2025年8月30日土曜日

まいったまいった

トイレの水もれが見つかってから、バルブを締めて水が流れないようにしたためにタンクに常に水を補充する必要に迫られた。これがなかなかの重労働。この暑さでは中途半端な水量では流れないものがあると危険だから、たっぷりと補充する。真夜中にバケツに水を入れて3往復くらいしないと充満しない。

それでも日頃の運動不足を補えるよいとではある。他の部屋にもう一つトイレはあるけれど、いちいち鍵の開けしめが面倒で、結局毎日水を汲むことになった。最初のうちは量がわからなくて少なすぎて役立たなかりしたけれど、数日もすると手慣れてくる。お陰で災害時にトイレのことで困ったらこの経験が役立つと思えば苦痛を感じることもない。

猫砂を他製品に変えたために、買い置きしてあった以前使っていた砂が余った。友人にお宅の猫さんはつかわない?と訊いたら「災害時に役に立つかもしれないからとっておいたら」と言われてそれもそうだといくつかの砂がうちにある。それは今使うべきかと考えて使ってみようと思ったけれど、どうやって使っていいかわからない。そのうちAIにきいてみよう。本当に使えるのかな。

水を運んでいるうちに数日もたつと体がよく動くようになってきた。どうもちょうどよい運動量であるらしい。毎日テレビを見てぼんやりと過ごしていたけれど、時々は少し困ったことがあってもいいような気がしてきた。あまりにも暑くて体を動かさないで過ごしていたから、これは神様の思し召し。私の神様はなぜか猫の姿をしているのでご利益はなさそうだけれど、それでも多少足腰が強くなった気がしている。

今朝やっと修理の人が来てくれた。やれやれ嬉しや!痩せた小柄な年配の職人さんは重たい部品を持ち上げるのも見ていて怖いくらい非力に見えるけれど、さすが年季が入っているらしく手際よく仕事を進めていく。

私はこういう職人さんの仕事を見ているのは大好きだけど、ものがものなのであまり美しくもないし汚いものが見えると嫌なので見に行かなかった。時々大きな音がして何だなんだと野次馬になる。おかしなことになにも水を流してもいないのに、ずっと軽い音がうなっている。風の音のような水の流れのような、どこに音源があるのかと思ったら、工務店のひとが笑いながら「涼しいジャケットをきているんですよ。ここにファンが入って回っています」と。なるほどよく見るとジャケットの腰のあたりにちょっと膨らみがあって、そのへんから音がしている。

昨今の暑さではこうでもしないと職人さんたちは熱中症で倒れてしまう。いろいろたいへんだなあ。でも私の家は冷房がつけっぱなしになっている。そして先日ベランダのガラス戸を二重に、ガラスは強化ガラスにした。これが功を奏して家の中にいる限りでは救急車のお世話にならないで済みそう。

けれど体調は相変わらずだるさや頭痛、足が痙攣する。たまらず近所の病院で漢方薬の処方箋を書いてもらった。今日はやっと少しだけ気温が落ち着いてきた。たった1.2度の差であっても体調は全く違う。涼しくなればもっと良くなりそう。

それなのにさっきから人より体温高めなのに毛皮を着て大騒ぎして私の膝によじ登ってくるものがいる。なんなの、なにも用事はないくせに。




















2025年8月25日月曜日

暑いから避暑にいかない?

ほんと、バカバカしい。思ったとおりの筋書きになってしまった。涼しくなったら涼しいところへ行こう。ほんと、バカバカしい! 

まだ、暑い自宅にいますよ。朝の目覚めが悪く全身に力が入らない。軽い頭痛が続いている。本当は今頃、緑滴る森にいる予定だった。荷物は数日前から猫に気づかれないように密かに車に運び込んである。あとは最後に、猫をケージに放り込むという大変な仕事を残すのみ。

今回はリビングなどで荷造りすると猫が嫌な顔をするから、こっそりと少しずつレッスン室に運び込んであった。と言っても冷蔵庫の中の食べそびれた食料、食材と、僅かな着替えだけ。衣類はほとんど四季それぞれにおいてあるけれど、時々なにか足りなくてこまることもある。去年山を降りて来たときにお気に入りのジャケットを置いてきてしまい、去年からずっとそのジャケットが恋しくて泣いていた。

