去年は4匹いたうちの猫がついに1匹となってしまい、寂しい思いをした。
そのうえ、何年も毎日通ってきた野良の三毛猫ミッケまでが姿を消した。
そのうえ、3年ほど面倒を見ていて、いつか我が家の飼い猫にと思っていたノラのちゃあも、突然姿を消した。
どんどん猫がいなくなって、残るはこのあたりのボス猫のシロリンと茶トラのチャイロン、去年迷い込んできたアメショーのフウ、最近出没し始めた白黒。
この白黒がかなり番を張っていて、物置に住んでいたフウちゃんを威嚇し始めた。
フウちゃんはなりは大きくてもヘタレで、たぶん飼い猫で家からあまり出なかったものが、なにかの理由で迷い猫になったものと思われる。
甘えたいのに人が怖くて近付けずに、情けなくにゃあと鳴く。
近くに寄るとフウと言って威嚇してくる。
手を何回も引っ掻かれた。
なんとかならないものかと考えているうちに、白黒の出現でフウちゃんの物置も安住の地ではなくなった。
時々帰ってこなくなった。
3日ほど前からは一切姿を見せない。
フウちゃんがこの辺に現れた頃から、目に見えてミッケの元気がなくなった。
私が面倒を見始めてから数年は経っていて、もうかなりの年齢かと思われる。
この子も元は飼い猫だったのに、飼い主を捨てて家出をした自由猫。
きれいな毛並みで要領が良いから、ほかの猫ともうまくやっていた。
フウちゃんが現れてからは毛並みが悪くなって、エサも食べなくなったから、年をとってそろそろ危ないかなと考えていた。
ある日それまではめったに体に触ることができなかったミッケが、突然私の目の前でゴロンとおなかを見せた。
おそるおそる手を伸ばして触っても、いつものように嫌がらない。
いつもは頭をちょっと撫でるのがやっと、後は嫌がってすぐ逃げていたのに。
その翌日からぱったりと姿が見えなくなった。
あれは最期のあいさつだったのかと、私は悲しんだ。
ところが2日ほど前、三毛猫の目撃情報が。
もしかしたらミッケではないかもしれないけれど、ちょうどフウちゃんがいなくなってのタイミング、ひそんでいたミッケが姿を現したらしい。
この近辺には少なくとも4軒の猫好きのお宅がある。
猫たちはその家々を回ってエサにありついているらしい。
シロリンが、猫好きのお宅の車の上で、まったり毛繕いをしているところに出くわしたことがあった。
いかにも自宅にいる風で、最近は毛並みもよくなってきた。
ところがここ数日、また汚くなくなってガツガツとエサを食べるから、なんらかの事情でその餌場が閉鎖されているのかも。
旅行で留守とか家人が忘れたとか。
土日に我が家の餌場に来る猫は少ないから、たぶん週休二日制の会社に勤めている人が面倒みているようだ。
そんなわけでフウちゃんがいなくなって心配ではあるけれど、ミッケがどうやら無事に生きているらしいのがうれしいニュース。
私は猫に振り回されて一喜一憂、それでもノラたちは逞しく生きている。
ここ数日は寒さも緩んで、やっとのびのびと体が伸ばせるようになると、猫たちは出産やら狩りの準備に忙しくなる。
春には子猫たちが生まれて、その中の何匹が順調に育つのだろうか。
逞しく生きる野良猫たちが幸せでありますように。
2017年1月27日金曜日
ベートーヴェンの壁
楽しくプロコフィエフを弾いていたけれど、次の課題はベートーヴェン「クロイツェル・ソナタ」
強靭な精神力を要求されるから、軟弱な私は最初からはねつけられている。
スケールの大きさにおいて他の追随を許さないこの曲は、骨格ががっしりして雄大。
2楽章の崇高で優雅なバリエーションは、天空にはばたくような美しさ。
3楽章の諧謔的な動きに心躍る。
ベートーヴェンの魅力を余すところなく伝える。
こういう構成のがっちりした曲が最も苦手な私は、四苦八苦している。
私の中にはこのような強い精神力はない。
まず、音が貧弱。
そこそこの楽器は持っているものの、腕が雑木林に落ちている枯れ枝みたいなものだから、楽器の良さを引き出せない。
かなり強い性格の楽器で、弾く人を選ぶ。
私は端から馬鹿にされている。
この楽器に替えたとき、長年私の演奏を聴いていた人に言われたことがある。
それは前に使っていた楽器よりは良いものなので、音が違う。
「楽器を替えたの?」と訊かれたから「はい」と答えると「いいわね、お金で技術が買えて」と言われた。
おそろしくむっとした。
技術を買うわけではない。
技術を少しでも高めるために替える。
良い楽器は持ったからと言って、最初から鳴るものではない。
それを鳴らすだけの腕を鍛えるためのもの。
楽器が私たちを訓練してくれるといってもよい。
当時貯金がすっからかんになっても、楽器は買ってよかったと思っている。
手に入れてから10年あまり、やっと腕が追い付いたかもしれないと時々思う。
さてクロイツェルの冒頭、ヴァイオリンの重厚なテーマ。
これが曲者。
この曲は今までも何回か演奏しているけれど、練習のたびにため息が漏れるのは、この部分。
特に最近左手中指が、第一関節から小指側に向けて曲がってきた。
そのために、微妙に音程がとり辛い。
ヴァイオリンの音程は、ミリ単位以下でズレても違ってしまう。
指を寝かせてとるか、立ててとるかでも違う。
なまじ耳がまだ確かなので、その差が気になる。
耳が悪くなれば幸せに弾けるかもしれない。
最初はA durの和音がフォルテで始まる。
次第に弱くなっていって、次のA線のDとE線のF♯の3度の重音に移る。
これは弱音で滑らかに弾かなければいけない。
この3度は普段は薬指と人差し指でとるものを、この部分では次のコード進行のために中指と人差し指でとる。
だから指幅を広げないといけない。
しかも私の場合、中指の第一関節の先が曲がってしまったので、ちょうどいい指先のポイントで抑えることができず、音がかすれる。
指先のどの部分で抑えるかによって、微妙に音色が変わるから、音がかすれないようにするために良いポジションを無理に探す。
不自然な動きになる。
そのあと弦を移動して次のHとDの3度に移行していくとき、指先が曲がったことが原因でほかの弦に触れる。
それを防ぐために又余計な作業がいる。
なにを言っているのか説明が下手でわからないかもしれないけれど、加齢によって指の形や柔軟性が失われるなどの要因で、ヴァイオリンの演奏は微妙に難しくなる。
それを補なって余りあるほどの豊かな音楽性があればともかく、底辺のヴァイオリニストとしては大変つらい。
作品番号47だから、ベートーヴェンの初期から中期。
それでも堂々たる風格は、ヴァイオリンソナタの数ある中で、群を抜いている。
この素晴らしいソナタをいつの日か、楽々弾けるようになるだろうか。
出来なくてもそれが自分の力量。
私の理想は常に、低目に設定されているのだ。
自分がその時にできることを、できるだけのことをすれば、そのうち成果はついてくる。
最初から巨匠になれる人はいない。
巨匠になれずに死んでしまっても、それが自分の限界だと考えればいい。
こういうイージーな生き方が嫌いな人もいるかもしれないけれど、凡人に生まれて巨匠を目指すとろくなことはない。
子供の時からコンクールや競争の激しい学校で勉強して、挫折して体を壊したり自死したりした人を何人も知っている。
頑張りすぎて精神が病んでしまって、奇行に走る人もいる。
競争心が強すぎて、自分を失ってしまう人もいる。
本来音楽は健全なもの。
リヒャルト・シュトラウスやグスタフ・マーラーは世紀末の音楽のようにいわれるけれど、あれは熟しすぎて木から落ちそうになっている果物みたいなものと考えればいい。
腐らなければ果実はそのころが一番おいしい。
楽器を演奏するのはこの上なく楽しい。
それが苦痛や心の病を引き起こすなら、やめた方がいい。
生涯かけて旅をしているようなもの。
速足で走ってもゆっくり景色を楽しみながら行っても、行き着く先は同じ。
練習嫌いのわたしでも、ベートーヴェンを弾くときは真正面から向き合って、地味に努力する。
するだけの価値はある。
でも立ちはだかる壁は高い。
足が短いから、乗り越えられない。
猫だから柔軟性と跳躍力はあるかもしれないけれど。
足が短くて断念したのは乗馬。
やはり馬は大きい。
インストラクターが子供でも乗れるからと言って慰めてくれたけど、最近の子供は私よりはるかに足が長いのだ。
スチーブ・マックイーンの西部劇を見ていたら、馬のおなかのはるか下まで彼の足が出ていた。
クオーターホースで小柄とはいえ、馬は馬。
彼の足の長さに驚愕した。
10年ほど乗ってモンゴルの大草原を走ったから満足はしたけれど、法華津さんのように高齢でもオリンピックに出る人がいると、まだやめなければよかったかなあと残念に思う。
今でも時々、乗馬クラブに行ってみようかなあと考える時がある。
脚力が弱っても、なに、走るのは馬なんだから。
私は背中でヒャッホウ!と言っていればいいだけのこと。
私は足の筋力が無くなって、鐙に乗ることも大変。
乗ってしまっても馬は私の合図を背中で受けることになる。
本当はお腹に合図をしないといけないから、馬は、ン、なに?みたいに思うらしい。
勝手に歩いたりとまったり。
乗馬クラブに昔居たホワイティーという賢い白馬。
インストラクターの言葉を理解して、私が合図する前にさっさと並足、速足、駆け足と順番に決まった回数だけ馬場をまわると、手綱を引かなくてもさっさと終わってしまう。
叱られるのは私。
nekotamaさん、ちゃんと合図してください!
でもでも、馬が・・・
いうこと聞かないと尻尾を全部抜いて、弓の毛にしちゃうぞ!
