2018年12月20日木曜日

ラ・ボエームの次は

ラ・ボエームはとにかく泣ける。
よくできたオペラ。
今回の歌手は名前も見ないで聴いていたけれど、ミミは可憐でいいけれど、ムゼッタの蓮っ葉さが中途半端。
もう少し過激だと最後に彼女がミミのために心を砕くところが効いたのにと思うけれど。

メトを批判するとこちらが批判されそうで怖い。
ロドルフォの高音に難あり。
高音を出すときに彼が一瞬自分を疑ったように見えたのは考え過ぎかもしれないが、ああ、やはり外れたなと思うのが私の意地悪なところ。
特に私は「わが古き友、さらば」とバスで歌われる外套の歌がたまらない。
だがコルリーネ役の低音に難ありで。
これはバス歌手には酷かもしれない。
バス歌手はほとんどアリアの出番はない。
「魔笛」のザラストロのアリアもたいてい最低音が音痴になる。

いやそんな事言わずに、ただ泣いていればいいのだが。
オーケストラの細かいパッセージまではっきりと聞き取れるのは、オーケストラプレーヤーの腕とこの劇場のオーケストラピットの音響がいいのか。
時々お見事と叫びたくなる。
しかし、大抵の人は歌は聴いてもオーケストラは単なる伴奏と思っているらしい。
オペラは総合芸術だから歌のことばかり言わないで、すべての事に気を配ってほしい・・というのが我々オケマンの儚い希望なのだ。
ところがそこまで神経を研ぎ澄ますと、一晩聴くと疲れる。
だから何も考えず、のんびり泣いているのが一番良い聞き方かもしれない。

次の日はヴェルディ「オテロ」が用意されていたけれど、私はパス。
このオペラは、イアーゴの悪巧みが徐々に毒のように効いてくる経過がわからないと、オテロは単なるお馬鹿さんになってしまう。
たぶん歌の意味がわからず聴いたら、なんか暗いオペラで終わってしまう。
デズデモーナの可哀想さがわからない。
「柳の歌」あたりで私の涙腺は破壊する。
そのあまりの可哀想さに、私は顔がかぼちゃみたいに腫れ上がってひどいことになる。
ニューヨークに来てかぼちゃになりたくないけれど、せっかくメトに来て聴かないのも馬鹿だとは思う。
誰か、元々かぼちゃみたいな顔だと言わなかった?空耳?
しかし、毎日オペラ浸けでは体がもたない。

オテロをパスして、ハドソン川のクルージングにでかけた。
冷たい雨まじりの風が吹き付ける中、結構なスピードで船は進む。
今まで足で歩いていたニューヨークの高層ビル群を外から見ることになった。
歩いていると自分の周囲しか見えないけれど、外からぐるっと眺めると、とても調和のとれた街であることがわかる。
建物に統一感があって、日本のように思いつきで次々と新しいビルを建てるようなことではなく、色や窓などの形に一定の約束事があるようだ。
しばらくするとあの有名な自由の女神が巨大な姿を表した。
巨大なだけではなく、実に芸術性の高い作品であることがよくわかる。
かつてこの地を目指した移民たちが、この像を見て胸を踊らせたにちがいない。











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