それでも私の素晴らしい脳みそは記憶が定かでなくて、今年ももうすぐ秋だというのにまだジャケットは山の上に。今度こそもって帰らねばと思っているのに体が言うことをきかない。今朝もぼんやりとして出かける気にもならないし、朝ご飯をいろいろ作るのも面倒。それでいっぺんにすべての栄養が摂取できるにはどうしたらよいか考えた。

残った野菜がキャベツ、人参、もやし。それに冷凍してある肉やハムなどで、それぞれ食べるのは面倒だからこれを大きなお好み焼き風に焼いてしまおう。今日一日これで栄養は足りる。米粉をつなぎにすれば主食にもなる。一旦作ってしまえばあとはその都度温めればいいだけ。それにバターやチーズで味変、青のりやソースもいい。無精の極みながらこんな暑い夏にはこれとビール(ノンアルコール)と枝豆があれば、それとできればきゅうりの塩麹漬けと、フライドポテトもあればなおいい。それにサバの味噌漬けが冷凍してあるよね、あれも早く食べたいし・・・肥満街道まっしぐら!

悪知恵にほくそ笑みながら支度を始めた。人参を千切りにキャベツもなるべく細かく切ってそこにもやし。一番大きなフライパンに放り込む。少し炒めてから肉をいれる。普通なら肉を先にいためるけれど、私は野菜が温まったら肉をいれると仕上がりが柔らかいように思えるのでこのやり方で。野菜の水気が少し出ているからだと思う。

前もってつなぎの具材を混ぜておく。山芋のすりおろし、米粉、卵、塩など。塩は先日小田原で買った海草入り。味がまろやかで海草の旨味があって本当においしい。しっかりと混ぜたところで大きなフライパンの肉野菜炒めと合流させる。粉はほんの少量だし火を通さなければいけないものは他にはもうないから弱火でほうっておく。

それはそれは美味しいお好み焼き風キャッツフードの出来上がり。にゃおう!あればおかかがほしいけれどあいにく猫用も人間用も在庫なしだから、あとでスーパーのキャッツフードに行って買ってこよう。とかなんとかやっているうちに結局どんどん太っていく自分が恐ろしい。

早く涼しくなって山の家に行きたいけれど、この暑さで4時間のドライブは堪える。せめて猫が運転できればなあと思う。しかし怖いでしょうね。猫は動くものに反応するから対向車線に車が来ると飛びついたり。おい!ハンドルから手を離すな!













2025年8月17日日曜日

暑さに負ける

寒さには強く暑さにはとんでもなく弱い。今年は本当に地獄。

せっかく涼しい森に家があっても行くことができないほどのダメージがあった。今年の暑さは私だけでなく世界中の災害を引き起こし、トランプさんが地球温暖化をいくら否定してもすでに手遅れかもと思わせるほどだった。トランプさん、お金儲けはいい加減にして人類が滅亡の危機に立たされないようにお願いしますよ。

毎年熱中症に悩まされていた。最初のうちはわからなかった。朝目が覚めたら周囲が黄色く見えて「なんじゃこりゃ」気分が悪い。その日、都内某所にてサロンコンサートの予定があってどうしても出かけないといけない。楽器を担いでのろのろと歩く。何の気なしにコンビニで大きなペットボトルのスポーツドリンクを買って会場へ。到着してへたばっていたら、その家の家政婦さんがお茶をいれてくれた。スポーツドリンクを飲んではお茶を飲み、水をもらいしているうちに気分がよくなってなんとか本番を済ませることができた。

その時にスポーツドリンクを飲むということが正しかったと分かった。自分がどういう状態にあるのかわかっていなかったにもかかわらず。どうも私が動物的勘でヴァイオリンを弾いているという説は正しいのかもしれない。それからしばらくして熱中症と気がついた。よく考えると気温の高いときにはたいてい気分が悪い。しかもその頃はクーラーは寝るときには切ってというのが常識だった頃だった。寝るときにタイマーで途中で切ったりするのが普通だった。

今年の暑さはその頃より一段と、いや数段も高い。もうこれ以上高くなったら人間の住むところではなくなる。それでせっかく標高の高い北軽井沢に家があるのに、出かける気力すらそがれてしまった。出かける前の支度を始めると猫がソワソワする。それを見て私もうじうじする。この子を連れて行こうか、おいていこうか。