強靭な精神力を要求されるから、軟弱な私は最初からはねつけられている。
スケールの大きさにおいて他の追随を許さないこの曲は、骨格ががっしりして雄大。
2楽章の崇高で優雅なバリエーションは、天空にはばたくような美しさ。
3楽章の諧謔的な動きに心躍る。
ベートーヴェンの魅力を余すところなく伝える。
こういう構成のがっちりした曲が最も苦手な私は、四苦八苦している。
私の中にはこのような強い精神力はない。
まず、音が貧弱。
そこそこの楽器は持っているものの、腕が雑木林に落ちている枯れ枝みたいなものだから、楽器の良さを引き出せない。
かなり強い性格の楽器で、弾く人を選ぶ。
私は端から馬鹿にされている。
この楽器に替えたとき、長年私の演奏を聴いていた人に言われたことがある。
それは前に使っていた楽器よりは良いものなので、音が違う。
「楽器を替えたの?」と訊かれたから「はい」と答えると「いいわね、お金で技術が買えて」と言われた。
おそろしくむっとした。
技術を買うわけではない。
技術を少しでも高めるために替える。
良い楽器は持ったからと言って、最初から鳴るものではない。
それを鳴らすだけの腕を鍛えるためのもの。
楽器が私たちを訓練してくれるといってもよい。
当時貯金がすっからかんになっても、楽器は買ってよかったと思っている。
手に入れてから10年あまり、やっと腕が追い付いたかもしれないと時々思う。
さてクロイツェルの冒頭、ヴァイオリンの重厚なテーマ。
これが曲者。
この曲は今までも何回か演奏しているけれど、練習のたびにため息が漏れるのは、この部分。
特に最近左手中指が、第一関節から小指側に向けて曲がってきた。
そのために、微妙に音程がとり辛い。
ヴァイオリンの音程は、ミリ単位以下でズレても違ってしまう。
指を寝かせてとるか、立ててとるかでも違う。
なまじ耳がまだ確かなので、その差が気になる。
耳が悪くなれば幸せに弾けるかもしれない。
最初はA durの和音がフォルテで始まる。
次第に弱くなっていって、次のA線のDとE線のF♯の3度の重音に移る。
これは弱音で滑らかに弾かなければいけない。
この3度は普段は薬指と人差し指でとるものを、この部分では次のコード進行のために中指と人差し指でとる。
だから指幅を広げないといけない。
しかも私の場合、中指の第一関節の先が曲がってしまったので、ちょうどいい指先のポイントで抑えることができず、音がかすれる。
指先のどの部分で抑えるかによって、微妙に音色が変わるから、音がかすれないようにするために良いポジションを無理に探す。
不自然な動きになる。
そのあと弦を移動して次のHとDの3度に移行していくとき、指先が曲がったことが原因でほかの弦に触れる。
それを防ぐために又余計な作業がいる。
なにを言っているのか説明が下手でわからないかもしれないけれど、加齢によって指の形や柔軟性が失われるなどの要因で、ヴァイオリンの演奏は微妙に難しくなる。
それを補なって余りあるほどの豊かな音楽性があればともかく、底辺のヴァイオリニストとしては大変つらい。
作品番号47だから、ベートーヴェンの初期から中期。
それでも堂々たる風格は、ヴァイオリンソナタの数ある中で、群を抜いている。
この素晴らしいソナタをいつの日か、楽々弾けるようになるだろうか。
出来なくてもそれが自分の力量。
私の理想は常に、低目に設定されているのだ。
自分がその時にできることを、できるだけのことをすれば、そのうち成果はついてくる。
最初から巨匠になれる人はいない。
巨匠になれずに死んでしまっても、それが自分の限界だと考えればいい。
こういうイージーな生き方が嫌いな人もいるかもしれないけれど、凡人に生まれて巨匠を目指すとろくなことはない。
子供の時からコンクールや競争の激しい学校で勉強して、挫折して体を壊したり自死したりした人を何人も知っている。
頑張りすぎて精神が病んでしまって、奇行に走る人もいる。
競争心が強すぎて、自分を失ってしまう人もいる。
本来音楽は健全なもの。
リヒャルト・シュトラウスやグスタフ・マーラーは世紀末の音楽のようにいわれるけれど、あれは熟しすぎて木から落ちそうになっている果物みたいなものと考えればいい。
腐らなければ果実はそのころが一番おいしい。
楽器を演奏するのはこの上なく楽しい。
それが苦痛や心の病を引き起こすなら、やめた方がいい。
生涯かけて旅をしているようなもの。
速足で走ってもゆっくり景色を楽しみながら行っても、行き着く先は同じ。
練習嫌いのわたしでも、ベートーヴェンを弾くときは真正面から向き合って、地味に努力する。
するだけの価値はある。
でも立ちはだかる壁は高い。
足が短いから、乗り越えられない。
猫だから柔軟性と跳躍力はあるかもしれないけれど。
足が短くて断念したのは乗馬。
やはり馬は大きい。
インストラクターが子供でも乗れるからと言って慰めてくれたけど、最近の子供は私よりはるかに足が長いのだ。
スチーブ・マックイーンの西部劇を見ていたら、馬のおなかのはるか下まで彼の足が出ていた。
クオーターホースで小柄とはいえ、馬は馬。
彼の足の長さに驚愕した。
10年ほど乗ってモンゴルの大草原を走ったから満足はしたけれど、法華津さんのように高齢でもオリンピックに出る人がいると、まだやめなければよかったかなあと残念に思う。
今でも時々、乗馬クラブに行ってみようかなあと考える時がある。
脚力が弱っても、なに、走るのは馬なんだから。
私は背中でヒャッホウ!と言っていればいいだけのこと。
私は足の筋力が無くなって、鐙に乗ることも大変。
乗ってしまっても馬は私の合図を背中で受けることになる。
本当はお腹に合図をしないといけないから、馬は、ン、なに?みたいに思うらしい。
勝手に歩いたりとまったり。
乗馬クラブに昔居たホワイティーという賢い白馬。
インストラクターの言葉を理解して、私が合図する前にさっさと並足、速足、駆け足と順番に決まった回数だけ馬場をまわると、手綱を引かなくてもさっさと終わってしまう。
叱られるのは私。
nekotamaさん、ちゃんと合図してください!
でもでも、馬が・・・
いうこと聞かないと尻尾を全部抜いて、弓の毛にしちゃうぞ!
2017年1月25日水曜日
頓珍漢軍団
プロコフィエフのソナタが概ね好評で気をよくしていたら、良いことは続かないもので、すぐ上の姉が入院したという知らせが届いた。
脳梗塞で病院に運ばれて即手術。
一命はとりとめたけれど、車いす生活になるかもしれないという。
命が助かって良かったから、もう一人の姉と長兄も深刻にはならないで済んだ。
早速お見舞いに行くと、ICUに入っていた。
意識はないものの、手術自体は成功したので、リハビリをすればおそらく元の体に戻れるらしい。
最悪車いす生活になっても、ほとんど家から出ないような人だったから家族の協力があれば、なんとかなると思う。
幸い娘が二人いる。
一緒にお見舞いに行った姉と兄と私は胸を撫でおろした。
私は兄姉の中ではいくつになっても、年の離れた末っ子。
それでなにかと二人とも私の世話をやきたがる。
しかし、二人ともかなりの高齢者なので、車の運転や病院内の看護婦さんとのやり取りなどは私がしゃしゃり出ないと埒が明かない。
特に先日連れ合いをなくしたばかりの兄は耳が遠い。
聞こえていないのに聞こえたふりをして、会話に交じる。
皆がそのことを笑うと一緒に笑うから、超受ける。
本人は自分のことではないと思っているらしい。
長兄は母と似ている。
二人とも酉年。
几帳面、まじめ、落ち着いている。
それに引き換え私は向う気が強く、することなすこと雑。
これは父親そっくり。
占いなどによれば、私は酉年とは相性が悪いらしい。
酉年の人は細かい気が付きすぎてイライラするらしい。
私と相性が良いのは、丑年、午年、戌年生まれ。
丑年の人は穏やかで変わらぬ愛情を持ち続けてくれる。
午年は楽しく一緒に暮らせるけれど、金使いが荒いので、私ともどもすっからかんになる可能性があるそうだ。
戌年も陽気で忠実なのだそうで、さて、どの相性が一番かといえば・・・・うーん。
ちなみに今日一緒に病院に見舞いに行った姉は、丑年。
優しくておおらか。
占いは当たると思えば当たるように書いてあるから、信用はしていないけれど、時々は頼りたくなってくることもある。
特に今年の私は健康に注意だそうで、当たっているかもしれない。
正月早々、ひどい風邪ひいた。
この間、片手で窓を閉めようとしたところサッシが思いのほか早く動いて、手を引っ込めるのが遅れて挟まれた。
ひどく痛い目にあった。
左手爪のところどころに血豆ができた。
それともう一つ、あまり人様には言えないような部所のケガも。
今年は気を付けないといけない。
ただでさえおっちょこちょいなのに、頭でも打ったらひどいダメージになりかねない。
それでも概ね健康で、姉の病気もなんとか治りそうなので良かった。
姉と兄と一緒に行動すると、かたや耳が聞こえず、かたやもともと天然で、頓珍漢なことが起こる。今まで兄弟が多くてラッキーだったと思っていたけれど、これからは私がこの頓珍漢軍団を引き連れていかないといけない。
こうなると、兄弟が多ければ多いほど問題も多くなる。
なんだか苦労の多い未来が待っていそうで、暗澹たる気持ちには・・・なる?・・ならない。
私もすぐにそんなこと気にならなくなって、一緒に頓珍漢。
これも面白いかも。
私の母は最期までボケなくて、私の行く末を心配してばかり。
だから私は早めにボケてしまおうと思っている。
もうすでに、他人から見れば十分なボケっぷりらしい。
ヴァイオリンを弾いていられるのは奇跡ですなあ。
いや、もしかしたら、本当はヴァイオリンなんて弾いていなくて、本人がそう思っているだけだったりして。
脳梗塞で病院に運ばれて即手術。
一命はとりとめたけれど、車いす生活になるかもしれないという。
命が助かって良かったから、もう一人の姉と長兄も深刻にはならないで済んだ。
早速お見舞いに行くと、ICUに入っていた。
意識はないものの、手術自体は成功したので、リハビリをすればおそらく元の体に戻れるらしい。
最悪車いす生活になっても、ほとんど家から出ないような人だったから家族の協力があれば、なんとかなると思う。
幸い娘が二人いる。
一緒にお見舞いに行った姉と兄と私は胸を撫でおろした。
