぶろうか、マフラーはどうしようなどと考える季節がやってきた。まだ手袋まではいらないけれど、一昨日お気に入りのニット帽を紛失してがっくり来ていたので帽子はいらない!と強がりで被らず表に出た。

いつものコース、家から500メートルほどで公園に出る。公園の周囲を一周すると500メートルあるそうで、そこで1キロ。帰りは自宅までまた500メートル、やく1.5キロの日課もつい最近までは全部回ることができなかった。それで考えたのがジムなどに行くのは面倒だから自己流の筋トレをやって鍛えようと。

朝、目が覚めるとまず、手足の上げ下げ、全身をブルブルと蒟蒻のように揺すって血流を促す。一回ずつの動作を数えて100回。それからスクワット、踵落としなど、その日の体調に合わせて時間も決めず気持ち良いところでストップ。朝食後は散歩というパターンが出来上がった。決して無理をしないように。この筋トレが効いて歩くことが楽になった。

楽器を演奏する人種はどうもやりすぎるというのが欠点で、根を詰めると際限なくなるので気をつけないといけない。練習のときに数小節を数時間繰り返し練習するようなクセがついている、いわば偏執狂的な性格のものが多い。私はそこまで根気はないけれど、それでも傍から聞いている人はうんざりすると思う。筋トレも迂闊にのめり込むとかえって害になる。今はうまくいっているようだ。

今日は本当に穏やかな木々の葉が輝く美しい朝、風もなく、足を早めて歩く人達も思いなしか生き生きとしている。暑かった地獄のような今年の夏は記憶から振り落として初冬を楽しんだ。

いつものコースに犬のいる家があって、そこの奥さんは快活で話好き。いつも犬を連れた人たちが屯している。しかもその傍らには猫もカラスも一緒にいる。みな穏やかにおしゃべりや毛づくろいやぼーっとしているものや・・・何だここは。

以前ここで私はカラスの集団がよそ者のカラスをいじめているのを助けたことがあった。息も絶え絶えに悲しそうに鳴く一羽のからす。そのいじめの輪の周りには見物の野良猫集団が取り囲み、どうしようというのか、おこぼれにあずかろうと思っているのかわからないけれど、やはり見過ごすわけにはいかない。

結果、助けたカラスは一晩入院してから近くの小さな動物公園に引き取られ、治療を継続した。園長さんが鳥の専門家らしい。良かった!

今朝、この家の近くのゴミ箱にうずくまっている2匹の明らかに野良と思える猫発見。帰り道にまだいたら保護すべきかどうか考えた。また多頭飼育が始まったら困るなあと思っていたけれど、帰り道、彼らは犬の飼い主さんたちとその家の奥さんからご飯をもらっていた。そばには餌の入った容器を持ってきた女性もいる。ああ、良かった。とりあえず餌はもらえているんだ。私の出る幕ではない。

ここまで長くなったけれど、今読んでいる本は「僕には鳥の言葉がわかる」鈴木俊貴著と「熊になったわたし」ナスターシャ・マルタン著の二冊を交互に。どちらも動物と人との関わりがかんがえさせられる。鈴木さんの方は観察による考察であるけれど、フランス女性の人類学者マルタンさんは、熊との格闘でお互いにひどく傷つき合いながら、彼女の中にくまの一部が残り、熊もまた彼女を体内に取り込んで共同体となる。人と動物の関わり合いをこれほど強烈に、感じさせられるものは読んだことがない。

まだはじめの方しか読んでいないので、読後感はいずれまた。今の日本のくま騒動、人と動物の関わり合いを深く考えてみようかと取り上げた次第です。生易しい理解では熊との共存はできないし、感情や同情だけで批判はできない。要は地球は人間だけのものではないけれど、熊に襲われたら身を守る権利はある。襲われるかもしれないからと言って、罠や鉄砲で熊を殺すというのは熊に言わせれば理不尽なこと。どう折り合いをつけるかはすごく難しい。人は数々の戦争でへいきで殺し合うけれど、動物たちは生きるための最小限の争いで済ますのでは・・・書き始めたらものすごく難しい。答えは簡単にはでない。こまった!















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