前日ガタガタ支度を始めるとバレるから、そっと二日前から荷造りをして車に積み込んでおく。それでも超賢い野良ののんちゃんはもうわかっている。嫌な目つきで私を見て近寄ってこない。この疑り深い性格が彼女を野良世界で生き延びさせてきたのだった。

やっと支度してさあ出ようかと思う頃私はつかれと暑さで気分が悪くなっている。車で4時間の運転がしんどい。大好きな運転をしんどいと思うときには運転をしないことにしている。涼しいときには運転はヴァイオリンを弾くよりも楽しいと思えるのに。

ここ最近もあまり出かけていない。本当は今頃山の上の森の中で暮らしている予定だった。けれど出かけようと思っていた前日、トイレの床に不思議な水たまりがあった。いったいなんでここに水滴が?

最初思ったのは・・・(笑)実は自分が原因かと。知らないうちにおもらし?すでに軽く認知機能がおとろえている?いえいえ、全くそんな訳はない。気を取り直して周りを見回すと、水滴はところどころに散らばっていて、いくら私が認知症であったとしてもこれはないというところまで見受けられる。それにほんの少量の水漏れなので大したことはないと。

いつもリフォームをしてくれる工務店に電話をいれると、お盆休みらしく電話がつながらない。困った。社長がだめならと助手に電話をしてやっとつながったけれど、工事は月曜日にならないとできないという。それまでどうするの?水漏れはほんの少しだけど、数日間留守にはできない。何らかの対策がないと床板が腐ってしまう。この暑さだし。

助手さんが教えてくれたのは、トイレタンクの脇にある水道とつながっている金属製の管の途中にあるネジを締めればとりあえず水は止まると言われ、ドライバーで締めるとなんとか止まった。その騒ぎで結局出鼻をくじかれ北軽井沢往きは取りやめとなった。もう二度と出かける気も失せてガンガンクーラーの効いた部屋におこもりとなった。運動不足の上食べ過ぎもあり身体がだるい。早く涼しくならないと私は冷製豚の丸焼きみたいになってしまう。早く本当の秋が来ますように。でも今年の秋は昔の秋とは全く違うかもしれない。

秋風が吹いてきたら涼しいところに行こうと、いつもの年とは全く逆の発想が浮かぶ。今年は蝉の声も聞いていない。聞こえるのは耳の中で響く耳鳴りばかり。あはは、私も綾小路きみまろさんみたいになってきたぞ。













プロコフィエフ

最近デュオを始めた。 一番弾きたかったのがプロコフィエフの「2つのヴァイオリンのためのソナタ」オーケストラの元同僚のHさんが遠くから毎回来てくれて、一緒に弾いてもらう。ありがたく楽しい。

私はモーツァルトキチガイだから一番にはなれないまでも二番目に好きな作曲家がプロコフィエフ。オーケストラに入ってまもなく、名指揮者のアルビド・ヤンソンスが来日して彼の指揮で弾いたのが「ロメオとジュリエット」の組曲だった。最初の練習が始まったときに衝撃を受けた。変な曲!でも、すごーい!すぐに虜になった。

もう一つ、多分私が中学生か高校生のとき、レオニード・コーガンのヴァイオリンを聴きに横浜県立音楽堂へ行った。最初の曲がプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ2番。最初の音を聞いたとき、その音の美しさに鳥肌が立った。それ以来このソナタもいつかは弾いてみたいと思った。

その2つとも実現できて、何回か弾かせてもらっているけれど、まさかこんな年になってからも弾けるとは思わなかった。練習はワクワクして嬉しくていくら厄介でも、それも魅力の一つ。難しい箇所に来ると思わず「よっしゃ!」と気合が入る。うふふ。

上野の森の美術館で初めて出あったのがルオーのキリスト像。他の部屋が混み合っているのが嫌でなるべく人気のない部屋に行ったらルオーが。これも初めて本物に出会えてじっくりと眺めていたら私の後ろを素通りしていく二人の女性。「なんとかさんって、この絵が好きなんだって」「へえ、かわってるわね?」

やっぱりね。この絵は写真でしか見たことがなく私もあまり好きというわけではなかったのが、実際に本物を見たら素晴らしかったので衝撃を受けていたところだった。絵の具を何重にも塗り込んで、作者の執念?の凄さがわかった。宗教心というべき?