私は兄姉の中ではいくつになっても、年の離れた末っ子。
それでなにかと二人とも私の世話をやきたがる。
しかし、二人ともかなりの高齢者なので、車の運転や病院内の看護婦さんとのやり取りなどは私がしゃしゃり出ないと埒が明かない。
特に先日連れ合いをなくしたばかりの兄は耳が遠い。
聞こえていないのに聞こえたふりをして、会話に交じる。
皆がそのことを笑うと一緒に笑うから、超受ける。
本人は自分のことではないと思っているらしい。
長兄は母と似ている。
二人とも酉年。
几帳面、まじめ、落ち着いている。
それに引き換え私は向う気が強く、することなすこと雑。
これは父親そっくり。
占いなどによれば、私は酉年とは相性が悪いらしい。
酉年の人は細かい気が付きすぎてイライラするらしい。
私と相性が良いのは、丑年、午年、戌年生まれ。
丑年の人は穏やかで変わらぬ愛情を持ち続けてくれる。
午年は楽しく一緒に暮らせるけれど、金使いが荒いので、私ともどもすっからかんになる可能性があるそうだ。
戌年も陽気で忠実なのだそうで、さて、どの相性が一番かといえば・・・・うーん。
ちなみに今日一緒に病院に見舞いに行った姉は、丑年。
優しくておおらか。
占いは当たると思えば当たるように書いてあるから、信用はしていないけれど、時々は頼りたくなってくることもある。
特に今年の私は健康に注意だそうで、当たっているかもしれない。
正月早々、ひどい風邪ひいた。
この間、片手で窓を閉めようとしたところサッシが思いのほか早く動いて、手を引っ込めるのが遅れて挟まれた。
ひどく痛い目にあった。
左手爪のところどころに血豆ができた。
それともう一つ、あまり人様には言えないような部所のケガも。
今年は気を付けないといけない。
ただでさえおっちょこちょいなのに、頭でも打ったらひどいダメージになりかねない。
それでも概ね健康で、姉の病気もなんとか治りそうなので良かった。
姉と兄と一緒に行動すると、かたや耳が聞こえず、かたやもともと天然で、頓珍漢なことが起こる。今まで兄弟が多くてラッキーだったと思っていたけれど、これからは私がこの頓珍漢軍団を引き連れていかないといけない。
こうなると、兄弟が多ければ多いほど問題も多くなる。
なんだか苦労の多い未来が待っていそうで、暗澹たる気持ちには・・・なる?・・ならない。
私もすぐにそんなこと気にならなくなって、一緒に頓珍漢。
これも面白いかも。
私の母は最期までボケなくて、私の行く末を心配してばかり。
だから私は早めにボケてしまおうと思っている。
もうすでに、他人から見れば十分なボケっぷりらしい。
ヴァイオリンを弾いていられるのは奇跡ですなあ。
いや、もしかしたら、本当はヴァイオリンなんて弾いていなくて、本人がそう思っているだけだったりして。
2017年1月23日月曜日
猫の上前をはねる
これを本当の猫糞をきめ込むと言わないでなんという。
都内某所の個人サロンにて。
時々お声がかかって演奏しているけれど、お客さんは演奏よりもそのあとのお食事が楽しみなのではと思っている。
私は演奏するのはいつでも好きだからオーケーで、その上おいしいものが食べられれば言うことなし。
サロンのオーナーのYさんのお父様の、お誕生日祝い。
お話があったときに、たまたまプロコフィエフのソナタを相棒のSさんと合わせていたから、この曲で良ければと言って引き受けた。
ちょっと変わった曲なのでどうかな?と思ったけれど、私はこの曲が大好き。
秋のコンサートのプログラムに入れたいと思っている。
人の前で弾くのはとても良いことで、一回の本番は練習の数倍の効果がある。
本番で得るものはとても大きい。
他人の迷惑顧みず、それではひかせてもらおうということになった。
それだけでは面白くないから、最近オーケストラ時代の仲良しが暇になってきたのを幸い、彼女たちもこき使ってしまおうと企んだ。
エサで釣れば弾いてくれるさと声をかけてみたら、にゃんにゃん喜んで来てくれた。
ヴィオラのKさん、コントラバスのHさん。
去年の秋の北軽井沢のコンサート、暮れの忘年会コンサートでも弾いてもらったディッタ―スドルフのヴィオラとコンバスのためのデュオ。
作品はいくつかあって、二人だけのこともあるし、ピアノの伴奏が付くこともある。
今回はピアノ伴奏なしの曲。
今回の誕生会の主のYさんのお父様のご希望で、演奏者を釣るエサはマグロ。
和歌山からマグロをもってきて、目の前で解体してくれる業者がいる。
さばいたそばから握ってくれて、たらふくお寿司が食べられる。
これは猫でなくてもたまらない。
コンサートの始まりはコンバスのソロで「愛のあいさつ」から始まった。
そしてシューベルトのピアノトリオ「ノットゥルノ」10分くらいの短い曲。
チェリストがいないので、チェロパートをヴィオラに書き直して弾いてもらった。
ヴィオラとコンバスのデュオ、プロコフィエフの後はもう一度コンバスの出番。
サンサーンス「動物の謝肉祭」より 「象」「白鳥」
この後、乾杯!の声とともにヴィオラの「ウイーンわが夢の町」の演奏。
それからはよく飲みよく食べ、大変にぎやかなおしゃべりが始まった。
30人ほどの人たちが集まってあちらこちらで自己紹介やら他己紹介やら。
すると、世の中狭いもので、思いがけない人とのつながりがあって、今回も知り合いの知り合いとか、だれそれさんの奥様とか、なんとまあ・・・・
おや、あなたがあの方の奥様?
あら、あの人は私の古い友達よ・・・・等々。
そして始まりました。
大きなマグロ(40キロ)を高々と持ち上げてきた業者さん。
テーブルの上で、解体を始めた。
どんな技術なのか、頭を簡単に切り離す。
骨がとても固いと思うのに。
身を4分割。
それから赤身、中トロ、大トロと切り分ける。
さっそく握られてお寿司が運ばれてくると、いったいいくつ食べられるのか見当もつかない。
いつもならせいぜい10貫ほど食べるのが、その2倍か3倍か。
際限なくお腹に入るのが恐ろしい。
その間に、こちらの常連のもう一人のヴィオリストのHさんも仕事を終えてから参加。
今日は仕事の都合で演奏には加わらなかったけれど、二人のヴィオリストはすぐに意気投合して、ずっと話し込んでいた。
ヴィオラ弾きというのは偏屈な人が多いけれど、この二人はそういうところがない。
後から来たヴィオラのHさんと、次の機会にはモーツァルトの弦楽三重奏曲「ディベルティメント」を弾こうと相談がまとまった。
これは難しくて長大で、なかなか一緒に弾いてくれる人がいない。
彼も相手を探していたようだ。
私はもちろん二つ返事。
先ごろ亡くなったヴァイオリンの鳩山さんが私に形見に残してくれたのが、この曲の楽譜だった。
生前の鳩山さんに会いに行った人に託されて、私の手元に届いた。
かつて鳩山さんのヴィオラと一緒に、ほかの機会には、外山滋さんのヴァイオリンと私のヴィオラで何回か演奏したけれど、素晴らしい曲なのに、ほかの人たちが演奏するのを聞くのは稀。
マグロはというと解体されて、血合いのところは捨てられている。
その血合いはどうするの?と訊いたら、ここはまずくて食べられないから捨ててしまいますというので、猫にお土産にいただけないかしら?とお願いしてみた。
どっさりともらってきて、今朝開けてみたら、血合いだけではなくてとても美味しそうな部分までついている。
これは猫にはもったいない。
そこを切り取ってお昼に鉄火丼にして食べたら、まあ、おいし~い!
猫を口実にして、その上前をはねて、飼い主が食べるとは。
これはさもしいとしか言いようがないけれど、資源の無駄遣いをなくすための協力。
とかなんとか言っても、さもしい感は半端でない。
猫のために包んでくれたので、本来の猫に食べさせてあげないといけない。
でないと、化け猫になって出てこられそうではある。
都内某所の個人サロンにて。
時々お声がかかって演奏しているけれど、お客さんは演奏よりもそのあとのお食事が楽しみなのではと思っている。
私は演奏するのはいつでも好きだからオーケーで、その上おいしいものが食べられれば言うことなし。
サロンのオーナーのYさんのお父様の、お誕生日祝い。
お話があったときに、たまたまプロコフィエフのソナタを相棒のSさんと合わせていたから、この曲で良ければと言って引き受けた。
ちょっと変わった曲なのでどうかな?と思ったけれど、私はこの曲が大好き。
秋のコンサートのプログラムに入れたいと思っている。
人の前で弾くのはとても良いことで、一回の本番は練習の数倍の効果がある。
本番で得るものはとても大きい。
他人の迷惑顧みず、それではひかせてもらおうということになった。
それだけでは面白くないから、最近オーケストラ時代の仲良しが暇になってきたのを幸い、彼女たちもこき使ってしまおうと企んだ。
エサで釣れば弾いてくれるさと声をかけてみたら、にゃんにゃん喜んで来てくれた。
ヴィオラのKさん、コントラバスのHさん。
去年の秋の北軽井沢のコンサート、暮れの忘年会コンサートでも弾いてもらったディッタ―スドルフのヴィオラとコンバスのためのデュオ。
作品はいくつかあって、二人だけのこともあるし、ピアノの伴奏が付くこともある。
今回はピアノ伴奏なしの曲。
今回の誕生会の主のYさんのお父様のご希望で、演奏者を釣るエサはマグロ。
和歌山からマグロをもってきて、目の前で解体してくれる業者がいる。
さばいたそばから握ってくれて、たらふくお寿司が食べられる。
これは猫でなくてもたまらない。
コンサートの始まりはコンバスのソロで「愛のあいさつ」から始まった。
そしてシューベルトのピアノトリオ「ノットゥルノ」10分くらいの短い曲。
チェリストがいないので、チェロパートをヴィオラに書き直して弾いてもらった。
ヴィオラとコンバスのデュオ、プロコフィエフの後はもう一度コンバスの出番。
サンサーンス「動物の謝肉祭」より 「象」「白鳥」
この後、乾杯!の声とともにヴィオラの「ウイーンわが夢の町」の演奏。
それからはよく飲みよく食べ、大変にぎやかなおしゃべりが始まった。
30人ほどの人たちが集まってあちらこちらで自己紹介やら他己紹介やら。
すると、世の中狭いもので、思いがけない人とのつながりがあって、今回も知り合いの知り合いとか、だれそれさんの奥様とか、なんとまあ・・・・
おや、あなたがあの方の奥様?
