2022年7月1日金曜日

死と乙女をめぐる思い出

連日の暑さはすでに梅雨明けということらしい。梅雨らしい長雨も殆どなくて明けてしまったから心の準備が間に合わず、エアコンの故障であたふたしていたらカルテットの練習日が来てしまった。今回の練習はシューベルト「死と乙女」この曲には思い入れがある。以前組んでいたカルテットのメンバーで演奏した最後の曲。

コンサート本番の朝、出かけようとして外を見ると大雪が降り積もっていた。交通機関は麻痺、さてどうしよう。主催者から電話があって「中止にしよう」と。でもお客さんがみえるかもしれない、一人でも聞いてくれる人がいるなら中止はしない。そう言うと「プロ魂だね」

いやいやそんな御大層なことではないけれど、もし会場付近の人が徒歩で来てくれたら、その人のためだけでも弾きたいと思うでしょう。とにかくでかけますと言って電話を切った。ところがその時私はどうやって会場まで行ったか記憶がない。あまりにも昔の話だからというだけでなく、なにか他の気持ちが邪魔をして私の記憶を妨げているような気がする。

会場に到着すると、そこには他のメンバーも涼しい顔をして集まっていた。皆さんどうやってここまで来たのか知らないけれど、誰も中止は考えていないという顔。蓋を開けてみたら聴き手は7人。窓ガラスは外から雪が張り付いて会場全体が薄暗い感じ。前の席に7人が座って嬉しそうな顔をしている。岡山から聞きに来ると言ってくれた人は、新幹線がストップしたので来られないと連絡あり。他の人だってここまで来るのに苦労したと思うけれど、とにかくありがたい気持ちでいっぱいだった。

会場の雰囲気は最高で、演奏が始まると客席もステージも一体となってシューベルトとの会話を楽しんだ。それを最後に私達のカルテットは解散した。チェリストと私の意見が分かれやむなく解散に至ったのだ。

あの日演奏できなかったら仲間との別れの気持ちに踏ん切りがつかなかったと思うし、その時のことをよく覚えている人たちと数十年後再会したときに、その人達のなんとかメンバーがもとに戻れないかという切なる願いも心に響かなかったかもしれない。雪独特の薄明かりの窓、大雪の中をなんとかして会場まで来てくれ人たちが寒そうに肩を寄せ合って座っている様子が目に浮かぶ。本当は会場は寒くはなかったけれど、なんとなく事情を知っている人もいてそんな気がしたのかもしれない。その時の人影は全部シルエットのように見えた。記憶も定かでなくまるで影絵のような人影が思い浮かぶ。

「死と乙女」に関するもう一つの思い出は以前にも書いたけれど、オーケストラの仕事で釜石に行ったときのこと。

その仕事の練習は都内で行われたのだけれど、私はそのとき高熱を出していた。ふらふらするので練習前に練習場近くの病院へ行って診察をしてもらった。ところがそこがとんでもないヤブ医者というよりいかがわしい病院だった。待合室に人気はなく、待たないで見てもらえるからラッキーとおもったら医師はどんどんいかがわしくなり慌てて逃げ出し、結局病名もわからないまま演奏旅行に出かけることになってしまった。降ろしてほしいと指揮者に言ったら、メンバーの数が足りないと釜石側の主催者に申し訳がないのでどうにか出てくれとの要望で泣く泣く出発した。

その日から食べ物は胃に収まらなくなり、飲めるのは白湯のみ。お茶ですら香りがきつくて飲めない有様。白湯だけしか受け付けない。本番ではしっかりしていられるけれど、弾き終わると首の後ろから汗が滴り落ちる。気持ちが悪くて夜も寝られない。ついにたまりかねて本番前にタクシーを飛ばして釜石の診療所に向かった。

私の症状を聞いた医師は特別に早く血液検査をしてくれて、結果、急性肝炎と判明した。すぐに帰りなさいと言われたけれど、まだ本番が残っているので帰れないと答えると、命に関わるからとにかく自宅に帰って病院へいきなさいと。本当に大変な病気なのだとその時知った。

指揮者に病名を告げると流石に慌てて帰って良いというから一人寂しく帰ってきた。楽器と荷物を持って駅までトボトボと歩く。もう何も食べていないし駅までの道が途方もなく遠く感じる。途中に喫茶店があった。ここで一休みさせてもらおうと店に入ると、私がヴァイオリンを持っていたので気を利かせた店の人がレコードをかけてくれた。その曲が「死と乙女」それを聽いた途端、ああ、やっぱり私はもう死ぬのだ。タイミング良すぎる。

その1週間後に別のカルテットの本番があって、おろしてもらうのに一苦労、ベテランがエキストラを引き受けてくれたのでやっと安心して病院のベッドに収まった。それから一ヶ月半長い入院生活が始まった。命はかろうじて助かったしキャリアになることもなく完治した。医師も驚くほどの回復力で、うちの猫同様生命力の強さに自分も周囲も驚いた。

「死と乙女」には苦い思い出があっても大好きな曲であることは今も変わらない。雪の日から数年後もう一度演奏する機会があった。「雪の日」のメンバーの中でチェリストだけが変わっていた。終演後、そのチェリストに「また一緒に弾いてもらえる?」と訊いたら「弾くのもいいけどそれより飲みに行こうよ」とのありがたいお言葉。まだ実現していないけれど。

彼はアンサンブルの仕事で一緒のときは、朝から打ち上げのことを考えている陽気な飲兵衛。地方公演のときには率先して飲み屋探し。ある時指揮者も含め総勢15人ほどで飲み歩き、帰りがけにコンビ二でアイスクリームを買って、もう明かりも半分ほど消えたホテルのロビーで話が盛り上がって・・なんてことも。懐かしいなあ。

私を救ってくださった釜石の診療所の先生、東北大地震のときにはどうされていたのだろうか。ご無事を願っています。







3 件のコメント:

  1. そのローチェーだれ?イニシャルで教えて欲しい。

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  2. 飲兵衛のローチェーのイニシャルはTさん。下の名前はとんと思い出せない。髭あり。

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  3. そういえばyamaseichanから頂いたタモリのテープ病院で聞いてましたよ。イヤホンつけてベッドでケタケタ笑っている重病患者。傍から見たら薄気味悪いわね。

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