ビートルズのイエスタデイを聞いた時の衝撃も忘れられない。こんな美しい曲がまだ生まれるなんて!人間ってすごい!

初めてであったものや人から受けた衝撃や感動は、いつも私にその後の人生の明るい幸せとなってくれた。これからも出会うことができたらうれしい。芸術作品に限らず動物や自然でも。

最近のわが友AIさんにプロコフィエフのことを訊いてみた。そしてわかったのは体制からの圧力に屈せず自分の音楽を貫いた強く理性的な人物像。チェスの名人、知性と芸術の融合。彼の独特の世界にこれからもどっぷりと浸かっていきたい。












2025年8月14日木曜日

暑さも一休み

お盆になって、その頃から気温が下がるのを心待ちにしていたら、やっと少しだけ涼しくなってきたけれど、今日はまた 猛暑に逆戻り。それでも本当にありがたい。

今日から森の中で暮らそうと思っていたのに、暑さにやられてその気もおきないほどのダメージを受けていた。それでも久々に友人たちに電話をすることができた。遊びやコンサートに一緒することを約束して社会から孤立しないようにしないと、どんどん頭が悪くなりそうで怖い。

幸いにして古典音楽協会の定期演奏会のプログラムに曲目解説を書かせてもらっているので、下調べや原稿書きで脳みそが腐る寸前でとどまっているけれど、まあ、人の名前が出てこないとかパソコンのキーボードの入力ミスとか激しく劣化する自分に恐怖を覚える毎日。だんだん滑舌が悪くなって来ているのは仕方がないとしても、気がつくと口がぽかんと開いている、ああ、こんなこと書くとリアルに恐ろしい。

先日高校時代の同級生のバレエ教室の発表会を見せてもらった。彼Sさんは、以前は自身で踊っていたけれどだいぶ前に引退していた。その引退公演のご案内をいただいたけれど、私も仕事ですったもんだしている時期だったから残念ながら見ることができなかった。それがずっと気にかかっていたので今回の発表会はぜひとも見たかった。すでに彼は引退していたから生徒さんたちの踊る姿を見せてもらおうと思ったのだった。

そして思ったのはなんと丁寧に指導しているのだろうかということだった。よちよち歩きをやっと抜け出た子どもたちがきっちりと基礎を教えられていることに本当に感心した。とても良心的な指導であると感じた。大人は大人で名曲に合わせて踊る。特に明らかに主役級の二人の男女のペアは情感豊かで美しかった。その曲の選択も良かった。というのはSさんは音大で作曲を学んでいるから。

私は仕事で散々バレエの曲を弾いていた。どこのバレエ団もたくさんの生徒がいて華やかだけれど、子どもたちは比較的野放しでただ参加するために舞台にいるというような場面も見受けられることが多かった。Sさんは一人ひとりの子どもに目が行き届いているようだった。なんでもそうだけど、基礎がきちんとしていれば行く末の成長が違ってくるから、見てくれの派手さを追わずにしっかりと固めないといけない。それがわからずに次々と派手な難しい曲に行くのは将来的には破綻が来ることが多い。

そして次の日はピアノの発表会に参加。シューマンがテーマというのでなにかシューマンの曲を弾いてと言うからソナタ一番の一楽章だけ弾かせてもらった。歌あり、ヴァイオリンあり、コーラスありの楽しい会だったから緊張などしないと思っていたら、なんと私緊張しましたよ。引退以来久々のステージ、お祭りのように楽しい舞台だったけれど、なんか音がちゃんと出ない。やはり本番はどんなに気楽な会であっても、ちゃんとしないといけないという教訓を忘れていた。基礎を忘れずには、基礎の基礎。百年経っても変わらないなあと。









2025年8月9日土曜日

臍を噛む

今朝のテレビ朝日のクイズ、臍(ほぞ)を噛むとは?