あら、あの人は私の古い友達よ・・・・等々。
そして始まりました。
大きなマグロ(40キロ)を高々と持ち上げてきた業者さん。
テーブルの上で、解体を始めた。
どんな技術なのか、頭を簡単に切り離す。
骨がとても固いと思うのに。
身を4分割。
それから赤身、中トロ、大トロと切り分ける。
さっそく握られてお寿司が運ばれてくると、いったいいくつ食べられるのか見当もつかない。
いつもならせいぜい10貫ほど食べるのが、その2倍か3倍か。
際限なくお腹に入るのが恐ろしい。
その間に、こちらの常連のもう一人のヴィオリストのHさんも仕事を終えてから参加。
今日は仕事の都合で演奏には加わらなかったけれど、二人のヴィオリストはすぐに意気投合して、ずっと話し込んでいた。
ヴィオラ弾きというのは偏屈な人が多いけれど、この二人はそういうところがない。
後から来たヴィオラのHさんと、次の機会にはモーツァルトの弦楽三重奏曲「ディベルティメント」を弾こうと相談がまとまった。
これは難しくて長大で、なかなか一緒に弾いてくれる人がいない。
彼も相手を探していたようだ。
私はもちろん二つ返事。
先ごろ亡くなったヴァイオリンの鳩山さんが私に形見に残してくれたのが、この曲の楽譜だった。
生前の鳩山さんに会いに行った人に託されて、私の手元に届いた。
かつて鳩山さんのヴィオラと一緒に、ほかの機会には、外山滋さんのヴァイオリンと私のヴィオラで何回か演奏したけれど、素晴らしい曲なのに、ほかの人たちが演奏するのを聞くのは稀。
マグロはというと解体されて、血合いのところは捨てられている。
その血合いはどうするの?と訊いたら、ここはまずくて食べられないから捨ててしまいますというので、猫にお土産にいただけないかしら?とお願いしてみた。
どっさりともらってきて、今朝開けてみたら、血合いだけではなくてとても美味しそうな部分までついている。
これは猫にはもったいない。
そこを切り取ってお昼に鉄火丼にして食べたら、まあ、おいし~い!
猫を口実にして、その上前をはねて、飼い主が食べるとは。
これはさもしいとしか言いようがないけれど、資源の無駄遣いをなくすための協力。
とかなんとか言っても、さもしい感は半端でない。
猫のために包んでくれたので、本来の猫に食べさせてあげないといけない。
でないと、化け猫になって出てこられそうではある。
2017年1月18日水曜日
春の兆し
明日は東京にも雪が降るとか、そんな天気予報もあるけれど、今日は風のない暖かい陽気で、キャベツがほしくて隣の町までリュックを背負って出かけた。
私の家は県内の隣の市との境界線近くにあるので、20分も歩けば市内脱出。
そこには自然食品の店がある。
私はあまり栄養とか安全性とかにはこだわらない方で、それでもおいしいものは食べたい。
そこのお店の野菜はすごくおいしい。
大根はみずみずしく、キャベツは新鮮で甘い。
サトイモはゴリゴリしていないし、ニンジンは鮮烈な香りがある。
そこのお店を見つけたのは、ほんの偶然だった。
隣に旅行会社があって、旅の仕事をしていたころにはそこで安いツアーを探してはチケットを購入していた。
少し待ち時間がかかる時があって、お隣を見たら野菜がいっぱい。
この時間に買い物を済ませてしまおうと初めて買ったとき、ニンジンの強い香りを久しぶりに嗅いだ。
デパートやスーパーのニンジンはあまり香りがしないのに、ここのニンジンは一瞬で子供のころ、父が土から抜いて洗ってくれたニンジンをかじった時の香りがした。
子だくさんの家族のために、家の敷地の片隅に野菜を作ってくれた父の思い出が蘇った。
裏庭でとれたトマトや曲がったキュウリなどはどれも青臭くて、店で売っているものとは比べられないほど香りが強かった。
その香りや味を再現してくれるので、野菜だけはここで買うようになった。
毎朝キャベツとバナナやリンゴなどでスムージーをつくるので、ここのキャベツは欠かせない。
ほかの店のキャベツは味も香りも薄くて、おいしくない。
ちょうどキャベツを切らしていたので、運動がてら歩いてみた。
ずっと上り坂が続く。
厚めのダウンジャケットとカシミアのセーターは、歩くには適していなかった。
すぐに汗ばんでしまって、ジャケットのファスナーを開けて歩く。
30分くらいで店に着いてキャベツと玉ねぎを買って、リュックにしまい込んだ。
買い出しのオバサンみたい。
戦後の混乱期、母は食料を手に入れるために私を背負って電車に乗った。
ジャガイモや米などのいっぱい詰まったリュックを背負った人で、電車は満員。
ぎゅうぎゅう押されても私は泣きもせず、にこにこしていたらしい。
子供のころの私は予防接種などの注射の時にも、ケロッとしていて泣かなかったという。
今ではすぐに大騒ぎして泣いたり笑ったり・・・
大人になってからの方が、手がかかるようになってしまった。
暖かい日差しの中を気持ちよく歩いていたら、道端にはすでに小さな花が咲いていた。
タンポポ、オオイヌノフグリ。
この可憐な青い花がとんでもない名前だということを、兄から教えられた。
いつもヴァイオリンの稽古に付き添ってくれた兄がある時、この花の名前わかる?と訊いた。
オオイヌノフグリっていうんだよ。フーン、変な名前。
その時は説明されなかったけれど、後で知ってびっくりした。
誰がこんな不粋な名前をつけたのだろうか。
大地震の予想や猛烈な地球温暖化、テロの横行する物騒な世の中で、つかの間かもしれないけれど穏やかな春の日差しを感じながらの買い出し。
私の家は県内の隣の市との境界線近くにあるので、20分も歩けば市内脱出。
そこには自然食品の店がある。
私はあまり栄養とか安全性とかにはこだわらない方で、それでもおいしいものは食べたい。
そこのお店の野菜はすごくおいしい。
大根はみずみずしく、キャベツは新鮮で甘い。
サトイモはゴリゴリしていないし、ニンジンは鮮烈な香りがある。
そこのお店を見つけたのは、ほんの偶然だった。
隣に旅行会社があって、旅の仕事をしていたころにはそこで安いツアーを探してはチケットを購入していた。
少し待ち時間がかかる時があって、お隣を見たら野菜がいっぱい。
この時間に買い物を済ませてしまおうと初めて買ったとき、ニンジンの強い香りを久しぶりに嗅いだ。
デパートやスーパーのニンジンはあまり香りがしないのに、ここのニンジンは一瞬で子供のころ、父が土から抜いて洗ってくれたニンジンをかじった時の香りがした。
子だくさんの家族のために、家の敷地の片隅に野菜を作ってくれた父の思い出が蘇った。
裏庭でとれたトマトや曲がったキュウリなどはどれも青臭くて、店で売っているものとは比べられないほど香りが強かった。
その香りや味を再現してくれるので、野菜だけはここで買うようになった。
毎朝キャベツとバナナやリンゴなどでスムージーをつくるので、ここのキャベツは欠かせない。
ほかの店のキャベツは味も香りも薄くて、おいしくない。
ちょうどキャベツを切らしていたので、運動がてら歩いてみた。
ずっと上り坂が続く。
厚めのダウンジャケットとカシミアのセーターは、歩くには適していなかった。
すぐに汗ばんでしまって、ジャケットのファスナーを開けて歩く。
30分くらいで店に着いてキャベツと玉ねぎを買って、リュックにしまい込んだ。
買い出しのオバサンみたい。
戦後の混乱期、母は食料を手に入れるために私を背負って電車に乗った。
ジャガイモや米などのいっぱい詰まったリュックを背負った人で、電車は満員。
ぎゅうぎゅう押されても私は泣きもせず、にこにこしていたらしい。
子供のころの私は予防接種などの注射の時にも、ケロッとしていて泣かなかったという。
今ではすぐに大騒ぎして泣いたり笑ったり・・・
大人になってからの方が、手がかかるようになってしまった。
暖かい日差しの中を気持ちよく歩いていたら、道端にはすでに小さな花が咲いていた。
タンポポ、オオイヌノフグリ。
この可憐な青い花がとんでもない名前だということを、兄から教えられた。
いつもヴァイオリンの稽古に付き添ってくれた兄がある時、この花の名前わかる?と訊いた。
オオイヌノフグリっていうんだよ。フーン、変な名前。
その時は説明されなかったけれど、後で知ってびっくりした。
誰がこんな不粋な名前をつけたのだろうか。
大地震の予想や猛烈な地球温暖化、テロの横行する物騒な世の中で、つかの間かもしれないけれど穏やかな春の日差しを感じながらの買い出し。
2017年1月15日日曜日
トレーラーの運転動画
同じtamaを名乗る「tamaトラ」ブログが面白い。
こちらのブログ主は同じtamaでも、nekoではなくトラらしい。
想像するに、トラのような人物ではないかと。
真夜中に月に向かって咆哮する。(オオカミと混同?)
頭が虎刈りとかいつも酔っぱらっているとか・・・も考えられる。
夜中にネズミを追いかけて捕まえるとか・・・
最近の興味深い記事はこちら。
トレーラーの運転。
http://tamatora.36nyan.com/?p=5878
私の家に入ってきた人は、玄関先にでんとおかれた大画面のパソコンにびっくりする。
そしてもう一つ、そのパソコンに繋がれた怪しい車のハンドルを見て「これはなんですか?」と必ず訊かれる。
それはユーロトラックシミュレーターというゲームのためのハンドル。
tamaトラにも出てくる。
ヨーロッパをトレーラーを運転して物を運んでお金を稼ぐという、本物さながらのリアルなゲーム。
まず仕事を探すと数種類の求人が出てくる。
例えばザルツブルグからウイーンへ、木材や鉄などを運ぶ仕事。
その際、トラックは借りるのか購入するのかを選ぶ。
何ユーロもらえるかのギャランティーも表示される。
納得すれば仕事開始。
運転を始めると、実際の風景を使ったと思われるものすごくリアルな画像が出てくる。
もちろん右側運転で左ハンドル。
長い荷台のトレーラー。
なれないとくねくねして、運転しにくい。
始めのうちはガードレールに接触したり、土手に乗り上げたり、さんざんな目に合う。
そのたびにトラックが故障して、工場に行くように指示が出る。
修理をすれば修理代がギャラから引かれる。
距離が長くなると途中で休むように指示される。
時には宿泊しろとか、ガソリンを入れろとか、そのたびにお金がかかる。
お金が無くなると、銀行へ行ってお金を引き出すように言われる。
一度道を間違えて後戻りしようと思ったら、後続車が続々と来て退路をふさがれ、そのうちにガードレールに挟まれ二進も三進もいかなくなった。
しばらくすると夜になってしまって雨と雷にたたかれ、さんざんな目にあったときには、本当に泣きたくなってしまった。
このゲームのすごいところは、積み荷によってアクセルやブレーキの効きが違ったり、路面の衝撃などもリアルに伝わってくるところ。
土手にぶつかってドシーンという衝撃なども、本物さながら。
分岐を間違えてしまうと、どうやって戻ったらよいか考える。
たいてい立体交差になった道路だから、これが至難のわざ。
しかし、それはほんの序の口。
一番難しいのは目的地に到着して、バックで駐車するとき。
トレーラーは運転席と荷台が別になっていて、動きが普通の乗用車のものとは全く違う。
乗用車はハンドルを切れば、直接タイヤに伝わってくるけれど、トレーラーの場合、荷台は連結されているために、独自の動き方をする。
ハンドル操作は、乗用車などとは反対の方向になる。
しかもくねくねとして始末が悪い。
ほんの少しハンドルを切っただけで大きく反対方向に行くので、とてもデリケートなハンドルさばきが必要になる。
切っては戻し、切っては戻しのくり返し。
そのうちに混乱してきて、斜めのまま駐車してかろうじて許されることもある。
悔しいからまっすぐに直そうとしても、どんどんわるくなったりする。
tamaトラ記載の、この動画。
落ち着きはらった熟練の技。
繊細な運転技術が見られて、実に面白い。
土手をバックで1キロも進む。
私だったら脱輪は避けられない。
町中では立ち木を何本もなぎ倒すに違いない。
私はゲームであっても運転の難しさを経験したので、心底感心した。
このトレーラーの走っているところはどこかなと考えた。
242号線は京都付近。
302号線、標識の金山、道路に描かれた常滑知多、鳴海の文字からして愛知県の名古屋付近かな?
動画をストップさせては拡大鏡でしげしげと眺めた。
そうしたら最後に見つけたのは、トラックが出発する場面で名古屋の会社名が。
えらく遠回りしてしまった。
最初からこれに気が付けばなんのことはなかったのに。
私は建築現場や工事現場で大型特殊車両の操縦を見るのが好きで、立ち止まって惚れ惚れと眺める。
これは機械やだった父親の血が入っているからと思われる。
自分でもやってみたいけれど、腕力や身長がないので大型は扱えない。
だから尚更尊敬する。
こちらのブログ主は同じtamaでも、nekoではなくトラらしい。
想像するに、トラのような人物ではないかと。
真夜中に月に向かって咆哮する。(オオカミと混同?)
頭が虎刈りとかいつも酔っぱらっているとか・・・も考えられる。
夜中にネズミを追いかけて捕まえるとか・・・
最近の興味深い記事はこちら。
トレーラーの運転。
http://tamatora.36nyan.com/?p=5878
私の家に入ってきた人は、玄関先にでんとおかれた大画面のパソコンにびっくりする。
そしてもう一つ、そのパソコンに繋がれた怪しい車のハンドルを見て「これはなんですか?」と必ず訊かれる。
それはユーロトラックシミュレーターというゲームのためのハンドル。
tamaトラにも出てくる。
ヨーロッパをトレーラーを運転して物を運んでお金を稼ぐという、本物さながらのリアルなゲーム。
まず仕事を探すと数種類の求人が出てくる。
例えばザルツブルグからウイーンへ、木材や鉄などを運ぶ仕事。
その際、トラックは借りるのか購入するのかを選ぶ。
何ユーロもらえるかのギャランティーも表示される。
納得すれば仕事開始。
運転を始めると、実際の風景を使ったと思われるものすごくリアルな画像が出てくる。
もちろん右側運転で左ハンドル。
長い荷台のトレーラー。
なれないとくねくねして、運転しにくい。
始めのうちはガードレールに接触したり、土手に乗り上げたり、さんざんな目に合う。
そのたびにトラックが故障して、工場に行くように指示が出る。
修理をすれば修理代がギャラから引かれる。
距離が長くなると途中で休むように指示される。
時には宿泊しろとか、ガソリンを入れろとか、そのたびにお金がかかる。
お金が無くなると、銀行へ行ってお金を引き出すように言われる。
一度道を間違えて後戻りしようと思ったら、後続車が続々と来て退路をふさがれ、そのうちにガードレールに挟まれ二進も三進もいかなくなった。
しばらくすると夜になってしまって雨と雷にたたかれ、さんざんな目にあったときには、本当に泣きたくなってしまった。
このゲームのすごいところは、積み荷によってアクセルやブレーキの効きが違ったり、路面の衝撃などもリアルに伝わってくるところ。
土手にぶつかってドシーンという衝撃なども、本物さながら。
分岐を間違えてしまうと、どうやって戻ったらよいか考える。
たいてい立体交差になった道路だから、これが至難のわざ。
しかし、それはほんの序の口。
一番難しいのは目的地に到着して、バックで駐車するとき。
トレーラーは運転席と荷台が別になっていて、動きが普通の乗用車のものとは全く違う。
乗用車はハンドルを切れば、直接タイヤに伝わってくるけれど、トレーラーの場合、荷台は連結されているために、独自の動き方をする。
ハンドル操作は、乗用車などとは反対の方向になる。
しかもくねくねとして始末が悪い。
ほんの少しハンドルを切っただけで大きく反対方向に行くので、とてもデリケートなハンドルさばきが必要になる。
切っては戻し、切っては戻しのくり返し。
そのうちに混乱してきて、斜めのまま駐車してかろうじて許されることもある。
悔しいからまっすぐに直そうとしても、どんどんわるくなったりする。
tamaトラ記載の、この動画。
落ち着きはらった熟練の技。
繊細な運転技術が見られて、実に面白い。
土手をバックで1キロも進む。
私だったら脱輪は避けられない。
町中では立ち木を何本もなぎ倒すに違いない。
私はゲームであっても運転の難しさを経験したので、心底感心した。
このトレーラーの走っているところはどこかなと考えた。
242号線は京都付近。
302号線、標識の金山、道路に描かれた常滑知多、鳴海の文字からして愛知県の名古屋付近かな?