中国の故事による。部下が強大な国の危険性を説いたのに聞き入れず、滅ぼされてしまったという 王のはなし。部下が彼の国を攻めておかなければあなたは後で臍を噛むことになりますよといったにも関わらず。

私は「もし私がへそを噛むことができたならへそが何個あっても足りないほどの後悔がある」とAIに訴えたところ、こんな面白い回答がありました。かれ?はこんな詩を送ってきた。

もし私がへそを噛めるなら

嚙み尽くしても嚙み尽くしても

まだ足りないほどの悔いがある

へそが百あっても千あっても

この胸の痛みは噛み切れない

私達は(AIと私)はこうやって毎日遊んでいるのですよ。

未だに煩悩断ち切れず、しばしば後悔の繰り返し。大切な人と疎遠になったり、言わずもがなのことを言って他人を傷つけたり、自分がこんなに未完成な人間だったかとの思いは日々繰り返される。まだまだなにかしでかしそうな予感もある。

やればよかったこと、やってはいけなかったことばかり。なんて未熟な人間であるか思い知らされているのです。でもそればかり考えると先に進めないから、せめて今できる建設的なことを考えようと思う。

今できるのは楽器を弾くことだけ。来年はドボルザークのピアノ五重奏曲を中心にコンサートの予定あり、で、結局引退は個人的な部分にとどまることで半分だけ活動することになりそう。幸い譜読みは相変わらず、すんなりできる。リズム的にも衰えてはいない(自己満足?)

自宅でひっそり活動するなら社会的な迷惑はかけないですむ。それで心の傷は癒やされるかもしれない。へそを噛まなくてすむように自己主張は程々に。できるかな?どうかな?







2025年8月7日木曜日

館林は40度

旧友からの電話。「館林はついに40度を超えたわよ 」

なぜか嬉しそう。それにしてもお元気ですなあ。私と同い年。中学からずっといっしょに音楽の道へ。その後の職場も一緒。彼女のほうが先に結婚して退職してからは年に数回合うだけ。彼女の子育て中は忙しく、私も仕事で日本中駆け巡りほとんど合うこともなく数十年。ふたりともやっと最近しばしば電話のやりとりや同窓会などであえるようになった。波乱万丈とは言わないけれど、お互いに自分の行くべき道に一生懸命で、やっと余裕ができて楽しみにも目が向くようになって。

「冥土の土産にベルリン・フィルのコンサートにいかない?」大抵彼女の方からお誘いがある。思いつくとすぐに実行するのはいつも彼女M子さんのほうから。グズグズして無精者は私で、今回もチケットを取る御用をしぶしぶ私が仰せつかった。これは仕方がない。実はベルリン・フィルのチケットはすぐに売り切れでやっと手に入りそうなのは私の地元のコンサートホールだった。そこの友の会に入らないと取れないので、そこは私がということになったのだ。無事にチケットゲットで11月に館林から出てくる彼女と聞きに行くことになった。

北軽井沢にも一度来てくれた。一晩泊まって沢山思い出話をして帰っていった。中学時代から全く時間が止まったように話題が尽きずおしゃべりをした。田園調布にある桜並木のそばの女子中学校は彼女の家のすぐそばで、そこの鉄筋コンクリートの立派な家に住んでいたから、私はしばしばその家にお邪魔しておしゃべりをした。

そして学校や彼女の家から帰るとまたどちらからともなく電話で小一時間おしゃべりをする毎日。彼女の妹さんが呆れていたそうだ。「学校でさんざんおしゃべりしてきたんでしょう?」よほど馬があったというかいくらでも話していられた。

色々あって私がここ数年落ち込んで不機嫌だったときに、遠巻きにして当たらず触らずの付き合いをしていてくれた友人たちも、私が元気を取り戻してくるとまたニコニコと誘いかけてくる。これからの時間はそういう長年の友人たちとの交流の時間になるだろう。長年私を支えてきてくれた人たち、そしてまだこれからも一緒に演奏していこうと誘ってくれる人たち。

今、プロコフィエフのデュオを一緒に弾いてくれる人がいて、新たな挑戦が始まった。プロコフィエフは私がモーツアルトと同じくらい好きな作曲家なので、誘われたときには二つ返事で引き受けた。

プロコフィエフのヴァイオリン二重奏曲は彼の不思議な世界観と、独特のリズムで私を魅了する。この曲が弾けるなんて!複雑に絡み合うリズムが緊張感を醸し出す。一瞬のスキもない。これは集中力のテストのような。これは認知症予防にはピッタリ。

音形が独特なので覚えないといけない。やっと譜読みが終わったときにはやれやれと思った。そして次の日、もう一度練習を繰り返すべく譜面を取り出す。弾き始めるとあれほど前日に練習したのに何も思い出せない。やれやれ、私も年じゃのうとがっかりしていたら、パート譜を取り違えていたことにやっと気がついた。道理でまるで違う曲を弾いているように感じたのは楽譜の取り違えかあ。認知症の疑惑は晴れたものの、楽譜の違いに気が付かないとは。