動画をストップさせては拡大鏡でしげしげと眺めた。
そうしたら最後に見つけたのは、トラックが出発する場面で名古屋の会社名が。
えらく遠回りしてしまった。
最初からこれに気が付けばなんのことはなかったのに。
私は建築現場や工事現場で大型特殊車両の操縦を見るのが好きで、立ち止まって惚れ惚れと眺める。
これは機械やだった父親の血が入っているからと思われる。
自分でもやってみたいけれど、腕力や身長がないので大型は扱えない。
だから尚更尊敬する。
2017年1月13日金曜日
扇風機
扇風機は夏に使うものだと思っていた。
私は日中、レッスン室に引きこもり。
時々ヴァイオリンを弾いて、時々パソコンに触ってゲームを楽しんでいるけれど、、パソコンが置いてあるところは玄関の続き。
レッスン室とはドア一枚で隔てられている。
パソコンで遊ぶ時はそのドアを開け放して、エアコンの風を取り込んでいるけれど、部屋が広いので温風が届かない。
そこで別のパネルヒーターを背後に置いて、暖をとっていた。
これが遠赤外線でとても良く温まる。
背中から炙られて眠くなって、椅子に腰かけたままうとうと。
なんとも心地よい。
ところがこのヒーターは大変電力消費量が高いらしい。
ノラ猫のベッドを置いてある物置には、LED電気の照明がある。
この照明はノラの行動の観察に使うので、ずっと点けっぱなし。
一時期、物置を荒らす輩がいて、ゴルフバッグなどを盗まれたこともあった。
それが、この怪しげな電灯のおかげで、すっかり影を潜める効果があった。
ところが先日この電灯が消えていた。
私は近所の子供のいたずらではないかと思ったのだが、どうやら大元のブレーカーが落ちたせいらしい。
数日前、レッスン時間になって、ドアをノックする音がした。
普段来訪者はチャイムを鳴らすので、誰かしら?と思ったら、約束の生徒さん。
音が鳴らないんですけど、と言われた。
このインターホンは平成8年物だから、かなり古い。
とうとう寿命が来たかと思った。
新しもの好きだから、やっと取り換えられる・・・次はどんなものをつけようかと一瞬期待した。
故障中の張り紙をして、外出した。
その日の午後、出先から帰宅してパソコンをつけたら接続不能。
固定電話も通話不能。
ADSLは点滅なし。
湯沸かし器も作動しない。
そして例のパネルヒーターも作動しない。
部屋の照明はなんともない。
冷蔵庫も動いている。
エアコンもついている。
ここでやっと、どうやらインターホンの故障でなくて、電気系統かと思い立ってヒューズボックスを覗いたら、一か所だけブレーカーが落ちていた。
ブレーカーを上げたら、全部復活してやれやれ。
たぶんヒーターと一緒に湯沸かし器その他も同時に使ったため、電力消費量が上がりすぎて、ブレーカーが落ちたものと思われる。
おそらくインターホン、湯沸かし器、ヒーター、電話、野良猫の照明と暖房が一直線に同じ線で結ばれているので、まとまって切れたものと思われる・・・とは知人の推理。
彼からの忠告は、消費電力の多いヒーターは使うのをやめる。
そのかわり扇風機をエアコンの温風の出口付近に置いて、パソコン置き場まで風を送る・・・というものだった。
扇風機はそのように使うことがあるのは知らないではなかったけれど、こちらに向けて風を送ると、なんだか寒そう。
ところが、ものの15分ほど試してみたら、なんと今までになかったくらいパソコン置き場が温かくなった。
これは驚いた。
今までヒーターを点けなければ、寒くて手足が冷え切って、よく風邪をひいたものだった。
素晴らしい効果。
しかも電気代も節約できる。
温度設定は20度で十分。
いつもは25度くらいに設定していた。
な~んだ、今までずいぶん損していたのだ。
それと、エアコンのスイッチは切らずに、ずっと点けっぱなしがいいらしい。
エアコンを作動し始める時に大変エネルギーを使うのだそうで、ずっと点けっぱなしにした方が消費電力も低いらしい。
今日は今年一番の寒さ。
寒気団が押し寄せてきているらしい。
明日は平地にも雪が降るとか。
でも、私はヒーターいらず。
扇風機が回っていて温かい。
それでも、見た目はやっぱり寒いんですけど。
私は日中、レッスン室に引きこもり。
時々ヴァイオリンを弾いて、時々パソコンに触ってゲームを楽しんでいるけれど、、パソコンが置いてあるところは玄関の続き。
レッスン室とはドア一枚で隔てられている。
パソコンで遊ぶ時はそのドアを開け放して、エアコンの風を取り込んでいるけれど、部屋が広いので温風が届かない。
そこで別のパネルヒーターを背後に置いて、暖をとっていた。
これが遠赤外線でとても良く温まる。
背中から炙られて眠くなって、椅子に腰かけたままうとうと。
なんとも心地よい。
ところがこのヒーターは大変電力消費量が高いらしい。
ノラ猫のベッドを置いてある物置には、LED電気の照明がある。
この照明はノラの行動の観察に使うので、ずっと点けっぱなし。
一時期、物置を荒らす輩がいて、ゴルフバッグなどを盗まれたこともあった。
それが、この怪しげな電灯のおかげで、すっかり影を潜める効果があった。
ところが先日この電灯が消えていた。
私は近所の子供のいたずらではないかと思ったのだが、どうやら大元のブレーカーが落ちたせいらしい。
数日前、レッスン時間になって、ドアをノックする音がした。
普段来訪者はチャイムを鳴らすので、誰かしら?と思ったら、約束の生徒さん。
音が鳴らないんですけど、と言われた。
このインターホンは平成8年物だから、かなり古い。
とうとう寿命が来たかと思った。
新しもの好きだから、やっと取り換えられる・・・次はどんなものをつけようかと一瞬期待した。
故障中の張り紙をして、外出した。
その日の午後、出先から帰宅してパソコンをつけたら接続不能。
固定電話も通話不能。
ADSLは点滅なし。
湯沸かし器も作動しない。
そして例のパネルヒーターも作動しない。
部屋の照明はなんともない。
冷蔵庫も動いている。
エアコンもついている。
ここでやっと、どうやらインターホンの故障でなくて、電気系統かと思い立ってヒューズボックスを覗いたら、一か所だけブレーカーが落ちていた。
ブレーカーを上げたら、全部復活してやれやれ。
たぶんヒーターと一緒に湯沸かし器その他も同時に使ったため、電力消費量が上がりすぎて、ブレーカーが落ちたものと思われる。
おそらくインターホン、湯沸かし器、ヒーター、電話、野良猫の照明と暖房が一直線に同じ線で結ばれているので、まとまって切れたものと思われる・・・とは知人の推理。
彼からの忠告は、消費電力の多いヒーターは使うのをやめる。
そのかわり扇風機をエアコンの温風の出口付近に置いて、パソコン置き場まで風を送る・・・というものだった。
扇風機はそのように使うことがあるのは知らないではなかったけれど、こちらに向けて風を送ると、なんだか寒そう。
ところが、ものの15分ほど試してみたら、なんと今までになかったくらいパソコン置き場が温かくなった。
これは驚いた。
今までヒーターを点けなければ、寒くて手足が冷え切って、よく風邪をひいたものだった。
素晴らしい効果。
しかも電気代も節約できる。
温度設定は20度で十分。
いつもは25度くらいに設定していた。
な~んだ、今までずいぶん損していたのだ。
それと、エアコンのスイッチは切らずに、ずっと点けっぱなしがいいらしい。
エアコンを作動し始める時に大変エネルギーを使うのだそうで、ずっと点けっぱなしにした方が消費電力も低いらしい。
今日は今年一番の寒さ。
寒気団が押し寄せてきているらしい。
明日は平地にも雪が降るとか。
でも、私はヒーターいらず。
扇風機が回っていて温かい。
それでも、見た目はやっぱり寒いんですけど。
2017年1月12日木曜日
マダム・フローレンス・フォスター・ジェンキンス
いまでもカーネギーホールのアーカイブで最も人気を誇っているのは、1944年フローレンス・ジェンキンスのリサイタルの歌声。
父親の遺産と離婚した元夫からの慰謝料で、莫大な財産を持つフローレンス。
彼女は41歳で歌手としての活動を始めた。
信奉者たちだけを集めた小さなリサイタル。
伴奏者のコズメの素晴らしい才能。
夫のシンクレアの溢れる愛情に支えられた幸せな歌姫。
ただ本人だけが知らなかったのは、彼女が絶世の音痴だったこと。
聴いている人たちは休憩時間にトイレに駆け込み、大笑いをしたとか。
そんな彼女なのに、誰もが彼女を愛し支えようとする。
夫のシンクレアは新聞記者を買収、悪評の出た新聞を買い占め、妻に悟られないようにする。
フローレンスはある時、戦場で戦う兵士たちを慰めようと、カーネギーホールでのリサイタルを決意する。
そしてリサイタルの日、いつもの社交界の人たちの他にも、荒くれ男が大挙してやってきた。
歌が始まると大笑いするが、次第にフローレンスの純粋な歌声に打たれ、会場は拍手に包まれる。
これ、嘘みたいな本当の話。
「人間の声の栄光」というレコードがある。私も一度聞いたことがあって、初めは呆気にとられて思わず笑いだした。
けれどしばらく聴いているうちに、なんとも不思議なことに、心底音楽が好きでたまらないというような歌声に、技術を超越して心打たれた。
特にフルート奏者がオブリガートをつけている歌が一曲あって、そのフルート奏者がよくも噴出さずに吹いたことに、妙に感動してしまった。
ピアノもフルートも超絶アンサンブル。
どんなに彼女が音を外そうがリズムがヨレヨレになっても、完璧に合わせていく。
これを聴くだけでも、このレコードは価値あり。
風邪がようやく治りかけているところなので、あまり人ごみに出たいとは思わなかったけれど、彼女のことを映画化した「マダム・フローレンス」が明日で上映打ち切りになるので、今日やっと腰を上げた。
新宿「角川映画シネマ」
フローレンス役はメリル・ストリープ
シンクレアはヒュー・グラント
メリル・ストリープは「マディソン郡の橋」では少し太った農婦の役。
「激流」では筋肉質の引き締まった体。
「激流」のほうが後だと思うので、農婦役の太った体を、ぎゅうぎゅうに絞っての役作りだったと思う。
「ミュージック・オブ・ザ・ハート」のスラム街の子供たちにヴァイオリンを教える先生役では、本当にヴァイオリンが弾けるようになり、バッハ「二つのヴァイオリンの協奏曲」をアイザック・スターンらと共演。
今回はフローレンスの音痴を再現するために、音を外す特別なレッスンをしたという。
私が最も尊敬する女優さんなのだ。
「ミュージック・オブ・ザ・ハート」の中で私が持っていたワンピースと同じものを着ていたのには驚いた。
OTTOの通販で買ったワンピース。
びっくりしたのなんのって、見た瞬間腰を抜かしそうになった。
私と同じくらいの経済状態の女性を演じるために、あえて安物の通販の服を衣裳として選んだものと思われる。
光栄ではありますが、あまり身なりにかまわない女性の雰囲気を出したのかと思うと、ちょっと複雑な気持ち。
父親の遺産と離婚した元夫からの慰謝料で、莫大な財産を持つフローレンス。
彼女は41歳で歌手としての活動を始めた。
信奉者たちだけを集めた小さなリサイタル。
伴奏者のコズメの素晴らしい才能。
夫のシンクレアの溢れる愛情に支えられた幸せな歌姫。
ただ本人だけが知らなかったのは、彼女が絶世の音痴だったこと。
聴いている人たちは休憩時間にトイレに駆け込み、大笑いをしたとか。
そんな彼女なのに、誰もが彼女を愛し支えようとする。
夫のシンクレアは新聞記者を買収、悪評の出た新聞を買い占め、妻に悟られないようにする。
フローレンスはある時、戦場で戦う兵士たちを慰めようと、カーネギーホールでのリサイタルを決意する。
そしてリサイタルの日、いつもの社交界の人たちの他にも、荒くれ男が大挙してやってきた。
歌が始まると大笑いするが、次第にフローレンスの純粋な歌声に打たれ、会場は拍手に包まれる。
これ、嘘みたいな本当の話。
「人間の声の栄光」というレコードがある。私も一度聞いたことがあって、初めは呆気にとられて思わず笑いだした。
けれどしばらく聴いているうちに、なんとも不思議なことに、心底音楽が好きでたまらないというような歌声に、技術を超越して心打たれた。
特にフルート奏者がオブリガートをつけている歌が一曲あって、そのフルート奏者がよくも噴出さずに吹いたことに、妙に感動してしまった。
ピアノもフルートも超絶アンサンブル。
どんなに彼女が音を外そうがリズムがヨレヨレになっても、完璧に合わせていく。
これを聴くだけでも、このレコードは価値あり。
風邪がようやく治りかけているところなので、あまり人ごみに出たいとは思わなかったけれど、彼女のことを映画化した「マダム・フローレンス」が明日で上映打ち切りになるので、今日やっと腰を上げた。
新宿「角川映画シネマ」
フローレンス役はメリル・ストリープ
シンクレアはヒュー・グラント
メリル・ストリープは「マディソン郡の橋」では少し太った農婦の役。
「激流」では筋肉質の引き締まった体。
「激流」のほうが後だと思うので、農婦役の太った体を、ぎゅうぎゅうに絞っての役作りだったと思う。
「ミュージック・オブ・ザ・ハート」のスラム街の子供たちにヴァイオリンを教える先生役では、本当にヴァイオリンが弾けるようになり、バッハ「二つのヴァイオリンの協奏曲」をアイザック・スターンらと共演。
今回はフローレンスの音痴を再現するために、音を外す特別なレッスンをしたという。
私が最も尊敬する女優さんなのだ。
「ミュージック・オブ・ザ・ハート」の中で私が持っていたワンピースと同じものを着ていたのには驚いた。
OTTOの通販で買ったワンピース。
びっくりしたのなんのって、見た瞬間腰を抜かしそうになった。
私と同じくらいの経済状態の女性を演じるために、あえて安物の通販の服を衣裳として選んだものと思われる。
光栄ではありますが、あまり身なりにかまわない女性の雰囲気を出したのかと思うと、ちょっと複雑な気持ち。
2017年1月10日火曜日
一年の計は
今日は温かい光が溢れ、ノラもほっとする一日となりそう。
最近の寒さで、ノラは私が行くたびに寒そうにこちらを見て、情けない声で鳴くのでつらい。
だからうちにおいでと言ってるでしょう。
ノラのいる物置を見たら、いつも点いている照明が消えていた。
時々、物置に近付いて覗き込む輩がいるらしく、そういう時はノラがひどくおびえている。
物置の戸は猫一匹通れるくらいの隙間が空いていて、チェーンがかかっているので鍵がないと開けられないけれど、手を伸ばせば照明に届く。
かなりデリケートに反応する照明なので、風が強かったりして?なんて思ったけれど、近所の子供がいたずらに入ることもある。
このため、近所の子供と私は険悪な間柄。
去年引っ越してきた近所の子供がうちの駐車場で遊ぶのを注意したら、私の見て居る前でわざとちょっとだけ自転車を乗り入れるようなせこいやり方で挑発してくる。
それで「あなたのおうちはどこ?お母さんにお話ししますからね」と言ったら、青くなっていたのでびっくり。
よその人のいう事がきけなくても、母親は怖いとはどういうこと。
でもそれ以来、少なくとも私の見て居る前では入ってこなくなった。
親と思える人に会うとこちらを睨んでくる。
駐車場は建物の使用者の共有部分だから、何人かは入る権利はあるけれど、よその子供に遊ばれては困る。
事故が起きたらと思うと、ぞっとする。
おままごとをやっていた子供がいて、車の横のコンクリートの床にシートを敷いて3人で遊んでいた。
こんなときに気付かずにバックで車が入ってきたら、ひとたまりもない。
事故があった場合、所有者の責任になるのかどうか知らないけれど、万一の時に建物全体が事故物件になってしまいそうで怖い。
それはともかく、今年初めからひいた風邪がやっとなおりかけている。
二三日前から少しずつ外出していたけれど、かなりつらかった。
土曜日、弦楽アンサンブルの担当教師が急病で、教室のほうからやいのやいのとメールが入っていたのに気付かず、夜中にやっと返信。
困っているらしいから、行きますよと返信しておいた。
当日の日曜日、雨の中豊洲まで出かけた。
まだ足元がふらつくけれど、若い人たちが大喜びで迎えてくれた。
教室の仕事もやめていたので彼らに会うのは去年9月、発表会の前の合宿に付き合って以来。
メンバーの仲が良く、ほとんど変わらない。
継続は力!
最初のころと比べると本当に上手くなった。
見る見るうちに音がまとまってきて、生き生きとした音楽が出来上がる。
一人一人の技術に対する思い入れも素晴らしく、最初は無理じゃない?と思うほどの大曲をなんとか弾いてしまうまでになった。
アマチュアだから自分の本職も忙しい。
働き盛りの中堅サラリーマンたちの多忙な毎日を思うと、よくもこれほどの上達ができるものだと感心することしきり。
大変熱心に練習した後、今日は新年会だからぜひ一緒に乾杯しましょうと誘われた。
どっちみち私は次の日から又毎日が日曜日だから、ま、いいか。
そうね、では乾杯だけね。
15分もいればいいと思ったけれど、結局1時間ほど楽しく過ごした。
その時の写真が送られてきたのを見たら、私はベリーショートの髪型なので、おでこがぴかぴか光って禿げたオジサン風。う~ん!
おでこを隠すように髪を伸ばそうかな。
彼らの陽気なパワーをもらったからなのか、風邪もようやく治り始めたようで、これでやっと今年が始まる。
久々に朝の散歩に出かけた。
いつも速足でせかせか歩くのだけれど、今年はゆっくり行こう。
・・・と一年の計。
3日も経てば忘れそう。
2017年1月7日土曜日
鳩山寛さんの訃報
鳩山さんは私のオーケストラ入団時からの恩人であって、室内楽の共演者として数々のコンサートに出させていただいた仲間でもあった。
このブログにコメントで訃報をお伝えくださったのは、鳩山さんの目黒の教室に通っていた方。
そんなわけで皆さんと一緒にお線香を上げようと思って、現地に着いたらちょっと様子がおかしい。
あまり大勢になってはいけないと喪主さまに遠慮なさって、私には断りのコメントを下さったようだけれど、いつもながらうかつな私はそれを見逃していた。
結局、どうぞご一緒にと言われて、お骨が安置してある部屋へと向かう。
きれいにお花が飾られて、沢山の写真が目に入った。
お元気だった鳩山さんの生前のお姿。
お線香を上げさせていただいた。
不思議と涙は出ない。
最後の最後までヴァイオリンを弾いての大往生。
大好きな音楽とお酒があって、気の向くままに生きて、有り余る才能があって、こんな幸せな人はあまりいないと思う。
鳩山さんは本当に気取らない人だった。
自分を偉そうに見せようなどと言う気はさらさらなく、アメリカ在住の頃、例えばミルシュテイン、プリム・ローズ、フルトベングラー、バーンスタインとか雲の上の人たちとの共演もあったのに、それを口にして自慢することもなかった。
特にフルとベングラーにはとてもかわいがられたとか。
日本に帰国してからは、欧米人と同じような価値観でふるまっていたので、多少煙たがられていて、彼のすごい才能は過小評価されていたようだ。
要するに彼のすごさをわからない人が多かった。
偉そうにしていればいいものをと、私などは歯ぎしりしたくなる。
1)実力以上に偉そうにする人。
こういう人は結構いて、それが世間にまかり通っている場合が多い。
自称天才はプロフィ-ルだけすごい!音を聴くとう~ん!