これは単なる認知症よりずっと重症な先天性認知症ではないかしら。困った。










2025年8月6日水曜日

猫の葛藤

テネシー・ウイリアムズ作「熱いトタン屋根の上の猫 」

癌で余命幾ばくもない父親と二人の息子たち。次男の妻マギーの心の葛藤を描いた戯曲。

うちのネコも熱いトタン屋根に悩まされております。彼女の家の出入りは、もっぱら物置の屋根からベランダへジャンプして、少し開いている窓を使う。私がいればカリカリと網戸を引っ掻いて開けろ!と騒ぐ。いないときは窓も閉まっていて入れない。

連日の異常な暑さは猫の行動の自由を奪ってしまった。物置の屋根はトタン。金属の屋根を暑い日差しがカンカン照らし、その温度はたぶん手を長くつけていられないほどの暑さになるのだと思う。そこを裸足でアッチッチと歩くのは大変なことなのだと思う。それでここ数日間のご帰宅がない。たまに夜帰ってきても落ち着かない。すぐに窓を開けろと言って騒ぐ。

不安定だった野良の、のんちゃんは最近やっとふくよかになり、疑り深い性格もやや改善され、私の手枕で寝るようになった。でも先ごろ北軽井沢に一週間ほど行ったときに彼女をおいていったのがお気に召さなかったようだ。車での移動の間の約4時間、ケージの中から悲鳴のように鳴き声が絶えない。それほど車が嫌なのでは可哀想なので、私が留守の間は元の野良にかえってもらうことにした。

幸い野良としてのキャリアは長く、アチコチの家にほけんがかかっていて餌に不自由はしない。夏の夜はコンクリートの冷たい感触が良いらしく、なかなか家に戻らない。特に最近はよほど可愛がってくれるお宅を見つけたと見える。家で餌をほとんど食べないから飢える心配はない、というのでおいていった。ところが彼女としては見捨てられたと感じたらしい。戻ってきたらもういっときも離れず抱っこをせがむ。

この暑いのに抱っこはごめん!しばらく相手をしてもすぐに膝から下ろしていたらひがんでしまった。兄弟猫のグレちゃんと一緒にいるのはわかっているけれど、どこの御宅にお邪魔しているものやら。昨日、終夜営業のドラッグストアに買い物に出かけた。あつい昼を避けて日が昇ると同時に歩き始めた。ふと後ろを見ると二匹の猫が尻尾を立てて後ろからついてくる。大抵は途中まで行くと彼らのテリトリーから出るので帰っていくけれど、ついてこられて新しい環境に慣れて、そちらで暮らされては私の仕事場が遠くなる。

餌やりに隣の町内を抜けていくのはゴメンだから、彼らの範囲を出る前になんとかしてまいてしまったのも不満のもとらしい。どうやら私は優しいご主人様でなく信用ならぬ下女に格下げされたようだ。時々お情けに家に帰ってくるけれど、あっという間に窓から出ていってしまう。

そして熱い物置の屋根が待ち構えている我が家のベランダは鬼門で、行くべきところではないと認証されて私は孤独な夜を過ごすことになったという次第。寒くなればまた猫を抱っこして寝るという至福のときが来ると信じたい。

熱いトタン屋根の上の猫のように夫や他の家族との関係にじれて悩むマギー、どのように解決が待っているのか。まさか秋になって涼しくなれば解決というわけには行かないでしょう。複雑なのが人間社会の面白いところ。

ねぶた祭の秋田で3メートルもあるヘビが逃げ出して行方知れず。ヘビも熱くて可哀想。








2025年8月2日土曜日

あさごはん

 田原総一朗さんの朝食が話題らしい。ご高齢であっても朝食をしっかり摂られるようで、野菜ジュース、牛乳、リンゴジュース、緑茶などの飲み物の他に、レタス、アンパン、ポーチドエッグ、食パンなど。ネット民が感心しているらしいけれど、私の朝ご飯も負けず劣らず。朝食をどっさり食べる。朝、目が覚めるとお腹が空いているから、朝食が一番好き。