2)実力の通りにふるまう人。
余裕しゃくしゃくといったところ。
3)実力があるのに偉そうに出来ない人。
というより、自分が他人にどう見られようと頓着しない。
はとかんさんは、この3番目のタイプ。
私は実力がないから、偉そうに出来ないのが情けない。
お嬢様も私のことを覚えていてくださったようで、目黒にお住いのころお宅の庭の藤棚の下で酒盛りをしたり、猫や犬をたくさん飼っていたことなど、懐かしい話題が続いた。
はとかん氏の飾らない性格はヴァイオリンにも出ていて、台所のスポンジを肩当代わりに使ったり、中国製のぴゃーぴゃーいう音のするヴィオラを面白がって弾いていたり、服装もアロハシャツに麦わら帽子、古いケースをわきに抱えて歩く姿は、言われなければオーケストラのコンサートマスターとは思われない。
今どきの格好良いケースを持ってぴかぴかのヴァイオリンで、実力は???という人の方が、はるかにそれらしく見える。
私はと言えば、鳩山さんのおかげでたいそう偉い方とも共演出来た。
ベートーヴェン「弦楽三重奏曲セレナーデ」
大御所のチェリストとの共演はこの上なく楽しかった。
この時には鳩山さんがヴィオラを弾いて、ヴィオラのソロの部分に来ると「聴いてろよー」と言いながら得意げに中国製のヴィオラで素晴らしい音を聞かせてもらえた。
誤解のないように、これは練習の時ですが。
ただ、本番の時お客さんに向かって平然と「聴いているあなたたちよりも弾いている私たちの方がずっと楽しいんです」とか言ってしまう。
そうするとお客さんを楽しませるよりも自分たちのために弾いているのだったら、楽しんでいる方が入場料を払うべきだと主張する人も出てこないとも限らない。
鳩山さん、めったなことをおっしゃらないほうが。
だったら上等なお茶と羊羹を用意して、手土産の一つも出さないといけなくなるでしょう。
実際、弾いている方がずっと楽しいことは言うまでもない。
お線香をあげてから、ネットで知らせてくださった方たちと一緒にお茶をしながら、話に花が咲いた。
今日は鳩山さんのお父様(空手の名手)のことを調べていた結果として私のブログにたどり着き、それ以来のお付き合いのSさんも一緒だったので話題が多岐に亘り、皆のエピソードをつなぎ合わせると様々な鳩山さん像が見えてきた。
鳩山さんとお父様のことは「こちら」のブログでご覧になれます。
オーケストラの入団テストの翌日から始まった、鳩山さんと私のお付き合いは幕を閉じた。
もう一緒に弾くこともできないと思ったら、私は自分がかわいそうで涙が出た。
このブログにコメントで訃報をお伝えくださったのは、鳩山さんの目黒の教室に通っていた方。
そんなわけで皆さんと一緒にお線香を上げようと思って、現地に着いたらちょっと様子がおかしい。
あまり大勢になってはいけないと喪主さまに遠慮なさって、私には断りのコメントを下さったようだけれど、いつもながらうかつな私はそれを見逃していた。
結局、どうぞご一緒にと言われて、お骨が安置してある部屋へと向かう。
きれいにお花が飾られて、沢山の写真が目に入った。
お元気だった鳩山さんの生前のお姿。
お線香を上げさせていただいた。
不思議と涙は出ない。
最後の最後までヴァイオリンを弾いての大往生。
大好きな音楽とお酒があって、気の向くままに生きて、有り余る才能があって、こんな幸せな人はあまりいないと思う。
鳩山さんは本当に気取らない人だった。
自分を偉そうに見せようなどと言う気はさらさらなく、アメリカ在住の頃、例えばミルシュテイン、プリム・ローズ、フルトベングラー、バーンスタインとか雲の上の人たちとの共演もあったのに、それを口にして自慢することもなかった。
特にフルとベングラーにはとてもかわいがられたとか。
日本に帰国してからは、欧米人と同じような価値観でふるまっていたので、多少煙たがられていて、彼のすごい才能は過小評価されていたようだ。
要するに彼のすごさをわからない人が多かった。
偉そうにしていればいいものをと、私などは歯ぎしりしたくなる。
1)実力以上に偉そうにする人。
こういう人は結構いて、それが世間にまかり通っている場合が多い。
自称天才はプロフィ-ルだけすごい!音を聴くとう~ん!
2)実力の通りにふるまう人。
余裕しゃくしゃくといったところ。
3)実力があるのに偉そうに出来ない人。
というより、自分が他人にどう見られようと頓着しない。
はとかんさんは、この3番目のタイプ。
私は実力がないから、偉そうに出来ないのが情けない。
お嬢様も私のことを覚えていてくださったようで、目黒にお住いのころお宅の庭の藤棚の下で酒盛りをしたり、猫や犬をたくさん飼っていたことなど、懐かしい話題が続いた。
はとかん氏の飾らない性格はヴァイオリンにも出ていて、台所のスポンジを肩当代わりに使ったり、中国製のぴゃーぴゃーいう音のするヴィオラを面白がって弾いていたり、服装もアロハシャツに麦わら帽子、古いケースをわきに抱えて歩く姿は、言われなければオーケストラのコンサートマスターとは思われない。
今どきの格好良いケースを持ってぴかぴかのヴァイオリンで、実力は???という人の方が、はるかにそれらしく見える。
私はと言えば、鳩山さんのおかげでたいそう偉い方とも共演出来た。
ベートーヴェン「弦楽三重奏曲セレナーデ」
大御所のチェリストとの共演はこの上なく楽しかった。
この時には鳩山さんがヴィオラを弾いて、ヴィオラのソロの部分に来ると「聴いてろよー」と言いながら得意げに中国製のヴィオラで素晴らしい音を聞かせてもらえた。
誤解のないように、これは練習の時ですが。
ただ、本番の時お客さんに向かって平然と「聴いているあなたたちよりも弾いている私たちの方がずっと楽しいんです」とか言ってしまう。
そうするとお客さんを楽しませるよりも自分たちのために弾いているのだったら、楽しんでいる方が入場料を払うべきだと主張する人も出てこないとも限らない。
鳩山さん、めったなことをおっしゃらないほうが。
だったら上等なお茶と羊羹を用意して、手土産の一つも出さないといけなくなるでしょう。
実際、弾いている方がずっと楽しいことは言うまでもない。
お線香をあげてから、ネットで知らせてくださった方たちと一緒にお茶をしながら、話に花が咲いた。
今日は鳩山さんのお父様(空手の名手)のことを調べていた結果として私のブログにたどり着き、それ以来のお付き合いのSさんも一緒だったので話題が多岐に亘り、皆のエピソードをつなぎ合わせると様々な鳩山さん像が見えてきた。
鳩山さんとお父様のことは「こちら」のブログでご覧になれます。
オーケストラの入団テストの翌日から始まった、鳩山さんと私のお付き合いは幕を閉じた。
もう一緒に弾くこともできないと思ったら、私は自分がかわいそうで涙が出た。
2017年1月5日木曜日
風邪正月
みなさま今年もよろしくお願いします。
元旦の夕方、喉が痛い。
けれど、薬屋さんも病院もお休み。
なに大したことはないと高を括っていたら、次の日からはたいしたことになってしまった。
喉は紅茶でうがいして、それがかなり効いたらしく痛みは和らいだけれど、その後は高熱が出て周りの景色が黄色く見える。
家が回って見えるくらいひどかった。
猫と二人でうんうん(猫は元気だけど)言いながら寝ていた。
喜んだのは猫で、私は普段家にいるときには殆どレッスン室にこもっている。
食事の時間だけ居間に来て、食事が終わればすぐにレッスン室へ帰る。
その時寂しそうに見送っているのがかわいそうだったけれど、今回はずっと自分のベッドに入ったきりだから、甘え放題。
ドスドスと遠慮もなく私の寝ている体の上を歩いて、顔の上まで来ると真正面からご対面。
顔を突き合わせて満悦至極の表情で、喉を震わせている。
以前4匹で飼っていたころは他の猫の陰で目立たなかったのが、1匹になってやたらに甘えん坊になってしまった。
ずっと私の傍を離れない。
私が具合が悪いのを察知して、看病しているつもりかもしれない。
そんな状態でも毎日ヴァイオリンの練習は欠かさなかったけれど、さすがに三日目にはふらふらでもう楽器を出す気力もない。
傍目から見るとヴァイオリンを弾くのはさほど体力のいる仕事ではないと思われるかもしれないが、とんでもなく気力も体力も脳力もいる。
特に具合の悪い時には、思い知らされるほどの重労働なのだ。
幸い買い置きの食料がたっぷりあって買い物をする必要もなく、もちろん食欲もない。
ポカリスエットを何リットルも飲んで眠り続けた。
よくもこんなに眠れると思うほどの時間眠って、ようやく起き上れるようになった。
体重が1キロくらい減った。
これで喜んでいるとすぐに戻るから、何事も油断も隙もない。
新年早々大風邪をひいて、今年も幸先の良いスタートを切った。
体の余分なものをすっかり出してすっきり。
これは勿論やせ我慢だけれど、そんな感じのスタート。
皆さまも今年もお元気でこのようなことのないように、くれぐれもご自愛のほどを。
今年も良い一年となりますようにお祈りいたします。
元旦の夕方、喉が痛い。
けれど、薬屋さんも病院もお休み。
なに大したことはないと高を括っていたら、次の日からはたいしたことになってしまった。
喉は紅茶でうがいして、それがかなり効いたらしく痛みは和らいだけれど、その後は高熱が出て周りの景色が黄色く見える。
家が回って見えるくらいひどかった。
猫と二人でうんうん(猫は元気だけど)言いながら寝ていた。
喜んだのは猫で、私は普段家にいるときには殆どレッスン室にこもっている。
食事の時間だけ居間に来て、食事が終わればすぐにレッスン室へ帰る。
その時寂しそうに見送っているのがかわいそうだったけれど、今回はずっと自分のベッドに入ったきりだから、甘え放題。
ドスドスと遠慮もなく私の寝ている体の上を歩いて、顔の上まで来ると真正面からご対面。
顔を突き合わせて満悦至極の表情で、喉を震わせている。
以前4匹で飼っていたころは他の猫の陰で目立たなかったのが、1匹になってやたらに甘えん坊になってしまった。
ずっと私の傍を離れない。
私が具合が悪いのを察知して、看病しているつもりかもしれない。
そんな状態でも毎日ヴァイオリンの練習は欠かさなかったけれど、さすがに三日目にはふらふらでもう楽器を出す気力もない。
傍目から見るとヴァイオリンを弾くのはさほど体力のいる仕事ではないと思われるかもしれないが、とんでもなく気力も体力も脳力もいる。
特に具合の悪い時には、思い知らされるほどの重労働なのだ。
幸い買い置きの食料がたっぷりあって買い物をする必要もなく、もちろん食欲もない。
ポカリスエットを何リットルも飲んで眠り続けた。
よくもこんなに眠れると思うほどの時間眠って、ようやく起き上れるようになった。
体重が1キロくらい減った。
これで喜んでいるとすぐに戻るから、何事も油断も隙もない。
新年早々大風邪をひいて、今年も幸先の良いスタートを切った。
体の余分なものをすっかり出してすっきり。
これは勿論やせ我慢だけれど、そんな感じのスタート。
皆さまも今年もお元気でこのようなことのないように、くれぐれもご自愛のほどを。
今年も良い一年となりますようにお祈りいたします。
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