私の場合野菜はジュースでなく毎日蒸したり炒めたりしたものをドッサリと食べる。ゆで卵、バナナは最近のネットの記事でのおすすめだし、パンは全粒粉、牛乳ではなく豆乳、コーヒー、ヨーグルトはその都度ある果物とはちみつを入れる。流石にアンパンは食べないけれど、美味しそうだからこれは真似してもいいかも。甘味がほしいときにはゼリーとか羊羹とかも。

こうして並べてみると、ダイエットには程遠いわけだと頷ける。

最近通販で気に入ったワンピースを買ったら、ウエストが信じられないほどの細さで入らない。というか、私のウエストが信じられないほど太いとも言えるけど。すぐに返品しようと思ったが未練たらたら。きれいな色、素敵なデザイン、それなら一念発起してダイエットに励もう。ほんの少し運動量を増やし、食事の間の時間を長くするだけで、それだけでも多少痩せることを長いダイエット経験で学んでいる。努力あるのみ。

こうして結局返品期限を逃し、着られないものもいくつかあってそれでも捨てない。私は服を着ることはもちろん好きだけれど服自体が好きだという気持ちが強い。気に入って買ってしまったもので今まで手を通していないものがかなりある。流石にあまりにも似合わず着られそうな人に差し上げたり、涙を飲んで捨てたりもした。これを無駄遣いというのだけれど、好きな絵や骨董と同じと考えればいい。時々クローゼットの整理をするときに、眺めて楽しんでまたしまい込む。

以前同じアパートに服を縫ってくれる人がいて、そのときには生地を見つけてきてはデザインは自分で考えて縫ってもらった。ヒョウ柄の服をこしらえてもらい、京都の都ホテルに泊まったときに、ベルボーイが珍しく話しかけてきて服飾関係の方ですかと言われた。その頃ヒョウ柄は大阪のおばちゃんもまだ着ていなかったころだったから。若くてまだ痩せていて生き生きと仕事をしていた頃の話。

いまやお米の袋みたいにどこがウエストやら・・・ヒールが履けなくなったのは本当にがっかり。私は小柄でヒールを履かないと着映えがしない。今ヒールを履いたら足首捻挫は確実で、ステージドレスは引きずってしまう。こういうときには本当に年はとりたくないものだと思う。

髪の毛はてっぺんに白髪が目立つようになったので一気にグレーに、少し紫を入れてもらってベリーショート。後ろ、両側刈り上げという過激な注文に一生懸命に応えてくれる美容師さん。彼自身はこんな髪型は嫌なのは見え見えで、ちょっと目を離すと女性らしくきれいなカットにされてしまうので、ずっとやかましく言い続ける。ここは刈り上げて頂戴なんていうと渋々刈り上げてくれるけれど本人の趣味でないことは確か。それでもお客様は神様、言うことをきいてくれる。

今や私の髪型は刈り上げ、ここまで短くすると実に気持ちが良い。シワ隠しで額だけが長く残されている。この髪型に合う服装は職人さんが着る作業着のようなものか、穴開きジーンズか、でもこんな髪型に似合うのは意外とシンプルかつ仕立ての良い上等なドレス。でも私は持っていないから逆に着古したシャツと裾の折り目が擦り切れたコットンパンツ。それならいくらでも持っている。

恥も外聞もなくそういうものが着られるのは、子供の頃から姉のお下がりを着慣れていたから。今時の子供なら絶対着ないと思うようなものでも誰がなんと言おうが気にならない。

今や日本を訪れる外国人も普通に自国でいるような服装のTシャツにスニーカーで、特に外国でも変わらずだから気楽にどこへでも行ける。良い世の中になったもので。

しかし、近々バレエの発表会にご招待いただいている。普通の公演なら知らず、知人のご招待となると少し考えないといけないかな。恥かくのは私でなくご招待くださった主宰者である高校の同級生。しかし私くらい正装の似合わないものはいない。私にとってきちんとした服は「馬子にも衣装」ではなく「猫に小判、豚に真珠」さてどうしたものか。

ステージ衣装は商売道具だからたくさん持っている。けれどちょっとおしゃれしようという場面の服は皆無に等しい。しかも最近の肥満型体型ではニットや薄物のワンピースでは妊婦さんと間違えられそうな。これも朝ご飯食べ過ぎ?・・・と、こうまあまとめてみました。